村上春樹『1Q84』感想とレビュー

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 一応文学部を卒業し、村上春樹についてもある程度研究してきた身としては、もう村上春樹について論じることの大変さのようなものが目の前にあって、面倒くさくてなにもいいたくなくなってしまう、というのが正直なところだ。
 彼の文学が、これまでの伝統的な日本文学からは離れて、一種ファンタジーのようでもあることが、なおさら面倒くさくさせているというのもある。もちろん、それは彼の文学のいいところなのだけれども。
 しかし、もうすでに、ごまんと語り尽されてきた村上春樹の作品を、これ以上私のような、学部生でしかない人間がどうこういえる状況ではなくなってしまっているのだ。それは、ある意味では悪い側面かもしれない。ありとあらゆる文学研究者が、それらの多くは文学者になれなくて研究者になりさがってしまった人たちなのかもしれないが、そういう人たちが、それらの持て余した文学的発想を以て、彼の作品に自分のメスを切り込んでいき、さらに新しいものとして縫い合わせている。そういう論文をあまりの量をみてくると、それだけの人生が終わってしまって、ちっともおもしろくないのである。
 そういうなかにももちろんすぐれた論文はある。これは!という論文もたくさんある。そういうものを読むのは楽しいのであるが、みんながこぞって、そういうものを沢山書いてしまうと、もうそれいじょうの発展がないような気がしてしまうのだ。それは私の想像力不足に過ぎない。研究者の1人がたまたまこの文章を読んだりしたら、何をいっているのだこいつは、そうした論文に負けないようなものを御前が書けばいいだけじゃないかと思うかもしれない。
しかし、生きることにさえも疲れてしまっている私にとっては、村上春樹の作品を、これ以上の想像力をもって、おもしろく読み解いたりすることなど出来ないのである。
 残念なことに、この四年間、私は文学部でかんばってきたものの、アカデミズムにおける文学的な才能というものはほとほと自分にはないと感じずにはいられなかった。

 怖いというのと、面倒くさいというのとで、私は『1Q84』にまつわる論文を一本もまだ読んでいない。きっと、読めばおもしろい論文が沢山あるのだろう。だが、もうそういう楽しみ方ができなくなってきてしまっているところに、私の限界が感じられる。
 もう少しおもしろいことを書こうと思って書き始めてみたものの、春樹文学に対する敷居の高さがあるよね、という話からぐちにしかならないようになってしまった。
 私がこの三冊の分厚い本を読んで、読んだのは、ほとんどこの本の内容通りのことだけでしかない。青豆と天吾が最終的に一緒になってもとの、あるいは他の世界へ旅立つことができてよかったね、というそのレベルのものである。かつての『風の歌を聴け』のように、もしかしたら、小指のない彼女と鼠はカップルで、小指のない彼女がおろした子供というのは、鼠の子供なんじゃないか!といったエキサイティングな読みは私にはまったくできなかった。
 私にはまったくできなかったこの小説から、それでもなお、文学研究者たちは、アクロバティックな読みを展開するのであろうか。あるいみ愉しみではある。

 私が純粋に感じたのは、二冊目くらいまでは結構たのしく読むことができたのだが、三冊目になって、古河の節が登場し、テンポが遅くなってからは、あまり楽しくなかったという程度のものである。

橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』

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 ヴィトゲンシュタインとの出会いは、大学三年生の時、言葉とはなんだ?という国語を教える立場の人間として、最低限のことは知っておこうという勉強会のようなもので始めて出会った。そのときは、ソシュールの言語論なども一緒に勉強したものだったが、大学三年生で、そうした言語の哲学をまったくやったことのない私には、なんとなくわかったような気がして、なんとなくわからなかったものである。
 大学ももう卒業間近となり、やや時間に余裕ができてきた私は、もう一度哲学や社会学について、きちんとゆっくりと腰を据えて勉強してみようと思う。かつて背伸びして原典をいきなり借りて読んでいた。しかし、原典にあたってもちっとも理解することができない私は、きちんと入門書を読むことも必要だろうと考えなおした。そんな経緯があって、私はこの本を手に取って見た。

 この本はなかなかおもしろかった。私は新書には、その本がどれだけ役に立ったか、あるいはおもしろかったか、等で、五段階評価をつけている。5は本当におもしろかった。記憶がなくなったときに、もう一度読み返す価値のある本というような付け方で、1は二度と読みたくない、というような感じだ。ふつうは3。この本は4の評価をつけた。ヴィトゲンシュタイン入門としては、十分よく出来ているし、満足のいくものだと思う。人にも薦められるレベルの本だ、ということだ。
 いちおう『はじめての言語ゲーム』というタイトル通り、入門書になっている。ヴィトゲンシュタインの考えだけでなく、どうしてそういう考えに至ったのだろうか、という人間ヴィトゲンシュタインの歴史的な側面もあり、どちらかというと、ヴィトゲンシュタインの入門書というべきだろう。おびにはきちんとその旨が書かれている。

 こうして人間ヴィトゲンシュタインに触れあってみると、よくもまあきちんと生き延びることが出来たなと思わずにはいられない。ウィーンでも有数の貴族の家に生まれたヴィトゲンシュタインであるが、お金があるからといって、幸せとは限らない。それは、比較的裕福な家に生まれた私にもいえることである。大学では、あまり金銭的に豊かではない家庭の人達にかこまれたために、その裕福さをずっと羨ましがられてきた私であったが、ほんの少し裕福だからといって、ちっとも幸せではないのだということなど、だれも理解してくれなかった。ヴィトゲンシュタインもそうした思いが当然あったであろう。それよりも、むしろ、兄たちはつぎつぎに自殺をするし、第一次世界大戦は勃発するし、この本を読んでいるだけでも、うっと息苦しくなるような閉塞感を感じずにはいられなかった。常人であれば、兄たちに従って自殺しているところであろう。
 しかし、ヴィトゲンシュタインは最後、病死するまで自殺しなかったのである。私でもおそらく自殺していただろうこの雰囲気のなかで、彼はなぜ生きることが出来たのか。
 誰かが言っていた名言を思い出す。「ソクラテスは哲学のために死に、ヴィトゲンシュタインは哲学のために生きた」と。どんな文脈でだれが言っていたのかも忘れてしまったが、たしかにこの言葉は真をついていると思う。ヴィトゲンシュタインの哲学は、生の哲学、まさに生きようという意志そのものなのだ、と私は感じた。

 私には哲学的センスというものがないらしい。論理力もないし、まったくもってわからない。ただ、私に理解できるレベルの、中学生レベルの話をすれば、ヴィトゲンシュタインは、彼自身もいっているように、空り得ぬものについてを限界まで、彼なりに語ったということなのだろうと思うのだ。私たちは普段からこうやって言葉を使っているが、なぜ使っているの?どうやって使うの?ともし、面と向かって、言葉を使うことができない人達、たとえば宇宙人から言われたとしたら、それを説明することは不可能なのではないだろうか。りんご、というひとつの言葉にしても、なぞそれをそもそもりんごと言えるのか、というところから、果てしなく問いは続き、明確な答えは出てこない。出てくるとしたら、りんごはりんごだから、りんごなんだというものだけであろう。しかしヴィトゲンシュタインはその、類まれなる頭脳と論理力をもって、りんごはなぜりんごと言えるのかということを、徹底的に西洋的な論理力をもって、考え抜き、それを言葉にしたのであろう。しかし、最後までそれをやって、やはり、そうはいってもやはりすべてを言葉に書きつくすことはできぬ、と判断し、最後の有名な一文、「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」という言葉を付け加えたのではないかと思うのだ。
 これを、仏教的とか、東洋的と、これまた誰がいったのか忘れてしまったが表現されていたのを覚えている。つまり、まるのようなものを、メスをもって、四角にきりおとしているような行為なのだ。西洋の論理をつかうということは。当然つかみきれない微妙なニュアンスのような部分もでてくる。所詮言葉は、私達人間が開発した、不完全なものである、それですべてが表現できると思い込んではいけないのだろう。

 しかし、おもしろいのは、このヴィトゲンシュタインが生み出した言語ゲームという普遍性の高い概念は、私達の生活にもひるがえっていえ、自分達のこれからを考える上で役に立つものなのである、という点だ。言語ゲームというのは、誰が始めたのかもわからずに、いつ終わるのかもわからない、そんなものだ。ただ私たちはそこに来たときにはすでに、ゲームは始められており、そのゲームに参加するほかはない。私たちは私たちのこの言葉の体系を、気に食わないからといって破壊することも、やめることもできない。いや、正確にはできないこともないのだが、それをやれるだけの精神力は凡人には備わっていないといえよう。
 私はしばしば、この自分の生に対して疑問を持たずにはいられない。なぜ?といつも問いかける。なぜ働かなければならないの?食わなければならないから?なぜ食わなければならないの?生きなければならないから。なぜ生きなければならないの?大体の人間は、僕のこの質問に、甘ったれているんじゃない!と起こる。困ったものだ。あまったれているんじゃなくて、私は本当にわからないのに。
 私は最終的なことをいってしまえば、生きる必要なんかないと思ってしまっている。だから、働く必要もないと思ってしまっている。社会からみたら、バカ、か、社会不適合者か、なんとかだろう。だが、仕方ないのだ。私は言語ゲームのように、すでにはじめられていた、この社会ゲームというのが、どうしようもなく嫌いなのだ。私はそれをいい、よし、わかったと言っていない。なのにもかかわらず、どうして私は勝手に、強制的に国民年金に入らされていて、年金を払わなければならないのだろう。私には本当に年金をどうして払わなければならないのか、なぜ強制的にここに入らされているのか納得できないから、払っていない。しかし、払っていなかったら、取り立てると、脅しの文句がくるようになった。私はただ、払いたくない、といっているだけなのに、なぜ取られなければならないのだろうか。
 国のやることは、間違いだらけである。それは人間と同レベルのものだ。しかし、国は、国であるために、国がいくらまちがったことをやっていようと、それが罰せられることはない。国民年金を個人から取り立てて、なんら罰をうけないのだ。それでこちらのほうは、払わなければ罰則だというのだ。こんな不公平があろうか。
 この本では、言語ゲームはわずかではあるが、働きかけることによって、自分の思うように変えることができると、最後に結んである。私も社会ゲームに働きかけることによって、ただ生きているのが許されるような社会に変わってほしいものだ。

岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』

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 岡田斗司夫の本は、最近の本にかぎっては、その多くが講演をもとに文章化しただけの著作が多いので、いまさらなにかといって、僕がここに書くようなことはないようにも思われる。だいたいそういうすばらしかった講演というものはYouTubeにのっかっているし、岡田氏の言うように、これからはそうした無料で質の高いコンテンツが増えていく世の中だから、わざわざこの書籍を買わなくとも、無料でYouTubeで質の高い論理を私たちは楽しむことができるのだ。
 実際この書籍のもととなった講演もYouTubeに掲載されているので、この書籍を読むことなく、内容を二時間ぼーっと聴いていればわかるというものである。しかもこれは岡田氏の問題点なのであるが、本よりも、しゃべりのほうが断然面白い。
 岡田さんには悪いけれども、いやある意味では褒め言葉かもしれないが、彼の場合、本はあまりおもしろくない。日本語がすらすらと読めるようないい文章ではないことは確かが。(人のこといえるのか?)それよりも、彼はしゃべらせたほうがおもしろい。だから、この『オタクはすでに死んでいる』の内容は、YouTubeで確認してもらえれば十分なのではないかと思う。私は一応オタクを自称している人間なので、勉強ついでにYouTubeで見て、さらに書籍でも読んだわけであるが・・・。

