アニメ・アニメ映画「機動戦艦ナデシコ」への試論 「戦艦もの」の系譜・名作の踏襲から、作品の性質と時代の流れ

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-大アニメ映画解釈祭-
私にとって、今年の夏はアニメ映画の夏であった。アニメ映画というのは、アニメの持つ利点と、映画のもつ利点とを兼ね備えた、映像メディアとして極めて高度な媒体である。アニメーションの表現技法を駆使しながら、映画のような物語の流れ、時間の制約を受けつつも金銭的にも通常のアニメより余裕がある。そこに人々は思いのたけを注ぎ込むだろう。その注ぎ込まれたものを再び抽出するのが、我々観客に与えられた自由でもあり、義務でもあるのだ。この一見相反する自由と義務。私たちはアニメ映画を見ることによって、それを自分の中で新しい生命として生み出すことが出来る。今このとき、アニメ映画を観、そこに描かれたものを抽出し、現代において活かすべきである。これからいくつかの作品を、出来るだけ時系列順で論じていく。

-初めに-
『機動戦艦ナデシコ』(きどうせんかんナデシコ)はSF・ラブコメアニメ。1996年10月1日から1997年3月25日までテレビ東京系で放送された。1998年8月1日には続編に当たる劇場用アニメ『機動戦艦ナデシコ -The prince of darkness-』が公開された。
今回は戦艦ものの、集大成とでも言ってよい作品を論じます。

-戦艦ものの系譜-
戦艦もののアニメはどこから始まったのでしょうか。機動戦士ガンダムから、宇宙戦艦ヤマト、マクロスシリーズと戦艦ものの系譜があります。これらの戦艦が物語りの主流をなす作品は、70年代が多かったということがここからわかります。それぞれシリーズものとして、後々まで愛される作品となっていますが、戦艦ものが最も勢いあったのはやはり70年代でしょう。
00年代に入ると、コードギアスや新しいガンダムシリーズで再び機械類に着眼されますが、戦艦にはあまり注目されなくなってしまったのだと感じています。
門外漢の私が語るのはあまり好ましいことではありませんが、兵器として考えた際に、ガンダムでもそれは言及なされていますが、戦艦というものはすでに時代遅れの代物になってしまったのではないでしょうか。ファーストガンダムではミノフスキー粒子を撒布することによって、それまで主力であった戦艦が、いともかんたんにモビルスーツに破壊されてしまいます。モビルスーツ一機だけで、何百人もの軍人がのっている戦艦が簡単に落とされてしまう。歴史をひもとけば、これは第二次世界大戦の日本と同じであるといえます。世界最強の戦艦とよばれた「大和」は、しかし時代に見放されまいた。もはや空母が必要となった時代。戦艦同士の対決はほとんどなく、空中へ解き放たれた飛行機からの猛攻によって、戦艦はなす術もなく、いくつも撃沈されました。
これがアニメ会においても、やはり影響していると感じられるのです。言わば第二次世界大戦で飛行機の役割を果たしたのが、モビルスーツに変容しただけなのです。ですから、物語は戦艦からモビルスーツなり、人が搭乗する兵器へと視点が移されていきました。
ファーストガンダム並びに宇宙世紀シリーズでは、戦艦にモビルスーツと同様の重点が置かれています。ガンダムはそうした点で、他の兵器物語とは違うのです。戦艦がかなり重要な意味を作品の中で有しています。
宇宙戦艦ヤマトは、ガンダムより以前の作品ですから、モビルスーツという概念はまだありません。当然戦艦同士の戦いとなるわけで、戦艦だけを描いた作品として、これが最後の作品となっていると思います。
マクロスになると、戦艦といって良いのか少し疑問が残りますが、変形する戦艦としてマクロスが主体となっています。ただ、この作品ではガンダムのモビルスーツと同様、バルキリーに半分以上の重点が置かれてしまっているため、生粋の戦艦ものとは呼べません。マクロス7になると、戦艦としてバトル7への力点が割りと置かれていると感じられます。

