スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『RDGレッドデータガール』(12話、2013) 感想とレビュー

640_960.jpg


角川書店65周年記念ということで、角川が力を入れて制作したであろう『RDGレッドデータガール』を鑑賞した。
私の専門は一応おおきなくくりで言えば、国文学ということになる。そのなかでも専門は近現代文学とサブカルチャーということになるのだが、我が国文学には中世文学や、民俗学系の学問もある。わたしはこうした作品を見る度に、ああ、そちらの勉強も少しはしておくのだったといつも後悔せずにはいられない。
日本には豊富なアニメーションが存在し、そのほとんどが日本オリジナルのすばらしい作品であるが、そのなかでも、決して諸外国が真似できないジャンルがある。それが、この作品の系譜にもつながる、日本独自の宗教観をテーマ、下敷きとした作品群である。
管見の限りではあるが、例えば古くは『鬼太郎』からはじまり、00年代に入っては『蟲師』『夏目友人帳』などがつらなる日本民俗学系のアニメである。

この作品では、アニメを見た限りでは最後までその正体はよくわからないのであるが、主人公鈴原泉水子は「姫神」と呼ばれる超越的な存在が宿る依代、巫女のような存在として登場している。それらの「力」をめぐって、さまざまな人間が彼女の周りに集まって来る、というところで物語が進行するのである。
それは、単に純粋な力なのである。力というものは、それだけで善も悪もない。それをどのように利用するか、行使するかという点でそれが誰かにとって、善にもなり、悪にもなり得るのである。この物語は、そうした相対的な世界のなかでしか生きられない中で、不幸にも生まれながらにしてそのような強大な力をもってしまったために、多くの意志の強い人間たちによって翻弄されることになる少女の成長物語を描く。
現実世界において、我々ももちろんそのような多くの人間の意志がぶつかりあうこの社会という場所で生きていくことを、ほとんどの場合強制される。そのような世界のなかでは、弱肉強食であり、意志の強いものが勝ち上がっていくという世界だ。そのような中で、意志薄弱の人間の多くは、うつであったり、精神病にかかってしまうのである。私もその一人なのであるが、それはおいといたとしても、このひっこみじあんの少女にとっても、そのような他人の意志のなかで生きることはひどく難しいことなのである。
現実社会においてはそのような意志薄弱な人間も、なんとかではあるが生きていくことは可能である。その方法の一つとして、例えば私を含めてだが、ニートのように外界との接触を拒み、引きこもるという方法をとることによって、自己を守るという方法もないではない。泉水子も、当初は山にひきこもるという選択をすることによって己を守っていたのである。しかし、いかにひきこもっていようと、泉水子は不幸なことにも、力を持ってしまった人間であった。かわいそうなことではあるが、大きな力にはそれなりの責任がともなってしまう。私のような凡人は力を持たないがために、ひきこもっていられることができるのであるが、このように生まれながらにして力をもってしまった人間にはそのような選択肢は許されない。

和宮さとるのような、彼女が意識していないにもかかわらず、無意識のうちに力の影響を与えてしまう、受けてしまう存在によって、泉水子は自分の力の偉大さを知り、それをコントロールしなければならないということに気が付いていくのである。
そうしてなんとか外界との接触をとろうという決心に至った泉水子は、粟谷中学校を卒業後、地元の学校に通うのではなく、父親のすすめる東京八王子のほうにある鳳城学園に進学することを決意するのである。
鳳城学園は、陰陽師や山伏のような、我々の認識できるものとは違う世界の存在たちと渡り合うための力を訓練する特殊な学校である。この学校のなかでは、心霊現象も当たり前といったスタンスで物語は展開していく。
その中でさまざまな人間の意志がまじりあう中、成長していくというのが基本的なこの物語の根幹である。

物語りの系譜としては、自己実現や、自我同一性の物語りという、極めてスタンダードなものでしかない。それを彩っているのが、日本独自の民俗学的な存在、霊的な存在ということで、この作品はオリジナリティーあふれる作品となっている。
12話でも、「まどか☆マギカ」のような作品になれば、精細な論証も可能となるが、この作品でそのような論証をするのはやや難しい。
この作品は圧倒的に時間が足りないという印象を受けた。せめて46話はやらなければいけない、と思われるレベルの作品である。原作を読んだことがないのでどのようになっているのかはわからないが、せっかく角川が力を入れて作った作品にしては、尻切れトンボの感が否めない。大風呂敷を広げたはいいものの、まったく回収できずに終わってしまった、というところだろう。途中登場した竜のような存在も、その後どうなるのかが匂わされているにもかかわらず、描かれない。姫神という存在も結局なんなのか、いずれ世界を滅ぼしてしまうという予言めいたものをしているにもかかわらず、それが描かれない。せめてそれを46話程度で描いてくれれば偉大な作品となったであろうに、と考えるとやはり残念といわざるをえない。
印象批評になるが、例えば『蟲師』の素朴な感想に、絵が綺麗だった、日本にもまだこんな自然があるというのがうれしい、といった、自然賛美的なコメントが多かったのに私はおどろかされた。私自身は特にアニメそのものからそうしたものを感じ取れるだけの感性がなかったのであるが、一般の視聴者には、そのような豊かな感受性をもっている人たちが多いということなのだろう。おそらくこの作品も、『蟲師』のように、現代にも残っている自然との切り分けが未分化の賛美というものがあるのではないだろうか。
まだ人間がこのように物質的な、唯物的な生活をする以前の、眼には見えない異能のの者たちとの交流が残っている文化を描くことができるのは、現在の文化にそれを顧みることができるだけの力があるということである。もちろんその力はとてもよわっており、吹けば消えてしまうような燈火も同然なのではあるが。我々は、唯物的に生きているだけではない。このような豊かな、それは恐ろしくもあるのだが、精神世界を自然との交渉をもった人間であり種族であるということを忘れてはいけないと、強く思わされる作品であった。
スポンサーサイト

重松清『流星ワゴン』(講談社文庫、2002) 感想とレビュー



41sb13.jpg


今回、重松清を初読書することとなった。『流星ワゴン』は以前からタイトルだけは知っていて、泣ける話であるという情報だけはあったのであるが、実際に読んだことはなかった。
物語りの解説はほぼ斉藤美奈子が要を得た解説をしてしまっているので、いまさら私が書くことはそうないかもしれない。が、斉藤美奈子が女性であり、本質的にはわからないといっているように、私自身は男であり、しかも父親との葛藤をかかえているという身から、この物語を感覚的に理解できるという強みはある。今回はその感覚的な部分をすこし明文化してみることによって、感想とさせていただくことにしよう。
私自身この本をこれから仲の悪い父に読ませるつもりである。私と父はさまざまな問題から、この物語の主人公、雄一とチュウさん、あるいは、雄一と広樹のように仲が悪くなってしまっている。今では一緒の家にすんでいても、夕食時にほんのすこし言葉を交わすだけ、というところにまでなってしまっている。私自身をこのような精神的に追い詰めてどうしようもなくなってしまったのは、すべてがすべてとは言わないが、しかし極めて大きな部分で父の影響であると思っている。それを何度も口にしているが、父自身も、開き直って、ああ、全部俺が悪いんだな、となってしまっている。きちんと反省してもらって、これからの対話をしていくうえでも父にはまだまだ学んでもらわなければならないことが多いと感じている。
斉藤美奈子が引用しているように、この資本主義社会においては、父は会社という公の場に出ることになり、子供との接点が極めて少なくなってしまっているという問題がある。これは社会的な構造の問題で、構造にこそ欠点があるというわけである。私自身も父との接点はすくなかったにもかかわらず、強権的な父によって無理やり中学受験をさせられ、あまつさえ高校三年生になってからも大学受験をさせられるということになった。結果として受験をしたことは私にとってはプラスになった。それはたとえ受験する前よりも偏差値の低い学校になったとしても、私は何も考えずに法学の道にすすもうとしていたのを本当に好きな文学の道に変化させられた、という点においてはそういうことはできる。しかし、やはり結果としてはよかったかもしれないが、それと嫌なことをさせられる、自分のことを勝手に決められたという経験とは別物であり、それは区別して考えなければならないことだと思う。結果としてはよかったかもしれないが、その課程で嫌なことは嫌なことであったわけであるし、それを赦せるかというとそういうわけにはいかないのである。
この物語の雄一も、チュウさんという極めて強権的な人間を父にしてしまったがために、人間として再起不能な場所にまで陥ってしまったと考えることができるだろう。もし、父とのディスコミュニケーションがなければ、きちんとコミュニケーションが取れていれば、父に助言をこうたり、援助をしてもらうなどして、妻の不倫と息子のグレと、リストラという問題からも立ち直れたはずなのである。そのような困難を目の前にした際に、強権的な父によって育てられた人間は押しつぶされてしまう。私自身がダメになってしまったのと同じように、雄一もダメになってしまったのである。

