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『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』(13話、2015) 感想とレビュー

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久しぶりにおもしろいアニメを見たという感じがある。タイトルが文字通り、現在の長めにしておけばいいだろう感丸出しではあるのだが、作品内容はきちんとしていておもしろかった。
いわゆるRPGゲームをそのまま移植してきた感じの作品であり、その点に関してはあまり目新しさがあるとはいえない。しかし、それでもおもしろい。なぜなのか、と一通り考えて見たものの、私が持っている文芸批評の武器ではこの作品のおもしろさというものを解明できそうになかったので、どうこの作品について述べたものかと困っている。
今回はたまたま機会があったので、これだけ早い鑑賞となった。この作品を鑑賞し終えたのは7月15日であり、番組の公開が2015年4月から同年6月までであったことを考えると、私としては極めて早い鑑賞になった。大体において数年前の作品を追いかけているような評論家きどりなので、珍しい。

さて、この作品であるが、設定等についてはWikipediaを見てもらうなり、アニメを実際に見るなりして自分で確認してほしいわけだが、この作品のおもしろさについて少し考えてみたい。
私は先日この作品と同じく、剣と魔法の物語りである、『RAGNAROK THE ANIMATION』(26話、2004)を鑑賞しているわけだが、この作品はすこぶるおもしろくなかった。この作品と同じく、主人公は成長していくし、仲間も増えていくし、作品の構造としてはそんなに違わないはずなのである。だからこそ、構造主義的批評家である私の批評がこの二つの作品を分別できないのであるが、では構造的にはほとんど似たり寄ったりなのに、なぜこうも、この作品はおもしろく、ラグナロクのほうがおもしろくないのか、ということを考えなければならない。

その最大の理由というのはやはりキャラクターにあると私は感じる。
ラグナロクでは主人公たちがみごとにズレていたために私達が感情移入することは難しいということを述べた。その点、こちらのダンまちのほうでは、主人公たちに感情移入しやすくなっているのかもしれない。
ただ、感情移入という作品受容の仕方において、この作品がほんとうに感情移入しやすいのか?という問題は残る。主人公ベルは本当に感情移入しやすいか?と私は思うのである。一見するとしやすい。それは確かなのである。ラグナロクの感想を書いた時に私は、感情移入のしやすさというのは、主人公の余白、余地のようなものが重要であると述べた。それだけではなかなか理解しにくい言葉かもしれないが、ようするにあまり批評的な人間は好まれないということなのである。それよりも純朴、純粋といったほうが好感が持てる。そういう意味で使用したのである。その点、この作品の主人公であるベルは、作品随一といっていいほどのお人よしであり、サポーターのリリに騙されてもちっともそれを問題としない天然ぶりのお人よしである。普通の人間であれば自分を裏切った人間に対してこうなることは難しい。そういう意味で、ベルという主人公は好感はとても持てる人物なのには違いないが、感情移入するとなるとあまりにも人ができすぎていて苦しいのではないか、と私は思うのである。
だから感情移入は本来できないのだが、単純に好感が持てるというレベルでしか私達はこの主人公ベルに対して向き合っていくほかないのである。

あとこの作品をたのしく享受する方法は、かなり古い概念かもしれないが、やはり「萌え」なのかもしれない。
このアニメが放送されると同時にネットで話題になったように、神ヘスティアの胸のあたりを一周している青い紐というのはあまりにも記号的な「萌え」を誘発しているように思われる。実際にあんな紐は邪魔になるだけであり、およそ現実的ではない。が、あれが記号的な消費アイテムとなることによって、そこには現実にはあり得ないけれども、ああいう文脈では消費されるものという共通認識がうまれ、そこに萌えが発生するのである。しかも作画がすばらしいことこの上ない。手を延ばしたりしたときに、紐がそれをささえている胸をひっぱりあげる、などの動きは見事であり、作画の人達の努力が見て受けられる。

他にもチープといえばチープなはずなのだが、ベルを取り巻く環境は、それまでずっと消費的に使われてきたアニメにおけるハーレムものでしかない。これはいまさらであり、本来批判の的になっていいはずなのであるが、この作品をみていると、そうした夢想的な作品なのにもかかわらず、ついついいいなと思ってしまうところに作品の罠があるように感じられる。
主人公ベルは、神ヘスティアからも好かれている。ヘスティア自信がすでに例のひもが象徴的なように、とても消費的な萌えキャラとして存在している。だが、この作品ではそれだけでは済まされないのである。小人族であるリリもまた、ある意味で妹キャラとしてかわいい存在であり、やや腹黒いところもまた消費的な記号である。ヘスティア自信も小さいので妹キャラであり、ロリ巨乳とともにリリと二人の妹キャラに囲まれるハーレムなのである。
だが、さらにそれだけでは終わらない。ベルはなぜかはわからないが、他人から一方的に好意を寄せられる人物として描かれており、酒場「豊饒の女主人」の店員であるシル・フローヴァ、ギルド職員であるエイナ・チュールといった、対等、あるいはちょっと年上のお姉さんたちからも気に入られ、ハーレム状態となる。そしてなんといっても、剣姫と名高いアイズ・ヴァレンシュタインは憧れの人であると同時に、彼女もまたベルに対して弟的な愛情をそそぐのである。
普通ここまできたら、あまりのハーレムぶりに視聴者は胸やけを起こすか、途中でこれがあまりにも非現実的であることに気が付いてむなしく感じてしまうはずなのである。が、よくわからないがこの作品はそれを感じさせない。それを巧妙に物語がおおいかくすことによって、ハーレムが現実には存在しないはずなのに、この作品では見事にそれがさもありなんという感じで進行し、成功を収めているのである。

単純におもしろかった作品にこういうつまらないケチをつけたくないのだが、しかし、敢えてひねくれた評論家として言っておかなければならないのは、やはりこの作品が我々の願望を忠実に再現しているということであろう。
やはりなんといっても我々は暴力的な存在なのである。武器をもち、敵を倒したいという欲望がある。しかし現実社会でそんなことをすれば大変なことになるし、なによりそうならないようにということで法が設立されているのであるから、そんなことをすればつかまってしまう。また、敵を攻撃すれば、反対に攻撃されるという可能性も生じてしまう。我々は敵には攻撃されないで、安全地帯から一方的に相手を攻撃したいものなのである。
およそ文化とよばれるものはこの暴力性の発散としてきた。それは時としてスポーツであったり、あるいはもっと暴力的にボクシングなどの格闘技となっている場合もある。またある時には、この作品にかかわってくるが、バトルゲームであったり、あるいはRPGゲームであったり、敵を安全地帯から、自分は決して傷つかないという状況において相手を一方的に倒すことができる文化として発展してきたのである。
だからこそこの作品おいても、モンスターは一方的に倒される存在として描写される。そこにはモンスターが感情ある存在であるとか、そうした事情は一切描かれない。

また、ハーレムも、他の多くは学園もののように、それは現実には起こり得ないからこそ、そうでありたかったという欲望の具現化として現れてくるのである。
実際にこのアニメをみている、私を含めてオタクたちはひどく屈折した人間たちであり、いわゆる非モテ人種なはずなのである。だからこそ自分がモテなかったことを一時的にも忘れさせてくれるこうした記号的なアニメを消費することによって、一時的ではあるが、辛い現実忘れることができるのである。それどころか、このアニメたちは私達にあり得たかもしれない他の世界、というかっこつきで私たちに夢を与えてくれるのだ。私達ももしかしたらこうであったかもしれない、という夢を見させてくれるところに、こうしたサブカルの文化というものは醸成している。

それになりよりも、この作品がサブカルオタクたちに親和性の高いRPGゲームを舞台としているところもまた、私達の欲望をさそうのである。私達はRPGゲームをする際にはそこで主人公となったつもりでゲームをプレイする。それはなによりも自分が自分の人生の主人公となり得なかったことを忘れさせてくれる存在としてあるのである。ゲームのなかでは、ただ時間をかけて敵を倒し続けるという行為をするだけで、レベルがあがり、ものすごく強くなれる。だが、現実には非力なままで、おそらく喧嘩をしたら人一人にも勝てないレベルなのだ。この作品は驚異的な成長をする主人公に、私達の現実での非力さを仮託することによって、まるで自分自身も成長したかのように感じさせてくれる魔力があり、魅力がある。
そうした意味においてこの作品はある意味ではオタクたちの消費的な作品として成立しているのである。しかも、それがオタクたちには何の反省も促さないという点においてひどく甘い作品であり、だからこそ私達オタクはこの作品を安全に享受することができ、ヒットにつながったわけである。

実際に観ているとおもしろいのだ。だから私としてはどんどん続編をつくってもらって、二期、三期とつづいてほしいものである。
だが、この作品が消費的であるということはよく気を付けておかないと、どんどん作品と現実の乖離が激しくなるなかで、わたしたちは現実社会に生きる術を亡くしてしまうのではないかという危機感もまたあるのだ。

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斉藤環『社会的ひきこもり―終わらない思春期』 (PHP新書、1998) 感想とレビュー ひきこもりが読むひきこもりの本

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この本は素晴らしかった。私が手放しでなにかを称賛することなんてほとんどない。にもかかわらず、この本は素晴らしかったのである。五段階評価で、滅多に出すことのない、5をこの本には送った。
ただ、これは臨床的な本であるから、普遍性があるとは言えないかもしれない。普通に働いて、普通に過ごしている人たちにとっては必要ないのかもしれない。そういう人たちに無条件で進められるのかというと、しばし沈黙しなくてはいけないかもしれないが、しかしそれでも、そういう人達がいるのだ、という理解のためには、是非とも読んでもらいたい本である。

