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2017年3月の映画鑑賞 『ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』『ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜』『モアナと伝説の海』

一応エリートオタクを自称する私としては、大学を卒業してもなお、文学士としてのほこりを持ち、映画鑑賞、文芸をチェックしていくことを怠ることはない。
といってもすべてを完璧にこなすことは、『アバウト・タイム』に登場する父さんのように、なんども時間を往復して作品を味わい尽くすことができるわけでもないので、仕事も忙しく自分の時間のもてないなか、限られてはしまう。

ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険
ネットでも話題となっているようである。私はそれらにまで時間を割いている余裕がないので、ネットでどのような批評が繰り広げられているのかしらないが。
モアナを見に行ったところで、時間に都合があったので、その時間にやっていたドラえもんをみることになった。ドラえもんの映画を劇場でみるのは、ほんとうに久しぶりだ。小学生の時にかなり話題になった「ワンニャン時空伝」を見て以来だから、ほんとに13、4年ぶりくらいではないだろうか。
ワンニャン時空伝は、大山のぶ代がドラえもんの声を担当した最後の映画ということもあり、今思えば一つの時代の節目だったような気がする。
一応ドラえもんとクレヨンしんちゃんの劇場版は、旧作はすべて一度は目を通している。
ワンニャン時空伝以降、声優が交代して以降の作品は次の通りだ。
のび太の恐竜2006
のび太の新魔界大冒険 〜7人の魔法使い〜
のび太と緑の巨人伝
新・のび太の宇宙開拓史
のび太の人魚大海戦
新・のび太と鉄人兵団 〜はばたけ 天使たち〜
のび太と奇跡の島 〜アニマル アドベンチャー〜
のび太のひみつ道具博物館(ミュージアム)
新・のび太の大魔境 〜ペコと5人の探検隊〜
のび太の宇宙英雄記(スペースヒーローズ)
新・のび太の日本誕生
旧作時代だからのドラえもんファンとしては、あたらしい声優は、というややアンチめいた感情をもたないでもないが、それでもすでに彼女たちも10年もやっているのだから、そういうことをバカにはできないし、そういうのをいつまでもバカにする態度は老害的態度といわざるをえない。
だが、地上波アニメも声優が交代してからしばらくはみていたが、原作者の不二子・F・富士夫がなくなったということもあり、ストーリーは以前のものの作り直し。私のなかでは記憶があるから、なんだ焼き増しじゃないかと思わざるをえなかった。劇場版についても、きちんと見ていないが、「新」がつくように、それらは過去の名作たちの作り直しでしかない。
新劇場版のほうで見ているのはのび太と緑の巨人伝と新・のび太と鉄人兵団 〜はばたけ 天使たち〜か。鉄人兵団は、加藤浩次が声優を担当したということで話題になっていたのを記憶している。鉄人兵団は、コンスタントに旧作とみたため、その差異があきらかとなり、20年の年月が経つと、どのように表現が変わるのかということを感じた作品でもあった。
新~がついている作品と旧作との比較、というのは、この二三十年での子供向けアニメにおける表現の変容としては、非常に参考になる資料だ。私はいまのところそれらの研究をする精神的な体力も時間もないが、よい視点だとは思う。大学生レベルでもできる比較研究だろう。

今回のカチコチは、完全オリジナル作品というわけであるが、ドラえもんはしばしば自然や科学(科学技術や科学倫理)についての視点を子供たちに提供してきたように思う。
たとえば、私が生まれた年である92年の名作 のび太と雲の王国では、行き過ぎた環境保護(きわめて過激的)は、結局人類をリセットするというノアの箱舟的なところまでいってしまい、一見いいとされるはずの環境保護でさえも行き過ぎはよくないというきわめて啓蒙的な、批評的な作品であった。
今回のカチコチは、とある星での科学技術がきわめて発達したために、その科学の暴走をおさえられなかった人達の悲劇が描かれた。それは日本のアニメが70年代くらいからずっと追い続けて来たテーマであり、そういう意味でこの作品はテーマとしてはとても古いものを取り扱っているということができる。たとえば行き過ぎた科学などで自分の星をほろぼしてしまった、というようなのは、銀河鉄道999や、宇宙戦艦ヤマト、マクロスなどに何度も登場するテーマである。
また自分たちの作り出してしまった兵器がコントロール不能に落ちるという点で、ナウシカの巨神兵を思い起こさせられた。こうした過去の日本のアニメ史へのオマージュが今作は非常にあったと思う。