本書のなかで一番いいなと思った言葉に線を引いた。それはこんな部分である。
「現実はね、思いどおりにならないから・・・だから、現実なんですよね」
という部分だ。もちろんこの物語自身は、こんなことをいっていながらも、現実には反映されないとしても、やり直しをする機会がもうけられているのである。もちろんこれは小説なのだから、そんなことまでいちいちずるいといっていたら批評もなにも成り立たなくなってしまうので、それは認めたうえで話をすすめることになるが、小説内でそのように言及されながらも、そして現実には反映されないという条件付きではあるが、やり直す機会を与えられるのである。やはりそれは、誰もが夢見ていることなのであり、それを仮構のなかで示すのには意味があると私は思う。それこそ小説の役目であるのではないだろうか。
だからこそ、この小説は、現実には起こり得ない、とみんながそう思っているにもかかわらず、でも、そうであったらな、そんな機会があったらな、と誰もが思っていることを描いたからこそ、名作の仲間入りを果たしたのではないだろうか。とすればである。この社会構造的に父と子というのは分断されてしまったのであるが、それこそをもう一度見直す必要があるのではないだろうか、という問題性が浮かび上がってくる。私のような反資本主義人間は、すぐにヨーロッパの諸外国のように、一日の労働時間を6時間くらいに減らしてもっと家族といる時間を増やすようにすればいい、というような安易な解決方法を提出するわけであるが、みなさんはどうお考えになるだろうか。
ともかくも、この物語がこれだけ読まれるということは、父と子の問題が社会全体のテーマであり、なんとかそのディスコミュニケーションからのコミュニケーションを取り戻したい、というみんなの希望がそこにあるように感じられるのである。

「親子って、なんで同い歳になれないんだろうね」
これもまた心に響いた一文である。私ももし、自分の父親と同じ歳で会うことができたのならば、友達になれていたかもしれない。親子になってしまったがために、このような不仲になってしまった。本当は不仲になんかなりたくない、できることであれば分かり合いたい、そう思っているのにもかかわらず、男は不器用なもので、そしてへんな意地やプライドがあるために、うまくいかないのである。
物語りとして女性の視点が圧倒的に欠けている、と著者自身も斉藤美奈子も言っている。私も確かにそう思うが、敢えてそれを排除することによってテーマが明確になっているという斉藤美奈子の指摘も正しい。私はこれはこれで十分に完成された作品であり、訴えるところの明確な大衆小説にもかかわらず、きちんと批評にもたえられるだけの力を持った作品であると思われるのである。

『だから僕はHができない』と『B型H系』に観る現代における性交渉の難しさ

4047128236.jpg

news_xlarge_bgatahkei.jpg


ここのところ毎日アニメを12話見るというのが日課になっているのだが、先月見たアニメのなかで、ふたつのアニメに共通する点を見付けたのでそれを記しておきたい。
このところ見ていたアニメというのはどれも学園ものであり、そこには学園らぶこめであったり、がくえんどたばたであったり、学園ハーレムであったりするのだが、全てが全て学園であるために、もはや物語としてのオリジナル性というものはほとんど見ることができず、どのアニメにおいても、学園祭でなにかしらあったり、体育祭でなにかしらあったり、修学旅行でなにかしらあったりと、もはや同じものをキャラクターだけをかえてやっているような、そんな気がしてきてしまう。
どうしてアニメーションはそんなに学園にこだわりつづけるのか、という問題も、一つのテーマとしては十分におもしろいだろう。いずれはそうした点についても考察を深めていきたいと思っているが、今回はちょっとかわった点から全く関係のないと思われていた二つのアニメーションを横断することによって、批評というものをしていきたいと思う。
今回私が挙げるのは、『だから僕はHができない』(2012)と『B型H系』(2010)である。
二つのアニメはもともと関係はない。ただ、テーマという点で共にH,セックス、性行為をモチーフにしているという点で同じなのである。
簡単に両者の違いを明確にしつつあらすじを追ってみると、まずは『だから僕はHができない』であるが、この物語は最終的には学園ものからセカイ系にまで発展していく物語なのである。たった12話でそこまでやってのけているわけで、かなりタイム的にはタイトな作品であったが、学園ドタバタ、あるいは学園バトルものかと思いきや、そこからもうひとつの世界、魔法界のような場所における命運を男性主人公が背負うことになるという点で、セカイ系作品ともいえるべき作品なのである。
もちろん、もとから学園ものというのは少なからずセカイ系との接点のある作品だった。ほとんどの学園ものは、近景、中景、遠景のなかで、中景の部分を意図して描かない。本来であれば、わずらわしい親子の関係、などを私たちの生活は占めていたはずなのであるが、アニメーションにおいてはそれらは完全にカットされ、親の存在は邪魔にしかならないために、体よく海外旅行にいかされてしまっているのである。今回の両作品も大体同じようなものである。
『B型H系』は、女性主人公である山田の物語り。彼女は高校進学と同時に、Hをする友達、ようはセフレなのであるが、H友百人できるかな、とかなりどぎつい理想の持ち主なのだ。そんな山田は(最後まで下の名前は明らかにされない、という謎がある)、なんとかしてセックスをしたいと思うわけなのであるが、なかなかセックスができない。というより、そのツンデレの性格が影響して一人の人間とセックスができるようになるまでの人間関係を結べないのである。そこで彼女は純朴な少年である小須田崇を最初の相手にしようと、彼との初セックスができるようになるまでの物語りなのである。

アニメの世界では一方で、性に困らないハーレムものが存在する。多くの場合は男性主人公を中心として女のハーレムが形成されるが、その逆も比率としては私の感覚でいえば、7;3くらいで存在している。彼等にとっては親という中景の存在もいないし、やりたいほうだいである。明確にそういう描写をするアニメはすくないが、ほとんどの場合は性行為をしていると解釈してもなんら問題はないだろう。
そういうハーレム世界がアニメーションで描かれているという現状をどう考えるか、という問題になると私は思う。安易な回答ではあるが、やはり現実にそういうものが存在していないわけであるので、これらは原作者、あるいはアニメーターたちの理想であると考えてよいのではないだろうか。主に漫画やライトノベルなど、これらのアニメの原作になりえる作品を描いている人たちはサブカルチャー出身の人間であることが多い。とすれば、通称キモオタとまではいかなくとも、少なくともオタク要素を持ち合わせていたわけで、彼等、彼女等の学園生活がそれほど明るく楽しいものであったと考えるには難しいだろう。だからこそ、彼等は自分たちの理想の学園生活を夢想することによって、自分だけの気持ちのいい世界をつくるわけである。そして実際サブカルチャーを受容している多くのひとたちにとってもそれらは麻薬様に気持ちのいいものなので、それらを享受しつづけ、それらを再生産するだけの土台をつくりつづけているのである。
では、妄想世界でそんなふうに簡単にHができる世界を妄想しながら、なぜこのふたつの作品のように、ひどくHをすることが難しく描かれる作品が登場してくるのであろうか。それが問題である。
確かに妄想は気持ちがいい。しかし、それだけを延々と再生していても、そこからはなにも生まれてこなくなったのである。何か別の表現がしたい、そういう気持ちが最初にあったのではないだろうか。
だからこそ、Hがしたい、セックスがしたい、という欲求をストレートに見据え、それに対して立ち向かっていく。そういうことが描かれるようになったのではないだろうか、というのが私の仮定である。

あるいは、確かにスクールカーストといった言葉が数年前に流行ったが、そのカーストの上位、かっこいい男子たち、かわいい女子たち、は、つねに彼女、彼氏をそのグループ内でとっかえひっかえやっているものである。それらはハーレムとまではいかないが、それに近い、オタクの人間が妄想しても届かない享楽を味わっているわけで、セックスには飢えていないはずなのである。とすると、セックスの格差というものが現代社会にはあるのかもしれない。セックスについてオタク的な妄想が誇大し、セックスができない、という作品が産みだされているなかで、それらを普通にしてしまっている人種も存在するのである。そうした人間たちへの、これはルサンチマンととらえてもいいのかもしれない。
実質問題として、オタクたちサブカルチャーを享受する側にとっては、Hというものはひどく難しいものである。そのような人間関係を結ぶのが難しいからである。だが、アニメのキャラクターもそうであるという必要はない。アニメのキャラクターはそもそもそれ自体がサブカルチャーということもあって、『乃木坂春香の秘密』のように、一部作品内においてサブカルチャーが否定されるという作品はあっても、それはごくごく例外に過ぎない。ほとんどの作品ではサブカルチャーということさえも表出化してこないのである。
もちろんそのかわりに、Hができない理由として、うぶであるとか、ツンデレな性格である、といった理由づけがされるわけであるが。
しかし、それ以上に私はHができない理由というのは、社会学者の上野千鶴子が述べているように、本当はHがしたい、という想いがある反面、Hをしたくない、という想いがあるからなのではないか、と思う訳である。上野千鶴子は人間はパンティーには興奮するが、その下の性器には興奮しない、というようなことをいっている。むしろ隠されることがいいというエロティシズムにもかかわってくる問題なのだと思うが、秘められているからこそ求めたくなるのであって、それが公になってしまってはちっともおもしろくないし、そこへの興味はわかないというのである。
だから、アニメの主人公たちは、それは原作者たちといってもいいし、アニメーターといってもいいかもしれないが、Hがしたい、という欲望を持ちつつも、それと同じくらいには、Hを実はしたくない、というアンビバレントな欲求を持っているのではないかと思うのである。
もちろんこれはアニメだから、Hをしてしまったら、目的が達成されたということでお話が終わってしまう、ということもあるが、しかし、なにも一般人は普通にやっているセックスをしたい、というそれだけのために、12話、四時間もかけなくてもいいはずなのだ。それをするからには、それだけ引き延ばさなければなるまい。それだけ引き延ばせるということは、それだけの葛藤があるということである。その葛藤は、Hがしたいけれども、実はしたくないのだ、という矛盾したものなのである。

