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月別鑑賞録 総評

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12月と2月は記録不足で書けていない。これからはそういうことがないようにしたいものだ。
やや正確性に欠けるが、まあ私1人の備忘録だ。それほど正確性を求めなくともよかろう、という甘えも生じている。
さて、毎年2月、3月は書き入れ時だ。自由な時間があるので、かなり作品鑑賞にははかどる時期である。記録のある3月は、映画を20本近く鑑賞している。我ながら、この調子で映画マスターへの道を目指したいところである。
4月。4月は、仕事も始まり、これまでのようにはいかないのではないかと不安をしていたのであるが、うってかわって、むしろ、大学時代よりもますます作品鑑賞に精が出る様になってしまったようだ。原因はいくつかあって、きちんとしたリズムが作られているということ。朝必ず起きなければならない。そうすると、それまで惰眠で起きるのが1時とかそういう日にちと比べて圧倒的に活動する時間が増えたのである。そして、私は非常勤をしているから、そのぶん給料は少ないが、時間が沢山できる。どんなに遅い日でも2時には仕事が終わりなので、おひさまが出ている間の半分は自由時間なのである。もちろん夜も。
そして、なによりも特筆すべきなのは、通勤時間である。私は幸か不幸か、横浜の遥か南の追浜というところまで通うことになってしまった。片道通勤1時間40分から50分である。約2時間弱。往復で3時間は超える。この期間がよい読書時間になっている。それ以外にすることもなく、また途中乗り換えが2回あるのであるが、この乗り換えを含めて、電車時間が30:30:30とちょうどキレイに乗り換えという休憩を含め、非常によい読書時間になっているのである。
この安定した読書時間のために、今月はなんと14冊もの本を読むことができたのである。そして、読書途中のものも数冊あるから、実際にはさらに、二三冊足して考えても差し支えない。
また4月は古いアニメーションのOVAを沢山鑑賞した。アニメマスターの道も遠からず、である。


月別鑑賞録 4月
書籍
赤坂 真理 『モテたい理由』(講談社現代新書)
『現代思想のパフォーマンス』 (光文社新書): 難波江 和英, 内田 樹
『戦闘美少女の精神分析』 (ちくま文庫): 斎藤 環
『<脱・恋愛>論―「純愛」「モテ」を超えて』 (平凡社新書): 草柳 千早
『子は親を救うために「心の病」になる』: 高橋 和巳
『大学生のためのレポート・論文術』 (講談社現代新書)
『なぜ「大学は出ておきなさい」と言われるのか―キャリアにつながる学び方』 (ちくまプリマー新書) 浦坂 純子
『心脳コントロール社会』 (ちくま新書): 小森 陽一
恩田陸『ライオンハート』
マーフィー“無限の力”研究会 『マーフィー あなたは、何をやってもうまくいく!―この黄金ルールを守れ! 』(知的生きかた文庫)
ミーハン,トーマス『アニー』
太田 光『マボロシの鳥』
百田尚樹『永遠の0』
J・ウェブスター『あしながおじさん』

アニメ映画・OVA
『風を見た少年』
劇場版『金色のガッシュベル!! 101番目の魔物』
『あらしの夜に』
犬夜叉 紅蓮の蓬莱島
シュタインズゲート
『劇場版xxxHOLiC 真夏ノ夜ノ夢』
ストリートファイターI MOVIE
ストリートファイターII MOVIE
ストリートファイターlV Vostfr
ストリートファイターAlpha Generetion
小鳥遊六花・改 〜劇場版 中二病でも恋がしたい!
闇の司法官ジャッジ
劇場版10 THE LAST-NARUTO THE MOVIE-
神撃つ朱き荒野に
超人ロック
[超人ロック 新世界戦隊 01
超人ロック 新世界戦隊 02
超人ロック Lord Leon OVA
ファイアーエンブレムOVA
イースOVA
サイキック・フォース OVA
『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 維新志士への鎮魂歌』
『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 追憶編』
『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- 星霜編』


