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アニメ映画『スチームボーイ』への試論 感想とレビュー 正義の排除、内容の欠如

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-大アニメ映画解釈祭-
秋の夜長に楽しむのはアニメ映画に限る。アニメ映画は、アニメ表現を制約された時間のなかで、普段のアニメ製作時とはかけ離れた時間と金をしようすることによって作られる極めて高度な芸術作品である。00年代になり、CGの技術が導入され、物語自体もそのテーマとする内容が変容してきた。また、アニメはいままでごく一部の人間が見るものとされてきたが、秋葉文化が世界中でも見直され、評価されるようになり、アニメは広く開かれたものとなった。アニメの影響は強く他のメディアにも影響し、メディアミックス展開とよばれる言葉まで出来るようになる。アニメ映画を読み解くことは、まさしく現在を読み解くことと他ならない。00年代のアニメ映画を時代順に解釈していく。

-初めに-
『スチームボーイ』(STEAMBOY)は、大友克洋が監督したSFアニメ映画作品。2004年公開
総製作費24億円、製作期間9年をかけた作品[1]である。 19世紀のロンドンを舞台に時代設定やメカデザインを徹底的に拘った作品である。総作画枚数18万枚でデジタルと手描きの共演による緻密な映像表現で描かれる
『AKIRA』を製作した大友克洋監督のアニメ映画。しかし、期待されていた割にはストーリー展開など、あまりにありきたりな作品だったために、高い評価を得られませんでした。一体何が問題だったのか、また評価すべき点はどこなのかを、もう一度検証してみたいと思います。

-作品の概要と構成-
機械技術が極めて高度になった現代。人力というもっとも根源的で、人間味あふれる労力が失われたのは何時ごろからだったのでしょうか。19世紀、スチーム、蒸気を使用して、蒸気機関というものが生み出されました。それまではすべて人力、あるいは馬の力を借りて馬力、そのほか自然の力に頼るほかありませんでした。当然人間や動物に出来る力は限りがあるもの。しかし、時代はそのような貧弱な力には満足できないほど膨張していました。その力の貧困をすくったのが、まさしく歴史の転換点ともなる蒸気の力です。近代科学技術は、この蒸気の力によって大いに発展したことでしょう。
物語は、蒸気機関が発明されてからまだ間もないころ。新たなる力を求めて、より強い蒸気の力への欲求が高まった人類の話です。天才科学者の家系、スチム家は、親子三代にわたって新しい蒸気の発明を行います。
冒頭で、レイの祖父のロイド博士と父のエドワード博士が新たな力を発明します。ただ、このときに父エドワード博士は事故で高熱の蒸気を全身に浴びてしまいます。生死も定かでない状況で、物語はレイへと以降します。
物語は力をめぐる関係の話、オハラ財団のもとで研究をしていたロイド博士とエドワード博士。しかし、オハラ財団との考えの違いからロイド博士は自分の息子とも決別、新たに発明したスチームボールをオハラ財団の手にわたすまいとします。そのロイド博士の協力者となるのが、ロバート・スチーブンスンとそのバックグラウンドとなるイギリスの軍。
物語はスチームボーイたるレイの視点で描かれます。いたいけな少年は、大人の力への欲望というものをまだ知りません。悪がきとして存在していたレイでさえ、大人の欲望という醜いもののまえには純粋な子どもでしかなかったのです。それが祖父がスチームボールを孫のレイに託したことから物語りは始まります。レイの前に突然の祖父からの贈り物。そうしてそれを追ってきた黒づくめの男たち。
こうして大人のつくった大きな欲望という名のはぐるまのなかに取り込まれていくレイ。祖父の思いを守ろうと、黒づくめの男たちからの逃亡を図ります。そうして優しく手を差し伸べてくれたのがロバートとその部下たち。
しかし、このロバートたちも最後にはその面の皮をはがして、本性を表します。オハラを押さえ込むために力を追い求めていただけなのです。この時点ではレイはそんなことを感じるいとまもなく、追ってきたオハラの男たちに再び連れ去られてしまいます。
そこで出会う少女。これがこの作品の最大の欠点であると私は思いますが、わがままな少女との出会い。しかし、誰もが感情移入できない少女に、何の感情も沸かず、守るべき対象というわけではありません。
その後レイはスチームボールを持って逃げ出します。それと同時して、動き出す父エドワード。何とかエドワードとオハラ財団の世界進出を防ぎたいイギリスの軍隊も動き出し、双方による戦争が勃発。レイはその戦争に巻き込まれ、自ら選択しなければいけない状態になるのです。