Hやセックスそのものが作品のテーマになってきているという現状は、それだけサブカルチャー民が性行為から離れてきているということを表しているのではないだろうか。もちろん確かに人一人と性行為ができるようになる関係になるというのは、大変なことでもある。だが、一方で、なんの人間関係もない人同士がセックスだけのために性行為をしているという現状もあるのである。
サブカルチャー民はそうしたセックスを下卑ていると否定するかもしれないが、しかし、そうした否定の裏には、そうした人間関係があってしかるべきだ、という理総論が隠れているようにも思えるのである。そうした理想は理想としてもっておくことは常に重要なことではあるが、しかし、その理想は一度セックスをした後であっても遅くはないのである。セックスはそんなに難しいことではないのだ、ということを体感してからでも遅くはないと私は思うのである。
願わくはサブカルチャー民にもセックスをできる自由があらんことを、と願うばかりだ。

野村総一郎『「心の悩み」の精神医学』(PHP新書、1998) 感想とレビュー

sim rgvae(1)



新書を読み始めてから何年にもなる。一体いままでにどれだけの親書を読んできただろうか。二百冊、いや三百冊くらいだろうか。おそらくそのくらいは読んできたと思われる。
そんななか、今回は野村総一郎の新書を読んでみた。自分がうつになってしまい、まったくなにもやる気が起きないということもあって、最近はそうした心理学系の本を読んでみようという気持ちが高まっている。この本の前に読んだ岩井寛の『森田療法』はかなり古い本だったが有用な本であったし、香山リカと五木寛之の『鬱の力』は話がかみあっていないことがしばしばだったが、それでもおもしろく読ませていただいた。その中でもこの本はとてもおもしろく、すばらしい本だったと思う。いつも五段階評価を新書にはつけているが、評価は4,5点である。十段階にすれば9点というところか。

この本の内容は、それぞれの章ごとに、それぞれ異なった精神病を発症している患者が登場し、それらの人をどのようにして回復へと導いていったのかということが、物語調で語られる。それがなかなかおもしろい物語となっていて、それぞれは短いが、いずれも、その短い間でこちらもふっとこころが軽くなるような、治療を疑似体験することができるようになっているのである。
それぞれ、パニック障害、うつ病患者、体調の不調を訴える患者、PTSDの患者、過食病の患者、やる気をなくした患者、なんとも名前のつけられない症状の患者、定年退職者のうつ、といったところである。
私の場合は、仕事ということそのものが嫌で嫌で仕方なく、うつ病になってしまったので、二章のうつ病患者のところが良く当てはまった。しかし、それだけでなく、そもそも私はうつ病になる以前からひどい無気力症候群だったのである。それを説明してくれたのが、六章の「偉大な父の息子」という章立てであった。ここではかなり有名な人間を父ともってしまったがために、まったくやる気をなくしてしまった息子の話が乗っていた。まさしく私と同じであり、これを早くも父に見せることによって、なんとかあなたが私をこうしたのだ、ということをわかってもらいたいな、と思う次第である。
あるいは、父にも読んでもらおうと思っているのだが、父にとっては定年退職を先月したばかりなので、今後のことも含めて、八章の定年退職をした人の章が役立つかもしれない。そういう意味で、野村先生にはずいぶん頭のさがる思いがする。こうしたケーススタディーと言うのは十分に役立つものなのだなと思われる次第である。しかも、野村先生文章力というか、物語り作りがうまくて、とてもおもしろく読めるのである。大体こうした本は理論だのなんだの、小難しく書いてあって、実につまらないというのが現状である。そんななか、この本は非常におもしろく、ぱっと読めてしまった。その点で、この本は誰におすすめしても問題の無い本として、私が自信をもって推薦できる本のひとつに加えておこう。

個人的に気になった章があった。それは、七章の「境目にいる人達」という不思議なタイトルの章である。この章に登場する女性。初めて野村先生が最終的にうまく治療できなかった患者としても登場する。しかし、それ以上に私が興味をひいたのが、その症状だ。
一応名づけとしては「精神病とノイローゼの境目にある病気」という意味でボーダーラインといってはいるが、これは当然ながら正式な名称ではない。私も野村先生のように上手く説明できればいいのだが、うまく物語を書けない私はどうやって説明してよいのやら。ともかく感情の起伏があまりにも激しすぎるのである。初対面でいきなり、「あなたはすばらしい先生です」といったかと思うと、二回目に会った時には態度が急変し、「あなたの言葉のせいでこんなにも傷つきました」と言う。それ以降は、言葉じりを捉えて、「あなたはまたそんなことばで私を傷つける」とか、たった一言を無理やり解釈して「あなたは私に仕事をするなといっているんですか、死ねといっているんですね」といったりするのである。
この症状、なぜ私が注目をしたかというと、こんな感じの人を何回か見たことがあるからである。この患者、結局二年の付き合いで野村先生は治療することができなかったと言っていた。おそらくこうした人は、たんなる病気ということを越えて、もっとなにか生まれ持っているものがあるのではないか、と思わずにはいられない。とすれば、治療は不可能なのではないか、完治は無理だろうと思えてしまうのである。そうすると、私があった二人のボーダーラインの人達も、これからも周囲をずっと巻き込んで生きていくのだな、周りの人が大変だな、と思わずにはいられない。

この本では、実戦的な治療の話が聞けるので、そのテクニカルな部分も、ほんのわずかではあるが、知ることができる。これはすばらしいと思った部分を囲繞しておく。
「このコトバは考えてみると、相手の言うことを肯定も否定もしていない。しかし相手の気持ちは認めたのである(少し話が横道にそれるが、だいたい精神科医が診察室で発する言葉にはこの手のものが多い。患者の言うことを現実レベルで否定すると拒絶されあっと受け止められるし、肯定すると相手に巻き込まれることになる。とにかく患者がつきあってくれなければ成り立たない商売であるだけに、相手の感情を受け止めることを武器にするしかないのである。その点、精神科医というのは人間好きでなければできない仕事であることは確かであろう)。」
相手の言葉を肯定も否定もしない。それはできることなのである。こうした技術論は非常に重要で、私達が生きていくうえでも利用できるすばらしいテクニックだと思う。

精神科医の役割を端的にあらわした部分を引用して筆をおくことにしたい。
「心の悩みという深遠な課題は精神科医の手に余る部分もどうしたって残る。その場合には精神科医は解決ではなく、ケアーとかサポートといった役割を担うことになろう。それを含めてお役にたてれば、これ生きがいなのである。」
精神科医がどのような立場にあるのかということを明確に示した部分だと思う。私も、精神科医の先生たちにカウンセリングをしてもらっているが、どこかで解決してくれるのではないか、だが、この人達に解決できるわけはない、と思っていたのも事実である。実際には先生方はサポーターなのであって、その問題はやはり本人の問題なのである。
私の問題は、やはり仕事は嫌なのだから、しないで生きていくという方法を見付けていくしかないような気がするのである。

アニメ『遥かなる時空の中で』シリーズ 感想とレビュー

mainijk (1)


今回は『遥かなる時空の中で』シリーズについて論じてみることにしよう。
『遙かなる時空の中で-紫陽花ゆめ語り-』(2002,2003)
『遙かなる時空の中で2-白き龍の神子-』(2003,2004,2005)
『遙かなる時空の中で-八葉抄-』(2004-2005)
『劇場版 遙かなる時空の中で 舞一夜』(2006)
私が鑑賞したのは、この四つだ。基本的には、26話アニメである「八葉抄」と、それと同じ世界観で描かれたその後を描く劇場版「舞一夜」について論じることになる。
ちなみにであるが、「2、白き龍の神子」は、ほとんど設定、登場人物の関係がかわらないにもかかわらず、キャラクターや設定が完全に新しくされているという作品である。うまく言葉で表現できないが、タイムボカンシリーズなどを参照してもらえばいい。女主人公に二人の子分対、二人の少年少女、という関係はかわらないものの、そこに登場する人物の名前や設定が変わっているというものである。同じ構図をなんども手を変え品をかえ同じことを繰り返しているのである。「紫陽花ゆめ語り」は、「八葉抄」と同じ世界観であるが、この作品は、八葉抄に登場する設定、キャラクターをそのままトレースして別の物語りを描いたというものである。

さて、今回アニメにして、「八葉抄」(26話)「白き龍」(3話)「紫陽花」(2話)、劇場版、を見て来たわけであるが、この作品をどう論じようかと思った際に、この作品を通底している同じテーマがあったのでそれを論じることにしよう。
そのテーマとは、多様性と仮面である。
多様性から論じてみよう。人はみな、多様的な生き物である。感情的な面があったりすれば、論理的な面があったりする。あるいはいかりっぽかったり、あるいは時として冷静であったりする。そうした様々な面があったうえで、人間は生きているのである。しかし、多様的というのは、よいことであることは確かかもしれないが、しかし反面わかりにくいというマイナス面をももつ。人はみな、こんな私もいるのよ、こんな私もあるのよ、ということで多様的に生きようとしている。しかし、その反対はどうであろうか。私たちは友人や知人をみるときに、その人たちが多様的な人間なんだ、と認識しているであろうか。もちろんとても仲が良くて何年も一緒に過ごしてきているという友人であれば、こいつは普段はきはきしているけど、時としてなよなよするときもあるよな、といった多様性を認めることになるだろう。しかし、往々にしてそんなふうに私たちは他人を見ていないはずである。もっぱら、こいつは明るいキャラ、こいつは根暗なキャラ、こいつは委員長キャラ、といったように、ある特定の一部分をとってそれを肥大化させ、こいつはこういうパーソナリティーの持ち主である、というレッテルを張ることによって生きているのである。そうしなければ、あまりにも煩雑すぎて生きていくのが大変だからである。だから一概にレッテル貼りはよくない、といえないのが現状ではある。もちろん、できることならば、多様的に受容したいものではあるが。

