ダン カイリー (著), 小此木 啓吾 (翻訳)『 ピーター・パンシンドローム―なぜ、彼らは大人になれないのか』 (祥伝社、1984) 感想とレビュー

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ピーターパン・シンドロームとは、この本の著者であるダン・カイリー博士が考案した、シンドローム、ひとつの症状である。
この本がかかれたのは、1980年代前半。アメリカでは、このような本をカイリー博士がかかなければならないほど、ピーターパンシンドロームの人間が話題となっていたのであろう。ちょうど十年ほど前に、我が国でもひきこもりなどが問題となったような感じなのではないだろうか。
この本を読むとさまざま、おもしろいことに気が付かされる。アメリカにはひきこもりはいないのだろうか。よくある典型的なネットでゲームをやっているゲーマーというのは、日本人よりもアメリカ人のイメージが強いが、そうした典型的な存在と言うのは、アメリカに多数存在するのであろうか。
先日香山リカと五木寛之氏の対談本である『鬱の力』という本を読んだ。五木寛之は鬱というものを、病気のうつとは切り離して、今現在日本はうつの時代であるというようなことを述べている。私もこの意見には賛成なのであるが、たとえばその本のなかでは、日本でも地域によって人間性が違う、どこどこの地方の人間は「これくってけ、こんなうまいもんほかにはないんだから」と明るくいってのけるのに対して、どこどこの地方の人間は「こんなものしかありませんが」といったように、卑下してものを出す、と。そういう部分から、地方によっても人間性のようなものが変わってくるのではないか、というようなことを述べていた。
私はこれを日本とアメリカにも大きく当てはめることができるのではないかと思う。それは、しばしば我々が外国人と接した時に感じるテンションの高さなどにも表れているのではないだろうか。もちろん、明るくないアメリカ人もいれば、明るい日本人もいることは十分承知である。いまここではそうした個別例はのぞいて、あくまでも全体的な雰囲気論をしているということだ。

ピーターパンシンドロームは、大人になりきれなかった大人の症状だ。私はこれは、日本におけるひきこもりと重ねてかんがえることができるのではないかと思う。つまり、この両者はまったく症状の例では反対の性格をしているのである。ピーターパンシンドロームの人間は、しばしば明るいそうである。何よりっも友人たちとのパーティーなどを愉しみ、人生を謳歌しているようなそぶりをする。すくなくともも外見上はそうするそうである。だが、いざ実際ふたをあけてみると、ひどく責任感がなかったり、自分のガールフレンドに母性を求めたり、しばしば男尊女卑的な言動をしたり、ということだそうだ。私はこれをあかるい引きこもりなのではないかと思う。外見上はむしろ外に向かっていく。そのかわりに、内面できちんと反省することができない。
一方日本のひきこもりは、外には出られないが、そのかわりにいつまでも内側に引きこもってぐじぐじしている。私自身もこのひきこもりの一員なのであるが。そうすると、このアメリカのピーターパンシンドロームと、日本のひきこもりとは、社会化できなかった人間という点では同じで、それが方向として、明るいアメリカではより外のほうに放出していき、鬱の国である日本では内側にはいりこんでいってしまった、ということなのではないか、と思うわけである。

それと、私がこの二つの症状を同じものとして捉えているのには、その発生の原因にある。ピーターパンシンドロームがなぜ発症するのか、というところで、このダン・カイリー博士は次のようなことを述べている。この病気はもっぱら男性に多いのであるが、それはなぜか。当時アメリカ社会ではウーマンリブ、フェミニズムの活動が活発になってきて、女性は、女性らしく家庭的に生きる方法と、男性らしく社会に出て生きる方法の、ふたつの生き方を獲得したというのである。それに対して男性はどうであったか。男性はそれまでに安住していた男性であること、そのことから男性的な女性が現れることによって脅かされるようになった。しかし、女性的な男性ということも許されない中で、男性は一方的に追い込まれていったのである。
これは日本における引きこもりとも構図は同じなのだ。男女雇用機会均等法等が制定されるようになって、女性には家事手伝いとして社会に出ないという選択肢と、働く女というように男性的な生き方もできるようになった。しかし、最近では少しは出てきているとはいえ、まだまだ家庭に入る男性というのは少ないわけである。そのような逃げ場のない中で、なんとか傷つかないように、という男性たちが取った行動がひきこもりだったわけだ。これは多分に私自身にも言えることである。
このような男女不平等な差が、男性を追い込み、アメリカでは無責任男に、日本では引きこもり男児にしたてあげているということができるのではないか、と思う。

