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高田知波著「〈名作〉の壁を超えて 『舞姫』から『人間失格』まで」への試論 感想とレビュー 一人の評論家として

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-私の教授として-
今回は私の先生である高田知波教授について少し紹介してみたいと思います。
男性です。著者略歴によれば1946年生まれですから現在66歳でしょうか。以前書いた三鷹文学散歩の記事は、高田教授に従って行ったものです。昨年、一昨年と病気のために休校なされていたそうですが、全くその様子がないほどの活力に溢れた人物です。
近代文学が専門ですが、彼はあえて自分の固定化するということをしない人物であると私は感じています。
今、大学の文学研究は、ほとんどがテクスト論によって、成り立っています。これは専門的なので文学部の人でないとわからないかも知れませんが、いったん作品を著者と切り離して作品を論じるのです。
作品を、作者という絶対的な権力者から切り離した上で、作品を分解し、解釈し、そうして再び構築する。これが我々研究者の行うことになり、それは想像的な行為だといわれています。
しかし、高田教授は、そのテクスト論が主流となる以前からの研究者であると同時に、テクスト論が全てではないと考えているようで、作者を抹殺する必要はないと考えておられます。
本著のあとがきを読めば分ることですが、新しい研究者が、ことごとく作者の存在を否定するのに対して、まったをかけているような感じがあります。作品論と同時に、作家論としての視点をも持ち合わせているのでしょう。
私はそこに強く共感を得るのです。絶対的な作者を切り離すことによって、確かに私たち研究者は新しい文学へのアプローチを見つけました。しかし、それが全てというわけではないのです。作品を作者から切り離すということまではいいですが、作者を抹殺してしまうというのは、確かに斬新ですが、無理があるのではないかと感じる部分もあります。一旦切り離した後に、再び作者への視点を持つ必要があるのではないかと私は思うのです。ですから高田教授の考え方、文学へのアプローチの仕方は、お手本になります。

先生の言うところでは、「バイアスの解放」と「不易流行」の二点が彼の研究のテーマとなっているのではないでしょうか。バイアスというのは、偏見や先入観という意味です。彼はある作品に対する人々の印象から、作品を解放することを研究のメーンとしているのだと私は考えています。有名になればなるほど、作品は尾ひれが付いてきます。ありもしない伝説が生まれたり、あるいは最初事実であったことが、ゆがめられて伝わるということがあります。そうしたイメージをもった人間が作品を読むと、そのイメージに引きずられて異なった印象を受けてしまう。そのことに関して、彼は文学をそのままの状態、先入観、偏見のない状態で読み進めたいということなのです。
そうしたバイアスから解放するためには、まずバイアスを知らなければなりません。一体この作品にはどのようなイメージあるのか、どんな風に、一般の読者に理解されているのか、そうした面を知らなければそこからの解放はありえません。もちろん高田先生は古参の研究者ですから、個人の読書体験としてバイアスはかなりうすいでしょう。ではどうやってバイアスを知るか。ここに先生の若さの秘訣があるように思えますが、多く人と交わることだと思います。
良くありがちな研究者気質、これが教授にはないと私は感じます。とても若い。そうして友好的な印象があるのです。そこには常に、文学から人の理解という眼差しを持った教授の根幹となるテーマがあるのではないでしょうか。人を理解するということは、結局自分の中に作り出した他人の像を理解するに過ぎないと先生は仰いました。しかし、だからといって他者の理解を諦めるのではないのです。彼にはそうした力があります。他人を理解しようという絶え間ない努力が感じられます。

私は人間のエネルギーは限界があると思う人間ですが、教授のエネルギーには感嘆します。学生が数人係でも止められないようなエネルギーがあるのです。最も簡単な体力から見ても、三鷹文学散歩の時に思い知らされました。私たち学生に対しておよそ3時間ほどの文学散歩中ずっと解説をし続けたのにも拘わらず、散歩が終わったときに最も元気だったのは教授でした。とても学生たちは体力面では彼に適いません。病気していたのなんて嘘だとしか思えません。
知力。物事に対する探究心とでもいうものも、誰も彼には及ばないでしょう。文学の研究の執拗さは、重箱の隅をつつくような激しさがあります。しかし、狭い世界に閉じこもっているのかと思えばそうではない。彼のモットーは、文藝研究の分野において、文藝研究者が研究しなくてよい分野などないと明言しきった人ですから、エヴァンゲリオンという単語も飛び出すし、お笑いの番組についての感想も出てくるのです。
結論としては、誰も彼に勝てないということです。私程度ではまず無理ですね。私も学生の中では指折りの人間なんですけどね。
三鷹文学散歩の記事http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-252.html

-評論を評論する-
さて、著者にならって、私も人物論を少ししてみたつもりであります。他者の理解というのは、決して完全に出来るものではありませんが、私が少しでも論じることによって、さらに深まるのであれば、それは研究者としても本望であるところです。
ただ、私は最近読んでいる司馬遼太郎の「坂の上の雲」において、人間をある側面一つに絞ればある程度論じることができるのではないかと考えています。司馬さんの卓越した人物評というものは、そうした希望を与えるものでもあります。
話がそれましたが、評論というものは評論できます。何か作品を評論したものがあるとすれば、それをまた評論することは可能です。研究者たちはそうしてお互いに意見を深め合っていくということをしています。簡単に言えばですけどね。
ただ、私のレベルにおいては、彼の評論に評論するだけの力がないので、評論できないのです。無理です。とてもけちをつけられるものではありません。完璧主義者ではないですが、研究の精緻さは驚くべきものです。
本書は評論集です。所蔵されている作品評論は、
バイリンガルの手記―森鴎外『舞姫』
少女と娼婦―一葉『たけくらべ』
「無鉄砲」と「玄関」―夏目漱石『坊ちゃん』
「名刺」の女/「標札」の男―夏目漱石『三四郎』
他者の言葉―夏目漱石『こヽろ』
「皆」から排除されるものたち―志賀直哉『和解』
除外のステラテジー―太宰治『お伽草紙』
省線電車中央線の物語―太宰治『ヴィヨンの妻』
変貌する語り手―太宰治『斜陽』
写真・手記・あとがき―太宰治『人間失格』

バイリンガルの手記―森鴎外『舞姫』では、太田豊太郎という男が、バイリンガルであるという当然の事実に気がつかされます。その豊太郎が、ドイツ語で喋っていたころのエリスの記憶を部屋の中で回顧して、しかも雅文体で書いているということへの言及に、納得しました。
『坊ちゃん』が以外に無鉄砲ではないという論は、新鮮です。
『三四郎』では最大の謎である美禰子の兄についての言及がなされていました。彼女が名刺を持つ意味についても、なるほどそうかと思えます。
『ヴィヨンの妻』では、教授が得意げに話していた「井上章一氏の『愛の空間』」を挙げて、男女の性愛の空間として井の頭公園があったことを述べて、作品の解釈を新たにしています。これは彼も相当な自身があるらしく、私に自慢してくださったこともあります。

-終わりに-
これだけのエネルギーがある人ですが、やはりその偏りがあるのか、どうにも話に熱中すると他のものが見えていないような感じがあります。先生は、信号機を殆ど無視して歩いていってしまうのですから、面白いことには面白いのですが、やはり危険です。そのことを指摘したのですが、昔からこれで生きてきたんだからといわれてしまいました。お願いですから気をつけてください。
先生の評論の評論をしようと書き始めたのですが、評論家論になってしまいました。

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