この作品はまずこの多様性について描いている作品である。
八葉衆というのは、それぞれの感情を誇張的に描いた登場人物たちによって構成されている。だれがどの感情ということまでいちいち指摘するつもりもないが、そのように描かれていることは疑いないだろう。それらの総体として、あかねという女性主人公は登場するのである。怒りっぽさもある、はっきりした部分もある、弱いところもある、頭のいいところもある、そうしたものすべての中心としてあかねは存在する。
劇場版のラストにおいては、多季史というキャラクターがこの多様性を演じさせられる。そもそもこの人物は舞の舞手であり、現代でいえば演劇者である。だからこそ、この人物は多様的な人間を演じる存在としても描写されるわけである。彼は最後に、あかねの瞳にうつった自分をみて、自分はなんて醜いんだとこぼす。それをあかねはこういうのである。それもあなただ、しかし、自分に濡れているときに布をくれたのもあなただ、と。そうした多様性に気づかされることによって、怨念という形で凝り固まっていた多季史は、多様性を認めることによって昇華され、浄化されるという構図を描く。

仮面について。さて、そのようにして多様的な人間は、しかし他人の視線によって多様的ではいられなくなる。となると、その間でズレが生じるのである。私は多様的な人間であるのに、みんなは私のことをこんなキャラクターとして見ている。見ているだけならばまだいいが、往々にしてそうしたキャラクターというのは押し付けに早変わりするのである。お前はツッコミキャラだから、ここではツッコムよな、というように、周りからツッコミをすることを期待されるといったように、他人によって作り出されたキャラクターというのは、徐々にその人物を縛り上げるのである。
あかねは、あかねでありたかった。しかし、竜神の神子という役割を物語によって与えられてしまったがために、現世から一緒に旅だった森村天真と流山詩紋以外には、「神子」としか呼ばれない。すなわちそれは、あかねという個人の人間ではなく、役割を負った神子としてでしかとらえられていないということである。八葉衆のほとんどの人間にとっては、あかねはあかねでなくともよいのである。例えば、黒龍の神子であるラン、森村蘭が白竜の神子であった場合、彼らはなんの疑いもなく、彼女を神子と崇み奉ることであろう。彼等にとってはその役割が重要なのであって、個人は重要ではないのである。
しかし、そんななか、神子という役割を一方的に押し付けられるなかで、森村天真だけは、あかねを神子としてではなく、自分の友人であるあかねとして捉えようとしていたのである。だから、私はあかねをきちんとあかねとして捉えられている森村天真こそが、あかねと結ばれるものだとばかり思っていた。彼にはその資格がありそうに思えたのである。しかし、作品はさらにそこを裏切っていく。

劇場版においては多季史が仮面の役割をも果たす。彼は舞手でもあったので、仮面というペルソナをつけることによって、自分とは異なったキャラクターをも演ずることができたのである。というと、聞えはいいが、実際のところは、愛されたいという本心があるにもかかわらず、人間として生きることを許されずに、舞うことだけを求められたのであり、だからこそ、舞ったら死ぬといわれる仮面をもかぶらなければならなかったのである。これは比喩なのである。私たちも本心に従っていきたいのにもかかわらず、それはかなえられない。それどころか他人によって強引に押し付けられた仮面を被らされることによって、殺されてしまうのである。劇場版では最終的に自分自身もアニメ26話のうちにおいてキャラクターを押し付けられていた者として、多季史を理解してあげることができ、彼の多様性を見出すことによって、彼を解放へと導いていく。
アニメ版においては、この役割は当然敵役のアクラムが演じることになる。彼は仮面をつけているのだ。それは彼の強さでもあり、弱さでもあるのである。

さて、この作品にはほかにもいくつか指摘しておきたい点がある。
例えばそれは差別の問題である。アニメ26話においては、アクラム率いる登場人物たちは作中で鬼と呼ばれる。詩紋も味方の人間でありながら鬼と呼ばれてしまう。それは髪の色ゆえにである。古来から単一民族で生きて来た我々日本人は、ほかの人種がたくさん存在しているコミュニティ、国と違って、いい意味においても悪い意味においても特色のある文化になっている。良くも悪くも集団的なのである。もちろんだからこそ、いい文化が生まれたとか、そういうことはなんとでも言えよう。しかし、その反面、すこしでも他人と違うことに対して極度の不安を感じるようになってしまったのは、我々の弱点というほかないだろう。だからこそ、外国からやってきたアクラムたちを髪や瞳、体格などが違うという理由で、彼等を排除しなければならなかったのである。
これとまったく同じことを、2010年公開のアニメーション映画『鬼神伝』も描いている。15歳の天童純はふとしたことからタイムスリップし、平安時代へと送られる。そこでは京都の人間と鬼とよばれる存在が対立していたのである。だが、あることから鬼と親しくなる天童純。実は鬼が、単にお面を被っていただけであり、彼等もまたまったく同じ人間であることを知るのである。
これらに共通しているのは「鬼」というものがそもそもなんなのか、という問題である。敢えて強めにいうならば、それは己自信なのかもしれない。己の、相手を怖い、自分と違った他者という存在への恐怖、それらが「鬼」という面をかぶって顕在化しているのかもしれない。
もちろんアニメではそんな心理学的なことを描いてもどうしようもないので、実際に「鬼」とよばれる人間たちは登場するし、かれらは怨霊という存在を使役することができる。しかし、現実問題として、そのように伝承などに残っている「鬼」の存在は、自分自身の恐怖なのかもしれない。

さて、一通り指摘してきた。ここらへんで筆をおくことにしたいが、最後に結局この作品はどうなのか、というところをすこし感情的にはなるが、述べておきたいと思う。
やはりこの作品、もとが女性向けのレンアイアドベンチャーゲームということもあって、きわめて女性に都合のいいようにできているという点は指摘しておかなければならないだろう。女性主人公であるあかねは、八人のイケメンによって、守られる。それは何の条件もなしになのである。もちろん作品内ではそんな事では困るので、一応あかねは神子という存在であり、それを守らなければならないから、ということになるが、そんなのは表面上の話であり、実際はただ単純に男性にちやほやされたいという女性の欲望の表れである。
さらにこの作品が消費的なのは、そうして安全に守られた上で、それらの人間とは向き合わずに、自分のものにならない敵方を愛するという点である。こんな都合のいい女があっていいものなのだろうかと、私はあかねに対しては感情移入ができない。女性諸氏においてはこの主人公に肩入れできるのかどうか聞いて見たいところではあるが。
それにしても、この女性主人公はアニメの最初こそ、そんなのは知らないと自分の役割から逃げ出そうとしている共感できる存在であったが、どうしたことか、途中からそんなことをけろっとわすれたどころか、みんなが頑張っているのに自分は何もできない、とばかりに、ずいぶんいい子ちゃんに収まってしまうのである。しかも、愛するのは敵方であるアクラムであり、劇場版では多季史なのだ。敵こそを救わなければならないと思い込んでしまっている時点で、彼女はひどくマゾヒスティックな、メサイアコンプレックスの持ち主なのかもしれない。そういうものを少しでも持っている人にとっては自分のことを認めてくれるような作品として消費するに気持ちのいい作品なのかもしれない。

『ナイトヘッドジェネシス』(24話、2006) 感想とレビュー

nightheadgenesis.jpg


今回アニメ作品『ナイトヘッドジェネシス』を鑑賞した。これは評論にたる作品だと思ったので、研究メモ程度に感じたこと考えたことを記しておきたいと思う。
なかなか他の作品のように、この作品に対して一本の論理で作品をつらぬけるほどの技量が私にはないので、論理的ではないが、断片的にいくつかの要素を抽出してみようと思う。

まずこの作品を鑑賞して、なるほどなんだか見たことがあるぞ、と思ったのは、アメリカの人気ドラマである『スーパーナチュラル』とよく似ていたからだ。同じく男兄弟が超能力をもって、さまざまな事件を解決していく、という基本的な構図は両方に共通するものがある。一応『スーパーナチュラル』のほうが初公開は2005年となっているので、もしかしたら作品関係において、『ナイトヘッドジェネシス』はその人気を受けての制作だったのかもしれない。あるいはまったく製作者たちが『スーパーナチュラル』を知らなかったとしても、ほぼ同時期に同じような構図の作品がアメリカと日本で同時に発生していることに、なにかしらの意味を見いだせるのかもしれない。残念なことに私にはこれといって納得のできる解を見付けることができなかったので、もしこれに何かしらの見当をつけられる方がいれば、お教え願いたいものだ。

この二つの作品に共通していてなるほどと思ったのは、男性2人の兄弟というのは、物語りの運営上、とても安定する、黄金律のようなものなのだという気づきであった。近代以降の作品における、主人公、という特権的な存在は、そのほとんどが一人である。大体においてしかも男性が多いわけであるが、たった一人の人間にフォーカスをして物語を進行するわけである。それが良くも悪くもここ百年程ずっと続いてきたわけだ。さて、そんななか、兄弟を主人公とした作品も出てくるわけである。そしてそれが意外と安定していて物語の進行もしやすい、という点で実にすぐれた物語のキーアイテムとなっている。
この作品も、二人の兄弟の成長物語として見ることが可能である。それは超能力の開花、コントロールという表面上の体裁をとっているが、それらは人間としての成長の比喩である。現在のアニメをめぐる、サブカルチャー的世界の多くが、エターナル的な学園生活のなかでの気持ちのいい世界の享受でしかないなかで、この作品はさまざまな事象と向き合って、辛い中をくぐりぬけ、成長していこうという、ある意味ではそれ以前の物語りの構造をとっている。
それが2006年に提示されているという点においても、意味を求めることはできると思う。それでも成長をしなければならないではないか、実際は世の中というものは辛いものだという批判になっているということもできるだろう。

