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太宰治 三鷹文学散歩 太宰の地を歩く

太宰治は三鷹に住んだ作家として知られています。「ヴィヨンの妻」や「斜陽」には、現在の中央線の駅名が度々出てきます。今回は太宰縁の地である三鷹を散策し、昭和の文豪太宰に迫っていきます。
先ずはJR三鷹駅
いわゆる駅中が非常に綺麗になり、おいしいパンやお惣菜が買えます。三鷹は吉祥寺の若者の元気溢れる町とは異なり、少し静まったのどかな町です。太宰はここに最後の居を構えたのでした。

『斜陽』文学碑
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太宰の作品の中でも有名な『斜陽』。この作品にはモデルがいます。
太田静子。貴族ではありませんが、裕福な医者の娘です。人物像は、太宰の編集者の野原一夫によると、「決して美人ではなかったが、育ちのよさからくるやわらかな気品があり、たえずなにかを夢見ているようなあどけなさと、まるで童女を思わせるようなおさなさが、およそ肉感を伴わない不思議な魅力となっていた」
年齢は小山初代(おやまはつよ)(太宰の最初の妻。作中にでてくるHは彼女か)、石原美知子(二度目の妻)より一歳年下。太宰より4歳年下です。22歳の時には歌集『衣裳の冬』を刊行している文学好きな人です。
一度結婚していますが、出産した子がすぐに死に、翌々年離婚。太宰とはこの後の出会いとなります。
太宰との出会いは1941(昭和16)年、数え年29歳のとき、友人と共に三鷹の太宰宅を訪問したのが最初で、その後に妻に内緒で密会しています。
1946年、太宰は「『桜の園(チェーホフの戯曲)』の日本版を書きたい」「題名は『斜陽』だ」といい、その材料として、太田静子の日記を求めます。日記を貰いに行った静子の山荘で五泊します。このとき静子は懐妊しました。
「斜陽」末尾のかず子の手紙の日付は「昭和二十二年二月二十日」で、これは太宰が太田静子の山荘を訪れる前日の日付になっています。
この日記を材料にして書き始めたのが、三津浜安田屋旅館「松の弐番」という部屋で、現在も太宰が宿泊したことがあるということを売りにしています。この安田屋旅館で太宰は3月6日に1、2章分を新潮社編集部員に渡します。
3月30日には次女里子(作家の津島佑子)が誕生しました。
11月12日には、静子が女児を出産。静子の弟が「認知と命名」を求めて三鷹に来ます。太宰はその女児に会うことなく、ペンネームからとって、「治子」という名前をつけました。
太宰が斜陽を書くにあたり、静子から借りた日記は、太宰没後、太田静子著『斜陽日記』として刊行されました。太宰は換骨奪胎の名人であり、『走れメロス』『御伽草紙』に見られるように書き換えが大変上手いのです。(悪く言えば「パクリ」です)ところが、この「斜陽」は静子の日記の文章を殆ど使用しています。9割に近い割合で彼女の日記をそのまま書き、ほんの少しの書き換えで、剽窃から太宰作品へと変えてしまっているのです。
この碑では、『斜陽』の本文と、太宰の原稿の復元が為されていて、太宰の直筆が伺えます。

禅林寺
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太宰治は見たが禅林寺に埋葬されました。翌年には墓碑が建立し、「太宰治」三文字が彫られます。この「太宰治」の字は、本人が署名したものを復元して彫られたものです。ペンネームだけの墓碑というのは大変珍しいものです。
さて、太宰は青森の名家津島家の人間ですから、死後は青森の立派な墓に埋葬されても良いはずです。ではなぜ三鷹なのでしょうか。その理由は、小説『花吹雪』(1944)にあります。
「すぐ近くの禅林寺に行ってみる。この寺の裏には、森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小奇麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想など雲散霧消した。私にはそんな資格が無い。~お前なんかは、墓地の択り好みなんて出来る身分ではないのだ。はっきりと身の程を知らなければならぬ。私はその日、鴎外の端然たる黒い墓碑をちらと横目で見ただけで、あわてて帰宅したのである。」
ここに書かれた願いの為に、わざわざ鴎外の斜め向かいに太宰の墓が立てられました。
また、この願いのほかにも、津軽の津島家は太宰の津軽埋葬を拒否しました。生前から離縁だなんだで散々もめた末、死後も太宰は本家から許されることはありませんでした。
また、実際には禅林寺の檀家も寺内に太宰の墓が建つことを反対しました。太宰は自殺、しかも愛人としたひとですから、当然といえば当然です。また、当時は自殺にあたり、青酸カリを使用したといわれていました。住民の飲み水として大切な玉川上水ですから、それは大変な騒ぎになったそうです。それをなんとか住職が押し切るという形で埋葬されました。

さて、森鴎外の墓がどうしてここにあるかという理由ですが、1922年鴎外が死んだ時、墓は向島の弘福寺(黄檗宗)にありました。鴎外は日本で少ない黄檗宗なのです。ところがこれが、翌年の関東大震災で被害を受け、1926年に宗派の同じ禅林寺に墓を移転したということになるのです。ですから禅林寺も黄檗宗です。
端然たる黒い墓碑には、森林太郎の五文字だけが記されています。これは鴎外の遺書に従ったからで、遺書には「墓ハ森林太郎ノ外一字モホル可カラス」とあります。この遺書は禅林寺を入ってすぐのところに前文が彫られた碑がありますからそこで確認することが出来ます。また、この遺書は鴎外が伝えたのを、絵と書画で有名な中村不折が書きました。