さすがに2017年という時代だけあって、ドラえもんの映像はきわめてうつくしかった。
セル画的な雰囲気を残しつつ、おそらくデジタルで描いているのだろうけれども、昨今の不自然さがぬぐえないようなCG作品とはことなり、手が書いたような線描がとても温かみを帯びた絵であった。
ドラえもんといえば子供向けであるはずであるが、大人の私がみてもそん色ない作品であったことは確かだ。満足はした。

モアナ
モアナはさすがディズニーという感じであった。これは私のなかで、五段階評価で5の満点を獲得する作品である。
去年一月仕事を休んでハワイでバカンスをしていたということもあり、ポリネシア、太平洋文化といったものを下敷きにしたこの作品に思いを寄せることはいくつかあった。
たしかに今と違ってどこにどんな島があるともわからないなかで、立派な船をつくれるわけでもないなかで、あの広大な大海原へとでていく人間たちの心理はやはりすごいものである。

これまでディズニーはプリンセスが主人公で、そのプリンセスがいかにイケメンの王子様のハートをしとめて「幸せ」になるか?ということを描いてきた。シンデレラ、白雪姫、アリエル、美女と野獣(はややテーマ性がことなるけれども)すべてにおいてそうだった。
それが、70年代ころからはじまる女性解放運動、フェミニズムの台頭によって、痛烈に批判され、それがようやく作品をつくる人間にまで無意識のところまで落とし込んできたのがようやく2010年代ということで、『アナと雪の女王』では、恋愛関係ではなく、人間と人間としての姉妹愛があればそれでいいじゃないか、というフェミニズムにのっとった作品になっていた。これまでの自分の歴史を反省するということをディズニーという巨大な組織ができるようになったのが、やはり時代として意味があるのではないか。
ディズニーに買収されたルーカスフィルムの『エピソード7』もまた女性が主人公であるという点で、フェミニズム的な視点に基づいた作品だったと思う。

今回のモアナもまたそうである。女性が主人公であり、主に登場するのはモアナという少女と、半神半人のマウイという男性のみ。ふつう男女が二人いたらそこには恋愛が自動的に発生しそうなものであるが、そうではないと、たとえ男女二人組であったとしても、性的な関係以外の関係も構築できるだろう、恋愛がすべてではないでしょう、という文化的多様性を見せたのが今回の作品である。

話しはいたって簡単であった。かつてあった調和がとれた世界。そこからマウイというトリックスターが大事な宝を持ち去ってしまう。それが世界の混沌のはじまりで、世界に新しい秩序をとりもどすために、それを元に戻すというそれだけの話だ。話としては非常にふるめかしく、なにか新しいことがあるというわけではない。
話しもきわめて簡単で、モアナという少女がその宝を返しに行くという一点のみ。
日本のアニメのなかで動線がもっともシンプルでわかりやすいのは、ジブリのラピュタのような作品であるが、それ以上にシンプルであるという点で、さすがにディズニーだなと思わずにはいられない。動線がシンプルということは裏返せばストーリー性はないので、へたをするとつまらない、軽薄な内容、となり得ないことはないのだが、それにもかかわらず非常におもしろさを感じるのは、やはり往年のディズニーといったところであろうか。
それと引き換え、日本のアニメーションはというと、2016年に大ヒットした『君の名は』からつづき『声の形』『この世界の片隅に』そして今回の『ひるね姫』、あるいは3・24に金曜ロードショーにで再び再放送された『おおかみこどもの雨と雪』など、もう動線がぐちゃんぐちゃんで、なんなのかよくわからない。そういう技巧をこらさなければならなくなってしまっている、というのは日本のアニメ映画界での衰退ではないかと私は危惧する。『君の名は』はたまたまマーケティングがうまくいっていたので大ヒットしたものの、はっきりいって難しいだろう。よくわけがわからないまま、なんとなく感動したということになっているのではないだろうか。

ひるね姫
ひるね姫には期待していたものの、うーん、日本アニメ映画界のわるいところをそのままトレースしてきてしまったかという感じがして、3点台後半というところだろうか。
やはり動線がごちゃごちゃしているのがいけないと思う。
というか、二つの世界が徐々に近づいてきて交差するというのは、どう考えても村上春樹的(世界の終わりとハードボイルドワンダーランドや、1Q84など)すぎて、日本の文芸は、そういう物語が好きなんですか?といわざるをえない。『君の名は』にしても、二つの世界が徐々に近づいてきて交錯するという点で、この傾向を逃れられない。
瀬戸内海を舞台としているという点で、どうしても私としては『ももへの手紙』や『崖の上のポニョ』と絵のイメージが重なってしまった。

