感情の発露がわからないために教員にむきだしの嫌悪感をぶつけるしかない女子高生に告げる

高校生。これから大学、あるいは就職、いずれにせよ、いままでの良くも悪くも小さな箱庭でしかなかった、ある意味では大人によって支配、だが、安全を確保されていた世界から解き放たれる、あるいは放り出される前の、不安、あるいは期待のなかで生きるしかない時代。
しかし、いままで子どもだからということで、学校という比較的善良な大人によって囲い込まれることで、むき出しの感情をぶつけてこられなかったための甘さがあるといえよう。
大人によって安全だが、退屈に囲い込まれた小さな世界。そのなかで生きていくのは確かに窮屈で大変なことだ。アンニュイになるのもわかる。自由にやりたいという意志をもっても、強固な大人が壁となって立ちはだかる。その点は、社会に出てしまえば、だれも止める人がいなくなるので、自由な服装、自由な髪形、自由な性格で生きていくことができるだろう、自分の責任において。
しかし、高校生ではそのような広い世界に行く前の段階にあるから、もはや行き詰まり、煮詰まった感情はどのように発露していいかわからない。フロイトのいうように、抑圧された感情を、自分の趣味などについやす人もいるなかで、そうできない人もいる。
そのなかで私が今回話したいのは、その煮詰まった逃げ場のない感情を、大人の代表である教師に、嫌悪感、という醜い形でぶつけることしかできない生徒たちについてだ。

たしかに、逃げ場がない状況で、親にも教師にも、ああしろこうしろと言われ、嫌気がさすのも十分にわかる。そうした社会、囲い込まれている囲いに対して抗う、自分の自由をつらぬくためには、親、あるいは教師に感情をぶつけるしかない。それもできるだけ卑劣な方法で、嫌悪という感情の形で。
そう考えると、そのようにしか表現できない生徒というのは、ある意味では一番追い込まれた被害者なのかもしれない。
しかし、被害者だからといって何をしてもいいわけでもなく、また被害者だからといって一方的な被害者という立場に安寧できるはずもなく、その嫌悪の発露がある意味では加害になっているということを私は今回述べたいのだ。

私はアドラーの心理学などを通じて、もはや立派な人間とか、見栄えのいい人間、というのを目指すことをやめた。嫌われる勇気である。だから、私はこれまでの社会、歴史、文化がもとめてきたような理想の教師像からは大きく外れる人間像を提示することになるだろう。ある意味では反面教師といえるかもしれない。
さて、私や同僚の教師に対して、勉強不足のためにまだコトバを獲得しておらず、自分の感情の区別さえもつかない、なんとなく嫌だという想いを、キモイ、ウザイといった単語でしか表現できない十二分なまでに貧しい心の持ち主に、私はあえて、かわいそうだね、ということでもなく、教師として立派にでもよくなるよ、と前向きに対するのではなく、あえて鏡面のように同じ態度をとろうというのだ。
すなわち、君が勉強不足、経験不足のために感情が未分化であり、それを表現することもしらない弱者だからといって、その弱者に甘んじて教員に嫌悪感をぶつけるしか現状を生き抜く仕方がないとしても、その嫌悪感をぶつけられたほうのこちらもまた人間であり、君と同じレベルにおいて、受けた嫌悪感を持つのだということ。

現実の社会は厳しくつらい。人はもはや君が子どもだからとか、学生だからという前提を抜きにして、嫌悪感を平気でぶつけてくるだろう。しかし、それは教員に平気で嫌悪感をぶつけていた君のなれの果てなのだ。君が、勉強不足経験不足なために感情を認識できず、ばくぜんとしたものを「嫌」という態度でしか表現できないその能力不足が、すなわち君が社会に出た時に、厳しく人に接せられる原因を生み出しているというのだ。それをわかったときに、人は人にやさしくできる。
確かにすべては自由だ。君が自分の嫌悪をふりまきちらしてでも、生きたいというのならそれは自由としかいいようがないが、その結果他人も嫌悪をふりまきちらし、厳しくつらく当たられる社会を構成しているのが自分と自分の分身なのだとすれば、もし、少しでもよい社会、生きやすい環境で生きたい、という欲求がわずかにでもあるならば、人に配慮し、嫌悪をぶつけることでしか自分の感情の爆発を制御できないという状態に少しは問題を感じ、例えば文学を読むなどによって人間の感情の機微をしり、思慮深い人間になるべきだとは思わないか。