他にも主人公二人制、兄弟二人制というのはさまざまな功利をもたらす。
例えば物語においてつねに片方が悩み、片方がそれを支えるということで物語に回転をつけさせることが可能なのだ。物語序盤においては、弟の霧原直也を兄の霧原直人が支え助けていくということで物語が進展していく。弟の霧原直也は確かにその能力が、相手の暗部までをも見通せてしまうというすさまじい能力の持ち主であるが、それだけ暗部を見ているのであれば、人間なれてもいいものではないかと思わずにはいられなかった。彼はあまりにも純粋すぎて弱すぎるのである。声優の石田彰もよくやると思ったが、彼は何かをリーディングするにつけて「うわあああああ」と叫ばずにはいられない。少しは成長しろよ、と思わずつっこみたくなるところであるが、彼はそれだけ純粋であるのだろうということで許しておこう。普通人間の暗部ばかりを見ていたら、人間擦れていくのだと思う。無気力のような状態になってしまうのではないか、どうせ人間なんてこんなものだという絶望をかかえてしまうように感じる。彼にそうした人間的退廃が起こらなかったのは、彼がつねに純粋でいたからなのである。だから、暗部を見るとその度にそれに極度に反応してしまう。それは翻って言えば、そうした暗部によって慣れが生じなかったということになるだろう。つねに新鮮であったわけだ。
そんなか弱い弟を兄は常にフォローしていく。私のような物語の構造にしか興味のない人間はこうした作品をそのレベルでしか享受できないのであるが、現代のキャラクターを消費していくという享受の仕方においては、この霧原直人に理想の兄像を重ねて大好き、といったような享受の仕方もあるのではないかと感じる。
物語中盤では、超能力の研究をしており、作中では二人の父親的存在になる御厨恭二郎が物語りの指導者的役割を担っていく。彼は良くも悪くも研究者といったところで、フロイト先生のような髭面に父権的な人物として描かれる。
物語り終盤では、ずっと弟を支えて来た兄直人が弟によって支えられるという構造になる点も注意しておきたい。やはりどうして兄がこれだけ支えられるのかというのには無理が生じているわけであり、なんとか直人は直也を超能力的に目覚めさせた後、こんどは自分の能力が開眼するとなって、非常に精神的に弱くなっていく。
主人公二人制、あるいは兄弟制というのは、このようにしてお互いを支え合いながら成長していくことが可能だという点で、成長物語にはもってこいの制度なのかもしれない。

また印象論程度のものでしかないが、なるほどおもしろいな、と思ったのは、敵が裏の裏をどんどんつくってくるということである。手下から登場するというそういう構図になっているわけである。敵を倒したと思ったら、実はその裏がいて、というのの繰り返しで、最終的には車いすにのった老女、アークの社長にまでたどり着くわけである。だが、それ以前に登場する人物たち、曽根崎道夫や神谷司も、ラスボス臭はぷんぷんとしていたので、そうした描きかたというのは物語を面白くするうえで、重要な表現手法になるのだな、というのが勉強になった。

高田明典『世界をよくする現代思想入門』(ちくま新書、2006) 感想とレビュー

]


今回の新書の評価は五段階中4.
非常に知的に興奮できるおもしろい書籍であったと言える。
文章は現代思想や哲学をあつかったもののなかでは比較的わかりやすい、平易なものであったと思う。といっても、十分に難しい文章ではあるが。ふと注意せずに読み飛ばしているとまったく意味が分からなくなるというくらいには、密度の濃い文章であった。だからそうしたときは巻き戻して再び文章をじっくりと読まなければならない。
この本はアマゾンのレビューなどでは「最終的になにが世界をよくするのかわかなかった」といった批判を浴びていて、たしかにそういう側面はあるのだが、良くも悪くも、誠実に「世界をよくする」ことをつきつめて考えていった本である。
世界をよくするというのは、文字通り、どうしたら戦争や貧困などがなくなって平和になるのかな、といった表面上の問題ではない。この本では、そもそも〈よい〉状態とはなんぞや、〈世界〉とはなんぞや、というところに論点が集中される。結論からいえば、万人に共通する〈よい〉という状態はない、と言い切っているし、後半はやや私も読解が追い付いていなくてこころもとないのであるが、〈世界〉とは、人それぞれの、その人を中心とした半径何メートルの世界像ということになるらしい。
そういう意味で〈よい〉ということは論理的につきつめていくとどういう意味なのか、〈世界〉とはどのように認識されるものなのか、といったことを論理的にずっと考えていくわけである。だから、タイトルを安易に勝手に解釈して、現代思想はどうしたら戦争や貧困をなくすことができるのだろう、それに対する何か特効薬的なことが書いてあるのではないか、と思って読んだアマゾンの読者などは、しっぺ返しをくらってしまうわけである。

筆者の比喩表現はやや微妙なところもあるが、それでもなるほどと思わされる部分は多い。
この本の筆者は哲学と現代思想の違いをこのようにのべる。哲学がノミやカンナであるのに対して、現代思想は電動工具のようなものだと。哲学は基本的には誰でもが扱える素朴なものであるが、それをうまくつかうには職人技のような熟練の技術が必要になる。それに対して現代思想というのはそのものだけに対してならば誰でもが使用できる便利な道具なのだと。しかし、反面、うまく使えないことや、手の感覚で微妙なラインを出したりすることができない、といったものだと述べるのである。
現代思想とはなにを目的にしているのか。それは「幸せになること」である。これは哲学にも共通することだろう。本来我々は、なぜ学ぶのかというと、「幸せになる」ためだったはずなのである。だが、現在においては勉強はつらいものであり、それ自体が人を不幸にしていることも往々にしてあるのだから、本末転倒しているとしかいいようがない。
哲学との違いは、哲学がそのものの意味、形而上学を考えるのに対して、現代思想というのは、より実践的である点だと筆者はのべる。
①幸せとはどのような状態なのかを設定し、②現在はどのような状況なのかを確認し、③現状から幸せまでどのようにしたらいけるのかという方針を決定し、④それを実践し、トライアンドエラーを繰り返す、というのが現代思想の基本的なスタンスというわけである。
筆者は現代思想がなぜわかりにくいのかということを、これらを説明しながら、その目的や手法のためにかかれているということがきちんと理解できていないからだと言う。確かに、なぜ小難しい現代思想書を読んだ時に、一体なにについて書かれているのだろうか、と思うことは多い。それは基本的には人間はどうしたら幸せになれるのか、ということについて書いているのだということを認識するだけで、きっとずいぶんと読み方が変わることだろう。

本書には最後にかなりの分量で、読書案内が書かれている。それぞれの思想家たちへの道案内となっていて有効である。私は今回は初めての高田氏の本だったので、他の書籍をまだ読んでいないが、『難解な本を読む技術』(光文社新書)などを出していることから推察するに、こうした思想書へのよき導き手となってくれるような気がする。

『テイルズ オブ デスティニー2』(2002,2007)感想とレビュー 人はいかにして幸せになるのか

51MT522EMFL.jpg


今回ため込んでいたゲームのうち、『テイルズオブディステニー2』をプレイした。本来であれば、私は制作順にプレイする人間なので、『テイルズオブディステニー』の1のほう、スタンが主人公のものをやるべきだったのだが、あいにくそれを買いに行っている金銭的、精神的余裕がなくて、しばしばであるが、2のほから始めることとなった。機会があれば、今後ファーストをプレイすることによって、なるほどそういうことだったのか、という気づきを愉しみにとっておくつもりである。

さて、今作であるが、どのように批評、評論していこうか。スタイルはいくつかある。
まだちっとも目を通していないのだが、というか目を通すつもりもそんなにないのだが、「テイルズオブディステニー2」と検索エンジン上で検索すると、すぐに「矛盾」などと表示がされてくる。私は文系の人間であるから、あまり時空間が関連したタイムパラドクス的なことを考えるのは苦手なので、いったいこの作品のどんなところが矛盾だったのか気が付けなかった。が、方法論の一つとしては、ネットにあるように、この作品を科学的に分析して緻密に論理で組み上げていくというやりかたもあるのである。私の指導教官だった大学の教授も、そうしたタイプの人間であった。
たしかにそうした研究のおもしろさもあろう。それによって生み出される新たな知見もあるかもしれない、が、今作に限ってはすでにネットにでていることであろうし、それをやってもそんなに生産的でない気がするので私はそこには触れないことにしておこう。

私もまだ若いので、まだまだ文芸批評のスタイルは大したものではないし、メソッドも多く持っているわけではない。だが、そのなかでも特異とするもののなかには、たとえば構造主義批評、物語りの構造を分析することによってその物語をどう解釈できるのかというものもある。だが、今回はそれではなく、やや印象論的なものになってしまわなくもないが、テーマ論的な論じ方をしてみたいと思う。
ずばり、この作品のテーマは人々の幸せであった。だから今回は人はどのようにして幸せになるのか、という点で論じてみたい。

