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豊田千代子教授の講義を受けて 私の考察 小論文 教育について考える

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豊田千代子教授の講義を受けて、小論文を書きました。教授は教育のことを考えるに当たって、職人制度を深く考察し、教育に対して新しい視点からアプローチをかけてくださいました。


「授業をとおして考えたこと」
-考えを放棄しない強さ-
私が先ず、この授業で学んだと言うか、得たもので最たるは、考えを放棄しないという事である。教育を考える、これは一体どういうことか。教育、とは人が生きる為に学ぶことであるか。こんなものは哲学と同じで一生結論の出ないことである。では、学者が研究しても答えが出ないことを私たち一回の大学生が考えて何になる。私たちはしばしばこうした短絡的な考え方に結びつくが、この授業では、教授も一緒になって考えていこうというスタンスに驚かされた。
初め、私は何時までも教授が「こうしたら良いのではないか」とか「このやり方は良くない」といったことを何故言わないのかじれったく感じた。今、授業が終わり考えることには、このすぐに答えを求めようとする態度の浅はかさよ。
私は今まで二種類の大人を見てきたように感じる。一つは我々をずっと教えてきて下さった教員や、親などである。そうしてもう一つは豊田教授を含め、映像でも観た職人、それに類する人たちである。
定まったスケジュール、それに沿って機械的に行われる授業、毎週何度もある小テスト。授業が一回でも何かしらの都合で潰れれば、すぐに補講だなんだと大忙し。五分前行動と耳にたこが出来るように言われ、課題が少しでも遅れれば催促が来る。電車の乗り換えでは2、3分が実に待ち遠しい。先日読んだ渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』ではエレベーターが閉まる約4秒の時間が待てないことが書かれていた。
国文学史の鈴木裕子教授の言葉に共感したものがあった。「そんなに急いで青年よ何処に行く」。講義の中でちらりと愚痴をこぼした教授であったが、ここにその人間性が凝縮している。竹細工職人の廣島一夫さんのあの悠然とした態度。宮大工西岡常一の言葉、泰然自若、得心が行くまで。
この二つの違いは何であろうか。まかり間違っても上に挙げたどちらかが良くて、どちらかが悪いと決定するつもりは毛頭ない。どちらにも一長一短がある。それに、二分化して考えることも本来は不可能な話で、なぜならこれは物事に対する人物の時間のもちようなのであるから五十歩百歩であり、程度の差でしかないからである。

-現在の教育の在り方と比較して-
この二つを教育の型として用いても強みと弱みがある。先ず一つ目であるが、これは大人数にある一定の知識を効率的に能率的に教え込むことが出来る。弱みは個人一人ひとりに合った勉強を提供出来ないことである。二つ目は、子どもの個性や特性に合わせて適切な支援が出来ることであり、弱みは時間がかかり、大勢を教えることは出来ない。
教育改革が必要だ。この言葉の軽薄さには心底うんざりさせられる。そもそも、教育とは古くは江戸時代の藩校や寺子屋から、近代で言えば明治5年の「学制」の制定によって体系化された教育機関などによって行われて来た。数百年は続いている教育を、どうしてそう簡単に改革できるのか。特に明治には、学制以外にも多くのことを決めるため、優秀な日本人が世界各地のすばらしい体制、体形を学んで持ち帰ってきた。今、教育改革などと唱えている人間は、教育が何であるかをろくに考えもせず、目先の学力向上の他目がない短絡的な人間の考えであり、教育自体が簡単に改革できるほどのものでしかないと考えている証拠である。
先人はどのようにしたら知識、技術、或いは言葉で表せないような人間の機微を伝えられるかと苦心してきた。現在の教育を考えることは、過去の教育を考えることど同義であり、先人たちから学ぶことは多い。現在は特に全国と比較した学力の低下が目下の問題となっている。学力ばかりを追って、受験戦争になった過去を忘れたか。そしてその結果生徒に心のゆとりをと言って行った教育が急激な学力低下を招いたと考えられることを忘れたのか。そうして今度はまた勉強に力を入れよう。一体何度同じことを繰り返せば学べるのだろうか。
これらは一重に勉強に力を入れれば、或いは心にゆとりを持たせれば、優秀な人物が生まれてくるだろうという実に根拠のない、しかも目前の目標のみを追い求めた結果である。教育は大概時間の掛かるものである。時間の掛からない覚えこむだけの知識は、結局はその程度のことでしかない。どうしてもっと長い期間で考えられないのだろうか。
しかし、これはただ悠長に考えて結論を先延ばしにすれば良いといっているのではない。私は先ほどから程度の問題だと言っている。だから、事を急ぐなかれ、しかし遅れるなかれであり、何度も何度も考え抜いた末に何か答えが見えてくるというのが最良だと言っている。考えることを放棄はしないのだ。

