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『姿三四郎』 名画鑑賞 鑑賞とレビュー 古典的な話形を見る

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監督 黒澤明
出演者 藤田進
大河内傳次郎
公開 1943年(昭和18年)
この『姿三四郎』は富田常雄の小説が原作で、大手の松竹や大映も映画化を希望していたなかで、偶然映画雑誌記事を読んだ富田の妻が黒澤を薦めたために版権が東宝に渡ったというわけである。
黒澤という言葉を聞くと先ず思い浮かべるのが『七人の侍』である。実際に見たことはないが、世界的にその作品のオマージュがなされていることは知っている。また私が大好きで何度もあきもせずに見ているジョージルーカスの『スター・ウォーズ』は『隠し砦の三悪人』から影響を強く受けているということを知っている。
この世界的にも有名で、最も影響力のある偉大な映画監督黒澤明の初めての作品を見ることが出来た。

冒頭からいきなり町を誰かの視点でみて歩くという場面から始まる。これは一体誰なんだと考えたところで藤田進(姿三四郎)の視点であることがわかる。ここから主人公の視点を見せることによって観客に作品を近づけている。
映画をみて感じた印象は、ジャッキーチェンのカンフー映画と全く同じ構成、ストーリー展開だなということである。ジャッキーチェンの映画がこの黒澤の映画に影響されたであろうかどうかは定かではないが、強く、正しきものがよしという価値観はどこへいっても変化なさそうである。
国文学科の学生として、まさに貴種流離譚であると感じる。

貴種流離譚とは、折口信夫の造語で古伝承や物語等の発想の一類型。若い神や男女主人公が何かの事情で所属する社会を離れ、異郷に流離し、多くの艱難を経験した後に、尊い地位に到達する。または悲惨な死に逢うもののやがては神にまつられる場合もあった。このような類型は世界的に偏在するが、日本の古来の文学の趣向・筋立ての基本的な話形として一つの伝統を形成している。以下略  
【参考文献】折口信夫「日本文学の発生序説」(折口信夫全集7 昭和30年)

この姿三四郎は出自が不明である。会津から来たということのみが一つ姿の出生をあらわす手がかりとなるわけだが、本編では全く彼の正体には言及されない。また有り余る力によって周囲に危害を加える「あらぶる神」としての側面も持っている。強く、激しい気性、これが高貴な神の力の象徴とどうしても重なるのである。
それを上手くなだめて、コントロールするように仕向けるのが師である大河内傳次郎(矢野正五郎)である。乱暴を働く姿に対しての「人間の道というものを分かっていない」という一喝はとても迫力があった。そこから姿は自分の気概を示そうとして、一日中冷たい池の中で忍ぶ。このあらぶる神がはっと目前の白い蓮を見て真の強さに悟る部分は極めて重要な場面であり、人間になったということである。あらぶる力を自分で制御できるようになり、神の力を自分のものとして体得したという重要な変革のときであった。
前半で悟りを得て着実に力をつける姿であるが、そんなかれをいくつもの試練が襲う。先ずは冒頭で弟子入りしたものの、皆や身内で返り討ちにあった小杉義男(門馬三郎)の復讐である。今度は正々堂々としての勝負であったが、その分本気と本気のぶつかり合いとなり、力を制御していても投げ技を食らって門馬は死んでしまう。
道場に横たわる門馬の死体と、その娘の物凄い形相、鋭い眼光が姿をおもいきり貫く。短刀を手に隠し姿の下まで復讐しにきた娘には驚いた。姿がそれに動揺して修行もままならなくなり、そこから師の矢野によって再び立ち直るという重要な場面が無造作なカットの為に失われてしまったのは残念である。
次なる試練が警視庁武術大会で戦う志村喬(村井半助)の娘轟夕起子(小夜)との出会いである。当人同士はまったく相手のことなど知らないままに淡い恋に落ちかけていたところに、晴天の霹靂のごとくしてその素性がばれてしまう。父が勝つようにと心から神に願い、その美しさに魅了されてしまっていた姿にとってはこれを承知の上での村井との試合は苦しみ以外の何物でもない。
また板ばさみ状態にあるのは姿だけに留まらず、小夜自身もそうであった。
この二つの試練により悟りを忘れて以前の姿に戻りかけていたときの和尚の「その娘の美しい強さに負けない、お前の美しかった時を思い出せ」という言葉がこの作品の一貫したテーマの象徴である。ぱっとあの泥池で目の辺りにした白い蓮が頭の中に現れる。たちまち悟りを取り戻した姿は完全なものとなる。全身全霊をかけた戦いに苦戦しながらも村井を倒し、悪の力を象徴のような月形龍之介(檜垣源之助)もまた姿の前に破れたのである。

勧善懲悪のテーマ、貴種流離譚という物語展開、どれをとっても日本人が大好きなモチーフである。内容も至って単純明快。この映画は初めから姿が勝つに決まっている出来レースめいた作品である。ただ、その期待を裏切られない、期待通りということが我々日本人には受けるのである。
数々の試練を乗り越えてさらに強くなるという構成も、少年漫画と全く同じことから今現在でも通用する価値観であることが窺える。
続編もあるようだが、内容は未だわからない。ただ、貴種流離譚等、今までのテーマを見ると、小夜と夫婦になるか、或いは更なる敵が出てきて、修行により倒すということが考えられる。また最後の決闘で檜垣源之助は姿の力に破れ、改心したということをほのめかされていたから、仲間になっている可能性も高いと思う。
だが、この作品は大衆に向けて作られた感があってどうも私には合わない部分がある。貴種流離譚というのは本来自分の生活している世界では絶対にありえないことへの憧憬の念が強く含まれた理想の世界である。つまり、この作品もまた大衆の理想である。これがよいという絶対的な価値観バックボーンに支えられている作品である。だからなかなか批判批評が出来ない。
上手に作ってあるため非の打ち所がないのだが、しかし私はこの製作年から考えても、暴力を使ってもいいから強く、正しいものがよいという価値観を押し付けようとする魂胆が見え隠れするようで気に食わない。
これは皆が扇動されているなかで一人ぽつねんとそれに疑問を抱いているようでとても心細い感覚であるが、そうした感覚を抱かせるような状態に陥れている世界観にあっぱれと思いながらも嫌悪感も抱くのである。
戦争が終わったとき、本当に強ければよかったのかという思いを日本人はだれもが感じたはずである。アメリカはその強さを盾にして原爆を投下したのである。価値観が変わってしまった戦争後にこの作品を描くとしたらどのように変容したであろうか。
姿は人の道をどのようにとらえるであろうか、これが疑問である。


大河内傳次郎(矢野正五郎)
藤田進(姿三四郎)
轟夕起子(村井の娘、小夜)
月形龍之介(大映)(檜垣源之助)
志村喬(村井半助)
花井蘭子(お澄)
青山杉作(飯沼恒民)
菅井一郎(三島総監)
小杉義男(門馬三郎)
高堂国典(和尚)
瀬川路三郎(八田)
河野秋武(壇義麿)
清川荘司(戸田雄次郎)
三田国夫(津崎公平)
中村彰(新関虎之助)
坂内永三郎(根本)
山室耕(虎吉)

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