5月 鑑賞目録

森博嗣『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』(2013、新潮新書)
スーザン・フォワード著、玉置悟訳『毒になる親 一生苦しむ子供』(2001、講談社α文庫)
西川純『すぐわかる! できる! アクティブ・ラーニング』 (学陽書房 2015)
井上 麻紀『教師の心が折れるとき: 教員のメンタルヘルス 実態と予防・対処法』(2015、大月書店)
ルパン三世ファーストシーズン(23話、1971年-1972年)
ルパン三世セカンドシーズン(155話、1977年-1980年)
ルパン三世サードシーズン(50話、1984年-1985年)
超時空要塞マクロス(36話、1982-83)
ルパン三世隠された空中都市

生徒に語ったこと

物語りの意味
現実をそのまま把握することは難しい。人間は何かしら自分の物語をつくりあげて(例えば私はこのような生い立ちだからこのような性格で、このようにものごとを考えて)生きている。
物語りがないと人々は不安になる。物語を語れることは自分を客観視すること。震災の時など、カウンセラーや臨床心理士が最初におこなったことは、患者に自分の体験を語らせることであった。語らせることによって、自分がどのような経験をしたのかを客観視する。最初「私は」だったのが、次第に三人称的な物語りの語り方になってくる。それが癒しであり、治療である。

言葉の力
なぜ国語を勉強しなければいけないのか。私も国語、五十音を覚えるのも漢字を覚えるのも、文章を書くのも苦手だった。しかし、訓練をすればできるようになる。
言葉というのはお金と同じようなもので、所詮はツール、道具でしかない。それをたかが道具だとないがしろにすることも当人の自由である。しかしそのかわりその自由によって生じる結果については責任を持たなければならない(例えばうまくコミュニケーションをとれないとか、貧困のうちに暮らすとか)。
あきらめが肝心というけれども、あきらめとは現状を理解し、うけいれていく力。実際問題言葉をなんと思おうが、好むと好まざるとに限らず私たちは言葉、ロゴスの中でいきていかなければならないのだ。それを嫌おうが、それを嫌うということさえも、言葉で考え嫌っているのだ。どうしたってついてまわるものなのだとしたら、うまくつきあっていったほうがよくはないか。すくなくとも生きるのが楽になるのではないか、と私は思う。
他人とうまくコミュニケーションが取れずに暴力や犯罪などに走ってしまい少年院にはいっている子たちは、とにかく言葉が不自由だという。国語学という学問のなかにはその人がどれだけの単語を知っているかなどを計測したりする分野があるが、そういうものに照らし合わせてみると、少年院の子どもたちは平均よりかなり少ない言葉しかしらないのだ。
言葉をしらないとどうなるのか。人間の感情は複雑である。けれどもその複雑な感情が、「キモイ」「ウザイ」「シネ」といったごくごく限られた言葉にしかならないのである。本当はとてもつらく苦しく悲しい。なぐさめてほしく、いたわってほしい、やさしくしてほしい、愛してほしい、そういう感情がすべて単純化してしまうのである。だから自分の想いが、自分でもわからずに、どうしていいかわからなくなって暴力などになってしまう。だとしたら、自分のことを本当に知るという意味でも、言葉を獲得していかなければならないのではないか、すくなくともそのほうが豊かな人生を送れるのではないか、と私は思う。

みんなが東大の入試に受かるような国語力が必要なわけではない。ただ、自分の人生を生きていく上において、自分のことを自分でよくわかり、それを他人に伝えられるだけのことばの扱いができるようになっていたほうが、より幸せなのではないか?と思い、そういう態度を身に着けてほしいと思うのである。


4月 鑑賞目録

森博嗣『自由をつくる 自在に生きる』(集英社、2009)(評価:2)
岸見一郎 古賀史健『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社、2013)(評価4:5)
小林昭文『アクティブラーニング入門』(産業能率大学出版部、2015)(評価:1)

サイボーグ009(53話、2001-02)
ゴッドイーター(13話、2015-16)
紅殻のパンドラ(12話、2016)
神撃のバハムート GENESIS(12話、2014)
ルパン三世(26話、2015-16)
おそ松さん(25話、2015-16)
機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ(25話、2015-16)
この素晴らしい世界に祝福を!(10話。2016)
僕だけがいない街(12話、2016)
だがしかし(12話、2016)
Fate/Zero(25話、2011-12)
テイルズオブジアビス(26話、2008-09)
化物語(15話、2009-10)

3月 鑑賞目録

森 博嗣『自由をつくる自在に生きる 』(集英社新書、 2009)
矢幡 洋『立ち直るための心理療法』(ちくま新書、2002)
『銀河英雄伝説外伝』52話(1998-2000)
『暗殺教室』22話(2015)
1994年 第6作『ルパン三世 燃えよ斬鉄剣』
2013年 第24作『ルパン三世 princess of the breeze 〜隠された空中都市〜』
『東京喰種トーキョーグール』(2014-15)
BLACK LAGOON
アストロボーイ・鉄腕アトム
このすばらしい世界に祝福を(10話、2016)
ルパン三世(24話、2015-16)

2月 鑑賞目録

総評
一月はなぜかものすごく本を読んだ月だった。岡本裕一郎先生の『フランス現代思想』(2015)という最近の本が、アマゾンでおすすめされていたので、フランス現代思想をいちどきちんと勉強したいと思っていたのでぽちっとしたら、これが度ストライクで僕の好きな分野だった。そのいきおいにのって、一月は現代思想の本を読み漁った。特に仲正昌樹先生の本は、ゲロがでるほどわかりやすくおもしろすぎて、合計で5,6冊買って読んでしまったのではないか。
仲正先生の本を読んで一番私が影響を受けたのは、資本主義も嫌いだし、安倍も嫌いだしということで、かなりド左翼的な言説を繰り返していた私だけれども、右ではないのだけれど、左をきちんと批評した仲正先生の本を読むことによって、私のなかで左がだいぶ相対化された。一度、この人はすごい、この人の意見は聞くべきだとなるととことん納得する性質である。仲正先生すげえ、となったら、彼の左批判も一度取り入れる。そこで私のなかで左への相対化がされ、まあしかしそうはいっても結果として左翼であるのはしかたないとして、だが、単にド左翼的な言説を繰り返すのではなく、きちんと左翼もこういうところがダメなんだよと相対化したうえで、左翼をやるようになったので、以前よりすこし大人になったかもしれない。少なくとも、左翼ダメだね、という意見に対して、感情的に、骨髄反射的に怒ったりするような状態からはひとつ上の状態に移行しただろう。
二月は、ふとしたことからまたアニメを見る月に替わった。
やはりアニメと本と、この二つを同時にこなすのは難しい。それぞれにかなりの時間と体力と気力が必要だからだ。
一月は本を読みまくったので、その反動か、二月はアニメ三昧の日々だった。
まずは最近のアニメ、ご注文はうさぎですか、通称ごちうさというもので、私は最近のアニメよくわからないアニメ中世オタクなんだけれども、バイト先の店長がおもしろかった、女の子が可愛かったといっていたので、話のタネにもなるなと思って風邪をひいて死んでいる時に何もすることもないので一気に全部見した。
もともとが四コマだったのかな?中学生か高校生くらいの女の子たちが、メルヘンチックな世界のとある喫茶店でなにごともない日常をただ平凡に過ごすというアニメであった。けいおんをさらにメルヘンチックにしたような感じだった。徹底的に異性(この場合男性)を排除し、そうすることによって性的役割としての女性を負うことなく、第二次成長期を迎えまいという幻想の中に籠っているようで、私にはちょっと耐えられなかった。宮台真司が90年代くらいにいった、まったりした日常を具現化したみたいで、真綿で首をしめられているような感じがして私には苦手だった。登場する喫茶にかけていえば、砂糖をいれすぎたあまったるいコーヒーのようなアニメといえる。
それをおもしろいと思ってる店長ごめん!実年齢はめっちゃ若いのに、感性めっちゃ古いから、内面おじさんにはこの作品の良さはわからんかったわ、残念。
その後機会あって、ふと前々からサブカル批評では目にしていたけれども実際には見たことがない作品、幾原邦彦監督の『少女革命ウテナ』を見た。最初二十話くらいなかなか進展遅くてつまらないなあと思ってたけど、最後の十話くらいすごいね。特に最終話の感動は、話しの内容がよくわからないのにもかかわらず、めちゃくちゃ感動した。殻に閉じこもっていた少女は、結局世界を革命することができずに、破れてどこかにいってしまったんだけど、でもその革命する途中で、救おうとしていた人物を救うことができ、今度はその救われたアンシーによってこれから救われるのではないか、という希望の物語でしたね。
で、その後幾原監督すごいということになって、2011年の『輪るピングドラム』も鑑賞。
こちらはエヴァよりもさらに解釈のしがいがある作品ではないだろうか。私はいずれ大学教員になりたいなと思っているけれども、担当するサブカルの授業で、この作品を一年間か半年間かけて見て、解釈する授業をしたいなと思った。それほどにこの作品は作品として解釈に耐えうるだけの力があるし、そこに描かれている内容が「現代」を反映していると思われるからだ。
で、あとはこれまたふと選んだ『銀河英雄伝説』を二月の後半はずっとみていた。なにせ百話と長大である。かなりの時間を要した。これも、バイト先のオタク先輩がものすごく好きだということがわかり(まあ今40前後のオタクの人たちはいい意味でも悪い意味でも教条的なところがあって、現代のニューオタくとは異なりいろんな作品を見ることを自分に課していたから知っているだろうという算段があり、話しをふったわけだが)、熱く語り合っている。最初50話くらいまで、ダンバインやボトムズ、マクロス、イデオン、ガンダムのようなアニメっぽいアニソンが好きだったので、エンディングの小椋佳、ぜんぜん合わないよ、と思っていたのだけれど、布施明が好きすぎて知っていた「歓送の歌」と「宇宙の架け橋」がどんぴしゃすぎて、今では毎日聴いて歌っている。
特にここ最近私はこんなに苦しいのならば生きたくない、産んでくれなければよかった、私が望んでこんな世界に生まれたわけではない、とつねづね思っているし、実際辛すぎてそれを父母にぶつけているのであるが、そんななか、「宇宙の架け橋」では、こんな歌詞が流れる。
「確かに勝手に 産み落とされた命 意味も価値も 与えられない儘に」「確かに勝手に 楽しんでいい世界 欲に押され 突き進むのも自由」
まあ後半のそんな人とか呼ばれる命は、過去から未来人への橋渡し、宇宙の架け橋なんだよ、という主張は私にはあんまり魅力的ではないのでどうでもいいのだけれど、とにかく前提として、勝手に産み落とされて、生きる意味も価値もないのだ、という状態、だから、自分勝手に生きてもいいんだよ、という前提、そこに私は感動したのである。
そういう前提なしに、なんとなく生きるのは僕は欺瞞だと思うね。そして本来人間はどこまでも自由な存在なのだ。普段私たちは社会という枠にとらわれ、そんなことを忘れているけれどもね。
まあ、先のことは先のことだ。自殺する勇気もないのだから、このまま生きる苦しみを味わいながら不平不満をこぼしながら生きていくしかない。とにかく今は今の自分と環境を認めること。それからどうすれば少しは楽になるかを考えて、行動して、ゆっくり着実に生きていくしかない。
そんなことを思う一月だった。

書籍
安倍修二、伊藤元重『吉野家で経済入門』(日本経済新聞出版社、2016)
石川 美子『ロラン・バルト -言語を愛し恐れつづけた批評家』(中公新書、2015)
アニメ
『ご注文はうさぎですか?』(12話、2014)
『ご注文はうさぎですか??(第2期)』(12話、2015)
『少女革命ウテナ』(39話、1997)
『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』(1999)
『輪るピングドラム』(24話、2011)
『銀河英雄伝説』OVA110話(1988年-1997)
『わが征くは星の大海』(わがゆくはほしのたいかい)(劇場用映画・60分)1988年
『黄金の翼』(おうごんのつばさ)(OVA・60分)1992年10月
『新たなる戦いの序曲』(あらたなるたたかいのオーヴァチュア)(劇場用映画・90分)1993年

1月 鑑賞目録

1月 鑑賞目録
書籍
仲正 昌樹『〈宗教化〉する現代思想』(2008、光文社新書)
岡本 裕一朗『フランス現代思想史 - 構造主義からデリダ以後へ』 (2015、中公新書)
石田 英敬『現代思想の教科書 』(2010、ちくま学芸文庫)
蓼沼 正美 (著), 亀井 秀雄 (監修)『超入門!現代文学理論講座 』(2015、ちくまプリマー新書)
仲正 昌樹『いまを生きるための思想キーワード』 (2011、講談社現代新書)
鈴木貴博『「ワンピース世代」の反乱、「ガンダム世代」の憂鬱』(2011、朝日新聞出版)
E.L. (著), メイヤー (著), 大地 舜 (翻訳)『心の科学 戻ってきたハープ』(2008、講談社)
仲正 昌樹『集中講義!日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか』(2006、NHKブックス)
仲正 昌樹『思想の死相―知の巨人は死をどう見つめていたのか』(2007、双風舎)