 さて、ここでオタキングこと岡田斗司夫は、最近のオタクと呼ばれる人達のことがぜんぜんわからなくなっちゃった、という衝撃から話を始める。結論から先にいってしまえば、社会が変わったために、岡田氏の想定していた昭和30年代、40年代生まれの「強いオタク」が通用しなくなってしまったというだけの話なのだ。要は、それまでなんとなしにあった暗黙の了解とでもいうべきもの、オタクの基礎学力みたいなものが、昔はあったのだが、それがなくなってしまった、というそれだけのことに過ぎない。
 それは私がよく使っているように、高度経済成長、バブル崩壊を経て、社会がポストモダン化し、ものごとが細分化してしまったからだということができるだろう。
 しかし、そのようななかにおいても、ある一部のオタクは、またポストモダンらしからぬ動きを見せる。それが、「萌え」なのだ。岡田斗司夫はなんと萌えがわからない、とはっきりと述べている。なんとなくはわかるのだが、本質的には理解できない、というのだ。ネットでは、岡田斗司夫は萌えが理解できない、ということで、自意識に凝り固まり、人を非難することしかできなくなった、一部のネットユーザー(オタク)たちから叩かれた様である。
 しかし、と岡田氏はいう。確かに自分はオタクである。そのオタキングたるオタクである岡田氏がなぜ、オタクではないと叩かれなければならないのか。萌えという一つの要素がわからないだけで、オタクではないと叩かれなければならない理由はなんだろうか。ここに岡田氏の分析のメスは切り込んでいく。すなわち、排除の力学がここにはあるというのだ。オタクというのは、もともと12月にはクリスマスではなく、コミケ、といった、中心ではなく、周縁の人物たちであったはずだ。だから、本来オタクには、自分達が中心にいるという感覚がないはずなのである。ところが、岡田氏の分け方によれば、第二、第三世代とオタクも変遷するにしたがって、それまでの中心と周縁という文脈があやふやになってきて、第三世代くらいのオタクになると、自分達が周縁にいるという意識がないために、自分達が中心だという思い込みが生じてしまうのだ。だからオタクであることの条件に、萌えが必要である、と彼等は思いこむのである。とすれば、萌えが理解できない岡田斗司夫はオタクではない、と攻撃の対象になるわけだ。

 岡田斗司夫は、いつまでも本論のなかで、「いまの若者たちは」という若者論になりたくないと、述べている。それはこれだけ大きな影響力を持つ評論家の最低限のマナーなのだろう。それに、世代論は他の世代を悪く言った場合、なんともどうしようもない論になってしまう。それは例えば現在二十代である私が、老人たちは、といったような言説をしたときに、まったく意味のない不毛な争いになるだけなのである。
 だが、と私は思う。ちょうど岡田氏の分けかたでいえば第三世代のオタクたる私は、同輩たちを裁く、いや批評する権利はあるのではないか。むしろ他の世代の人間ができないからこそ、同世代を批判しなければならないのではないかと思わずにはいられないのだ。
 やはりポストモダン化して、特定のこれには興味関心があるけれども、それ以外にはまったくない、という今現代の人間の在り方はいけないと私は思う。もちろん、それ以外をなんとかしようとしてきて、上司の飲みなどに誘われて仕事かプライベートかわからないような社会になってしまった日本の悪い点が改善されたということは紛れもない事実なのであるが、嫌々ではなく、興味関心がないから、というだけのことでシャットアウトしていては、そもそも人間同士のそれ以上の関係の発展がないのである。
 よくわからないから、というだけの理由で、シャットアウトしつづける現代の若者と接していて、私はむなしい思いを抱く。私は典型的なオタクであるから、これがいいと思ったら、それをなんとかして人に伝えようとする。だからこそこうしてブログまでていねいにひらいてやっているわけだ。しかし現代の人達にはそういうものがない。外に広がりを持たず、内に閉じこもってばかりいては、やはり人間であることの意義が失われてしまうような気がするのである。もちろん、時にはそういうのも必要であるが、ほとんどそれで外に出て行かないということになると、これはどうしたものかなと私は思わずにはいられない。
 だからといって、ここでなんとかしなければ!といきりたってしまうと、ガンダムでいうシャアのように気がふれるか、あるいはデスノートのライトのように自ら粛清に走ってしまうのである。それは、現在の日本の政治状況のように、強い国日本に自分のアイデンティティを同一化してしまうようなことと一緒なのだ。そう陥らずに、外に開いていくことの難しさというのは、かなりのものがあるだろう。

 私には、もっと他人はついぞわからない存在だけれども、だから諦めてしまうのではなくて、だからこそ、なんとかしてもっとお互いのことを知合いたい、知ることが出来た時のよろこび、というような部分を重視していく必要があると思う。やや教養主義的な説教になってしまったが、オタクを生き返らせる、人間を生き返らせるには、そうした方法が有効なのではないかと思わずにはいられない。

夜のヤッターマン 感想とレビュー

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 久しぶりにおもしろいアニメを見たという感じがした。
 この作品は、みんなも知っているあのヤッターマンのスピンオフ作品。作品設定は、かつてのヤッターマンから遥か時間が経った世界が舞台。子孫の子孫、というような表現が為されていることからも、百年単位の時間が流れている、というような舞台設定である。

 「夜の」という言葉がタイトルについているように、この作品は、さまざまな面において、ヤッターマンの裏を描いている。「夜」という言葉にはいろいろな二次的な意味があるが、ここでは、例えば「大人の」というような意味や「暗い」というような意味が付与されているだろう。
 この作品では、今までのヤッターマンとは異なり、善悪が反転している。
 この作品を読み解く際に、どのように読み解いたら面白いかなと思ったが、やはり私の得意である、カウンターカルチャーとしてのヤッターマンとして読み解くのは、順当でなかなかおもしろいのではないかと思う。すなわち、この作品は、これまで王道であり、あるいみ牧歌的であった、ヤッターマンへの批判が込められているのである。
 かつてのヤッターマンは、ドロンボーたちが悪であり、ヤッターマンたちが善である、ということが二項対立的に描かれていた。しかし、悪はなぜ悪なのか。ドロンボーだから悪なのか、という、本末転倒式の善悪基準では現在は通用しない。たとえドロンボーであろうとも、ドロンボーが善になりうることがあるのではないか、という批判がここには存在しているように感じられる。そうした意味において、今回の夜のヤッターマンは、それまでの王道であった善悪二項対比のタイムボカンシリーズへの批判として成立しているのである。

 ほかにも、夜のヤッターマンの批判はとまらない。例えば、メカ。かつてのヤッターマンは、どうしたらそんなにすごいメカが沢山でてくるのか、と信じられないくらい、メカのインフレーションが激しかった。しかし、今回の作品では、かなりリアリズムに作品の基準をおいている。そのため、すでに物資の豊かな敵である、ヤッターマンの軍においてはまずますのメカが登場するものの、ドロンボー一味はほとんどメカを繰り出すことができない、というリアリズムに基づいているのである。

 また、どうしても私が指摘しておきたいのは、ジェンダーの問題である。
 二つ指摘しておきたいことがある。まず一つ目は、ドロンジョ様について。ドロンジョは、いままで絶世の美女として、二十代後半が想定されるような、結婚前の女性がその役を務めていた。私のヒロイン像は、斉藤美奈子の『紅一点論』の理論に基づいているのであるが、彼女は婚期をややのがしてしまった美女たちの成れの果てへの課程である。本当に女性がなれの果てまで行くと、荒地の魔女ではないけれども、敵方の女王の地位になる、というのが斉藤の分析である。
ドロンジョはいままでアイちゃんのポジションにいた人物が結婚できずにそのまま進むとどうなるのか、ということを体現した地位にいる女性であった。ところが、今回の夜のヤッターマンでは、なんと年端もいかない9歳の少女がドロンジョを演じることになる。
 ここには様々な思惑があるだろう。現在において、婚期を逃した二十代後半の女性では、なかなか作品が成立しえないという事情があるのかもしれない。なぜそうなのか、といわれても私にはまだ不勉強なもので確たる推論もできないのであるが、しかし、幼女化していく日本社会において、このドロンジョの変遷というのも、ひとつ社会の病理のようなものを反映しているような気がしてならないのである。ここに私は少しの心配を抱いている。成熟した女性だと売れずに、もっぱら幼女を愛でるような文化というのは、きちんとした人間形成をうながすことができないのではないか、と思うからだ。本来ならば、レパードの母、ドロシーが演じてもよかったのである。それをわざわざ殺してまで、まだ性別もはっきりしないようなレパードにドロンジョを演じさせなければならない、と、判断させた文化的事情は、興味に値するのではないだろうか。
もう一点。
 これは、ドロンボー一味と一緒に旅をする二人の少年少女についてである。いままでは、この少年少女たちが、主人公となり、ドロンボー一味を倒していた。今回は、表向きは、ヤッターマンたちを倒すための旅であったが、やはり少年少女の登場は不可欠なわけで、あえて味方として、この二人を登場させることになっている。さて、そのなかでも、いままでアイちゃん役のポジションであった女性が、今回は特殊な事情に描写されている。アルエットのことであるが、彼女はなんと盲目なのである。盲目のキャラクターをここまで描き切ったこのアニメには、感嘆せざるをえない。
 やはり時代とともに、なにを描いていいか、何を描いてはいけないか、というものは、変化する。四十年前のヤッターマンは、ドロンジョのお色気シーンがかなりあった。現在ではそういう描写はなかなかできなかろう。しかし、この表現描写がかなり禁欲的に、自主規制してしまうような時代において、盲目の少女をここまで描写できたというのは、なかなかすごいことだといわざるをえない。
 もちろんそこにはひとくせある。アルエットが盲目であるというのは、さらっと見ているだけではわからないように、上手く描写されている。そこらへんの描き方もまた上手いなと思わずにはいられないのではあるが、しかし、そうしなければ描けなかったという理由もあるだろう。しばしば、アルエットは普通の少女のように見えているのではないか、と思ってしまうような描きかたなのではあるが、しかしアルエットは盲目の少女なのである。
 タイムボカンシリーズは、ある意味で、男性が戦い、女性は守られ、というジェンダー規範を破った初期の作品だったのかもしれない。ガンダムに代表されるようなロボットアニメには、ある種のマッチョイズムが存在する。それは、男性が戦い、女性は守られ、というような一種の幻想であった。そのなかにおいて、女性は戦うことはなかったのである。タイムボカンシリーズでは、やや牧歌的な作風である、ということも影響しているかもしれないが、女性もきちんと戦っていた。それは大いに評価されるべき事象だと思う。なによりも、ドロンジョ様が女首領をしてドロンボー一味を率いていたのには、多くの女性が勇気づけられたのではないかと感じる。
 だが、今回はややそうした視点においては後退した雰囲気を感じずにはいられない。アルエットは、一度も戦わず、ただただ庇護される対象となっているのである。それは、盲目の女性に戦えというほどの暴力性にならないでもないが、しかし、盲目の女性にしなければ、少しは戦えたかもしれないのだ。彼女を盲目にしてまでして、庇護の対象にしなければならなかったのはなぜなのか、私はここに、やや屈折した男女観があるのではないか、ということを指摘するだけしておこうと思う。

