太平記 解題

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以前の課題で太平記に用いられている古典籍の研究をして、さらにその興味を引き立てられたのでこの文献をこのような形で再び研究してみたいと思う。授業と重なる点もあるが、同時に新しい発見もあった。調べれば調べるほど奥深く面白い資料である。
①作品名〔漢字表記と平仮名表記・【別名】〕
太平記(たいへいき)【別名】天下太平記
②【製本数量】〔卷軸・冊本・折本〕
40巻
③【成立年代・書写年代】
太平記の成立は一言では表しきれず大変難解なことである。『日本古典文学大辞典』〔岩波書店刊〕にでている文をまとめながら記す。
現存する『太平記』の諸本の中で「古態本」と呼ばれるテクストがまとめられたのは、応安から永和(1365~1379)の頃と考えられる。細川頼之の官領職就任、南北朝動乱の物語を収束させた年が貞治六年(1367)であり、頼之が幕府内の内紛によって失脚し入道して四国に入ったのが康暦元年(1379)であることは重ね合わせて考える必要がある。
古先印元を開山として等持寺が創建された暦応元年(1338)から玄恵の寂した観応元年(1350)までの間に、恵鎮の手許であるところまで完成をみた言わば『原太平記』が、等持寺に隣接する足利直義の三条坊門高倉邸に恵鎮自身によって持参され、それを玄恵が読んで直義の検閲を受けた結果、高名書きを中心とする「書入切出」しの改訂作業がすむまでの間門外不出とされ、その後ある時期に改訂作業が中断されたが、近代になって再び書き継がれたとする。
直義の監督下で改訂作業が足利幕府内での最大の権力抗争であった観応の擾乱の近くまで行われ、
貞和五年(1349)八月の高師直による直義追い落としのための尊氏第包囲事件前後の政治情勢によって改訂作業は中絶し、貞治六年(1367)十一月の細川頼之の執事就任前後から作業が再開されたのではないか。
小嶋法師は玄恵の周囲にいた『太平記』作者の一人、或いは『太平記』編纂工房の中心的な人物で、語りにおいて秀でた人物であろう。
④【著者・編者・ふりがな】
小嶋法師(こじまほうし)諸説あり。詳しくは成立年代のところに記した。
『洞院公定公記』応安年間(1374)五月三日条。
『具注暦』の余白に「伝聞、去廿八九日之間、小嶋法師円寂云々、是近日翫天下/太平記作者也、凡雖為卑賤之器、有名匠聞、可謂無念」と書かれている。この点においては小嶋法師が太平記の著者であるとわかる。
⑤【識語】〔本末・巻末〕
「古今の変化を採つて、安危の所由を察るに」と書き出す序で、作者は「国歌興亡の由来を考えてみると、天の徳を体得した君主と地の道を手本とする良臣とがあって、はじめて国家は平和である。君主が徳を欠き、巨下が道を違えたときは滅亡につながる。前代の聖人の教えを我々は戒めとすべきである」と、その歴史認識の方法を開陳している。
⑥【所蔵・【諸本】〔複製〕】
流布本以外の『太平記』は多数存在する。その中で特に旧態を保っているのが島津家本・北条家本・西源院本・南都本である。太平記京大大惣本(京都大学附属図書館所蔵谷村文庫)は貴重資料である。他に、永和(書写)本〔原本は高乗勲氏所、〕、玄玖本〔前田育徳会尊経閣文庫蔵〕、梵舜本〔前田育徳会尊経閣文庫蔵〕
⑦【翻字資料】
ヘレン・クレイグ・マッカラ〈Taiheiki a Chronicle of Medieval Japan〉
⑧【国語資料】〔【研究】・【文体】など〕
中世において太平記読みと呼ばれる物語僧によって広く語り継がれる。室町時代にはこれに影響を受け多数の軍記物語が書かれる。
また武士にとってはいわば聖典のようなもので、必要不可欠なものとなった。
太平記は研究が盛んな資料であると同時に未だ謎が多いものである。影印、翻刻、注釈と非常に多数の本が出ている。これを研究対象とした文献も多数ある。
またその影響力も非常に強く、特に戦後小説やドラマでこれを描くもの、これに影響されたものが多数確認される。

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