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映画「恋はいつもアマンドピンク」への試論 感想とレビュー 80年代作品を考察

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-初めに-
今回はちょっと変わった映画を論じて見ましょう。赤星たみこ原作の同名漫画が原作。その映画化がこの作品。松竹から1988年に公開されました。80年代のアニメ映画を追ってきているうちに、他の80年代の作品も見ておきたくなり、偶々放送していたのを見てみたのです。映画を見ただけで原作がどうであるかはわかりませんが、恐らく面白いのだろうという予感がします。
痛快のコメディ映画としての側面があり、それらはどうして笑えるのかと考えると、人間についての深い洞察があるからなのだろうと私はおもっています。80年代という時代だからこそ現れ出る人間の側面というものを追って行きたいと思います。
ウィキペディアもないので、あまりメジャーではないのでしょうか。

-自己からの脱却-
恋愛がもちろんメーンテーマですが、どこか飄々とした人間への愛着と、それを小ばかにしたような印象があります。人間性といったものを愛していながらも、それを誇張して描いて面白おかしくしている感じ、人間が大好きすぎる製作者自身による照れでもあるのではないでしょうか。
主人公はよくある冴えない女性。その女性が恋に目覚め、その成功を追っていくというありふれた話形です。何が違うかというと、他の物語では全く考えられないような、主人公の取り巻きの状態があまりに異常だということです。自分の父親は自分より若い女と再婚し、家庭内がなんとも大変な状態。通常のこの形の話では、友人たちの熱い応援やサポートがあり、それらが時には失敗を招いたりして大変なのですが最後には意中の人と結ばれるという形です。周りの人間はあくまで主人公の見方であり、たまに悪役が出てくる程度なのです。ところがこの作品では周りに協力してくれる人がいないといっても良い。いないどころか家に帰れば自分より若い義母がまっていて、様々な問題がある。これはその閉鎖された空間からの脱出であると同時に、過去の自分からの脱却でもあるのです。
初めは恋に芽生えたことによって、大変地味で、社内ではオールドミスと悪口を叩かれていた樋口可南子演じる松本よき子が、女性らしく変化していきます。彼女自身もそれが楽しくて仕方がないよう。化粧を覚え、エステに通い、新しく洗練さらた服を買い揃える。言葉通り、全く別人となった外見を手に入れるまでになったのです。
映画ではこれが殆どを占めているように思えます。しかし、実はそれは本当の新しい自分になったということではなかったのです。恋人広野の自分たちのことを友人に話していてしまったことに幻滅し、二人は別れてしまいます。すると今までとは逆戻りで、冒頭の冴えないよき子に戻ってしまうのです。そうして最後には家族にも邪魔者扱いされ、アパートを持つことを決心します。
ここではっと気がつかされたことは、外見をいくら見繕っても人間の本性は変わらないということと、本当に変わるためには、困難を乗り越えて、自分をきちんと見つめた時に、自分によって導き出されるものなのだということなのです。そのような視点でみると、古巣からの飛び立ちを描いている一人の女性の成長を描いた作品としても解釈することが出来ます。

-心の通い-
ただ、面白いのですが、実際にこんな家庭があってたまるかよというのが正直なところ。でもそんなごてごてのフィクションなのにも拘わらず、どうもリアリティーを帯びているのです。自分より若い娘と結婚してしまう父によき子は一体どのような感情を抱いているのでしょうか。物語の中ではそこにはあまり触れられません。最後に自分より若い娘なんかと結婚するからよと非難する場面がありますが、それ以外では父を攻撃することはないのです。
よき子は主人公でありながら、その性格もあいまって一体なにを考えているのかを我々は知ることができないのです。これは最後のシーンまで貫徹されます。広野が再び追いかけてくる場面で映画は終わりますが、彼女は振り返っておしまいですから、やはりここでも彼女が何を考えているのか判然としません。どうも私はこの作品にはよき子の内証を黙殺しているような力が働いているように感じられるのです。それは社会的にもそうですし、家族との間でもそうなのです。一貫して、表面上では彼女と付き合いながらも、こころだけは隔てているという感じがあります。恐らくこの心の隔たりというのは双方向的なものでしょう。初めがどちらからかはわかりませんが、周囲の人間が彼女を煙たがるのと同時に、彼女もまた周囲の人間を煙たがっているのです。こころの交流がない世界なのです。これはもしかしたら80年代の社会性をあらわしているのかも知れません。
そうすると、どうして広野が友人に自分たちの関係のことを少しこぼしたくらいであそこまで立腹するのか謎だったのが、解けてきます。彼女は唯一広野とは心のやりとりが出来たのです。彼がはじめて自分が心を開けた人間だったのですが、しかし、彼は彼女に心を開かず、あろうことかよき子にとってはあっち側の世界である、広野の友人たちと心のやり取りをしていたのです。ですから自分だけが心を開いてしまって、相手側はそれを馬鹿にしているのだと感じるほどにはずかしくなってしまったのです。自尊心の問題でもあるでしょう。

-終わりに-
不思議な世界観だなと恐れ入ります。描かれていることはなんとな分るのですが、どうしてこんな世界になったのかという部分は私たちには知りかねるところです。私たちはもう完成された世界で動く主人公たちしか知りえないのですから、その世界がどうして構築されたのか興味がわくのです。
最後の大喧嘩があってからが描かれていないので、父と義母はその後仲良くやったのでしょうか。非常に突然すぱっとナイフで切られたような唐突な終わり方をされたので、私は大変驚きました。余韻が残るというより裁断されたことのショックのほうが大きいほどです。
相当濃密な世界観が強烈な印象となって残るのですが、よく考えるとミクロコスモスを描いた作品なのです。どうも80年代というのは極端に外界に向かっていくか、極端に内面に向かっていくかの二極が明確にあるようです。それが90年代になると、中間的な規模の作品が多く登場する。そうして00年代ではけいおんに代表されるような、近くの小さな世界が大人気になるのです。そうするとAKBが何故売れるのかが分るのですよね。親近感を覚えられるからです。
映画としては、まあまあの出来、変なのと思いながら楽しむのには十分です。樋口可南子の演技が大変シュールで面白い。

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