「無能」で「幼稚」な私がお返しする、贈る言葉

どなたなのかは存じませんが、28日、コメント欄ではなくて、わざわざ拍手を押してくれた上での、拍手でのコメントありがとうございます。

就職活動がなかなかうまくいかず、身体的にもかなり厳しかった二月、愚痴をかきました。ふつうの人が普通にやっているレベルの愚痴を、僕は少し理屈っぽいから、資本主義とか社会のせいのようにして、愚痴りました。
ただ、それって、ごくごく普通のことだと思うんですよね。

ありがたいことに、コメントをくださった、どなたか、藤村男子さんなんでしょうか、それともかの校長先生?
「自分の無能さを資本主義や社会のせいにするというのが幼稚で、そんな幼稚な文章は読む価値もない」というコメントをいただきました。ありがとうございます。私にとっては、もういろいろとおいしすぎてたまりません。

私が前回藤村男子さんにかなり長めの反論を、かなり徹底して、今落ち着いて文章を読んでも論理の飛躍などがないように論理的に書きました。
なぜそこまで力をいれて反論しなければならなかったのかというと、もちろん人間に上下などといったものは存在しない、というアドラー心理学などに私は基づいていますが、それでも、それまでの世界の認識のしかたから、私よりなにか立場や存在が上、であるかのような人にこころない暴力的な言葉をかけられたから、そういうのはいけない、暴力だよとわかってもらうために反論したのでした。それも、感情論なら一方通行になってしまうのを、きちんろ論理という、客観性のあるもので、だれもが議論できるように。

しかしです。そのような反論を行ったところ、いきなり「自分の無能さを資本主義や社会のせいにしている」という言葉できました。
はい、おいしいですねえ。
えーっと、まず、他人をいきなり「無能」よばわりできるって、いったいどういうわけでしょうか。
なぜ誰かはわかりませんが(こういうところもずるいですよね、私は一応ペンネームも出しているわけですし、自分の所在を明らかにしているんですけれども、コメントは匿名でできますものね。匿名での安全圏からの攻撃って、いちばんかっこ悪いですよ)、例えば、一緒に仕事をしていて、それで仕事ができないなあとかそういう感想ならばわかるんです。ああ、そりゃ僕仕事できないんだなとか思うわけです。ところがですね、あったことがあるのか、ないのかもよくわからない匿名の相手がですね、どうして私をいきなり「無能」と呼ぶことができるのでしょうか。ここがまずおもしろいですね。

「バカといったやつがバカなんです」

といったもはやことわざになりつつある言葉がありますが、これは大人になってからよく考えてみると、意外と真理をついているなと思われることばであります。
相手をバカと単純にレッテル張りをする、あるいはそうしなければ自分の矜持を保てない、というのはそれを発言した側のレベルの低さを表しているわけですよね。
私は前回論理的に徹底して反論したわけですが、さすがに日東コマセンレベルだったとはいえ、首席レベルです。学業優秀賞も二回獲得しました。首席レベルの論理力によって反論された匿名氏は、論理ではとても私におよばない、反論ができないということなのでしょう。
だから、突然論理の飛躍をして「無能な石野は」ということになった。
いやー、しかし、実際学年二位で卒業し、学業優秀賞も二度獲得した私が、実質的にそんなに無能とは、客観的なこういう賞が証明しているわけですし、なかなか断定するのはむずかしいじゃないかなと私は思うわけです。
実際、これまでのこのブログを見ていただければわかる通り、積み重ねがあります。
五年間で書いた記事は700件にものぼるわけですし、そのどれもが、テキトーな感想のブログといは違います。どれもレポートとして提出してAをもらえるレベルのものを書き続けてきたわけです。少なくともその積み重ねがある。これをいったいどういう人なのかは知りませんが、あるいは、ノーベル賞ものの学者とまではいかなくとも、大学教授ぐらいだったら、いや彼は無能だよ、ということくらい可能かもしれませんが、それでもなぜ無能なのかの「根拠」を示さなければならないわけです。

