シェリーさんへの返答

16/05/06 シェリー
No title
若輩者で半端な理論しか展開できない私がすこしだけ失礼いたします。残念ながら、若輩者であり、学校教育もまともに受けておらず、社会経験も未熟な私が理論的な反論を長々連ねることはできませんが、「非力であるとは何か」「前に進むとは何か」「力はあるとは何か」を論じて、その方を批判するのであれば、あなたが肯定している(のであろうと私は読み取りました。解釈違いならもうしわけございません)同情的・共感的なコメントにあったという「自分も弱者だった」という部分の「弱者とは何か」についても論じ、今一度思考を巡らせ、ご自分の考えをはっきりさせていただきたく思います。 
理論的な言葉を連ねても結局は「自分は非力ではない」と主張して自己を正当化しているように思えますが、「弱者とは何か」を論じずして、同情的なコメントのみ肯定しているということに少々の違和感を覚えました。
あなたほどしっかりと理論を連ねる方がその部分には触れず、藤村男子さんの非難に対してのみ反論し、同情的なコメントに対して思考を巡らせない、というのは如何なものなのでしょうか。最新の記事及び、拍手コメの件に関する記事は拝聴いたしましたが、それでもなお、この点においてのみ反論しない、というのは如何なものでしょうか。
あなたがとても頭がよく、博識で理論的な方であることはよくわかりましたし、それがしっかりと体系化された理論に基づいて防衛行動に分類される、ごく自然なものであるということも承知しております。が、であるからこそ、私はあえて「弱者とは何か」について論じ、同情的コメントに対する反論と批判をしていただきたく思います。これは八割方、理論好き・論じ合い好きな私の好奇心からくる、非常に個人的な希望ではありますが、それはもしかしたら、あなた自身の中で少しだけ前に進む…何かが変わるきっかけになるかもそれません。いえ、もしかすると、変わる必要などないのかもそれません。ですが、それでも、もしかしたら今までとは違った何かを見ることができて、新しい何かを得ることができるかもしれません。そしてそれは私自身も同じであります。
確証のないこ言葉--「もしかしたら」「かもしれない」ばかりを連ねてしまって申し訳ないのですが、このコメントがあなたの心の届き、私の個人的な希望をかなえていただけること、そしてそれがあなた自身や私のこれからの糧になることを切に願っております。

シェリー




私のブログを読んでくださっているシェリーさんからかようなコメントを頂いた。
たしかに、と思う部分が多々あり、これはなにかしらの返答をしなければいけないなと感じたのでここに今、私が思うことを書く。

シェリーさんがまず違和感を覚えたというのは先の記事の冒頭、この部分だ。
「そのところ、いままで三件のコメントを頂いた。
うち二つは、自分も弱者だった、つらい時があった、今はつらいだろう、でもいずれ上手くいく時がくる、といった励ましの言葉だった。ところがその中に一つだけ、藤村男子さんと言う方から、次のようなコメントを頂いた。」

これに対して私が藤村男子氏にのみ猛烈な反論をしたのにもかかわらず、自分に同情的なコメントに対してなんら批判的態度で向き合っていないのはおかしいのではないか?という疑問だ。
これに対して私は次のように答えたい。
正直をいえば、私はこのような同情的なコメントに対しても、あまりよい心持がしなかった、ということだ。
これはもう論理とか理論とかそういうものを超えている。
本音なところを言えば、私がかの国会で話題になった日本死ねではないけれども、就職失敗した資本主義死ね、レベルの感情的な文章をブログにのっけたことからすべてが端を発している。だから、そのような感情的な文章に対して、藤村男子なる人物が、ほぼ感情むき出しの言葉で、お前は幼稚だ、といいたくなってしまう気持ちもまたわかるのだ。私自身私のように自分がうまくいかないことをごちゃごちゃ言い訳しているやつがいたら近づきたくないし、いいかげんにしろ、下手をすると黙れ!と思ってしまうそのことはどうしようもないしまぎれもない本心である。
だが、そのようなどうしようもない感情のなかで、感情を振り回して生きていたらよくないでしょ、というところですんでのところで理性や理論というものが役に立つのだ。
そうでないと、感情だけがまかり通る世界だったら、子供は弱いし、老人も弱い、弱い人間は足手まといだし役に立たないから虐げられていてもまったく問題がないということになる。それは確かにそれで正しいのかもしれないが、弱肉強食という一方の論理がある別の面で、いや、人間は基本的に平等であり、老人や子どもですらも一人の人間としてまっとうに生きる権利があるのだ、という論理もまたあるのである。私はこのような状態が今の世界の状態だと思っている。すなわち何か正しい論理や理論があり、それが体系的になっている、ということではなく、一つの小さな論理があり、それはそれで通用するのであるが、全体を見たときには、それとは反駁する論理もまた存在しているということだ。
だからシェリーさんがいうように私にはなにか体系的な論理や理論があるというのは私自身はそうは思っていない。私は小手先の理論を自分に都合のよいようにつかっているのであり、別の人間、別の経験、勉強をしてきた人間からしたら、それはおかしいというのがあってもまったくおかしくないと思うのである。

