スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ダニエル・キイス「アルジャーノンに花束を」への試論 感想とレビュー 今若者に最も読んでもらいたい小説 心理学的視点から読み解く

o0480064311198999237.jpg

-はじめに-
以前から書こう書こうと思っていたのですが、とてもすばらしく論じるのが困難なため、つい先延ばしになっていまっていました。今回はダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を」を論じます。
この作品はとにかく、出来るだけ多くの人に読んでもらいたい作品です。というのも、実に様々なことを私たちに考えさせてくれるからです。恐らくこれらにことは、一人ひとりによって意味も価値も異なるとは思いますが、しかし、何かしらを考え学ぶことのできる大変稀有なテキストとなります。
ダニエル・キイスは1928年生まれで、ご存命の作家です。さて、私が読んだのはダニエル・キイス文庫から出たものですが、そこには日本語版文庫への序文としてキイス本人からのメッセージが記されています。初めは作品の内容も知らないのですから、一体何をイワンとしているのかちょっと分りかねますが、一読した後もう一度読むと、そこにはキイスの人間性が垣間見えるように私は感じました。彼の人間への暖かさ、それと同時に知能の遅れた人間に対する周囲の冷たい反応への正当な憤り。大変正義感の強く、そうして人間愛の豊かな人なのだと、ここから読み解くことが出来ます。

さて、心理学というものは、フロイトの精神分析が有名であり、実際19世紀ごろから徐々に発展してきた学問です。私は専門化ではありませんから、一般論になりますが、しかし、精緻な研究がなされているのは割りと現在からそう遠くない時期です。つまり、1900年代の後半から様々な実験様式や、体系化がなされています。
この作品を見てみると、初出が1959年です。この「アルジャーノンに花束を」はキイスの代表作であると共に処女作であり、中篇を出した後、長編にしたという経緯があります。長編でも1966年ですから、そうすると、現在大学で学べるような体系的な心理学はまだ完全に整ってはいないであろう時期に出た本なのです。
ここから考えてみると、現在心理学で学べる様々な学習に関することなどが、いっぱい詰まっているということは、一重にダニエル・キイスの先見性と、その学術的にも価値ある作品であることを証明し、作品のすばらしさをそのまま表すことになるのです。

-主人公の心情変化-
この作品は、チャーリイ・ゴードンという青年の一人称物語です。始めて読み始めるとき、読者は必ず驚くでしょう。殆どひらがなの低学年が書いたような文章、というより言葉の羅列が続きます。読みにくいことこの上ありません。一体これはどういうことなのか、しかし、その疑問は彼の語りと、レポートによって徐々に明かされていきます。
チャーリイは知能が遅れた人でした。彼は、当時の精神学の権威たちによってある手術をすることになります。それは脳を手術すること。知能の遅れを人間の手によって何とか改善できないかという壮大なプロジェクトの被験者となることを契約したのです。
実際どのような手術が行われたのかという詳しい記載はありませんが、彼は遅れていた知能を物凄い速さで取り戻していきます。
これは彼自身の目によっても見えると同時に、我々は彼が書く文章が次第に大変上手なものになっていくという過程で体感することが出来ます。

この際の心情変化が実にすばらしい。まさしくこれは人間の成長を一瞬の間に書き留めたといえるもので、これが一体どのようにして他の人間が書けようかと疑問になります。チャーリイが書いているのですから読者は納得しますが、しかし、一旦作品から離れてみると、書いたのはキイスに他ならないのですから、どうしてこのような変化がわかるのか、実に不思議です。
次第に我々よりも頭が良くなっていくチャーリイ。彼は自分が今まで知能が遅れていたことを馬鹿にされていたということに気がつきます。この発見は大変衝撃的なものでした。皆いい人だと思っていた人間が、実は自分を笑っていたというのは、彼にとって辛いことです。しかし、それでもどこか許してしまうという一面も彼は見せます。人間がこんなに悪いものだろうとは考えないのです。このとき、読者はどうしてチャーリイはそんな風に思ってしまうのと心を痛めます。
しかし、取り巻きの人間のいじめよりもさらに、実は母親がチャーリイに行ってきたことの実態に気がつくと、チャーリイは自分の行動を規制せざるを得なくなるほど怖い体験をしていたのです。これはまさしく、刷り込みの話に繋がってくると思いますが、それは後で話します。この母親は、チャーリイのみがいたときは、自分の息子が知能遅れなはずはないと、頑なにチャーリイを認めることをしませんでした。これは彼女の理想像をチャーリイに押し付けるという形で、本当の彼、現実から逃避していたのです。それだけ理想が高いわけですか、チャーリイが何か出来ないと大変叩いたという記載があります。そのヒステリックとバイオレンスを彼の父は止めようとします。
この母親のバイオレンスと父親のストップという構成は、「Itと呼ばれた子ども」にも通じるもので、キイスは今からやく半世紀前にすでにそれをずばりと見抜いていたのです。

-チャーリイと対人-
チャーリイは一方で、知的には成人よりもはるかに上になりましたが、精神的な発達はまだできていませんでした。知能ばかりが先行すると一体どのようになるのか。キイスはこの作品でその例を一つ提示してくれました。チャーリイは大学の教授がたいそう馬鹿に見えるほどにまで知能があがりました。恐らく知能だけで言ったならば、世界中の誰よりも頭がよかったことでしょう。そうすると、今まで自分のことをみてくれていた先生たちが極めておろかな人間に見えてくるのです。しかも、それを指摘すると、彼らは怒り出す。チャーリイは自然と人間を馬鹿にするようになりました。頭が悪いということを隠そうとしかしていないからです。
そうして、チャーリイは自然と人間から離れ、同じ知能があがる実験を受けたねずみアルジャーノンと仲良くなるのでした。