もし匿名氏が思っている「無能」さが、私が体調と不遇のためにやけになっていた時のことをさしているのであれば、そんなの普通だれにでもわるわけですから、だれもが無能ということになります。なにかうまくいかないことがあったとき、なにかのせいだ、と少し叫んでみたらみんな「無能」になるわけですね。
すくなくとも学年主席レベルだった私が無能なのですから、学力的には平均よりちょっと上くらいですかね、ですから、それ以下の人々はみんな「無能」ですね。おめでとうございます。どんなに偉い方なんでしょうね。みなさんを無能よばわりできるこの方は。さぞかし立派な方なんでしょうね、ええソンケイいたします。

もう、論理的には私の方が数段うえだということもわかってしまったし、わざわざ反論してもしょうがないし、たぶん私がどんなに論理をつかって誰にでも議論できるようにと根拠を示しながら反論したところで、「おまえはバカだ」レベルの、本人は「批判」といっていましたが、「個人の感想」レベルの言葉しか返ってきようがありません。議論になっていないわけですし、彼は私のことが「無能」だと思っているえらい方ですから、私がどんなに精緻に議論を尽くしたところで「お前は無能だから」という大前提から離れることができないでしょう。
わざわざそんな方を相手にするのも意味がないことではあります。
それにわざわざそれに対して反応しているところが、かっこ悪いじゃないですか。バカよばわりするやつにお前こそバカだっていっているみたいで。

でも思ったんです。いや、そんな世間体のことはいいや。私自身が楽しければいいやと。

私を少しでも不快にしてくれたあなたには、私は論理の精緻を尽くして、ぐうのねもでないほどにいいくるめて差し上げましょう。
それが私の楽しみであります。

ちなみにですが、自分がうまくいかないのを他人のせいにしたり、ほかのもののせいにしたりするのは、フロイト先生でいったら、合理化という心理学の専門用語で説明できますね。ええ、そのくらいのこと、心理学も興味があった私はもちろん勉強していますし、そういう合理化をしてしまうのが、学問的に分類されるくらい、多くの人間がやってしまうことであるということはみなさんご承知の通りだろうと思います。
では反対に問いますが、私が「無能」だといえるのもよくわかりませんが、あなたの論によれば、その無能さを資本主義や社会のせいにするのはいけない、自分が無能だということを認めろ、ということになるのかと思いますが、あなたはそうやっていきているわけですか?あなたが私にこてんぱんに論理的に反駁できてない状況を、石野は無能だからという論理によって飛躍しているのではないですか?それはあなたの「無能」さを表してはいないのですか?

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https://www.jikkyo.co.jp/jikkyocenter/2010/pages/gensha_honshi_kaisetsu.htmlより引用

フロイト先生は、人間が欲求不満におちいったときに、どのような対応をとるかというのをこのようにわかりやすく分類してくれているのですが、私がとったのは、まぎれもなく、もっともらしい理屈をつけて正当化という、防衛機制のうちの合理化ですね。
このなかには、満たされない欲求を「昇華」という形によってすばらしい芸術などを生み出す原動力とする場合もありますが、お分かりの通りだと思いますが、こうした反応に善悪や、昇華はすばらしいが他はダメといった価値は存在しません。あるとしたら、いまあなたが作り上げただけの価値です。世間一般的には、たしかになんとなく、暴力によって解決しちゃおうというような近道反応はよくないとか、法律的に罰せられる可能性はありますが。

激昂して論理的になっていない文章での反論を心よりお待ちしております。
全文掲載の後、国文学科二位であった私のこころを込めた論理力をもって反論いたします。

私がこういう記事を通してみなさんに伝えたいことは、あんまり人を馬鹿にしたり、こころない言葉をかけたりしないほうがいいよということです。なぜなら時として私のようにすごくめんどくさい人間がいるものですから。人には優しくするものですね。

追伸。
私の文章は「幼稚」なので読む価値がないという、価値判断をするのは個人の勝手ですが、あなたは「批判」という言葉を使いました。「批判」というのは論拠があり、論理的にだれでもが理解できる指摘と言うことです。感情的な「これはダメだ」といったようなものは「批判」とはいわずに「感想」といいます。
読む価値がないという価値判断は自由ですが、少なくとも私のことを「批判」しているつもりであるならば、私が論理的に、すなわち論理によれば反論できるものを提示している以上、それを読んで、それに反論、批判していかなければなりません。
そういう基本的なことは大学で普通習うものなのですが、そういう勉強はあまりしてこられなかったのでしょうか。
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