この本はやや古い。斉藤環氏は1961年生まれであり、この本は、彼が臨床心理士として80年代後半に臨床にあたった患者たちをもとにして1998年に上梓されたものである。だから出版された時点ですでに、今現在から考えると、20年ちかくも経過してしまっているのである。ましてや、その対象となっていた80年代後半の人たちの状況を踏まえると、ここで書かれている内容は、25年から30年前の話になってしまう。
だがしかし、おそらく環境こそ変わったものの、社会的ひきこもりを生み出す文化的要因は変わっていないであろうし、この本は現代のひきこもりに対してもかなり有効な意味を持っているのではないかと私は思うのである。
この本は斉藤環氏が二十代後半での経験をいかして、それを三十代になって執筆したものである。ひきこもりの権威となった彼の、初期の本ということで、ここからも新進気鋭だったことが伺える。

まずこの本の読み方であるが、私自身が会社をうつになってやめてしまい、すでにひきこもりに入ってから二ヶ月経っているという現状からこの本を読むことになった。ひとつは私自身、このひきこもりがどのようになっていくのかということについて考えたかったからである。そしてもうひとつは、私のこの現状を両親にも理解してもらわなければ困るからである。
やはりなんといっても、両親はさまざまな意味で切り離せない存在なのである。様々な意味においてだ。それは悪い側面がほとんどであるが、時として良い側面もあるのかもしれない。
とにもかくにも私はこの本を読んで、改めて思ったことであるが、社会的ひきこもりというのは、決してその本人だけの問題ではないということだ。
後にサブカルチャー評論もすることになる斉藤環氏であるが、本書では文化的な解釈というのは、かなり抑制的になっている。この時点ですでに斉藤氏ならばかなりの文化的批評ができたはずであるが、この本では専ら臨床的な話題のみに終始しておいて、文化的解釈というものはあまり描かなかったようである。
だが、今ならばおそらく社会的引きこもりが、この歪んだ日本社会においてこれだけ発生するということについて、もっとかけたことであろう。
ほんのわずかではあるが、この本でも、日本のような文化がどうも社会的ひきこもりを生み出しているということを筆者は述べている。

ひきこもりには様々な要因があるが、私の場合は、スチューデントアパシーが一番の要因な気がする。もともと、大学、特に四年からかなり無気力な状態が続いていたのである。それにはいくつかの理由があって、ひとつは胃病がよろしくなく、それがずっと続いていたために、不快な刺激を受け続けたことによって、その不快に対する抵抗への意志がなくなっていくという悪い学習をしてしまったからである。
そしてもう一つは、父からは就職をしろという抑圧を、担当教授からは、あまりにも理不尽な卒論指導という名の罵倒をしつづけられたために、無気力になっていってしまったのである。
しかし、その上で私は、実際に働くという不快よりも、父親にああだこうだいわれる不快のほうをより大きなものと感じてしまい、働ける状況でもないのに働きにでてしまったのである。その結果、もともと働くということそのもの自体が嫌だったということもあり、その嫌を嫌々やらされていたために、二か月間んでうつ状態になってしまったのである。

私の病気は現在は抑うつ状態ということになっているが、その下にはスチューデントアパシーがあることであろう。
それは父親などによる過度な期待などが影響していると、本書にも書かれている。しかも、これにかかりやすいのは、圧倒的に長男が多いということである。私は父親の理不尽な欲求にずっと従ってきた。今でも思い出すのは、中学受験など嫌だったのにもかかわらず、無理やりやらされたことである。ある時私は中学受験などやりたくないと、きっぱりいったことがあった。その時には私は十発ほど、口から血がでるくらいに、父親に顔を殴り続けられたことがあった。私はこのことをおそらく一生忘れないし、一生恨み続けることであろう。そういうことの繰り返しが、私を無気力に、スチューデントアパシーへと追いやったのだ。
私は本当に父に死んでもらうか、反省してもらうかしないと気が済まない。

この本がすばらしいのは、後半が実践編として、比較的軽度なひきこもり患者を社会復帰させるための方法が描かれている点だ。
そこで重要なのは、いまとなってはあまりにも当たり前のようなことかもしれないが、しかし、我が父もそれを簡単に犯しているように、基本的人権を守れよということだと私は思う。
筆者はそれを「恥をかかせるな」とか「プライバシーを守れ」というような表現で表しているけれども、それらを総括していえば、簡単に人権を守れよということに他ならない。
特にひきこもり患者に対しては、社会のまだ無理解な部分が多く、「そんなのは甘えだ」とか「寮生活をすればなおる」といった、非常に暴力的な意見が多く散見されるのである。
しかし、と筆者はいう。そうした正論は、正論かもしれないが、決してこれらの治療には役立たないどころか、むしろ害悪である、と。

親しき仲にも礼儀ありというが、まさしくこれはそれであって、たとえ両親といえども、ひきこもり患者のプライバシーを侵害したり、あるいは、恥をかかせたりするということが、害悪にしかならないということを、この本ではきちんと描かれている。そうした記述のために、どれだけ多くのひきこもり患者が救われたことだろうかということを考えると、この本の業績というのはままならないことだと私は思うのである。
ほかにも必要最低限の暮らしはさせる。たとえば、斉藤環は、きちんと必要十分なおこづかいをあげるということを書いている。それは、ひきこもりができるだけ社会との接点を持つためということなのだ。ひきこもりにそんなお金をあげたら、よけいにひきこもって出てこなくなるではないかと親はいうかもしれない。たしかにそうかもしれない。しかし、だからといってお金を一切渡さないという非人道的な環境では、直ってやろうという気持ちも現れてこないことはあまりにも明白である。ひきこもりなんだからと、さまざまな援助を断る親がいるし、実際私の父もどんどん私から自由を奪っているが、それがまったくの無意味であるどころか、むしろ害悪にしかなっていないということを、きちんとおやは理解しなければならないのである。
なんといってもひきこもりは、1人では発症しえないのである。斉藤環の述べているように、ひきこもりになるのは長男が圧倒的に多い。その原因を考えるに、両親の存在がこの病に少なからず影響しているからなのである。それをわからなければならないのだ。

『進撃の巨人』(26話、2013)感想とレビュー ひきこもりと決断主義

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いまさらながらではあるが、進撃の巨人をまとめて見る機会があったので、一期、26話を一気に鑑賞した。なるほど、この作品がここ数年大ヒットとなってブームとなったのには様々な理由がありそうである。今回はなぜこの作品がヒットしたのか、というところを成分を分析することによって論じてみよう。

この作品には宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』という本の批評が有効である。宇野常寛は『ゼロ年代』においてそれまでの90年代的発想が、エヴァンゲリオンに象徴されるように「ひきこもり」志向であったのに対して、ゼロ年代では、小泉政権による構造改革や9・11のテロに代表されるようなネオリベラリズム的な時代において、なにもしないでひきこもっていては殺されてしまうという危機感があおられ、結果として、間違った選択だとしても、なにもせずに殺されるよりかはマシだということで、間違っていることを織り込み済みで決断をしていく、という「決断主義」的な時代になってきているのである。

この決断主義的な発想は、『バトルロアイヤル』に代表されるように、ゼロ年代の前半からかなり色濃く出されていた傾向であり、いまさらそれをやったところで目新しいことはない。にもかかわらず、『バトルロアイヤル』から十年以上経過した2013年ごろにおいて、この『バトルロアイヤル』よりもさらに構造として凄惨な内容のこの『進撃の巨人』が大流行したところには、社会病理のようなものがはびこっているとしか考えようがないのである。

それは例えば、『バトルロアイヤル』がなんとか生き残るためには友人をも殺すというまさに「バトルロアイヤル」的な発想であったのに対して、今回の『進撃の巨人』では、特に序盤、なんら有効な抵抗力ももたないただ一方的に殺されるだけという構造になっている。ここではすでに想定されうる敵は、我々の力を超越したものになってしまうのである。
『バトルロアイヤル』からの十年間に私達がおかれていた現状は、決して楽観視することができない、むしろ現状認識としてはより過酷になったかもしれないのである。

そもそもまだ『バトルロアイヤル』では、倒すべき敵は自分たちと同じ人間であった。その点では、まだ理解のできる敵だったのである。ところが『進撃の巨人』では、敵は巨人であり、もはや対話することも不可能である。ただ一方的に蹂躙されるという現状において、人間達はそれらから逃れるために三重の壁を築くことによって、「ひきこもる」のである。
これは90年代のエヴァのひきこもりにも通底するものがある。そういう意味で、「ひきこもり心理主義」として、90年代のアニメ受容者たちをもこの作品は内包できるような構造になっているのである。しかし、ことは重大で、ひきこもっていては殺されてしまう、だったら間違っていても殺し殺される世界に出なければならないじゃないか、とゼロ年代において一度外に出た人類であったが、その結果、きわめて残酷に社会に虐殺されることになったために、人類はふたたび壁を築いてひきこもることになったのである。

しかし、ただひきこもっているだけではいけない。それがアニメ一話における巨人たちの進撃なのであって、百年間安全だったひきこもりは、もろくも新たな巨人によって崩壊させられてしまう。これを社会とのつながりで考えるならば、やっぱりだめだひきこもろう、と思って安全な場所にひきこもっていたにもかかわらず、それをもさらに破ってくる何者かがあったということである。
もはや我々は最後の居城であるひきこもりの家の中においても、外敵が侵入してきてしまうのである。