さて、このような戦艦を物語のテーマとした物語。どうしてアニメでは戦艦を描くのでしょうか。戦艦とは一般的にいって、様々な人々が乗り込む場所になります。移動式の要塞であり、街なのです。小さな集合体として解釈することもできます。
戦艦ですから、その名の通り戦闘を行うのが主な目的です。ですが、長距離の移動をも兼ね備えている戦艦は、戦闘だけがメーンではありません。むしろいつ戦闘になるかというなかにおいて、日常があるのです。戦闘が非日常だとすると、メーンはやはり日常に置かれるのが筋ということにならないでしょうか。
ただ、この日常は、我々の日常とは多少異なります。いつ戦闘になるかわからないという常に緊張がある日常なのです。通常の人間であれば、神経が持ちません。そこでどうなるか、戦艦に搭乗している人々は、戦闘のことを考えないようにほかの搭乗人物とかかわるのです。戦艦は移動式の要塞ですから、当然戦艦のなかには病院があったり、食堂があったり、小さな町がそのまま移動しているという状態になります。ただし、あくまでも究極目的としての戦闘を念頭において、閉鎖された空間での長期の生活ですから、ストレスがたまります。そのストレスを打ち消そうと、人々は苦心し、そこに物語り・ロマンが生まれるのです。

-それぞれの名作から、戦艦ものの特徴の抽出-
『機動戦艦ナデシコ』は原作がありません。いきなりアニメとして展開された作品なのです。ですから、当然作者の所有物というよりかは、スタッフ一同のアニメに対するイメージがそのまま投影されているので、大変参考になる作品だと考えられます。
ちなみにアニメ放送に先駆けて「遊撃宇宙戦艦ナデシコ」が麻宮騎亜により発表されていますが、これは原作というわけではなく、他メディアでの展開ということで、あまりアニメとの連関性は見出せません。

90年代も終わりに差し掛かり、20世紀が終わろうとしていました。人々は何か世紀が変わることに意識を持っていたと思います。アニメにも、何かしらの区切りがあると考えられていたのか、実際に20世紀と00年代との作品とは大きな差があると私はおもいます。
このアニメはまさしく90年代の締めくくりとして、また戦艦ものの集大成としての側面がかなり色濃く出されています。
ガンダム・ヤマト・マクロスによって、戦艦のブリッジが舞台となる物語の展開が定着しました。物語は常に戦艦のブリッジのなかで起きてきたのです。そうして個性豊かなそれぞれの軍人がぶつかりあいながらも敵を倒して成長していく。これが基本となります。
この作品はそうした、戦艦ものの特徴を全て抽出して詰め込んだ作品です。作中でも言及されますが、艦長とはどういうものかという問いに対して、ナデシコのコンピュータは経験豊富で、確固とした意志の持ち主である、髭を生やした老人タイプが今までの主流だったと述べています。この作品が、そうした艦長を持ってきたアニメの後継であることを如実に表している部分だと私は感じますが、コンピュータの言及はさらに続き、現代では、艦長の役割が必要なくなったことを述べます。殆どがコンピュータ統御される時代となっては、戦闘においての優れた作戦指揮能力を有する必要がなくなり、専ら隊員たちをまとめるだけの役割としての側面しかないというのです。それが、現代の艦長で、若い人間である場合も、女性が艦長である場合もあるということになります。事実、00年代に入ってコードギアスや、新しいガンダムシリーズなどの艦長は、いままでのそれとは違い、若かったり、女性だったりします。この点において、唯一マクロスだけは古きよき艦長というようなものへの憧れがあるのか、髭のおじさんが搭乗しています。

この作品の参謀となる人物は、明らかにマクロス7のエキセドル参謀を意識していると感じられます。キノコ頭という外見的特長はそのまま。性格において、かなりの変更がなされていますが、作品自体もマクロス7の影響を受けているという印象があります。オペレータ等のブリッジの前方というか、下のほうで働いている女性たちは、まさしくマクロス7の踏襲。ヤマト並びにガンダムでは、そこまでブリッジに女性の人数が多いわけではありませんでした。ブリッジに女性が多く搭乗するのは、マクロスⅡ、マクロス7です。ここでは反対に男性が艦長と参謀だけというような、女性だけのブリッジというものが新しく作られました。この作品は、艦長も女性で、しかも20と若い。
軍ではなく、企業が独自に作った兵器という点で、ほかの作品との差異がありますが、若い艦長はガンダムから、女性が多いブリッジがマクロスから、参謀もマクロスから影響を受けているといえます。
この作品の唯一の新たな創造は、オペレーターであるホシノ・ルリです。11歳という驚異の年齢が、天才教育を受けているからという理由でオペレータを行います。ただ、この作品のなかで最も若いはずの彼女は、まわりの20歳前後の若者とは比べ物にならないくらい大人な精神をもった人物。常に冷静というより、無気力で、他人を評して馬鹿としか言いません。ジト目といわれるアニメ表現がなされたごく初期のキャラクターではないでしょうか。
南央美は、この作品で一躍有名になり、いわゆる現在でいうところの萌えキャラが生成されています。ちなみに萌えキャラのさらに初期の存在はガンダムZZのエルピー・プルだと私は考えています。彼女がげんきっ子だとすると、こちらは無気力な子です。