 私はなんだかんだいっても、この作品に対して肯定的である。久しぶりにおもしろいアニメを見たな、というのが素朴な感想である。
 だが、よい作品だったからこそ、批判の熱もこもってしまうものだ。ここは愛ゆえにそう述べているのだと読み解いてほしい。
 欲を言えばであるが、ワンクールでは短すぎた。やや回収されきっていない感じがしないわけでもない。特に最後はまったくひどい、といわざるをえない。おしおきだべ、と言われて放たれたレーザービームによって、ドロンボー一味は海中に沈んでしまうわけであるが、その後どうなったのか、わからない。ここで終わってしまうのは、読者への裏切りではないだろうか。
 ほかにも、アルエットの父親がゴロウであったというのはいいのだが、その話にしても、もうすこしアルエットとの邂逅があったりしてもよかったのではないかと思わずにはいられない。要するに、そうしたものを描き切るだけの時間が無かったのではないかということなのだ。
 だが、それ以外は、よい批判精神をもっていた作品だったし、その上王道をいっている感じもして、建設的な雰囲気も出ていたのでよかったのではないかと思う。

『風を見た少年』感想とレビュー

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 残念ながらヤフー映画では星が1,5しかつけられなかった、低評価の作品であるが、私は意外と魅力があるのではないかなと思う。それと同時に、やはりこの作品がこの点数を取ってしまうのはわかるな、と思うのである。今回はそれを文章にして、なぜこの作品がダメだったのかを、文藝評論的に分析してみたい。
 個人的には私はこういう作風の作品は大好きである。アニメーション映画の『幻魔大戦』を思わせる、ダークな作風で、世紀末的なにおいがプンプンする。そして超能力を持った少年。条件は最高なのだ。ともすれば、『アキラ』のようにもなり得ていた作品なのである。それに声優も豪華だ。安達裕美、前田亜季、戸田恵子、夏木マリ、内藤剛志。これだけ作品の制作にお金をかけていれば、大抵の場合はまあおおコケとはいかない。
 ところが、これだけ条件がそろっているにもかかわらず、この作品は大いにコケた。というよりも、観客がのってこなかったのである。その原因はいくつも考えられる。
 まずどうしても、少年が成長していく物語は、あの伝説の名作『天空の城ラピュタ』を彷彿とさせずにはいられない。しかも今回は少年が空を飛ぶのである。どうしてもラピュタをイメージしないわけにはいかないだろう。ところが、ラピュタには多くの人が感情移入できたのに対して、この作品にはできないのである。それはなぜか。
 ラピュタでは、多くの人はパズーに感情移入したはずだ。そしてここが重要なのであるが、パズーは選ばれた人間ではない。パズーはシータのように王家の血筋を引いた選ばれた人間ではなかったのである。その選ばれなかった人間だからこそ、パズーは努力をし、選ばれた人間であるシータやムスカたちを肩を並べるほどまでに成長したのである。ところが今回はどうか。なんと主人公であるアモンは選ばれた人間で、空を飛べるのである。この時点で我々一般の観客は、もうそこに感情移入をすることはできなくなってしまうのである。
 そこに感情移入する前に、どうしても私たちは実際に空を飛びたいと、だれもが少なからずは思っているので、そこに嫉妬のようなものを感じてしまうのだ。いいな!と思いながらも、同時にねたましいと思わずにはいられない。もしもこれが自分だったら!と思い込めるほどの思い込みが強い人でなければ、この作品は鑑賞できないのである。

 また作品の構成にもやや問題がないとはいいきれない部分がある。
 例えばこの作品は全体が暗いイメージでおおわれている。それは、アモンの父の助手であったルチア先生であるが、この先生の噛ませ犬っぷりはひどい。もう少し内面を描いてもよかったのではないかと思われるほどである。そもそもアモンの父は高名な学者である。しかもその父はただ一人しか助手をとっていなかったのである。それほど偉大な人間が一人しか助手をとらないからには、その助手は相当のできがよくないといけない。にもかかわらず、ルチア先生は、アモンの精神的保護者になるわけでもなく、ほんとにひどり私利私欲に目がくらむだけの人間として描かれてしまう。
 むしろここではルチアはもっと葛藤し、アモンをなんとか救おうとしなければならなかったのではないだろうか。
 唯一といっていいほど、アモンの精神に本来寄り添い、潜り込むことができなかった人間を、ダメ人間として描いてしまったために、主人公アモンの心情もあまりぱっとしない。深く切り込んで描かれていないのである。

 最後にこの作品がちっとも救いようのない作品になっている原因として、この作品の構造に問題がある。
 この作品は、まるでラピュタのように、かつて天空を支配したような古い一族があったというような話がある。それ自体はいい。だが、最後になって、なぜアモンが飛べたのかという段階になって、アモンが実は風の民の生まれ変わりであるようなことが判明する。
 その時に、敵役であったブラニックは、実は彼自身まったく自分の意志でやっていたというのではなく、かつて、空の民と対決した争いの神=へびが憑依しただけ、というあっけない敵であったことが判明してしまうのである。彼が残虐なことを行うのはなぜなのか?という読者が一番知りたい内容への回答が、昔争いを好む神様がいて、そいつが憑依したから、というそれだけのことになってしまうのである。
 どうにもこれではブラニックも救われない。
 結局この作品は、最後まで物語が始まる前から決まってしまっているのだ。つまり風の民と争いの神との戦いという大きな物語に集約されているだけなのである。それでは、作品内における現在、一生懸命生きて戦っているアモンやブラニックは、まったく意味がないただの入れ物ということになってしまう。
 そこにはアモンやブラニックの意志や努力といったものは反映されない。だからこそ、そのような大きな、最初から決まってしまっているようなことをただ淡々と見せられて、我々はどうしていいのかわらかずに、ああそうなのか、といってそのまま、右から左へ受け流すようにして終わってしまうのである。
 やはり少なくとも、アモンやブラニックには、そうしたかつての風の民や、争いの神、に抗う姿勢が必要だったのではないかと思う。アモンもその力がたまたま我々の正義の概念からはずれない力だったから、好き勝手やってもよかったものの、やはりその力に疑問を感じ、危険なものなのではないかと使用を控えたり、葛藤したりしなければならなかったのではないだろうか。
 私には、こうした作品が個人的に好きなので、他の人よりかは楽しく映る。だが、実際に冷静に見るときっとつまらないだろうな、というのもまた同時に分かるのである。今回はそれを登場人物たちが葛藤していないからだ、という文脈で読み取った。

『あらしのよるに』感想とレビュー

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 今回は2005年に公開された映画『あらしのよるに』についてのレビュー。
 私が小さい時に話題になっていたものの、結局見ないでいてしまった作品の一つだ。まずはそうした話題になっていたけれども、実際には見ることができなかった作品からひろっていきたい。
 作品の雰囲気は2012年に公開された『おおかみこどのも雨と雪』に似ている。というのも、まず第一におおかみが出てくること。それから、雪山が舞台であること、作品世界が広大な開かれた大地であるのに対して、小さなコミュニティで終始していること、などがあげられるだろう。
 一応作品分析の世界では、先行する作品が後出の作品に影響を及ぼしたと考えるので、『あらしのよるに』が『おおかみこども』に与えた影響は大きいのではないか、ということができるだろう。
 さて、この『あらしのよるに』であるが、なかなかおもしろい作品だった。
 この作品を一文で表せといわれれば、本来食う食われるの関係である、おおかみとやぎが、その自然の理を越えて友情で結ばれる話、ということになる。
 もちろんこういう作品を見ていて、自分のナンセンスなつっこみがないわけではない。そりゃいくらなんでも擬人化しすぎなんじゃないの?実際おおかみとやぎがいたら、本当に食べてしまうわけだし、なかなかそんなものはありえないよな、と。しかし、時として、ネットで話題になるように、本来自然の世界においては、食く、食われるの関係にある動物が仲良くしていることもあるのだ。特にペットなど、もう十分に餌が与えられている状態では、動物といえども本能に勝てることもあるのである。例えばネコと鳥が一緒に飼われているとか。
 そういう例もなくはないから、この作品を、リアリティーという観点から見た時に、まったくないとはいえない、ということはいえるだろう。
 だが、こんなリアルかどうか、などという批評はつまらない。それよりもおもしろい読み方ができると私は思うのである。
この作品がおもしろいところが、ガブとメイがそれぞれ自分の所属するコミュニティにおいて、敵となる存在とつながっている、ということがバレてから後である。それぞれのコミュニティでは、やはり食う食われるの関係から、その奇跡的な関係をなんとか利用して自分達のためになるようにしようと画策する。ここは本当にリアル溢れる場面だった。
 ひとつ言い忘れていたが、こうした動物が登場し、人間などが一切登場しない作品などは、よくよく、この作品がメタファー、比喩であるということを自覚しておかなければならない。この作品は人間が描かれないかわりに、むしろあえて人間を描かないことによって、より人間の本質の問題を描きだしているのである。
 だから、この相手をいかに出し抜くか、というやりとりはまことに我々人間の世界を描き出していた面白かった。
 それは例えばいろいろなところで我々は実際に目にしている光景なのである。大きな話であれば、例えばおおかみとやぎをそれぞれ対立するアメリカとソ連などに見立ててみればいい話なのである。たまたまどこかの国、日本にしておこうか、で知り合ったアメリカ人のソ連人。二人は意気投合し仲良くなる。しかし、相手が実は自分の国の敵国の人間だということが判明。祖国に帰った二人はそれぞれ相手の情報を探るように命じられる。
 あるいはもっと小さな話をしよう。クラスで二つの対立するグループがある。Aグループに所属するA子は、実はその学校に入る前、Bグループに所属するB子ととても仲が良かった。グループが対立してしまってから、A子とB子の関係が判明。二人はお互いの弱点を探り合うように他のメンバーにおどされる。
 このような話は我々の日常の世界のどこにでも存在している。
 そして私が秀逸だなと思ったのは、この作品での、ガブとメイの決断である。
 それぞれに所属するコミュニティがあり、お互いの情報を探り合うようにいわれてしまって、もうどうしようもない状況になっている。この作品はメタファーであるから、例えば二つ目の例、対立するグループの少女の例として考えてみれば、通常この二人の仲は引き裂かれるのがオチである。
 ところがこの作品はその童話的な世界、牧歌的な世界観というものに支えられて、極めてハッピーなエンディングを迎えるのである。通常どちらかが傷ついたりして終わってしまうような話の構造を、この作品は越えて見せるのだ。二人はどちらのコミュニティを活かすことも、そこに帰ることも思いつかない。この二人は極めて勇敢な存在であったために、二人は自分達二人のあたらしいコミュニティを作ろうということになるのである。
そこで彼らは山の向こう側に新天地を望む。
 二人は自分達の世界では自分達の希望はかなえられないとして、その自分達の所属するコミュニティを変革することや、自分達の信念を曲げることなく、自分達で新しいコミュニティを築き上げてしまうのだ。山から自分達のいた場所を観た際に、あんなに小さかったんだ、と二匹はこぼすが、それは、我々がしばしば対立していることへの痛烈な批判である。ようはどんなにいがみあっていようが、おなじあなの狢ではないか、ということなのだ。
 この作品が極めて完璧な様相を呈しているのは、ヘーゲルのいうようなアウフヘーベンをしているからである。
AとBが対立している。Aもだめ、Bもだめ、ではどうしたらいいか。全くあたらしいCをつくったらいいじゃないか。これがこの物語の出した答えなのだ。
 彼等が目指した新天地では、おおかみとやぎという、本来は食う食われるの関係さえをも超えることができる理想郷である。そこへ到達したからこそ、この物語はおおかみがやぎを食べてしまうという結論を迎えずにすんだわけなのである。
そしてメタファーであるこの作品は、つねに、いがみあい、対立しているものたちへの厳しい批判であり、警鐘でありつづけているのである。そんなところにいないで、その二項対立がなくなる場所にまではやくアウフヘーベンしろと。そうした意味で、一見すると牧歌的な、童話的な、良くも悪くも「いい話」に見えてしまうこの作品は、極めて批判の精神を強く持った優秀な作品であるということができるだろう。