昔のRPGゲームというのはある意味単純で、世界征服をしたい、という困ったちゃんがいたからこそ成立していたのである。だが、いつまでもそんなに全世界を絶望のどん底につきおとしてくれるほどの力を持った魔王がいるわけでもない。日本の社会も円熟を迎えるとともに、そうした魔王タイプの人間は徐々にいなくなってしまった。
今作でおもしろいのは、なんと「神」を出してしまったところにある。人間がそうぞうしうる作品内における「神」なので、およそ我々がイメージするキリスト教的な全能の神とはかけ離れた存在だったが、この作品にはフォルテゥナという女神が存在し、しかもそういう信仰があるというだけでなく、実際にキャラクターとしても登場してしまうのである。
RPGゲームをそんなにプレイしたことがない身としては、他に神が出てくるゲームといえば、ドラクエの7だったかで神様と呼ばれる存在が登場したことくらいしか思い浮かばない。
どちらかというと、神への現代人の理解にもつながってくるのであるが、他の星から来た、超高度に発達した別の生命体と考えた方がわかりやすいのかもしれない。

何にせよ、今作に登場する神、フォルトゥナにつづき、その分身である聖女エルレインと、今作のヒロインでもある聖女リアラは、時空間を超越する力を持った存在として描写されることになる。
力ない実作者の立場から言わせてもらえば、空間移動まではなんとかなるが、時間移動が入り込むと一気に作品が成立しづらくなるので、諸刃の剣として私は畏怖の念を抱いている。例えばタイムトラベルそのものだけに着眼した『シュタインズゲート』のような扱い方をするならばいいものの、都合程度でタイムトラベルできます、みたいなノリでこの概念を提出してしまうのはあまりにも危険である。今作ではレンズの力がないと発動できないという制約があったからまだよかったものの、下手をしたらネットで書かれているように、矛盾が気になってしまって作品として成立しづらくなるのである。

今回主人公たちの敵となるのは、同じ神の分身であるエルレインである。神や分身といった概念から、私達の親族概念では通用しないのがわかるが、かなり強引に理解しようとするならば、リアラとエルレインは家族のようなものでもある。あるいは自分自身といってもいいし、姉妹といってもいいはずである。
しかしリアラは最後までその肉親に等しいエルレインや、神フォルトゥナを殺すことに対して何ら否定的な感情を持たず、変な見方をすれば自傷行為によろこんで手を貸しているということになりかねないのである。流石は神である。リアラはついついその容貌から、男根的なマッチョイズムが性的対象として消費されがちなキャラクターとして描かれながらも、人間とは画を逸した存在であることもまた如実である。

さて、エルレインと対立するわけであるが、このエルレイン。全世界を支配したい、という困ったちゃんではないのである。ある意味困ったちゃんなことには確かなのだが、しかし、その根本のところは、実に共感できるものなのだ。それは人類を幸せにしたい、というそれだけだったのである。
作中ではどんどん世界を幸せにしようとする行為を主人公たちに邪魔されてしまうために、徐々にくるっていってしまって、最終的に「じゃあ地球破壊しますから」となってしまう。主人公たちとよくよく話し合って、妥協しあえばそうならずに世界をよくできたのではないかなと思わなくもない。その点、この物語はディスコミュニケーションの物語りとしても読み解けるのかもしれない。あるいは一方的に善とされていた主人公たちにきちんと話し合うだけの能力がなかったということなのかもしれない。

ただ、エルレイン。この思想だけだとあまりにも善人になってしまって、敵として認識できなくなってしまう。ということで、かなりの悪者っぷりに製作者たちによって改変されてしまうのである。かわいそうに。
評論家の宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』の中で記した概念だが、決断主義というものがある。間違っているのを織り込み済みで、しかし何も決断しないよりかは決断をしよう、という人たちを決断主義というのである。例えばガンダムのシャアなんていい例だろう。宇野氏自身はデスノートの月などを例に挙げていた。
エルレインはまさしく、この作品が2002年に発売されたということもあり、ゼロ年代的な決断主義的な傾向をになった人物だったのである。世界をよりよくしたい、という根本原理はよくわかったのだが、主人公たちとのディスコミュニケーションにより邪魔立てされ、煮えを切らしたエルレインは、だったら地球破壊して最初からやり直しますから、となってしまったのであった。

しかし、最初から最後までエルレインがしたかったのは人々の幸せの具現化だったのである。その点ではやや決断主義的な部分がある私は賛同してしまう。
ただ、それだとみんなに賛同されてしまうので、一般のプレイヤーがプレイしても、エルレインを止めなければ、と思わせるように「歪み」を付与されてしまうのである。かわいそうに。
その歪みとは何か。当初は、レイ・ブラッドベリあたりが書きそうなSF世界である。よく教育された世界で、人々は信仰によって救われる世界である。ただここでは子供は神の力によって授かり、出産という行為がなくなってしまっている。そこで主人公たちはこんなの生きる喜びを見失っていると断罪するのである。
続いては完全にコントロールされている社会。人々は頭にレンズを埋め込まれており、その力によってしか生きることができない世界になっている。ただし、その代わりに人々はなんの苦労も悲しみもなく、毎日を教団から送られてくる物資によって生きていくことができるというものだ。働くことが不必要となった共産主義ともいえようか。私は全世界がそうなるのは確かに嫌だけれども、そういう国や地域があってもいいと思う。それを望む人達が少なからずいるのであれば、そういう人たちはそこにいけばいいだけの話なので、あってもいいと思うのだが。しかもその世界には、ナナリーがいるように、それまでの資本主義社会のように教団とは無縁で生きている人達もいるのである。決して全世界的にそれを押し付けようとしたわけではなかったのだ。あんまり悪いとは思えないだけども、主人公たちはこんなのはひどい、といって断罪。
最終的にじゃあ地球壊して最初からやり直しますから、とエルレインがぶっ壊れ、ぶっ壊れたことをいいことに、エルレインをぶっ壊して物語は終わりである。

ただ、最後に希望となったのは、吹っ切れてしまったエルレインに対して幸せとはかくあるべし、といった主人公たちの言葉だろう。

カイル・デュナミス
「本当の幸せは
幸せを探して生きる毎日の中にある
人はそうやって歴史を築いていくんだ!」

ロニ
「俺たちが欲しいのは
まやかしの幸せじゃない!
たとえ小さくても本物が欲しいんだ!」

ハロルド
「なんいが幸せで、なにが不幸せか
それを決めんのは私たちでしょ!
神さまなんか、お呼びじゃないっての!」

ナナリー
「たしかに生きることは苦しいさ!
でも、だからこそ、その中に
幸せを見つけることができるんだ!」

ジューダス
「幸せとはだれかに
与えられるものではない!
自らの手でつかんでこそ価値があるんだ!」

リアラ
「人はみな幸せを持っています
それは苦しみの中にも
幸せを見つけようとする心
それは幸せな未来を信じつづける心
それは自らの手で
幸せをつかみたいと願う心
神の力をもってしても
与えることのできないもの・・・・」

この作品からは、神のような完全な存在による幸せを拒絶し、拒絶する必要はないと思うけど、人間としての幸せを求めるところに道理があるわけである。つまり人の幸せとは不完全であるがゆえの幸せである。つまり幸せでないことが幸せなのだ。幸せを求め続けるところにあるし、不細工ながらも小さいながらもはっとしたところにある、そんな幸せことが人々の求めるものなのだ、というところに本質がある。
実際現実世界に生きる我々はバーチャルの完全な幸せの中だけで生きることができないので、なんとかしてこの辛く苦しい現実社会と向き合っていかなければならなくなる。そうしたときに我々の幸せをどう考えるのか、という指針になってくれるのがこのゲームの文言だというわけである。そういう意味で、2000年代においての幸せ論の一端を担っている今作は十分に社会的役割を担っており、ゲームだから消費的だという無根拠なひがみ批判をはねのけうる力を十分にもっているということができるだろう。

『中二病でも恋がしたい!』(一期、12話、2012)感想とレビュー 中二病は世界を、とまでは言わないが、少なくとも自己を救いうる

KrfpyTlx.jpeg


私は若いくせに、タイムリーなものを追うことが苦手な人間で、いつも後出しじゃんけんで作品を鑑賞することとなってしまう。といっても、この作品はまだ早いほうだ。2012放送だから、3年ほどでようやく追いついたという感じだ。
私にとってはここのところ、と表現したくなってしまうが、今から数年前、『けいおん!』などに始まる、京都アニメーションがアニメ、ならびにその周辺の世界を圧巻した時代があった。
今回は『中二病でも恋がしたい』の一期を鑑賞した感想としてここに少し駄文を載せておきたいと思う。

この作品はあんまりぱっとしない1クールの作品が多いなかで、なかでも特に光っていたのではないかと思う。印象批評的なことを述べると、なによりもまず、アニメというのはそもそもネットと親和性が高いわけであるが、そのネットのなかでも話題となりがちである中二病に着眼したところがよかった。
もともとアニメというのは中二病と呼ばれる症状を発症している人たちと親和性が高いというか、あるいは中二病患者がこぞって消費するのがアニメということもあり、そのアニメで中二病を描いたということには、かなりの功績があるといっていいのではないだろうか。ある意味自己語りなわけである。この作品を鑑賞することによって、無意識のうちに中二病を発祥していた患者は、これが典型的な中二病です、というケーススタディーをすることによって、ある意味治療になっていたのではないかと思う。
たとえばうつ病患者の私が、これが典型的なうつ病患者です、といってうつ病患者のドキュメンタリーでも見せられた気分、そんな気分をこの作品の視聴者は感じ取ったのではないだろうか。