そこで主人公エレンは、いつまでもひきこもって現実から目を逸らしてばかりいては現状はかわらない、むしろただ虐殺され後退するばかりである。ならば、敵を殺し尽してやる、というきわめて暴力的な内なる欲求に頼っているとはいえ、その唯一の欲求を頼りに、ただ一方的に蹂躙されるだけの巨人に立ち向かおうではないかと意思を強くするのである。
この構図が現代社会と対峙している私達の現状とマッチしていたために、この作品は、覆いかぶさってくる不安をこの作品に見て取ることによって、あ、同じだ、という感覚をたよりにこの作品を享受したのであろう。
しかし、現実社会においては我々はそのままただ死んでいくだけの、この作品における一般住民なわけであって、決してエレンのように対外的にうってでることはできないのである。唯一、安倍政権などがそのような対外主義を打ち立てているが、それもやはり決断主義的な思想が強く、間違った選択肢で、しかたがないとはいえ、極めて暴力的な選択肢であることは間違いないだろう。

さて、現実的には私たちは物語の主人公になれないし、エレンのようになれないわけではある。が、それゆえにこそ、エレンのような姿は私たちの眼にはよく見えるのである。エレンは父親の秘術によってか、巨人化する能力を手に入れている。これは、未知なる相手の力を、それを危険とわかったうえで、取り込む決断主義である。この社会がせめてくるのならば、その社会と敵対するのではなく、社会を取り込んでしまえばいいじゃないか、という選択である。ただ、ほとんどの人間はただ社会に蹂躙されるだけなのではあるが・・・。

だからこそ我々は現実にはできないとわかっていながら、唯一の希望を託してエレンの物語を読み取るわけである。
そこで問題となってくるのは、そもそもこの世界における敵である巨人たちとはなんなのだという問題だ。この世界では、人間たちを襲ってくる巨人がいつ発生し、どのように発生しているのかがわかっていない。そのための調査兵団なのであるが、これはまだ、我々社会でも、私たちを攻撃してくる社会のなにかがよくわかっていない、分析できていないということなのである。

アニメ26話においては、女形の巨人が身内の人間であったことが判明する、というところで物語は幕を閉じてしまう。早く二期目を鑑賞したいものである。
このアニメの二期、あるいは漫画が人間たちを襲ってくる存在が何なのかというところを突き止めたところにこそ、この作品が現実社会をどう認識しているか、というところが見えてくるであろう。
ひとつ考えられるのは、女形の巨人が身内の人間であったように、そのほかの巨人ももとはといえば人間だったのではないかという点である。
これは例えば現在の植物が、かつての超文明をもった人間達が生きることが面倒くさくなり、光合成だけで生きられるようになった結果だといった議論にも重なってくる。そのほか、近年では、『まどかマギカ』のように、実は敵こそ自分達の成れの果てであったという作品も頻出している。このような傾向から考えると、この作品も、実はこの巨人たちはかつての人間だった、というオチがついてくるかもしれない。
確かにこれは恐ろしいもので、我々が恐怖しているその対象というのが、実は自分自身のこころが作り出したものであったり、あるいは自分達と同じ存在であったというのは怖いのである。未知なるものが実は既知なるものであったときの発見は、自分のなかに未知を発見することになり、それはすなわち恐怖なのである。

この作品が絶対的な絶望で終わらないためにも、世の中を少しでも生きるにふさわしい世界になるようにと願うばかりである。

『To LOVEる -とらぶる-』感想とレビュー アニメにみる文化相対主義

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現在公開されている『とらぶる』の全話を鑑賞することに成功した。成功したと書きたくなったのは、これが50話をこえる大作であり、その巨大な城に対してようやくとっかかりのようなものを見付けられたからである。この達成感はなかなか味わうことができないものである。私が鑑賞したのは、下に書いたように、すでに公開された「とらぶる」と現在進行中の「とらぶるダークネス」の二話までである。
TL第1期『To LOVEる -とらぶる-』(26話、2008)
OVA『To LOVEる -とらぶる- OVA』(6話、2009-10)
TL第2期『もっとTo LOVEる -とらぶる-』(12話、2010)
テレビアニメ第1期『To LOVEる -とらぶる- ダークネス』(12話、2012)
テレビアニメ第2期『To LOVEる -とらぶる- ダークネス 2nd』(2話、現在進行中、2015)

とらぶるはもともと矢吹健太朗(漫画)・長谷見沙貴(脚本)による漫画で、週刊少年ジャンプに連載されていた。私自身はジャンプ世代まっさかりなはずなのであるが、そうした文化に若い頃接触してこなかったため、友人たちが持っているジャンプに、たまにそういうかわいい画の作品が乗っているのだなということくらいしかしらなかった。ちなみに私が小学生の時には、『いちご100%』が連載されていたのを覚えている。
ちょうどジャンプ世代となる中高生には、バトル物の漫画と同時に、溢れ出す性欲のはけ口となる作品も必要となるわけで、それが『とらぶる』だったわけである。
アニメを見ていただけなのでわからないが、アニメであそこまでの表現ができたということは、漫画ではさらにすごい描写になっていたのだろうと予測できる。

さて、アニメ版『とらぶる』であるが、第一期26話では、一応リトのもとに突然やってきた宇宙人であるララとのラブコメが展開される。リトはララがくる以前から西園寺のことが好きであり、この三人の三角関係がテーマとなって進行される。
しかし三角関係が全面的にテーマとなるかというとそうではない。むしろこの作品を見ていて感じたのは、そのほかライトノベルによくみられる主人公の周りにさまざまなオタクが好むような典型的なタイプの美少女がなぜか不思議と集まって来る「ハーレムもの」と、学園のなかでの時間軸のほとんど感じられないエターナル的な「日常もの」の融合作品であるということだ。
その点は私がいつも指摘しているように、傾向としてはしょうがないのかもしれないが、しかしこのようなアニメを見続けることによって我々の精神はどんどんと後退していくのではないかという危惧がある。

この作品が他の「ハーレム日常もの」と異なるのは、この作品がハリボテのように量産されるそうした一軍の作品とは違って、『ドラえもん』的な古典である点である。もともと永遠の「日常」のなかに耽溺する作品としては、金曜日の『ドラえもん』『クレヨンしんちゃん』、日曜日の『サザエさん』『ちびまるこちゃん』のような古典的な作品があるが、この作品ではそのなかでも特にドラえもんに類似した部分が見受けられる。
大抵において、現実の日常においては、ハプニングは起こらない。ものすごく退屈な日常が待ち受けているだけである。だからこそ、我々は何か物事が起こる非日常をアニメや漫画などの世界に求めたのである。そして漫画やアニメはそれに応えるようにして、完全に非日常のありえない世界を描くか、あるいは我々が依拠している日常に寄せた、ドラえもんなどに代表されるような永遠的な日常のなかで、なにか物事が起こってくれるという、本来ならば非日常的なのであるが、日常に似せた偽日常が描かれるようになったのである。

この作品は、いつもララが何かの発明をすることによって、その道具の効果によってハプニングが起こるという構造を持っている。ララの道具によってリトが女体化してしまったり、他の動物に変身してしまったりするのである。
反対から言えば、そのようなハプニングがおこらないかぎり、日常を描き続けることが難しくなってきているということもできるだろう。その点、人間の関係だけで日常を延々と繰り返しつづけることができる『クレヨンしんちゃん』などは、かなり技量的にはすごいものがあると私は思う。

そんななかでもアニメ第一期ではいちおうララが地球にやってきて、そのララの婚約者に相応しい男性になりうるのかという点で、リトが成長するという一応のストーリーがあった。だからこそアニメ第一期のラストにおいては、ララの父が地球にやってきて婿を試すわけである。この成人の儀式を経ることによって、リトは一応の成長を成し遂げるというビルドゥングスロマーンになっているわけである。
ところが、この作品はもともと漫画においては短い話が連続しているような1〜2話完結型であるので、ストーリーは然程重要ではない。その影響を色濃く映しているのがTL第2期『もっとTo LOVEる -とらぶる-』(12話、2010)であり、ここではアニメ一話のなかにそれぞれ7分ほどのストーリーが三本入っているという、まさしく『ドラえもん』的な発想になってしまっているのである。

ここまでくると、私たちはもはや物語、ストーリーを愉しむためにこの作品を享受しているのではないということに気が付かされる。ジャンプにおいて云えば、『ナルト』や『ワンピース』のように、主人公が成長していくというストーリーを愉しんでいるわけではないということなのだ。では何を愉しんでいるのかというと、『ドラえもん』のように、永遠に終わらない日常を繰り返している、そのなかにおいては何も進展がない。その進展がないからこそ、そこにずっと、享楽的に、あるいは逃避的に浸っていることができるというわけなのである。

自分がひきこもりになってしまってこんなことを言うのはなんなのだが、しかし敢えて言わせてもらえば、そうした時間軸の発生しない日常のなかに耽溺しているというのは、我々が求めていることなのである。特にそうした精神性が社会に適応できずに、永遠に思春期の中でひきこもってしまう、我々ひきこもりのような人々の精神性を助長しているのではないかと、あえて自分を切るように指摘しておこう。
あるいは、ひきこもることもいいではないかということになれば、より社会が柔軟に変化していって、高校生のノリを継続できるような会社や組織がもっと増えてもいいのではないか、だってそれを人々は求め続けているのだから、ということにもなり得るのである。