この本がしっかりしていると思う点は、たんなる分析などで終わらずに、(しばしば最初はいいものの、だんだん歯切れが悪くなってきて、結局何をいいたかったのか、どうすればいいのかわからない、というような本が日本には多い。論理性の違いか)きちんとした対応策などについても書かれている。
ダン博士は、PPS(ピーターパンシンドローム)であるかどうかのチェックテストなども載せていて、かなり実践的な本になっている。最終章では、PPSの人に対してしてはいけない対応、たとえばヒステリックになって責め立てるなど、と同時に、ではどうすればいいのか、という対応などについて書いている。
だが、そうしたメソッドを使用してもどうしようもならなかった場合は、という最終的な局面においても書かれているところに、私は誠実さを感じるのである。
そもそもこのPPSは、病気ではないというところにダン博士の認識はある。それは非常に重要な認識なのだと思うが、こうした異端的な症状というのは、人々はしばしばそれを病気だ!というレッテルを張ることによって除外し、排除しようとする。そのことによって安定を得ようという気持ちになるのであるが、しかし、それらの症状というのは、もしかしたら変化してきた社会に対しての対応ではないか、と考えることもできるのである。むしろ、あと二十年、三十年にして、そちらのほうがスタンダードになったとしたら、むしろ責任感ある男のほうが、あまりにも生真面目だとして症状となってしまうかもしれないのである。すべては相対的な指標によってしかみることはできない。
ダン博士はもしもこれが改善しないようであれば、PPSのガールフレンドには二つの選択肢があるという。一つは別れること。どうしても改善しないのであれば、あなたが不幸になることはない。分かれてしまったらいいというのだ。もっともである。で、二つ目。これが重要な視点なのであるが、それならばそれで仕方がない、受け入れるほかない、というものなのである。そもそもこれは症状であって病気ではない。直さなくてはいけないものではないので、彼女がPPSの男性の、ウェンディ役、母親役になってしまうのもいいのではないか、というのである。なにも全員がティンカーになる必要はないのである。対等な関係をむすぶ必要はないのである。もし、二人にとって、男性的な男性と女性的な女性という構図が一番安定するのだとしたら、それでもいいではないか、というまっとうな感覚を提示しているのだ。
私はそうした感覚にこそ、重要なものがあると思っている。
もし、詳しくピーターパンシンドロームについて知りたければこの本を、読みやすい翻訳なので、手に取って見ることをおすすめする。

五木寛之・香山リカ『鬱の力』(幻冬舎新書・2008) 感想とレビュー

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もともと鬱気味だったのが、嫌な仕事をしたために、本格的に鬱になってしまい、心療内科で、「抑うつ状態」とまで診断されるようになってしまった。なんとかこの現状を考えるためにも、さまざまな本などを読んで知識を増やしたいと思い、以前購入しておいたこの本を読むこととなった。
この本は五木寛之と香山リカの対談本である。対談本ほど手の抜かれた仕事はないな、こんなことであれば、私だって対談本を出せる、といつも思うのであるが。
しかし、この対談本、もちろん対談本として、そんなに深い話まで深化されていない、こんなのは誰でも言える、ということはさておき、おもしろかったのは確かである。だからこそ、普段対談本を読んでも、そのままである私が、一応はこうしてブログに書いているわけだ。
近年ではずっと鬱の時代だといいつづけている五木寛之氏。彼はそれまでの高度経済成長やバブルなどが躁の時代であり、これからは右肩下がりの時代、鬱の時代なのだから、それにあった生き方を模索しようということを言っている。下山の思想、ともいっている。それに対して、精神科医である香山リカ氏。彼女はどれだけきちんと精神科医をやっているのか私は知らないが、一応は精神科医なのであるから、うつびょうなどの臨床的な知識を持っているはずである。この二人の鬱が、どうクロスオーバーしてくるか、というところが本書の醍醐味なのであろう。それを話題作をつくるのが好きな幻冬舎はやってのけているわけである。

先日私は内田樹と竹宮恵子の対談本を読んだのであるが、これはなかなかひどかった。というのも、ほとんど内田樹がずっとしゃべって、自分の思いつきを述べているだけ、という本だったからである。今回の対談本は、二人ともなかなか話せる人間、同レベルのしゃべりたがる人間だったので、分量的にも互いに同じくらいになるようなバランスはとれていた。その点は一応きちんとした話し合いになっているのかな、とも思わなくもない。
話しは現代のうつ病から始まる。現代では、それまでとは違ってうつ病それ自体が変化してきたというのである。様々な点が指摘できるが、まずはその敷居が低くなってきたというのが挙げられる。かつてはうつ病とだけは診断しないでください、となんとかそれでも仕事に行こうとしていた人たちが、現在ではすぐにうつ病だと診断してください、といって仕事を休む。うつ病と診断できるものもどんどん敷居がひくくなってきている。一応抑うつ状態が二週間続いたらうつ病ということになるのであるが、そんなことをいったら、ほとんどがうつ病になってしまう。そういう問題があるというところから話は始まる。
対談本であるから、ではどうしたらいいのか、といった深い話までは立ち入らない。それを指摘して終わりということなのであるので、こういう本は、その後をきちんと読者が考えていかなければいけないのであろう。