しかも、その着眼点である中二病はアニメを描く際にも十分に機能しうるファクターだったわけである。中二病はしばしば誇大妄想と隣接しているので、そうした妄想をアニメにおいて具現化するというところがおもしろかった。アニメはもともと現実から浮遊したメディアであるから、これは一応現実にもおこりうることですよ、というテイストで描きながらも、簡単に妄想の世界に入ることができる。アニメだからこそできた、そういう強みがこの作品にはあったのではないだろうか。
私は原作を読んでいないが、ライトノベルの現実と非現実との接合点のようなものが、アニメにおいても見事に活かされているのではないかと思う。

さて、そんななか、私が着目したいのは、やはり中二病の現代的意味である。
どうしても批評家きどりの私のような人間は、描写されているそのものが、どのような意味を持ちうるのか、というところを考えてしまう。
中二病というのは、この作品が発表される以前も、あるいは以後も、恥ずかしいものとして、できればないほうがいいものとして考えられてきた。そこには、西洋病理学に基づく『中二病』という名称の仕方がよく表れている。中二病というのは、西洋病理学でいうところの、病気のようなものなのだから、直さなくてはいけない、できればないほうがいい、という思想のもとにおいてこの名前が付けられているはずなのである。
しかし、と私は思う。この作品を見る以前から思っていたことではあるが、この作品を通してさらに、中二病の意味のようなものを深く考えるようになった。

そもそもこれだけの現代人が中二病を発症しているのだとしたら、もはやそれは病というよりも、そういう性質なのだ、と考えるのが自然なのではないか。あるいはそういうものが出てきてしまうあたりに、現代の闇が潜んでいるということもできるかもしれない。
端的に結論を言えば、私は現代がこのような構造になっているからこそ、中二病のような症状が現れるようになった、と考えているのである。
このような構造とは、例えば高度経済成長が終わり、70年代からポストモダンの時代になった。そこではそれまで信じられていた経済的成長なども終わり、地縁血縁関係もどんどん崩壊して、人々は社会という枠組みで守られることがなくなった。人々は世界とそれまでさまざまな関係と結ぶことによって、守られ、関係を築いてきたわけであるが、その中間の部分が崩壊してしまったために、現代人はむき出しの身体で世界と結びつかなければならなくなったのである。という構造的な問題があると私は思っている。
そこでだ。我々はそのような世界と生身の身体をもって渡り合わなくてはならなくなった。もはやそこでは、何かあったらすべての責任を本人が背負わなければならない。昔は昔でさまざまなしがらみがあっただろうが、少なくともなんかあった際には、会社が、地域が、家族が、それぞれ個人を守ってくれたのである。だが、現代ではそうはいかなくなった。そのため、ちょっとしたことでも後ろ盾がないために、傷つき、再起不能になってしまうのである。

私自身がそうであるように、うつ病患者がどんどん膨れ上がり、自殺者も増大、ひきこもりなど社会との接点をなくしてしまうという方法もとられるようになる。
そのようななかで、社会との接点をうしなわないまでも、なんとかこの世界と渡り合うために人々が求めた物。それが中二病だったというわけである。
作中では、六花がその役割を担うこととなる。すなわち、父親の死という現実と向き合った際に、向き合いきれなかったために、六花は自分のなかに小さな世界をつくりあげることによって、その殻のなかにひきこもってしまったというわけである。

人々がこの現前する世界と渡り合うときに、生身ではやっていけない。それはまるで皮膚という覆い包むものがない、赤い筋肉でものにふれあっているような状態だからである。すでにその皮膚、あるいは服を任されていた存在はなくなってしまっている。
そこで人々は急遽殻を必要としたのである。それが中二病である。現前する世界と渡り合うために人々は自分のなかに妄想を築き上げることによって、それと向き合おうとしたのである。その形態の一つが、中二病というわけだ。
人々は自分のなかに、それぞれ独自の世界観を築き上げる。そうすることによって、現実ではちっともうだつのあがらないオタクで、ちっとも人生を愉しめていないどころか、不幸であるにもかかわらず、それらは設定なのだ、と自分に言い聞かせることによって、現実から目を背けることに成功するのである。
だから六花は自分の父の死という受入れがたい現実から目を背けるために、妄想の世界を作り、そこに逃げ込むことによって自我の崩壊を防いでいたのだ。

だが、この殻はいつからは捨て去らなければならない。そうしなければ社会と、世界と、いつまでたってもきちんと向き合えないからである。いつまでも、これは飽くまで嘘なのだ、設定なのだ、という生き方をしていると、最終的には何が本当かわからなくなって、自分の世界から出られなくなってしまう。マトリックスの世界である。そうはならないためにこそ、人々はいずれは自分で作り上げた殻をこわし、殻に籠っている間にできた薄皮によって、世界と渡り合わなければならなくなるのである。
それが中二病からの脱却である。とすれば、中二病は、自我を覆い包むうすい皮をつくりあげるのに必要な段階であるということがわかるはずであり、だからこそ私は中二病と言うのは必要なものだ、と宣言しているのである。中二病という期間は、いちど殻に閉じこもることによって、自分を守り、自分という人間が絶対的に大事なものなのだ、ということを気づく機会になっているのだ。そうして徐々に自分の妄想と向き合っていき、その課程の最終段階として現実と向き合うという課題に向かっていくわけである。
だからこそ中二病という期間、誇大妄想のなかに閉じこもる期間というのは必要でこそあれ、それをはずかしいとか、いらないとかいうふうに思う必要はないと、私は思うのである。

この中二病と世界をめぐる物語が、この作品では、六花の父の死、とそれへ向き合っていくというプロセスを通じておもしろおかしく、時としてシリアスに描かれているのである。だから私はこの作品が、安易な中二病批評でも、安易な中二病容認論でもなく、最終的にはきちんと現実と向き合っていくことが重要だ、それと同時に自分の妄想に閉じこもる時期もあっていい、という提言をしている作品として、十分現代において重要な意味を発信している作品と任ずることができると思うのである。

『RAGNAROK THE ANIMATION』(26話、2004) 感想とレビュー

Ragnarok-the-Animation-Wallpaper-3.jpg


せっかくこうやって、26話もアニメを見ているのだから、ただ流してしまうのではなくて、少しでもそれを見た軌跡を残していきたいと思う。
今作、ラグナロクジアニメーションは、非常に私にとっては批評しづらい作品である。私にとって批評しづらい作品ジャンルはいくつかあるが、そのなかでも結論が出てしまうミステリーや、物語り内容があまり見いだせないバトル物、自分の知識がとぼしいためになんとも言い難いSFなどがある。
今回はさらにやっかいなことに、世界観の設定をそれまでのRPGゲームや剣と魔法の物語りに立脚しているために、余計に論じにくくなっている作品である。
が、これもひとつの修行と思って、次第にいい評論が書けるようになるための習作として感想程度のつぶやきを少し書いておきたい。

ラグナロクジアニメーションの原作は韓国のRPGゲームだそうである。オンラインゲームをひとつもやったことのない私には無縁の世界なのだが、そこには現実とバーチャルの世界がクロスオーバーしてくるような、奇妙な楽しさがあるのだろう。そもそも我々は現実に絶望し、そこから逃避するためにバーチャルの世界へ移行しようとするわけである。しかし、バーチャルの世界はやはりバーチャルの世界であり、そこに逃避してもそこで得られる快感というものが少ない。であればどうするかというと、本来バーチャルだけの世界だったところに、リアルを持ち込むのである。そうすることによって、そこでは自分の欲望をかなえることができるバーチャル空間にほかならないのだが、実際に現実的なリアリティーを体感することができるというわけである。現代人が精神的な逃避のためにつくりだした安全弁のような空間として、現代においてオンラインゲームというのは臨床心理的な役割を果たしているということができるだろう。

その作品をアニメ化してしまうと、やはりそのいい部分というのは消えてしまう。やはりアニメーションというのは虚構性の高いメディアになってしまうので、そこにゲームプレイヤーたちが見出していたリアリティーというのはなくなってしまう。その反面、アニメの強みもでる。虚構が得意なメディアなのであるから、リアリティーを排除することによって、完結した一つの仮想の物語りとして完結することは可能になるのである。原作を知らないのでそれ以上のことは言えないが、少なくともメディア間での相違といったらこのくらいではないだろうか。

この作品は原作がオンラインゲームであり双方向的に作り上げられた強固な世界なので、それを下敷きとしているため、設定があやふやだったりということはなく、しっかりした骨組みだなという感覚を受ける。それは反面、あまりにも現実離れしすぎていて、典型的な物語りのようにもみえ、現代人の我々がなかなか同調しづらい部分というのもある。例えば「ドットハックオンライン」などの作品は、剣と魔法の物語り世界を描きつつも、それは実は作中で登場人物たちがプレイしているゲームの世界です、という設定が利用される。そうしたカッコでくくってあればまだ理解しやすいが、この物語では完全にそういう世界観という前提で物語が勧められていくので、そういうものだ、と納得しないかぎりはどうもうまく作品に馴染めないのである。

ただ、私のなかでは名作と名高い『ドラゴンクエスとダイの大冒険』などのように、RPGゲームの設定をそのまま採用しても見事に成功している作品はある。今作は感情移入できなかったが、あるいは原作ゲームプレイヤーなどは感情移入、というか世界観を享受することはできたのかもしれない。
ところでこの作品であるが、「ダイの大冒険」とは異なり、主人公への感情移入がかなり難しい作品になっているのではないかと私は感じた。それは私個人の感受性の問題なのかもしれないが、少なくとも私のような人間がいるということは、他にも感情移入ができなかった人もいるのではないか、という前提のもとに話をすすめることにする。