さてしかし、そんな日常もそのままではいられない。誰にも好かれてしまうというハーレムは、男根主義的な妄想である。この漫画がジャンプ読者の少年たちに消費されたとすれば、それはすなわち、敵を倒してどんどん強くなって、女の子からは一方的に好きになられる、という願望に享楽的にひたっているだけの少年たちの願望を増長させた疑いがある。それはある意味では罪深いのではないだろうか。
しかしそんなハーレムもやはり無理が生じてくる。一夫一婦制、あるいはロマンティックラブイデオロギーに支配されてしまっている日本社会においては、このようなハーレム状況は本来生まれ得ないし、ありえたとしても、それを継続していくのは難しい。

ということでこの作品は、日本の西洋から輸入された性、恋愛、結婚の三位一体を最上とするロマンティックラブイデオロギーや無批判のうちに導入されていた一夫一婦制についての疑問を投げかけるという、社会派に転じてしまう。
この作品ではチトが宇宙の覇者になることによって地球のルールを変えてしまおうということになるが、現実世界においてだって、アフリカやイスラム文科圏の性事情や結婚事情というのはぜんぜん異なるわけであり、それらを導入することだってできるのである。

アフリカでは初潮を迎える前、10歳前後からすでに少女たちは、狩りをする英雄たちとセックスをばんばんやっているというらしいし、そこでは西洋の性ルールは適応されない、不思議な世界がひろがっている。あるいはこの作品には、妹のみかんという重要なヒロインの1人が存在し、その様子からはどうやら兄リトとそういう関係になっても構わないというほどのものである。近親相姦を認めている文化は少ないが、それは近親相姦をした結果、そこからうまれてくる子供になんらかの異常が発生しやすいからということでタブーになっただけであって、本人たちがそれでいいのならば、近親相姦もあり、というほどの思想をこの作品は持っているのである。そういう意味で、この作品は自分達の知らず知らずのうちに信じ込んでいる常識を疑えということで、レヴィストロースの構造主義的な発想を含んでいる、あるいみ破天荒な作品なのである。

ハーレムを現状のままつづけていくとどうなるかということを恐ろしく体現して見せた作品に、原作は阿ドルとゲーム、アニメ『School Days』(スクールデイズ)がある。この作品では最終的に主人公の男性が、愛憎の中心となってその身体を分断されてしまうという恐怖が描かれている。それと同じように、基本的に一夫一婦制では、愛情は一人にしか注いではいけないということになっているが、現在の我々が住んでいる日本という国であるが、それはイスラム文化圏やアフリカ圏にいったら通用しない。
そうした意味で、我々が勝手に信奉しているこの一夫一婦制が本当にいいものなのか?という疑問はつねに持たなければならない視点であろう。

私自身は、先日LGBTの人々がアメリカにおいて法的にも認められたということに賛同しており、そのような性意識が高まり、自由が認められるのであるから、多重婚も、本人たちがいいのであればそれを認めるべきだと思っている。
この作品はこの常識を常識とおもって疑うことのできない日本社会においては、そういう意味で新しい可能性を秘めている作品ということができ、それを高く評価することができると思う。
ただ基本的にはそのようなことはこのアニメをみているオタクたちには起こり得ることはなく、むしろ持てる人間が余計に持てるだけになるという恋愛格差を余計に広げてしまう可能性が高いように私には思えるのではあるが・・・。

『終わりのセラフ』(12話、2015)感想とレビュー

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2015年4月にアニメ化された『終わりのセラフ』という作品を見た。敢えて五段階評価をするならば、3.つまらなくはないけれども、特別おもしろいうというわけではなかった。
バトルものであれば、『東京レイブンズ』などのほうがおもしろいと思うし、設定自体が『進撃の巨人』とそう変わらないという点で、あまり変わり映えしないというのがその理由である。

だが、この作品が期待できるのは、まだ謎がほとんど解明されていない12話までにおいて、いくつかの謎が散見されることである。もし村上春樹のように謎を回収しないという「作者の放棄」をしなければ、4クール分にまで引き延ばしても十分に耐えうる作品となるだろう。そのかわりに、10月から二期目が公開されるようであるが、もし二期目も12話だけで終えるとなると、謎の回収が全てできずに、続編を待つか、あるいは謎の回収を急いだために尺が足りないという状況にならないかというのが心配である。

この作品は現実を色濃く残したダークファンタジーに分類される作品である。ある日突然13歳以上の人間だけが死ぬウイルスがばらまかれ、生き残った子供たちはウイルスをまいた本人である吸血鬼によって支配されることになる。主人公百夜優一郎と百夜ミカエラはそんななか、吸血鬼によって支配された世界に生きていた。しかし、二人はあることからそこからの脱出をこころみる。しかし、その試みは吸血鬼の中でも貴族と呼ばれるフェリド・バートリーによって破られ失敗。ミカエルは瀕死の重傷を負い、女王クルル・ツェペシの血を無理やり飲まされたことによって吸血鬼化してしまう。優一郎はそのまま逃れ、外界に。そこでは生き残った日本の人口の一割の人間が吸血鬼に反旗を翻そうと生き残っていた。

このものがたりはこんなふうにして二人の引き裂かれた家族をテーマに描かれていく。二人が所属する派閥のために引き裂かれるというのは、ロミオとジュリエットの時代からあったわけであるが、今回それが男同士であるという点がやや珍しいか。キャラクター消費的な現代においては、やおいとよばれるような集団にホモとして同人誌などによって消費されるのではないかという懸念がつきまとうが・・・。
この二人がどうやって生きていくのかというのは、ひとつの見どころである。

ミカエルは残念なことに吸血鬼になってしまったので人間の血をすっていきていかなければならない体質になってしまった。作品内現在では人間の血を数のが嫌なため、女王の血を保管して飲んでいる。このように吸血鬼になってしまったミカエルと、人間で家族を殺した吸血鬼を殺すことだけを目的として生きて来た優一郎がどのように、二人の世界を築き上げていくのかというところが注目の的である。ミカエルはどのような知識を有しているのかわからないが、彼の言によれば、優一郎は人間達によって利用されているという。優一郎もじっさいに12話において「終わりのセラフ」と呼ばれるような黒い羽が背中から伸び、悪魔のような存在になってしまっていることからも、確かになんらか利用されているようである。

今後はこの優一郎がうちに秘めている「終わりのセラフ」とは何なのかということが作品のテーマになtってくるだろう。ちなみにではあるが、「終わりのセラフ」が登場する場面、優一郎の内面世界において、七つのラッパや翼の生えた天使などが映る場面があるが、あれは聖書にあるヨハネの黙示録に登場する描写である。もし、エヴァンゲリオン的な、ただ単純になんとなくかっこいいからという理由での引用でなかったとすれば、セラフとは聖書と関係した存在になるのかもしれない。黒い羽が生えていたことからも、堕天使ルシファーのような存在と何等か関係があるのかもしれない。

そもそもこの作品に登場する吸血鬼とはなんなのかというのも気になるところである。その存在自体はなんとなくすっと受けいれることができたのであるが、それに対して日本帝鬼軍が用いる武器に憑依している存在が、鬼というのが不思議であった。そこで鬼が出てくるのか、と思ったものであるが、たとえばうろ覚えだが、クラスメートが優一郎に「君は吸血鬼の支配する場所でそだったのだから、ラテン語とか英語のほうが得意だよね」と言う場面がある。とすると、ここで考えられている吸血鬼とは、西洋の存在であるかのようにも見受けられる。とすれば、この作品は西洋から攻めて来た吸血鬼対、日本に存在する鬼という西洋対東洋という話なのかもしれない。

あるいは、女王の言だったと思うが、血を呑まなかった吸血鬼がどうなるかわかっているか、という質問をミカエルにするが、その答えは鬼になるという。その鬼が、帝鬼団が利用している武器の鬼と同じなのだとしたら、(実際心象風景の中であらわれる鬼の姿は吸血鬼とそんなにかわりはしないように思われる)鬼の正体はなんらかの理由によって血をのまなかったために鬼化してしまったもと吸血鬼なのかもしれない。

いずれにしても12話では情報量が不足していて、かもしれないという予想しかすることができない。だが、それらの謎があるようにこの作品がこれからどう化けていくのかが愉しみである。

『伝説巨人イデオン』(39話、1980)と劇場版イデオン『発動篇 Be Invoked』(1982) 感想とレビュー

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カラオケにいくと、現代音楽を知らない私としては古いアニソンを唄うのが通例なのであるが、そのなかでも『伝説巨人イデオン』のオープニングを飾った『復活のイデオン』という楽曲は、私の中では十八番であり、大好きな楽曲の一つである。
しかし、ガンダムは見たことがあるけれども、自分が歌っているアニソンのなかで、しばしば実際には本編をみたことがないという作品が実はけっこう多いのだ。『ルパン三世』なんかもよく歌うが、実際に古いアニメのルパンを鑑賞したことはない。
やはりオタク教養主義的人間の僕としては、そういうのはいけないと思うのである。すべてに目を通すことは不可能であるし、それを求めているわけではないが、しかし自分が歌っているアニソンの作品くらいはきちんと目を通しておかなければならない。そう思って今回この『イデオン』をきちんと鑑賞することになったのである。
ちなみに他にチェックしなければならないのは『シティーハンター』『スラムダンク』『ガンダム0083』などなどである。

