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新藤 兼人 裸の島 感想とレビュー 平凡な日常を描くわけは

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裸の島(はだかのしま)は1960年に上映した新藤兼人監督の日本映画である。台詞無し、350万円の低予算で製作、1961年にモスクワ国際映画祭グランプリを始め、数々の国際映画祭を受賞、世界60カ国以上に上映した。

率直に言うと、初めはつまらないと思った。何故この夫婦は水を運び続けなければいけないのだろう。何故町に住まないのだろう。といった疑問が提示されたが、それらの答えが示されていくというような映画ではない。その状態を前提として毎日毎日水を汲みにいくということの繰り返しであった。その繰り返しのあまりに冗長なのに飽きが来たのである。
初めの二三十分は真につまらなかった。何の発展も進展もないからである。そんな平凡を打ち壊したのが、母が水をこぼして、父がひっぱたいたことである。思い切りやっていたように見えた。演技ではないようであった。この迫真のひっぱたきは、そのため前半で最も大きな印象を残すと同時に、我々に刺激を与えてくれた。
水をこぼすということはどういうことか。貴重な水を苦労して持ってきたのに、それを無駄にしたことへの罰であると私は考える。大事な水をだめにしてしまったどじへの叱責である。だから父がやらなくても本当はよかったはずである。その叱責は自然のものであるから、だれか別の人が他にいたらその人が行ってもよいのである。ただ、この場には父しかいなかったため、仕方無しに母を殴らねばならなかったのである。水が重要であり、それを台無しにしたことが悪いことだという意識があるからこそ、母も黙ってなぐられ、そしてそのまま農作業に戻る。だからここには何か父から母へ、母から父へ心の変化があったとかそうしたものではないだろうと考える。

この叱責があった後、また再び日常に戻ったが、非日常がこの家族に訪れる。鯛が釣れたのである。父と母は初めてここで声をだす。でかしたという気持ちをもって息子を海に投げ飛ばすのである。それを見ている母の笑う姿というのが、この映画で見られる唯一の音のある笑いである。
鯛を売りに町にでるときの格好は一張羅で、いままでとの様子と全くことなるので違和感を感じる。町で遊ぶ家族、観光したり、食堂でご飯を食べたり。町に住む我々からすればそんなことはいまさら家族全員揃って態々いくようなものでもない。そんなことではしゃいでいる人を見ればなんだこいつと思うわけである。しかし、私たちは彼ら家族の現状と普段の暮らしぶりを見て知っているから、この我々の日常が彼らにとっての非日常であるということがわかる。彼らにとっては滅多にないことなのだ。
これ以降子どもたちと町に行ったり、笑ったりする場面はなくなる。だからこれが最後の楽しい場面となるわけであるが、私はこの家族が町で遊んでいるときよりも、鯛を釣り上げたときの方が楽しかったのではないかと感じる。
これは実に自然の心理で、遊んでいる最中より、これから遊べるぞと考えているときのほうが楽しいのと同じことである。だから町へいっても声を出して笑うほど楽しいのではない。彼らは遊んでいる最中に無意識のうちでさえ、この遊び、非日常が終わってしまうことを感じているからである。

また日常が始まる。いよいよ後半となると、物語は急展開を迎える。息子の急病と死である。父と母は凡そこの世の最下層の生活の水準であったにもかかわらず、自分たちの子供にはよいものを与えていた。それは冒頭ご飯を食べる場面から始まり、町で子どもたちの為にいろいろなものを買ってあげている部分からもわかる。両親は苦労してもその苦労を子どもたちにはさせまいとしている親心が随所に感じられるのである。
そんな愛すべき長男が病死する。弟が手を回して急ぐようにメッセージを送る場面から音楽は次第に雲行きの怪しいものとなる。緊張が張り詰めて、手に汗にぎるスリリングさがある。この点で映画に対する音楽の役目がよくわかる。日常、水汲みの場面ではいつも同じ耳につくようなメロディーが緩やかに繰り返される。
ほとんど無声映画のようなこの作品は映像と音楽の勝負である。だから必然音楽の映画へ寄与するところが大きくなる。
息子の死は特に母に大きな影響を与える。医者が間に合わなくて、死んでしまったとき母は声をあげて泣いた。これは息子が死んで悲しいのと、医者が間に合わなかったという悔しさも幾分かあるだろう。だが、最後の母の狂気を考えるとき、ここで泣いたのは自然性に対する無常を感じたからではないだろうか。
死は自然のことである。人間皆死ぬ。しかし今殺さなくてもいいじゃないかという自然への無常に対する悲しみである。

そうすると、最後に葬式が終わった後、農作業中に水をひっくり返し、食物を抜き捨てる母の行為。これは自然性に対する人間としての最後の反抗だったのではと考えることが出来る。母はずっと自然性に耐えてきたのである。自分の生活、自分の住んでいる土地、自分の毎日の仕事。全て自然である。その自然に人間が一人で立ち向かえるはずがない。彼女は子どもという人間性によって救われていたのである。子どもがいたからこそこの辛い日常を耐えてこられたのである。
その息子までもが自然に奪われてしまった。ついにやりきれなくなった彼女は自然性に対して人間性の最後の意地を見せつけようとしたのである。人間として最後になんとか自然に報いてやりたい。こんちくしょうという心持である。こんな馬鹿げた日常は水とともに捨て、自分が一生懸命辛い思いをして育ててきた食物を抜くということによって自然を人間の手で破壊したかったのである。
それを止めようとしないでただ眺めている夫は自然性に従って生きているからである。もう人間として自然に歯向かうことをしないのだ。彼は息子がピンチのときに既に父として人間性を存分に使用している。医者を探す際、連れて帰る際の父の姿は今まで従順に日々の仕事をしてきたのとは大違いだった。だから彼は人間として自然に反抗することはこのときしなかったのである。
そして母は最期に結局自然性に負けた。人間として反抗しても意味のないことを悟り、諦めたのだ。

最後のシーン。二人が耕している姿から島全景へと移行する。ここがもっとも美しい映像だと感じた。なによりも迫力があった。それはこの映画にこうしたシーンが他にないからかも知れない。ただ、人間として自然に対抗するのを諦め、ただ自然に従わなければならない、そんな悲しい農民の姿から雄大な自然を見せられると悲壮を感じるのである。
悲壮とは悲しいながらも、その内に壮大さを感じることである。彼らはただ自然に従っていき続けなければならないということを運命付けられている。しかし、どこかただ流されてしまうというような弱さは感じられない。人間としての強さを感じるのだ。

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裸の島(はだかのしま)は1960年に上映した新藤兼人監督の日本映画である。台詞無し、350万円の低予算で製作、1961年にモスクワ国際映画祭グランプリを始め、数々の国際映画祭を受賞、

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