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夏目漱石 「心・こヽろ・こころ」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 その十二

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「先生」と「私」の関係
かつては「忠実な弟子」「精神的親子」「精巧なミニチュア」として、オリジナルとコピーのように考えられてきました。そのため、上、中が軽視され、下だけ読めばこの小説の核心がわかるんだと思われてきたのです。
しかし1980年代後半から、「先生」の遺言に対する「裏切り」というラインが浮上しました。
この論争の発起人となったのは三好行雄です。ちなみに高田知波教授の恩師でもあります。
P371ℓ5新潮文庫解説「〈私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない〉(上-一)と私が語りはじめたとき、明らかに、打ち明けるべき聞き手としての他者が想定されている。先生の秘密を、〈奥さんは今でもそれを知らずにいる〉(上-十二)状態をかたわらにおいて、私はその秘密について語っているのである。先生に対する重大な背信行為ではないか、と問うのはむろん無意味である。」
ここで三好氏は秘密をばらしてはいけないといわれているのにも拘わらず、それを打ち明けようとしているではないかという論は無意味だといっています。これを発起として、いやその意味を考えようという動きが働きました。何故裏切るのかという部分に注目されたわけです。
「奥さんは今でも知らない」という箇所から、奥さんはあの世にいるという論もかつてはありましたが、それは無理な解釈であると考えます。この世にいると考えたほうが自然です。そうでなければ裏切りということにはなりません。奥さんが居る状態でこの遺書を公表することが裏切りになるわけですから。
先生への裏切りとしてP7ℓ4「余所々々しい頭文字などはとても使う気にならない」という箇所も注目されるようになりました。これはKという頭文字を使う先生への批判だと考えたのです。確信犯的に先生に背く「私」という論が活発になりました。

遺書公表問題の検討(引用執筆行為と公表行為)
先ず上に述べたP7ℓ4「余所々々しい頭文字などはとても使う気にならない」という箇所についてですが、たしかにここだけを読むとあのように解釈することが出来ます。しかし、文脈をきちんと捉えてみると、P7ℓ1「私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない」の後にこの文があります。つまり、「私」にとって「先生」を先生の頭文字の何がしかで示すのは余所余所しいということなのです。頭文字一般をよそよそしいと言っているわけではないのです。飽くまでも親密であった先生に対しての使用は憚られるということなのです。
それに対して「先生」が使用したKという頭文字ですが、これは別に余所余所しいことを表すために先生が使用したわけではありません。ちなみに、Kは一度養子に出されて苗字が変わっていますから、ずっとKと呼び名が変わらないことから見ると、Kはファーストネームとも考えられます。しかし、当時の学生は一般に苗字で相手のことを呼び合っていますから、そう考えるとKはファミリーネームとも考えられます。ここはよくわかりません。ただ、先生にとってKという頭文字を使ってKをあらわすことは何ら不自然なことではなかったということはわかってください。

この小説の最後の時間
この小説の最後の時間、言い換えれば最も新しい時間を考えて見ます。書かれた順は小説の中において下、上、中ということはいいました。しかし、下は原文ではありません。以前にも言ったように、下は 「 で始まり 」 で終わります。つまり、「私」による引用なのです。ですから、最後の時間・新しい時間は、「私」が先生の遺書を引用し終えた時ということになります。
ですから、これから公表しようとしているかどうかが実はわからないのです。引用し終えた部分で終わっているのですから、その後どうしようと考えているかは伺えません。
そして、もし仮に公表しようと考えていたとしても、
無名の人物が無名の人物の遺書を公表できるか
という問題が浮上します。当時はテレビもラジオもない時代でした。公表する手段としては、新聞に掲載、雑誌に掲載、本として発売のどれかしかありません。
ここで区別しなければいけないのが、漱石と「私」です。漱石は実際に大正3年に新聞に掲載しました。ですが、「私」は漱石ではありません。まだ公表していないのです。
小説の現在は矛盾が生じない限り、その小説が発表された時とします。ですから、この小説の最後・新しい時間は大正3年ということになります。そうすると、先生は明治と共に死にましたから、先生の自殺から2年ほど経った頃と言う事になります。
「私」は大学を出て2年。無名の人間と言う事になります。原稿用紙にして200枚ほどの先生の遺書を一体どんなメディアが公表させてくれるのか、こういう物理的な問題が生じます。
この問題をクリアする条件としては①遺書が有名人のものということが挙げられます。しかし、先生はKの自殺のため、世に出ることを止めてしまった人でした。だから全くの無名です。②インパクトがあるものということが挙げられます。この遺書がとてつもなく感動できるもの、或いは残酷なものなどの強力なインパクトがあればメディアは喜んで飛びつきます。しかし、この先生の遺書はだれが読んでもメディアが飛びつくようなインパクトはありません。
つまり、望んだところで物理的に公表できないのです。そしてまた、公表すると決まったわけでもありません。遺書公表問題はそもそも存在しない問題だと考えたほうが自然なのです。

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「先生」と「私」の関係かつては「忠実な弟子」「精神的親子」「精巧なミニチュア」として、オリジナルとコピーのように考えられてきました。そのため、上、中が軽視され、下だけ読...

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