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アニメ映画「ピアノの森」への試論 感想とレビュー 天才を巡る物語

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-大アニメ映画解釈祭-
秋の夜長に楽しむのはアニメ映画に限る。アニメ映画は、アニメ表現を制約された時間のなかで、普段のアニメ製作時とはかけ離れた時間と金をしようすることによって作られる極めて高度な芸術作品である。00年代になり、CGの技術が導入され、物語自体もそのテーマとする内容が変容してきた。また、アニメはいままでごく一部の人間が見るものとされてきたが、秋葉文化が世界中でも見直され、評価されるようになり、アニメは広く開かれたものとなった。アニメの影響は強く他のメディアにも影響し、メディアミックス展開とよばれる言葉まで出来るようになる。アニメ映画を読み解くことは、まさしく現在を読み解くことと他ならない。00年代のアニメ映画を時代順に解釈していく。

-初めに-
一色まことによる青年漫画。1998年より『ヤングマガジンアッパーズ』(講談社)にて連載。2007年にアニメーション映画化(製作:「ピアノの森」製作委員会、制作:NAS)された。
上戸彩が主演を勤めるということもあり、一時期注目された作品です。制作:NAS上映時間:101分。

-天才を巡る物語、歴史的変遷-
ある特定のジャンルで、活躍する青年たちを描いた物語の一つです。漫画が原作ですから、漫画によくある視点で描かれた作品とも言えます。丁度『テニスの王子様』『ひかるの碁』と同時期に開始されています。『テニスの王子様』が1998年の読みきり後、1999年から連載。『ひかるの碁』は1998年から連載。『ピアノの森』は1998年から連載されています。
こうしたある特定のジャンルのなかでの天才を巡る物語。この話形はその後広く漫画の世界で受け継がれます。90年代後半に出現し、一躍世間に認められたということも、時代の影響が多少窺えるところです。90年代になると、バブルが崩壊した後で、オウム真理教のもっとも痛ましい事件がおこった時代でもあります。80年代に流行したオカルトなどの影響も多少尾を引いており、無気力のようなものが全体にうっすらとかかっていたという側面はあると思います。そのなかで、一つのことを極めることの重要性を説いたのがこれらの作品だったのではないでしょうか。
この物語に描かれる人物たちは、どれも第一級の天才たちです。しかし、まだ90年代はそうした天才たちをみて憧れるという気持ちがのこっていた時代でした。ですから大ヒットしたのです。ただ、明らかにはじめから天才であった『テニスの王子様』と、天才の幽霊が憑いている『ひかるの碁』と違い、『ピアノの森』は隠れた才能が次第に開花してくるという物語だったので、ほかの作品にくらべてインパクトが弱かったため、同時代作品のなかでは下火になってしまったのではと考えることができます。
ただし00年代も後半にはいると、そうした私たちの手の届かない天才への純粋な憧れというものも薄れてきて、次第に天才は敬遠されるようになります。その点、比較的ありえそうな天才を描いていたこの作品が00年代の後半にアニメーション映画となって復活したのです。
また、音楽をテーマに使った漫画というのは、それだけて系譜がつくれますが、音楽を本格的に描くというのはこの作品がかなり他の作品に影響をおよぼしていると考えられます。それは2001年からの『のだめカンタービレ』がよい例として挙げられます。この二つの作品の比較は面白いのですが、その前に大別して時代の流れと、その時代に求められた漫画を指摘してみたいと思います。当然かなり粗い作業ですから、全く別の作風の作品があることは確かですが、あくまで全体を大雑把に見たときのことですので、ご了承ください。
70年代はロボット。地球や宇宙の存亡を巡るかなり壮大な物語が愛されました。人類の映画を極めたさきの世界が描かれていたのではないでしょうか。80年代は少し規模が小さくなって、超人が描かれます。それ以前の70年代の戦艦やロボットはあくまで通常の人間が操作をしていました。今度は人間個体自体が超人的なパワーを持つようになるのです。『北斗の拳』『キン肉マン』『ジョジョの奇妙な冒険』などが好例。90年代になると、そうした個人単体で超人的な力をもつものへの憧れは減退します。あくまで人間としての天才に憧れるようになるのです。今回の作品はましくこの位置に属し、他の作品にもそれは観られることです。00年代になると、天才すらも憧れの対象ではなくなります。アイドルの細別化にもみられますが、自分の世界との接点がないと共感できなくなってきます。いわゆる閉じた世界のような作品。多くの作品は日常を取り扱うことになります。00年代の初期においては、外からの来訪者、『かんなぎ』などの特異な力をもった存在がやってきて巻き起こる日常が描かれていましたが、『けいおん』になると、完全にそこには私たちと何の変わりも無い世界が描かれるようになります。
90年代最後の作品としての『ピアノの森』は天才たちの物語。そこに登場する人物たちは前に前に強く行き続けています。それに対して00年代に入った『のだめカンタービレ』は登場人物を冷静に考えれば天才と考えることも出来ますが、漫画を読んでいる限りにおいては、出来損ないというか馬鹿のようなゆるやかな空気が存在しています。すでに天才だけの物語では息が詰ってしまうというのが読者の状態なのではないでしょうか。