五木寛之の鬱の思想の話もなかなかおもしろい。
例えばこんなものがある。老人ホームにいって、そこで彼等をはげまそうと元気のいいマーチなどを演奏する。すると老人たちがやめてくれという。彼等にはもう元気にやっていこう、というようなことはつらいのである。だから悲しい曲を演奏してくれ、というのだ。そしてそうしてみると、実際うまくいくという話などである。
これは重要な視点で、現在まではみんな元気よく、というような精神状態がスタンダードだったわけである。だが、現在ではすでにそういうわけにはいかなくなってきている。人々のこころのモチベーションのようなものが圧倒的にかつてと比べると下がっているのだ。だから高度経済成長期に生まれ育ち、なんとかやってきた団塊の世代の人々なんかをみていると、どうしてあんなに元気がいいのだろうと、私なんかは不思議に思うのである。
そして私自身この二ヶ月学校というところに出た身としては、どうして他の先生たちはあんなに元気でいられるのだろう、タフでいられるのだろう、と思うわけである。実際二ヶ月でうつになってしまった私にとっては、この社会が異常に見えて仕方がない。社会からしたら私のほうが異端児ということになるのだろうが、私の感覚としては社会全体が狂っているとしか思えないのである。社会のスタイルが、そうとうタフな人間を前提として設定されている。だから、そのような社会においては、子供たちは専ら保護される立場になるし、老人は邪魔な存在になるし、ニートたちはうとまれるのである。だが、諸外国と比べても、朝8時から夜8時まで、12時間ほども拘束されるような仕事の在り方を普通としている社会のほうがよっぽどおかしいのではないか、と思うのである。私なんて、どんなに遅くても2時には仕事は終わっていたのであるが、それでもうつ病になってしまったのである。私にはいわゆる普通の職業はできない。仕事をするというそれ自体があまりにも嫌なことすぎるからである。だから私は貧しいという選択肢を選ぶかわりに、仕事はしない、という選択をすることにした。

どれも深い話にはなっていないが、おもしろい指摘はいくつかあった。例えばこんなものである。
現代はどんどん排除の構造が強くなってきているというのだ。例えば自警団をどんどんつくりましょう、というのがあるそうである。そうやってちょっとでも異端児を見付けると、それを排除しようとする。確かに、現在社会の生き辛さの中に、他の人と違っていてはいけない、といった脅迫的なものがあるように感じられる。それは、この社会全体がそういうものを赦さないような不寛容になってきているから、ということができるようなのである。五木は、それは関東大震災の時に暴走した日本人が韓国人を虐殺した時と同じ構造だと指摘している。
ほかにも、人間がさまざまなパーソナリティーを持つようになってきた、という話もしている。ここは二人の会話はややかみ合っておらず、五木は結局多数の人格を持つのがいいのか、それとも一つの人格であるのがいいのかはっきりとしていない。ただ、かつては一つの人格のほうがいい、と思われていた時代があり、さまざまな人格を持たなければ生きていけない時代になってきている、ということはできるだろう、ということになっている。

結局結論もなにもないただのお話合いの本なのであるが、その問題点などの提起には、いくつか目を見張るものがあり、そこを深めていけばなかなか面白い考察になり得るのではないか、という気がした。

英雄伝説 零の軌跡 感想とレビュー 人は如何にして少女のために戦い抜くのか

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―はじめに―
今回私が論じるのは、英雄伝説シリーズの「零の軌跡」という作品だ。
英雄伝説シリーズは大学時代に友人に、空の軌跡、FC,SCを貸して貰ったことによって知ることになった。私はあまりゲームをしないほうではあるが、できるだけRPGゲームだけは、物語論という観点からもやっておこうと思って、プレイしているつもりではある。
大学時代にプレイした空の軌跡シリーズは、とてもおもしろかった。そんな印象がある。
さて、それから一二年経った現在にいたって、ふとしたことから、零の軌跡をプレイすることになった。
クリアしてみての感想は、やはりおもしろかった、ということである。