また、この小説にはチャーリイの恋愛も語られています。知能が遅れた人間の教育をする機関で働いていた、プロジェクトの一員でもあるアリスという女性と、チャーリイが逃げ出した後借りたアパートの向かい側に住むフェイという女性です。
このアリスが彼は本当は好きなのですが、彼はアリスに近づこうとすると上手くいかなくなってしまうのです。一つには、母のかつてのすり込みがあると考えられます。何か失敗をしたり、へまをしたり、或いはやってはいけないことをやるとこっぴどく怒られて叩かれるという意識が働いてしまうのです。彼はどこかで、自分の先生でもあったアリスと関係を持つことは大変悪いことなんだと感じてしまうのです。知能では、彼女が好きで、何をすればよいかわかっている。しかし、いざというと体が動かない。この自家撞着は多かれ少なかれ私たちにもあることで、それをずばりと表現しているのです。
もう一つは、チャーリイの分裂です。これは多重人格にも似ているとも考えられますが、私はチャーリイが自分を認めないためにかつての自分が出てきてしまったのだろうと思います。チャーリイは母親との問題をクリアしていこうとしますが、そうすると、もう一人のチャーリイが自分を見ていることに気がつきます。そのチャーリイは現在のチャーリイとアリスがくっつくことを異常に嫌うのです。
知能が発達したチャーリイは、かつての愚かだった自分を認めなかったのではないでしょうか。それがコンプレックスとなって表出したという感があります。

フェイは自由奔放なアパートの住人。芸術をやる人間ですが、どこか酒やドラッグをやっていそうで、もろくてこわれそうな感じがします。私はこの雰囲気はカポーティの「ティファニーで朝食を」のホリー・ゴライトリーを連想させます。共にアメリカニューヨークしかも、「ティファニーで朝食を」は1958年刊行ですから、影響がないとはいえないのかも知れません。勝手な推測ですが。
それで、チャーリイはこのフェイとは関係をすることが出来るのです。それはアリスと親密になれないことへの裏返しであり、憂さ晴らしであったのです。しかし、次第に彼女は彼を怖がるようになります。それこそ知能が徐々に上がっていったとき、周りの人間が大変怖がったように。

-チャーリイとアルジャーノン-
アルジャーノンはチャーリイの親友であり、ライバルであり、そうして彼の鏡でもあったのです。アルジャーノンはチャーリイに先立ち、知能があがる手術をしました。チャーリイはアルジャーノンが自分が馬鹿であることをひた隠しにしようとしている教授たちとは異なって、純粋であることに引かれました。そうして、彼はアルジャーノンをつれて教授たちの下から逃げ出したのですが、アルジャーノンは、チャーリイの先輩ともあって、彼はアルジャーノンの異変に気がついたとき、即座にそれと同じことが自分の身にもおこることを予感したのです。
アルジャーノンは、共に逃げ出してから一所に住んでいましたが、あるときから自傷行為や、暴力的になったりしました。それをチャーリイは、今まで出来ていたことが出来なくなっていく自分にいらだっているようだと書いています。
チャーリイははっきりとアルジャーノンに起こったことが自分に起きるだろうとは書いていません。しかし、書いていないからといって考えていないとは限りません。チャーリイはそのことをわかった上で書かなかったのだろうと思います。
フェイがチャーリイを恐れるようになったのは、チャーリイが次第に暴力的になったり、今までできていたことが嫌に遅くなったりしたことです。物忘れも激しくなり、彼女との約束も忘れてしまいました。
次第に弱っていくチャーリイをアリスたちが発見して、最後は何とか連れ戻すのですが、その過程がこの小説の命といってもよいと思います。この一人の人間のあまりに早すぎる衰退を目の当たりにして、読者は一体何を感じるのか。これほど深い問いかけをしている作品はそうはありません。

-終わり-
チャーリイが先に死んでしまったアルジャーノンに花束を添える場面があります。まさしくこれがチャーリイにとっての始まりであり、終わりであったわけです。彼は次第に弱まっていき、以前の状態、或いはそれ以上に悪い状態になります。
作中時間をきちんと調べていないので、ちょっとあやふやですが、一年も経過していなかったと記憶しています。ですから、この一年間のなかで、チャーリイは子ども同然だったのが、人類の叡智を手に入れ、そうして精神的に死んでいったということになるのです。
我々が一生をかけて変化するようなことを彼はたったの一年そこらで行ってしまったのです。この作品はまさしく文学そのものです。というのは、文学とは人生を切り取ったものだとすると、これは余すことなく切り取り、圧縮した作品なのです。これを読むときは、それぞれがもっている経験と照らし合わせながら、解凍していくのです。
また、この作品が問うといる問題の複雑さと、人間の性といった哲学的な思想にも驚かされます。先ずは自己の問題です。それから自己と他者。親子の問題も大変重要です。恋の問題。そうして友の死。そこから連想される自分の死。老い行く自分。人生なのです。この作品は人生が詰まっています。
これを読んだとき、一体皆さんは何を感じ取り、そうして考え、行動に移せるのか。こういうことになってくるのだと思います。文学が人を変えるということではないでしょうか。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

幽玄

Author:幽玄

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
263位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
18位
アクセスランキングを見る>>
フリーエリア
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。