映画蟲師 感想とレビュー

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 アニメ蟲師の一期を鑑賞したので、アニメ監督の大御所である大友克洋が監督した実写映画、蟲師を鑑賞してみた。
「そこで問題は、それをアニメで撮るのかそれとも実写作品とするのかということ・・・。その点、プレスシートによると、大友監督は「前作の『スチームボーイ』のアニメ製作にかなり時間がかかったので、次は実写映画を撮りたいと思い、いろいろと企画を探しました」と語っているから、『蟲師』をアニメで撮るかそれと実写で撮るかという選択肢はなく、実写で撮るという大前提で企画を練っていたところ、たまたま『蟲師』になったとのこと・・・?」
http://www.sakawa-lawoffice.gr.jp/sub5-2-b-07-31musisi.htm
 この映画は、すでに上記に引用したサイトによって詳しく見分されている。
 ほとんど私が書く必要がないかもしれないが、上記のサイトで触れられなかった点を中心に、感想を書いていきたいと思う。
 上記のサイトによれば、そもそもどうしてアニメ監督である大友克洋が、実写映画なんかを撮ったのか?という理由の原因が分かる。
 私は、スチームボーイは最高の駄作だと思っている。あれだけ時間とお金をかけた作品が、脚本のために、大コケをしていると思うからだ。
 さて、原作の「蟲師」がヒットした作品であるこの作品。2007年に実写映画公開時には、すでにアニメ一期の放送は終わっている。つまり、アニメを鑑賞してから当然この作品をつくっているはずなのである。
 とすれば、いまさらアニメで同じ作品を作ったとしても、2クールのアニメ作品のまとめにしかなりえない。あるいは、アニメで触れられなかった話を取り上げるか、または、まったく新しい、オリジナル作品にするか、のどちらかしかない。
 そこで大友監督は実写にしたかったという元来の願いもあって、実写化したのである。ヒット作品の実写化は、最近ではずいぶん多くなったように思う。それまでまったく新しい作品をつくっていた制作会社たちは、不況のあおりをうけて、すでにヒットしている作品の他媒体での作品化しかしなくなったからだ。これでは新しい作品が生まれなくなってしまうので、そういう気風はどうかと私はつねづね思っている。が、製作者側がコケたくない、という理由もわかる。しかし、それでも、前にすすんでいかなければならないのだよ、と私はいいたい。
 さて、そんなこんなで実写化したわけである。
 実写化にはさまざまなリスクが存在する。特に、原作やアニメ作品が成功している場合、それが実写化したときに、元来のファンたちにとって、アレルギー反応を起こされる可能性が高いからだ。
 その点はどうだったのだろう。
 映画評をみていると、アニメもマンガも大好きで、という人の批評よりも、この映画をみて批評したという映画好きの批評のほうが多かったように感じられた。
 とすれば、アニメ、原作ファンたちからは、あまり相手にされなかった、というところだろうか。しかし、その反面、アニメ、原作に触れていない人達に、門戸がひらかれたという点では成功したといえよう。

 しかし、だ。そういう新しい客層を獲得することには成功したかもしれないが、映画そのものとしては成功しているか?といわれると微妙である。どの批評サイトも、大手で褒め称えているのはない。どれもかなり批判的である。
 実写映画としては、成功した部分もある。例えばこんな部分だ。
 「2006年第80回キネマ旬報ベスト・テンは、第1位が『フラガール』(06年)、第2位が『ゆれる』(06年)だったが、この2作品は、どの映画祭や映画賞でもトップを争った傑作。そして『蟲師』では、『ゆれる』のオダギリジョーと『フラガール』の蒼井優という夢の共演が実現!」
 あるいは
 「この映画の映像美のすばらしさは天下一品!冒頭のシーンは美しい山々を鳥瞰するシーンからだが、そこにポツンと動くものがあり、徐々にクローズアップされていくと、それは細い山道を歩いている母子連れ。このシーンを観ただけでも、この映画の重要な狙いが映像美にあることがすぐにわかるが、そのすばらしさはラストまで続くから、その点に要注目!」
http://www.sakawa-lawoffice.gr.jp/sub5-2-b-07-31musisi.htm
といった点である。
 どれもアニメは漫画では表現できない、実写ならではの強みはぞんぶんに活かせたようである。
 俳優陣も強固に固めてきているし、撮影場所も厳選された、いまだかつて日本の原風景を残している部分をきちんとおさえている。
 では、この作品がだめな理由は何か。それは、ストーリーの難解さであろう。
 アニメを見ていた私としては、それぞれのストーリーが前半では特に、忠実に原作をなぞっているなと感じられた。だからこそ理解できたのである。だが、アニメだと誇張されて描かれていたものが、実写だとなんだかわかりづらい。アニメだと蟲かそうでないか、というのは、表現でいっぱつでわかるようになっていた。しかし、実写だと、特に最初の阿吽などは、ただのカタツムリにしか見えず、どこが蟲なのか、とんとわかりづらかった。だから、アニメを見ていない人々にとっては、この作品はとてもわかりづらいのではないか、と思った。実際、映画を観た人々の多くはストーリーの難解さをこぼしており、ネットでこれだけの文章を書いているネット論壇の、かなりの頭脳の持ち主たちだからこそ、映画を解釈できたのであろう、という部分が大きい。おそらく、一般大衆的なこの映画を娯楽映画としか思って観ていない人達には、かなりハードルが高すぎたのではないかと予想される。
 そして、私自身も、もはやここまでサイトを経営していると、そのネット論壇の仲間入りなのだろうけれども、私ですらも、最後のぬいの登場が理解できなかった。
 そもそもアニメでは、ぬいはおそらく死んだか、消えたかしているのである。この作品では、沼の水を抜くというよくわからない装置を使用することによって、ぬいは生きながらえるが、原作、アニメのヌイは、そのような生に執着する存在ではなかったはずである。だから、ぬいは生き延びては本来ならないのである。ぬいは、同じ蟲師として、世界の道理をよく心得ているものであって、同時に固有の人生哲学を有しているはずなのであった。だからこそ、ぬいはかっこよかったのである。
 だが、この映画のぬいは違う。生への執着を諦められておらず、あのようなへどろまみれの姿になってでも生きながらえてしまうのだ。それはぬいではない。ここにこそ、私はこの作品の決定的な無茶が存在していると感じている。
 さて、しかし、実際映画はそうすすんでしまっているのだから、いまさらああだこうだいっても仕方ない。映画に合わせて解釈してみよう。結局生きながらえたとはいえ、ほとんどあの当時のかっこよかった蟲師としてのぬいは存在せず、蟲(トコヤミ)に身体を犯された存在として、ぬいは生きながらえるのである。
 最後にギンコはぬいから自分のなかに救っている「ギンコ」を駆使してトコヤミを追い払うわけであるが、しかし、もはや蟲に侵されたぬいは、蟲をうしなって、まともな人間でいられるはずはない。
 そこには、どうしてそうまでして生きながられなければならなかったのか、というぬいの必然性のようなものが感じられない。どうしても、ギンコに会いたかったのだろうか。だとすれば、一抹の悲しさはあるが、魂を抜かれたようなぬいは、それでもギンコを求める、というような描写もなく、どうも中途半端である。
 ラストの難解さは、どのサイトにも表れている。みな、意味が分からずに、ネットに書かずにはいられなかったのである。当然私もその1人であるが。
なかには
 「急ぎです。劇場版「蟲師」のストーリー???ネタバレ有りです。」と題して、Yahoo知恵袋でラストについて尋ねているものもある。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1115897906
あるいは、他にもラストのとつぜんさに驚きを隠せない評者もいたようだ。
http://www.eonet.ne.jp/~start/musisi-i.html

 ラストの難解さ、というか尻切れトンボというか、もやもやは、いいようもない。その点で、スチームボーイの
ストーリー展開と同時に、すでに大友克洋には、映画を面白く完成させる能力がないのではないか、と疑わざるを得ないのである。
 この作品は、アニメや原作をしらない人々が見て楽しめるものではない。むしろ、原作、アニメを鑑賞している者が補足的にたしなむというような方法でしか理解ができないからである。その点でこの映画は、映画として失敗しているというほかないのである。
 だが、先ほども述べたように、実写としての強い、媒体としての強みは成功している面もあり、その点において、この作品は十分に楽しめるのではない、というものである。

アニメ蟲師 一期 研究ノート

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蟲師を鑑賞している。すべての話にコメントをするのは体力的につらいものがあるので、割愛するが、特筆すべき点を羅列的に記していきたい。
蟲師とよばれる存在がいる。医者のような存在であり、もっぱら蟲に関係した仕事をする専門職人である。
片目である点など、どことなく、手塚治虫のブラックジャックを彷彿とさせる。おそらくブラックジャックからの影響もあるだろうし、と同時に、ブラックジャックへのオマージュもあることであろう。ブラックジャックがもっぱら現実的な命に対して現実的な処方、手術を施したのに対して、蟲師は、我々が生活している現世からは離れた、あるいはクロスオーバーしている浮世、あの世との交流を通じて、異世界に働きかける。
一話から三話は、特に特筆すべき点はない。蟲が人々に寄生し、蟲師がそれを駆除する、という単純な内容である。
ところが、四話目の「枕小路 」は、ややスタイルがことなってくる。この回はきちんと書いておかなければならないと思った。
というのは、これまでの話が、寄生、駆除、という単純なスタイルであったのに対して、今回の枕小路は、単純に駆除できない、というのである。これはいったいどういうことか。それまでの蟲は、例えば目や耳といった器官に寄生する蟲であった。しかし、今回は夢である。この夢というのがくせもので、夢は現実のものではないので、現実的な対処ができないのである。
それから、この回が他の回と異なるのは、最後まで寄生された人物が救われない、という点においてである。他の話では、寄生された人物たちには、それなりの救済がまっていた。ところが、この回では、寄生された人物は救われない。しかも、三度も救われないのである。
まず一回目。蟲師の処方箋をもらったにもかかわらず、救われることはなかった。荒廃し、1人残された彼のもとにやってくる蟲師。対策を考えているうちに、彼は夢を見はじめ、彼岸の世界とこちらの世界を結び付けてしまう。その媒体となる枕、その正体を見破った彼は、枕を切り裂いてしまう。が、それと同時に彼自身も傷ついてしまう。枕は、魂が宿る場所として、すでに彼と切っても切り離せない関係になっていたのである。ここで、話しが終わってくれれば、まだなんとかこの話はよかったよかったと、観終わることができたのである。しかし、だ。この話はここで終わらない。
直接は描かれないものの、夢を見なくなった彼は、その後自分というものを亡くしていき、ついには自分に刃を立ててしまったというのである。これは、蟲師のモノローグによって語られる部分である。が、なぜ彼は死ななければならなかったのだろうか。やはりそこには、自分の分身である夢を切り捨ててしまったというところに原因が求められるのであろうか。
とすれば、この人物の罪はなんだったのであろうか。彼に罪はなかったはずである。そして蟲師も作中述べているように、夢にも罪はない、その生をまっとうしていただけなのである。とすれば、これは、人間の生まれてしまった悲しみ、といった、生きる上で、夢をみてしまう、というそのもの、生きることそのものが罪である、というある種仕方のない部分を描いているのであろう。人間は生きるうえで、どうしたって他の動植物を殺して生きるほかはない。そうした生の悲しみ、罪といった類に分類される話なのである。人間は生きる上で、夢をみずにはいられない。そしてその夢は、人に害をなすものもふくまれてしまう。そうした夢と向き合い、共に暮して行かなければならなかったのである。
だが、そのわずらわしさから解放されたかった彼は、それを一刀両断してしまった。もし、彼に救いが与えられないのだとしたら、ここにこそその原因が求められるだろう。つまり、彼はそのやっかいなものと、死ぬまで一緒に付き合っていかなければならなかったのである。彼はいわば、自分の分身であり、生きる希望である、夢をたってしまった。それが害をなすから、ということで。その結果、彼は生きる希望や自分自身というものを見失って、ついには自殺してしまったのである。
なんとも救いようのない話ではあるが、この回だけ、とくに内容が複雑で、考えさせられる内容であった。

