映画「プリティーウーマン」への試論 感想とレビュー さまざまな話形から考察する

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-初めに-
『プリティ・ウーマン』(原題: Pretty Woman)。1990年公開のアメリカ映画。リチャード・ギアとジュリア・ロバーツが主演するロマンティック・コメディ。ロイ・オービソンの『オー・プリティ・ウーマン』が主題歌がとくに有名ですね。
今からもう20年以上も前の作品になってしまいましたが、作品はまだ色褪せていません。見ていて何ともたまらなかったのが、リチャードギアが若くて格好よかったことです。今でも格好いいですが、日本ではなんだか『ハチ』やオレンジーナ?のCMでチープな役回りがおおかったため、かつての栄光が・・・。
大変面白い映画です。何故面白く感じられるのかを分析してみたいと思います。

-社会的地位-
この物語には実におおくの話形が散りばめられていて、それをひとつひとつ取り上げていると大変な労力になってしまいますから、私が出来る範囲のことしか論じません。例を挙げてみると、これから書く他者性と理解の問題と身分違いの恋の話形、シンデレラストーリー、娼婦の問題、人間性について、外見と社会的地位とか様々であります。
それらが渾然一体となっている点、それらを押し付けがましく露呈しない点が我々に道徳的な感情を引き起こさせることなく、作品を楽しめる理由なのだろうと思います。
この作品は実にさりげなくですが、身分についての大変深い問いかけが為されています。主人公たるジュリアロバーツ演じるビビアンは娼婦です。娼婦が主人公になるという作品は多々ありますが、この作品ではいわゆる社会的地位の低い世界はあまり描かれません。冒頭でいくらか描かれましが、汚い部分をこれでもかと見せるような作品ではありません。お上品なのです。
最もこの作品の全体はかなり高い地位にいる世界が舞台です。そのせいもあるでしょう。リチャードギア演じるエドワードは会社の社長ですから、社会的に言えば最上にいる人間です。ホテルも最上階が舞台。
ですから、ビビアンの視点でみればシンデレラストーリーとなるわけです。ところが、シンデレラではこの高い地位に上がった瞬間に全てが上手くゆきますが、このビビアンはあがってからが試練。ホテルの中では彼女が普段着ている身なりでは白い目でみられ、皆に忌み嫌われます。服を買うことにしても、店員がお前にあうものはないから出て行けといいます。これですっかりまいってしまうビビアンですが、エドワードの苦心によりなんとか洗練されるようになるのです。
彼女自身が後半、友人であった娼婦のキット・デ・ルカにもこぼしているように、お金で洗練されただけだといっています。これは心理を突いた言葉だなと私は感じました。結局は社会的地位が高い人間は、自分の経済力によってのみでしか、自分を保つことができないのです。ですから彼らは自分たちの身分が犯されないように、高級なものを使い、高級なホテルに泊まり、社会的地位の高い人間としか交わらず、社会的地位の低い人間に対しては目の敵にするのです。
この作品ではエドワードが一種の無頓着からそうした社会的地位のある人間の性質をもっていません。ですからビビアンとの関係が成立したのです。
こうして考えると、社会的地位が高い人間に対する警鐘とも見て取ることが出来ます。本当にお前たちは偉いのか。どうして偉いのか、人を見下すことが人間に出来るのかということです。

-他者理解性-
この映画でもう一つ見られる重要な事柄は、他者を理解するということです。他人を理解するというのは、結局は自分の中に作り出した相手の理想の像を理解するということに過ぎません。自分のなかに勝手につくったものを理解するのですから、当然本人とはずれが生じます。そのずれがどうしてだ、こんなはずではという不和の元になるのです。
この映画では、人が人を理解することの難しさについて言及されています。社会的に身分が全く違う両人ですから、当然普段の生活や対人関係が全くことなります。そんな二人が、何とかお互いのことを理解しようとする姿に心打たれるのです。
ところが、このエドワードという男、相当理解能力に欠けた男で、過去二度も妻と別れています。彼は父のために、自分の心に強い殻をつくってしまい、そのために他人との深い関係をもつことが出来ないのです。心の交流がないから、相手のこともよくわからない。だから度々出てくるのですが、じれったいほどビビアンの望みがわからないのです。どうしたいのか直接聞かなければならないのです。
一見すると、ビビアンがエドワードのことを一生懸命理解しようと彼に合わせているようにも思えます。事実彼女は献身的に、それはお金の関係がじょじょに崩れてきて、彼に恋をしてしまったビビアンの心情変化にもよるものですが、彼を理解しようと努めています。ですが、最後のくだりを見ると、やはりエドワードもビビアンを理解できたということなのではないでしょうか。彼女のことを理解できないまでは、何を求めているのかわからない。だから別れるほかない。ですが、彼女とわかれてはじめて彼女を理解できたとき、それは心の殻が丁度われたときと同じ時なのですが、彼女の望みを理解でき、ハッピーエンドへと向かうのです。
このように見てみると、この男は相応嫌な男に思われます。過去のことから自分に殻を作って閉じこもり、相手を理解しようとしない。彼の会社は他の会社を買収して解体してしまうことを職にしている。娼婦の女を自分の愛人にする。
それが何故かこの作品では爽やかな風のように描かれています。何故かと考えたのですが、これはリチャードギアの演技力と、彼の持つイメージが原因でしょう。ハンサムで、爽快といったようなイメージを持つリチャードだからこそ成し遂げたことなのです。ですからこれは彼にとっても自分のイメージとマッチした、またこれによってそのイメージが増強されたマスターピースとなった作品ではないでしょうか。完全なフクションで全くリアリティのない話ですが、自然と我々はこの作品を享受できるのです。それは役柄が我々のもつ俳優のイメージと合わさっていたからなのです。

-最後に-
これはエドワードの成長を描いた作品としても読み解くことが出来ます。いわば、彼はまだ未成熟だったのです。心理学的に考えると、エリクソンの発達段階によれば、彼は父の不義のために基本的信頼感を失っているわけです。ですから人との交流が上手くできない。それがビビアンという女性によって次第に信頼感を獲得する。今まで自己吸収的な存在だったのが、生産性を身に付けて、会社の買い叩き、解体といった破壊的な行為ではなくて、共同で仕事を行うという生産的なものへと転化したのです。
エドワードも立場が逆ではありますが、シンデレラストーリによってすくわれた一人なのです。双方が救われる、この映画はそうした心地よさがあります。ですから大変面白く、爽快感が満ち溢れているのです。夏の映画に是非どうぞ。

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