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多義性を求める意義

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どうして人は多義性を求めるのでしょうか。ことに私の専門とする文学の道においては、多義的な解釈ができることを、尊ぶ傾向があります。ソシュールの記号学によれば、記号は恣意的な意味を有するはずです。当然作者が恣意的な記号として言葉をつむぎだしたとすれば、そこに何かしらの意味がやどるのは必然です。そうした人間の思いがつまっているものであれば、なおさら一義的なほうが我々にはわかりやすいし、だれもがそのほうが喜ばしいことのようにも思えます。しかし、学問の道においては、多義的な解釈ができるテクストのほうが深みのあるテクストだとして尊重されるのです。
私は、教職を学んでいるという立場がら、教育に関する本をいくらか読みます。先日読んだ「藤掛明著『非行カウンセリング 背伸びと行動化を行う心理臨床』金剛出版・2002」に多義性を巡る新しい視点が書かれていたのを発見し、大いに感動しました。その一文を載せます。
P125「ふつう私たちは一義性の世界に住んでいます。さまざまな現象や行動には、いくつもの意味が幾十にも重なって存在していますが、たいていはそのなかの一つふたつの意味をとりあえず見繕って決めることで納得しているのです。しかし、心の問題を考える場合には多義性の世界に身を置かなければなりません。いくつもの同時に存在している意味の中から、今、背伸びを和らげ、希望を持てる意味を探し、くみ出す作業をしていくことが必要になるのです。~多義性の世界に身を置き、肯定的な新しい意味を探すようになると、「比喩」の力の偉大さに気づくようになります。この比喩は、立ち止まって自分を直視したら絶望しかないと思っている少年にも、「現実」ではない話ですから余裕を持たせます。比喩であれば立ち止まることも、洞察することもそれほど怖いものではないのです。」
非行を考える上で、藤掛氏は非行を行う人間は一つのあまりに強固な観念に脅かされているのではという視点をもっています。一つの価値しかない世界で、ずっとがんばりつづけてしまう。だからストレスが生じてもその価値のなかで自分が上手くできないと、余計に頑張ろうとして、ストレスの発散場所を失ってしまうというのです。

一義性を私たちは求めるかもしれません。それは歴史が多くを語っています。世界の宗教を見てみたらよいでしょう。キリスト教、ユダヤ教、イスラーム教、これらの宗教は一神教です。そうして残念なことではありますが、世界の戦争の3分の1は宗教を巡る戦争であるということは明らかになっています。
仏教はそれに比べて多義的な世界であると言うことができます。だから他の宗教より優れているということではありません。宗教に優劣はありません。そうではなくて、多義的であるからこそ、心に余裕をもつことができると考えることができるのです。八百万の神のおはします私たちの国日本では、その文字の示すとおりに、八百万にも及ぶ神様が存在しています。当然偉いのはだれだれと決めていく必要もなくなるわけです。そうしたなかで、この神を祀って戦争だということは殆どおこなわれてきませんでした。私たちの神もあれば、たしかに彼等にも神はあるよねという多義性が生まれるからだと私は考えています。
話が少しそれましたが、非行の少年は実に一義的な世界で生きているのです。一義性の世界は確かに魅力的です。やはり宗教がそれを教えてくれます。実にあやふやで、曖昧な世界ですから、私たちは一体なにを指標にして生きていけばよいのかわからなくなります。自分たちの行っていることが正しいのかも実際よくわかっていないのです。ですから、明確な指標、我々の目標となる存在が必要になります。最上のカリスマ性を有している存在はいうまでもなく、一神教の神さまなのです。それが存在するかどうかは別問題として、それを信じる信者にとっては唯一無二の存在になるわけで、その人のアイデンティティーにもなってきます。
そうした神を否定されるとどうなるか、戦争です。同じことが非行少年にも言えます。自分の内面があまりに不安定なのです。自分の弱さを認めることができないから、それを隠そうと必死になって、例えば日本であれば学歴社会の中で自分の地位を築こうとします。あるいは弱いものをいじめて、他者との関係性において優位に立とうとするのかもしれません。或いはタバコや薬をやって、社会的に認められないこと、犯罪などをおかすことによって、己の強さをアピールしたり、他者への影響力を自分で知るほかにないのです。彼らは実に一義的な世界で生きているのです。

巡って、私の専門とする学問の世界に戻ってきます。多義性を尊ぶ文学世界。一義的な作品ではなぜいけないのでしょうか。やはり一義的な作品では、100人が読んで100人とも同じ読みしかできないのです。それは作品というよりは、ある思想を教えるための伝道書のような存在になってくるのかもしれません。
夏目漱石がどうしてこれだけ多義的な作品を書いたのか、それはすでに彼が多義性の重要さを感得していたからかも知れません。どちらにも取れる、両義性からさらにもう一段階、第3の選択肢、第4の選択肢まで考えることのできる余裕を有しているのです。テクストの空白と文学用語では呼びますが、その空白が多いのです。これは日本の美学にも通じてくると思います。
美というのは当然宗教との関連性が強いものです。水墨画にしろ、中国の哲学の思想が反映されていますし、西洋絵画のほとんどは聖書やギリシャ神話などがモチーフとされています。全体として芸術から宗教色がなくなったのは、18世紀ごろからです。ごくごく最近のはなしなのです。
日本の美学は当然八百万の神に影響されていますから、多義性が強いのです。それは空白として存在する場合もあります。そうするとどうでしょう、日本の美術というものは、極めて空間的に空白が多いということに気がつきます。石庭を御覧なさい。小さな石を敷き詰めただけの無の世界があるではないですか。
日本がには、あまりに大きな何も描かれていない部分があります。これは西洋人からみると、どうも理解しがたり美のようです。彼らの美術は宗教的な、無駄のない秩序と平和が描かれていますから、構図的に空白がないのです。
西洋人やアメリカ人は私たち日本人のはっきりしない部分がよろしくないと言います。確かにはっきりしなければいけない場面は多く、日本人はそうした面になれていないことも確かです。ですからそれははっきりといえるようにならなければなりません。ただ、多義的な世界を忘れていはいけないのです。一つの強い思想に従うのは簡単なことです。むしろ安心するのかもしれません。かつてナチスドイツはヒットラーという史上稀な天才によって、見事に斡旋させられました。彼はまさしく一義的存在であったのです。皆大手をふるってかれの後に従いました。恐らく従ったかれらはとても安心したことでしょう。目に見える正しいことがすぐわかるのですから。
何も一義性が悪いというのではありません。優柔不断やはっきりしない人間はよろしいものではありません。それは多義性とは異なります。一つの信念をもって何かに挑戦しつづける必要も当然あります。そこに何か生まれてくるものもあるでしょう。
しかし、その一義性に捕らわれてしまって、自分で自分の首を絞めるようになってはいけないのです。そこに多義性の重要性が存在すると私は感じます。

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