アニメ
『そらのおとしもの』一期
『そらのおとしもの』二期
十二国記 45話


月別鑑賞録 3月
書籍
岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』
橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』
なかにし礼『戦場のニーナ』
神田昌典『全脳思考』
橋爪大三郎『はじめての構造主義』
宮台真司『日本の難点』
サルトル『嘔吐』
アルフレッド・アドラー『個人心理学講義』


映画
『ものすごくうるさくて ありえないくらい近い』
『風の歌を聴け』

ゲーム
『ファイナルファンタジーⅡ』
『英雄伝説 ガガーブトロジー 朱紅い雫』

マンガ
フェイト全巻
ベルセルク全巻

アニメ
夜のヤッターマン
月別鑑賞録 2月
Mr.ビーン カンヌで大迷惑?!
『わたしを離さないで』
『ファンタスティックMr.FOX』
『ブエノスアイレス』
『ユージュアル・サスペクツ』
『ローマ法王の休日』
『ロッキー・ホラー・ショー』
『時計じかけのオレンジ』
『小説家を見つけたら』
『理由なき反抗 特別版』
『2 ベスト・キッド』
『3 ベスト・キッド 最後の挑戦』
『4 ベスト・キッド』
『エビータ』
『オリバー・ツイスト』
『カルテット!人生のオペラハウス』
『チェ 28歳の革命』
『チェ 39歳別れの手紙』
『ツリー・オブ・ライフ』
『ペイ フォワード』
『楽園追放』
『ユニコーンガンダム』エピソード1~7


書籍
村上春樹『1Q84』book1
村上春樹『1Q84』book2

訪問地
北海道
箱根

ゲーム
『ファイナルファンタジーデシディア』
『スターオーシャンpart2』


1月
有川浩『レインツリーの国』
鷲田清一『ひとはなぜ服を着るのか』
パウロ・コエーリョ『星の巡礼』
宮台真司『14歳からの社会学』
中島義道『働くことがイヤな人のための本』
中島義道『哲学者とは何か』

『STAND BY ME ドラえもん』
『るろうに剣心 京都大火編』
『るろうに剣心 伝説の最後編』
『舞子はレディ』
『ルパン三世』実写映画




月別鑑賞録 11月
・『文学少女』劇場版
・銀河鉄道999・永遠の旅人エメラルダス
・銀河鉄道999 エターナル・ファンタジー
・1000年女王
・劇場版 NARUTO -ナルト- 疾風伝 ザ・ロストタワー
・劇場版 NARUTO -ナルト- 疾風伝 火の意志を継ぐ者
・イヴの時間
・鉄人28号 白昼の残月
・真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ
・Fate Stay Night
・Road to Ninja
・名探偵コナン 異次元の狙撃手
・河童のクゥと夏休み




アニメ
・Zガンダム 1話から12話
・Gのレコンギスタ 1話から6話

マンガ
・あしたのジョー 一巻(文庫版)

