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アニメ映画「綿の国星」への試論 感想とレビュー 擬人化と多重的構造

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-大アニメ映画解釈祭-
私にとって、今年の夏はアニメ映画の夏であった。アニメ映画というのは、アニメの持つ利点と、映画のもつ利点とを兼ね備えた、映像メディアとして極めて高度な媒体である。アニメーションの表現技法を駆使しながら、映画のような物語の流れ、時間の制約を受けつつも金銭的にも通常のアニメより余裕がある。そこに人々は思いのたけを注ぎ込むだろう。その注ぎ込まれたものを再び抽出するのが、我々観客に与えられた自由でもあり、義務でもあるのだ。この一見相反する自由と義務。私たちはアニメ映画を見ることによって、それを自分の中で新しい生命として生み出すことが出来る。今このとき、アニメ映画を観、そこに描かれたものを抽出し、現代において活かすべきである。これからいくつかの作品を、出来るだけ時系列順で論じていく。

-初めに-
綿の国星は大島弓子による日本の漫画作品。また、それを原作としたアニメーション映画作品。漫画作品は1978年から1987年に、『LaLa』(白泉社)に連載。アニメーション映画は、1984年に公開された。『猫耳』文化の起源であるとも言われている。
漫画は70年代の後半からやく十年にも及ぶ作品です。途中なんどかの休載を挟んでいますから、そのため長い期間にまたがけて連載されました。当時のファンとしては大変迷惑なことでしょうが、その漫画を紐解いていくことによって、70年代の「色」と80年代の「色」を考察することもできるかも知れません。
アニメ映画版では、ごく小さくですが、80年代の社会問題にも言及している側面があると私は感じています。

-擬人化についての試論-
擬人化。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%93%AC%E4%BA%BA%E5%8C%96
擬人化というのは、簡単に言えば、人でないものを人に擬して表現すること(広辞苑)ですが、ウィキペディアにはもう少し詳細な情報が記載されています。古くは古代ギリシャ時代からみられるそうで、古典的な名作にも、表現としての擬人化はおおくあります。神話も一種の擬人化と考えることもできると私は思います。自然現象を神に喩えて表現したものですからね。
擬人化には二種類のパターンがあり、一つは無生物の擬人化、もう一つは人でない生物の擬人化。
擬人化の一般的な効用を考えると、そこには人間の理想が詰まっていると考えることが出来ます。例えばネットで擬人化の画像などを探してみると、ポケンモンの擬人化だったり、植物、機械の擬人化した画像が出てきます。これらは、普段私たち人間が、最も愛するべき対象が人間であるということを、如実に語っていると私には感じられるのです。というのも、ポケモンは人間ではありません。まあ、いわば仮想上のペットとして認識しているのだと思いますが、ペット以上に手軽に、自分が育て、自分の命令を忠実に守る、存在ですね。だからそれだけ思い入れが強い。現実のペットよりも仮想上の存在ですから、現実味も薄く、そのため感情移入がなされやすい。そうするとどういうことが起こるかというと、ポケモンを擬人化して、自分の愛すべき対象にしようということになるのです。
ポケモンを絵本に出てくるようなかわいらしい少女に変化させることによって、自分の愛玩的な存在へと変容するのです。他の場合もそうでしょう。以前キノコを全て擬人化したサイトを見たことがあります。非常によくできていて面白かったのですが、これはキノコという生物に、人間的な側面を当てて、いつくしむという行為に他ならないのです。第一義的には、そこまで考えずに、ただ自分の趣味、楽しみというものが衝動でしょうが、その奥深くに潜む人間的な欲求というのは、人間でないものを自分の想像によって人間化し、そうすることによって、対話を計ろうということになるのです。だから、結論をいうと、人間は自分の話し相手としての人間を求めているということもできるのです。
ただ、こうした擬人化、確かなことはいえませんが、アニメ・漫画の発達した日本が最もすすんでいるのではないかと私は感じています。イギリスでは言葉としての擬人化が発達しているのではないでしょうか。完全に主観の域を抜けませんが。
そうして、今回の「綿の国星」は、そういう意味でいうと、最も日本的な擬人化がなされている作品だと考えることが出来ます。
今回の作品では、子猫の目線で物語が語られますが、その子猫は、観客としての私たちからは、小さな女の子に見えるわけです。複雑な視点が考えられます。ここに80年代のアニメ技法が洗練されてきたことを見出すことも出来ると思います。私たちから見れば、少女として存在する語り手は、その漫画の世界のなかでは子猫としてほかの登場人物に認識されているのです。

