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『伊豆の踊子』川端康成 への試論 テクスト分析から

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私がこの本とであったのは高校2年ごろでしたでしょうか、当時はテクストのての字も知らぬ若輩でしたが、やはり恋物語として読んでいましたね。ところがテクスト分析をしてみると必ずしも恋をかいたものだとは限らないということがわかってきます。

・このテクストは一人称回想体であるが、本文にある「今度の流行性感冒」から語られている過去の出来事は大正7~8年の頃と推定される。この物語はそのまま読んでしまうと孤児根性から脱却する青年の成長物語・踊り子との淡く切ない恋物語となってしまうが詳しく読み込んでいくと違うことがわかる。
・一人称小説であるが、物語内容よりもどのように過去を再現するかが重要となる。なぜなら語り手のフィルターがかかってしまうからである。
・物語の定型であるが、雨のイメージ、そこから男女のであいというよくあるパターンになっている。ところが私と踊子との関係をよく見ていくと踊子からの淡い異性への思いは見られるが、私はその気持ちを受け止めていない。むしろ身体の部分に注目した表現や踊子の今夜が汚されるのではないかという文、名前を知っても踊子という呼称が変わらない点から私は踊子に対しエロスの視線を持っていることがわかる。私と踊子は相手に寄せる感情が全く異なったもので非対称であり、初めは恋愛物語のようであるがその定型を裏切る、期待の地平を切り崩すテクストである。
・No9 孤児根性からの脱却、救済の物語として読めなくはないが、私について細かく分析すると私の実情が読めてくる。道中少し険しい近い山越えの間道か楽な本街道かを決める場面があるが、赤ん坊を産んで間もなく具合の優れない人間がいるのに対し、全く考慮していない点から私の空気の読めない人間性、そしてそれを反省しないということがわかる。
・NO4 私が栄吉に対してお金を放り投げる場面では、私の散財癖が見て取れる。これは先ず私と旅芸人の旅の性質の違いが一つ理由として挙げられる。生活するための仕事として旅をする芸人達に対し、私は観光・癒しが目的であるため余っているお金を男にやることはなんともないことなのである。しかし、「尋常な行為」をしていると考えている私だが、頭上から金を投げられた男にとっては差別を受けているという自意識が芽生えるはずであり、それに対し私は無自覚である。
・赤ん坊の四十九日に一緒にお参りすると約束していた私であったが物語の最後にこの約束を破る。私の理由は旅費がもうないことと学校の都合ということであるが、旅費については旅芸人一行と同じ木賃宿に泊まればその分浮くので差し迫った問題とは考えられないし、男には学校の都合といっておいて、実は金銭的な事情だと説明していることなどを考えると信憑性は低い。またお参りのための服装なのに私を送りに来た栄吉の服を「私を送るための礼装らしい」と思い込んでいることは私の独善的な性格をさらに強調されている部分である。
・テクストの空白については私の心的機構から読み込むことが出来る。私は自らの独善性には悩みで手一杯のため気づいておらず、そのため後悔や反省はない。それどころか本文最後に甘い快さとあり、他に踊子が子供だとわかり拭われたように澄むという表現などから癒しを感じていると判断できる。
・なぜ78年も前の出来事を語るのかという理由については、語っている現時点で、実は孤児根性から脱却しきれていなかったために、過去の旅の思い出に酔いしれたいという願望があるからである。

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