ゲーム
・スターオーシャン1
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憎愛 十二

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十二
芳春院の石庭は、花岸庭と言う。京都の地理に詳しい人は、大徳寺が金閣寺や龍安寺に近いことを知っているだろう。実際、大徳寺に泊まっている関からすれば、自転車を一寸借りて一走りすれば、10分、20分で赴くことができるのだ。特に龍安寺の石庭と言えば、教科書にも掲載されているほど有名であり、また確かに東洋的な芸術性の頂点に位置するものであった。かつて生徒たちを修学旅行で連れてきた際には、関は好んで龍安寺に赴いた。だが、今彼が必要としているのは、絶えず観光客でにぎわっているような場所ではない。石庭がそもそもなぜ存在するのか。自然と人間の一体。調和。農耕の民族であった日本の民族にとって、自然とは神であった。西洋は自然をコントロールすることによって、生活を営んできた。東洋は自然と共に生きることによって今まで生きて来た。その東洋的な思想に西洋的な思想を無理やり取り込んだから上手くいかなくなったのだ。今から百年前、このあまりにもちぐはぐな思想によって精神的困窮に陥った者が居た。言うまでもなく、漱石のことである。関は、結局文学においては漱石を専門としていた。太宰もやったし、また生きている作家を対象とした現代文学、また文学理論、ナラトロジーも勉強していたが、一応履歴に書けるような代表的な分野としては漱石が専門であった。
一寸ここでは正確な出典が思い出されないが、漱石は彼の作品において、電車という鉄の塊が人をすし詰めにして運んでいく様が実に非人間的であるようなことを皮肉を込めて書いていた。凡そ多くの社会人のストレスの温床となっている満員電車は、なによりの害悪である。座席を指定制にするか、あるいは人数制限を設けて人と人とか正常な距離感を保てなければならない。それができぬというのであれば、それぞれの企業が企業同士で連携を取り合い、出社時間をずらすようにするなり、そもそも大きな会社がある特定の区域に集まるのを阻止せねばならない。関は人生に疲れていた。その大きな原因の一つには、先の大いなる喪失がある。が、そうした兆候というものは人間性とでもいうべきようなものは、徐々に徐々に形成されてくるものであり、彼が若い頃からすでにその傾向はあった。関は学生時代に満員電車があまりにも嫌で、しかも学生時代の関は現在よりもさらに神経が過敏で尖っていたため極度の潔癖症でもあった。手すりに触るのも嫌、つり革につかまるのも嫌、極めつけは学校の教室のドアを触るのも嫌だったのだから、関の苦労の大きさは常人でははかり知ることが難しい。
確かに昔の日本では、紙と木だけでできた建築物であったので、プライバシーの観点からすると、壁に耳あり障子に目ありといったような言葉があることからも連想できるようにそうした概念は極めて軽薄であったろう。しかし、考えてみれば壁に耳があろうと、障子に目があろうと、身体的な距離、あるいは精神的な距離というものはかなり守られていたのではないか、関はそう考えた。どうもやはり人と人とが接触するような状況というのは通常の状態ではあり得ることではない。
関は自分と他人の身体が間接的でさえ接触するのが嫌な人間であった。その関が満員電車など乗れるはずがなかった。学生時代は、なんとかそれでも我慢して乗った。人には苦手なもの、得意なものがある。関の苦手なものは自分の個人的な領域に他人が土足でづかづかと侵入してくることであった。そうした苦手を持った者に対して、そういうものが大丈夫だからといって関がなんだかひ弱な人間だとか、我慢の足らない人間だとか勘違いしてはいけない。それは傲慢である。己の長を以て人の短を表すことなかれだ。関にとっては、これは人間個人ではどうしようもないことではあるが、たまたまこの部分が苦手だったのだ。多くの人間はこの分野に左程、たまたま抵抗があり大丈夫だったに過ぎない。
なので関が彼の苦手なことに対して苦心しながらも頑張ったことはある意味大変なことであった。だが、毎日満員電車に乗っていれば、通常の社会人でさえ心を病む。ましてや関がどうなったのかは言うまでもない。確かに関は生まれつき神経がか細く、生きて行くのには辛い精神の持ち主であった。その反面彼は豊かな精神の働き、ものごとの機微な部分を捉えられる緻密な精神の働きができたのである。有名税だと回りの人は思ったことだろう。しかし、関は自分が理解されないためにさらに苦しんだのである。