私が藤村男子氏に対して怒ったのは、弱り目の時にさらに追い打ちをかけてくるような言葉をかけてきたからであった。
もし、私の論理とは別の論理でまったく理にかなった反論なり、別の意見が提示されていたならば、たぶんわたしはそれもそのとおりだと思って、反論はせず、だからといって肯定もせず、そのままほおっておくか、私が見たくない、不愉快になるという理由で削除するだけのことであったろう。
私が藤村男子氏に反論したのは、その言葉があまりにも他人を思いやらない態度で、しかもまったく論理的手にも少し考えればわかるようなことも(少なくとも私にとって)わかっていなかったので腹が立ってやり込めたというだけのはなしである。

さてシェリーさんの言う通り、私に対して肯定的な言葉をかけてくれたコメントに対して。
まずどんなコメントが寄せられたのかを見てみよう。誰でも見られるコメント欄へのコメントだったので、いいものとしてここに貼らせてもらう。一応誰が出したのかは控えさせてもらう。

「私は幸いにも、資本主義社会で勝ち抜いた父がいるために、家もあるし、食べるものに困ることはない。
だから生きれるといえば生きれるのだ。
--------------------------------------------
まずは、お父様に感謝しましょう。子供を養えない父親だって世間には大勢います。
世界には、本当に頼る人が一人としていない。明日、食べるものがない。そんな人たちにどういう言葉を投げかけますか。けれどね、文中から切羽詰まる焦りを察します。
貴方は、とても真面目な方なのでしょう。「資本主義で勝ち抜いた父親」があなたの生きる方法を狭めているのでしょうか。
とりあえずだけどさ、バイト行ってみればいいじゃんでさ、上手くいかなかったら、
やめればいいじゃん。リハビリだもん。
何度もトライすればいいしいやだったら休めばいいんだよ。何度繰り返してもいいんだよ。
そして、家族に甘えてもいいと思う。自分で生きる道を見出すまでは。だからさ、最初からハードル高くする必要ないじゃん。
うちも、9年間引きこもりもりの息子がいたけれどそして、私は、決して息子には言葉に出しては言わなかったけれど、一生この息子の面倒を見ようと思った。母子家庭で育ててきたけれど、
私が年を取り働けなくなって、食べるものもなくなって、例えば、将来、アパートの一室で、二人一緒に飢え死にして白骨死体で発見されて、それが、新聞の記事に出たとしてもはずかしくなんかないよ。
そう思って接していたら、いつしか息子は立ち直って今は普通の社会人として生活している。なぜ、そうなったのか・・・理由はわからないけれど。
貴方にも、こんなふうに、必死に生きている人が大勢いることをわかって欲しい。私があなたが不幸だと思ったのは一つだけ。「ご飯を美味しく食べることができないこと。」この解決法ぐらいは、父親に甘えてみてはどうでしょうか」



「私の二渚ホくらいの時の状況と似ていて心が痛くなります。
私は序Zで心を壊し、それからなんとか心を修復するのに数年かかりました。私は高校中退を余儀なくされ、当然就職活動もうまく行かない。家族から理解されない辛い日々を送ってました。未だにフラッシュバックに悩まされてます。
私でさえ復活できたのだから、あなたはもっと早く平穏が訪れると思いますよ。停滞しててもいいんです。何回間違えてもいいんです。今がずっと続く訳じゃなく、苦しみはいつか終わる。まだ二藷?ュらいですよね?まだ全然大丈夫です。あなたには本を通して世界を広げ、それを他者に伝えることが出来る、デモに参加するだけの行動力もある。素晴らしい才狽カゃないですか。二渚ホそこそこでそれを出来る方はなかなかいませんよ。
前の方の言うとおり、あなたは真面目なんでしょうね。真面目であるから真剣に悩む。それは美徳ですが、今は肩の力を抜いてゆっくり休養を取りましょう。長い人生のうち数年休んでもすぐ挽回できます。幸いあなたの周りの環境はそれが出来るようですし……
長々と失礼しました。また書評、サブカル評を楽しみにしています。」