-私が考える理想の教育-
大前提として、先ほどから述べている通り考え続けることである。これが最も良いだろうと思っても、考え続けることである。もはやエンドレスと言ってもよい。それが人間であることの尊厳であると私は感じる。人と知識を共有することを無常の喜びとする、この高度な精神を持つ人間ができることである。
教育のことを考えるに当たって、私が読んだもののなかで特に共感できたものがあったので、それを引用し論じる。岸田秀『不惑の雑学』である。氏は「教育が生徒の個性を伸ばしてやることはできない。個性というものを、適当な日光と水と肥料を与えてやれば芽をふいて成長する植物の種子のようなもので、それが生徒に内在しているともなし、教育のやり方いかんによってそれを伸ばすことができるといった考えがあるように思われるが、個性とはそのようなものではない。~まじめな教育者がこれぞ個性主義教育の成果だと喜ぶことができるような個性なら、たいした個性ではないだあろう。」
他の展開には賛同できないものもあるが、ここは実に鮮やかに個性主義教育についての批判をしている部分だと感じた。現在の教育は、個性が重要だということに主眼が置かれている。個性を伸ばすための教育が一体どのようなもので、どうしたら個性が引き出されるのかそのメカニズムが全くわからないが、少なくともこの定められた時間、スケジュールの中で個性が現れたとしたら、その程度の個性は実にもろく、バックボーンのないものであることが容易に想像できる。

私は、画一的な知識の詰め込みも重要だと考える。それ一辺倒になってしまうのが行けないだけであって、それ自体が悪いわけではない。私たちが何かを考えようというときには、それまで生きてきた中で知っていること(それには知識や体験が含まれる)が必要である。だから、初めから個性だ個性だと言っても、何も詰まっていなかったら何も出てきはしない。個性を磨くために複雑な思考をしようにも、何の知識もなかったら思考さえ出来ない。
私は知識を教える場と共に、現在の教育にもう少しの知識を活かす場面を設ければ良いのだと言いたい。これは、まさしく今までこの授業で学んだ手仕事に関連するのである。手仕事は自分の知識と体験と経験の結晶である。授業時にある生徒が「お手本を見せているのも知識の詰め込みじゃないか」と言ったような内容のことを発言していたと思うが、その通りである。師匠のお手本は知識である。目指すべき目標である。これは教育現場で言えば詰め込み型の知識、問題はその後だ。職人職の修行は寧ろこれからの方に重点が置かれている。つまり、師匠のお手本や師匠が手取り足取り教えるのではなくて、どうしたらそのように出来るか実際に何度も繰り返して練習することである。
確かにマハトマ・ガンディーの言うように、手仕事をさせることは大変重要だと感じる。しかし、何も手仕事に限らなくても私は良いと考える。要は、得た知識をどのように使用するかの問題である。知識を教わったなら、どうしてそういうようになるのかということを考える。または、その知識を用いて別のことを考えてみる。その知識に近づこうとする。これが重要なのだ。そして職人たちは、こちらの方により重いウェイトが掛かっているということなのだと私は解釈する。
職人だって何も全く無からはじめるわけではない。師匠がいる。いなければ先人が残した知恵、知識を学ぶ。やはり知るということは必要である。現代の日本の教育に足りないのはその部分なのだ。大学では比較的こちらの、今まで習ってきた知識を用いて思考するということが必要となってくる。それでもまだ職人のそれとは程遠い。もっと主体的に、積極的に今まで学んできたことを使用する機会が必要なのだ。高校生くらいで現在の大学のような勉強方法を取り、大学ではもっと自分の学んだことを活かせる教育体制が整えられれば、より豊かな人間が育つだろう。

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