アニメ映画「地球へ…」への試論 感想とレビュー 80年代の映画、そこに描かれているものを読み解く

g141.jpg

-はじめに-
「地球へ(テラ)・・・」は竹宮惠子による日本のSF漫画作品が原作。この作品もまた派生が多く、それらとの比較研究も深くなされているようです。アニメ映画はこの作品の最初の映像化。1980年公開。
この表題ですが、単に「地球へ」ではなく、「地球へ・・・」としているところがまたいいですね。三点リーダーを表題に使用するということはかなり珍しいものです。そうすると、タイトルから余韻が既に生じている。我々はタイトルを見ただけで。地球へ何をしに行くのだろうか、では現在私たちはどこにいるのであろうか、われわれは地球人ではないのかなど想像が膨らみます。地球という規模の大きなタイトル、そして余韻。タイトルが非常に洗練されています。また、近年リメイクされたことでも有名になりました。

-世界観-
内容は、地球で人が住めなくなったため、人類はコンピュータの完全な支配化の下に理性のみの生活をして、地球の自然の力の回復をまっている状態です。その機械化された人類とは別に、主人公が属するようになるミュウという種族があります。これは新人類といって、人類とは兄弟のようなものなのですが、人類より肉体的に不具が多く、そのかわりテレパシー等の超能力に卓越した種族です。この二つの種族が共に地球での生存権を争うという話。
地球の周辺で、完全に機械によって管理、支配されている人類というのは手塚治虫のマンガ「火の鳥2772 愛のコスモゾーン」と非常によく似ている設定です。しかもこの作品の公開も1980年。二つの似通った作品が殆ど同時上映されているのです。そうすると、どちらかが影響を与えたということよりかは、このような思想になっていく社会の流れがあったと案がえられるのではないでしょうか。
人類は理性のみのよって暮らすことができる。出来るというよりかは、むしろその方が理想的であるということなのです。人間は自然には生まれないのです。それはこの作品「地球へ・・・」でも大きく取り扱われていますが、自然出産ということが重要になってきます。この二つの作品の出発点は、もう人間は人間を産まないということなのです。お腹を痛めて生む必要がない。しかも、試験管ベビーだから優秀な人間のみを選んで作ることが出来るのです。
生まれたと同時に殆どの人間の将来は既に決まっているのです。ある年齢になるとテストを受け、定まったコースにそって、定まった人格を作られ、社会の歯車として作られる。
これは機械が極端に発展した結果どういうことが起こるのかということを当時の人間が色々考えた上での究極の形になるのでしょう。そこには、争いや諍いはないのです。皆理性によって生きているのですから、そのような感情は生まれない。恋愛でさえも、元からコンピュータによって配偶者が決められている。しかも何のために我々人間が恋愛をするのかというと、子孫を残すからです。その子孫を残す必要がない、人間が子どもを生まなくても機械が全てコントロールして作ってくれる。作中でも言及されていますが、自然出産は常識では考えられないといったほど非合理的なことなんだそうです。
この作品では、はじめて人間が機械に支配されてからの人口出産によって生まれた子どもたちが重要になってくるのですがね。

-類似作品との比較・人間愛-
この作品が、そっくりの設定の「火の鳥2772 愛のコスモゾーン」と違うのは、もう一つミュウという超能力の種族がいることです。この種族はしかし、人類からうまれるのです。それは人類を支配しているグランドマザーというコンピュータに初めから地球の意思として組み込まれていた機能だということが最後に明かされます。人類とミュウは敵対しています。では何故ミュウが人類から生まれてくるのか、全てを管理しているコンピュータであればミュウが生まれてくる因子を取り除けばいいじゃないかということなのです。しかし、それは地球の意思である。
最後にその地球の意思が、人類の代表であるキース・アニアンとミュウの代表であるジョミー・マーキス・シンへ語るのです。人類からミュウが生まれるように仕向けていたのは自分であると。そうして人類とミュウのどちらが勝って地球にすむのか競争させたと。これは端的に言えば、二元論なのです。この状態の人類は超合理化主義、理性のみの生物。対してミュウは体は不具ですが、そのため精神が極端に鍛錬されて生物。今の我々は合理化と精神、感情という両方を持ち合わせています。次第にこのどちらかが邪魔だということになるのが大抵のSFの話なのだと思いますが、この作品ではそれが最後に共存するというところに落ち着いています。
人間は人間らしくないといけないと最後にジョミーは言うのです。これは機械主義、合理主義への警鐘とともに、深い人間愛の両方が含まれていると感じます。機械は確かに便利です。便利ですが、それがいきすぎると我々が機械に使われている状態になってしまうのです。人間は自分たちでできることさえもめんどくさがって機械にやらせてしまう。確かに楽です。しかし、それを推し進めていくと、結局人間はいらなくなってしまうのです。存在する理由がなくなってしまう。それでは本末転倒なのです。ですから人類は自分たちで出来ることは極力自分たちの力でやらなければいけないのだと私は思います。
それからやはり人間愛。この年代の作品は実に様々な視点から人類へ対する大変深い愛情が篭っていると気がつき始めました。経済へのあまりの過信、そのためのバブル、それをみこして、人間とはという本質を深く考えていたのでしょう。
人間らしさの条件として愛が必要だとジョニーも述べています。愛があれば憎しみも生まれます。しかし、だからといって、憎しみが生まれるからといって愛までも消してしまうことはしてはいけないのです。
様々な困難があり、非合理的であっても我々は生きていかなければならない。つまるところ強く生きていくことになるのだと思います。だから80年代の作品にはそのことが色濃く描かれているため、感動的で、どこか奥が深いのです。人間のもっている温かみというものが前面に押し出されるからです。

-おわりに-
この作品は、人類とミュウの自然の子が第三の種族として生まれたことを示唆しています。最終的な和解までには多くの人類とミュウが滅んでしまいました。しかし、最後にはそれを土壌にして新しい生命が生まれる。ニーチェのいうような超人が生まれるのでしょう。
私たち人類は、昔から何も変わってはいないように思われて仕方がありません。これだけ先人に学ぼうとして歴史を発達させて、多くのことを学んでいるはずなのに、まるでそれがなかったかのような愚かなミスを犯します。前進してるどころか、昔のほうがよかったのではと思われてしまうほど。ですが、やはりこの作品に習えば、私たちは前進し続けなければいけないのでしょう。その先に何がまっているかはわかりません。その間には多くの苦難と困難の連続。人類の殆どが消滅してしまうほどのことだってあるかも知れないのです。ですが、それでも希望を持つこと、それをこの作品は私たちに提示してくれているのだと思います。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

幽玄

Author:幽玄

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
247位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
17位
アクセスランキングを見る>>
フリーエリア