点数を五点満点でつけるとしたら、4,5点。

本当は五点を付けたいくらいにおもしろかったのだけれど、やはりいくつか難点があるので、それは0.5点分引かせてもらったというところか。

―作品分析―
では、実際に作品内容に触れながら、分析をしていくことにしよう。
今回の零の軌跡は、空の軌跡から、一年後という舞台設定である。空の軌跡が、リベール王国での物語だったのに対して、今回は、大陸西部にあるクロスベル自治区での物語だ。
英雄伝説シリーズのおもしろいところでもあり、また独創的なところでもあるのが、遊撃士協会の存在であろう。現実世界の我々は、検察官や警察官といったものは存在していても、このゲームに存在するような遊撃士、つまり民間の市民のための武装集団というのはない。それは日本が武器を所有してはいけないというような法律があるからなのかもしれないが、しかし、実現不可能な話ではない。
私はこの作品をプレイする際に、つねにこの作品からの批評性のようなものを感じずにはいられない。
この作品はかなり批評性を持った作品ということができるだろう。

たとえばドラクエやFFは、そこまで批評性を有した作品ではなかった。それらは極めて抽象レベルの高いところまで昇華されていて、現実社会に対するあからさまな批判性というのはなかったのであった。しかし、この作品群、英雄シリーズは、極めて痛烈な批判性を有しているということができよう。
空の軌跡では、軍の暴走というのがテーマとしてあった。それを権力に縛られない民間軍事協会である遊撃士たちがなんとかする。そういう物語の軸で、軍の暴走という戦時中日本にもあった、そして現在中東などで起こっている、ありうべき問題に切り込んでいったのであった。
今回はどうか。今回の主人公たちは、なんと遊撃士ではない。せっかく遊撃士をあれだけかっこよく描いていて、多くのプレイヤーをそこに魅了したにもかかわらず、今回は遊撃士が主人公ではないのである。今回主人公が属するのは、警察官。
空の軌跡シリーズの愛好者であった私はずいぶん落ち込んだものである。
だが、それは狙いがあったのだ。
この作品の現代にも通じる批判性、それは警察の腐敗である。

そもそも警察とも軍隊とも違う、市民のための市民による遊撃士という存在を作り出した時点で、この作品の製作者たちは、軍や警察というものに対してひどく痛烈な批判をしているのである。もしこの作品の製作者たちが、軍や警察に対していい思いを抱いているのだとしたら、最初から主人公を軍や警察に入れればいいだけの話である。そこで活躍する。そういう物語を描けばよかったのである。
だが、実際はそうではなかった。軍や警察に対する批判をしているところからも、製作者たちが軍や警察をよく思っていないのがよくわかる。
私自身はもともと無政府主義者、アナーキストであるから、そもそも国という概念自体が嫌いである。当然その国というものを成り立たせている、あるいはそれらに使役している警察や軍というのも、大嫌いだ。だから、私はこの作品とは親和性が高いのである。
もしかしたら、親が軍や警察に入る人、あるいは自分自身が自衛隊員であったり警察官であったりする人物であったら、空の軌跡はきっとちっともおもしろくない作品になったかもしれない。

そうした批判性を持つ英雄伝説シリーズであるが、今回はなんと警察官の側に主人公は立つ。
ガンダムが素晴らしかったのは、それまで一方的に正義は正義、悪は悪とあったのが、悪には悪の論理があるし、正義も必ずしも正義ではない、と相対化したことである。だから、一見すると地球連邦軍は正義で、ジオン公国軍は悪のように見えるかもしれないけれども、そんなことはないのである。相対化が大事だ。
この作品でも、あまりにも露骨に遊撃士の素晴らしさを描きすぎたと思ったのであろう。今回は、警察側に視点を移すことにした。あるいは、遊撃士、外の視点では見られない部分を、主人公を警察に属するものとすることによって、内部から描こうとしたのである。

その結果、といってはなんだが、やはりものすごい批判性だ。あまりにもやりすぎではないか、と思わずにはいられないくらいの、警察嫌いがこの作品では露呈されている。
このクロスベル自治州の警察は、上層部が他国の議員とつながっており、それぞれ帝国と共和国の思い通りになってしまっているのである。そして、共和国、帝国の議員はクロスベル自治州のマフィアとのつながりがある。とすると、クロスベルでマフィアを取り締まろうとしても、マフィアと繋がりのある議員が警察の上層部に働きかけることによって、マフィアを実質取り締まれない、という現状になってしまっている、という設定なのだ。
今回の作品は警察の腐敗。議員との癒着。取り締まることの出来ないマフィア、とこれまた極めて痛烈だ。もちろん現代において、私は警察のことをちっとも詳しくないのでどうなのかはわからないが、少なからずはあることなのだろう。政治的に強い人間を上手く取り締まれないことというのも実際にあることなのかもしれない。