「露を吸う群」
そもそもこうした蟲師の不可思議な話は何を意味しているのだろうか。芸術に対して、これはなんですか?と聞くのは愚問であり、それはそれでしかない、という答えはもっともである。しかし、こうした一見すると不可思議な物語りになにか意味を見出すということも、時には必要なのではないか、あるいは、もしかしたら意味があるのではないか。
今回は、このような物語り仕立てにはなっていたが、それが示しているのは、比喩だと感じた。比喩、アナロジーを用いて現代を描写している。現代の何を描写しているかといえば、それは現代の時間間隔についてである。
今回、蟲に寄生されると、その人物は、ちょうど24時間ほどで、一生の始まりから終わりまでを体験することができるようになる。一度その濃密な時間間隔で生きてしまうと、その後人間の時間間隔に戻った際に、その時間間隔に耐え切れなくなってしまうのである。人間の時間間隔は長い。現在では平均80歳をすぎる程である。そのような時間を持った人間の時間間隔というのは、非常にゆったりとしたものであり、長大である。そのような引き延ばされた時間のなかでは、もはや、刻一刻は、ちっとも魅力的ではない。
それに対して、一日で最初から最後までが起こる時間間隔では、その時その時が、とても濃密であり、満ち満ちている。もちろん、本来ならば、その一日、24時間でその命は終わってしまうのであるが、なんと今回のイキガミと呼ばれる現象では、一日で一生を終えているのにもかかわらず、それをなんども繰り返せるというのである。毎日が一生分であり、それがずっとつづく。そのような特殊な時間間隔を体感してしまうと、もはや通常の時間間隔では生きていくことができなくなってしまう。
そして、この物語では、そのことをとても悲しく描いている。
さて、ここで現代について考えてみよう。我々は、普段忙しい、忙しいといいながら生活している。なぜ忙しいのかといえば、我々が生きている社会は、資本主義社会だからである。資本主義社会において、重要なのは、お金と時間。資本主義の社会では、時間をお金に換算して生きている。
イキガミの状態はまさにこの資本主義社会に生きる現代人であろう。それに対して物語の一般人は、資本主義になる前の人の在り方、農村時代の時間間隔だ。一度資本主義の濃密な時間を味わってしまうと、それまでに存在していた農村的なゆったりした時間間隔があまりにも遅すぎてついていけなくなってしまうのである。不安になり、何かをしていなくてはたまらなくなる。だからこそ、一度農村の時間軸に戻されても、再び資本主義の時間に立ち返ってしまうのである。
しかし、それは実は悲しいことなのではないか?ということで、この物語は、資本主義の時間軸に生きる我々への批判となっているのではないだろうか。

「やまねむる」
そもそもタイトルともなっている蟲師とはなんなのだろうか。
今回はギンコ以外の蟲師、ムジカが登場することによって、蟲師の正体が徐々に明かされていく。
蟲師には、蟲師について修行することで蟲に対する知恵、知識をつけ、それに対応することができるようになるらしい。この回で登場する少年は、ムジカの弟子を名乗り、蟲師の技をいくつか披露している。
もちろん、センスのようなものがあるのだろう。誰もが医者になれないように、蟲師はわずかな人間しかなれないのだろう。
ギンコと同様、蟲を呼び寄せてしまう体質であったムジカは、一所に定住することはできない。すれば、蟲の巣窟となしてしまうからである。では、その蟲を呼んでしまう体質の蟲師が一所に定住するにはどうしたらいいか。山の主となって、その地一帯を支配下に置いてしまえばいいというのである。もちろん、それは一つの選択肢を示しただけであったのだけれど、ムジカを好いたサクという女性が、その話を鵜呑みに死、山の主を殺してしまう。その結果山の主となったムジカ。
しかし、彼は自分の死期を悟ったのか、あるいは生きることに疲れたのか、山の主であることの辛さに耐え切れずに、山の主であることを放棄することとなる。しかし、里の民を心底心配しているムジカは、次の山の主を決め、その地一帯をおさめなければ気が済まない。当初弟子である少年をというそぶりを見せていたものの、山の主の役割は重く、それを少年に引き継がせるわけにはいかなかった。であれば、山の主は、本来の蟲たちに戻すのが正道。白蛇を呼び寄せることによって、自分の命と引き換えに、山の主を交代することにした。
この回からわかるのは、蟲師が業深き生業であることである。

「眇の魚」
蟲師をここまで鑑賞してきて、この作品がまったく明るくないことがわかってきた。123話あたりまでは、寄生された人物たちが最終的には救われて一応のハッピーエンドにはなっていたものの、徐々にそれは影をひそめ、最終的にバッドエンドと呼べるような展開のものも多くなってきた。
特にこの「眇の魚」では、まったく根本的な解決はなされず、ただ淡々と事象が展開していくだけである。まさか最終的にまで、なんの解決も示されないとは思わなかった。こういう読者を突き放した態度というものも、ひとつ、大衆に迎合する作品が多い中で、批判的スタイルとなっているといえるだろう

「沖つ宮」
人にとっての幸せとは何であろうか。
蟲師は静寂をたたえたアニメである、ということができるのではないだろうか。蟲師は何かに熱くなったりはしない。それは感情を通すことによって、真実が見られなくなってしまうから、ということもあるだろう。蟲師は誰かの味方をしない。情に流されれば、この世界をいくらでも変えてしまう力をもっているが故である。力をもっているがゆえに、すべてを自然の流れに任せる。その流れが不自然になった時だけ、力を駆使して、もとの流れに戻す。それが蟲師の仕事なのであろう。
蟲師は、つねに蟲を駆除するわけではない。人間に悪さをする蟲を駆除することはあっても、自然と生きている蟲を殺したりはしない。もちろん、そういう蟲を殺す蟲師の存在も、蟲を退治した話を記録する少女が登場する回で描写されたりはする。
しかし、キンゴに関していえば、彼は蟲を駆除することを第一の目的としているのではない。彼はできうることならば、非暴力で解決したいという、ガンジーのような、あるいはスターウォーズのジェダイのような存在なのである。
沖つ宮では、取り込んだ生物を、胚にまで戻すという作用をもつ蟲が登場する。
その習性は、里に住む人々のなぐさめとなっている。死者をそこに持っていけば、ふたたびその人物と同じ人物を産むことができる胚にして戻してくれる。里の人々は、死にゆくものの悲しみと、残されるものの空白を埋めるために、その蟲と相互依存して生活しているのである。
キンゴは、この強力な蟲を駆除しようとはしない。たとえそれが人間の律に反したことであったとしても、それが人々と、そして蟲にとって困らない関係であったのならば、両者が幸せでいられるのであれば、それはそれでいい、と見逃してしまうのである。
キンゴが歪んだ正義感のようなものを持っていたら、この作品は、より大衆的になり、わかりやすい物語になっていたことであろう。
しかし、この作品はそうしたわかりやすさや正義感というものに囚われずに、ほんとうのところは、ぎりぎりでよくわからないのだ、という前提に基づいているために、大衆的ではなくなったが、作品の深みは増しているのである。

蟲師 一期 総評
蟲師をみて、その独特の世界観にたっぷりとひたることができた。
古くから日本には八百万の神がいる、という。このアニメーションは、近代文明の開化によって失われてしまった日本の原風景のようなものを描き出しているのではないだろうか。
もちろん、こうしたアニメーションが生まれているのは、文明であり、それは自己矛盾といえなくもない。原発に反対しているジブリ映画が、その原発によって生み出された電気でアニメを作っているのと同じように。このアニメで描かれていることは、このアニメをみている都会っ子には本質的には伝わらない。しかし、それでもなお、ここで描かれていること、自然との共生を訴えずにはいられないのではないだろうか。
このアニメを見ていて、こんな感想に出会った。

「昔風の山里の風景、生活・・・懐かしく思える。
子供や女性の顔も穏やかで癒される。今時のきつい眼つき表情とはまるで違う。
不思議な世界に引き込まれる。」
「第1期 看破したわ。やっぱいいね。懐かしい気がします。こんな山少なくなったね。蟲は見れないけど 気配はあるように思いますわ。」

民俗学者、文化人類学者風の様相をしているギンコ。確かに、自分達人間とは異種のもの、異世界のものと対峙するとき、ギンコはああいう格好になるのかもしれない。あるいは、作者自身が、異世界のものに対峙する人間として、民俗学者や文化人類学者を思い浮かべたからああいう格好になったのだろうか。
時代ははっきりはわからない。そもそもギンコが何人なのかもわからないし、なぜ白髪なのか、なぜ片目を失っているのか、26話のなかで明かされることはない。(後から見直して、ヌイとの話が、ギンコの小さいころの話であったことがわかった。ギンコはトコヤミに呑まれたために片目を失い、髪が白くなり、それ以前の記憶を失ってしまったのだ)
だが、他の登場人物たちが着物をきている様子をみると、江戸時代あたりの話なのか、と予想がつく。ギンコが時たま使用する道具類も、江戸時代中期から後期にかけて存在していたようなものだ。
ただ、江戸時代にはギンコが着ているような服装は輸入されてはきていない。そうした点で、現実世界の時間軸にこのアニメを無理やり組み込もうとするのは、あまり意味が無いように思われる。
大体時代としては、江戸から明治あたりの話で、我々が生きているこの世界とは異なった世界の話として理解するほかないだろう。