若さと体力のために何とか精神の弱さを埋め合わせていた彼も、時には電車に乗れなくなることがあった。一種の強迫観念、パニック障害であろう。人は言うかも知れない。そんなに満員電車が嫌ならばもっと早くに出ればいいと。しかし、そんなことは強者の論理だ。関は強者の論理が大嫌いだ。彼が常に弱者であり、社会的に阻害されてきたという意味も込めて。さらに、その論理はどこかで破たんしている。満員電車が嫌なのであればという問題の設定の時点で、満員電車が好きな人はほぼ皆無であることが常識と照らし合わせれば判明する。だとすると、満員電車に乗っている殆どの人はその状態を嫌だと思って乗っているのである。この提案の通りにしてみよう。その人たちが、では満員電車は嫌なので、みんな早く行こうとする。すると、全体的に満員電車になる時間帯が早めになるだけであって、何ら根本的な解決にはなっていない。
次に関だけが特別に早めにでる場合を考えてみよう。つまり全体としてはこの時間帯が満員になるが、関だけは特別に早い時間に乗るということである。この構図は、満員の時間帯を避けるということになる。だが、その代償はなんであろうか。朝早く起きることが考えられる。関はこのように神経過敏の人間によくありがちな、低血圧のような人物であった。往々にしてそのような人物というのは、朝が苦手である。関にとっては満員電車も嫌であれば、朝早く起きるということも満員電車に乗ることと同じくらい容易にできることではなかった。ここに彼の苦悩がある。自分でも確かに早く起きて学校へ向かいたいと思った。当然である。時には満員電車が嫌であると友人や親にも零した。そうして帰ってきた答えが先の答えだ。しかし、彼にとっては朝起きるということもまた苦痛なのである。自分で変えたいと思っていることが、苦痛で苦痛でたまらず、己の力では変革できないこのディレンマ。責任感や正義感の強い関にとっては、自分が悪になるという極めて危機的な状況であった。結局その解消されないディレンマによるずれやゆがみは、すべて精神、ないし心が引き受けることとなる。余計に関を弱らせるだけである。
関は学生時代に、満員電車を前にして、遅刻するということが彼にとっては自分の誇りを傷つける重大なことに思えてならないその時に、しかし一歩を踏み出せなかったのである。スーツを着たおじさんおばさん連中が押し合いへし合いしている中へ、彼は歩むことができなかった。そして遅刻は決定となる。彼はしばらく失念して、駅のホームのベンチで泣いた。関のかわいそうな部分は彼の強固な意志、優れた判断力、認識力、その他もろもろに対して、それに耐えられる精神、肉体を有していなかった点である。彼はつねづねこう思った。身体が付いていかないと。そうして、その口惜しさは、やがて彼の心に黒い染みを拡げていった。
さめざめと泣いた。涙がはらはらと落ちた。ふと関は自分がこれまでどんなに情けなかった人間であったのかを思い起こしたのである。正確には思い起こされたというほうが良い。関は無理をしてきたためか、これまでの自分の不甲斐なさというようなものが、物語的にフラッシュバックしてきては彼を襲った。彼は広大な石庭を前にして板張りの舞台の上に正座していた。後ろの本堂から持ってきた紫紺の座布団を敷いている。
「花岸庭・・・」
この庭の名である。週に一二度、芳春院の住職、すなわち導久の父か、導久自身が白い玉砂利を敷きなおす。なんだゴルフ場のあれと同じ要領じゃないかとそれを聞いて関は思った。しかし、それとこれとでは全く質が異なる。方やスポーツ上の環境の一つであるのにたいして、こちらは一つの自然、天地を表している。そのような軽い気持ちで行ってはならない。遊び半分でそんなことをやればどうなるのか。目に見えた変化はなにもないだろう。だから現実主義者、実物主義者にとっては特に困ったこともなかろう。彼らにはこころというものがないのだから。しかし、僧侶にしても、また関にしても、こころを有する人間にとっては一大事である。石庭というものは、人間が自然との調和を目指して作られたものである。一つには、人間が自然を理解しようとし、きちんと自然を推し量れるように作るという人間側からの側面。もう一つは、自然を忘れて生きると道を踏み外し、養和が乱れるという戒めとして自然から見る側面であろう。石庭を蔑ろにした時点ですでに、そのものは自然との調和を忘れ、ただ只管人間のエゴに走るのみである。