-作品の欠陥-
この作品の最も根源的な欠陥は、小西真奈美が演じたスカーレット・オハラ・セントジョーンズというオハラ財団の娘。ただの高飛車な女としての存在のみを許されているだけで、他の感情の悉くが欠落しています。それに最後までオハラ財団の一員ですから、彼女がレイの仲間になるわけではありません。最終的には敵味方もないくらいの大混乱にまで発展し、協力をしますが、レイの守るべき対象となるわけではありません。私から言わせれば、すでにこれはただのハチャメチャでしかありません。
このキャラクターは、今までにないヒロイン像を作ろうとしたのか、奇を衒ったために大失敗を起こしているのです。だれも感情移入が出来ず、わがままをいうだけの存在。そうしていつもキーキー甲高い声で文句をいっているのですから、寧ろ嫌悪感を感じざるを得ません。
こうしたキャラクターのアイデンティティーの崩壊は、他のキャラクターにも見られます。それはなんといっても今回の最も重要なテーマである親子三代による絆です。こうした巨大な組織、流れ、運命のようなものに組み込まれていく物語のなかにおいて、その流れに抗うべき力は、人間の絆、感情です。そうした非情な運命を乗り越えるための力が必要になるのです。しかし、この作品はその力が不明。それが欠点になっています。これは上で述べたスカーレットが守るべきヒロインとしての存在でないことにも起因しています。
仮にスカーレットはいいとしましょう。ですが、決して失ってはいけないのが家族の絆。しかし、この作品では家族三代の絆は悉く破壊されてしまっています。途中生死の不明だった父親と再会するレイ。しかしそこには変わりはてた父エドワードの姿が。大きな怪我を負った父は半分機械人間のようになっています。そうして心もまた機械のようになってしまったかのように、非情に冷徹で、息子を省みず、自らの欲望のままに研究を重ねる人物となってしまいました。
父と子の不和。しかも父は機械人間。一見スターウォーズの構図を彷彿させます。しかし、その父と子はぶつかり合わないのです。あくまでレイは子どもであり、まだ大人として父と戦える状態ではない。レイは父から逃げ、また父もレイを執拗に追うことはしない。ですから没交渉なのです。接点があるようで、全く噛み合っていない。当然そうすれば父を誤った道からつれもどすことは出来ません。最後になっても、父は変わらないまま。ですから何のカタルシスもありません。
ではこの父との不和をどうするか。ここで格好の存在が祖父であるロイド博士。この博士は中盤までこの作品において最も常識的な人間であろうと思われます。しかし、この祖父であるロイドも自分の息子と正面きっての対決が描かれません。言葉の応酬があるまでで、結果的に何もかわらないのです。最後は、上でもあげたハチャメチャによってかろうじて協力をすることになりますが、そこには全く心の通いがなく、その場限りの協力でしかありません。ですから、せっかく親子三代にもわたる絆が存在するのにもかかわらず、それを破壊して、全くそのまま放置してしまっているので、この作品は何の絆もないということになります。

この作品の問題の一つは、声優の選択です。何故か殆どプロの声優を配役せず、殆どが舞台で活躍する俳優です。しかし、プロとしての声優がいるということは、当然それだけ声優という職業が奥深く、他の職業の人間にそう簡単にできることではないということが証明されているのです。それをわざわざ俳優をもってくるのですから、どうしてもそこに無理が生じます。
ジブリの手法では、声優は主役になってしまうからということで、敢えて俳優であったり、全くの素人をしようすることがあります。この作品も、その手法を踏襲しているようですが、主役級の人物にまで俳優を当てています。やはり舞台とアニメーションへの吹き込みは違いますから、どうしても不自然さが拭えない。特に相手の名前を叫ぶのは、プロの声優でしか出来ないこと。俳優の舞台での声の出し方とはまた別のスキルが必要になるのです。
ですから、私はなにも舞台俳優が下手だというのではありません。舞台俳優は舞台で十分に活躍なされている方々が揃っています。実力のある人達です。ただし、アニメーションとなるとやはり違います。似ている分野なのでだれもが出来ると思いがちですが、水泳の選手が野球やサッカーをやっているようなものなのです。運動が出来るからといって、別の競技が出来るわけではありません。なるほど一般人よりかはよいとして、しかしその競技のプロには勝てるはずがないのです。
そうして主人公を俳優で配役したならば、せめて脇役は声優を起用しなければなりません。そうしないとバランスがとれないからです。しかしこの作品ではそれさえも無視して、全員が全員俳優がメーンの人々。何が悪いって配役を決めた人物が悪いのです。