この作品の最も評価すべき点は、作中作を極めて高い完成度をもって、作成したということです。これまでに作中作をアニメのなかで表現するということ事態が非常に少ないことでした。それをこの作品は、作中作だけをつくるスタッフまで用意して、真剣に向かったのです。
作中作の内容は『ゲキ・ガンガー3』、70年代のロボットアニメを忠実に再現したもので、その精巧さから、ひとつの独立した作品として存在するに至ります。ウィキペディアでも、作中作ながら、一つの独立した記事として存在します。
70年代のロボットアニメを忠実に再現するという行為自体が、この作品全体が昔の作品へのオマージュであることを如実に語っていると思います。『ゲキ・ガンガー3』はあまりにも評価されたために、OVAとしても製作され、その主題歌をささきいさおが歌うまでの力の入れようとなっています。また、中間の12話では、『ゲキ・ガンガー3』の中で、登場人物たちが、本編であるナデシコのアニメを見ているという、作品と作中作の立場が逆転するということが起こっています。最後はさらに、そのアニメを見ていたナデシコのクルーということが明かされ、非常に複雑な世界、一種の多層的構造の遊びがみられます。アニメナデシコを見ているアニメゲキ・ガンガーをみているナデシコのクルーという構造になるのです。

-アニメ版とアニメ映画版の違い-
アニメ26話は、ガンダムで言うところのZZに位置づけられると思います。ガンダムシリーズでは、Zガンダムはかなり写実的というか、戦争の暗い部分に視点を置いて描きました。人がどんどん死んで、登場人物のほとんどが最後の数話で死んでしまうという破滅的な作品です。その反動からZZガンダムでは、そうした面は極力描かないようにして、日常の面白みというものを描きました。そのためファンからは軽いとかの痛烈な批判を浴びたのは事実です。
この作品はさ、作品背景としてマクロス7のような舞台設定がなされています。木星から攻めてきた兵器は、実はかつて地球から追放された人類の一部であったということ。この点に関してはファーストガンダムの宇宙移民の問題がかなり影響しているでしょう。その兵器が、ワープのようなものを使用して突然襲撃。これはマクロスの世界観に限りなく近いものがあります。
全体として、この作品は戦闘というよりも日常に視点が置かれています。ですから私個人としては、大変軽い作品として写りました。艦長がまず二十歳で、主人公となるテンカワ・アキトも、別に人間的に欠陥があるわけでもなく、悩みも大したものはない。笑いというより、ふざけですべてを動かしていっている感覚があります。きちんとストーリーを描かなかったこと、真剣にテンカワアキトの内面の描写をしなかったことが、この作品を軽いものにしているのです。それは残念なことですし、また製作者自身もその失敗を認めています。
ストーリーをきちんと描かなかったために、ダイゴウジ・ガイという初期の重要なキャラクターはあっさり、3話めで死にます。いきなり唐突に死んでしまうのです。それからフクベ・ジン提督も、全く意味不明の単独行動をとり、途中脱落。ムネタケ・サダアキ提督も、敵になりたいのか、味方になりたいのか意味のわからないまま自爆。
ことごとくこの作品に登場する大人は自ら死に、唐突に死にます。こうした部分は極力描かれないように意図されているのではと感じるほど。それに対して、エステバリスと呼ばれる機動兵器のパイロットたちは、極端に変人ばかり。全くこの作品からは、死のイメージが払拭されてしまっているのです。
さらに人物の内面を描こうとしないのに、クルー同士の色恋沙汰を描こうとしたために、作品に大きな亀裂が入ります。この作品では、通常の恋愛が展開されず、主人公アキトに、艦長であるユリカと通信士のメグミとの三角関係がつくりだされます。ただ、二人ともアキトへ夢中になって、そのことを公言していますが、アキト自身はそこから逃げ続けるという行動をとり続けます。どうしてこの女性二人がアキトを好きになるのかということを省略されていますし、逃げ続けるアキトに関してもその理由が描かれていないため、全く不明などたばたが繰り広げられるだけになってしまっています。
さらには、最後に突然明かされる重大な事実が、作品の根底としてもっと説明されなければならない時間の移動をするということが、あまりにもおろそかになっています。脚本家の首藤剛志は自分がこの物語を描いたら100話はかかるといわしめるほどの、壮大なことをテーマにしているにも拘わらず、それを全く何の説明もなしにいきなり展開、終了したために、アニメ版は極めて悲惨な完成度を有しているといわざるを得ません。古代火星文明は一体なんだったのか、時間を移動するということはどういうことか、あまりにも多くの戦艦ものの要素を無理に詰め込んだがために、作品として崩壊してしまったのです。

