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映画「蒲田行進曲」への試論 感想とレビュー 嘘の中の真・お上と平民の関係性


-はじめに-
この作品は元々つかこうへいが劇作品として作ったものを、本人が映画用に書き換えるという面白い経歴がある。今回は映画だけを論じるが、いずれは劇作品と映画の比較研究をしてみたいとも思う。
さて、この作品であるが、とても現実にはありえないと思わざるを得ないようなフィクション、嘘の連続だと言って良いだろう。大衆娯楽映画である。その点で、前回見た『裸の島』とは両極端に位置する作品である。
しかし、フィクションだからといって全てが嘘かと言えば、そうでもない。私はこの作品で最も重要なのは、小夏・銀四郎・ヤスの三人をめぐる人間関係だと考える。嘘から生まれた真という言葉があるが、まさしくここの人間関係は、日本の人間関係の制度と全く同じなのである。

-人間関係について-
私はこの作品を見て、以前見た『女衒(ZEGEN)』と非常に近しいものを感じた。ヤスと村岡伊平治が重なったのである。伊平治に対する天皇は、ヤスの銀四郎である。これは、日本の主従関係、お上と私の関係である。
日本には未だに大部屋というものが残っている。それが畢竟時代遅れだとかそういうことは関係ない。一長一短があるからその制度に対して軽い気持ちで何か言うことは憚られるが、この映画はまさにその大部屋の一人と、スターとの交流を描いたものである。
次にヤスと銀四郎との関係であるが、これははるかに伊平治と天皇よりも強いものと考えられるのではないか。ヤスと銀四郎を繋げているものは、この現代において殆ど意味を成さない、義理とか、主従関係とかのみである。では何故銀四郎に、あそこまで無下に扱われていながら、ヤスは彼の元を離れないのかという疑問が浮かぶ。確かに、現実的に考えれば、大部屋やめてどこかへ出て行けばいいだけである。それを映画が成り立たなくなるからと考えることもできなくはないが、それはいささかつまらない見解である。

私は、ここに小夏が大いに影響していると見る。小夏は銀四郎から与えられたものである。渡され方はあまりにも酷い状態であったが、それでも形式的には、銀四郎から宝物を授かったような図式になる。だからヤスはその宝物、銀四郎の形見でもある小夏を大事にしたのだ。そこには、もちろん銀四郎から貰ったから大事にしなければいけないという強制的な感情も働くが、私はここに別の感情もあると考える。一つは常識的に考えて、貰ったものが人なのだから、いくらなんでもその女性のことを守りたくなる、或いは好きになるといったような自然な感情である。それはいいとして、もう一つ、小夏は銀四郎の子どもを身ごもっている点から、また彼女自身が、銀四郎の形見であるということである。だから、ヤスにしてみれば、銀四郎の一部を自分の中に取り入れて、支配することが出来るのである。
ヤスは非常に従順な銀四郎の部下である。銀四郎を神のように崇めている。しかし、心のどこかでは銀四郎に近づきたい、同じ立場にいたい、それから銀四郎の上に立ちたいと思っているのである。無意識のうちに、小夏を貰えば、銀四郎の一部を自分が支配することができると彼は考えた。
だから、ヤスは小夏に対して、初めと終わりのほうでは態度が極端に異なるのである。
仮に、ヤスと小夏が、小夏が身ごもっていない状態で付き合ったならば、ヤスの態度はここまで変わらないと考えることができるだろう。それはヤスの母親の、やさしいだけがとりえという言葉にも表れている。ヤスは自分よりはるかに大きい力である銀四郎を何とかコントロールして手中に収めようと、形見である小夏に強く当たるようになるのである。
だから、小夏とヤスとの関係は、常にこの二人だけの関係ではなく、ヤスと銀四郎・小夏という関係になる。

-階段落ち-
上で、人間関係についてみてきたが、ヤスは小夏を銀四郎の一部と考えそれを支配しようとした。しかし、いくら小夏を支配しようと、恐らく彼には銀四郎の一部でも自分の配下にしたという気持ちは得られなかっただろう。彼はどこかで小夏を支配しても、結局銀四郎を支配することにはなりえないということを感じていた。これがはっきりと判ったのは、階段落ち前日である。小夏が小夏でしかないことを悟ったのである。そこに銀四郎との関係は無意味だということに、小夏に教えられたのである。だから、成り行きのように描かれていたが、ヤスが階段落ちを引き受けた、決心した理由はきちんとあるのだ。
映画撮影所では、この階段落ちが何よりも目立つ、主役だなんだと騒ぎ立てていた。ヤスはこの階段落ちを行うことによって、自分が一時的ではあるが、銀四郎をも上回ることが出来ることに気がついたのである。ヤスはなんとしてでも、銀四郎へ対する劣等感を拭いたかったという気持ちがこころのどこかにあった。これが表出したのが、この階段落ち決心である。

-最後に-
この作品の最後は、今まで見てきたものも実は撮影されたものでしたというネタバレで終わる。メタフィクションの構造である。作品内の作品。佐藤教授は、つかこうへいの照れではないかと指摘した。私はそれに付け加えて、嘘でしたという嘘をつかなければならなかった理由を模索した。
そうすると、人の命が関わるだけに、内容が過激だと非難されるのを回避しようとしたとも考えられる。或いは、映画界の裏を描いているから、実際にはこんなことはないのだよと観客に断っておく必要性に駆られたのかも知れない。
ただ、嘘からでた真を描こうとしていたならば、「嘘でした」という嘘をつくことによって、やっぱり真実だよとどこかで知らせているように解釈することも出来ると思う。
最後まで嘘だよということは、結局、嘘を積み重ねていく内に、本当があるよと語っていることに他ならないのではないか。だから、この作品は表面上は嘘であるが、中身は真実だと訴えたかったのである。

小夏 - 松坂慶子
銀四郎 - 風間杜夫
ヤス ‐ 平田満

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-はじめに-この作品は元々つかこうへいが劇作品として作ったものを、本人が映画用に書き換えるという面白い経歴がある。今回は映画だけを論じるが、いずれは劇作品と映画の比較研...

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