スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

映画『センター・オブ・ジ・アース』への試論 感想とレビュー 傑作の映像化への言及

img_1427244_61407131_0.jpg

-初めに-
(原題: Journey to the Center of the Earth)は、2008年のアメリカ映画。デジタル上映によるフル3D実写映画としては、日本で初めての全国公開作品です。
誰もが知るSF作家のジュールヴェルヌ。彼の作品は多くの人々に影響を与え、彼の描く世界観に飲み込まれてしまう人も多いのではないでしょうか。ディズニーでは彼の作品をいくつも映像化しており、海底二万里などはその代表といえるでしょう。デズニーランドのアトラクションとしても有名なセンターオブジアース。原題ではJourney toがついていますから、地中への旅とでも訳したいところですが、日本では専らカタカナ文化が発達してしまっていて、Center of the Earthをそのままセンター・オブ・ジ・アースと訳してしまっているため、上手く訳せないということが発生しています。カタカナというのは大変便利であると同様、考えることを放棄してそのまま日本に取り込んでしまうので、そこから生じるさまざまな弊害があることは確かです。私は翻訳者でも語学に優れているわけでもないので、訳についての言及はここくらいでとどめて置きますが、カタカナで全てを取り込んでしまう前に、一度熟考する必要があると私は考えます。翻訳家という職業があるのですからそうした部分も彼等には対応していただきたいのです。

-メディアが違う作品の映像化-
さて、ストーリー性はあまり言及しても仕方がないでしょうが、この映画の全体の評価はかなり低いものだと私は感じています。というのも、ジューヌヴェルヌの作品をCGの技術を使用して映像化しているのにもかかわらず、余計なストーリーを組み込もうとするのがいけないのではないでしょうか。作中でも言及されていましたが、「ヴェルニアン」といわれるジューヌヴェルヌの書いたものが本当のことだと信じる人、現在で言えばもう少し広義に捉えてファンとしてでも通用するような気がしますが、には共感を得られない作品でしょう。
というのも、この作品を作ったのは紛れもない「ヴェルニアン」の人々でしょう。誰が作りたくて映画化したのかは知りませんが、製作者の中の誰かがジューヌヴェルヌの小説を映像化したいという強烈な衝動を起こしたのです。ですが、その純粋な情動のままであればよかったのを、そこはやはりお金が絡むことですから、売れるようにと勝手な小手入れが為されてしまったのです。これが作品を大変チープな、大衆向けの平易なものにしてしまったと私は感じます。
ジューヌヴェルヌの作品をそのまま映像化していればかなり高評価が得られたのではないでしょうか。しかし、この作品はいわば新訳とか超訳といったもの。飽くまでも現代版でしか過ぎないのです。そこに無理が生じているのです。何故態々現在にしたのかという理由が全く理解不能。そのままでいいじゃないかというのが誰もの考えでしょう。
そうして科学技術が大きく発展してしまった現在とヴェルヌの描く世界が合致するはずがありませんから、当然ちぐはぐとなってしまったというのが現実ではないでしょうか。
作品の中ではヴェルヌの小説は事実だったとして、過去に地底を訪れた人がいたということになっています。この作品の主人公であるトレバー・アンダーソン。それとその兄マックス、その友人でハンナ・アスゲリソンの父、シグビョルン・アスゲリソンは三人ともこのヴェルニアンといって良いでしょう。どこまでもヴェルニアン視点で描かれているのです。だから我々一般の観客には共感できない。この作品はヴェルニアンの中だけで楽しめるように作られた、いわば身内の作品なのです。広大な世界を描きつつも、実はごくごく狭い世界を描いているにすぎない。だから我々はこれを見終わった後に、スケールが大きい映画だと予想していたのに、そうでもなかったなと感じるのです。

-ヴェルニアンについて-
この作品はヴェルニアンによるヴェルニアンのための作品であるということを上で述べました。それは作品の性質からも窺えるのですが、トレバー自身のセリフからも受け取ることが出来ます。この作品のなかで我々と同じ、ヴェルニアンではない人々はショーンとハンナでしょう。彼らはヴェルニアンのことを頭のおかしいひとだと考えています。しかし、なんということはない、あっさりと地底の世界についてしまうと、トレバーはそれみろ本当のことだったろうといった感じで説得してしまうのです。これにはうんざりという感じが起こります。態々ヴェルニアンという考え方を出してきて、それだけでは平等じゃないからということでヴェルニアンでない我々と同じ現代人を出してきたのにも拘わらず、あっさりと改心させてしまう。初めから我々観客を納得させるためのいわばサクラとして登場してきたに過ぎないということがここで露見してしまいます。だから我々はあーあというため息にも似た不快感を得るのです。
だからどこまでいってもヴェルニアンによる作品なのです。そうして現代におけるヴェルニアンにとってはこの映画はどう映るのでしょうか。作品に対する全ての人間は、それぞれ異なった感情を受けるます。これは一般論を述べていますが、作品に対するそれぞれの印象は、70億通りあるわけです。ですからヴェルニアンだとしてもこの作品に共感できる人はそれほどいないというのが私の考えです。それよりかは寧ろ、現代版という無理な構図を押し付けたがために、私が愛している作品を汚すなという感情が強まるのではないかと考えられます。

3D作品としてはじめて日本で公開されたということがあり、興行収入はそれほど悪くはありません。世界的に見てもまだまだ全てが3Dという作品は珍しいことでしたから物珍しさがありました。3D製作が念頭にあるため、2Dで見ると、やたらとこちら側に飛んでくるものがあり、それもわざとらしさを感じずにはいられません。ここに3Dと2Dとの難しさがあるのですが、やはり何事もわざとらしさはいけない。技(業)というのは隠してこそ成り立つものであり、それがバレバレでは意味がありません。いくら3D製作だからといって、何でもかんでも手前に迫ってくるようなことはしなくて良いはずなのです。そうして点においても残念な部分は多々あります。
ただ、一つ評価できるのはCGを効果的に使用したために、幻想的な世界観が描けていることです。ラッセンの絵画のようなグラデーションがこの作品の質を何とか保っているという感じがしないではないですが。
ストーリー性も大変チープ。本来小手先だけのストーリーと付けられたということもあって、兄を亡くしトレバーと、父を亡くしたショーンの男としての成長を描いたつもりでしょうが、全く成功しているとはいえません。冒険を描くのか、成長を描くのか、それは二時間の中にはとても納まりきらないテーマですから、無理に何かを付随させようとすると自然とボロが出てきます。

-終わりに-
せめて三角関係を作って、女性の為に仲間をこのまま見殺しにするか助けるかとかいうようなことを描いてもよかったのではないかと私は感じていますが、それを描くにしてもやはり冒険が主流であれば、邪魔にならざるを得ないかとも思います。
とにかく現代版にするのであれば、もっと根幹からの変化が必要であり、この作品は実に中途半端というのが分析した結果得られた答えでしょう。ヴェルヌの作品を描くならば、できるだけそれに忠実に、違うものを描くなら、下敷きとしつつも違うものを描くのだという気持ちで作らないと作品は成立しません。これでは単にヴェルヌのファンが自己満足のために作成したとしか言いようがないのです。
トレバー・アンダーソン:ブレンダン・フレイザー
ショーン・アンダーソン:ジョシュ・ハッチャーソン
ハンナ・アスゲリソン:アニタ・ブリエム

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

幽玄

Author:幽玄

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
203位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
15位
アクセスランキングを見る>>
フリーエリア
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。