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映画『プリンス・オブ・ペルシャ/時間の砂』への試論 感想とレビュー 時間という概念を鮮やかに組み込む

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-初めに- 
(原題: Prince of Persia: The Sands of Time)は、2010年のアメリカ映画。2004年発売の同名ゲームの実写化作品です。ただし、ゲームとは全く異なった作品となっています。
プリンス・オブ・ペルシャ、名前は耳にしたことがあったのですが、先日観る機会があったので、今回はこれを論じます。
原作がゲームだということで、原作とは全くことなった物語になっているとはいえ、一体どのようなゲームなのか気になります。ゲームでも時間の砂は出てくるのでしょうか。
これを聞いてまず思い出すことはドラゴンクエストの時の砂です。これもまた同様に時間を戻すことが出来る砂。少し調べてみたのですが分りません。一体この時間と砂というのがどこで結びついたのでしょうか。どこから来た考えなのでしょう。どこで生まれたのかも分りません。
ただ、連想としては砂時計から来ているのかと推測できなくもない気がします。時間を計るために砂を用いれば、砂は時という意味を持つようになります。しかも砂時計ははかなさの象徴でもあり、それと対比して砂漠では広大な砂がある。その砂が時間的な意味を持てば、人間の所有できる砂の以下に小さいことか、いかに無力なことかが痛感できるというものです。

-古典的話形の抽出-
映画は成功していると思います。十分楽しめました。何故面白いのかということを考えてみます。
先ず念頭においておきたいことは、この物語は映画オリジナルの書き下ろしであるということです。さまざまなメディアの媒体のものを映画化することも多々ありますが、やはりそこはオリジナルとの比較が必然的に生じてしまうという運命に縛られています。これは原作こそゲームですが、全くオリジナルのものを作り直したという点で、大きく自由が利く作品となっています。やはり、もともと映画の為に作られた物語ですから無理が生じていなくて良いということです。
また、この物語は古典的な話形がかなり多く詰まっています。言い方を悪くすれたイミテーションということにもなりますが、さまざまな話形のよい部分を拝借しつつも、時間の砂という副題でもあるこのことによって、見事にまとめられているのです。そこが大きく評価できる部分です。
先ず、王族でないものが王族になるという話形。これは紛れもなく旧約聖書の出エジプト記から出て来た話形ですね。別に王様に子どもがいないというわけではないのですが、偶々通りかかったことによって、その勇気を認められ王族として迎え入れられたということです。この話形につき物なのは、王族の血を引く直系の兄弟たちとの争いです。もちろんこの作品も例外ではなく、兄弟の間に亀裂が入った原因が何であれ、そうした話形が展開されるのです。
次は、近しい人間の裏切り。この作品では、叔父であるニザムが裏切り者でした。これはさまざまな話系に見られますが、シェイクスピアの作品から多くそれが派生したのだと私は考えています。シェイクスピア以前からあったことは確かですが、それが有名で大衆に受ける話形となったのは、ということです。またニザムの視点からみれば兄殺しでもあります。権力に目がくらみ、兄を殺害してしまう。聖書的な話形が色濃く出ています。カインとアベルの話は有名です。
あとは強いて言うのならば、神に与えられた神聖な力を有する女性の王族ですか。神から力を与えられた一族が、その神聖な力が女性に宿るというのは良くある話形です。ハムナプトラのスコーピオンキングの作品にもそうした話が出てきていましたし、ドラゴンクエストの5ではデルパドールの女王がその役割を勤めています。一体どこから沸いた話形なのかが不明ですが、有名な話形であることは確かです。
見事なのは、これらの有名な話形、つまり我々観客が好き好む話形がふんだんに使用されていながらも、大衆へ迎合したいというだけの作品ではなく、その中心には一本の芯が通っているということです。つまり、時間の砂という、まあこれも有名といえば有名ですが、これが作品を上手く纏め上げているのです。
時間を扱った作品は数多くありますが、時間の砂というのは実に限られた時間の自由しか与えられていないのです。未来から来たという「時をかける少女」の時間を移動する能力のほかは、こちらのほうがより現実味があります。時間を移動することが出来ても実に有限で、限られたことしか出来ないのですから必然それに作品は縛られますが、めちゃくちゃな展開にはならないという安全性も保たれます。

-時間を扱う難しさ-
この作品は、時間という非常に一か八かのテーマを主題にした物語です。時間を扱った作品は数多くありますが、成功した例は実に少なく、あとの作品は皆がえーといってしまいそうな興ざめなものばかりです。この作品は時間という諸刃の剣をうまく使用できたということに成功があります。
物語が最終的に戻ってくる位置も絶妙。物語が大分前に戻ることは予想が付きましたが、一体どこへ戻るかということまでは予想が付きませんでした。なるほどここへ戻ってくるかと、実に納得のいく戻り方。すべてが全くなかったことにするのではなく、アラムートへ侵略はしてしまったというところに落ち着きました。
そうすると私たち観客はダスタンと共に冒険してきたわけですから彼と同じ記憶を所持していますが、時を題材にした作品上、他の人物たちは今までのことは知りません。そうすると実に私たちはもどかしい思いをするのです。ダスタンとタミーナが作り上げてきたもの、シーク・アマールやセッソという愉快な仲間、せっかくソルムを倒したのに、という感情があります。それは当然ダスタンもあるはずなのですが、彼はそのことを説明しようとはしません。タミーナであれば砂の事実を知っているのですから理解してもらえそうなものですが、彼女へもそうしたことを言おうとはしないのです。もちろんこの作品が終わってからのちに話しているという可能性は十分にありますが、その潔さが、逆に冒険に疲れた彼のこころと、もどかしいながらも結局はこれでよいという爽やかさに変化して作品は幕を閉じます。この潔さが実にすばらしい。作品に余白があるのです。全て出し切らない。ちょっと我慢してみるというところが作品に奥行きを出しています。
そのため叔父ニザムも大変な過ちを犯す前に諌められます。最終的には上手くまとまるのです。一体だれが脚本を書いたのかは知りませんが、実に上手い纏め方で、納得がいくのです。この作品のすばらしさは全てここに還元するといってよいでしょう。

-終わりに-
作品は全体としてアラビアンナイトや、アラビアのロレンスのような雰囲気が漂っています。砂漠の神秘という感じがしますね。
またこの作品は設定もしっかりしていて、最後にその種明かしがなされますが、アラムートとペルシャ帝国とは浅からぬ縁があることがわかります。アラムートが道具、ダガーを保管するとすれば、そこへ使ういわば燃料、砂をペルシャ帝国が保持しています。つまり、お互いに神の力を分散して使用できないようにしているという関係にあるのです。ペルシャ帝国がアラムートを聖都と呼んでいることからも、友好的な関係であることがうかがい知れます。この作品はそうした背後の設定もしっかりしているため、重厚な感じが失われていないのです。タミーナの演技がもう少し上品であればなおよかったのですが、全体としては大変満足できる映画です。是非オススメします。

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