では、そのように首を押えられてしまっている状態でどのように悪と向き合っていくのか、問題はそこにしぼられる。その結果が、遊撃士を見習った、警察からは比較的独立した特務課というものをつくることにあった。主人公ロイドは、警察学校での訓練を終えて、新しくクロスベル警察に所属することになったのが、配属先は、その新しく設立された特務課なのである。
遊撃士協会を見習って設立されたということもあり、また規律の厳しい警察とは異なり、自由に動けるようにというのが目的で設立された特務課。そこには、ふつうの組織では上手くやっていけない、あるいはそれらの組織にはなかなか入れないうらぶれものたちが集まったのである。

今回ヒロイン役をつとめるエリィの存在も、批判という視点から見ると面白い。この作者たちのある偏りのようなものを垣間見ることができる。エリィは祖父が市長であり、ものすごい豪邸に住んでいるお嬢様である。そんなお嬢様が身の危険がある警察で働くことなど、本来はあり得ない。エリィは政治とは別の世界で、警察の世界からこのクロスベル自治州のゆがみをみたい、と警察にはいるわけであるが、その設定がおもしろい。前作空の軌跡でも、王女クローゼもまた、王女という皇族の身でありながら、その身分を隠して普通の女子学生として学園生活を送っていた。市民の感覚を掴むためということなのだろう。
ここから見えてくるのは、この作品の製作者たちが、どこまでも、一般市民のことを想っていることだろう。言い換えれば、我々市民のために、王族や権力を有しているものは働くべきだ、という考えをもっているということである。もちろん、それは当たり前のことなのだ。だが、実際はそうはいかない。権力を一度持った人間は、市民のために、などということはすっかり忘れてしまって自分の欲を満たすため、自分の保身のために働いてしまう。王族もなぜ自分が王族なのか、ということを忘れ、王族であることをいいことに、一般市民をばかにするのが一般である。
当たり前の主張をしているようであるが、実際を見ると、そこからかなり乖離していることがわかる。この作者たちは、極めて理想主義的な考えをもっているということができるだろう。

―人は如何にして少女のために戦い抜くのか―
さて、このようにこの作品独特の偏りを見てくると、空の軌跡からひきずっている問題がいくつか見えてくる。今回は、突如として作品後半から現れた少女、キーアについて考えてみたい。
その登場のあまりの唐突さに、私はなにか別のゲームをやっているのではないかと勘違いしてしまったほどである。突如として何の前触れもなく、それまでの青年ロイド、そのヒロインエリィ、ちょっと年上のやんちゃなランディ、そしてあまりにも記号的な、エヴァの綾波や明らかに機動戦艦ナデシコのホシノ・ルイを念頭に置いた感情の起伏のない、妹キャラであるティオ、の四人で安定したメンバーであったところに、いきなりわけのわからない少女が介入してくるのである。
そしてそのキーアは前作のヒロインであり主人公であるエステル同様、天真爛漫で、裏表がない、元気いっぱいの女の子なのである。あまりにも記号的すぎるが、この作品の製作者たちは、それがいいこと、だという価値観を有しているのであろう。
確かにそうした女の子というのは、とにかくかわいい。それは確かなのだ。しかし、気を付けなければいけないのは、そのような記号的なキャラクター、性格でないかぎり、ヒロインには成り得ない、ということであろう。もちろんぐじぐじしていたって、それはそれでヒロインにはなれるのである。例えば少女漫画の主人公のように。しかし、大抵の場合はそんなの明るくもなければ、そんなにぐじぐじもしないわけで、平平凡凡なのである。
この記号的なキャラクターが、特に男性のこころをくすぐるような存在としてあるのは念頭においておく必要があるだろう。そうでないと、このような性格のキャラクターばかりを追って、現実をみない、ということになりかねないからである。

それは置いておくとして、この作品でも、やはり少女というのがテーマになるのだ。それは空の軌跡でも同じである。
空の軌跡では、例えばレン、ティータ、エステル、などが分析対象としてあげられる。ティータのような元気で明るくて、そしてちょっと抜けているところがある、という記号的な妹キャラが良しとされる。それは、いずれ成長するとエステルなる系譜である。そのエステルがさらに成長するとどうなるかというと、シェラザードのような女性になるのである。さて、ではティータと同じ妹属性を持った、幼女であるレンはどうなのか。レンは不幸なことに、ティータのように明るくなることはなかった。零の軌跡で明らかになった、とある狂信的な教壇によって人体実験をされてしまったからである。その少女の成長した姿が、男にはなるけれども、ヨシュアなのである。だから、あの作品は、レンやヨシュアのような人間をいかにして、エステルサイドに引き摺り込めるかというのがテーマになっていたのである。
私なんか、根暗な人間は、レンやヨシュアのようであってもいいじゃないかと思ってしまうのだが、あのゲームにはそれを許さないある種の暴力性がある、とだけいっておこう。