まずは最初のコメントに対して。
私が苦しんでいるのは、すべてではないにせよ、父が3,4割ほど原因である。小さな家で父と顔を合わせるたびにその価値観の違いなどから、父の無責任、無思慮な言葉、態度によって私はずっと傷つけられてきたし、かなり消耗させられてきた。
父との問題については、臨床心理士のカウンセラーを第三者にいれて、カウンセリングを開始するなど、私なりに対策はとっており、少しでもよい方向に向かうように、少なくとも父が私に対する無思慮無配慮な言葉をかけるのをやめ、私の心労を軽減できるようにと思って私は具体的対応をとっている。
このことに関して、他人がとやかく、「そんなの家を出ればいいんだよ」といったような言葉をかけるのは、本当に父と同じレベルで無思慮無配慮だと思うし、なんで何も知らない人がそう簡単に解決策を提示できるのか、ということにいまいちど心に問うてほしい。たぶんわからないからいうんだろうから、問えといってもわからないんだろうけど。
だから、父に感謝しましょう、とか、最後まで行っても父に甘えてみては?などというのは笑止千万だし、まったく私の状況を理解していないし、むしろ父が私を消耗させているのにその父に頼ってみたら?というのは、むろんそんな馬鹿なことを私はするはずもないが、もしそのテキトーなコメントに従って私が父に依存し、さらに状況が悪くなったら(アドバイス通りにしたらそうなりそうに思われるが)どう責任を取るのだと私は本当に思う。

私がこころから思っていることは、他人に言葉をかけるということは、ものすごく大変で重いことで、極めて慎重に行わなければならないということ。この一点に尽きる。それが私が大学で文学を四年間専門に勉強してきた結果といえよう。
言葉というのは本当に重い。簡単にひとのことを傷つける。時として救う時もあるけれども。だからこそ、ものすごく慎重にならなければいけないのだ。
熱い思いがあるというのは、なんとなく世間ではいいこととされている。だが、その熱い思いを他人に自分の好き勝手にぶつけることが、どれだけの迷惑になっているかもわからないのだから、私のような臆病者は、迷惑になるぐらいだったらやらない、という結論になってしまうのであるが、そこでそういう結論に陥らない人間は自分の熱い思いを勝手に他人にぶつけていることだろう。
だが、私もそうはいっていても、確かに感情的に感覚的にそういう言葉をかけたくなる気持ちはわかるのだ。なにもできないけど、なにか声をかけてあげたい、それが逆効果になっている場合も結果としてあるが、なにもしないよりかはと思って自分の言葉をかけている。今回の二件のコメントについては、あまり私の状況を理解していないし(シェリーさんほど真摯に向き合っていない)、自分の思いを伝えたいというほうが強く、あまり参考にもならない意見ではあった。だが、それを差し置いても、なんとなくこの人は見ず知らずのブログの記事を読んで、なにか伝えたいこと、応援しているよ、がんばれ、といった気持ちを伝えたかったのだな、と少なくとも私は解釈して、ありがたく受け取ることにしたのである。それが先のブログの冒頭の部分になったわけだ。

むしろ、態度としては二件目のコメントのほうが紳士的である。あなたのことはよくわからないが少なくとも私はこうだったという私に限定して話そうとしている点において。
一件目のコメントは、それはそれなりに9年間ものひきこもりの子供をかかえて人生経験を豊富な方でなにかいいたくなるのもわかるのだが、「~すればいい」という言葉からは、あなたは私よりもいろんなことを知っていて、そうしたらいい、という暗黙の価値判断が根底にあるわけであるが、その価値観事態を疑ってくれ、と私はつねに思っているし、いっているのだ。つまり私がいいたいのはそこにある。なにがいい、なにが悪い、というのは極めて相対的なものでしかなく、その人、時代、場所、性格、・・・すべてにおいて人によってことなるのだから、何をすればいいよ、ということは基本的に本人でない限り言うことが出来ないのだ、と私は思っているのである。そのボーダーラインを簡単にこえて、海外にいけばいいよ、みたいにいってしまうのが、やはりこころがないの?といっていることなのである。