さて、私はこの勇猛果敢な『復活のイデオン』から『伝説巨人イデオン』をどのような作品かとあらかじめイメージを抱いていたわけである。
今から35年も前の作品なのだから、そんなに深い内容であるはずも無いだろう。きっとこのロボットであるイデオンが敵をバッタバッタとたおして終わりというものだろうと勝手に思い込んでいたのである。
しかし実際には違った。私の認識はことごとく間違っていたのである。
ガンダムはそれまでのロボットアニメと異なり、大人も鑑賞に堪えるだけの力をもった作品であった。初めて戦う主人公の内面というのをきちんと描き、戦いたくないという心理をありありと描いて見せたからである。

そのガンダムを制作した富野監督が、その後につくったのがこのイデオンだったわけである。
私としてはガンダムのほうが世界観がその後も広がっていき、Zガンダム、ZZガンダム、逆襲のシャアなどを含めると、数百話、何十時間という時間をかけることができ、よくもわるくも富野監督の思想が詳細に描写されていると思うわけである。
その点、このイデオンはその思想があまりにも大きかったために、すべて描き切れなかったのかなという感覚を抱かなくもなかった。ただ、その壮大さに、作品、とくに劇場版を鑑賞し終わって私はこころふるえている。

この作品はガンダムとは異なる。ガンダム好きのガンダム世代の先生とよく飲んだりして、そこではもっぱらガンダムトークに花が咲くわけであるが、その先生は、ガンダムは観終わった後、もちろん凄惨なんだけど、それでもなんとなく生きていこうと思える明るさがあるというのである。なるほど確かに、ファーストガンダムなんかは、最後アムロの「ごめんよ、まだ僕には帰れる所があるんだ。こんな嬉しいことはない。わかってくれるよね?ララァにはいつでも会いに行けるから」というセリフで終わる。ここには死んでいったものたちへの哀悼がありながら、それでもなお生きていくのだというほのかな明るさがある。私たちはここに感動してなんとなく力を貰うのである。

ところがイデオンはどうか。アニメ版とその最終話をきちんと描き直した劇場版でだいぶ異なるのであるが、アニメ版では生きる希望といったものは感じられない。
この作品は当然ガンダムを作った富野監督の作品だから、ガンダムと比べられることが多いと思うし、またそうしたほうがその差異から何を描かんとしたかったのかという部分が浮き彫りになってくると思うが、しかし私はある意味においてこの作品はガンダムよりも、エヴァンゲリオンを比べたほうがおもしろいのではないかとも思うのである。

というのも構造がものすごく似ているからだ。特にアニメのラストと劇場版の成り立ちといった部分がエヴァに非常に類似している。あるいみではガンダムやイデオンを見て育ったであろう庵野監督は、まぎれもなくイデオンの影響を受けているといってもいいだろう。
イデオンはガンダムがニュータイプだなんだといってかなりサイコっぽくなっているが、最後の一線で、どこが現実と結びついているのに対して、イデオンは完全にそのところを無視して、世界の創造といった神の領域に突っ込んでしまっているのである。そのふっきれかたが、最初見た時にあまりにも衝撃的だった。

いちおう鑑賞した作品は感想を書こうと思っている。そのなかでもできればおもしろく書こうと、作品を鑑賞している途中からいろいろなことを考えて書いているのだ。あ、この成分を分析したらおもしろいな、とか、この作品においてなぜ赤ん坊は泣くのか、とかいろいろ考えるわけである。だが、それもアニメ版であれば39話、あるいは劇場版を鑑賞するとすべて吹っ飛んでしまう。それくらいにこの作品のラストはあまりにも吹っ飛んでいるのである。

まずエヴァとの類似点であるが、というかエヴァが真似したというべきか、アニメ版39話では、世界が崩壊、あるいは再生してしまうのである。バックフラン出身のカララと人間ジョーダンベスの子供である赤ん坊と、第六星人の残していったイデの共鳴により、その宇宙にいた人間、バックフランは両者ともに消滅してしまうというびっくりのオチがまっている。

「そう、カララとドバの対面こそ、イデが与えた最後のチャンスだったのだ。
それを人々は、お互いに拒否した。
そのために、イデは、その無限力を解放していったのだ」

「その力が、新たに生まれつつあるカララの赤ちゃんがきっかけとなっていたことは事実である。
そして、地球もバッフクランの人々も、因果地平・・すなわち、宇宙の果てへ四散したのかも知れなかった」


アニメは打ち切りになってしまったという当時のアニメ業界の状態もあって、突然の終わりを迎えてしまう。この突然世界が真っ白になって、赤ん坊だけが生き延びて新しい生命が誕生しました、というようなオチは、アニメ版エヴァンゲリオンのあの心理描写に突然突入してそのまま「おめでとう」で終わってしまあれににているのである。
しかし、それで視聴者が納得するわけにはいかず、約一年後の1982年には劇場版で、39話の部分をもう一度やりなおしたのである。この経緯もエヴァンゲリオンの25,26話からの劇場版の流れに似ている。

劇場版では単なる宇宙崩壊みたいなことにはならずにきちんと描かれる。カララとその父との和解が不成立した後、両者は自分たちの星がイデの力によって隕石により崩壊させられてしまうことを知る。そんな状況になってまで、人々はイデというあまりの力の前に、協力してそれを封印したり利用したりしようということにはならずに、ますます相手を恐れ、憎み、戦いにあけくれていってしまうのである。
総力戦となる両者。「皆殺しの富野」と称されるように、劇場版では特にそのこれまでのクルーたちの凄惨な死が描かれる。この展開はZガンダムよりも悲惨なものかもしれない。なぜなら生きのこる人物が一人としていないからである。ある意味ではみんな死んで霊体のようなものになっているので、生きる苦しみが無く平等という点においてはまだましなのかもしれないが。

しかしイデの発動により劇場版においても再び宇宙が破壊、再生されていくなかで、両者の血をひき、醜いエゴなどがない赤ん坊であるパイパールウと、メシアによって、それまでに死んでいった者たちは救済されていくのである。
此処に何を見出すのかというのが、視聴者が与えられた課題であろう。ある意味でシャアができなかったエゴを持った人間たちの粛清というものを、ここですでにできてしまっているのである。富野監督はイデオンによって一度人類を浄化させることに成功しているはずなのである。
だが、それではいけないと思ったのだろう。その後逆襲のシャアを作っているところをみると、やはり粛清、浄化をアニメでは行ったが実際には行うことができないということに気づき、また人々がなんだかんだいって、この醜い世界のほうを選択するということを知っていたのである。

だからまだ若かった富野監督によるこれは一種の理想の形だったのかもしれない。
しかしその理想形は、やや極端ではあるが、確かに共感できるところなども多く、これが最近の細田監督や新海監督への拒絶と対比すると、受容される要因になっているのかもしれない。

はなしとしてはむちゃくちゃなのである。昔のアニメだから現代と文法も違う。現在描いたら、アニメ40話は2クール24話程度にしかならないであったろう。地球にもどってそこからさらにアジアンにもどってくるという大した動的動きのない作品を40話にまで引き延ばせたのは、その当時の時代性である。
物語りだって古代人が残したイデという恐ろしいものによって、今生きる人々たちが全員巻き込まれてしまって終わりというあまりにも救いようのない話である。それがなんとなくそれでも世界は浄化され、新しい命が、と希望を持てるのは、冨野監督の思想の根本がそうしたこれだけ生きにくい世界であっても、命というものを肯定する思想があるからだと思う。
そういう意味において、宮崎駿の漫画版『風の谷のナウシカ』のあの感動ににた感動をこの作品にも感じ取ることができると思う。

アニメ映画『神秘の法』(2013) 感想とレビュー

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一応アニメ映画の専門家を語っているので、アニメ映画は人よりチェックしているつもりである。二三年前にこの幸福の科学が出している一連のアニメ映画、この『神秘の法』の予告編をみて、「見て~!」と思ったものであったが、当時はまだ若かったし、宗教などに関して未発達な部分もあり、なによりもなんだか怖いからという理由で見送ってしまった作品の一つであった。

私自身の宗教体験を簡単に述べれば、小学生の頃アラブ首長国連邦で五年ほど暮らしていたのでイスラム教を肌身で感じ、中高ミッション系の学校に通っていたので六年間キリスト教の勉強をし、大学では佛教大学に行ったので仏教を学び、世界三大宗教をいちおう知識、感覚として身に付けているつもりである。
大学一二年のころまでは特にその中でも何かを信じたりと言うことはしなかったのであるが、四年あたりから徐々に仏教、特に何派ということではなく、ブッダが述べた言葉に関心があり、一応仏教は信じるに値するなと考えているのが現状である。

さてそのようななかで、こうした宗教に関連した作品をどう取り扱うのかという問題である。もちろんこの作品のバックとなっている大川隆法、ならびにその宗教団体である幸福の科学が、仏教系の新興宗教であるということを前提として話すのは当たり前なのだが、だからといってそこに終始するのかというと、それはあまりおもしろいとは言えない。
私はむしろ、そうした背景はある、として、もともとテクスト論の技法を学んできた人間なので、一端それはおいておいて、表象に出て来たものはきちんと表象の部分で分析しなければならない、と思うのである。