憎愛 十一

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十一
特にこれといった用意もなく、関が気に入っていた、アンティーク調の古い皮の鞄を手に、彼は京都行きの新幹線に乗った。かつてのことが思い起こされる。あのころは、若く、友人たちととりとめのない話をしながら京都まで向かったものだ。席をぐるりと回転して、向かい合って話していた。空は曇り、雪が関西方面を覆っていたとしても、関の回りは暖かかった。
すべてを失い、ことばを失い、もはや残すものは彼の命の燈火だけとなった関は、一人京都へ向かった。外は晴れていた。途中の晴れ渡る空の下、青々と稲の生い茂る生命の強さ。水の滴り。爽快な風。しかし、いずれもまた関の心を癒すどころか、その悲しみを一層深いものとした。
観光という気力もない。関はまっすぐに、あるいは一縷の光を求めて、かつての後輩、導久の下へと向かったのかも知れない。夏の京都。観光で外国人が多い。相変わらず京都の人びとの運転は荒く、信号が赤になっているのに交差点に突っ込んでくる車たち。響き渡るクラクションの音。それらの喧噪をよそに、関はひたすら大徳寺へと向かった。寺のなか、歩くたびになる砂利の小気味の良い音。芳春院の門は、以前来た時と異なり、開け広げられていた。両手を囲む緑の色は蒼い。大徳寺の中に入っても、それまでの京都の喧噪からはかなり逃れられるのであるが、まだ観光客が居たりして、俗世を離れたという感覚はない。ところが芳春院の門をくぐると、ここはもう観光客の入るような場所でなくなってくるため、やっと心の落ち着ける空間にやってきたという思いが湧いた。庫裡の玄関を入ると、建物に似つかわない、現代的な電子音が鳴り響く。来訪客を知らせるチャイムである。すると、住職が出て来た。導久の父親である。
「よういらっしゃいました」恰幅の良い体躯から発せられる柔和な声である。
 関が言葉を探している間に、住職は彼を招いてくれた。
「まあ、こちらにいらっしゃい」
荷物を持ったまま、関はかつても訪れた茶室へと通される。学生時代に来た時分に、すでに還暦を迎えるくらいの年齢であったため、流石に歳を感じられるようになった。人は皆老いる。しかし、そこには以前にもまして、何か包容力のようなものが感じられた。無言のまま、ちんちんと炭の鳴る鉄瓶の様子を見ている。竹の勺でお湯をかき混ぜる。それぞれ面持ちの異なった器のなかから、一つ御誂えのものを選んで出してくれる。緩やかな動作には、それぞれ異なった動作が、どこかでつながっているのではないか、動作の余韻というものが空気中に漂っているように感じられる。抹茶を立てている動作に力を感じられなくなったと関は感じた。以前はもう少し豪快さというものがあったように思えた。その代わりに、流れゆく河のような印象を得た。鉄瓶の左に和尚が座り、右手に掛け軸がある。檀家からいろいろと頂き物をすると聞いた。中には陶芸家の檀家もいるようで、様々な陶芸品が日常に組み込まれている。何焼きなのか関は一寸詳しい知識を有していないのでわからなかったが、藍色の深いえんどう豆のような形をした壺に、笹に似た葉とともに、向日葵が添えてあった。掛け軸には、きっとこの寺のかつての住職の漢詩かなにかが描かれている。山水画がちょこっと描かれている。しかし、あまりにも文字が崩れすぎていて、関には一瞥しただけでは判断できなかった。
住職がたててくれたお茶とお菓子を食べ、やっと一息つけた。美味しいですと言おうとして、ありがとうございますという言葉が出た。そのまま寝床に就くかのように、頭を深々と下げた。
「うん、そうか。ま、しばらく前のように泊まっていきなはれ。ちょっと導久呼んでくるわ」決して心を覗くというような野暮ったい感じではなく、ただ悟ると言った感じで関の心を見て取った住職は、おもむろに立ち上がり、出て行った。住職が関の横を通る際に、何とも言えない香りが鼻を掠めた。部屋には、線香の香りが立ち込めている。それとは異なった、さらに甘い葉の香りであった。