映画版になると、アニメでの失敗を反省し、シリアスで、より現実的な作品となります。アニメ版から3年後の世界を描いています。さすがに戦艦ものの決定版を作っているという意識があるために、描写は、どこかで見たことがあると思われる表現ですが、実によく描かれています。物語展開も、きちんと映画という時間の限られたなかで、かなり濃密なものに出来上がっています。
かつてのナデシコの登場人物、火星生まれの人間が、この作品では全員連れ去られてしまったというところから話が始まります。火星の人間には、時間の移動に耐えられる能力があるのです。木星の人間との戦争が終わったと思われていた時、三年の沈黙を破り、再び草壁春樹が地球に対して戦争を起こします。
ただ、今回はアニメ版のような甘いコメディ作品ではなく、明確に戦争とはどういうものかということを考えられて作られています。ですから、死というものをきちんと描いているのです。
主人公であったアキトは既に体を木星人たちにいじくられて、半分機械のような状態になってしまっています。しかも物語の後半まで姿を現しません。この作品は主人公たちの欠落を描いているのです。姿を現したと思っても、かつての人物とは完全に変化してしまっている。悲しみを負ったのです。表面上は戦争が終わって、平和な三年間が過ぎていました。しかし、その裏では、火星生まれの人間は人体実験の研究対象となり、ボソンジャンプという人類の夢を叶えるための道具として利用されてきたのです。
ヒロインであった、ユリカは石化。完全に道具として木星人たちの手のなかにありました。ただ、この作品も主人公の欠落という悲しみを背負うために、主になる視点が定められず、破綻しているようにも思えます。アキトは本当の自分を取り戻すためと言って、自分の妻であるユリカを救出したあとにどこかへ旅立ってしまいます。ですから、アニメ版で終了しなかったことを、映画版で終了させるかと思いきや、さらに多くの謎を残したかたちで強制終了してしまったのです。ですから、本来であれば、これから何十話かで、その後の世界を描かなければならないと私は感じます。

-終わりに-
この作品は、作品自体としては大変ひどいものであるといわざるを得ません。しかし、それまでの戦艦もののアニメの特徴を網羅して、それを反映させたということに、大変意義がある作品だと思います。いわゆる戦艦ものってこういうイメージだよなという、戦艦ものあるあるを研究して、その特徴を描いているのですから、作品自体がそうした先人たちへのオマージュになっているのです。
また上でも述べましたが、70年代のアニメとして製作されたゲキ・ガンガー。この作品は、そうした四角いロボットたちが活躍する時代から、戦艦が活躍する時代、それらが終わったことをあらわしていると私は感じます。それらの作品の鎮魂の意味も含まれていると思うのです。古きよき時代を懐かしむといってもいいです。
だが、あまりにそうしたことにこだわり続けたがために、作品が崩壊。全く内容のないものとなってしまいました。それに映画はアニメを見ていないと全く内容がわからないもの。そうした点でも、アニメ映画としても成功したとは言えない作品です。

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