映画
『劇場版 マクロスF 虚空歌姫 〜イツワリノウタヒメ〜』(2009)
『劇場版 マクロスF 恋離飛翼 〜サヨナラノツバサ〜』(2011)
『メガ・シャークVSメカ・シャーク』(2014)
『明日に向って撃て!』(1969)
『コン・エアー』(1997)
第7作『LUPIN THE IIIRD 次元大介の墓標』(2014)
第23作『ルパン三世 東方見聞録 〜アナザーページ〜』(2012)
第25作『ルパン三世 イタリアン・ゲーム』(2016)

月別鑑賞録12月

高田 明典『「私」のための現代思想』 (2006、光文社新書)
ピエール・バイヤール著, 大浦 康介 訳『読んでいない本について堂々と語る方法』(2008/筑摩書房)
大田 俊寛 『オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義』(2011春秋社)

名探偵コナン
31-40
91-100

106ー113
121-130
304
412-417
480-485
775-779

名探偵コナン 1 1997 時計じかけの摩天楼
名探偵コナン2 14番目の標的


スカイフォール
スペクター
スターウォーズ、フォースの覚醒

ドラえもん 1980 のび太の恐竜
ドラえもん 映画 1981 のび太の宇宙開拓史
ドラえもん 映画 1982 のび太の大魔境
ドラえもん 映画 1983 のび太の海底鬼岩城
ドラえもん 劇場版 1984 のび太の魔界大冒険
ドラえもん 映画1985のび太の宇宙小戦争
ドラえもん 1986 のび太と鉄人兵団
ドラえもん 映画1987のび太と竜の騎士
ドラえもん 映画1988のび太のパラレル西遊記
ドラえもん 映画 1989 のび太の日本誕生
ドラえもん 映画 1990 のび太とアニマル惑星
ドラえもん アニメ1991 のび太のドラビアンナイト
ドラえもん 映画 1992のび太と雲の王国
ドラえもん 映画 1993 のび太とブリキの迷宮
ドラえもん 1994 のび太と夢幻三剣士
ドラえもん 劇場版 1995 のび太の創生日記
ドラえもん 映画 1996 のび太と銀河超特急
ドラえもん 映画 1997 のび太のねじ巻き都市冒険記
ドラえもん アニメ1998 のび太の南海大冒険
ドラえもん 映画 1999 のび太の宇宙漂流記
ドラえもん 映画 2000 のび太の太陽王伝説
ドラえもん漫画2001 のび太と翼の勇者たち
ドラえもん 映画 2002 のび太とロボット王国
ドラえもん 2003のび太とふしぎ風使い
ドラえもん 2004 のび太のワンニャン時空伝
ドラえもんの映画 2006 のび太の恐竜
ドラえもん 2007 のび太の新・魔界大冒険~7人の魔法使い~
ドラえもん 映画 2008 のび太と緑の巨人伝
ドラえもん 映画 2009 新・のび太の宇宙開拓史
ドラえもん 映画 2010 のび太の人魚大海戦
ドラえもん映画 2011 新・のび太と鉄人兵団 〜はばたけ 天使たち〜
ドラえもん映画 2012 のび太と奇跡の島 〜アニマル アドベンチャー〜
ドラえもん 映画 2013 のび太のひみつ道具博物館(ミュージアム)
ドラえもん 映画 2014 新・のび太の大魔境〜ペコと5人の探検隊〜
ドラえもん 映画 35 2015 ドラえもん のび太の宇宙英雄記

ドラマ
『エンジェルハート』(2015)
『釣りバカ日誌』(2015)

アニメ
『ヤングブラックジャック』(2015)
『ワンパンマン』(2015)
『すべてがFになる THE PERFECT INSIDER』(2015)
『終わりのセラフ 名古屋決戦編』(2015)

月別鑑賞録11月

総評
11月も充実した一カ月であった
作品鑑賞としては、主にアニメを。小さい頃、引っ越した先で、先任の子どもが残しておいてくれたビデオがあったが、その中に幽遊白書の70話あたりの、せんすいが登場する回が2,3話ビデオに残っていた。よくわからないまま、子どもながらにそれを見ていたものである。それが十数年という歳月を経て、僕が生まれた年から放送していた幽遊白書をきちんと全話鑑賞できたのは、とても感動的なことであったと思う。ヒロインの女の子が可愛かった。
教育実習で知り合った仲の良い女性の方がいるのだが、その人がシティハンターが好きで、母校の文化祭でひさしぶりに会うということになったので、これは機会だと思ってシティハンターを観はじめた。なんとこれは私が生まれる以前の作品である。にもかかわらず、こんなにおもしろいとは。シティハンターのアニメ全話を見て、エンジェルハートへと続き、そのあと他のアニメをちょこちょこと見ていたのだが、私の悪い癖で、アニメそれだけに集中して見ないで、TwitterやFacebookを見ながら、ながら見をしてしまっていたので、どうもあまり記憶に定着していないような気がして、再び見ることとなった。だから、この鑑賞録では一度きりしかシティハンター、エンジェルハートと書いていないが、実は11月の間に、二度もシティハンター全話と、エンジェルハートを鑑賞しているのである。
車が好きな私としては、車をリアルに描写しているシティハンターに登場する車が、古いなーと思わなくもないのであるが、87年、88年の放送当時では、それが最新の車だったのかと思うと、なんだか複雑な気持ちになる。
その後アニメとしては一度きちんと見ておきたいと思っていたカードキャプターさくらへと飛び、その縁でツバサクロニクルを見ることとなった。ツバサクロニクルは、カードキャプターさくらのパラレルワールドのような話しだったが、私はパラレルワールドものが苦手なため、あまりよくわからないまま鑑賞をした。
気がつけば11月も終わりで、20日後半はクレヨンしんちゃんの映画鑑賞に時間を費やした。1作目から22作目まで、全話鑑賞したので、これでクレヨンしんちゃんの映画については一通り人と話すことができるようになった。せっかくなので、このいきおいがあるまま、ドラえもん、コナン、ルパンの映画シリーズを全話鑑賞しておこうと思う。
あと、あまりおもしろくなかったので、書くのを忘れそうになっていたが、邦画も20本あまり鑑賞しておいた。これでここ数年の邦画についてはおさえて感じがあるので、そちらの話もまあできるということで、どんどん武器を貯めこんでいる感じがある。ただ、邦画はやはりほんとにおもしろくなかった。


幽遊白書(112話、1992-95)
シティーハンター(51話、1987 - 1988)
シティーハンター2(63話、1988-89)
映画:シティーハンター 愛と宿命のマグナム(1989)
アニメ:シティーハンター3(13話、1990)
映画:シティーハンター ベイシティウォーズ(1990)
映画:シティーハンター 百万ドルの陰謀(1990)
アニメ:シティーハンター'91(13話、1991)
アニメ:シティーハンター、グッド・バイ・マイ・スイート・ハート(1997)
アニメ:シティーハンター、緊急生中継!? 凶悪犯冴羽獠の最期(1999)
エンジェル・ハート(50話、2005-06)
カードキャプターさくらクロウカード編(46話、1998-99)
カードキャプターさくら さくらカード編(24話、1999-2000)
映画:劇場版カードキャプターさくら(1999)
機動戦士ガンダム THE ORIGIN I 青い瞳のキャスバル (2014)
ツバサクロニクル
次元大介の墓標

はちみつとクローバー
海月姫
荒川アンダー ザ ブリッジ
アマルフィ 女神の報酬
アンダルシア : 女神の報復
武士道シックスティーン
あしたのジョー
妖怪人間ベム
クローバー
今日、恋をはじめます
娚の一生
ひぐらしのなく頃に 誓
犬神家の一族
漂流教室
桜蘭高.校ホスト部
ホットロード
恋す0る♡ヴァンパ0イア
マルサの女
マルサの女2
ツナグ
はやぶさ
100回泣くこと
賭博黙示録カイジ
きいろいぞう
潔く柔く
告白
彼女はうそを愛しすぎている
ソラニン
大奥
愛を歌うより俺に溺れろ!
嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん

名探偵コナン 3 世紀末の魔術師
クレヨンしんちゃん 映画 1 クレヨンしんちゃん アクション仮面対ハイグレ魔王
クレヨンしんちゃん 映画 2 クレヨンしんちゃん ブリブリ王国の秘宝
クレヨンしんちゃん 映画 3 クレヨンしんちゃん 雲黒斎の野望
クレヨンしんちゃん 映画 4 クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの大冒険
クレヨンしんちゃん 映画 5 クレヨンしんちゃん 暗黒タマタマ大追跡
クレヨンしんちゃん 映画 6 クレヨンしんちゃん 電撃!ブタのヒヅメ大作戦
クレヨンしんちゃん 映画 7 クレヨンしんちゃん 爆発!温泉わくわく大決戦/クレしんパラダイス!メイド イン 埼玉
クレヨンしんちゃん 映画 8 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶジャングル
クレヨンしんちゃん 映画 9 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲
クレヨンしんちゃん 映画 10 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦
クレヨンしんちゃん 映画 11 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード
クレヨンしんちゃん 映画 12 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ
クレヨンしんちゃん 映画 13 クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶブリブリ 3分ポッキリ大進撃
クレヨンしんちゃん 映画 14 クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶ 踊れ!アミーゴ!
クレヨンしんちゃん 映画 15 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 歌うケツだけ爆弾
クレヨンしんちゃん 映画 16 クレヨンしんちゃん ちょー嵐を呼ぶ 金矛の勇者
クレヨンしんちゃん 映画 17 クレヨンしんちゃん オタケベ!カスカベ野生王国
クレヨンしんちゃん 映画 18 クレヨンしんちゃん 超時空!嵐を呼ぶオラの花嫁
クレヨンしんちゃん 映画 19 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ黄金のスパイ大作戦
クレヨンしんちゃん 映画 20 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶオラと宇宙のプリンセス
クレヨンしんちゃん 映画 21 クレヨンしんちゃん バカうまっ! B級グルメサバイバル!!
クレヨンしんちゃん 映画 22 クレヨンしんちゃん ガチンコ逆襲のロボ とーちゃん



月別鑑賞録10月

『あしたのジョー』(79話、1970-71)
『あしたのジョー2』(47話、1980-81)
劇場版 とある魔術の禁書目録 ~エンデュミオンの奇蹟~
『劇場版 銀魂 新訳紅桜篇』2010年
『劇場版 銀魂 完結篇 万事屋よ永遠なれ』2013
『氷菓』(23話、2012)
『おおかみ少女と黒王子』(12話、2014)
『スパイラル 〜推理の絆〜』(25話、2002-03)
涼宮ハルヒの憂鬱(28話、2009)
涼宮ハルヒの消失(2010)
ブラック・ジャック(67話、2004-06)
ブラック・ジャック21(17話、2006)
『ブラック・ジャック ふたりの黒い医者』(2005)
『ヤングブラックジャック』(2011)ドラマ
『RAY THE ANIMATION』(2006、13話)
アニメ版 学校の怪談 20話
ブラック・ジャック [OVA](12話、1993-2011)
ゴーストハント(25話、2006-07)
『そにアニ -SUPER SONICO THE ANIMATION-』(12話、2014)
Another(12話、2012)
Code Breaker(13話、2012)
N・H・Kにようこそ!(24話、2006)
『Mnemosyne-ムネモシュネの娘たち-』(6話、2008)
プラネテス ΠΛΑΝΗΤΕΣ(26話、2003-04)
Needless(24話、2006)
OVA:テイルズ オブ シンフォニア THE ANIMATION
シルヴァラント編(第1期) / テセアラ編(第2期) / 世界統合編(第3期)(11話、2007-1012)
陰陽大戦記(52話、2004-2005)

アオハライド(2014)
アクト・オブ・キリング(2012)
エル・スール HDマスター(1982)
ガタカ(1997)
シュリ(1999)
ジャッジ 裁かれる判事(2014)
ダイ・ハード(1988)
リベンジ・マッチ(2013)
神さまの言うとおり(2014)
魔術師(1958)
ロッキー(1976)
ロッキー2(1979)
ロッキー3(1982)
ロッキー4(1985)
ロッキー5(1990)
ロッキー・ザ・ファイナル(2006)
NO(ノー)(2012)
ぼくを探しに(2013)
ショート・ターム(2013)
ミツバチのささやき (1973)
アデル、ブルーは熱い色(2013)
アメリカン・スナイパー(2014)
イントゥ・ザ・ウッズ(2014)
ジゴロ・イン・ニューヨーク(2013)
ストーカー(1979)
フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ(2015)
プリデスティネーション(2014)
悪童日記(2013)
読書する女(1988)
嗤う分身(2013)