-さまざまな視点で物語りを切り開く-
時代を色濃く反映している部分から考察してみましょう。当時は受験戦争という言葉がはやったほど、受験勉強は過熱を極めていました。ですから、この主人公というのもなかなか難しい存在ですが、チビ猫の最も親しい人間である須和野 時夫は、そうした時代を反映した人物として描かれます。彼は物語が始まった時点で、すでに大学受験を失敗して浪人生になっています。この時夫ですが、今で言うところの軽いうつ状態になっています。そこからチビ猫との出会いがあり、じょじょに回復していくという面でも作品を見ることが出来ます。
時夫の父は作家、母は専業主婦。いかにもありがちな家族で、母親は一人息子の時夫のことを過剰なまでに愛しています。父は昭和の父親といった感じて、少し無愛想。ナイーブになっていた時夫が一匹の猫を拾うというところからこの作品は始まるのです。
ところがこの母親は猫アレルギー。一つ家のしたでは暮らせない状態なのですが、うつになっている息子のためにも、我慢して飼おうとします。その無理をする母親と父親の会話で、「じゃあこんなの聞いたことがあるか、いつも時夫は、今なら少年Aですむ、今なら、ということを言っているぞ」という会話が登場します。「今なら少年Aですむ」という言葉を時夫は発するほどに、極限においつめられていたと考えられるのです。

本来の視点はチビ猫ですが、この作品は多くの視点から物語を切り開くことが出来ます。今時代から見ました。次は時夫とガールフレンドとの視点から。物語後半ではまったく登場しなくなってしまうのですが、時夫は大学生の女性美津子と恋におちます。この出会いのきっかけとなるのがチビ猫、物語の語り手なのですが、それは置いておいて。彼女は現役の一年生ですから、年は同じ。
当初時夫に恋をしているチビ猫にとっては恋の敵でしたが、ラファエルという猫(これも擬人化されている)との出会いによって、その心情が変化していきます。物語の後半出てこないところをみると、チビ猫に新しい視点を入れるための存在としてしか描かれなかったような感じもします。ここだけ少し不自然なので、時夫と美津子を最後まで描いて、くっつけてもよかったのかなと私は思います。
チビ猫は冒頭にも語っている通り、「人間へは二種類のなり方があって、一つは人間から生まれるもの。もう一つは猫が人間になったもの」と信じて疑いません。そういう物語設定なのかと、一瞬観客も信じてしまうのですが、それは後に出てくるこのラファエルという猫の証言によって、チビ猫の勝手な妄想だったということがわかります。
ラファエルというのはこの作品のなかで最も不思議な存在です。全身真っ白な服をきて、髪も真っ白な聖人のような姿。彼を人間の姿としてみているチビ猫の視点で物語は語られていますから、当然私たちもラファエルは人間としての姿でしか見ることが出来ません。これはチビ猫にもいえたことですが、我々はチビ猫やラファエルが、作品のなかではどのような猫なのかを見ることが出来ないのです。
さて、ラファエルですが、最後は不明な部分が多いので、よくわからない部分があるのですが、最終的には消えてしまいます。チビ猫をめぐって、時夫と三角関係のような関係になるのですが、それに敗れたと自ら認めたためか、姿を消してしまいます。事故かなにかにあって、死んでしまったのかとも考えられなくはない流れなのですが、恐らく生きてはいるのだろうと私は考えたいです。若しくは精神体としての存在になってしまって、綿の国星にいってしまったのかも知れません。

この物語は、チビ猫が起こす行動によって物語がすすんでいきますが、最後には人間になれないことを知ったショックから立ち直り、新しい自己の存在意義を見つけるにいたるという少女の成長が一つできたという部分で終わります。ただ、視点が実に狭く、チビ猫と、少しだけ時夫とその家族のものでしか語られないので、謎が多いのです。ラファエルも最終的には謎になってしまい、途中ラファエルによって語られる「綿の国星」というこの物語のタイトルであることに関しても謎が解明されないまま終わってしまいます。
猫の世界のような「綿の国星」。そこには絶世の美女がいるそうで、ラファエルは成長したらチビ猫がその美女になれるといいます。これ以上の情報提供がなされないので、「綿の国星」が現実に存在する箇所なのか、或いは死後の世界、猫の天国のようなものなのか、猫に語り継がれる御伽噺なのか、はっきりしません。
それを描かないということで完結しているため、物語としてはよいのです。恐らくそれを描こうとすると、映画では収まりきりません。漫画でそのことが判明したのかは、私はまだ未確認なので何ともいえませんが、今回は映画だけを論じるという形をとっているので、それ以上は言及しません。

-最後に-
アニメ映画でこれだけ不思議な擬人化を行った作品は、おそらくこれが最初だろうと思います。またこの作品はその影響力が大きかった性もあり、「猫耳」文化の発祥になったとも言われています。人間で言えば5歳にもなっていないような少女の語りですから、幼くて、可愛らしい作品になっています。一旦チビ猫のフィルターを潜り抜けていますから、世界全体がゆりかごのなかのような雰囲気をまだ持っているのです。絵本、あるいは御伽噺のような雰囲気が全体として保たれているので、そうした点でもこの作品は成功していると思います。

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