ここまでが寄せられた同情的?肯定的?すくなくともけなしではなくはげましととれるコメントに対して私が思ったことである。


さて、ではシェリーさんが考えてほしい、答えてほしいといった「弱者について」。
ブログではテキトーになんとなくそんなニュアンスだったのではないか、といった思い込みから、これら二つのコメントを、私も弱者だったという同情的なコメントであると評し、紹介してしまった。これはたぶんに解釈の入る余地のある部分なので、いや、そうではないだろうという解釈も可能だし、今私が読んでいても、確かに弱者と言う言葉はつかわれていないし、そういいきるには少し無理があったかなとおも思う。
言葉を大事にしろといっておきながら、あまり考えもせずに弱者という言葉をつかってしまった点について、私は反省しなければならないのだろう。だからそこにはあまり深い意味や考えは存在せず、弱者とは何かということはあまり考えずに使っていた、ということを正直に申し上げなければならない。

ただ、ひとついいたいのは、お前は弱者である、非力である、と他人のことを断定したりすることはできない、というのが私の基本的な考えなのだ。この点、もっと論理的にいえば、他人をなにかであると断言することはできない、という理論になりそうなので、君は力があるとか、強いというのもまた、その人にプレッシャーをあたえることになってよくないといえるかもしれない。肯定も否定もゆるされない、ということになりそうだ。
だが、それとはまた別の部分で、君は魅力的だねとか、君には芯の強さがあるといった励ましの言葉は、論理的にはあまりよくない(アドラー心理学などではほめることもしかることも否定している、に近い論理)のかもしれないが、個人的かんじょうで、僕は君が素敵だと思うよ、といったような言葉を書けるのはいいのではないか?とも思うのである。もちろんこの点についても、君はダメだねといったマイナスは言葉がけはしないほうがいいとは思うのだが。

私が藤村男子氏、それから拍手でのコメントに対して一番反論したい部分は、他人のことを非力だとか、無能だ、幼稚だということは、だれであっても絶対にできないのだということである。もちろんそう自分で思い込むのは自由なのだが。他人のことをそう思うのも自由かもしれないが、そう断言したり、決めつけたりすることはけっしてできない。
この点を私はもっとも重視しているのであって、だからこの部分に触れたために私はもう反論を、そういう言葉をかけてきた藤村男子氏や名無しさんにいいたかったのである。

だから私は弱者を肯定していないし、たしかに弱者だといわれて怒り、私は弱者ではない、これだけ論理の力を持っているのだから非力ではないだろうという反論のしかたをした。

しかしそれは確かにある意味では同じ穴の狢で、相手が非力ではないと認めざるを得ない、少なくとも相手の価値体系の中での議論をしたにすぎないのだ。
本当ならば、論理の力をもっているからといって、非力ではなく、有力?である、というのもまた相手の尺度の中なので結局相手のいっている価値判断のなかに私も加担しているのではないか、ということにはなると思う。
だからもっと正確に返答するには、最初の非力と他人をいうことはできないという部分をもっと協調するだけで、それ以外の僕は散らかをもっているという反論はしてはいけないことになる。

以上が私の答えである。だから私は他人を弱者などといってはいけない、という答えに終始するしかない。

だが、それではシェリーさんの疑問の返答になっていないように思われるので、私になりに考えた弱者や非力という言葉について少し考えをしめしておきたい。
また、シェリーさんはそうすれば変わるのではないか?いや、変わらなくてもいいのかもしれないけれども、といったが、私は変わるかどうかというのは、それもまた本人が決めることであり、本人が変わらなければと思ったら変わるのであり、これでいいのだと思ったら変わらないのであり、それは他人がどうこういえることではない、と基本的に思っている。その反面、もちろん自分の小さい世界で終始している人間を見ていると、もっと変わった方がいいよと思うしいってしまう、ということはあるが。この自分はこうおもっているはずなのに、それとは違うことを他人に対してやってしまっている、というのは、完全に私の弱さであり、私の一貫性のなさであり、論理性のなさである。その点の弱さについては、どうしようもなく言い訳もできないので、そういう人間なのだと認めるしかない。