月別鑑賞録9月

9月総評。
9月はとにかく映画を見続ける日々であった。たまたまTSUTAYA準新作映画DVDが一つ百円になるというクーポンがあたったのかよくわからないがはがきで届いた。それならばということで、いっちょ準新作映画を観尽してみようと思ったのが9月。二十数年しか生きてはいないが、おそらく記録更新で、一月に40本もの映画を観たのは初めてであろう。ほとんど準新作ということもあり、2013年14年あたりの近年公開された映画はかなり詳しくなったのではないだろうか。また、9月はうつも少し軽くなってきたということもあって、映画館へも足を運ぶことができた。マッドマックスやキングスマン、こころが叫びたがっているんだ、などを劇場で見ることができてよかった。行った場所としては、大島に合宿で、これは嫌な記憶しかないのでもう封印することとしよう。20日には小学校のころの友人の結婚式で大阪に、ひさしぶりにアブダビ時代の友人たちと会うことにもなりよかった。
映画

『ルパン三世VS名探偵コナン THE MOVIE』(2013)
『ホビット 決戦のゆくえ』(2014)
『ネバーエンディング・ストーリー』(1984)
『鑑定士と顔のない依頼人』(2013)
『それでも夜は明ける』(2013)
『蛍火の杜へ』(2011)
『ベイマックス』(2014)
『ファイアbyルブタン』(2012)
『チャーリーモルテガイ』(2015)
『ゴーン・ガール』(2012)
『チョコレートドーナツ』(2012)
『アバウト・タイム〜愛おしい時間について〜』(2013)
『ミュータント・タートルズ 』(2014)
『トラッシュ! -この街が輝く日まで-』 (2014)
『インターステラー』(2014)
『ミュータント・タートルズ』 (2014)
『美女と野獣』 (2014)
『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』 (2014)
『天才スピヴェット』 (2013)
『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』
『劇場版 鋼の錬金術師 嘆きの丘(ミロス)の聖なる星』
『スパイ・レジェンド』(2014)
『ドラフト・デイ』(2014)
『激戦 ハート・オブ・ファイト』(2013)
『ジャージャーボーイズ』(2014)
『フライト・ゲーム』(2015)
『ダウト・ゲーム』(2014)
『グレースオブモナコ』
『パワー・ゲーム』(2013)
『あと1センチの恋』 (2014)
『最高の人生のつくり方』 (2014)
『記憶探偵と鍵のかかった少女』 (2013)
『ワイルドカード』 (2014)
『マダム・マロリーと魔法のスパイス』 (2014)
『サンバ』 (2014)
『イヴ・サンローラン』 (2014)
『LUCY/ルーシー 』(2014)
『96時間/レクイエム』 (2014)
『エクスペンダブルズ3 ワールドミッション』 (2014)

『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』(2015)
『バケモノの子』(2015)
『キングスマン』(2015)
『こころが叫びたがっているんだ』(2015)

『未来少年コナン』(26話、1978)


月別鑑賞録 8月

書籍
村上春樹『スプートニクの恋人』(1999、講談社)
村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』(2000、新潮社)
内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(2007、角川文庫)
内田樹『街場の現代思想』(2008、文春文庫)
佐々木俊尚『ブログ論壇の誕生』(文藝春秋、2008)
宮台真司『終わりなき日常を生きろ』(ちくま文庫、1998)
福井晴敏『機動戦士ガンダムUC①』(角川書店、2007)
福井晴敏『機動戦士ガンダムUC②』(角川書店、2007)
福井晴敏『機動戦士ガンダムUC③』(角川書店、2007)

アニメ
OVA『ああっ女神さまっ』(5話、1993-4)
『ああっ女神さまっ 小っちゃいって事は便利だねっ』(48話、1998-99)
劇場版『ああっ女神さまっ』(2000)
『ああっ女神さまっ』(第一期)(26話、2005)
『ああっ女神さまっ それぞれの翼』(第二期)(24話、2006)
『ああっ女神さまっ 闘う翼』(2話、2007)
『家庭教師ヒットマンリボーン』(203話、2006-2010)
『OVERMANキングゲイナー』(26話、2002)
『∀ガンダム』(50話、1999-2000)
『機動戦士ガンダムSEED』(50話、2002-03)
『絶縁のテンペスト』(24話、2012-13)

ゲーム
『ゼルダの伝説時のオカリナ』
『ブレイブリーセカンド』


月別鑑賞録 7月

月別鑑賞録 7月


書籍
野村総一郎『「心の悩み」の精神医学』(PHP新書、1998)
重松清『流星ワゴン』(講談社文庫、2002)
高田明典『世界をよくする現代思想入門』(ちくま新書、2006)
宇野常寛、更科修一郎『サブカルチャー最終審判 批評のジェノサイズ』(サイゾー、2009)
長谷川宏『高校生のための哲学入門』(ちくま新書、2007)
養老孟司『無思想の発見』(ちくま新書、2005)
河合隼雄、南伸坊『心理療法個人授業』(新潮文庫、2004)
斉藤環『社会的ひきこもり―終わらない思春期』 (PHP新書、1998)
高橋源一郎『悪と戦う』(河出書房新社、2010)

アニメ・OVA
『RDGレッドデータガール』(12話、2013)
『Freeフリー』(一期、12話、2013)
『遙かなる時空の中で-紫陽花ゆめ語り-』(二話、2002,2003)
『遙かなる時空の中で2-白き龍の神子-』(三話、2003,2004,2005)
『遙かなる時空の中で-八葉抄-』(26話、2004-2005)
『劇場版 遙かなる時空の中で 舞一夜』(2006)
『西の善き魔女』(13話、2006)
『ナイトヘッドジェネシス』(24話、2006)
『中二病でも恋がしたい!』(一期、12話、2012)
『東京レイヴンズ』(24話、2013-14)
『よくわかる現代魔法』(13話、2009)
『ソウルイーター』(50話、2008-09)
『TOKKO 特公』(13話、2006)
『RAGNAROK THE ANIMATION』(26話、2004)
『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』(13話、2015)
TL第1期『To LOVEる -とらぶる-』(26話、2008)
OVA『To LOVEる -とらぶる- OVA』(6話、2009-10)
TL第2期『もっとTo LOVEる -とらぶる-』(12話、2010)
テレビアニメ第1期『To LOVEる -とらぶる- ダークネス』(12話、2012)
テレビアニメ第2期『To LOVEる -とらぶる- ダークネス 2nd』(2話、現在進行中、2015)
『異能バトルは日常系のなかで』(12話、2014)
『ゴッドイーター』(GOD EATER)(2話、現在進行中、2015)
『聖剣使いの禁呪詠唱』(せいけんつかいのワールドブレイク)(12話、2015)
『進撃の巨人』(26話、2013)
『終わりのセラフ』(12話、2015)
『伝説巨人イデオン』(39話、1980)
劇場版イデオン『発動篇 Be Invoked』(1982)
アニメ映画『神秘の法』(2013)
『太陽の法』(2000)
『永遠の法』(2006)
『黄金の法』(2003)
『仏陀再誕』(2009)
『げんしけん』(15話、2004)
『げんしけん2』(12話、2007)
『げんしけん二代目』(13話、2013)
第1期『逮捕しちゃうぞ』(51話、1996-97)
『逮捕しちゃうぞ the MOVIE』。1999年
『逮捕しちゃうぞ Special』(6話、1999)
『逮捕しちゃうぞ SECOND SEASON』(26話、2001)
『逮捕しちゃうぞフルスロットル』(24話、2007-08)

ゲーム
『テイルズ オブ デスティニー2』(2002,2007)

月別鑑賞録 6月

総評:5月は、初めて仕事をしていたということもあり、その反動でものすごい作品を鑑賞することになった。普通仕事をしていれば、それだけ時間をとられてしまうということなのであろうが、ストレスの反動があり、自分はこうではないのだ、本来はこうあるべきなのだ、という気持ちからやけくそに作品を鑑賞していった時期であった。暴飲暴食を食べ物ではなくて作品でやってのけた、といった感じだろうか。映画も20本近い勢いのある鑑賞であり、読書も毎日の4時間の往復通勤の時間に費やされた。
しかし、やはり4時間もの往復というのは人間のこころを極めて蝕むものがあるようだ。私はものすごいストレスにかこまれて、たった二ヶ月で会社に行けなくなってしまう鬱状態まで追い込まれてしまった。
仕事を辞めた六月は、ただ何をする気力もなく、ただ茫然自失として死んでいるように生きているだけであった。六月も後半になるとすこしは元気がでてきたものの、やはり外出するのがひどく億劫で、おそらく恐怖心もあると思うが、むずかしいのが現状である。
が、六月前半私をささえてくれたのは、軌跡シリーズのゲームであった。『英雄伝説 零の軌跡』(2010)『英雄伝説 碧の軌跡』(2011)の二つのゲームはその多彩な物語りから、私をなんとか立ち直らせるにはいたらないが、かなり回復の手伝いにはなった作品であると思う。
それからようやく仕事をやめて時間をつくることができるようになったので、一日にアニメを1シーズン、12話は鑑賞するようにしようという日課を始めた。世の中にはあまりにもアニメが多すぎて目が回ってしまうくらいであるが、なんとかしてアニメの世界にもそれなりの地図がひけるようにがんばりたい所存である。

書籍
小浜逸郎『なぜ人を殺してはいけないのか 新しい倫理学のために』(洋泉社、2000)
小林敏明『精神病理からみる現代思想』(講談社現代新書、1991)
志村史夫『文系?理系? 人生を豊かにするヒント』(ちくまプリマー新書、2009)
関口尚『プリズムの夏』(集英社文庫、2003)
由良弥生『大人もぞっとする初版グリム童話』(王様文庫、2002)
ジョージ・G・ロビンソン、越前敏弥・ないとうふみこ訳『新訳 思い出のマーニー』(角川文庫、2014)
中島義道『「哲学実技」のすすめ―そして誰もいなくなった・・・』(角川oneテーマ21 (C-1)、2000)
竹宮惠子、内田樹『竹と樹のマンガ文化論』(小学館新書、2014)
レイ・ブラッドベリ(著), 宇野 利泰 (訳) 『華氏451度』(ハヤカワ文庫SF、1975、2008)
ダン カイリー (著), 小此木 啓吾 (翻訳)『 ピーター・パンシンドローム―なぜ、彼らは大人になれないのか』 (祥伝社、1984)
貫井徳郎『慟哭』(創元推理文庫、1999)
五木寛之・香山リカ『鬱の力』(幻冬舎新書・2008)



アニメ・OVA
『だから僕はHができない』(12話)
『未来日記』(26話、+OVA1話)
『さんかれあ』(12話)
『ロザリオとバンパイア』(12話)
『一番後ろの大魔王』(12話)
『バイオレンス・ジャック』(1986)
『ファイナルファンタジー (OVA)』(1994)
『俺の脳内選択肢が、学園ラブコメを全力で邪魔している』(10話)(2013)
『スクールデイズ』(12話)(2007)
『撲殺天使ドクロちゃん』(12話)(2007)
『アムネジア』(12話)(2013)
『明日の与一』(12話)(2009)
『B型H系』(12話)(2010)
『CHAOS;HEAD』(12話)(2008)
『乃木坂春香の秘密』(12話)(2008)
第2期『乃木坂春香の秘密 ぴゅあれっつぁ♪』(12話)(2009)
OVA『乃木坂春香の秘密 ふぃな〜れ♪』(4話)(2012)
OVA『異世界の聖騎士物語』(12話)(2009-2010)
『天上天下』(26話+OVA2話)(2004、2005)
『会長はメイド様』(27話)(2010)

映画
『逆襲のシャア』(1988)
『ビューティフル・マインド』(2001)

ゲーム
『英雄伝説 零の軌跡』(2010)
『英雄伝説 碧の軌跡』(2011)



月別鑑賞録 5月

月別鑑賞録 5月
書籍
坪田信貴『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』 (角川文庫)
竹田 青嗣『中学生からの哲学「超」入門―自分の意志を持つということ』 (ちくまプリマー新書)
宮部 みゆき『R.P.G. 』(集英社文庫)
道尾 秀介『向日葵の咲かない夏 』(新潮文庫)
香西 秀信『論理病をなおす!―処方箋としての詭弁』 (ちくま新書)
吉本ばなな『キッチン』
安倍公房『砂の女』
鹿島勇『骨の構造改革』
内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書、2002)
リチャード・バック『かもめのジョナサン』(1977)
千田 洋幸『ポップカルチャーの思想圏―文学との接続可能性あるいは不可能性』2013
竹内 敏晴『教師のためのからだとことば考 (ちくま学芸文庫)』1999
坂本 勝『はじめての日本神話―『古事記』を読みとく (ちくまプリマー新書)』2012
近藤 勝重『書くことが思いつかない人のための文章教室 (幻冬舎新書)』2011
春日武彦『17歳という病 その鬱屈と精神病理(文春新書)』2002
大塚英志『物語消費論―キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』(角川oneテーマ、2004)
千田洋幸『ポップカルチャーの思想圏―文学との接続可能性あるいは不可能性』(おうふう、2013)