そして語られる夢の物語の主人公が実は自分ではなくその母であった、ということなど、謎解きとしてはとてもおもしろかったものの、結局その二つの交錯する世界の関係を最後まで説明できなかったのは非常に残念である。それを読者にまかせるというのはひとつの手ではあるけれども(村上春樹も謎を回収しないままなんとなく終わってしまうということで、それは読者へ対して失礼ではないか、と散々批判された)、あまり気持ちのいいものではない。シンゴジラのように、解釈合戦をひきおこさせたい、そうした謎にみちた、本編で解決しないというのは、いかにも春樹の『風の歌を聴け』庵野の『エヴァンゲリオン』的であるといえなくもないが。

結局あの魔法が使える国のおはなしは、なんだったのかということがよくわからない。
世界が同時並行的に存在していて、その二つが密接につながっており、まったく違う論理、ひとつは我々が住んでいる現実、物理法則にのっとった世界と、もうひとつは非科学的な法則、魔法の法則が通用する世界がある、という解釈もできる。
あるいは、魔法の国の物語は、いわば「象徴」なのだ、現実をそういうふうにたとえて、比喩をしているのだ、ということもできる。
まあその二つの世界が密接にむすびついているとして、いったいあの「鬼」という存在はなんだったのか、というのは最後まで謎が尽きない。渡辺という人物があやつることができたようであるが、それは魔法の国の話であって、あの鬼が現実世界のなにに相当するものなのか。
おそらくそれは、現実における、あの会社が負うであろう、社会的な負の力というようなものだったのだろう。オリンピックの開会式で車が制御できずに、世界中からバッシングを受け、ひとつの会社がつぶれてしまう。ひとつの会社が国と置き換えられる象徴世界においては、その国をつぶすだけの、ひとびとの想いは鬼ということになるのであろう。それを言葉巧みにあやつって、会社をつぶす、ダメージを負わせるというのはたしかにできたのかもしれない。



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2月鑑賞目録

『子どもの「おそい・できない」にイライラしなくなる本』(PHP研究所2009)
『今どきの大人を動かす「ほめ方」のコツ29』(文響社、2016)
立石美津子『「はずれ先生」にあたったとき読む本』青春出版社 (2014
山口 敬之『総理』(幻冬舎、2016)
朝日文庫編集部 (編集)『ぐでたまの『資本論』 お金と上手につきあう人生哲学』(朝日新聞出版、2017)
青木仁志『一歩前に踏み出せる勇気の書』(アチーブメント出版、2016)

『劇場版 ポケットモンスター 結晶塔の帝王 ENTEI』(2000)

1月 鑑賞目録

『華麗なる微狂いの世界』(洋泉社2016/11/24)
『文学としてのドラゴンクエスト 日本とドラクエの30年史』コアマガジン (2016/12/2)

『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』(1998)
『幻のポケモン ルギア爆誕』(1999)
『野獣死すべし』(1980)
『名探偵コナン エピソード“ONE” 小さくなった名探偵』(2016)
『劇場版 カードファイト!! ヴァンガード ネオンメサイア』(2014)
『探偵オペラ ミルキィホームズ ファンファンパーリーナイト♪~ケンとジャネットの贈り物~』(2016)
『野性の証明』(1979)
『スティーブ・ジョブズ』(2013)
『バイオハザードIV アフターライフ』(2010年)(再)
『バイオハザードV リトリビューション』(2012)

『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』(2016)
『バイオハザード: ザ・ファイナル』(2016)
『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』(2016)

『聖闘士星矢 黄金魂 -soul of gold-』(13話、2015)
『マジきゅんっ!ルネッサンス』(13話、2016)
『亜人』(26話、2016)
『ドリフターズ』(12話、2016)
『ガーリッシュ ナンバー』(12話、2016)
『終末のイゼッタ』(12話、2016)
『ジョジョの奇妙な冒険 Part4 ダイヤモンドは砕けない』(39話、2016)
『夏目友人帳伍』(11話、2016)
『舟を編む』(11話、2016)


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