-天才を巡る物語、努力の敗北-
この物語はよくよく考えると一ノ瀬 海という少年が主人公になりますが、この人物は社会的にはかなり底辺の人間。この少年が他のピアニストたちの影響によって秘められた才能を開花するという話になります。しかし、これだけだとあまりにも天才賛美になりすぎるので、そのための相対化として努力の天才雨宮 修平や、精神の天才とでも呼ぶべき丸山 誉子を登場させます。
しかし、アニメーション映画のためにそうした相対化をした結果、主人公は一体だれなのかという疑問が生まれるまでに相対化されてしまいました。この点が失敗になります。努力を賛美するのであれば雨宮 修平を主人公にしてしまったほうが良かったし、あるいは潔く才能を賛美する一ノ瀬 海を主人公としてももっと前面に押し出しても良かったのではないかと思います。変に雨宮 修平の視線で物語られる天才一ノ瀬 海としたことによって、余計に努力の天才のむなしさというようなものが浮かび上がってしまい、映画を観た後の心持があまりよろしくないのは作品の欠陥であると私は思います。

冒頭から雨宮 修平の語りで始まりますから、どうしたってこの少年が主人公なのだろうと思います。しかし、次第に一ノ瀬 海が登場するようになり、最後には丸山 誉子とカイの交流が決して小さくない意味を持つようになり、誰に視点をおいているのか不明になるのです。
父親が世界的なピアニストで、母親も音大を出た教育熱心な人物。毎日何時間も有名な先生について習うという極めて過酷な努力を続けている雨宮。物語はその雨宮の祖母の容態が悪くなったために、ひと夏だけ田舎へと引っ越したときの転向先の小学校ではじまります。ピアニストは手が命といっても、まだ小学生なのに手を気にしなければならない。ピアニストとしてのすばらしい才能をカイに感じた雨宮は、喧嘩をするカイにそんなことをしてはいけないといいます。メガネをかけ、息子対しても修平さんと呼ぶ雨宮の母。それを多少なりとも変だとは感じていながらも、喧嘩をするカイに対して、喧嘩が悪いのではなくてカイの手になにかあったらいけないからという理由でストップをかける修平。どちらも通常の認識でいけば異状です。
そうしてカイの母親一ノ瀬 怜子も、15歳のときにカイを産み、現在も水商売を行っているという人物。この物語はどれもあまりに日常からかけ離れた、一般の社会からすればかなりかわった人物たちが織成す物語なのです。ですから天才だけの物語であると同時に、変人たちの物語でもあり、それが観客の共感を抱かせない理由となっています。

物語のキーパーソンとなる阿字野 壮介。かつての天才ピアニストですが、交通事故により婚約者と命である手の自由を失います。その天才ピアニストが落ちぶれて現在では小学校の音楽の教師。それをしった雨宮の母は、是非自分の息子を教えてくれるように懇願しますが、阿字野はそれを拒否。しかし、自分と同じ才能をもつカイには、みずから教えさせてくれというような言説をします。それを聞いた雨宮はカイが選ばれて自分が選ばれなかったことにショックを受けますが、同時にまたカイのことを認めている節もあります。
物語フィナーレとなる地方のコンクールでは、雨宮・カイ・丸山 誉子と三人が果敢に戦います。ただ、その結果は雨宮の優勝に終わります。カイは途中で自分のピアノを弾かなければいけないということに気づき、楽譜を無視した自由な演奏をしたからです。これで阿字野の言葉がなおさら優勝した雨宮の無残さを露呈してしまうのです。カイ君は世界にでなければいけない。こんな小さなところでは評価されないということを言います。ですから、努力の結晶でコンクールに優勝した雨宮は、もう立つ瀬がありません。そうして自分でもカイに負けたということを感じているのですから、やはりどうしても雨宮を通してカイを観なければいけなかったのかという部分に疑問がわきます。これではあまりにも雨宮が可哀想なのです。

-終りに-
.ですから、どうしたって雨宮を主人公にするのか、或いはカイを初めから主人公にするのか決定しなければいけなかったのです。そうしてこの作品をもうつくってしまったからには、続編を世に送り出さなければなりません。漫画はこの後の物語が展開されているようです。私はまだ原作を読んでいないのでわかりませんが、この後に、雨宮が努力で才能のカイに勝つか或いは世界を舞台にして戦うというところまで描かなければいけません。
天才を巡る物語で、しかも努力の敗北を描いてしまったために、大変見た後の心持が鬱屈になる映画です。ですから、お得意の相対化をするのであれば、次回作で上手くやらなければならないのです。こうした作品上の欠点が、同時代作品の下火になってしまった理由ともいえます。
上戸彩と神木隆之介は、舞台俳優であるにもかかわらず、大変よい仕事をしていました。特に上戸さんは、女優なのかアイドルなのかよくわかりませんが、すばらしい演技力です。それは評価できます。

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