映画
『あずみ』(2003)
『あずみ2 Death or Love』(2005)
『蟲師』(2007)
『オカンの嫁入り』(2010)
『エンダーのゲーム』(2013)
『バーレスク』(2010)
『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』(2006)
『ブルース・ブラザーズ』(1980)
『ブルース・ブラザース2000』(1998)
『かぐや姫の物語』(2014)
『バタフライ・エフェクト』(2004)
『バタフライエフェクト2』(2006)
『バタフライエフェクト3 最後の選択』(2009)
『マチェーテ』(2010)
『イリュージョニスト』(2010)
『レザボア・ドッグス』(1992)
『ニューヨーク1997』(1981)
『トゥルーマン・ショー』(1998)
『東京家族』(2013)
『寄生獣』(2014)
『バトルシップ』
『塔の上のラプンツェル』
『天上人とアクト人最後の戦い』2009
『TRIGUN Badlands Rumble』(2010)


OVA
『ザ・超女』(ザ・スーパーギャル)(1986)
『炎トリッパー』 (1985)
『カプリコン』(1991)
『ウィンダリア』(1986)
『オーディーン 光子帆船スターライト』(1985)
『マジック・ツリーハウス』(2012)
『茄子アンダルシアの夏』(2003)
『イリュージョニスト』(2010)
『ルーツ・サーチ』(1986)
『魔界都市〈新宿〉』1988
『暗黒神話』(1990)
『真・女神転生』1995
『アップルシード』(1988)
『ベクシル 2077日本鎖国』(2007)
『Z.O.E 2167 IDOLO』
『竜世紀』(1988)


アニメ
蟲師(一期)

演劇
劇団CHEAPARTS『星空ともぐら』

月別鑑賞録 総評

12月と2月は記録不足で書けていない。これからはそういうことがないようにしたいものだ。
やや正確性に欠けるが、まあ私1人の備忘録だ。それほど正確性を求めなくともよかろう、という甘えも生じている。
さて、毎年2月、3月は書き入れ時だ。自由な時間があるので、かなり作品鑑賞にははかどる時期である。記録のある3月は、映画を20本近く鑑賞している。我ながら、この調子で映画マスターへの道を目指したいところである。
4月。4月は、仕事も始まり、これまでのようにはいかないのではないかと不安をしていたのであるが、うってかわって、むしろ、大学時代よりもますます作品鑑賞に精が出る様になってしまったようだ。原因はいくつかあって、きちんとしたリズムが作られているということ。朝必ず起きなければならない。そうすると、それまで惰眠で起きるのが1時とかそういう日にちと比べて圧倒的に活動する時間が増えたのである。そして、私は非常勤をしているから、そのぶん給料は少ないが、時間が沢山できる。どんなに遅い日でも2時には仕事が終わりなので、おひさまが出ている間の半分は自由時間なのである。もちろん夜も。
そして、なによりも特筆すべきなのは、通勤時間である。私は幸か不幸か、横浜の遥か南の追浜というところまで通うことになってしまった。片道通勤1時間40分から50分である。約2時間弱。往復で3時間は超える。この期間がよい読書時間になっている。それ以外にすることもなく、また途中乗り換えが2回あるのであるが、この乗り換えを含めて、電車時間が30:30:30とちょうどキレイに乗り換えという休憩を含め、非常によい読書時間になっているのである。
この安定した読書時間のために、今月はなんと14冊もの本を読むことができたのである。そして、読書途中のものも数冊あるから、実際にはさらに、二三冊足して考えても差し支えない。
また4月は古いアニメーションのOVAを沢山鑑賞した。アニメマスターの道も遠からず、である。

月別鑑賞録 2016 1月から4月

月別鑑賞録 4月
書籍
赤坂 真理 『モテたい理由』(講談社現代新書)
『現代思想のパフォーマンス』 (光文社新書): 難波江 和英, 内田 樹
『戦闘美少女の精神分析』 (ちくま文庫): 斎藤 環
『<脱・恋愛>論―「純愛」「モテ」を超えて』 (平凡社新書): 草柳 千早
『子は親を救うために「心の病」になる』: 高橋 和巳
『大学生のためのレポート・論文術』 (講談社現代新書)
『なぜ「大学は出ておきなさい」と言われるのか―キャリアにつながる学び方』 (ちくまプリマー新書) 浦坂 純子
『心脳コントロール社会』 (ちくま新書): 小森 陽一
恩田陸『ライオンハート』
マーフィー“無限の力”研究会 『マーフィー あなたは、何をやってもうまくいく!―この黄金ルールを守れ! 』(知的生きかた文庫)
ミーハン,トーマス『アニー』
太田 光『マボロシの鳥』
百田尚樹『永遠の0』
J・ウェブスター『あしながおじさん』


アニメ映画・OVA
『風を見た少年』
劇場版『金色のガッシュベル!! 101番目の魔物』
『あらしの夜に』
犬夜叉 紅蓮の蓬莱島
シュタインズゲート
『劇場版xxxHOLiC 真夏ノ夜ノ夢』
ストリートファイターI MOVIE
ストリートファイターII MOVIE
ストリートファイターlV Vostfr
ストリートファイターAlpha Generetion
小鳥遊六花・改 〜劇場版 中二病でも恋がしたい!
闇の司法官ジャッジ
劇場版10 THE LAST-NARUTO THE MOVIE-
神撃つ朱き荒野に
超人ロック
[超人ロック 新世界戦隊 01
超人ロック 新世界戦隊 02
超人ロック Lord Leon OVA
ファイアーエンブレムOVA
イースOVA
サイキック・フォース OVA
『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 維新志士への鎮魂歌』
『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 追憶編』
『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 星霜編』


アニメ
『そらのおとしもの』一期
『そらのおとしもの』二期
十二国記 45話


月別鑑賞録 3月
書籍
岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』
橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』
なかにし礼『戦場のニーナ』
神田昌典『全脳思考』
橋爪大三郎『はじめての構造主義』
宮台真司『日本の難点』
サルトル『嘔吐』
アルフレッド・アドラー『個人心理学講義』


映画
『ものすごくうるさくて ありえないくらい近い』
『風の歌を聴け』

ゲーム
『ファイナルファンタジーⅡ』
『英雄伝説 ガガーブトロジー 朱紅い雫』

マンガ
フェイト全巻
ベルセルク全巻

アニメ
夜のヤッターマン
月別鑑賞録 2月
Mr.ビーン カンヌで大迷惑?!
『わたしを離さないで』
『ファンタスティックMr.FOX』
『ブエノスアイレス』
『ユージュアル・サスペクツ』
『ローマ法王の休日』
『ロッキー・ホラー・ショー』
『時計じかけのオレンジ』
『小説家を見つけたら』
『理由なき反抗 特別版』
『2 ベスト・キッド』
『3 ベスト・キッド 最後の挑戦』
『4 ベスト・キッド』
『エビータ』
『オリバー・ツイスト』
『カルテット!人生のオペラハウス』
『チェ 28歳の革命』
『チェ 39歳別れの手紙』
『ツリー・オブ・ライフ』
『ペイ フォワード』
『楽園追放』
『ユニコーンガンダム』エピソード1~7


書籍
村上春樹『1Q84』book1
村上春樹『1Q84』book2

訪問地
北海道
箱根

ゲーム
『ファイナルファンタジーデシディア』
『スターオーシャンpart2』


1月
有川浩『レインツリーの国』
鷲田清一『ひとはなぜ服を着るのか』
パウロ・コエーリョ『星の巡礼』
宮台真司『14歳からの社会学』
中島義道『働くことがイヤな人のための本』
中島義道『哲学者とは何か』

『STAND BY ME ドラえもん』
『るろうに剣心 京都大火編』
『るろうに剣心 伝説の最後編』
『舞子はレディ』
『ルパン三世』実写映画

月別鑑賞録 11月
・『文学少女』劇場版
・銀河鉄道999・永遠の旅人エメラルダス
・銀河鉄道999 エターナル・ファンタジー
・1000年女王
・劇場版 NARUTO -ナルト- 疾風伝 ザ・ロストタワー
・劇場版 NARUTO -ナルト- 疾風伝 火の意志を継ぐ者
・イヴの時間
・鉄人28号 白昼の残月
・真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ
・Fate Stay Night
・Road to Ninja
・名探偵コナン 異次元の狙撃手
・河童のクゥと夏休み

・アニメ
・Zガンダム 1話から12話
・Gのレコンギスタ 1話から6話

マンガ
・あしたのジョー 一巻(文庫版)

ゲーム
・スターオーシャン1


『ブレイブリーセカンド』感想とレビュー

ブレイブリーセカンドを一通りクリアした。裏ダンジョンや裏ボスがあるのかは今の所知らないが、ひとまず、息をつきたいというところか。というのも、私は最近いろいろなものに体力を見出すのが好きで、世の中にはゲーム体力なるものも存在すると思うのであるが、私自身がそのゲーム体力が高校生くらいのときと比べるとかなり衰えて来たようにも思えるのだ。だから、かつてならば、よし裏ボスまでみっちりコンプリートしてやるぞと思ったところであったろうが、現在となっては、精神状態もあまりよくないということも影響し、ひとまずクリアしたから、もういいかな、という息も絶え絶えな感じなのである。

さて、今回のセカンド。やはりセカンドとタイトルにも名前がばっちりと出てしまっていることであるから、それを購入する人というのは、デフォルトをすでにやったことのある人、に限られてしまうだろう。もちろん何かのミスでセカンドから始めてしまうような人もいるかもしれないが、それはごくごく限られた人数に過ぎない。まあデフォルトはかなりヒットした作品であるから、デフォルトをやった人達の半数でも購入してくれれば万々歳といった計算のもと制作されているのかもしれない。ラストには、ブレイブリーソードの謎が言及され、これは三部目もあるのか?と思わせる内容になっていた。今すぐにはちょっとやりたくないくらいには疲れているが、いずれまたあと一二年経過したあとにであれば、やってもいいかもしれない。

十年代に入ってからは、3・11があり、さまざまな価値観が崩壊してしまったり、今まであった価値観への反逆、まどかマギカのようなカウンターカルチャーが流行ったりした状況のなかで、この作品は、これぞ王道という、王政復古ではないけれども、かなり回帰主義的な部分がないわけではない。
もちろん、3DSのカメラを使用して、ゲームがゲーム内の狭い世界に閉じこもるのではなく、我々プレイヤー世界とも実はつながっているのだ、といったような、メディアを越境するようなおもしろく新しい試みも当然そこには含まれてはいるのであるが。

そうした新しい試みがある反面、いまとなっては、誰も口にしなくなった、くさいようなメッセージをこの作品はプレイヤーに届けようとしているのである。このゲームをプレイしているのが現代若者たちであるとしたら、その若者たちに対してのメッセージというものが、それだけでなくどのような意味を持ちうるのかということを少し考えてみたい。私たちは高度経済成長もバブルも経験していない世代であるから、まったくもって経済や社会に対して明るい未来を見出したことがない世代なのだ。産まれてこのかたいいことはちっともなかった世代といってもいい。そのような世代を生きる人たちは、きっと宮台真司のいうような、まったりとした生などそれぞれ独自な生き方を見付けて行ったことであろう。

私は社会に進出したものの、たった二ヶ月で嫌で嫌で仕方なく、抑うつ状態になってしまってニート、ひきこもりになるという、典型的な現代の挫折物語を体現した人物であるが、そのような人物が多いなか、このゲームはそのような人達にどのようなメッセージを与えるのか、ということが私の気になるところなのである。
というのも、なぜそういう図式が成り立つかというと、そもそもゲームをやる人種というのはかなり限られている。ゲームブームがあるわけでもないし、このようなゲームをやる人種というのは、それだけでかなり限られてしまっているのだ。つまり、必然的にゲームをやる若い世代の、さらにオタクに親和性のあるような人達がプレイすることが前提とされているはずであり、このゲームはそのような人達に少なからずメッセージをおくっているということができると思う。

で、そんないい未来もない、スレてしまった我々若者オタクたちに対して、いまさらそんなのねーよ、といいたいような、「勇気」というものをこの作品は再提示してくるのである。今回はブレイブリーセカンド、やり直す勇気というのがテーマであった。前作ブレイブリーデフォルトは、従わない勇気。いったい何に従わないのか、確かに、そういえば、私たちはなにものにも従っているつもりはなかったかもしれないが、何かに反逆していきていたわけでもなく、それすらも気づかされないような従順な生き方を強いられていたのかもしれない。だからこそ私たちは何かそうした漫然、漠然とした支配的なものからの反逆、自分らしく生きるということをしてもいいのではないか、という目覚めのゲームだったのだ。

しかし、そのように目覚め、自分の生き方を模索しようとするとかならず失敗する。あるいは、そのような模索がなかったとしても、現代の若者は疲れ果て、社会や家族といった、かつて人々を守っていたセーフティーネットはすでに崩壊し、守られるものなき世界において、一人で世界に立ち向かい、恐れおののき、失敗を恐れ、ひきこもりになってしまっている。そのようななかで、もう失敗したくないという想いのために、私たちは身動きが取れなくなってしまっているのである。だが、それでも、ブレイブリーセカンド、がんばリベンジ、諦めない限りはなんどでもやり直せるのだ、ということをこの作品はメッセージとして伝えてくれているのである。

