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怒りの宣言 競技柔道の形骸化と死 オリンピックで「柔道」を行うのは止めよ、でなければ「柔道」と冠するのを止めよ

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-はじめに-
私は社会を批評する人間でないとともに、スポーツジャーナリストでもありません。ただ、一人の小さな文藝批評家、芸術家、作家として、あまりにも看過できない現実を見てしまった以上は、私のこの小さな宣言文も役に立たないことはないと感じ、ここにその怒りを表明します。
ここ数日、特に本日7月29日の柔道の試合を見て、私は怒り心頭です。ここまで考えなくとも、違和感くらいは覚えた方が多いと存じます。いままで学校などで習ってきた柔道との差、いままで見てきた柔道の試合との差。私のこの怒りは、今後の競技としての柔道の現実を見つめ、未来の展望へと活かされることを願って書くものであります。
もはや、柔道は死に絶えました。現在私たちがテレビで目にする世界は、もはや、世界的な質をはるかに低下させた、プロレスもどきのお遊戯です。「柔道」ではなく「JUDO」に成り下がったのです。
私の怒りは正当なものです。ただ風前のともし火の如く、感情に任せた怒りではありません。よきものが、わるきものへと移行しつつある。質の低下と、もはや権威の失墜してしまった審判の存在に対する怒りなのです。

-柔道の理念-

小さい者が大きい者を投げ飛ばす。「柔よく剛を制す」という思想が示すこのアクションこそが柔道の醍醐味です。創始者の嘉納治五郎が柔術を学び、それを独自に改良し、武道としての精神的な道を確立させ、柔道が誕生しました。理念は「精力善用(※1)」と「自他共栄(※2)」というもので、社会や周囲の人たちに対して、自らの心身がどうあるべきかを示したものです。それを柔道に打ち込むことによって学ぶことが大切だと考えられています。

現在では世界中に広まり、オリンピック競技としても発展し、日本が強さを誇れるスポーツとしても有名です。

※1精力善用・・・自分が持つ心身の力を最大限に使って、社会に対して善い方向に用いること。
※2自他共栄・・・相手に対し、敬い、感謝をすることで信頼し合い、助け合う心を育み、自分だけでなく他人と共に栄えある世の中にしようとすること。

http://iroha-japan.net/iroha/C02_sports/05_judo.html

現在の柔道では、このような理念が微塵も感じられません。仮にも「柔道」という名称を冠して競技を行っているのであれば、出来るだけその理念に従い、尊重するのが当然といえます。もちろん古典的なものにただ従順であればよいというものではありません。現状と合わなくなってきた思想、原理があれば、それは改訂されるべきでありますし、変化していくのが理念でもあります。
しかし、この柔道の最も根幹となる部分。嘉納治五郎が苦心して築き上げたものを踏みにじり、侮辱している現在の競技柔道には心底うんざりしました。「柔よく剛を制す」は、この「柔道」においては切り離すことは決してできません。
この理念に従っていたのは、あの谷亮子選手だったでしょう。彼女があの小さな体で、長身の外国人をばったばったとなぎたおし、体格さをもろともしない強い柔道を見た際に、日本人は感動をもって拍手を送りました。しかし、その谷選手も何をとち狂ったか、選手から議員へと転身しました。もはや、この時点で選手には現状把握能力や、先を見通す能力、周りにながされない自己を保つ精神などの欠如があると考えられます。
さて、話を元に戻しますが、現在の試合では、先ず組まない。これは次のルール改正の部分で触れますが、組もしないのですから、相手の力を利用するもなにもあったものではありません。初めから剛同士の戦いになっているのです。
もはや柔道という名を冠する必要はありません。どうしてもその理念とは全くことなることを行うのであれば、「柔道」という競技を止めて、新しい名称をつける必要があります。


-ルール改正-

改正案によると、「一本」「技あり」「有効」「効果」の4段階に分かれている技の判定基準のうち、「効果」のポイントを廃止する。また、最近はタックルなどでポイントを稼いで逃げ切る柔道が急増していることから、組み手を両手で持たないまま、タックルや朽ち木倒しなどの技で下半身に攻撃した場合は「反則」とする方針だ。
 日本サイドは、「柔道本来の攻防を復活させる」として基本的に受け入れる方針だが、現場では「いきなり北京からは早すぎないか。選手も混乱する」と心配する声も出ている。
 このほか、試合時間の短縮を目的に、5分間の試合が終了した時点で両者同ポイントの場合は最初に旗判定で優劣を決し、3―0の場合は終了、2―1と分かれた場合は、ゴールデンスコア方式の延長戦に入る案も提案される。

柔道の「効果」廃止、タックルは禁止…北京五輪から採用も : エトセトラ : スポーツ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