ちろちろという鉄瓶の音がたまにする。なんでも前回きた際には天正三年という文字がここに刻されていて、今から四百年以上は前のものだと聞いた。そんなに長い時間火にさらしていたら、朽ちはしないかと尋ねたが、日々きちんと使っていると特に問題なく使えるということだった。四百年の時の流れ、時の重み。十年前と全く変わることなく関を温めてくれる赤銅色の鉄瓶。なんだかわからないが、不思議なものだと関は心の中で呟いてみた。しばらくして、導久が後ろから入ってきた。
「いや、関さん御久し振りです。」
「急に押しかけてしまってごめんね」
「いいんですよ。関さん、しかし、大丈夫ですか」
「うん。まあ、この通りさ。大丈夫とは言えないが、今のところ生きてはいる」
「眞に今回は辛かったでしょう。でも、前逢った時よりかは、少し顔色がよくなってはりますよ。」
「そうかな。うん、そうかも知れない。此処へ来て、楽になった。」
「ええ、関さんが泊まれるよう掃除しておきましたから、しばらくは家で休んで行ってください」
「本当に済まないね。こんなこと、本当は酷く迷惑なことだと思っているんだけど。」
「いえ、いいんですよ。関さんみたいな方を救うのが我々坊主の使命でもありますから」
「私はたまたま君のような人と仲良くなれた幸運の持ち主だが、他の人はね。辛い人はもっと世の中にたくさんいるのに」
「関さん、辛さというものは、人と比べることのできないものですよ。関さんにとっての辛さは関さんの辛さでしかありまへん。心行くまでここで休んで行きはったらええんです。」
導久は昔から自分の感情が熱くなってくると、次第に京都弁が多くなった。最初は標準語で話していても、会話がスピードアップするにつれて京都弁になる。関はそれがおもしろくてしょうがなかった。関は東京育ちであったから、方言というものを持たない。関にとっては、京都弁というのは聞いていて面白かったし、新鮮だった。何よりも、導久が二つをごちゃまぜで使うのが彼には羨ましく思われた。そうして一寸笑った。
「あゝ、昔を思い出すね。また、いつの間にか京都弁になっているよ」
「ええ、なってましたか。でも、いいんですよ、ここは京都ですもん。大学の時とは違いますんで」
「そうだね。ここは京都だ。」
「関さん、荷物持ちますよ。こちらへ。」
導久に従って関は、茶室から離れに移動した。その日は久しぶりに眠るということが自然と行われた。睡眠剤があってもなかなか寝付けなかったこの頃であったが、薬を飲んでから比較的楽に眠りに落ちた。
睡眠薬を飲むようになってから、夢を見なくなった。関はどこに彼の創作力を有していたかというと、夢であった。いつも枕元には、彼の手帳が置いてあった。洋風の皮貼の手帳である。長年使うことによって、皮の茶色が深みを増してきている。皮独特の匂いに最初は閉口した彼であったが、長年かぎ続けていると手帳の皮の匂いは安らぎを与えるようになった。関は、夢を見て起きると、忘れぬうちにそれをメモした。きちんと目が覚めてから書いたものはいいが、書かなければという気持ちから書いたものには、こんなものを書いたっけと全く記憶のないこともあれば、文字になっておらず、全く読めないものもあった。関は、自分が夢見た素っ頓狂な内容を後から見返して、その奇想天外なものに論理性を与えて行くということで何か新しい作品を考えていたのだ。しかし、夢を見なくなってからは、何も書けなくなった。
朝起きると、関を蝕むのはとてつもない疲労感と、後悔である。特に朝起きたときに、曇りであったり、雨であったりすると気分は悲愴なものになったが、たとえ晴れていたとしても、また一日自分は生きてしまったのだなという気持ちになった。関は、痛みというものは嫌であった。消極的な自殺が望ましかった。眠っているうちに何か意識が溶け出していくかのように死ねないものかと何度も思った。そうして、そのような淡い希望を抱きながらも、それが達せられなかった朝、目を開けて、天井を見て、生きていると思うのである。
ある程度の波というものはあった。同じ生きているでも、それが無性に悲しくなって、しばらく涙を落とすこともあった。絶望に打ちひしがれて天井を睨み付ける日もあった。また、調子の良い日は、生きていてよかったと、泣きそうになる日もあった。