さて、弱者について。
なんだかんだいって結局非常勤をある学校でとってもらえたので、今現在私のようなものが、ほんとうに問題があるし、たぶんそういうことを書けば「お前のような人間が教師をやっているから世の中悪くなる」というような言葉がふりかかってきそうであるが、一応高校生を教えている。
すると感じることが多々ある。私が教えている学校は専門学校なので、この大学に半数の人間は入る時代において、大学進学率は1割程度しかいない。残りの半分の子が専門学校への進学で、残りは就職なりなんなりをするのだ。
もちろん専門学校で、大学も視野にいれていないので、高校生にもなって、本なんか年間一冊も読まないし、まず主要科目がまったくといっていいほどできていない。私が見た限りにおいては国語はよくて中学レベルである。プリントをくばってかかせてみても、特におどろくのは、文字も小学生レベルで、てにをはもおかしく、ほんとうに小学生レベルの文章も書けない子が指で数えられるくらいだがいるということだ。
私はこれをみていて、これは弱者であるといわざるをえないと思ってしまった。
つまり、確かに学力至上主義はとかなんとか私もいうけれども、しかし他人ができること、少なくとも文章を書いたり読んだり、言葉をつかって聞いたり話したりということが、最低限できない生徒、この子たちはこれから生きていくのがほんとうに大変だろうなと思う。平均的にできれば問題はない。それより努力すれば、お、努力しているなということで、たとえばよく勉強したという証になるいい大学の卒業ということであれば、その努力の報酬として一応いい会社に入れて、いい給料をもらえるという、一応ではあるが建前の努力報酬制度はある。だが、その反面、努力しなかった人間、できなかった人間は評価されることはなく、一生を底辺に近い場所で暮らさなければならないのである。それは確かにある意味弱者なのかなと私は少し思う。
だが、自分があまりにもなにもできずに学校生活も嫌になってしまい、学校生活だけでなく人生にさえもなげやりな態度になってしまっているそういう学生たちをみて、それを弱者であると断定したり決めつけたりすることもまた、極めて傲慢なことなのではないかと私は思う。彼らだって、一二年、あるいはそれ以上にこれから進学も就職もうまくできずに辛いことを経験するだろう。そのなかで、でも生きていくしかないんだということに気づき、ブルーワーカーになって、肉体労働をして、一生懸命に生きる。
だとしたら、最終的にはなにを仕事にするにしろ、一生懸命に生きるのだというところにおいて、それは私の消極的な生なんかよりよほど立派なものなのではないかと思うのである。

そうすると弱者というのは何なのか。
私は一生懸命に生きている人はみな弱者ではないと思う。たとえきわめて劣悪な環境で生活をしていたとしても。
私のように生きることが辛く、生きる気力をなくしてしまった人間、しかし、それすらもできないなかで、精一杯のできること、それは他人からみたらほんとにちっぽけなものでしかないと思うが、そのちっぽけな生をなんとか生きようとしている者、それも弱者とはいえないと私は思う。

結局私が考え、想定する限りにおいては弱者というのはあまり存在しないという考えにたどり着く。
自死を選んだ人間でさえ、弱さからではなく、その人の強さ、誇り、矜持、哲学からだとも思う。
相対的な世界の中で、平均よりもいちじるしくさまざまな面において虐げられている人は確かに弱者なのかもしれない。自分を弱者だということもまた自由だろう。
だから弱者かどうかというのは、それも、であるが本人次第なのだ。自分はもう今は戦えない、無理だ、自分は弱者なんだと当人が思ったらその人は弱者であり、すぐさま行政や公的な者が支援すべきである。
社会的には劣悪にあってもそれでも矜持をもって精一杯生きているんだ、私は強者ではないが弱者でもないと思っているのならそれも弱者ではないのだろう。
明確な結論はない。体系的な知識や論理が存在するわけでもなく、私自身そうではないと思っているので、弱者とは何かといわれて、弱者とはこうだといえるだけの体系的な知識や理論は持ち合わせていない。すくなくともこれは弱者ではないのではないか、こういう場合は弱者といえるのではないか、というふうにいうのが限界といえよう。
これで答えになっただろうか。

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