今作では、その記号的な少女としてキーアが登場する。キーアはエステルサイドであり、ティータの分身である。あるいはレンの裏返しといってもいい。また、今作では、9歳くらいのレンから18歳くらいのエステルに至る過程の中間である、14歳くらいの少女も登場する。それがティオだ。だからこそ、ティオはレンとおなじ人体実験をされた被験者であり、暗い過去をかかえているのである。
ティオは、今作では、お兄ちゃん的存在であるロイドによって救われていく。

この作品は、いかにして疑似的な家族になるか、というのがテーマとしてある。
主人公ロイドを中心に、その妻になるエリィ。ロイドの失われた兄の役を演じるランディ。そして、傷ついた妹であるティオ。
そこに突然現れるのが、キーアである。だが、よく考えれば、ロイドとエリィという疑似的な夫婦が出来たら、その次にできるのは、子供である。登場は突然ではあったが、物語りの構造としては必然だったのかもしれない。
ここには、セックスを介在しないで子供を授かるという、話しの系譜が見て取れる。
エステルとヨシュアの間にも、レンという疑似的なこどもができるように、この作品では、ロイドとエリィという疑似夫婦の間に、キーアという子供ができるのである。
そしてまた、キーアが子供となれるのは、レンのように深い闇を抱えているからではなく、エステルのように天真爛漫であるからである。中途半端な出自であれば、それこそ里親に出されてしまったであろう。

ロイドのセリフからもわかるが、ロイドは初めて疑似的ではあるが自分の守るべき娘、キーアを得ることによって、なんのために警官になったのかを自覚するのである。それは守るべきもののために戦うのだということ。
この作品では、ロイドがなぜ警官になったのか、という自分探しをする物語でもあった。その答えは、キーアという娘を得ることによって判明するのである。

貫井徳郎『慟哭』(創元推理文庫、1999) 感想とレビュー

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普段あまりミステリーや推理小説というものは読まないのであるが、今回はたまたま気になっていたので手に取って読んでみた。私も年間百冊以上は読んでいる人間であるが、それでもなかなか読書の世界は奥深くて、まったくしらない世界があまりにも広大にある。そのようななかで、すこしでも自分がいる場所がどんな場所なのか、読書の世界の地図というものを描こうとする。そうすると、これだけは読んでおけ、とか、これはおすすめ、といった本の案内書のようなものをネットなどでみることになる。こうした本との出会いは、そうした場所によって提供されているのではないかと私は思うのだ。こうした本を買う時はとりあえずBookoff等で、目についたかたっぱしからかごに入れていくのであるが、そこでびびっと来ると言うことは、おそらくどこかで一度その本を眼にしているということなのであろう。
私もこの本を購入してからずいぶんたち、どうして自分がこの本を購入したのか理由はわからないが、おそらくそれはどこかで一度目にしていたからなのだと思う。一度も読んだことはないし、知らない本なのだが、なぜかタイトルだけはどこかで聞いたことがある、という体験なのだ。

さて、ミステリや推理小説というのは、感想がじつに書きにくいもののひとつである。
内容に触れるとそれはネタバレになってしまうからである。
ここで筆者は悩まされるのだ。一つには、ネタバレにならないように書くという方法。それは、主にまだ読んだことがない読者にあてて書かれる感想である。またもうひとつの方法は、ネタバレありきで、どんどん深いところまでつっこんで感想を書くという方法である。これは、すでに読んだ人向けの方法である。私はいつも、この二つの方法の間で悩んでしまって身動きがとれなくなってしまう、優柔不断な人間なのである。

できるだけネタバレにならないように、中間をねらって書いてみよう。
この本は実際にとてもおもしろかった。それが、書読の感想である。ふたつの物語が交互に展開される。そしてそれら二つの物語はお互いに影響しあっているように思われるのである。当初私は、あ、これは村上春樹的だなと感じたものである。村上春樹以前からもちろんこうした構図はある。不勉強にも読書経験があまりにも少ないのでどこからそういうテクニックがうまれたのか、ちょっと確かなことは言えないが、別の物語りを意識的に交互に配置するというのは、夏目漱石もちょっとではあるがやっていることだし、漱石がやっているということは、それ以前にイギリス文学では当然あったと考えてよいだろう。
一つは、刑事の物語り。もうひとつは娘と仕事をうしなったうらぶれた人間の物語りなのである。今こうして書いてみたものの、実はこの二つの物語がそういう関係だったのか、と思うと、実に興味深い。両方々といってもいいわけなのである。
私はこの物語を読んだ際に、ナルトを思った。ラーメンにはいっているあのナルトである。この話は円状に回転しているように感じられるのだ。一度最後までいって、そこからまたもどってくる。しかし、またもどってきたその物語は最初の物語りにまっすぐつながるのではなく、そのちょっと上、あるいはちょっと下、を同じようにぐるぐるまわっていく。
この小説は一見すると二つの物語が提示されているのであるが、実はそれらの物語りというのは、ひとつの同じ線上の物語りであり、それを一度解体して再び構成しようとすれば、ナルトのようにうずまきを描いた物語になるのである。