憎愛 十

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導久法師は、関の大学時代の後輩である。これは単なる後付だが、関は彼がイスラム圏で生活したことのあること、ミッション系の中高に通ったこと、大学は仏教系の学校へ行ったことを、宗教フリーになるために、世界三大宗教を一応は勉強したというような大それたことを言って述べている。偶々、進学した先がその都度異なったために、結果として三大宗教を学ぶこととなった。導久法師は、仏教系の大学で出会った後輩であった。
関が通った大学は、構内をお坊さんが普通に歩いているというような、一寸通常の人間では想定しえないような不思議な大学であった。当然お寺さんのご子息がたくさんやってくる。関は大学では美術部に所属していたが、そこにもまたお坊さんの息子というのが結構した。その中の一人だった導久法師は、以前は髪もたくさんあった、普通の大学生だった。京都でも屈指の臨済宗のお寺の子息で、東京の大学ではけっこうなやんちゃ坊主であった。先輩として関は、やんちゃな導久を諌める役割を担っていたが、反面、大人しすぎて一歩を前に踏めない関にとってもまた、導久の溌剌が善い加減に合致していた。関と導久がであったのは、関が、大学2年、導久が大学1年の頃であった。なので、しばらくのうちは、関が東京のことをいろいろと教えるということをした。中高の時代に負った心の傷があったため、関は大学へ入ってからもあまり心を開かずに過ごしていたが、やんちゃ坊主の導久を案内するにあたって、関はだんだんと孤独を無理に演出しなくても良いようになった。
人間関係のうちでなかなか難解なものは、同じ学年の人間関係と、男女の関係であるらしい。上下の関係というのは、意外と難しそうでありながら、結構形式が定まっているからそこさえ理解できれば、あまり心砕かなくても良いらしい。関にとっては、男女の関係はしばらくは考えたくもなかったし、友人たちも何をされるかわからないという恐怖から、できるだけ人付き合いを避けていた。しかし、部活に入って、後輩とは自然と話すことができた。それは、この後輩が自分のことを悪くするという発想がどこにも浮かばなかったからかもしれない。関は、この導久を媒介として、部の人間と仲良くなっていった。一回目の関の人間性の回復は、このころになってようやく成し遂げられたのである。
仲良くなって一年が経とうとしていた。関は2年の冬に、導久からお世話になっているんで、京都に遊びに来てくださいという誘いを受けた。しかし、ここでもまた関は、一寸躊躇っている。導久が自分に対して何か悪いことをしようということがないのはわかっていた。しかし、丁度その折、精神から来た病のために、酷く体を壊していた。それは以前述べた睡眠障害と、食欲不振である。睡眠障害は比較的良くなってきていたのだが、このころ再び食欲不振が現れ始めていた。関は、しばらくの闘病生活と言うとおおげさだが、病気と付き合っている期間から、緊張がこの食欲不振の原因ではないだろうかと自己判断していた。しばらくの間、この身体の状態で京都へ行けるのかどうかということを考えた。結果としては、せっかくのお誘いだし、別に食えなくなったら食わなければ良いということを自分に言い聞かせて、京都へ赴いた。
お寺の和尚さんも忙しくなると言われている師走が終わったあたりに何故行ったのか、今となって考えれば時期的に一寸よろしくなかったのではないかと思う関であったが、正月休みの寒い間に関は京都の導久宅へ赴いた。京都、紫野の大本山、大徳寺。宗峰妙超が開創したとされる大徳寺の一角に、導久の生まれた寺はある。