90年代のエヴァ的発想は失敗するのがこわいからなにもしないという想像力であった。宇野常寛は、ゼロ年代の想像力はひきこもっていたら殺されてしまう、というサヴァイブ感と『ゼロ年代の想像力』のなかで見事に喝破した。しかし、それでも10年代の私たちはふたたびひきこもりになっていると思うのだ。ひきこもりは少数派かもしれない。どちらかというと、さとり世代といわれるように、無に近い感覚でこの世界を生き延びようとしている。十年代の私たちは、もはや失敗は最初からつきもので、織り込み済みなのだ。失敗するのはあたりまえ、その上で、さらにどのように生きていくかということを選択しなければならないのかもしれない。

追記として
今作では、ラスボスの存在が、唐突な感じがして、あまり思い入れもなく倒すこととなった。これはドラクエ5でも出た言説であって、ゲマがラスボスになるのかと思ったら、ゲマはラスボスの手下で、その後イブール、ミルドラースと、およそそれまで知らされもしなかった存在がボスになっていき、なんとなくなぜ倒さなければならないのかわからないままに倒すことになってしまった。
前作デフォルトでは、倒すべき敵と思われるのは、最初から最後まで一貫してひとつの存在であったのに対して、今作は、最初は帝国かと思ったら、実はそれをうらであやつっていた、妖精族エアリーであり、さらにそのエアリーを手下としていたプロビデンスという存在だったということになり、プロビデンスがいったい何なのかがよくわからないままにラスボスを倒すということになってしまった。

さらに言えば、ベガとアルタイルがいったいなんだったのか、というのも実は私のなかではちっとも納得がいっていないのである。ベガとアルタイルがそんなに重要な位置を占めるのであれば、もっと初めのほうから、伏線なりを仕込んでおいて説明をきちんとすべきであったろう。
ただ、今回はベガとアルタイルという何億年も前の存在の友人であるという人物が、これまで冒険者として、各地に存在していた謎の人物であったということが判明した。おそらく次の作品をつるくのであろうから、そこで伏線が回収されることを望む。

あとシステム上、どうしてもいっておきたいことがいくつか。
やはりブレイブリーセカンドの課金はどうしたってやめたほうがいいと私は思う。今作は、前作へのプレイヤーたちの意見などをもとに、改良を加えたシステムになったと説明があったが、それはいいとしても、どうしたって課金ゲームに近くなっていってしまっているのは残念で仕方がない。
課金ゲームはカンコレをほんの少しやってしまっただけで、ちっともおもしろくないなと思ってやめてしまったのであるが、ゲーム上必要となってくるなんちゃらストーンのために課金する、といった現代の風潮は、よろしくない、ともちろんそういうのがあってもいいけれども、と思うのである。
何よりも、きちんと料金をはらって購入しているゲームへの課金はやめたほうがよいと私は思う。課金ができる、という説明が作品冒頭のほうでなされたとき、ほんとにこのゲームをやめようかとも思ったくらいだったのである。これでは子供が安心してプレイできないではないか、というのが私の感想だ。子どもには昔のドラクエなどをやらせたいなと私は個人的に思うが、それは安心してゲームができるからだ。もしよくもわからないもののゲームができるといった、小学生くらいの子が、このゲームをやっているなかで、楽にできるからという理由でSPポイントを買いまくってごらん。それを誰が払うのかという問題になる。やはり子供がシステム上安心してプレイできないようには私はしないほうがいいと思う。何よりもそれによって垣根があがってしまうからだ。できることならば、親が安心して子どもに買い与えられるようなものになってほしいものである。



宮台真司『終わりなき日常を生きろ』(ちくま文庫、1998) 感想とレビュー

もはやオウム事件から20年の月日が経とうとしている今更、宮台真司の『終わりなき日常を生きろ』(オウム完全克服マニュアル)を読んだ。
文芸の世界にいると「終わりなき日常を生きろ」というフレーズはよく目にする。それだけ力をもった批評であり、それをみごとに体現しているキャッチフレーズであったということだろう。私自身、そのなんとなくのカッコよさから、勝手に終わりなき日常を生きろ、といったことを発言していたのであるが、実際にその言葉のもととなった本書を読むのは初めてである。

ゆとり世代の私からすると、もはや21世紀において宗教の匂いはほとんどしていない、というのが実情であろう。メディアを新興宗教がにぎわしているということもないし、90年代を子どもとして生きた私にとっては、90年代がそんなに宗教色の強かった世界だったのかどうか、私にはよくわからない。オウム事件があり、新興宗教への嫌悪感がいまだずっと残っている現在において、しかし、そのなかにおいてさえ、宮台の述べた「終わりなき日常を生きろ」という言葉はまだ力を持ち続けているのであろうか。一考すべき問題であると思う。

この本が問題としているのは新人類世代(1956~65年生まれ)とその周辺である。それらの人たちが新興宗教を起こし、そしてもちろんそこにはロストジェネレーションも含まれるであろうが、彼等はその新興宗教を享受した人達である。
宮台は新人類世代が成長期において、70年から80年代にかけての一連の想像力を植え付けられた世代としている。『未来少年コナン』(77)、『機動戦士ガンダム』(79)、『伝説巨人イデオン』(80)、『超時空要塞マクロス』(82)、『装甲騎兵ボトムズ』(83)、『幻魔大戦』(83)、『風の谷のナウシカ』(84)、『北斗の拳』(84)、『天空の城ラピュタ』(86)、『AKIRA』(88)。これらの陰謀論的なSF史観により、オウムは「世の中にはすべて仕掛けがあると考えてしまう」陰謀史観が現れたのだと宮台は言う。

そして問題は、他にもいろいろな作品があるにもかかわらず、なぜこれらの作品を享受し、その想像力のなかで生きなければならなかったのか、という点にある。
80年代には二つの終末観があったという。一つは「終わらない日常」、そしてもうひとつが先にあげたような「核戦争後の共同性」というものだ。「終わらない日常」とはなにかというと、主に女の子の想像力においてこの終末観は現れたが、「輝かしい進歩もないし、おぞましき破滅もない」世界であり、「学校的な日常のなかで永遠に戯れつづけるしかない」のである。
しかし「終わらない日常」では、モテない人間は永遠にモテナイし、さえない奴は永遠にさえない。そこでそんなモテないオタクたちが夢想したのが「核戦争後の共同性」というファンタジーだったというのである。
「非日常的な外部」をその後の世界「未来」に託すことによって、おとこたちは現在を生き、女の子たちは、「前世の転生騎士」に外部を設定することによって「過去」に投影をしたのだ。
80年代において人々は「終わりなき日常」を耐え、そこで生きられるか、生きられないかに二分化される。

終わりなき日常をいきるためにはコミュニケーション能力が圧倒的に必要である。そこでコミュニケーション格差のようなものが生じてしまう。かつては「写真だけで結婚する」ような時代もあったわけで、周囲の人間がなんとかしてくれるし、よくわからなくても周囲の人間の真似をしていれば、なんとなく生きて居られたのである。ところが、人々は自由を手に入れたかわりに、その責任を負わざるを得なくなる。コミュニケーションにしても、それが下手であることは、すなわちダイレクトにその人物の価値にひるがえってきてしまうのである。

そのような時代においては、コミュニケーションスキルに問題をかかえた人達を癒したり、救済したりするシステムが絶対的に必要になってくる。それが結論としてはオウムだったわけだけれども、オウムがつぶれたからといって、そのニーズが減るわけでもないし、それはますます増え続けるだろう。
終わらない日常とは、その責任が本人のものであるという「内的制約」に還元される世界なのである。そこでは永遠にモテナイ人間は持てないまま、いじめられっ子はいじめられっ子のままなのだ。「そういう彼らが、「日常の終わらなさ」を忘れていきようとすればいろいろな物語りや装置が必要になる」。
そんな彼らを救いうるのは「全面的包括要求」に答えうる、宗教と恋愛しかない。宗教は「そういうあなたでも救われます」と、「恋愛はそういう君がすきだったんだよ」と受け入れてくれるわけである。

しかしモテナイのが原因であるから恋愛は難しい。宗教はオウムのようになるし危険だ。そこで宮台が現実的な処方箋として出したのが、「まったり生きる」というものであり。全面的包括要求を放棄して、匿名化、記号化、断片化した存在を生きるというのである。そこにはかつてのような確固とした個は存在しない。
「「まったり生きる」連中は、「輝かしい未来」を必要としていない。彼らがあるかないか分からない「輝かしい未来」のために、現在を我慢して勉強したり、バカな上司の下で辛抱し続けたり、鈍感な亭主や妻のために貞操を守り続けたり、熱烈な政治意識を持ったりすることはないかもしれない」。しかしそのかわりに、終わりなき日常を終わらせようとすることはないだろう。

シロクロ物事がつけられない、漠然としたすっきりしない世界を我々はなんとなくまったりと生きなければいけない。そう宮台はいっているのである。
私のような理想主義者は、それでもやはりということでこの世界の崩壊を望んでしまう。それは現在に翻って言えば、この世界に嫌気がさして「終わらない日常」どころか、「終わらない世界」に耐え切れなくなった人間が、9・11を引き起こしたり、ISISのような国を樹立してしまうのと同じなのかもしれない。


『機動戦士ガンダムSEED』(50話、2002-03) 感想とレビュー いかにして「毒親」と向き合うか

最近突如としてガンダム熱がはいってしまった。もとはといえば、私のサブカルの先生が富野信者で、キングゲイナーをうたっていたことから端を発し、隣接した作品である∀ガンダムを見た次に、では富野監督作品ではないけれども、ということでシードを鑑賞することとなった。
宇宙世紀主義者である私からすれば、同じガンダムを名乗っていいのは、やはり正史に属する作品であってほしい、という選民思想のようなものがあったので、この作品をきちんと見ることができるかどうか、というのが私のなかでの課題であった。

結論としては、まあまともに鑑賞することはできたのではないかと思う。登場人物が、2002年にもなり、富野監督でないために、やはり普通のアニメのような造詣になってしまうのは致し方なかった。私はやや苦手であるが、アニメっぽい登場人物たちの登場によって、これはこれで新しいガンダム像を提示できたのではないかと思う。それよりは、ロボットや戦艦といったものが、宇宙世紀のガンダム作品にかなり寄せられてつくられていたので、その点、かつてからのガンダムファンでも見ることができたのではないかと思う。事実私もそうであった。

さて、しかし50話も鑑賞していながら、なにを論じようかという段になると、かなりむずかしい。それはファーストガンダムにしろ、同じであろう。やはり大きすぎるというのもあるけれど、何を論じていいのかわからなくなってしまうという感じはある。
Wikipediaによれば「監督の福田が公式サイトのインタビューにおいて2004年9月25日付で語るところによれば、『ガンダムSEED』シリーズ第1作は、「キラとアスランを主人公に据えて『非戦』というテーマを描いた」とのことである。」そうだ。しかし、この作品の直前に、∀ガンダムを鑑賞した私としてはこの作品を非戦というのはやや苦しいかなと思うところである。というのも、∀のほうがより真剣に非戦に関しては深く論じていると思うからである。

非戦といいながら結局は「守るもの」のために戦っているし、この作品は非戦と呼ぶにはつらいものがある。それよりかは、戦いたくないにもかかわらず、戦争という現実問題が目の前に展開されるなかで、否応なく守るもののために戦いを選ぶ、という決断主義として捉えたほうが正確であろう。
「加えて竹田は、「再選を果たしたアメリカ ブッシュ大統領がファルージャでの掃討作戦を展開し、ますます混迷を深めるイラク情勢」についても述べ、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』を観ることで「視聴者が世界情勢を少しでも自分の身にひきつけて考えてもらえるようになれば」とも語っていた。」というところからも、この作品がゼロ年代の想像力において、戦わなければ殺される、という緊迫したサヴァイブ空間のなかで、それでも戦わなければならない、という決断主義のほうがより正しい気がするのである。

実際95年のエヴァでは、主人公は24,25話において戦いを放棄して自分の心理のなかに閉じこもってしまったわけであり、その点では、やはりこの作品は非戦というよりかは、決断主義のもとで戦わざるを得ないという選択肢しかとらざるをえない登場人物たちの戦いを描いた作品ということができるだろう。
それよりも私が気になったのは、この作品が、特に前半部において親との関係がテーマとなりうるのではないかという点だ。
最近では「毒親」という言葉がネット、特にTwitterなどで注目を集めている。それまでこのような自分の心情を吐露できるシステムがなかった時代においては、あるいは、知人以外の人間の、自分達と似たような境遇を持った人達のことを知る術がなかった時代は、それらの心情、経験というのは自分個人のものとして、抱え込んで生きていかなければならないことであった。

しかし、このように自分の心情を吐露することができるようになり、また同じような境遇の人を発見しやすくなったということもあり、自分達がいかに、「普通」とは違った育て方や受け方をしていたのかということが露呈し、「毒親」というセンセーショナルな言葉と共に、Twitterの世界などにおいて、その感情や経験の共有がなされてきているのである。
この作品もまた、目標となるべき大人の存在が欠如しており、主要な登場人物たちの親がひどく悪い人物のように描かれていることからも、一つの原初「毒親」作品ということができるだろう。