ルールとは確かに変化され、よりよいものへと生まれ変わるべきものであります。ところが、現在のルールのめまぐるしいような変化には、そのような概念は微塵も感じられません。変化の理由が、審判をする側の都合、委員会側の都合にしか思えてしょうがないのです。
さて、このことによって惑わされ、迷惑を被るのは、他でもない選手たちです。本来ルールはこの選手たちを保護し、公平、公正な競技を行うためのものです。それがいまとなっては本末も転倒し、ルールに選手が合わせていくという状態なのです。
このようなご都合主義で、しかも熟考されていない未熟なルールがころころと変われば、当然その抜け目が生じます。そのため、ルールによって全く試合が変わってしまうのです。これが最も、この柔道の質が低迷した原因であろうと考えられます。

このため、現在の試合では、殆ど組むということをしなくなりました。これは大きな変革です。今までの柔道は、組み方を何度か変えることはあったにしても、先ずは組んで、そこからどう技をかけていくかということになっていました。
ところが、現在は組むことをしない。組むために5分の殆どを使用して、ちょこまかと動き回っているさまは、大変醜いものです。このいわば猪口才(ちょこざい)な動きばかりが目立ってしまいます。
そこで登場するのが、もはや形骸化した審判による「指導」というものです。


-反則-
反則はその度合いにより「指導」「注意」「警告」「反則負け」に分けられます。「指導」は「効果」と、「注意」は「有効」と、「警告」は「技あり」と、「反則負け」は「一本」と同等の効果を持ちます。技の効果とは異なり、「指導」2回で「注意」、「注意」+「指導」もしくは「注意」で「有効」というように、積み重なると反則が重くなります。
http://www.sportsclick.jp/judo/facility/ SportsClick:柔道

正当な柔道を行わなくなった選手たちは(ルールによって出来なくなったという部分が強いが)、何に走ったかというと点取り合戦であります。精神と一体となった柔道はもはや完全に駆逐され、ポイント制の極めて単純で、全く内容のない質の悪いものへと変化しました。
組をしない選手たち。その原因はルール改正に重く影響されていますが、それでは試合が進むわけもなく、審判は度々「指導」という行為を繰り返すことになります。この「指導」というのは実に不思議なことであると私は感じます。どうして、試合の途中で、このように審判が試合を変えることが出来るのでしょうか。審判は、試合を行っている人物ではなく、試合を行っている人達の優劣や、勝敗を判定する存在です。試合はあくまでも選手によって行われているのです。
組がなかなかされないと、審判は即座に「指導」と称して、サッカーでいうところのイエローカードを出します。この時点で大分おかしいのですが、審判が全て試合の流れを変更できるのです。
もはや、競技を行う人間としての選手の存在は抹殺され、審判による出来レースが行われているといっても過言ではないでしょう。特に著しいのは、「一本」と判定したものが、即座に打ち消されることです。勝利を確定しておいて、即座にそれを否定する。これは過去にはありえないことでした。こんなことがあれば、会場は騒然となったことでしょう。しかし、現在では全く平然として、即座に判定を覆す。これは結局審判自身が自分の首を絞めていることに他なりません。自分たちが決定したことがらは、大変軽んじられるものであって、すぐに変更できます、といっているのと同義なのです。
審判自身がもはや審判されなければならない時代の到来を意味しています。

29日に行われた、柔道男子66キロ級準々決勝。5分経ったものの決着がつかず、審判は初め韓国選手に旗3本を挙げました。ところが、その判定に会場から大ブーイング。当惑した審判たちは、審判委員(ジュリー)から異議を申し受け、もう一度フラグ判定を行うことに。すると、今度は海老沼に旗が三本挙がるという事態になりました。
これは一体どういうことでしょう。審判はもはや審判ではなく、ただの上司の命令に従うだけのサラリーマンなのであります。上司の審判委員が実際に審判をしているのです。
もはや審判はいてもいなくても変わらない存在に成り下がったどころか、連発する「指導」と、すぐに打ち消す判定によって、選手たちに多大な迷惑をかけるどころか、試合を操り、酩酊の極みまで迷走しているのです。

-おわりに-
この愚かしく全く無駄であるどころか、人に尽くすための競技を人を不愉快にさせる競技として発展させた委員会の連中には、もはや辞めてもらうほかありません。これ以上、柔道という、仮にも「道」という高尚な言葉が冠されたものを、侮辱するのは止めていただきたい。もし嘉納先生が存命であったならば、ただごとではなかったでしょう。嘉納先生が居ないからといって、その理念、思想を軽んじるのは、歴史から何も学ぶことの出来ない無能な人間の所作であります。
早く、この柔道という競技の中止をするか、柔道という名を冠するのをやめていただきたい。もし柔道をこのまま継続して行うというのならば、ルールをきちんと制定し、審判にも徹底的にその職務を果たさせるべきです。
柔道は確かに競技という面が、国際化に伴って強くなりました。しかし、道という言葉が表す理念を忘れてはいけないのです。そのことを選手並びに、審判、委員会の皆様方には理解していただきたい。
現在の試合が本当に低俗の極みであるということを自覚しなさい。

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「本来の柔道」にこだわる人が、現行のものとは別の連盟を作って国内だけでやってればいい。
日本柔道は自ら国際競技化の道を選んだ。一方で日本選手は武道の精神も忘れずに・・・ではあぶはちとらずになる。
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