この作品はひどく感情移入がしづらかったのは確かである。大体において、我々視聴者というのは主人公か、あるいはその近辺の登場人物に自分の欲望や希望を仮託して物語を享受するものである。そのためには主人公は広く共感を呼べるような人物設定でなければならない。たとえば先に例に出した「ダイの大冒険」であれば、主人公ダイはまだ子供であり、精神的にもそんなに高度に発展していないことから、空白が生まれる。その空白に視聴者たちは自分の思いを仮託することができるわけなのである。
ところがこの作品ではそうした空白が少ないように感じられた。それは設定の緻密さにも影響してくるかもしれない。ダイの大冒険では一応勇者、魔法使い、姫といった役割分担はされていたが、主人公が魔法を使うこともあれば、魔法使いが武器をつかうこともあり、凝り固まったものは感じられなかった。しかし、今作では、それぞれの登場人物は、ナイト、サモナー、魔法使い、商人、といったように、キャラクターがそれぞれの職業に固定化されてしまっているのである。

途中主人公ロアンはソードマン(剣士)からクルセイダーに、ユーファはアコライトからプリーストになるが、やはりそれぞれの職業に応じた戦い方しかしなくなり、そこにはなかなか空白や余地といったものが感じられない堅苦しさを感じさせる。
私自身の人間理解が、人間とはもっと多様であり、職業によってそんなに作用されるべきではない、という意識からこうした批評が出ているのかもしれない。あるいは、人間は職業によってだいぶその人の性格などが規定されるものだ、という人間理解の人にとってはこの作品は受容しやすいのかもしれない。

だが、この作品に感情移入しづらいのはなにもそれだけではない。圧倒的にこの主人公ロアンに対して感情移入が出来ないのだ。もしくは女性の方はユーファに感情移入するのかもしれないが、これもまたなかなか難しいと思う。
というのも、この主人公ロアン、苦悩というものをしないで、猪突猛進、しかもその猛進の仕方が微妙に歪んでいるからなのだ。これでは視聴者もこの人物に感情移入したり応援したりするのははばかられる。
力あるクルセイダーになったロアンには、是非ともユーファを救ってほしい、助けてほしいと思うものであるが、ロアンはそれまでのお人よしの感じをなくし、ユーファが足手まといだというような表現をしてしまう。確かにユーファもアコライトの時まではほとんど何もすることができずに、敵が目の前に現れたら逃げることさえもせず、ただ身をこわばらせるだけだった。そういう人物像をみているとなんだかもやもやしてくるものである。プリーストになる際に、自分の弱さを見つめるための試練といって、それまでの自分が単に人に良く思われたいというだけのエゴイストであったことを発見し、多少はましになる。
だが、人間的に成長したユーファとは対照的に、ロアンはそんな成長してきたユーファに対してもまだきちんと向き合えないのである。それまでのお人よしさをなくし、自分の力に過信するだけになったロアンは、ユーファがロアンに対してはかない恋心を抱き、守ってもらいたいという欲求を気づこうとしない。そのためにユーファは最終的に憎しみにとらわれた兄のもとへ去って行ってしまうのである。

最終的にはようやく誰がみてもよかったと思える人間になり、関係も落ち着く二人であるが、視聴者は26話中、そのほとんどをロアンとユーファに苛立ちながら見守らなければならず、これはなかなかハードルの厳しい作品となっているように感じる。
声優が豪華なだけに、もう少し主人公たちを共感できるような人物にすればよかったのではないかと思う。

『ソウルイーター』(50話、2008-09)感想とレビュー キャラクター消費の受容

c20081114_soul_23_cs1w1_464x463.jpg


アニメ『ソウルイーター』を見た。以前再放送などをやっていたのをちらっと見たこともあったが、やはりこうして時間のとれるときに一期に観ないとなかなかきちんと鑑賞することができない。
ここ最近、長くても2クール、24話あたりだったので、50話ともなる4クール作品を見たのは久しぶりだった。やはりこのくらいのボリュームがあると、登場人物たちのこともよくわかってきて、感情移入がしやすくなるなと感じる。

もちろんボンズ十周年記念ということもあり、アニメーション制作会社ボンズが総力を挙げて作った作品であるので、良作であることに間違いはない。だが、これは原作の問題だが、構造として疑問をもたないわけでもない。
例えば主人公たちの所属し、物語りの舞台となる死神武器職人専門学校、通称「死武専」であるが、これは完全に死神様を頂点としたヒエラルキー社会であり、校長である死神様のためにすべてが動いているという設定だ。ハリーポッターであれば、すべては校長のダンブルドアのための組織だ、といっているのと同じであり、やはりここには一種の気持ち悪さを感じずにはいられない。
物語り内においては、この構造を疑問視するのが、身内であるデスザキッドだけであり、一応は疑問を引き受ける役割として機能している。そもそも善とされている校長、死神様が本当に善でありうるのか、という問題はもっとこの作品内において深められてもよかったのかもしれない。
ただ、この作品へのダメ出しはそのくらいで、後は実に楽しいバトル物であったということは認められる。

様々なテーマがあった。例えばそのなかでも、極めて重く、また私の批評の対象となりうるのは、クロナである。原作漫画を読んでいないのでよくはわからないが、Wikipediaにのっているクロナの項目を見た限りにおいては、かなり原作とアニメとは違った展開をしているらしい。今回はアニメのみの言及となる。
クロナは実母であるメデューサに虐待されて育ったということもあり、極めて精神的に不安定な存在である。当初はありとあらゆるものに対して怯えており、その態度は一見すると他人の怒りを引き寄せるように思われる。
が、主人公マカの愛情、友情によってクロナは一人の人間として、愛情をうけることになり、改心するのである。その後原作ではかなり異なった進展を迎えるらしいが、アニメ版では、父親頃しならぬ、母親殺しに至るのである。私はここに現代における意味をもった重要なものがあったと思う。
クロナにとってメデューサは、父親代わりでもある。絶対的な存在なのだ。だからこそ、その絶対的な存在、通常の人間であればエディプスコンプレックスの対象となる父として、メデューサは描かれているのである。自分のすべてを支配していたクロナがその支配者である、父であり母を殺し、越えていくというのは、この現代において、親の過保護から脱却しきれないアダルトチルドレンが続出している世の中において、するどい批評となっていたのではないだろうか。

さて、構造批評とテーマ論はこのくらいにしておいて、今回私が論じたかったのは、キャラクター消費論である。
ゼロ年代も後半も後半、最後のほうになってくると、やはりこうした巨大な作品であっても、キャラクター消費的な部分がでてきてしまうものなのだなと感じるようになった。
この物語では、やはりこの主人公のマカが消費の対象となっているのではないだろうか。マカは、とても可愛いキャラクターをしている。私自身はキャラクター消費に批判的であるためにそうした作品の受容のしかたをあまりしないが、この作品のマカに対してはとてもかわいいと思ったし、多くの人々がマカを消費したのではないだろうかと思う。
マカは一応年齢的には我々の世界でいうところの中学三年生くらいである。なるほど、確かに実際教員であった過去を持つ私としても納得ができる設定である。エヴァンゲリオンほどいってしまうと、こんな中学生存在しないだろうと思わなくもないが、マカならまだ納得ができる範囲である。
マカはゼロ年代最後の時において典型的な当時の中学生のスタイルをとっている。デスザキッドやブラックスターがいかにもアニメチックな服装をしているのに対して、マカは非常に現代でも通用する普通の中学生の制服を着ていた。
この作品は物語こそ死神様と鬼神の復活とをめぐる壮大な物語を描いているが、それと同時並行して、単純に女子中学生をめでるだけの消費的な作品としても機能しているのである。
普通の学園ラブコメもののアニメがそうした消費一辺倒に傾倒している間に、この作品はそうした消費的な要素をふくみつつも、きちんとした物語設計をしている。そのために、多くの読者を獲得することとなったのであろう。

例えばクロエなどにその役割が分担されたように、他味方キャラクターに心理的トラウマなどを分散することによって、マカには背負うものがなくなったわけである。そのためにマカは元気溌剌で屈託のない性格となっており、そうした人物描写が多くの視聴者から共感を得ただろうなということが推測される。
マカは多くのアニメファンにとっては理想の中学生だったわけである。低年齢層の視聴者、当時の高校生、大学生あたりには、ありうべき理想の彼女、あるいは妹として、当時の社会人にとってはありえたかもしれない過去としてか、あるいはこれからありうるかもしれない自分の娘として、彼女は消費的に扱われたのではないだろうか。
しかしマカはそのように消費的な扱いをうけても決して消費されるだけの存在ではなかった。マカはそのような消費に耐えうるだけの精神を持った存在として描かれたのである。だからこそ消費せざるをえないオタクたちにとって、消費のさきには虚しさが残るだけであったが、マカはクロエを立ち直らせたように、心理主義的に落ち込んでしまっているオタクたちへの救済となっているわけである。

キャラクター消費といえば、ブラックスターもいかにもなキャラクターである。典型的なそれまでのバトル物の主人公といった人物像をトレースしただけの存在であるといってもいいだろう。
個人的にはある意味でのキャラクター消費であるマスコットキャラクター、私はあのムーミンのようなエクスカリバーがとてもかわいらしく思った。

プロフィール

幽玄

Author:幽玄

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
237位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
16位
アクセスランキングを見る>>
フリーエリア
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。