-正義の排除、内容の欠如-
この作品は、大きな流れのなかで苦悩する少年の物語です。主人公レイは、オハラ財団とともに世界を征服しうる力を求める父と、それを阻止しようとする祖父ロイドの間に立って、悩みます。またロイドの協力者を装いながらも、結局はロイドの発明品を横から奪おうとしていたロバートたちとの間でも悩むのです。
この作品は、相対化どころか、全く正義というものを排除してしまっています。重要になるのは、当然機械がこれから人間をどう導いていくのかという部分。機械の発明が人類に及ぼす影響。これを考えなければいけないのです。
ロイド、エドワード、ロバート三者の科学の考え方。しかしそのどれもが正義ではありません。人類のためといっていながら、その人類のためになるまえに、多少の流血は必要だというのが、エドワードとロバートの考え方。ロイドはそれを阻止しようとはしていますが、彼の明確なビジョンというものは描かれません。それは途中で描かれた機械仕掛けの城の上部に位置する遊園地なのかも知れませんが、はなしをこれだけ大きくしておいて、今更そのようなものを提示されても誰も納得できるわけがなく、レイもその方向へすすもうとはしません。この三者が三様で正義ではない。レイは一人選択をしなければならないのです。
しかし、その選択において重要なのは守るべきものの存在。その不在がこの作品の欠点となります。ですから、一体レイが何を選んだのか、どうして選んだのかが描かれていないのです。ですから、最終的にハチャメチャな展開になり、その場限りの協力で何とか全員が集まって、そうしてわけのわからぬ終りになるのです。
そこには何も納得できるものもなく、何も描かれていません。空白が描かれているのです。なんだか壮大なのかなと思わせるくらいで、内容は全くない。スチームなのです。霧がなんだかもやもやしていて、何か存在してそうなのだけれども、中身がない。それがこの作品なのです。

-終りに-
評価できる点もあります。それはもちろんあの不朽の名作『AKIRA』を製作した大友克洋氏ですから、映像技術はやはりすばらしい。内容は大変酷いものです。『AKIRA』は大友さんのすばらしい原作を大友さん自身が脚本しているから成功したのです。製作に何年かかっていようが、漫画化されていない原作のない作品ですから、どうしても他者からの視点が欠如しているのです。
この映画の最大の魅力はやはり霧の描写力。実写ならばまだわかります。しかし、あの水蒸気をアニメーションで描くのは至難のわざです。真っ白なものにしてしまえば、何の新しさもありません。平々凡々の霧です。半透明にしても不自然さは残ります。だからといって、CGなどにより、実写の霧を張り合わせるのもちぐはぐなものになってしまいます。04年にこれだけの技術で、アニメーションのなかでの最高峰の霧の表現が出来たことは感嘆にあたいすることです。
また、大友氏の機械の描写は依然として納得のいくもの。『AKIRA』では機械が命を持っているように自由自在に動きました。今度は機械は機械として、スチームパンカーの人々が納得のいくようなスチールの質感や、19世紀の蒸気の機械の忠実な表現が輝きます。
内容がより明確で、絆や正義が描かれていればより高評価を得ることができるだろうと思われるだけに、残念な作品です。

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No title

今日初めてスチームボーイを見ました。
とても面白く感じました。私は大友監督の作品を見たことがないので、この物語の二番煎じ感はわかりません。
映像は2004年の作品にしてはすごい美しいと感じました。
私にとってスチームボーイは面白い作品でした。
しかし、ネットの評価はあまりよくありません。
一般的に言われている?正義感の無さやヒロインの悪さなど、ストーリーとしての一貫性は私もないと思います。
ただ、私が感じたのは、蒸気機関という今まで見たこともないようなものを発見し、それに翻弄されていく姿が如実に出ていることでした。ロイドが訴える正義もエドワードやロバートの機械に対する考えも、未知の機関を目の前に崩れていく姿は人間としての小ささを上手に描けていると感じました。ロイドの機械に対する考えは古くなったのだと感じましたし、その力に翻弄され権力を追い求めるロバートやエドワードの考えに人間としての醜さが表れていて痛快だったのです。
ヒロイン役のスカーレットも面白いと感じました。デレない、つんつんした高飛車なその性格は、かなり個性的で、面白かったです。ただ、それが一般の冒険型のストーリーにおいて救うべき人物であるかと言えば、それはNOだと思いますし、映画を見ていてたしかに何か違う感じをうけました。

No title

ここにコメントしたものですが、アニメ映画『スチームボーイ』への試論 感想とレビュー 正義の排除、内容の欠如の-作品の概要と構成-で不十分だと感じました。
というのも、最後は対立する親子が協力し、親が撒いた不幸のスチーム城を海上へ移動させ、爆破させます。
そして最後に暗雲が立ち込めてくるシーンがあります。
これは私の勝手な解釈なのですが、
主人公がこれからの未来に対して不安を抱くような心情描写とともに
実際に産業革命後に起きた第一次世界大戦や第二次世界大戦などの戦争への科学の加担(親子が実際に恐れていたことが起きてしまう)がまもなく起きようとする見事な暗喩のように感じました。
だから、彼らの正義がない、絆がないから物語に欠陥があるとするのは誤りで、彼らに代表される科学に対する昔の考えと権力を求める考えの無意味な戦いによって、世間は科学に対する新しい価値観を発見し(たしか、世界は見てしまったのだ!というような発言が映画中にあったはずです)、また愚かにも世間はその無意味な親子の戦いを縮図としてしまうような戦争へ学ぶことなく動かされてしまうということなのではないでしょうか。
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