確かにこの作品にはいろいろとその成立状況が他のアニメ映画と異なる部分があり、しばしばそこを論じたくなってしまうのではあるが、それは他の論者にさせておくとして、私は表象の部分をもうすこし見ていきたい、そういう態度がこうした作品を取り扱う際に必要なことなのではないかなと思うのである。
さて、現在集団的自衛権だのなんだのですっちゃかめっちゃかやっている我が国日本であるが、この作品はみごとにその部分をついてきているのである。そういう点で、この作品はおもしろいと感じた。
この作品では隣国中国と思われる国で軍事クーデターが発生し、皇帝の独裁状況になってしまっている。二十年前から徐々に軍備を拡大し、しかも近年人類の科学力では理解できない特殊な技術を有することになってしまった。それに対して、我が国日本はなにもせず、憲法9条のためになにもできず、アメリカも軍事費削減のためにもはや中国の跡、帝国ゴドムに太刀打ちできなくなってしまっているのである。

そこで帝国ドゴムが日本を攻めてくるというところから物語は始まる。まあ実際に中国が日本をせめてくるようなことは、おそらくないとは思うが、しかし人類とは時としてその予想をはるかに越えたことをやってのけることがある、可能性がないとはいいきれない状況においては、この帝国ドゴムが日本を侵略してくるというのは、あり得るかもしれない未来という意味では非常によくできた面白い設定なのである。
それに対してどう対応するのかというのが物語りを回していく。
主人公である獅子丸 翔は、救世主であり、ブッダの再来だと言われる。瞑想をすることによって、その真理に到達した彼は、その力をもって、何度も破れそうになるのであるが、その度に仲間がすくってくれたりということで、最終的には、この地球をあわよくば侵略しようとしていた宇宙人たちのたくらみをはねのけ、地球人たちの勝利をもたらしめるのである。

念のために述べておかなければならないのは、この作品が大川隆法が原作だから、という理由で忌避されてしまうのはもったいないということである。やはりアニメ作品はアニメ作品としてみたらいいというのが私の立場だ。
実際ある程度の仏教の知識がある私からしてみても、この作品が特になにかへんなことを言っていたりするわけでもなく、主張していることは、やや説教臭いところはあるが、しかし至ってまじめで、現代人には身につまされる指摘であるということである。
この部分はきちんと真摯に我々は引き受けなければならないところであると私は思う。

つまりこの作品では精神性の重要さをといているわけであるが、もうすこしうまくやってほしかったなというところはある。単純に主人公の獅子丸 翔が、声優に子安 武人が勤め、ナイスボイスで真理を言葉だけで主張してしまうのである。映像をみていて、なんとなく、ああそうだよなと思わせる努力がもうすこしなされるとよかった。言葉だけでの説得ならば、どの媒体でもできるからである。あえてアニメーション映画という手法を使用しているのだから、もう少し映像的に訴えかけるものがあるとなおよかったと思う。
だが、その主張の内容はちっとも間違っていないどころか、むしろまっとうなのである。幸福の科学が作っているの?と聞くとぎょっとしてひいてしまうかもしれないが、そういう気持ちでこの作品をみると、ものすごくまじめでまっとうなことに、むしろびっくりさせられるくらいである。

しかもここで主張されているのも、ものすごく控えめな、ほとんど簡単な説教程度のものなので、説教くささもなく、普通にアニメ映画として見られるのである。
その内容はというと、この物質文明の現代において、我々人間は目に見えるものだけを信じて生きている。そこに悪魔のような存在が憑りつき、自分の身体だけが全てだと思ったり、お金儲けに走ったりしてしまう。しかし本当に大事なのはもっと目に見えないことであり、精神的なものである。それを大事にしろよ、そのためには愛とか、知とか、勇気とかそういうものが必要なんだよ、というあまりにもまっとうすぎる話なのである。
むしろもっと奇抜なことをやってもらいたいくらいである。

あまりの内容の普通さと、展開の普通さから、この作品の評価は五段階でいったら2である。
まあ普通、の3よりも、さらにひくくしたのは、なんのひねりもなかったからである。他の作品に期待したい。

高橋源一郎『悪と戦う』(河出書房新社、2010) 感想とレビュー

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高橋源一郎の『悪と戦う』という小説を読んだ。高橋源一郎体験は、他に『文学がこんなにわかっていいのかしら』という評論本以来である。
小説家としても文芸批評家としても活躍する高橋源一郎氏であるが、私はその評論家としての顔しかいままで知らなかった。評論家としての高橋源一郎は他の評論家に負けないくらいのするどい、理知的な評論家として、私のなかでは尊敬に値する人物として印象付けられていた。また近年では政治的発言も多く、その思想が私のものと一致していることからも、尊敬の念を抱いていた。

しかし、何人もの奥さんとその間に子供が何人もいることや、今回の小説を読んで、やや考えを変えなければならないと私は思ったのである。もちろんそれまでの尊敬の念が消えることはないが、しかし盲目的に尊敬しようという、私の青年的なヒロイシズムはやはり脱却しなければならないように感じられるのである。そうした盲目的な信仰ではなくて、ある程度距離を置いた尊敬の仕方というものを学ばなければだめなのだな、と今回この小説を読んで感じたわけである。それだけこの小説は、私の期待があまりにも大きかったこともあるが、私に一種の失望を感じさせた。

帯には「いまのぼくには、これ以上の小説は書けません」と書いてある。もしこれが高橋源一郎の小説家としての腕前なのだとしたら、小説家高橋源一郎の力はそんなに高いものではないといわざるをえない。書いている本人だからかもしれないが、この小説程度ならば、私が書いた小説のほうがよほどおもしろいと思えるのであるが。やはり小説も他の作品もそうであるが、その作品そのものより、つまり何が書かれているか、よりも、誰が書いているかのほうが重要視されてしまうのだな、というのは残念なことである。

この小説は分厚いわりに、紙が厚いので、二百五十ページほどしかなく、しかも一ページの文字がずいぶん大きく文字数も少ないことから、簡単に読めてしまう小説である。時間にして3時間ほどというところであろうか。
内容は作家高橋源一郎と思われる人物が登場人物として登場する。そのあたりは自分と非常に近い人間を主人公としてくる大江健三郎のような作風に似ているかもしれない。が、途中から高橋さん家の子供であるランちゃんと呼ばれる三歳児の子供が主人公となる。
なんと世界が崩壊しはじめているのだ、としてこのランちゃんが世界を救うための冒険に出るのである。

しかし冒険に出るというのであれば、もっときちんと出てほしかったのは言うまでもない。せめてモリエトのカラフルくらいの冒険の描写は必要だったのではないだろうか。その点を宮部みゆきなどと比べてしまうと、あまりにも力の差が歴然としてしまう。
ともかくこのランちゃんという少年は13歳ほどになり、なんどもなんども、状況、場面の異なった場所で、お友達のミアちゃんという少女と対峙することになる。
最終的にはミアちゃんを後ろであやつっていた悪の根源である存在と対峙し、世界は救われるということなのである。

この小説における「悪」とは、産まれてこれなかった子供の魂のような存在である。その存在が生まれてこれなかった悲しみや恨みといったもので世界を自分のものにしようとしてしまっているということなのだそうだ。この世界においては、なんどもそうした悪との戦いが子供たちによって防がれているという。
その結果、ランちゃんの弟のキイちゃんは、戦いのために言葉を置いてきてしまって、現実世界ではしゃべることができない状態になってしまった。お友達のミアちゃんは戦いのために顔を残してきてしまい、現実世界では奇形と思われる顔になってしまった、という説明がなされる。

この小説では、ミアちゃんのお母さんが大声を出すという場面があるが、その場面のなかで、一度自分も大声を出したことがあると高橋は言う。おそらくそれは小説内においては、産まれてくることができなかったランちゃんの姉であるマホさんが生まれてこられなかったときのことなのだろう。この小説は、作家高橋源一郎が、自分の生まれてこられなかった娘と、産まれて来たものの障害を持って言葉がしゃべれない息子のために、その理解不能性をなんとか理解しようとして生まれた小説なのではないだろうか。

一度高橋源一郎氏と同じく明治学院で教鞭を取っているエコロジストの辻信一氏の講演会に出たことがある。その際確か、高橋源一郎は自分の息子が障害を持って生まれて来たということを語っていたと記憶している。あまり作者のことを作品に持ち込むのは、テクスト理論を学んできた身としては気が引ける思いもあるが、しかし登場人物の小説家がタカハシと呼ばれていることからも想像すると、この小説はむしろそうやって自己療養のために高橋氏が納得できない理不尽さをなんとか自分の中で言語化しようとした際に生じた作品と読むことが可能だと思う。事実そうしたほうがこの小説の価値というものは出ると思うし、1人の人間の、あれだけ文芸批評のできる理知的な人間が、その理知では納得できない現状を目の前にした際にどのように言語化していくのかという点において、貴重な資料となりうるものである。

私も失恋しては小説を書き、ということを大学時代にやっていた。実際そうしてできた作品は自己療養のたまものでしかない。太宰治の小説だって、人間失格にしたって自己療養のたまものでしかないと私は思う。多くの小説が純粋な想像力によって生まれたものではないように、いくつかの小説は自己療養から生まれた物であり、それがまた作品とないうるのが文学のいいところなのである。
この作品はひとつのエンターテイメントとしてはちっともおもしろくないしつまらない小説である。しかし、これが作家高橋源一郎の、産まれなかった娘と障害をもった息子をどう考えるかという一つの考えの軌跡なのだとしたら、そこに一見の価値はあるのではないだろうか。

『げんしけん』(15話、2004)、『げんしけん2』(12話、2007)、『げんしけん二代目』(13話、2013)感想とレビュー 終わりある日常のなかで

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アニメげんしけんを鑑賞した。この作品も、名前だけ知っていて実際には見たことがないという作品のひとつであった。
それぞれ1クールづつのそれほど分量のある作品ではないが、ここ10年間の間に三回放送されており、3クールぶんとなっている。
この作品がおもしろかったのは、3クールをやっている間に現実世界においても時間が推移し、その結果、その当時のオタく像を反映しているという点である。

