映画「愛人/ラマン」への試論 感想とレビュー 物語構造から、少女の解放性

LAMAN_L.jpg

-はじめに-
『愛人/ラマン』(L' Amant)は1992年に製作されたフランス、イギリス合作の恋愛映画。ジャン=ジャック・アノー監督。1984年に出版されたマルグリット・デュラスの自伝的小説が原作です。
タイトルのラマンという名前の愛人が出てくるのかと思ったらそうではありませんでした。ラマンというのはフランス語で愛人や恋人といった意味だそうです。ですから、このタイトルはラマンだけでは分りにくいだろうからという日本の映画広告部が愛人というタイトルもつけてくれたのでしょう。ただ。そうした結果余計に分りつらくなった部分があることも確かです。翻訳とは実に難しい分野です。
ロリータ映画の最高峰なんていう太鼓押しがあったものですから、ひねくれたもので、実はつまらなかったりしてという反抗的な感情が多少ありましたが、見ているうちに引き込まれてしまいました。今回はその人を引き込む内容、構造を分析してみたいと思います。

-物語り構造の斬新性-
この映画は一貫して現在から遠い過去を振り返るという一人称回顧型の作品です。大抵の場合、先ず初めに現在があり、そうして回想、現在といったサンドウィッチ構造をしていますが、この作品では珍しく、過去の回想だということはわかりますが、最後になるまで現在は描写されません。
結論からいうと、この主人公である少女が老婆となった状態で回顧しているのですが、作品の内容からいって、かなり激しい性描写がありますが、その少女が実はあの老婆の昔だったのだという不快感を与えないための配慮なのかと私は感じました。これは少女をその時間、空間に押し込めて保存しようとする運動のひとつなのでしょう。
しばしば見られるのは、純潔、処女の少女の保管です。ただ、この作品はそのような純白性はすぐに失われてしまいます。この作品が保存、保管に向かったのは、愛人との性愛、濃密な体と心の関係なのです。そうした面からみてもこの作品は今までのよくあるパターンから大きく逸脱している作品として考えてもよいでしょう。
さらに私が驚いたのは、通常こうしたロリータ物語は、保存したい主体である男性側が主人公となって描かれるということに対して、この作品ではその反対の少女の側から描かれているという点です。これはもちろん語り手が老婆なわけですから当然といえば当然ですが、老婆が語るということにやはり意味があるのでしょう。通常ならば老人となったおじいさんが語ってもよいわけで、むしろ老婆が自分のかつての性交など語りたくないのが一般的でしょう。
さらに、人種の問題がありますが、これもまた他の作品では考えられないような構造です。普通は金持ちの男と貧しい女ですが、圧倒的に男性のほうが有利であります。ところがこの作品では、この構造こそ同じものの、フランス領支配下での中国人青年とフランス人少女なのです。フランスが支配している地においての話ですから、いくらこの青年が裕福であっても中国人というだけで馬鹿にされるのです。
ここで明らかとなるのが、男性からの圧倒的な力による支配、保管ではなく、少女の視点からの物語を構成することによって、少女の自由性の確保、男性からの解放を描いているということです。

-物語りの下敷き-
映画「オーケストラ」で散々批判したのは、物語の下敷きです。これを観客にあからさまに見せ付けていたから私は酷い映画だと酷評したのです。ところがこの映画を見てみると、大変重要なことがらを下敷きとしていながらも、それを殆ど感じさせないように、映像のみの力によってさらりと写し取ることに成功しているのです。
例えば、人種についての問題。上で通常とは正反対の立場にあると述べました。フランス人のほうが圧倒的な力をもっているのですから、この中国人の青年を警察にでもなんでも売ることだって出来たわけです。そのくらい有利な立場に少女は立っているのです。
中国人の青年がいくら金持ちだと言えど、平等すら保てて居ません。少女の家族と共に食事をする場面が後半にありますが、この青年は完全に無視され、あざ笑われます。
では何故この少女は青年との性交を続けるのかという問いになってきます。これが最大のテーマであり、この物語のメーンでもある金と愛に繋がるわけです。この流れの作り方が極めて鮮やかです。最後の最後になってようやくあれ、もしかしたらお金のためではなかったのかもと気がつき始めるのですが、それまでの映画殆どにおいて、この物語の登場人物は全員この二人の関係をお金のための関係だと割り切っています。当の本人たちもお金のためにやっているんだと出来るだけ納得しようとしているのですから、最後にやっと自分たちの本性に気がつくことが出来る場目は、我々観客のもっとも心奪われる部分となります。
他にも周囲の関係性があります。青年は金持ちですが、父親の財産のために力があるだけであって、本人は自覚しているように無力です。彼は父親には決して逆らえないのです。父は少女との関係を絶てといいます。逆らってもいいものですが、そうするとお金がありません。お金のための関係だと思い込もうとしている二人には、金がなくなれば関係性を保持できなくなるということになります。ここにこの作品の描いた大変複雑なジレンマが隠されているのです。
青年は地の縁といった慣わしや、慣習に縛られている人間です。社会にはりつけにされているといっも良いでしょう。自由はあるようでないのです。一方少女は行き詰りつつある家庭ですが、まだ一つ自由の道が残されています。それは本国フランスへの帰還です。
もちろんお金のない状態ですからそんなことは出来ませんが、しかし、少女と青年との関係は、この問題を解決してしまうのです。要はお金を貰うことによって、かえることが出来るようになってしまうのです。
ですから、この物語は根本的に成立するはずのない人間同士がくっついてしまったがために生まれたストーリーなのです。この最初から破滅が分りきっている関係性を何とか保持しようとして、保存が試みられた、それが我々が見ているこの映画だということになるのです。
この初めから破滅が約束されているものには、はかなさ、無常といった憐憫の感があります。それを何とかという人間の非常に強い力、性愛によってとりつなごうとしているのです。ですからはかなさのなかに濃密さがある。激しさのなかにむなしさがある。
こうしたジレンマが我々の心を揺さぶり、引き込ませてしまうのです。

-おわりに-
以上のことらか考えてみると、ロリータ物語の話形に組み込むには無理があるのではないかなと思います。そもそも主人公は少女の側ですし、ロリータ物語は男性による少女保管なので、反対ですね。
分類なんていうものはこの際大して意味を持ちませんが、この作品は、上で論じたようにこの上なく難しい問題をさらりと組み込んでみせています。この技術のすばらしさは脱帽ものです。
また、少女を演じたジェーン・マーチ、青年レオン・カーフェイ等の俳優がとても演技が上手いのです。性描写はかなり激しいですが、よく撮ったなと思います。実際にこの映画を撮影するにあたって、関係上愛人になるのですから、必然そこにリアリティが現れてきます。
是非これは多くの人に見てもらいたいすばらしい作品であると、自信を持って推薦します。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

幽玄

Author:幽玄

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
233位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
16位
アクセスランキングを見る>>
フリーエリア