もちろんこの作品が、よくもわるくもあまりにも巨大な「機動戦士ガンダム」という一連の作品の子どもであるという構造的な問題もそこにはリンクしてくるであろう。この作品は、登場人物たちがそうであるように、すでに社会においては成功している、あまりにも巨大な父母からいかにして、自己というものを立ち上げていくのかというのが問題になってくるのだ。しばしば親が会社社長だったりどこかの議員だったりする子というのは、我々現実においてもかなり歪んだ、いびつな存在になっている。ダメな子どもになっていたり、あるいは完全にくじけてしまっていたり、あるいは親の権力の威を借りていたりと、とかく親の存在が巨大だと子どもというのが歪んで育つものなのである。

さらにこの種という言葉をも示すseedという作品では、親が子どもを自由自在に作れるようになった世界の話を前提としている。私たちはしばしば大人になると自分たちが子どもであったという過去を忘れてしまい、自分の子どもは自分の所有物であるかのような錯覚を思い起こしてしまう。だから、遺伝子操作によってそれが可能となった世界においては、まるで着せ替え人形をつくるかのように、自分の子供を自由自在に作り上げようとするのである。それはもはや子どもという絶対的な他者ではなく、自分の分身なのだ。

「近代」において突如として発生した「家」という概念、集合体は、きわめて歪んだシステムであるということが、もはや言論や思想の世界ではあたりまえのように批判されるようになってきた。しかし、多くの人々にとっては社会学の本を読むでもない限りは、そのようなことは知る術もないであろう。核家族化した家というのは、「他者」「他者の眼」というものが存在しない、きわめて閉じこもった組織である。そこではもはや公というものは存在しない。だからこそ、親と子は、人と人という関係ではなく、家族なんだから、とか親子なんだから、という理由で、意味もなく殴られたり、無視されたり、嫌なことをされたりと、およそ他人には絶対にしないことがまかり通ってしまうのである。私自身、巨大な親というものをもったために、もはや人としてどうしようもないような状況に落ち込んでしまっている経験から、やはり親子という関係においても、「家族だから」の論理ではなくて、「人として」の論理を通した方がいいと思う。

この作品は2002年においての巨大な親をもったがために歪められて育った人物たちを描いた作品なのだ。その存在はあまりにも大きいために、その影響から逃れることはできない。今自分がいる位置というのは、すくなからず親のためであり、アスラン、カガリ、フレイがいまいる場所は親によって提供された特権的な地位なのである。
しかし10年代になれば私たちは自分の経験を他者とわかちあうことができるようになるが、ゼロ年代もまだ初期においてはそういうわけにはいかない。ここに登場する人物たちは、それぞれ「毒親」を持ちながらも、その経験を決して他人と、同じ境遇の仲間と分かち合うことができなかったのである。

この作品の心理描写が少なく、主人公のキラでさえ、ほんのちょっとカガリやフレイになぐさめてもらう程度であり、人々は自分の苦悩を他者と分かち合えていない。その点で、この作品は仲間意識というものはきわめて弱く、本質的には孤独な戦いを強いられているといってもいいだろう。人々は皆、巨大な父や母とどう向き合い、その問題点をあぶりだし、それをどう克服するかを課題としているのである。


佐々木俊尚『ブログ論壇の誕生』(文藝春秋、2008) 感想とレビュー

昨日、わずかではあったが【ニコ生視聴中】佐々木俊尚×モーリー「戦後70年と、これからの“優しいリアリズム”」を視聴。以前から佐々木俊尚の名前は知っていたが、どんな人なのか、初めてみることとなった。とても知性的で、すごくいい印象だったので、自室にあった佐々木俊尚の本を手に取って読んでみることにした。
五段階中、評価は4.良質な本だったと感じた。
さすがはネットにつよいジャーナリストだなという感じ。付録として佐々木氏がおすすめするブログ論壇がまとめられているのがおもしろかった。

もともと討論や議論というのは、この本によれば、17世紀から18世紀にかけての西ヨーロッパ市民社会にさかのぼることができるそうだ。「イギリスのコーヒーハウスやフランスのカフェ、サロンで行われていた討論が、公論の場を生み出し、世論形成の場になった」のだという。
もちろん当時から、そうした議論をすることができたのは知的階級であろうから、それなりの階層の人間である。17,18世紀の服を着て、カフェやサロンで西洋人の男性たちが議論を戦わせていたのかと思うと、それなりに興奮してくる情景である。

そこでは次のような前提があったようだ。
①討論への参加者がどのような社会的地位を持っているのかは、度外視されていたこと。
②それまでの教会や国家によって当然のことだとされていた問題も、タブーなしに自由に討議すること。
③誰もが自由に、討論に参加できること。
こうした土壌があったからこそ、西洋社会は発展していったのだと言える。

しかし、日本では議論を戦わせるよりも、場をわきまえ、おかみの言うことに従うということをよしとする文化体系であったために、議論をあつく戦わせるというような文化は生まれにくかった。それが、現在においても日本人の討論があまり水準として高くないことの原因にもなっているだろう。
しかし、そんななかで、現れたのがこのブログ論壇ということなのである。それまで発言権を持てなかった一般市民がその声を発言できる場が提供されたことにより、玉石混交ある中ではあるが、その玉の部分が相対的に多くなり、ネットの世界に現れて来たというのである。

本書は、ネットに詳しい佐々木俊尚氏が、2000年中盤に話題となったネットでのそれぞれの事例について紹介し、それに対してネット論壇がどのように反応したのかということを、いくつかの例にわけて紹介している。
紹介されたのは以下の通り。
1、毎日新聞低俗生地事件
2、あらたにす
3、Wikipedia
4、チベット問題で激突するウヨとサヨ
5、「小沢の走狗」となったニコニコ動画
6、志位和夫の国会質問
7、安倍の窮地に暗躍した広告ロボット
8、辛抱を説く団塊への猛反発
9、トリアージ
10、承認という問題
11、ケータイが生み出す新たなネット論壇世界
12、『JJ』モデルブログ
13、光市「1・5人」発言
14、青少年ネット規制法
15、「ブログ限界論」を超えて

いずれもおもしろい問題であった。
例えば6の志位和夫の問題では、志位和夫の国会答弁が、非常に論理的であり、検証を重ねた結果出たものだったとして、その親和性からブログ論壇で取り上げられ、ニコニコ動画などでも取りざたされ話題になった問題。1時間もある国会答弁にそれまで多くの人間は見向きもしなかったわけであるが、ネットの普及によって、ニコニコ動画などでコメントをかきながら参加するというような手段を通じて、それがひろまっていったというのが21世紀の政治へのかかわり方なのである。ここでは、より詳しく学びたければブログ論壇を覗けばいいということもあり、そうした政治への関心というものが少なからずよい方向に向かっているということが考えられる。

佐々木の分析によれば、ブログ論壇を形成しているのは、その多くは70年代生まれのロストジェネレーションと言われる世代だという。彼等は団塊世代への不満を持ちながら、条件のよくない仕事をせずにはいられず、そのうっぷんをネットでこぼしているのである。
団塊世代はネットを覗かないので、ネットで当たり前のこととなっているようなことに気が付かない。8では辛抱が必要だというような団塊の世代に対して、ブログ論壇を含め、大きな反発があった。しかし、団塊の世代はネットでそんな反発があるのを知らないので、いつまでたっても二つの溝はなかなか埋まらないのが問題である。

私自身も、そうしたブログ論壇を目指してブログを運営してきた経緯がある。
この本では佐々木俊尚氏が参照するブログ論壇が300ほど付録として最後についている。いずれはそういう場所で紹介されるくらいのブログになりたいものである。
そのためにもより勉強して、もっとブラッシュアップしたものをアップできるようにしなければならないし、また、どのようにかして話題となるようにならなければならない。
目指すは一日に専任単位の人がおとずれてくれるブログではあるが、いまのところは、毎日300人程度の中堅のブログとしてなんとかほそぼそとやっている。閲覧数が増えれば、それだけつっかかってくる人も増えることだし、面倒なことは増えそうである。
だが目標とするのは、編集者なりの目にとまり、書籍化することだ。


『ああっ女神さまっ』感想とレビュー オタク男はいかにして救われるのか

藤島康介原作と『ああっ女神さまっ』のアニメ化されている作品を一気観した。鑑賞したのは以下の通り。
OVA『ああっ女神さまっ』(5話、1993-4)
『ああっ女神さまっ 小っちゃいって事は便利だねっ』(48話、1998-99)
劇場版『ああっ女神さまっ』(2000)
『ああっ女神さまっ』(第一期)(26話、2005)
『ああっ女神さまっ それぞれの翼』(第二期)(24話、2006)
『ああっ女神さまっ 闘う翼』(2話、2007)

藤島康介といえば他に『逮捕しちゃうぞ』が代表作である。二つの作品には、女神様のほうには「他力本願寺」というのが出て、「逮捕しちゃうぞ」には「自力本願寺」という寺が出てくる。これは最初単なるジョークかと思っていたのであるが、主人公たちの行動を見ていると、他力本願なのか、自力本願なのかということで、大きくわけられることに気が付いたので、ここに記しておこうと思う。
やはり逮捕しちゃうぞの主人公二人は、自力でぐいぐいやっていく強い女なので、そこに登場するのは、自力本願寺ということになるのであろう。それに対して、やはりオタク少年は自ら主体的に動くことはなく、すべて外側からの影響によって動くという性格付けがあるので、他力本願時ということになるのだ。

ある日突然女の子(神聖を持った)が落ちてくる、という日本人の発想は、かぐや姫にさかのぼることができると思う。小さいころにそのような幻想を聞かされた男たちは、一方でいつか美男子が自分のことを助けにきてくれるのだというディズニーが量産しつづけた幻想に浸る女子を片目に、それを批判しながら、しかしどこかで自分の目の前にも、いつか自分を救いうる彼女が降ってくるのではないか、という幻想を抱き続けるのである。

それが、86年のラピュタで王族であるシータが空から落ちてくるという、アニメ界にとって衝撃的なインパクトある登場のしかたを見せるのである。もちろんそれ以前にも、当然かぐや姫があったように、空から女の子が落ちてくるという想像力はあったろう、が私は管見にしてラピュタ以前のものを知り得ない。88年の『ああっ女神さまっ』も当然ラピュタのあのセンセーショナルな落ちてくる女神像を踏襲していることは明らかであり、しかも女神であるという点も、オタク的想像力ということができるだろう。

空から女の子が落ちてきて、冴えない持てない自分の人生を一変してくれるのではないか、という想像力は、日本のオタくたちの間ではかなり根強い幻想となった。2007年から連載の水無月すうの漫画作品『そらのおとしもの』は、落ちてくるのが女神であり、しかも三姉妹というところから、ほろんどこの『ああっ女神さま』のオマージュとも言える作品である。2004年から刊行の鎌池和馬による日本のライトノベルシリーズ『とある魔術の禁書目録』も、ある日突然特殊な能力を持った女の子が空から降って来て、自分の家の物干しざおにぶらさがっていたという想像力である。類似した作品を探せば、一つの系譜として研究対象になり得るであろう。

オタクのことを一分の一の描写で克明に描いた『げんしけん』では、オタクというのはなろうとしてなるのではなく、気がついたらなっていたものというオタク定義がある。自分の努力でオタクになったのであれば、非オタクになりたい時にまた同じ努力を費やせばいいのであるが、気がついたらなっているという自然発生的なものだとすると、脱オタクというのは非常に難しいものとなってしまう。
オタクが世間からうとまれ、キモイものとされてきた80年代90年代においてオタクという人種は非常に救いがたい立場にいたのではないだろうか。そうした自分の努力ではどうしようもならないというところで、オタクたちが安易に求めたのは、いつかそんな自分でも絶対的に承認してくれる、お母さんのような彼女だったのである。

オタク学生である森里 螢一は、ある日先輩の電話番をしており、そこで間違い電話をしてしまうことから、女神であるヴェルダンディーを召喚してしまう。90年代生まれの私からしたら、黒電話の前で電話番をしなければならないというのが、すでに時代を表しており、今現在となっては考えられない設定である。
なにかよくわからないが、願い事をひとつだけ叶えてくれるということで、「君のような女神に、ずっとそばにいてほしい」といったところ、その願いが叶ってしまうというラブコメであるが、この願いにこそ、80年代、90年代、いや、今においてさえも、オタクたちの幻想の最も重要なものが現れていると思われる。

オタクたちというのは、何も大金持ちになったり、いい会社に入ったり、いい給料を貰ったり、いい車に乗ったりというような社会的な承認は求めていないのである。2008年(平成20年)6月8日におきた秋葉原通り魔事件を起こした加藤智大(1982年9月 - )も、ネット上に書き込んでいたのは、ひたすら自分の容姿が悪く、彼女ができないことであった。それはなによりも、母親のように無条件で自分のことを愛してくれる存在を求めていたからである。