田辺肉店跡
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現在は三鷹の森書店となっています。太宰はここで「斜陽」の三章以降を書きました。三章以降は、静子の妊娠を知ったあとになります。これは、妻石原美知子さんと結婚するさいに師である井伏鱒二とかわした誓約書の重大な違反になります。
また、このとき丁度、太宰が最後を共にする山崎富栄と出会いました。妻美知子は女児を出産しています。(作家津島佑子)
当時の太宰は、妻の目を気にしながら、愛人静子の妊娠に悩み、師井伏との誓約書におびえ、富栄とも交際を深め、多数の小説原稿の依頼をこなし、胸の結核も悪くなってきているという状態でした。その憂さ晴らしなのか、太宰は連日連夜取り巻きの編集者や弟子たちとともに酒を飲み煙草を吸いという生活が一年半続きます。

太宰治文学サロン
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http://mitaka.jpn.org/dazai/
三鷹市が運営している太宰治の文学サロンです。資料館といった感じで、入場は無料。太宰の直筆の原稿や、太宰にまつわる重要な品々が展示されています。私は、太宰が写真で着ているフロックコートを着せてもらいました。右は袖を通すのですが、左は通さないでそのままはおるといった感じです。和服と洋服を合わせたため、大変御洒落なコートになっています。館内は太宰ファンのボランティアが説明をしてくださって、楽しいひと時を過ごせます。

山崎富栄下宿跡
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野川家。ここは塚本サキという女性の知り合いの場所で、山崎に斡旋してくれました。当時は一階がパン屋、永塚葬儀店がテナントで入っていました。現在ではこの永塚葬儀店のビルになっています。
山崎富栄は太宰と最後をともにした人です。その彼女の三鷹の住居です。太宰より10歳下となります。高い教養を持つと共に、父親は美容洋裁学校の創立者でもあり、本人も日本トップレベルのスキルを持った美容師でした。彼女の写真が残っていますが、日本髪からパーマまで、父親の会社の広告になっています。生き残っていれば、そうとうな指導者として名を残していた可能性もあります。
彼女は「キャバレー勤めの女」という伝説がありますが、これは全くの嘘で、彼女はアメリカ兵ようのダンスホール兼キャバレー「ニュー・キャッスル」内の美容院の主任として働いていたのです。これが水商売をしているという伝説が広がる一因となったようです。また彼女は三鷹のミタカ美容院で人気美容師として働いていました。旦那を戦争で亡くして、滋賀県に疎開していた彼女をこのミタカ美容院へ招いたのは、富栄の父の教え子の塚本サキです。
この塚本サキの墓は、なんと鴎外の墓の隣にあります。太宰の斜め向かいとも言えます。
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小料理店千草跡
太宰治は我々読者が勝手に描くイメージとは大分異なり、朝方の人間でした。彼は午前中から夕方まで小説を執筆しました。しかし、専ら太宰は小説を家で書くということはせず、いくつもの仕事場を持ち、そこで書いていました。その一つにこの小料理屋千草の二階があります。この千草はなんと、山崎富栄の下宿地の向かいでした。太宰がここをよく利用するようになったのは富栄と知り合ってからのようですが、山崎を三鷹へ呼んだ塚本サキもまさかこのような結末になるとはと露にも思わなかったことでしょう。

玉川上水・心中場所推定地点
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1948年6月13日深夜(或いは14日未明、目撃者がいるわけではないため、正確にはわからない)に、太宰治は山崎富栄と共に玉川上水に入水しました。現在の玉川上水からはとても想像ができませんが、当時の玉川上水は水に溢れ、人が溺れるには十分な水かさがありました。太宰は富栄の自宅からここまで歩いてきて、そして入水したのです。これは下駄の跡があったことから推測されています。

太宰自宅跡
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現在は一般人のお宅になっているため、個人情報ですので出すわけには行きませんが、近くには三鷹市が運営しているみたか井心亭があります。この庭には、太宰治の家にあり、小説にも出て来た百日紅(さるすべり)の木があります。この百日紅の木は太宰宅から直接こちらへ植え替えしたものなので、太宰本人が眼にしたものと同じものを触ることができます。つるつるしています。
http://mitaka.jpn.org/seishin/

玉川上水新橋
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太宰と富栄は5、6日かけて玉川上水を漂った後、19日に現在のジブリ美術館の近くの新橋という橋付近で発見されました。二人は物理的に赤い糸で結ばれていたという伝説もあります。
6月19日というのは太宰の39歳の誕生日でした。当時は自殺に青酸カリを使用したといわれたり、泥酔して自殺したといったような噂が立ちました。しかし、妻の美知子さんは太宰の資料をずっと廃棄せずに保管していました。美知子夫人がなくなった後に公開された太宰の遺品の中に、遺書があり、これが泥酔していたという推定を否定するものにもなりました。
文学散歩をしたとき、私はプロボクサーの輪島功一さんに偶然出会いました。大きな犬を連れていましたが、本人も負けず劣らず大きな人でした。おはようと挨拶してくれました。

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