このアニメをみて、多くの人は自然を思い浮かべることだろう。それは先に引用した感想からもわかる。この場合の自然とは、文明と相対するものとしての自然である。人々は自然の驚異にさらされながらも、自然との共生を通じてたくましく生きている。もちろん文明に守られていない分、自然の強さに負けて、命を落とすものもたくさんいる。しかし、そうした悲しみを含んで、自然のなかで人々は生きているのである。
そうしたつねに死、という自然と向き合って生きている人々というのは、怒らない。文明は確かに人々を死という自然から遠ざけはしたが、しかし、人間はどこまでいっても、自然なのである。必ず死ぬのである。死という自然を遠ざけることによって、文明の中で我々は無意識のうちに不死というものを信じるようになる。そこで突如として頭をもたげる死。現代の人間はこの死にきちんと向き合うことができなくなっている。また、自然災害などの理不尽なものに対する抗力がなくなってきているのである。
このアニメを見ていると、文明というものとは遠く離れた、まだ我々が自然と共生していたころのことを学ばせられる。人々は不条理と向き合い、たくましく生きている。どんなに自分の親が死のうが、自分の子供が死のうが、自分のパートナーが死のうが、そこに描かれた人々は、自分の生をまっとうせずにはいられないのである。強いな、と私はこのアニメをみて思った。
現代人が忘れてしまったものを、このアニメは描こうとしたのではないか、そのように感じる。


百田尚樹 『永遠の0』 感想とレビュー 特攻隊とテロリスト

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 「今、百田尚樹」という帯のキャッチコピーに対して、「今更、百田尚樹」
 いかんせん、私自身が左翼的な人間なので、どうしても安倍晋三と仲の良い、右翼的な作家である百田尚樹のことは、嫌厭してきてしまったという点がある。1人の人間であればそれもまあ別になんということもなかろうが、仮にも文藝批評家を自認する私である。そういう人間が、特定の偏った思想を持ち、また特定の偏った思想を持っている人たちのことを忌避していてはいけないのではないか、と思わずにはいられなかった。というのも、きちんとどんなに名作と呼ばれていようが、あるいはいいものとされていようが、自分で確かめなければだめだよ、ということを授業で私自身が教えているからである。ちなみに、川上未映子の『ぐうぜん、うたがう、読書のすすめ』という教材で、である。
 今回は原作に触れてみた。
 まず私が『永遠の0』と触れ合ったのは、映画版であった。劇場ではなく、確かレンタルか、地上波で観た記憶があるので、2014年ごろだったと思う。
 その当時みんながみんな、『永遠の0』と言っていて、一つのブームとなっていた。私は常にブームには乗っからない人間で、いつも少し離れた立場からものごとを見ている人間である。だから、この時も、劇場に足を運ばす、少し熱が冷めてから見たという感じがあった。友人のなかにも、この映画に感動した、というのが何人かいた。ほぼ同時期に公開されたジブリ映画の『風立ぬ』で号泣してしまった私は、感動ものと聞いて、またこの映画でも泣けるのではないかと期待していた。ところが、実際に映画を観てみると、ちっとも感動しなかったのである。
 原作を読んでみて、改めて私はまったくこの作品に感動することがなく、不感症なのではないかと、自分のことを疑ってしまうくらいである。だが、感動しなかったものはしかたがない。他の作品に感動することはあるので、私自身が不感症ということではなく、単に相性が悪かったということなのだろうと考えておく。

 ただ、発見もあった。
 私がこの本を購入したのは映画がブームになっている最中のことであったろうと思う。この本自体は2006年に発売されているので、かなり古い本ではあるが、それがブームになったのは、ここ二三年の話であろうと思う。私もブームにのって買うことには買ったのである。ところが、しばらく寝かせておいた。
 私には、仲の良い研究者の飲み仲間の先生がいるのだが、この先生が、先日この作品を、私と同様忌避していたのだが、あるきっかけがあって読んだといっていた。ふと、私も先生とこの作品について語りたくなったので、読んでみた、ということである。
 実際に読んでみて、私自身は百田尚樹のことが、どうにも好きになれなかったのであるが、これを読んで、まあまともな作品を作っているな、という感じは受けた。それまでの百田尚樹のイメージはひどいもので、安倍晋三のことが好きすぎる右翼作家としか思っていなかった。そういう人間が書いた作品なのだから、当然作品にも、それなりの思想的に気持ちが悪いと反応せずにはいられないところがもっとあるだろうと思っていたのである。
 だが、実際に読んでみて、嫌悪感とよべるようなものはそう感じることはなかった。あくまで全体に対しては、ということであるが。
 本筋であるゼロ戦で戦った人間、特に特攻をした人達の心理描写、という点においては、非常に決然とした態度を作家がとっており、中道的な立場からの物言いになっていたのではないかと思う。この点に関しては、見事だと思った。私自身小説を書いたりするが、なかなかこのような書き方は難しい。私ならば、もっと感情があらわになってしまうような文章になっていただろう。百田尚樹は、人間百田尚樹としては、かなり右翼的な人間に見えるのに対して、作家百田尚樹は、作品のなかでは、そうした思想上のものはあまり開陳してこなかったのである。その点に関しては少し共感を覚えることができた。
 ただし、だ。もちろんこの作品に欠点はある。本筋がしっかりしているので、許してあげたいところではあるが、しかし、それでも欠点はある。
 1つめの欠点は、やはり姉慶子の仕事先の上司であり、後に結婚するのどうのともめる高山隆二の存在である。彼がどこに勤めているのかは、本文中のなかには明示されないが、おそらくは朝日新聞社であろうということが判明する。
 その前に私自身の立場を示しておくと、私は左派的な人間であるし、左翼を自認するが、しかし朝日新聞社は嫌いである。のみならず、新聞自体が嫌いである。当然テレビも嫌いである。そういう立場であることを先に断っておく。だから、私は自分が好きな朝日新聞社が攻撃されているから、という理由で憤るのではない、ということだ。
 それにしても、である。いくら百田尚樹が朝日新聞を嫌おうがなんだろうが、この高山の描写にはあきれ果てるものがある。陰湿な女子中学生が書いた嫌がらせ文のようである。高山は特攻隊員は現在のテロリストと同じである、と豪語する。確かに天皇や神を信じ、それに対して自らの命をよろこんでささげる、という点において構造は同じのように見える。実際私もこの作品を読む前は、そんなに区別がつかなかったのであるが、それは違う、と作者はあるいは、特攻隊だった人々は言うのである。
 そこの論理は明確で、誰もが自らよろこんで特攻をしていたわけではなかった。軍部の人間がいけないのだ。途中から特攻はなんということもなく、命令として行われていた、ということが陳述される。だから、特攻隊を現在のテロリストと一緒に考えるのは、特攻隊員に対して失礼であるということは、この作品を読めばよくわかるのである。そして、この作品のテーマは何かというと、まさにこの部分、特攻隊員は取れリストたちとはまったく違う、ということなのである。
 私もこの部分に関しては共感する。彼等がテロリストと一緒にされてしまうのは、あまりにも悔しい。その点では、確かに私は左翼の人間だし、反戦主義者であるし、戦争を嫌っているが、彼等の精神性がテロリズムのそれとは一緒であるとは、思わない。この点において私はこの作品がまともであり、すごいなと思ったのである。文庫本で600頁に近い小説としては長い方に属するこの本であるが、この本であらわしたかったことはといえば、まさにこのことに尽きるのではないかと思う。

 もちろん、テロリストたちとの違いを明確にするためには、高山のような人間を引き合いに出さなければならなかったのはわかる。しかし、それでももう少し書きようがあったのではないか、と感じ、この部分は欠点ではないかと、指摘して置く。
さて、さらにだが、この小説は、過去をめぐっての物語である。各章、それぞれの登場人物が宮部久蔵についての思い出を語り合う。小説の8、9割は宮部久蔵に関する、過去の陳述なのである。残りの、1,2割がその過去の物語を聴いている現在、2004年現在なのである。
 過去の物語に比重が置かれているのはいいが、その反面、現在があまりにもおろそかになっている、という点はいなめないと思う。
 ここまで過去をしっかりと書いた作者なら、もう少し現在に配慮してもよかったのではないかと思ってしまうわけである。この作品において、「現在」は極めて微妙に描写されてしまっている。中途半端なのである。
 この小説は、宮部久蔵の真実の物語が解き明かされていくのと同時に、現在における、主人公二人、司法試験に落ち続けてうらぶれたニートになっている佐伯健太郎と、結婚相手をどうするかで悩んでいる佐伯慶子の問題が解決の方向にすすむようになっている。
 だが、である。会ったこともない祖父の話を聞き続けるということを通じて、そんなに人間が簡単にかわってしまっていいものなのだろうか?という疑念が残る。実際この小説では、見事に万人が「よかったね」と思えるような恰好で、健太郎はもう一度司法試験をめざし、慶子は結婚相手に高山ではなく藤木という男を選ぶのであるが、それはあまりにも軽薄すぎないか、と思われるのである。そういうことを描くのだとしたら、もう少し描写をしなければならなかったのではないかと私は思うのである。あまりにもこの部分がご都合主義的な感じがして、薄さ、軽さを感じてしまうのだ。
 私が指摘したのはこの部分である。どうせこんな風に適当な感じになってしまうのであれば、いっそ何も書かなかった方がすっきりし、作品に軽さも生じなかったのではないかと思うのだが、どうだろうか。

 最後に、やはりこれだけは指摘しておかなければならないのは、そうはいっても、この作品は戦争をやや美化してはいないか?ということだ。
 特攻隊員がテロリストたちとは違う、ということはよくわかった。それが仕方なかったことであり、そのなかで男たちは見事に死んでいったのもよくわかる。しかし、それがこの作品を通じて、まるでよかったことのように見えはしないか、そういう日本人の精神性が素晴らしかった、過去を見習え、みたいなことにならないか、という思想上の問題が残るような気がするのである。
 2014年は特に、2012年最後から発足した安倍内閣の隆盛期であり、ナショナリズムが高まってきている時にあった。そのなかで、もう一度日本という枠組みを強化させ、融和ではなく、対立を以て諸外国と向き合おうという流れのなかに組み込まれているのではないか、あるいはこうした作品がそういう流れを作り出しているのではないか、ということが心残りである。

アニーの幸福論 資本主義を越えて

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―本当のアニーがここにある―

 アニーと聞けば、「トゥモロー、トゥモロー」というリフレインが印象的な、古典的なミュージカル作品が思い浮かぶ。貧しかった少女が、世界一お金持ちウォーバックスの養子になる、ハッピーエンドの物語だ。
 今回私が読んだのは、2014年発売の、トーマス・ミーハン著、三辺律子訳の本だ。トーマス・ミーハンは、ハロルド・グレイの新聞連載漫画『小さな孤児アニー(Little Orphan Annie)』をミュージカル化する際の脚本家だった人物だ。1929年生まれ、と裏表紙に書いてあるが、そのミーハンが、脚本のための戯曲ではなく、小説として出したのがこの本である。あとがきは2013となっており、齢80を超えた往年の脚本家が書いたのかと思うと、それだけで感慨深いものがある。
 さて、ミーハン自身もあとがきで述べているように、アニーはミュージカル作品である。であるからして、どうしても時間に限りが出てきてしまうのだ。ミュージカルという限られた時間のなかで作品を終わらせなければならない。ミュージカル作品には、常にそのような制約がかかってしまう。ミーハンはアニーをどうしても小説化したかったのである。それは、ミュージカルで省かなければならなかった部分、しかし、本当のアニーを理解するうえでは必要不可欠な部分があったからなのである。
 私はアニーを1982年のコロムビア映画版でしか触れたことがない。その時には、単純に資本主義を批判的に見ているな、というくらいしか思わなかったが、小説版に触れてみると、さらにアニーの心理など、きめ細かいところまで作品を理解することができる。