そもそもなぜオタクがモテないのかといえば、それは社会的な要因が大きいからであろう。社会全体がオタクという人種に対して、ネガティブなレッテルを、例えばマスメディア等で流布しているのが原因である。秋葉原事件もその恰好の的であるが、宮崎勤事件などにより、オタク=犯罪者予備軍というのは、マスメディアによってつくられた幻想であった。一方で日本の女性は、戦後入ってきたディズニーアニメによって、女子は受動態であり、いつか超絶美男子が自分のことを救ってくれるという幻想を強固なものとした。また近年に至っては純愛志向であり、マスメディアが流しているのは、ありえもしない超絶美男子と美女との恋愛である。

こうした情報を普段あびるように見せられた人間たちは、その目標自体がきわめて高く設定され、美男子、美女でなければ付き合いたくないということになってしまう。そのために、全く冴えないオタク男子たちあるいは腐女子たちはイケメンたちのことを恨みながらいつか自分のことをすくってくれる人がくるのではないか、というあり得もしない幻想に余計にひたるようになり、最低限のところで妥協していれば、不細工かもしれないけれども、彼女、彼氏ができるという、小さな承認をより求め辛くなっているのである。

不幸にもまだそれだけの批評性のない時代であった。『ああっ女神さまっ』が男子オタクたちにさらなる幻想を抱かせてしまったのは仕方がないと言えるだろう。一方で突然降ってくる少女像は、完全にロボットになってしまったり、ロリになってしまったりと、まだ単なる美少女であったほうがその欲望としては純粋だった気がするは、屈折してきていることは、今後のオタク的発想がどうなるのかという点に関して興味深い疑問符を投げかけている。


『OVERMANキングゲイナー』(26話、2002)感想とレビュー ゼロ年代にニューフロンティアはあったのか


今回、富野由悠季が好きな僕と親しい先生が、カラオケにいくとよく歌う、キングゲイナーについて、どんな内容の作品なのかと鑑賞してみることにした。
通して鑑賞してみたが、なるほど、なかなかむずかしい、というかなんといっていいのかよくわからない作品である。

Wikipediaによれば、Zガンダム、イデオンなどに代表されるように、登場人物の大半を殺してしまうという「殺しの富野」と言われる富野監督であるが、この作品ではかつての「黒富野」とは対比され、「白富野」、人をほとんど殺さずに描くというところで、白富野の代表作となっているようである。

富野監督のアニメは、たとえばイデオンにしろ、この作品にしろ、何か一つの目的のためへの旅がしばしばそのテーマになることが多い。それは銀河鉄道999や宇宙戦艦ヤマトと同じアニメ文法をたどっており、目的地への旅というたったそれだけの物語構造によって、40話なり、26話なりを持たせることができるのである。日常系と、バトルものが蔓延してきたために、アニメの文法というのはかわり、イスカンダルにいくだけに50話も見ていられないというのが、現代の若者の感覚であろう。実際最近イデオンを見た私は、いったいいつまで地球にたどり着かないんだい、とアニメをかなり見る耐性のついている私でさえ、その展開の遅さにいらいらしたものである。

ガンダムにしろ、イデオンにしろ、冨野監督というのは、このどこか目的地までの旅を描くというのが彼の得意な手法なのだなということが今回よくわかった。
で、今回の「キングゲイナー」はどういう作品なのかというと、これまた不思議な作品であったというほかない。宇宙を舞台としてきた富野監督にしては、規模が小さく、地球上の、しかもある地点での話になっている。ほかのゼロ年代の富野監督の作品を鑑賞していないからよくわからないが、他のゼロ年代の作品にしても、冨野監督の物語舞台の規模縮小というのは傾向としてあるのだろうか。

今回の目的は、北極点に近いドームポリスという場所からのエクソダスであり、その目的地は日本と思われるヤーパンである。設定では、近未来、地球の環境が悪化し、人間が住める土地というのはほとんど残っておらず、数か所に点在する場所においてドームポリスという都市型の船を利用して生活をしていた。そこで人々は管理された生活を送っていたわけである。だがすでにこの時代には、この物語に登場するようにヤーパンのように、いくつかの土地では人々が住めるような土地にもどっているらしいということで、物語は始まるのである。

だが、26話が終わるなかにおいては、主人公たちは目的地であるヤーパンへは到達していない。とすると、本当にヤーパンが人の住める土地になっているのかは、本当のところはわからないのである。オーバーマンのような戦闘ロボットを作り出せるような技術があるのだったら、すでに地球のどこが住める土地になっているかくらいの情報ははいってきそうではあるが、しかしこの世界においては、そうした情報というははいってこないのである。あるいは政府などが管理しているのかもしれない。

物語り構造としては、北極地点から日本へ、途中ロシアのいろいろな土地を巡りながら南下するというそれだけを描いた物語なのである。イスカンダルや地球に行くためだけに、40話も50話もつくってきたかつてのアニメの歴史をたどれば、それだけのためにというのは珍しくもないと感じることもできるが、しかし、ゼロ年代においてこのような日本へ目指すというそれだけを描いた作品というのは、やはり珍しさが残るだろう。

途中までは、エクソダスというのは、当然政府にとっては大変困る話なので、重罪であり、エクソダスする人々をシベリア鉄道警備隊、通称シベ鉄の人間が追うということで物語が進展した。これも富野監督のやりくちであるが、かならず全力で敵は追ってこないのである。逃げるがわである主人公たちには、ほとんど武力はない。キングゲイナーがあるとしても、しかし本当に物量のあるシベ鉄が最初から全力を投資していれば勝てないわけである。だが、それでは物語が終わってしまうから当然戦力を小分けにする。ただ、今回の作品では、イデオンのような小分けではなく、本当に物量が少ないために兵がそんなにいなかったようにも感じられた。そこらへんは上手いなと思った。

途中からはそうした逃げるエクソダス、追うシベリア警備隊という構図がすっとんで、最後の5話くらいは、未知の能力であるオーバーマンのなかでも、特別なオーバーデビルという機械が登場し、シンシアがそれに取り込まれ、世界はオーバーヒートの反対である、オーバークールによって氷漬けにされてしまうという世界の破滅をどう阻止するのかという話になってしまう。二つの勢力が争っていたら、それらがどうでもよくなってしまうような世界崩壊の危機が訪れることによって、なんだかうやむやの混戦のなかにおいて、人々はどうやって世界崩壊を阻止するのかという方向に向かっていく。
真面目な視聴者である私は、エクソダスの行方がどうなるのか、きちんとヤーパンにたどり着けるのか、ヤーパンはどのような場所なのかということが気になっていたので、なんだか逃げられたような気分である。

さて、それにしても論じにくい作品である。むしろなぜ、ゼロ年代において日本という土地を求めなければならなかったのか、というところにこそ、この作品の表象的な意義があると思われるのであるが、それがなんとも見いだせないのである。
確かにマクロスにしろ、ヤマトにしろ、もちろんガンダムにしろ、地球がどうしようもなくなって人々が住めない状況になってしまったという大前提があった。それは進む核兵器の製造や冷戦などから、世界の危機が実際に当時の人達には共有されていたからである。だからこそ、その抑圧された人間達は想像力をSFという形で放出したのだ。

しかしハルマゲドンの予言もはずれ、人々は世界の終わりなどなかったのだ、というまったりとした日常をいきなければならなくなる。宮台真司が述べた「終わりなき日常」である。それに耐えられなかった人々が、オウム真理教の地下鉄サリン事件などを起こしてしまうのであるが、多くの人々にとっては、それが起こってさえも終わりのない日常を生きなければならなかったのである。そのような閉塞感きわまる21世紀、ゼロ年代において、マクロスフロンティアへもきちんと継承されていく、ここではないどこか、への新天地を求めたくなるそのフロンティア精神というのは、この作品にも見て取れることができると思う。

どこに新天地を求めるかというのが、ここからの世界では重要になってくるだろう。それを今多くの国々は、ちゅうごくやインドの市場などに、経済的な観点から求めているのである。しかし、すでに開拓されつくしたこの地球上において、有限の資源から無限の力を引き出そうとしている我々人類はどうしたって行き詰まりを迎えるわけで、私個人としては、今あるもののなかでどう生きていくのかということをまじめに考えなければならないと思うし、そうした想像力の作品が生まれてこなければならないと思う。
反面、もとめるべき新天地を間違うと、ISISのような武装集団にもなってしまうのであるから、気を付けなければならない思想でもあるということは、心に留めておきたいものである。


『家庭教師ヒットマンリボーン』(203話、2006-2010) 感想とレビュー ゼロ年代を生き抜く3つの生き方


ひょんなことから『家庭教師ヒットマンリボーン』を全話鑑賞してみようという気になった。アニメにして総数203話である。これまでにないほどの長さだ。1クール12話の作品が短編小説、2クールが中編、4クールが長編小説と考えると、それ以上である100話をこえる作品は文学作品でいうところの大河小説といったところだろう。いままで『レ・ミゼラブル』や『百年の孤独』を読破した経験から、だいたいそれに対するときと同じような心持で向かった。
しかし、この作品は思っていたほど重い作品ではなかった。もちろんこれだけの量を一気に鑑賞するのは初めてのことであったから感慨は大きいが、しかし流れてしまえばそんなもの、という感じである。

さて、今回アニメ203話のリボーンという作品を鑑賞してみて、私はこれは批評に十分に足る作品だなと感じた。例えば同じくジャンプで連載されていたワンピースやナルトと比べると、その娯楽的な愉しみという点に限っては劣るかもしれない。しかし、この作品がゼロ年代をかけぬけたという背景を考えると、その批評性というのが浮き彫りになってくると思うのである。

この作品のすばらしいところは、まず日常系とバトルものという異なる別ジャンルの描き方を両方とったという点である。日常系は後半につれ、ほとんどなくなってしまうものの、前半ではそのバランス感覚は非常に優れており、これからの作品の目標となるべき視点を獲得したと思われる。ここ最近、藤島 康介原作による二大作品、『ああっ女神さまっ』と『逮捕しちゃうぞ』を鑑賞していて、その「日常」の描き方に、やや胃もたれしていたころ合いであった。もちろん80年後半から90年代における、変わらない日常のなかでどのようにして私たちは生きていくのかというのは、非常に重要な視点であるし、「変わらない日常」が失われてしまった現代においては、ゼロ年代、10年代のサブカル作品はこぞって、幻想的なエターナル的な学園生活を作り出し、そこに耽溺してしまっている。

日常系についてそのような文化的時代背景があるなかで、この作品は、ゼロ年代のただ耽溺するだけという日常に陥る寸前の日常を描いている。しかしそれだけで終わらないというのがこの作品の批評性であり、やはり主人公たるものは成長していかなければならないという点において、この作品は他の日常系の回帰的な時間軸の作品とは異なり、直線状の時間軸への移行がはかられているのである。だからこそ、『ああっ女神さまっ』や『逮捕しちゃうぞ』を観終わった時に、その日常への一種の酔いのようなものを感じながらも、同時にそこからの別れの悲しみも味わってしまうという複雑な、それでいてもうやめてほしい、というような感覚を覚えるのに反して、この作品には直線状の時間軸があるからこそ、風が吹き抜けていくような開放感があり、なによりも見ている者へのつらさ、というものがないのである。

この作品がするどい批評性を持っているのは、まず一点目に主人公である沢田綱吉の生き方のスタンスである。このツナの生き方こそが、宇野常寛のいうところの「ゼロ年代の想像力」のなかでどのようにして生きていくのかという実践的な知見になっていたわけである。詳しく論じていきたいと思うが、タイトルでも表記したように、ツナの生き方の他に参考になる生き方が他に二つあり、それは大空の炎の共にともすことになった、マーレリングの守護者、白蘭と、アルコバレーノの守護者であるユニである。他の登場人物が、例えば山本武、獄寺、お兄さんのように記号化された熱血キャラか、あるいはひばりや六道のように記号化されたクールキャラで、ほとんど現実とは乖離したキャラクター造形であったのに対して、この大空という作品内における重要なモチーフを背負った三名はそれぞれ独自の生き方を示したのである。

まずこの作品が連載されたのが2004年から2012年においてのことで(アニメは2006から2010)あり、この作品の想像力が宇野常寛のいうところの「ゼロ年代の想像力」の範囲内であることは疑う余地がないだろう。
事実この作品の主人公であるつなは、自らは望んでいないにもかかわらず、強制的にマフィアにされ、そこでの戦闘をしなければならない。そこからは、逃れることができないのである。つなには、およそ現代の若者と同じく、暴力を嫌い、なにもできず、なにもしない、という消極的な姿勢がある。これは、現代の若者にとっては感情移入しやすいキャラクター造形だったのではないだろうか。ほかのジャンプの作品が、現実とは乖離して、やる気に溢れたキャラクターであるのに対して、はにかんで自分からは特になんの行動も起こさないつなという人物は非常に現代的であったはずである。