ひとくちにオタクといってもいろいろとある。特にげんしけん一期が放送されていた2000年代前半では、宮崎勤事件などがあり、オタクというのは社会的にかなり低い地位にあった。それが2004年の電車男などによってゼロ年代の後半には、犯罪と結びつきがちな印象が払しょくされていくのであるが、げんしけん一期の時点ではまだこの社会のオタクに対する認識というのは厳しいものがあったはずである。そのようななかで、この作品は電車男とともに、それまで即座に犯罪と結びつけられていたオタく像のイメージアップのために機能した、最前線でオタクイメージアップに貢献していた作品のひとつと言うことができるだろう。

そのような逆風のなかで発足した第一期げんしけんは、やはりそこに登場するオタクたちは自分たちんい対するイメージというものは複雑に鬱屈したものであった。10年代も半ばとなり、オタクという言葉が即座に犯罪者と結びつかなくなった現代、あるいは第三期の2013年の作品においては、現代のオタクというのは自分たちのことを卑下して考えたりすることは少なくなった。しかし第一期の2004年におけるオタクは、そのまま手放しで自分たちのことを肯定できる立場にはなかったのである。
にもかかわらずオタクになってしまう、それは作品内でも言及されるが、オタクというのはなろうと思ってなるものではなく、気がついたらそうなっていたというものなのである。そうなってしまった自分をいかに肯定、しないまでもいかに受容していくのかということが問題だったのである。

このころのオタクというのはやはり自己肯定をすることができないために、極めて自己認識は卑屈である。特に一期で初めてコミケに出品するということになった場面で、久我山という人物に対して私は本気で嫌悪感を抱いた。それはこの作品がそれだけその当時のオタクの像を正確に描写することができたからである。私は第一期のげんしけんを、非常につらい思いで見たものである。それはその当時の卑屈するオタクたちのことが見ていてどうしようもなく苛立たしかったからである。だがそれはひるがえせば、この作品がそれだけ人間描写を正確にしていたということになるのである。

第一期のげんしけんはかなり成分的には厳しいものがあった。それがゼロ年代前半のある意味では誠実さだったのかもしれない。十年経過した十年代前半とはやはり感覚的に異なるものがあると思うのである。一期のげんしけんは性などについてはかなり誠実にその当時の感覚を描写していると思う。春日部咲は彼氏の高坂との性関係においてかなり作品内ではあけっぴろげに言及されている。この感覚というのは10年代のオタクである私からすると、ちょっとびっくりするように感じられる。
なぜならそれは、10年代のオタク、つまり三期目のげんしけんを見ればわかると思うが、メディア、特にテレビでの性描写の自粛、規制などが進行するなかで、また対人関係が極めてドライになってきているという社会的な情勢もふまえ、性的な関係というのが現代人には極めて疎遠なものになってきてしまっているからである。

第三期を見ればわかると思うが、一応三期目では会長となっている荻上と、その先先代であり、げんしけん一期、二期では事実上の主人公でもあった笹原はつきあっているということになっている。しかし、第三期においてはすでに二人の性関係はほとんど後退しており、付き合うという設定があったからこそ二人の関係はそう描かれていたものの、そのような前提が無い状態で今あらたにげんしけんを描くとしたら、おそらく二人は付き合わないはずなのである。そのくらい現代におけるオタクたちの性関係というのは疎遠なものになっていると、私は感じるのである。

また、この作品はその時代時代のオタクたちのイメージというものをきわめて新鮮に描写していると思う。ゼロ年代前半におけるオタく像というのは、やはり男が中心の時代だったように感じられる。しかも典型的なオタク、キャラクターでいうならば、体格が大きくてコミュニケーションがなかなかうまくとれないといったような、久我山や田中のようなキャラクターがオタク的な存在であっただろう。あるいはその反対にひ弱で貧弱で貧相、といった言葉が似合うような評論家タイプのオタク、班目などがその典型例だったのである。
そのようなオタクたちが先行するなかにおいて、新しいオタク、その当時におけるニューエイジたる笹原や高坂が、当時の作品としては新鮮だったのではないだろうか。高坂のような、ビジュアル的には非常にイケメンな男性が、にもかかわらずそうしたイケメンが無縁とされてきたオタク文化を受容しているということが、ゼロ年代の奇蹟だったわけである。だからこそ高坂は、誰よりも早く、その中身を愛されていたとは決しておもえないが、そのビジュアルだけで付き合うという当時の誠実な恋愛観によって、春日部と付き合うことになったわけである。

笹原はというと、これはそんなにニュートラルな存在ではない。かなりむっつりとした人物であり、その描写はきわめて生々しかった。そのため私は笹原に対しては、そのあまりにも人間の醜い部分を描写しているということで感情移入することはできなかったのであるが、ある意味ゼロ年代におけるそれまでの典型的なオタクではなく、それほど外見的にオタクではない、気弱な男性がオタク化していくという部分を誠実に描いていたわけなのである。
しかし、良くも悪くもそれまで悪の強かったオタクたちは、それぞれ評論ができたり、あるいは自分で漫画を描いたり、コスプレを作ったりすることができる、創造的オタクだったのに対して、ゼロ年代におけるニューエイジオタクたちは、ソフトオタくであるということもあって、自らは何も作り出すことができなくなってしまっているのである。よくもわるくも、どんどん時代が後転することによって、漂白されていくのである。

しかし、そうしたソフトオタクの時代を経て、さらにそこから十年ほど経過した十年代においては、ネットメディアの展開によって、それまでのオタクとは異なった創作活動ができるようになる。それまではかなり才能という部分に依拠した一からの創作という本格的だったものであるが、十年代における創作というのはもっと軽く、ポップなものである。本作品では描かれないが、例えばニコニコ動画を利用した、おどってみたや唄ってみたというのは、新しい創作であり、それまでの創作が楽曲をつくるというようなところからレベルとしては始めていたのに対して、かなりライトになってきているのである。
絵にしても、ゼロ年代ではペンをもって紙に書いていたのが、技術の革新によって例えばペンタブのように、PCを使用しての制作に変更しているのである。今思えば、2004年のげんしけんにおいて、笹原は当初PCを持っていない大学生であったが、10年代の今となってはそれはあまりにも考えられないことなのだ。

さて、ゼロ年代と十年代の比較はこのくらいにして、私がこの作品がすばらしいなと思った部分を論じてみよう。
それはずばり、オタク的文化がドラえもんのようなエターナル的な永遠に繰り返される日常のなかに、享楽的に入り浸っているのに対して、この作品は誠実に成長を描いて見せたということである。終わりなく日常のなかに、終わりがあったということをこの作品は、誠実に、ある意味ではオタクに対する批評の意味も込めて描いているのである。
現在においてもそうであるが、オタクが好むサブカルチャー作品というのは、どれをとってもそのほとんどが学園ものであり、しかもその学園内でおこるドタバタコメディー、あるいはラブコメというものは永遠に終わることはないのである。もちろん終わってしまったら作品自体も終わってしまうということになるから、現在の、売れたものをそのまま引き延ばして利益を獲得するというやり方においては終わることは許されないという構造上の問題はあるとしても、オタク的発想の作品は、その多くが、終わらない日常の中に耽溺しているのである。

この作品とおなじく、その作者が自分のいた部活動などがあまりにも楽しすぎてその時代から抜け出せずに、その当時を延々と繰り返す作品をつくるというのはよくあることだ。私はあまり作品を多く見ていないのでちょっと例をたくさん出すことはできないが、例えばゆうきまさみの『超人R』なんかは、高校の写真部が舞台となっており、一応先輩たちが卒業するという時間の進展が少しはあるようであるが、その基本の構造としては、ドラえもんのようにエターナル的な時間軸になってしまっているといっていい。
ところがこの作品が誠実なのは、1クールにおいて確実に主人公たちは歳をとり、先輩は卒業していってしまうのである。私はなによりも、ほとんど現実の時間軸を反映した作品を見たことがなかったので、そこに驚いたのである。

オタク的想像力の多くは、現実と向き合うということを忌避する。それはオタク的想像力が現実の前では無力であるからである。だからこそ、この終わらない日常の、つまらない社会で、社会人として消耗していく現在から目を逸らすために、楽しかったあのころ、という妄想をつくりあげ、そこに入り浸ることになる。それがオタク的想像力だったはずなのである。
ところがこの作品では、アニメ作品なのにもかかわらず、なんと就職をどうするのかとか、登場人物たちが実際に就活をしてしまっているのである。これにはおどろいた。現代において就職や就活を描いた作品がどれだけあるだろうか。それがゼロ年代の誠実な想像力だったというのならば、我々は十年の時を経て、さらに現実から遠ざかっているといわなければならない。

