「かわいそうだね?」綿矢りさへの試論 感想とレビュー 2つの女性視点の中篇小説を読んで見えてくるものとは

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-はじめに-
2004年、「蹴りたい背中」により19歳で芥川賞受賞という偉業を成し遂げたことが今でも印象的な、綿矢りささん。今回は彼女の最新作、「かわいそうだね?」を論じます。
私としては、正直どうしてこの作品が大江健三郎賞を受賞したのか、いまいち理由がわかりません。初めに駄目だしをしておきますが、分量の少なさと、文章の軽さ、「亜美ちゃんは美人」においての三人称視点の描き方はまだ改善の余地があります。
他の問題はいいとして、私が特に問題だと感じるのは「亜美ちゃんは美人」においての三人称視点での描き方の破綻です。一人称と三人称の中間のような感じになってしまっています。もし、これが作者の意図するところならば、それで構いませんが、純粋に文学研究の対象としたときには、やはり、完全に三人称にはなっていない点は不自然さを感じます。

-惹きつけるもの-
では、作品を見ていきますが、先ず目を引くのはカバーです。色鮮やかなドライフラワーや。中間でまっぷたつにおられてしまった靴が、綺麗にちりばめられています。とびら、(中をめくって一枚目)も、ピンクの飴玉模様がかわいらしい女の子のイメージを想起させます。綿矢さんのイメージは人それぞれあると思いますが、私にとっては美少女作家といったところです。かわいらしい女の子という感じですよね、そのイメージを持っている人は多いと感じます。今回は、そんなイメージと重なるような、若い女性性を全面的に押し出したカバーとなっています。書店で並んでいるのを見れば、必ず眼を留めてしまうのでしょう。
それからこの作品と大きく関わってきますが、タイトルも奇抜です。「かわいそうだね?」というタイトル。「かわいそうだね」であれば、誰でも納得します。しかし最後の「?」に出会ったときに、我々もまた?を喚起するのです。

主人公の女性は28歳ですから、それなりに仕事が安定してきて、結婚適齢期を迎えようという年代ではないでしょうか。これは、作者の年齢とも非常に近しいですね。そのこともあって、非常にこの年代の女性が何をどう考えているか、ということがよくわかるのでしょう。男性である私が読むと、なるほどそういうような見方もあるのかと感心します。
しかし、この樹理恵は比較的安定期である年代とは裏腹に、大変な苦悩を抱えているのです。私はこの最後にいたるまでの彼女の心境の変化を通して、初めから彼女は自分に嘘をついていたのだと感じました。初めから何か事件があったとき、通常ではそんな解釈しないだろうというようなへんてこな解釈を続けていました。どうもおかしいなという感じはあったのですが、それもそのはず、これは彼女自身が無理して、物事を全て好意的に解釈していたからなのです。しかし、それは実際彼女が彼女自身に嘘をついていることに違いありませんでした。それさえも彼女は隠蔽しようとしたのです。
英会話の教員との会話も、突然はじまったので、どうも唐突な展開だなと感じました、この無理な解釈も樹理恵の好意的な解釈に他ならないのです。勘違いしていけないのは、樹理恵と綿矢さんは同一人物ではないということ。綿矢さんは、この樹理恵というとんだお人よしを描いて、自己を認めること、自己を肯定し、嘘をつかないことの重要性を描きたかったのではないでしょうか。

この樹理恵という人物は、反面出来るOLといった印象も受けます。しかし、よくよく見ていくと、それは全て彼女の独自の解釈によって描かれているからに他ならず、その解釈の内容を見てみると、本当に正常な判断かと疑いたくなるような物事が多く出てきます。彼女の解釈の幼稚さ、それから思考のもって行き方、行動、表現力、これらを総合してみていくと、随分幼い内面であることが露呈します。28歳になって、この安定感のなさ。これはどうもおかしいですね。どうしてこの樹理恵がここまで愚かな人間として描かれているのか、その理由がわかりません。恐らく上で述べた、自分のことを認めていない人間の愚かさのようなものに繋がってくると思います。

-かわいそうだね?-
結局、この作品の根底にはかわいそうだねという言葉、概念が横たわっているのですが、一体これは誰から誰へ向けた感情、言葉なのでしょうか。作中に何度か樹理恵の小学校時代にあった「かわいそうだね」をめぐる物語や、彼女が感じていることがらがこの「かわいそうだね」という言葉の説明になっています。しかし、それらは、やはり彼女の独自の見解ですから、説得力がいやに少なく、彼女自身が本当にそう思っているかも疑わしいです。最後の場面になると、全ての種明かしのように、アキヨと隆大とのメールのやりとりが公開されます。ここにきて、読者はなんだこいつと反感を抱き、それによって樹理恵との共感を抱くことができるのです。
そうすると、これは樹理恵からアキヨ・隆大への「かわいそうだね」ということと、読者から樹理恵への「かわいそうだね」という二つが浮上します。樹理恵からアキヨ・隆大へは、私に隠れてそんなことをやっていやがって、かわいそうな人間だといった、軽蔑、失笑、あざけり、或いは嫉妬、恨みのような感情が主になるでしょう。二つ目の私たちから、樹理恵への「かわいそうだね」は樹理恵がそのような愚かしい人間たちに騙されていたことへの同情と慰めの感情だと考えられます。
しかし、それらはあくまで「かわいそうだね」であって「かわいそうだね?」ではないのです。この?は一体何か。私は、これは作者からこの登場人物、ないしは現代社会に生きる、自己を肯定しない人間、認めない人間、嘘偽りをついている人間に対して、君たちは「かわいそうではないの?」という問いかけなのではないかと考えます。
ですから、これは現在アイデンティティーなんて言葉をよくわからずに使用していて、実際なにもわかっていない、我々への警鐘ではないかと考えます。ですが、決してだからお前たちはだめなんだよということではありません。それは作中で樹理恵がとうとう自己を認め、それを露呈し、自分が傷つくのを恐れずに自己のこころのままに行動したことからも伺えます。私たちは、こういう人物がいるのかという一例を通して、これからどうするかを考える機会を得たということなのです。

-亜美ちゃんは美人・二つを比較して-
「亜美ちゃんは美人」は先ほど述べたように、人称をはっきりと定めないといけません。やはり、しっかりした自己をもったさかきちゃんにひっぱられてしまっています。このさかきちゃんも、亜美ちゃんという人物との対比のなかで、自己を保てなかった人物でした。それが最後には一旦離れて、亜美の変貌をみたことによって自己を再認識するという構造になっています。
そして、亜美自信も、意識はしていないでしょうが、さかきちゃんと離れて自分の好きな人を見つけたことによって、今までの嘘偽りの自己から解放されて自己同一性を確保したといえるでしょう。
最後が写真を撮ることによって締めくくられていますが、一見するとどうしてそんな終わり方をするのかと考えます。しかし、こうして考えてくると、最後の場面は、さかきちゃんが自分と亜美との両人のアイデンティティーを認識し、肯定しているのです。それをそのよい状態のまま保蔵する。これが写真をとるという行為に隠された心象表象ではないでしょうか。
二つの短編テクストは、それぞれ異なった女性の視点から描いていながら、同じことを描いているのです。だから、長編一本ではなくて、短編二本ということになったのでしょう。ただ、大江健三郎賞を取るかといわれると、実際どうしてそうなのかということが不思議と思う部分は残ります。

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-はじめに-2004年、「蹴りたい背中」により19歳で芥川賞受賞という偉業を成し遂げたことが今でも印象的な、綿矢りささん。今回は彼女の最新作、「かわいそうだね?」を論じます。私...

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