 まずは映画版アニーにも受け継がれている、資本主義への眼差しについて。
 やはりアニーは、幸福論を語っていると私は思うのだ。そのなかでも、貧しさと裕福、という二つの両極端の状況が描かれる。一見するとこの作品は、貧しかったアニーが大金持ちのウォーバックの養子になり、お金持ちになる、という成功譚のように見えてしまう。しかし、アニーが幸せになったのは、お金持ちになったからなのだろうか。もちろん、アニーが貧しさから離れることによって幸せになったというのはありうる。だが、ウォーバックはどうであろう。彼は大金持ちであったが、幸せであったとは述べていない。それどころか、アニーに巡り合ってから彼は、常に「私には何かかけたものがあった、それはアニーだ」と述べているように、欠損を抱えて生きて来たことが受け取れる。
 『アニー』が提示するのは、単純な公式ではない。貧しい=不幸、豊か=幸せ、ではない。そして、貧しい=幸せ、豊か=不幸、という図式でもない。アニーが貧しい時の状況は、確かにアニーはその心の持ち方によって、明るく振る舞ってはいるが、幸せといえる状況ではないだろう。実際アニーもその苦痛から逃れるために、何度も脱走を図っているのである。ここには、わかりにくさがある。
 だが、一端豊か、貧しい、という二項対立から離れて見ると、わかりやすくなる。人間は貧しく辛い状況ではなく、ある程度の生活水準にあれば、金銭的な問題ではなく、いかに他者と生きていくかがその人の幸せにつながるのである。そういうことが描かれているのではないだろうか。だからこそ、本当の両親を探し続けるアニーは、いつまでも両親を欠いているために不幸せである。そしてウォーバックも、金銭的には恵まれているが、人間的に欠けているため不幸せである。
この二人が初めて出会い、そしてお互いの欠損を埋め合うことによって、二人は幸せになるのである。
 ある意味まっとうで中道的な幸福論である。だが、そんな幸福論なら、これほどのお金持ちを出さなくても、他者と居れば幸せ、ということを描けばよかったのではないか、という疑問も起こる。しかし、この作品ではそうではなくて、実際に世界一のお金持ちを引き合いに出しているのである。ということは、何故出したのか、ということを考えねばならない。やはりここには逆説があると考えたほうがいいだろう。すなわち、世界一のお金持ちでさえ、その状態では幸せになれない。家族、寄り添える他者あってこその幸せなんだ、ということを示したかったのであろう。だからこそ、世界一のお金持ちでも、幸せではない、ということを描写したかったのではないだろうか。そしてそれは、痛烈な資本主義批評になってはいないだろうか。

 さて、アニーだが、この作品を読むと、あるいは見ると、既視感のようなものを感じる。それは、この作品がある意味で王道、すなわち物語の定型をとっているからであろう。だからこそ、この作品は安定しておもしろい、ともいえる。だが、一方で、例えば『オリバー・ツウィスト』や、『メリー・ポピンズ』、あるいは、貧しいところから一転して豊かになる、という物語展開においては、『シンデレラ』と類似しているという問題もある。
 作者自身も、『オリバー・ツウィスト』の影響を受けていると述べている。この作品が作られた1900年代前半において、すでにディケンズは古典となっていたのであろう。だから、物語の内容は似ていても、新しく作り直すことの意味はあったように思う。
 では、シンデレラとの類似点はどうだろうか。シンデレラ並びに、ディズニー作品は昨今鋭い批評の眼差しを向けられている。そこには極めて歪められた、古典的な男女観というものが存在しており、しばしば、登場する女性は、王子様の到来を待っているだけ、自分からは何もせず、ただ耐えるだけ、それが美徳なのだ、と教えるようなイデオロギーが発生している。そうした歪められた価値観が、フェミニズムが広まった現代の価値観からすると、疑問符を抱かざるを得ない読後感をもたらすのだ。シンデレラを見ていて、なんだかすっきりとしないのは、シンデレラ自身が何も主体的な行動をしないからなのである。
 では今回はどうだろうか。貧しい少女がその美徳によって豊かな人物に救われる、という点において物語は類似している。しかし、私はこのアニーを観た際に、読んだ際に、不思議とさわやかな読後感を覚えずにはいられない。それはなぜなのだろうか。やはりそれは、アニーがシンデレラとは異なり、自ら考え、行動している、主体性に求められるのではないかと思う。
 映画版ではなかなかわかりづらかったのであるが、小説版では、きちんとアニーが孤児院を抜け出し、ウォーバックに出会うまで一年間も自分の力で生きていたことが克明に描かれている。ミュージカルや映画では残念なことにこの部分が大幅にカットされてしまっている。だが、本当のアニーをしるためには、まさしくここが必要なのである。アニーは自らの手で自らの人生を、運命を切り開こうとする主体的な人物なのだ。だからこそ、そうした努力が最後には報われる。そこに我々は、ああよかった、という安堵に似たようなものを感じるのではないだろうか。だからこそ、我々はシンデレラには感じられない開放感、勇気、明るさ、といったものをこの作品に感じられるのである。

 とまあ、ここまでは誰もが書けるようなことを書いてきたわけであるが、最後に追加するとしたら、私ならこう言うだろう。それでも物語が作られたのが古すぎたのか、やや勧善懲悪にすぎる、と。
 ほとんどの読者はアニーに感情移入するだろうか。私もある部分ではそうした部分もあった。努力をし、それが報われる、という点では、我々は否応なしに、アニーに勇気づけられるはずである。だが、アニーは明るすぎるように私には感じられてしまう。それは私自身が暗い人間なのだからであるが。むしろ、私は、アニーよりも孤児院を経営しているミス・ハニガンの方に肩入れしてしまう。私自身、このような時代に生きていたら、ハニガンのようになったであろう。そうして、何も面白いことがないなかで、自分達より弱い存在をいじめることしかできない、その感覚もよくわかるのである。
最後に近い場面で、ウォーバックの屋敷でクリスマスパーティーが開かれる。そこに招待する客をアニーとウォーバックは相談する。その際、ウォーバックは、ハニガンも呼ぶべきだ、彼女のことを許してやらなければねと言う。私はそこに救いが、この作品の余裕があるかと思っていた。ところが、最後になって、ダニエルたちが逮捕される場面で、ハニガンも共犯者として連行されてしまうのである。
 私はその点、ダニエルとよく似た登場人物である、『レ・ミゼラブル』のティナルディエ夫婦が、最後まで裁かれることがなかったのはまだ救いがあると感じる。貧しい世の中では、人間は生きるのに必死で、善悪の境があやふやになってしまっていることを捉えているとして、『レ・ミゼラブル』のほうに軍配をあげたい。『アニー』も爽快で悪くはないのだが、ついつい私のような人間にとっては、悪者がこてんぱんに断罪されてしまうのは、つらいところもある。そこは、許容できなかったこととして、この作品の狭さになってしまっているのではないかなと思う。

 だが、だからといってこの作品の価値が下がるかというとそんなことはない。
 作者も述べているように、この作品は時代のどん底で生まれた。だからこそ、これから先には必ずいいことが起こるはずだ、という明るい視点をもって、明るく生きていけるのだ。その勇気を人々に与える存在として、アニーは永遠に人々に記憶されるだろうし、人々を勇気づけるだろう。

恩田陸『ライオンハート』 感想とレビュー

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 本との出会いは不思議なものだ。一年に百冊程度は読む私であるが、しかし、読めば読むほど、世の中では、もっと早いペースで本が発売され、とてもその全貌を、何年生きようとも掴むことはできないな、とあまりにも大きなものに対した時のような、軽い絶望感を覚える。
 そんな私であるが、ここしばらくは新書をずっと読んできた。いずれ書こうと思っているのであるが、私の進退に著しい変化が起こり、現在では横浜よりもさらに南のとある学校で教鞭をとることになっている。それはいいとして、問題なのが、その遠さなのである。片道2時間弱、往復で3時間以上はかかっているこの通勤の時間。私はこれが最初苦痛でしょうがなかったのであるが、そこは割り切って、というか発想をかえて、それだけ読書する時間が与えられたのだという風に解釈するようにした。
 さて、そんななかでずっと新書ばかり読んでいたのであるが、しばらく新書が読みたい!と思って読んでいると、流石にそれも疲れてくるものなのである。何か時にはあんまり頭を使わないで、楽しめるものが読みたくなる。そんなときに、ふと古本屋で手に取り、そして積本のなかに置いていたこの本に、ふと手が伸びたのである。

 この本は、私がこの本に何かしらのシンパシーや運命といったものを感じたように、まさしく「運命」について書かれた本である。
 これは、読んだ時にはっとしてしまったのであるが、実は私も、輪廻する時間のなかで巡り合う男女、というものを書こうと小説の構想をねっていたのである。だから、本書を読んだ時には、やられた!と思わずにはいられなかった。だが、私には私なりの良さがあると思うので、そこは恩田先生に負けないようになんとか、将来書いてみたいと思っている。
 さて、それはいいとして、この本がおもしろいのは、時間系列がめちゃくちゃな点である。
 私自身、輪廻する時間のなかで男女が何度も巡り合い、恋愛をするという小説を書こうと思っていたのであるが、それはこんな風に展開する予定だった。神代の時代の恋愛、平安時代の恋愛、武士時代の恋愛、江戸時代の恋愛、明治時代の恋愛、昭和時代の恋愛、平成時代の恋愛、こんな風に時系列順で、なんども巡り合う男女を描こうと思っていたのである。まあ、ある意味平凡といえば平凡なのだ。誰もが発想できる展開である。
 ところが、そこは流石は恩田先生である。なんとこの小説では、時系列は無視されている。1978年が舞台となったかと思うと、1932年に飛び、ついで1871年、その次はちょっと戻って1905年、そしてついには1603年にまでさかのぼってしまうのである。
 通常過去の記憶を持っている、というのは考えられることではあるが、この小説では、1603年時におけるエドワードとエリザベスは、1978年の現在にまで起こった、さまざまな邂逅、出会いの記憶を共有することができるのである。そういう意味で、この小説は、時間軸や、タイムリープものの、常識、というか概念のようなものを無視してしまっているということが出来よう。
 私は、タイムリープものを評論するときに、その整合性についてああだこうだというのはあまり好きではない。現実にタイムリープが存在しないことにおいては、いくら論理で行っても意味がない、というのも一つだし、そもそも作品なんだから、という感覚もある。そういう一面を持っているものの、しかし、あまりにも整合性が取れていない作品などがあれば、それは矛盾していると糾弾せずにはおられないのではあるが。
 だが、この作品は、最初から一直線に伸びるような時間軸の前提に立っていない。時間軸は、歪曲し、ねじれ、線上ではとらえられなくなっている。そのような前提に立てば、未来から過去に、過去から未来に縦横無尽に駆け巡ったとしても、その記憶を保有することができるのかもしれない。この小説にはそういう意味で、いままでのSFの「常識」のようになってきたものを、破壊し、再生産するだけの力があったということができるだろう。