内容として、ふたつの物語りのうちの一つである、完全に茫然自失となってしまった男性の物語り。ここにはだいぶ共感できた。私自身、うつになってしまい、たった二ヶ月で職場を後にせざるをえなかった人間とした、その後の静寂の、まったくなにもやることがない、やる気がおきないという状況を、貫井徳郎はよくとらえて、かけていると思ったものである。
ただ、やはりちょっとご都合主義的なのは、この人物が働かなくてもそれなりにお金のある存在だということである。普通、と呼ばれるような、一般人は、働かなくなったらもっと数か月。それ以上は食っていくことができなくなってしまう。私のようなニートでない限りは。その点で、この人物が誰にも邪魔されない、というのは家族と一緒に住んでいないのにもかかわらず、しかも働いておらず、それでいて自由が効く、というのはちょっと設定として恵まれすぎているなと思わなくもなかった。
もちろん、ミステリや推理小説というものは、そんな一般や普通の人間の普通のできごとを書いているわけではないのだから別にいいといったらいい話なのではあるが、単純にうらやましいということなのだろうか、自由でいいなとは思った。

それに、それまで堅実な人間だったものが突如としてそうした精神世界にのめりこんでいってしまう、というのも、なかなかよくわかるはなしである。そうしたスピリチュアルなものへふとした瞬間人間は傾倒してしまうわけである。そんなことは90年代のオウム事件を考えればすぐにわかる。そうした人間の弱さのようなものが、表面上は強く見えるのではあるが、がよく描けていたと思う。
なによりもその物語の構図がよくできていた、と思う。が、それはそれ以上批評することもできないので、ここらへんで筆をおくとしよう。

『会長はメイド様』(27話)(2010) 感想とレビュー

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最近は一日に12話をみるということを日課にしている。
ただ、12話というのはやまり短い。時間としてもだいたい一話、オープニングやエンディングを差し引くと20分ほどしかない。時間にして240分。四時間。映画二本分というところである。やはり映画日本文ではそこまで物語が展開されないし、奥行きを感じられないところがある。
この作品は26話である。26話までやってくれるとだいぶ作品の奥行きが出来てきて感情移入がしやすくなってくるものである。

この作品、元々白泉社『LaLa』にて連載されていた少女漫画である。しばらく学園ものの作品をずっと鑑賞してきたが、いずれも初出がライトノベルだったりして、男性の書き手によるものが多かった。
男性作家による学園ものは、どうしてもハーレムになりがちである。大体の場合は、男性主人公一人にたいして、その周囲を女性ハーレムが囲むのである。最近見たものでは、『だから僕はHができない』(12話)『ロザリオとバンパイア』(12話)『一番後ろの大魔王』(12話)『俺の脳内選択肢が、学園ラブコメを全力で邪魔している』(10話)(2013)『スクールデイズ』(12話)(2007)『撲殺天使ドクロちゃん』(12話)(2007)『明日の与一』(12話)(2009)『CHAOS;HEAD』(12話)(2008)OVA『異世界の聖騎士物語』(12話)(2009-2010)、これらの作品は、ほとんど男性1人に対して女性ハーレムに囲まれるという作品になっているだろう。管見の限りではあるが、より作品に触れてみれば、学園ものの作品の半分以上がおそらくこれと同じ構図をもっているはずである。
実際にはそんなことはおこらないわけであり、これはそうでなかったからこそ、そうでありたいという妄想を具現化したものにすぎない、妄想の産物ということができるであろう。それはそれで他人の妄想なのでおもしろく、妄想だから駄目だ、などというつもりは毛頭ないが、しかし、あまりにもこうした作品を見ていると、現実離れしすぎていて、アニメを観終わった際に、いざ実際に現実をみてみると、その乖離がすごくて視聴者がつかれてきてしまうという弱点を持つ。
一方それに対して、少数ではあるが、逆ハーレムもの、ひとりの女性に対して大勢の男性があつまってくる、という作品の系譜もある。『アムネジア』(12話)(2013)『B型H系』(12話)(2010)などがその例である。
さて、こうした男女不均衡の作品が多い中、より誠実なのは、その男女比がひかくてき安定している作品群である。
『乃木坂春香の秘密』(12話)(2008)『未来日記』(26話、+OVA1話)『さんかれあ』(12話)などは、男性主人公と女性主人公は一対一で結ばれており、より対等な作品になっているということができるだろう。今回の『会長はメイド様』も、やや男性が多めではあるものの、どちらかといえば、こうした一対一作品の系譜に並べることができる作品だと思う。そこまで妄想度の高い作品ではない、ということである。