にもかかわらず、そのような非暴力主義の人間をも、戦闘に巻き込むというのが、ゼロ年代の想像力である。この厳しい生存競争の時代において、なにもしないでは生きていけないという厳然たる事実がおおくの若者を襲ってきているのである。そのような事象を作品内において比ゆ的に示しているのが、突然マフィアにされ、戦闘に強制されるところのつななのである。痛みのない優しさでつつまれた日常にひたっていたと思ったら、突然暴力を振るわなければ暴力をふるわれる、というバトルロアイヤル的な世界にひきずりこまれることになる。

そのようななかで、つなは、当初仕方なしに戦っていくが、それでは仲間が傷ついていくということで、より暴力を少なくするためならば、立ち向かって戦わなければならないということに気づき、戦いに赴くのである。
ところが、現代において実際につなのように戦っていける人間というのは少ない。いや、ある意味では普通に社会生活を送ることができているのは、つなのような生き方を選択した人間なのかもしれない。この暴力的な世界のなかで何もしなければ殺されてしまう、では仕方なしにより少ない暴力のために戦おう、ということで、就活をし、社会にでていっている社会人はみなつなの仲間ということができるだろう。

しかし、現代社会においては、少数派であるが、この暴力的な世界を目の前にして、完全に着れてしまった決断主義に陥ってしまうか、あるいは自分の非力さに絶望し、なにもしないままに死んで知ってしまう、ひきこもりになってしまう人たちもまたいるわけである。この作品の優れたところは、それらの少数ではあるが、このゼロ年代において見逃しきれない両極の人物をきちんと描いたということにその批評性があったのである。

言うまでもなくそれらの代表となって物語のなかで比ゆ的に登場するのが、白蘭とユニである。白蘭は、死ぬ間際に、確かになにかに対して熱くなることもできなくはなかった、しかし、冷めてしまうのだ。この気持ち悪い世界のなかにおいては、という世界とのつながりを決定的にもつことができなかった、メタ的な視点をもってしまった人物として描かれている。圧倒的につまらないこの現前する世界をなんとかしなければならないという一種のヒロイズムであり理想主義は、人を容易に決断主義へとおしすすめる。すなわち絶望し、いそぎすぎたがためにそれらの人物はこの世の中をかなり強引な仕方をもって変革をしようとするのである。だからこそ白蘭は選ばれたということを担保に、この世界を支配するという力を得、駆使していくのである。

これらの人物というのは、例えばガンダムにおけるシャアの立ち位置にあった。もともとは全共闘を戦った理想主義の学生たちの成れの果てである。現代においてはそのような、危険ではあるが、しかし確かに元気があった人物というのはもはや少ない。それだけ社会が硬直し、もはや少数の力では変革をすることができない、という前提が徹底的に叩き込まれてしまっているからである。
確かに少数、このような人物が現代にもいるかもしれない。しかし、そのほとんどは、無難なつなの生き方に徹してしまうのである。そして、少数ではあるが、この世界に絶望し、自分の力では何もすることができない、したくない、というひきこもり主義の人間は、このあまりにも暴力的な世界によって殺されていくのである。それがユニの存在なのだ。

ユニの存在は、現代のひきこもりやニートたちのことを象徴的に表している。彼女はつなと同様、非暴力主義の人間である。そしてつなと決定的に違うのは、つながそれでも戦う意思があったのとは違って、こちらには完全に戦意がないということである。戦う術もない。ただ生まれた時から世界(アルコバレーノ)によって呪われているのである。だとすると、このようなどうしても暴力的な世界に組み込まれていく世界のなかで、暴力を振るいたくないし、振るわれたくない人間というのは、死を意味するしかない。それは社会という世界にはコミットできないという意味でも、社会的な死である。だからこそユニは最後に希望を他者に仮託することによってみずからは死を選んだのである。現代のおたくやひきこもりの人間が、私を含め、この暴力的な社会に対応できずに、社会との接点を絶ち、ひきこもってしまう、というのはこの社会においては大きな問題となってきているのだ。

このようにして、もちろん物語の構造上、つなという主人公が全面的に出てはきているが、白蘭、ユニという大空の炎を持った主人公と同レベルで重要な人物の生き方を描写することによって、この作品は、単なる日常バトルもの、といったジャンルわけを越えて、ゼロ年代における生き方を三通り示すことに成功しているのである。それは、ワンピースやナルトといった作品が為し得なかった重層的な構造を生み出しているのである。


旅行記 ~1~ はじめに・総括


実は去年(2014)の12月14日から、1月の16日までの約一か月間、南米縦断の旅をしていた。
なぜ晴読雨読、インテリ貧弱ひきこもり男の僕が、そんなアウトドアなことをしていたのか、話せば長くなる。
旅の直接のきっかけとなったことから話すことにしよう。私にはある友人がいる。この友人は中学、高校と同じ学校に通っていた友人であった。学生時代は特別仲がよかったということではなかったのだが、大学に入ってから、何度か遊ぶ機会があり、友好が結ばれていた。さて、この友人であるが、旅好きなのである。一昨年あたりは、一月くらい、インド、スリランカの旅をしてきたということであった。私の友人のなかでそんなことをした人は他にはいない。物珍しかったのもあって、いろいろと話を聞いたものである。そんな彼が、今度は三か月間、南米の旅をするという話になった。私も当初は、へえ、そんなんだと、他人事のように思っていたものである。
わざわざ羽田まで彼を送りにいったりもしたものである。彼が旅立ってから、私は卒業論文などで忙しさに追われていた。そんななかで、彼がTwitterやFacebookで投稿する写真は、ひときわ輝いて見えたのである。日本と違い、向こうは山間に街ができている。街が、都市が、斜面にひろがり、発展しているのである。その独特の都市像を初めて見た時に、これはなんということなのだろうか、是非自分の目で見てみたい!と思ったものである。

もう一つ、僕を精神的に旅へと向かわせた状況を説明しておかなければならない。
病気のことについてはもう書いたが、僕はその思考が悪い方向へ向かっているためなのかよくわからないが、とにかく生きていても楽しくないのである。これは本当に大問題だ。生きていて、何をしていても、あまり楽しいと思えることがないわけである。おそらくメタ的になりすぎているということもあるのだとおもう。何かを愉しんでいる時でも、それをはっと第三者的な冷たい自分が見ているのである。そんなことに喜んだり、楽しんだりしている自分、というものがもう一人、さらに一段階上の自分によって見つめられることによって、急激につまらなくなってしまう、というようなことなのだと思う。
そういえば僕って一体何が楽しいと思えていたんだっけ、何が僕の幸せなんだっけ。そんなことがよくわからない状況をこの数か月過ごしてきた。そんななかで、ある本に出合った。槙田スポーツという芸人が本名で書いた、槙田雄司『一億総ツッコミ時代』(星海社新書24、2012・9)である。引用してみよう。

「ツイッターで気に入らない発言を罵倒し、ニコ生でつまんないネタにコメントし、嫌いな芸能人のブログを炎上させる。ネットで、会話で、飲み会で、目立つ言動にはツッコミの総攻撃。自分では何もしないけれど、他人や世の中の出来事には上から目線で批評、非難―。一般人がプチ評論家、プチマスコミと化した現代。それが「一億そうツッコミ時代」だ。動くに動けない閉塞感の正体はこうした「ツッコミ方」にある。「ツッコミ」ではなく「ボケ」に転身せよ。「メタ」的に物事を見るのではなく「ベタ」に生きろ。この息苦しい空気を打倒し、面白い人生にするために!~~(略)~~「メタ」という言葉はご存知でしょうか。客観的に、朝刊的に、「ものごとを「引いて」見ること。それを「メタ」と言います。/日本人の最近の傾向としてメタ的な人が多すぎると思います。何事にも首を深く突っ込まず、冷静に事態を眺めている。ひいちゃっているというわけです。/一方で「ベタ」というのは、客観的にものごとを眺めるのではなくて、どんどん行動に移して人生を楽しむ姿勢です。正月に餅をつく。夏は海で泳ぐ。誕生日を祝う。クリスマスはイルミネーションを観に行く。なんとも「ベタ」じゃありませんか。結婚をする。子どもをつくる。子どもの写真を携帯の待ち受けにする。なんとも「ベタ」じゃありませんか!でもそのほうが絶対「面白い」。/なんでも「ベタ」に行動して、人生をグングン前に推し進めていく」

これが槙田スポーツのいうメタな生き方からベタな生き方へという提案である。だが、なぜ人々がメタ的になってきたのか、またメタはよくないのかということを考えれば、そうだとはいえないところがある。むしろメタというのは、物事を客観的に、鳥瞰的に見る視座であり、これはものごとを分析することが必要な場面では、絶対的に必要な視点になるのである。また昨今政治の情勢が不安になってきて、ナショナリズムが高揚したりしているが、ここでベタであるとそのまま右翼化してしまったりして、どうしてもものごとをメタ的に捉える視点というのは非常に重要なことなのである。だが、と槙田スポーツはいう。そうしたメタ的な視点を持ったうえで、さらにベタに徹しきることも重要なのではないかというのが槙田スポーツのいうところであろう。槙田スポーツはメタを排除してベタになれといっているのではない。メタになる視点も重要で、それを持ち合わせつつ、ベタに生きようといっているのである。
ものごとを常に分析し、冷静に見つめ、自分の感情をそこに投入してこなかった生き方。そんなつまらない生き方をいつの間にか僕はしてしまっていた。そうしてその結果、生きていても楽しいと思えない、幸せと思えない状況に陥ってしまっていたのであった。
そんな時に僕はこの本に出会い、ベタに生きてみようと思うようになった。そしてちょうどそれと前後して、僕の友人の旅の写真が僕にある何かを引き起こさせたのである。

僕は人生を楽しむなら今だ。南米にいくなら今だ!と思った。僕は英語もできないし、スペイン語も出来ない。一人で海外旅行もできない。であれば、今現在一人旅をしている彼のもとについていってしまえばいいのではないか?そう思ったのである。
そうして僕は卒論を提出して、口頭試問までの一か月間、空白があることを見付け、その期間、南米を旅することに決めたのである。南米の旅を決めてから二週間で旅に出た。反対から言えば、旅にでる二週間前に旅に出ることを決めたのである。

旅の全行程はこうだ。
当初はおぼろげに、ペルー、ボリビア、チリとしか考えていなかったが、いざ実際現地についてみて、次どうやって次の目的地までいこうか、どこを見て行こうか、と考えるうちに、細かく決まって行った。
僕は先ず南米のペルーに入った。マチュピチュで有名な国である。
標高三千メートルを超える、世界一高い場所にある飛行場、クスコ航空がクスコの玄関口である。僕はアメリカのロサンゼルスを経由して、ペルーの首都リマで乗り換え、小さな飛行機に乗って約一時間ちょっとのフライトでクスコまで行った。合計で二十数時間の旅である。
高山病と時差ボケを直すためにクスコで数日使った僕たちは、その後今回の旅の大きな目的の一つであるマチュピチュへと向かった。標高三千メートルに慣れたあととあっては、マチュピチュの二千六百ほどの高さはなんということはなかった。
そうしてマチュピチュから帰り、今度はボリビアのラ・パスへと向かった。ラ・パスは本当に大きな町であった。ラ・パスに二三日滞在したあと、僕たちは本当にひどい悪路を越えて、今回の旅の目的の最大目標であるウユニ塩湖へと向かった。
ウユニを満喫した後は、大分南下してきていたので、アルゼンチンのサルタに入ることに。このサルタまでのバスは一筋縄ではいかずに、何度か乗り換えがあったのであるが、なかでもウユニから途中のヴィジャソンまでのローカルバスは最悪だった。悪路であることもそうであるし、振動で窓が開いてきて、冷気が流れ込んでくるし、夜中だというのに民族的な音楽がガンガンに流れていて、僕は此の時初めて、「これは修行なんだ」と思わずにはいられなかったほどである。
サルタへ向かったのは、新年を大きな町で迎えたかったからという理由であった。サンペドロ・デ・アタカマが次の目的地だったのであるが、アタカマの新年はしょぼいという情報があったので、サルタに行ったわけである。ペルー、ボリビアとは異なり、アルゼンチンのサルタは非常に洗練された場所であった。それまでの腐臭が漂っていた町が嘘のようになくなり、まるで日本にいるかのような先進国ぶりであった。
サルタで新年を迎えた僕たちはその後、アタカマへ向かった。アタカマを二三日楽しんだ後、今度は旅の四か国目、最後の国であるチリに入った。チリは最北端アリカである。ここも当初行く予定はなかった。サルタまで南下してきたのであるから、そのままサンティアゴまで行っても良かったのであるが、どうしても旅のパートナーがラウカ国立公園が見たいということで、ラウカまで再び北上していったわけである。
そうして今度は友人が大学一年生時の留学で友達になった人がいるというコピアポへ。本来はここを一泊でふっとばす予定だったものの、その友人にもっといろと言われ、その後行こうとしていたラ・セレナを止めてコピアポに三日泊まり遊びほうけた。そうして最後の場所、サンティアゴへと向かい、そこで数日をすごしたのちに日本に帰ってきたのである。
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