確かにサブカルチャーにどっぷりと入り浸っているオタクたちが実際にどのように現実社会と折り合いをつけているのだろうかというのは長年の謎だったわけである。オタクたちを描いた作品はその多くが学生時代しか描かれておらず、そこからの成長というものが描かれなかったからである。ところがこの作品では、オタクだった人達は実際に社会人になっており、オタクの第一線からは後退し、社会人としてすれてしまっているのである。そこには夢も希望もない。しかしそれを描くことがこの作品の誠実さだったのである。
だが、日本に存在するオタクたちのなかで、実際に社会に適応している人間がどれだけいるだろうか。もちろん数でいったらきちんと現実に適応できているオタクのほうが多いことは間違いない。しかし、私のように現実と折り合いをつけることができずに、ひきこもりになってしまったり、あるいはニート、フリーターのようなオタクというのは相当数いるはずなのである。
当然この作品もオタクたちが自分のことが描かれているとして見るものであるかぎり、この作品はその現実と上手くいかなかったオタクたちを描かなければならない。現実的に描いてきたこの作品の誠実さはそこまで徹底していなければいけないはずなのである。それは象徴的に班目によって描かれることになる。班目はこの3クールの最後になって、仕事をやめるという選択をとる。ある意味ではそれは現実社会において負けなわけである。だがしかし、それがこの作品の誠実さというところであろう。

もはや仕事が人生の中で一番重要であるという想像力は、20世紀のものである。21世紀にもなり、あまつさえ10年代の価値観の多様化した現代においては、仕事というのは人生のなかにおいて、趣味と同じレベルのベクトルしかありえない。班目は仕事につけなかったオタクたちの代表として、仕事をやめてくれたのである。これによって救われたオタクたちは多いのではないだろうか。

これだけ誠実にオタクたちのことを描写した作品というのは珍しい。しかも、かなり現実によせてきているというところがすごいのである。その結果として、十年ものスパンを経て断続的に描かれたこの作品は、その時代時代のオタクたちのリアルを描写することに成功しているのである。
だから資料としての一級の価値があるのだ。特に私が知り得なかった、一つ上の世代のオタクたちがどのような人種だったのかというのは2004年のげんしけん一期を見るとよくわかる。その人物たちに感情移入できずに、ただ嫌悪しかできなかった私も、ある意味では十年代のオタクたちの仲間なのかもしれない。

第1期『逮捕しちゃうぞ』(51話、1996-97)感想とレビュー

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第一期、『逮捕しちゃうぞ』全51話を鑑賞した。まだ第一期しか鑑賞していないが、さらに20話ほどのpart2、それから第二期、第三期それぞれ26話とあり、全部で120話ほどの大長編の作品であるらしい。
こちかめのリアルバージョンといったらいいだろうか、もちろんなかにはそんなものはあり得ないと思われるものも確かに数多く存在するが、かなり現実に摺り寄せた内容で、この作品は90年代のリアリティーの追求されたすばらしい作品ということができるだろう。

そもそも大抵の職場というのは、想定外のことが起こってはこまるものであるし、そのような出来事が起こらないのが常である。しかし、警察署となると様相は変わる。つねに臨機応変に対応しなければならなくなるくらい、さまざまな出来事が起こるのが警察署なのだ。
もちろん実際の警察署は、もっとなにもおこらず、しかももっと体育会系の厳しい環境だとは思うが。
しかし、この作品を見れば、多くの人間が警察署のフレンドリーな職場関係と、日常を退屈させない多くの出来事の魅力によって警察に入りたくなるものであるだろう。

私は警察や国家権力というものが大嫌いなので、このアニメを冷静に見ることができるだろうかと思ていた。もちろん警察ばかりが取り締まることができて、その実警察だって違反をしているではないかという描写が多々あり、むかつくことがなかったわけではない。私個人としては警察をも取り締まれる警察以外の組織があったほうがいいと思っているが。より市民に立脚した、軌跡シリーズでおなじみの遊撃士協会のようなものがあればいいなとは思うのであるが。
それはともかく、やや時としてムカつくことがないわけではなかったが、しかし全体としてはきちんとアニメ作品として楽しむことができたと思う。

この作品を分析するのにはいくつかの手法がある。例えば私がやりやすいなかでいえば、日常性という問題と、ジェンダーの視点から読み解くことが可能だ。
この作品は主人公が女性だし、警察官のなかにも多くの女性従業員がいることから、ジェンダーフリーな作品と読みとくことができると思われるかもしれない。事実それを目指していたであろうことはわかるし、実際にそうなっている部分も多い。しかしである。課長が男性である点や、重要なポストについているのが男性であり、その男性の庇護下のもと、女性は働いているという構図はやはり変わっておらず、この作品は実は強い男性のもとで女性たちががんばって働いているという構図になってしまっているのである。
そのため主人公の1人である辻本夏実は父権的な男性である課長を好きにならずにはいられない。そこには父の強さを求めているのである。

あるいは日常という観点から。多くの作品がオタク的想像力のなかで、現実の仕事をしている自分から逃げ出すためにあのころはよかったという妄想から、そのほとんどは高校生活の日常のなかに耽溺することになる。そこではドラえもんと同じように、直線の時間は存在せず、永遠と同じ時を繰り返す、円環する時間軸が採用されるのである。
その点、この作品がすばらしかったのは、そんなに過去の妄念に囚われて学園ものに耽溺するのではなくて、現実に働いているその職場に目を向けてみようではないか、という点だったのだ。

仕事という概念が理解できずに、結局二ヶ月しか働かずにひきこもりになってしまったオタク評論家の僕としては、やはり仕事に一生懸命になれる人は羨ましい。それにもしこんなに人々がフレンドリーだったなら、私も働けたかもしれない、と思わなくはない。
だが実際にはこの作品の様にひとびとはフレンドリーではないし、もっと人間関係がぎすぎすしていて厳しいものなのだ。それに私には仕事を一番にという思想はどうしてもなじめないし、それにがむしゃらにがんばれる人というのは遠い存在であり、私にはとてもまねできそうにない。
事実、ここに登場する人々はその多くが仕事だけの人間であり、仕事がたまたま自分のやりたいことになっているからいいものの、仕事が一番ではないという人達にとってはかなり厳しい世界が描かれていることは間違いないのである。

それでも時代性というべきなのだろうか。まだ仕事というものがその人のアイデンティティーになりえた90年代としては、仕事が一番という描き方がまだ許された時代であったのである。
そのような「楽しい」職場においては、時間軸というのはエターナル的な永劫回帰として円環する。繰り返される日常のなかで、さまざまな出来事があり、人々は愉しく毎日をおくっていくのである。
しかし、そのようなずっとつづくと思われた日常のなかでも、東海林は去っていくし、辻本は自分の場所を求めに本庁に出向く。あるいは、小早川と中嶋の関係も変わるかもしれない。徐々にその変化はあるのである。

月別鑑賞録 7月

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書籍
野村総一郎『「心の悩み」の精神医学』(PHP新書、1998)
重松清『流星ワゴン』(講談社文庫、2002)
高田明典『世界をよくする現代思想入門』(ちくま新書、2006)
宇野常寛、更科修一郎『サブカルチャー最終審判 批評のジェノサイズ』(サイゾー、2009)
長谷川宏『高校生のための哲学入門』(ちくま新書、2007)
養老孟司『無思想の発見』(ちくま新書、2005)
河合隼雄、南伸坊『心理療法個人授業』(新潮文庫、2004)
斉藤環『社会的ひきこもり―終わらない思春期』 (PHP新書、1998)
高橋源一郎『悪と戦う』(河出書房新社、2010)

アニメ・OVA
『RDGレッドデータガール』(12話、2013)
『Freeフリー』(一期、12話、2013)
『遙かなる時空の中で-紫陽花ゆめ語り-』(二話、2002,2003)
『遙かなる時空の中で2-白き龍の神子-』(三話、2003,2004,2005)
『遙かなる時空の中で-八葉抄-』(26話、2004-2005)
『劇場版 遙かなる時空の中で 舞一夜』(2006)
『西の善き魔女』(13話、2006)
『ナイトヘッドジェネシス』(24話、2006)
『中二病でも恋がしたい!』(一期、12話、2012)
『東京レイヴンズ』(24話、2013-14)
『よくわかる現代魔法』(13話、2009)
『ソウルイーター』(50話、2008-09)
『TOKKO 特公』(13話、2006)
『RAGNAROK THE ANIMATION』(26話、2004)
『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』(13話、2015)
TL第1期『To LOVEる -とらぶる-』(26話、2008)
OVA『To LOVEる -とらぶる- OVA』(6話、2009-10)
TL第2期『もっとTo LOVEる -とらぶる-』(12話、2010)
テレビアニメ第1期『To LOVEる -とらぶる- ダークネス』(12話、2012)
テレビアニメ第2期『To LOVEる -とらぶる- ダークネス 2nd』(2話、現在進行中、2015)
『異能バトルは日常系のなかで』(12話、2014)
『ゴッドイーター』(GOD EATER)(2話、現在進行中、2015)
『聖剣使いの禁呪詠唱』(せいけんつかいのワールドブレイク)(12話、2015)
『進撃の巨人』(26話、2013)
『終わりのセラフ』(12話、2015)
『伝説巨人イデオン』(39話、1980)
劇場版イデオン『発動篇 Be Invoked』(1982)
アニメ映画『神秘の法』(2013)
『太陽の法』(2000)
『永遠の法』(2006)
『黄金の法』(2003)
『仏陀再誕』(2009)
『げんしけん』(15話、2004)
『げんしけん2』(12話、2007)
『げんしけん二代目』(13話、2013)
第1期『逮捕しちゃうぞ』(51話、1996-97)
『逮捕しちゃうぞ the MOVIE』。1999年
『逮捕しちゃうぞ Special』(6話、1999)
『逮捕しちゃうぞ SECOND SEASON』(26話、2001)
『逮捕しちゃうぞフルスロットル』(24話、2007-08)

ゲーム
『テイルズ オブ デスティニー2』(2002,2007)
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