 また、この小説について評論するうえで特筆したいのは、この作品の絵画性である。私は文庫本を読んだのであるが、紙が一般の文庫本と比べて、厚く、上質なのである。なぜなのかな、と思ったら、それは途中、それぞれの章立てで、絵画の写真を入れたからであった。通常のぺらぺらの紙だと、上手く印刷できなかったのだろう。それゆえ、この小説は、他の作品と異なり、上質な紙が使用されている。
 通常の小説に、このように絵画などが引用されることはあまりない。それゆえに、ここで引用されているそれぞれの名画は、実にこの小説に彩を豊かに与えてくれる。

 恩田陸の作品は、『夜のピクニック』しか他に読んだことがないが、これから少しずつ彼女の作品を読み解いていきたいと思う。

『オーディーン 光子帆船スターライト』(1985) 感想とレビュー

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 私にとって80年代のOVAやアニメ映画作品は、大切なものである。もちろんそのなかには玉石混交、いいものも悪いものもある。
 この作品は残念ながら石のほうに属する作品かもしれない。もちろん、作者たちの熱意というものは伝わってくるし、それなりにお金と労力をかけた大作だったということはわかる。しかし、主に脚本の面においてこの作品は消化不良を起こしているといわなければならない。
 そもそもこの作品はテーマが不明確なのである。
 一応は冒頭で客船がなにものかに襲われ、その謎を解き明かすという形で物語は進展していく。徐々に解き明かされる謎。地球人以外の知的生命体が存在するかもしれない、というSF展開に当時の観客たちは手に汗握ったことであろう。
よくわからないままに、本船スターライトは襲われる。何度かの交戦や、難破船のデータ情報から、かつてオーディンという星があったことが判明。その星になんとかたどり着いて、そこに住んでいる人々のことを知りたいという話になる。
しかし、いずれもなんだか稚拙な感じが否めないのである。
 若い人々が奮闘するというのはいいかもしれない。しかし、それも今現在の冷めた若者である私が見ると、やや「イタイ」と表現せざるをえない状況だ。普通こうした青年の熱気というようなものは、なんらかの挫折を見るものである。しかし、この作品では、製作者たちも当時若かったのかもしれないが、それが全面的に肯定されていってしまう。船に乗り込んでいる老人たちが本来は彼等を統括、統一していくべき存在であるが、ここでは逆に、よき理解者として振る舞ってしまうのである。そこにややご都合主義的な感じを覚えてしまうのである。
 それに、スターライトが単独で地球からの帰還命令を無視できるわけも、本来ならばないのだ。航海当初からあまりにも命令無視を繰り返しているスターライト。その責任は、艦長の首がふっとぶどころでは終わらないとシリアスな私は感じてしまう。
 この作品は、シリアスなように描いていて、かなりのコメディなのかもしれない。そうと捉えなければとうてい理解不能な作品である。例えば「ナデシコ」のような、ふざけた作品である、と解釈しない限り、この作品を正統に評価することはできないのかもしれない。
 そこには、当時の製作者たちの若気の至りのようなものも含まれる。80年代を実際に生きたことがない私であるが、数々のアニメや映画、文芸作品を見てきて、80年代には、妙な熱気のようなものを感じる。それはいまだに経済的にも右肩登りの上昇をしていたころであるし、社会全体に力がみなぎっていたからなのかもしれない。
 この作品は良くも悪くも、その社会の妙な力を受けてしまった作品だということもできるだろう。全体的にテンションが高く、ヤマトやガンダムのようなシリアスな作風を受けて育った私には許容できないものがそこにはあるのである。もちろん、それは70年代後半の世代に対する、80年代当時の若い人達の反抗だったのかもしれない。

 この作品では、あまりにも無茶な戦闘を繰り返した後、結局、オーディンにたどり着くことなく映画は終わってしまう。この映画自体、この年代のOVA,アニメ映画と比べるとかなり長い方に属する。二時間を余裕で越えている作品である。そのような作品が珍しいなか、大作なのである。だが、それだけ時間を割いているにもかかわらず、結論まで到達しない、というのは、あきらかに要領をオーバーしているのだ。どこかをけずらなければならなかったのかもしれない。
 これだけ無茶な戦闘を繰返して、挙句の果てにその結論は先にある、という終わり方では読者も納得ができないだろう。この作品の評価が低いところは、そうした読者の要望にこたえられなかった点にあると私は思う。

月別鑑賞録5-6月分

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月別鑑賞録 6月
総評:5月は、初めて仕事をしていたということもあり、その反動でものすごい作品を鑑賞することになった。普通仕事をしていれば、それだけ時間をとられてしまうということなのであろうが、ストレスの反動があり、自分はこうではないのだ、本来はこうあるべきなのだ、という気持ちからやけくそに作品を鑑賞していった時期であった。暴飲暴食を食べ物ではなくて作品でやってのけた、といった感じだろうか。映画も20本近い勢いのある鑑賞であり、読書も毎日の4時間の往復通勤の時間に費やされた。
しかし、やはり4時間もの往復というのは人間のこころを極めて蝕むものがあるようだ。私はものすごいストレスにかこまれて、たった二ヶ月で会社に行けなくなってしまう鬱状態まで追い込まれてしまった。
仕事を辞めた六月は、ただ何をする気力もなく、ただ茫然自失として死んでいるように生きているだけであった。六月も後半になるとすこしは元気がでてきたものの、やはり外出するのがひどく億劫で、おそらく恐怖心もあると思うが、むずかしいのが現状である。
が、六月前半私をささえてくれたのは、軌跡シリーズのゲームであった。『英雄伝説 零の軌跡』(2010)『英雄伝説 碧の軌跡』(2011)の二つのゲームはその多彩な物語りから、私をなんとか立ち直らせるにはいたらないが、かなり回復の手伝いにはなった作品であると思う。
それからようやく仕事をやめて時間をつくることができるようになったので、一日にアニメを1シーズン、12話は鑑賞するようにしようという日課を始めた。世の中にはあまりにもアニメが多すぎて目が回ってしまうくらいであるが、なんとかしてアニメの世界にもそれなりの地図がひけるようにがんばりたい所存である。

書籍
小浜逸郎『なぜ人を殺してはいけないのか 新しい倫理学のために』(洋泉社、2000)
小林敏明『精神病理からみる現代思想』(講談社現代新書、1991)
志村史夫『文系?理系? 人生を豊かにするヒント』(ちくまプリマー新書、2009)
関口尚『プリズムの夏』(集英社文庫、2003)
由良弥生『大人もぞっとする初版グリム童話』(王様文庫、2002)
ジョージ・G・ロビンソン、越前敏弥・ないとうふみこ訳『新訳 思い出のマーニー』(角川文庫、2014)
中島義道『「哲学実技」のすすめ―そして誰もいなくなった・・・』(角川oneテーマ21 (C-1)、2000)
竹宮惠子、内田樹『竹と樹のマンガ文化論』(小学館新書、2014)
レイ・ブラッドベリ(著), 宇野 利泰 (訳) 『華氏451度』(ハヤカワ文庫SF、1975、2008)
ダン カイリー (著), 小此木 啓吾 (翻訳)『 ピーター・パンシンドローム―なぜ、彼らは大人になれないのか』 (祥伝社、1984)
貫井徳郎『慟哭』(創元推理文庫、1999)
五木寛之・香山リカ『鬱の力』(幻冬舎新書・2008)


アニメ・OVA
『だから僕はHができない』(12話)
『未来日記』(26話、+OVA1話)
『さんかれあ』(12話)
『ロザリオとバンパイア』(12話)
『一番後ろの大魔王』(12話)
『バイオレンス・ジャック』(1986)
『ファイナルファンタジー (OVA)』(1994)
『俺の脳内選択肢が、学園ラブコメを全力で邪魔している』(10話)(2013)
『スクールデイズ』(12話)(2007)
『撲殺天使ドクロちゃん』(12話)(2007)
『アムネジア』(12話)(2013)
『明日の与一』(12話)(2009)
『B型H系』(12話)(2010)
『CHAOS;HEAD』(12話)(2008)
『乃木坂春香の秘密』(12話)(2008)
第2期『乃木坂春香の秘密 ぴゅあれっつぁ♪』(12話)(2009)
OVA『乃木坂春香の秘密 ふぃな〜れ♪』(4話)(2012)
OVA『異世界の聖騎士物語』(12話)(2009-2010)
『天上天下』(26話+OVA2話)(2004、2005)
『会長はメイド様』(27話)(2010)

映画
『逆襲のシャア』(1988)
『ビューティフル・マインド』(2001)


ゲーム
『英雄伝説 零の軌跡』(2010)
『英雄伝説 碧の軌跡』(2011)


月別鑑賞録 5月
書籍
坪田信貴『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』 (角川文庫)
竹田 青嗣『中学生からの哲学「超」入門―自分の意志を持つということ』 (ちくまプリマー新書)
宮部 みゆき『R.P.G. 』(集英社文庫)
道尾 秀介『向日葵の咲かない夏 』(新潮文庫)
香西 秀信『論理病をなおす!―処方箋としての詭弁』 (ちくま新書)
吉本ばなな『キッチン』
安倍公房『砂の女』
鹿島勇『骨の構造改革』
内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書、2002)
リチャード・バック『かもめのジョナサン』(1977)
千田 洋幸『ポップカルチャーの思想圏―文学との接続可能性あるいは不可能性』2013
竹内 敏晴『教師のためのからだとことば考 (ちくま学芸文庫)』1999
坂本 勝『はじめての日本神話―『古事記』を読みとく (ちくまプリマー新書)』2012
近藤 勝重『書くことが思いつかない人のための文章教室 (幻冬舎新書)』2011
春日武彦『17歳という病 その鬱屈と精神病理(文春新書)』2002
大塚英志『物語消費論―キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』(角川oneテーマ、2004)
千田洋幸『ポップカルチャーの思想圏―文学との接続可能性あるいは不可能性』(おうふう、2013)



映画
『あずみ』(2003)
『あずみ2 Death or Love』(2005)
『蟲師』(2007)
『オカンの嫁入り』(2010)
『エンダーのゲーム』(2013)
『バーレスク』(2010)
『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』(2006)
『ブルース・ブラザーズ』(1980)
『ブルース・ブラザース2000』(1998)
『かぐや姫の物語』(2014)
『バタフライ・エフェクト』(2004)
『バタフライエフェクト2』(2006)
『バタフライエフェクト3 最後の選択』(2009)
『マチェーテ』(2010)
『イリュージョニスト』(2010)
『レザボア・ドッグス』(1992)
『ニューヨーク1997』(1981)
『トゥルーマン・ショー』(1998)
『東京家族』(2013)
『寄生獣』(2014)
『バトルシップ』
『塔の上のラプンツェル』
『天上人とアクト人最後の戦い』2009
『TRIGUN Badlands Rumble』(2010)


OVA
『ザ・超女』(ザ・スーパーギャル)(1986)
『炎トリッパー』 (1985)
『カプリコン』(1991)
『ウィンダリア』(1986)
『オーディーン 光子帆船スターライト』(1985)
『マジック・ツリーハウス』(2012)
『茄子アンダルシアの夏』(2003)
『イリュージョニスト』(2010)
『ルーツ・サーチ』(1986)
『魔界都市〈新宿〉』1988
『暗黒神話』(1990)
『真・女神転生』1995
『アップルシード』(1988)
『ベクシル 2077日本鎖国』(2007)
『Z.O.E 2167 IDOLO』
『竜世紀』(1988)


アニメ
蟲師(一期)

演劇
劇団CHEAPARTS『星空ともぐら』

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