だが、この作品に妄想がないわけではない。
この作品の一番の難点は、なぜ女性主人公がなんの保証もなく愛され続けているのかという点にあると私は思う。この作品の一番の難点は、やはりこの作品がシンデレラの物語りから脱却できていないところにあると思うのである。女性主人公鮎沢美咲の家は貧乏である。それは容易に灰かぶりとさげすまれたシンデレラのあの辛く過酷である労働環境を思い起こさせる。その辛い労働環境は、時と場所がかわっているからそこまで陰惨なものと描かれないまでも、彼女は(お姉さま)のかわりに、(ご主人様)をもてなす、メイドとして従事しているのである。
そしてそのような場所での従事は疑似的に言えば、よりよいご主人様に見つけて貰って、その人と結婚するというとこにある。大学が実は結婚相手を探す最後のとりでとなっているようなもので、そこでの結婚相手を探すというのは、実は織り込み済みのことなのである。
その点、この女性主人公である鮎沢美咲はアンチシンデレラとして、受動的ではあるものの、主体的に受動的になろうとしているという点で、優っているのである。ご主人様にみつけてもらう、という圧倒的な受動態でありながらも、まずその見付けてもらう場への参加というところにおいて、受動だけであったシンデレラとは異なり、そこへ参加しているという点で、彼女は努力家である。

それと同時に、努力するシンデレラのと対になるのは、努力しない王子様である。アニメではその出自をほとんど語られなかった碓氷拓海であるが、漫画によればその設定はかなり複雑なものらしく、イギリス人のクォーターだそうである。そして資産家である貴族の血がながれているとか。そうしたところに、やはり女性作家が描いた作品ということで、シンデレラストーリーからの脱却ができていないところがあるのではないだろうか。
この作品を理解するために、シンデレラという古典の物語を引用したが、そこから逸脱するものもある。さらにこの作品をもうひとつ他の作品の枠組みを使用して理解するとすれば、それはセーラームーンになるだろう。
セーラームーンは女性主人公たちは果敢に戦うのである。しかし、ピンチのときにはタキシード仮面がやってきて颯爽と救って見せる、という男性至上主義がそこには描かれている。この作品も努力するのは少女自身なのであるが、何の努力もしない碓氷によって、鮎沢はピンチをまぬかれることになっている。

この物語は、愛情の一方向性を打開する物語と考えてよいだろう。もともとさきほども述べたように、シンデレラや、セーラームーンのような、一方的な男性愛によって救われる女性像、というものの系譜につらなっていると述べた。しかし、この作品がおもしろいのは、そうした古典的作品からなんとか脱却しようとしているところにあると思う。もちろんそれは簡単にできるものではないのであるし、実際にそう簡単にできてはいないのであるが、時代も下って来て、もはや現在の中高生の間に男女観の差別意識もないこの世界においては、その一方的な男性愛に対してどのように切り返していくのかという部分が問われることになる。
この作品全体で弱点だなと私が思ったのは、鮎沢が碓氷に好きでいられることの保証がないという一点である。なぜ鮎沢は碓氷に愛されるのか、あるいは反対から述べれば、なぜ碓氷は鮎沢のことを愛しているのかということだ。そこにはなんの保証もなかったのである。碓氷はたぶんにMっけがあり、鮎沢が冷たくすればするほど嬉しがるという性癖のようなものはあったとしても、もはや女性になびくことのなくなった碓氷にとっては、自分になびいてくれないから、というその一点によって鮎沢のことを好きでいたはずなのである。とすれば、鮎沢が碓氷のことを好きになった時点で物語は終了してしまう。なぜなら自分になびいた女に碓氷は興味が持てなくなるからなのである。
そのような矛盾した愛情を鮎沢は受けることになった。自分から好きになってはいけないという拷問のようなルールである。そのなかでなんとか鮎沢は碓氷へなびかずに、手綱をきっちりのつかんだまま、愛し、愛される関係にならなければならなかったのである。それを実現可能にするのは、26話ぶんの経験値である。だからこの作品は12話程度では、とても描き切れなかったことであろう。それだけの経験値、二人の過去を積み重ねることによってこそ、単になびくだけでは興味をうしなってしまう碓氷を愛することができたのである。
アニメでは描かれなかったが、漫画ではこの後二人は結婚するらしい。ここには、シンデレラでも、セーラームーンでもない、あらたな関係としての愛情の発芽をみることができるのではないだろうか。
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