スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

夏目漱石 「心・こヽろ・こころ」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 その一

2.jpg

近代作家の中でも群を抜いて有名なのが夏目漱石です。文学史上において漱石と肩を並べる作家は多く存在しますが、現代でも今の読み物として読み継がれている稀有な存在は漱石のみです。その有名さのために、中学、高校では教科書としても使用されます。ですが、それゆえまたバイアス(偏見、固定観念)に縛られているという実情もあります。
今回は高校でも教科書として使用されている「こころ」を取り扱います。漱石の作品のなかでも「坊ちゃん」「三四郎」とともに広く世間で読まれていますが、そのためバイアスも強いのです。教科書では作品のごく一部が掲載されています。多くの人間に読まれていながら、実にその一部分しか読まれていない。そしてそれを以って全てを読んだ気でいる読者が多く存在します。
例えば音楽家の作った交響曲のごく一部のメロディーだけが広く知れ渡り、それだけを以ってその音楽家を知ったような気になっているのと同じことです。作品は全てを読んで初めて読んだと言えるのです。
ページは新潮文庫の「こころ」に拠ります。

読みに入る前にその一
・1、眼鏡の問題から
意外と忘れられがちなのが「先生」が眼鏡をかけていたかどうかということです。読者のなかにはこの「先生」と著者である夏目漱石を重ねてみている人もいますが、それは読者の勝手な読みです。
答えは「先生」は眼鏡を掛けています。P12ℓ2「先生は眼鏡をとって台の上に置いて」P13ℓ4「眼鏡が板の隙間から下へ落ちた」
「私」と「先生」の出会いは眼鏡がきっかけです。漱石の作品では全体的に眼鏡を掛けた人物は少ないですが、これは例外として考えられます。また「先生」は自分の遺書でも目が悪いことを書いています。P261ℓ1「近眼の私には~」P290ℓ「私は片目(めっかち)でした」とあります。ここから「先生」ははっきり見えない目で観察したものを断定する。よく物事がわからない、状況が掴めていないという側面があらわになります。また片目(めっかち)は差別用語のため教科書には載せられないということがあるようです。

・1,1遺書を書いて自殺したときの「先生」の推定年齢
先ずは「先生」が自殺した年に起こった歴史的事件から見ていきます。明治天皇の崩御と乃木将軍の殉死です。ここから「先生」の自殺した年が1912年だということがわかります。ちなみに「こころ」は大正3年に書かれました。
次に「先生」が大学に入学する少し前の歴史的事件を見ます。P195ℓ4日清戦争1894~1895で家主を亡くした未亡人とその娘の家に下宿します。当時の学制は小学校6年、中学校5年、高等学校3年、で下宿したのが大学生の頃ですから何か特別なことがなければこの時満21歳だと考えられます。ここから理論上最も高い年齢は38歳だとわかります。
しかし、P195ℓ4で「日清戦争の時か何かに死んだ」とあります。つまり日清戦争直後に下宿したとは考えにくいのです。ですからこの表現だと日清戦争が終わって数年が経過したと考えられますから、実際「先生」の年齢は30代半ばと考えるのが妥当なのです。

・1,2では鎌倉でであったときの「先生」の年齢は
大学は元々9月入学でした。「私」は当時P16ℓ13「新しい学年」とあります。このときは高校生で、新2年か新3年です。P7ℓ8&P8ℓ1で「私の友人」は「結婚を強いられていた」とあります。P36ℓ1「私は既に大学生であった」とあり、「私」は1912年、「先生」が自殺した年に卒業しています。当時の大学、「私」は文学部と思われますから、文学部は3年です。
入学する一年前に「先生」と出会っています。なので「私」と「先生」が交流していた年数は四年(ないし五年)となります。そうすると鎌倉時代の「先生」は30代半ばより4~5年引きますから、20代の終わりから30代の前半ということとなります。そうして「先生の奥さん」は「先生」より約5歳年下です。P243ℓ10「先生」があと一年で大学を卒業というときに「お嬢さん」もまもなく卒業。「お嬢さん」は女学校に通っていたということが度々かかれています。ですから「先生の奥さん」は初めて会ったときには24~5歳、「先生」が自殺したときでさえ30歳くらいです。P17ℓ9「美しい奥さんであった」という部分には若さも含まれていると読めます。


・2、「こころ」の新聞連載期間
当時朝日新聞は東京と大阪と二つありました
東京朝日新聞 大正3年(1914)4月20――8月11日
大阪朝日新聞           4月20――8月17日
先行研究や資料では両方とも8月11日に連載が終わるとなっているものがありますが、これは間違いです。

・3、新聞連載と単行本との複雑な関係
新聞連載開始に先立って掲載された「予告」には
「・・・今度は短編をいくつか書いて見たいと思ひます、其一つ一つには違つた名をつけて行く積りですが予告の必要上全体の題が御入用かとも存じます故それを「心」と致して置きます・・・」(大正4年1914、4,16~4,18)
独立した「いくつか」の短編をまとめた総タイトルが「心」ということで開始します。

新聞連載のタイトルは「先生の遺書」
総タイトルを「心」として、その短編の一つとして書き始めた「先生の遺書」
この形式のままで110回の連載で「ひとまず完了」として終わった。つまり短編は一つしか書かれていない。
ちなみに、「私」の問題があります。これは私をわたしと読ませるかわたくしと読ませるかの話で、朝日新聞には「わたし」とルビがあり、新潮社には「わたくし」となっていて研究に混乱を来たしています。

連載完結の翌月、岩波書店から単行本が出る
ここの序文で漱石は短編をいくつかまとめてその総タイトルを「心」とするという構想の断念を宣言します。
新聞に連載したときは一部分のはずであった「先生の遺書」が単行本「心」の全部となりました。
単行本刊行に際して、漱石は「先生の遺書」を上中下三部構成としました。
上 先生と私
中 両親と私
下 先生と遺書
ちなみに、岩波文庫は当時無名。創設者が漱石の弟子の友人であったことから、当時人気作家だった漱石は岩波に出版させてあげました。当時の「心」はブックデザインも漱石自身が書いたものです。岩波文庫は漱石によって大きくなった会社です。岩波から出ている漱石全集は当時の「心」のデザインが施されえています。

・4、題名表記の問題
新聞連載時の総タイトルは「心」でした。岩波版の単行本の装丁も漱石自身が行っています。
ここで漱石自身が「心」と「こヽろ」の両方を併用していることが研究を混乱させています。「こころ」は一般に使用されているだけで漱石は使用していません。

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

まとめtyaiました【夏目漱石 「心・こヽろ・こころ」 もう一度読む名作 テクスト論からバイアスの解放 その一】

近代作家の中でも群を抜いて有名なのが夏目漱石です。文学史上において漱石と肩を並べる作家は多く存在しますが、現代でも今の読み物として読み継がれている稀有な存在は漱石のみで...

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

幽玄

Author:幽玄

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
201位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
15位
アクセスランキングを見る>>
フリーエリア
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。