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「道徳の時間」 道徳について考察する~4~ 漱石は何故、廣瀬中佐の詩は陳套であるが、佐久間艦長の遺書は名文であると、批評したのか。

これからが私の見解です。さて、副題にも載せたとおり、漱石は何故、廣瀬中佐の詩は陳套であるが、佐久間艦長の遺書は名文であると、批評したのか。という視点から見て行きたいと思います。
夏目漱石の文章が簡単に読めるというかたはそれで構いませんが、なかなか読むのが難解だと感じる方も多いでしょうから、私がわかりやすく直し、整理したものを以下に載せます。

漱石は先ず、佐久間艦長の遺書は名文と言い、それに対して廣瀬中佐の詩は月並みであると言った。中佐の詩は拙悪というよりも寧ろ陳套(古めかしい)を極めたものであると言った。こんなものを作るくらいならば作らないで死んだほうがよかったのではとまで酷評した。
しかし不味いかどうかという問題になると、両方とも下手である。
だが、佐久間艦長の遺書は已むを得ずに拙くなったのである。艦長の遺書から見て取れるように、呼吸が苦しくなる、部屋が暗くなる、鼓膜が破れそうになる、等々一行書くすら容易ではない状態であった。極めて高い努力が必要になったであろう。だから、書かなくてはいけない、残さなくては悪いという意識のほかに手を動かすものはない。
また自己広告をしようという自慢する気持ちは全く失われているため、艦長の声は苦しく拙いものである。娑婆気、俗世間の名誉や欲念を離れない心というものがない。自然のまま、自己という感情の殆どない文である。
艦長の書いたことは嘘を書く必要のないものである。彼は報告書を作ろうとしたのであって、自分の苦悶などは書かなかった。だからやはり人によく思われようとして書いたのではないという結論になる。さらに実際この遺書が役にたったことから自分のために書いたのではなく、他人のために苦痛を耐えたということになる。
対して廣瀬中佐の詩はというと今まで上げた条件をひとつも備えていない。中佐の詩は已むを得ず作ったのではない。已むを得ているのにも拘わらず俗悪な語を並べた疑いがある。艦長は自分が書かなければならないこと、自分でしか書けなかったことを書き残した。一方中佐は作らないで済むものを作ったのである。詩を作る必要のある人間は詩人である。中佐はその必要のない軍人であった。しかも中佐の詩は誰でも作れる個性のないものである。
このような詩は大概内容の伴わない人間のつくるものである。自己広告のためのものである。なぜならその詩がいかにも偉そうで、偉がっているからである。しかし廣瀬中佐はこの詩の内容どおりの勇敢な行いを見せた。彼の死は大変勇ましいものである。だからこの俗悪で陳腐で生きた個性のない詩を中佐の代表とするのが気の毒である。
道義的情操に関する言葉、道徳的な言葉はその言葉を実現しえたとき始めて誠実をそこに見出すのである。漱石はさらに懐疑的に考えて、この言葉が実現されたときでさえ、その誠実が全て現れ出ないのを悲しく思う。残る誠実性は、詩歌の奥に潜んでしまうか、それを実現する行為の根に絡んでいるからである。廣瀬中佐の行動は全くその行為に疑いが挟めないものである。だから彼の誠実さはその詩のなかに取り残されてしまっている。だからこの詩は罪を被るのである。

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