寒い冬であった。なんでこんな時期にきちゃったんだいとか、こんな時期に来ても大丈夫かなとか、来てしまってから言うのだから、関は一緒にきた友人たちに多少煙たがられていた。導久は関達が京都へ着く数日前に実家に帰り、関たちを向かい入れるための準備をしていた。仲の良い友人たち3、4人で京都へ到着した関達は、まさしく、導久のみちびきで、大徳寺までやってきた。京都の冬は寒いということを、関は導久からも、また関の父親からもさんざん聞かされていたので、彼の恰好は、父親譲りのロングコートだということもあり、どこかのマフィアのそれのようでもあった。大学生が着るにしては上等すぎるコートを羽織りながら、関は導久に従って、京都を歩いた。あまりの寒さに関の不満は高まった。東京の寒さが肌の上を撫でるような痛さであるならば、京都の寒さは体の芯に氷の棒を突っ込まれたような寒さである。膝あたりまである、紺色のコートを着ていた関ではあったが、内面から攻撃してくるような寒さは、長さだけでは防げなかった。
地下鉄を乗り換え、有名な地下のバスターミナルの前を歩き、大徳寺へと向かう。大徳寺の総門を潜り、千利休の象があるという勅使門を右手に、仏堂、法堂にそって、石畳の上を歩いていく。ちょうど夜に到着したため、広大な敷地の寺なかには、人影もなく、初めて行った関にとっては恐怖の念のほうが強かった。関が出発する前に、京都では雪がふったらしく、東京で京都の情報を事前に集めて勉強しようとしていた関は、金閣寺が雪に包まれて、そのコントラストの美しいのを恍惚として見た。何も金閣寺の美しさに見とれてもう一度放火するというわけではないが、大徳寺は金閣寺まで歩いてもいける距離であるため、もしかしたら雪化粧した金閣寺をこの目で見ることが出来るかも知れないと狂喜していた。しかし、残念なことに積もった雪はすぐに溶けてしまった。関が京都についたその日は、もう殆どの場所は溶けてしまって残ってはいなかったが、大徳寺についたあたりから、再びちらちらと雪の結晶が降り始めていた。京都は京都駅の付近以外はあまりネオンのような光はない。それは町の景観を破壊しないための配慮でもあったが、好き好んでお寺の近くにそのような施設を建てる輩もまたいないのだろう。大徳寺の付近はすでに、どこかの田舎に来てしまったかのように、人影もなければ、人工的な光も少ない。暗闇の中、等間隔にならんだ街灯の白い光に照らされて、肉眼でも見えるほどの雪の結晶が、ちらちらと落ちてきては、関のことを愉しませた。深い紺色のコートに黒い手袋をしていた関は、落ちてくる結晶を手に付けて、それをまざまざと見た。関はもとから目が良かったが、別段普通の友人でも結晶の形が見えるほどのものであったので、関はその美しさに見とれていた。幾何学的な六角形の模様。厚い生地を通り越して、ゆっくりと体温によって溶けていく氷。雪の結晶はその後もしばらく、ひとつひとつの結晶のまま降り続けた。
こんなことを云ったら叱られるかも知れないが、大徳寺はたくさんのお寺からなる集合住宅のようなお寺である。大通りに沿って歩いていくと、途中で左へ曲がる。そこを曲がらずに、そのまままっすぐに行くと、木の門が行く手を阻む。門の端には、小さな扉が設けられていて、その閂を外して通ることによって、門全体を開かずとも入ることが出来た。門を閉じれば街灯もない、真っ暗闇があたりを包む。まさか都会でこんな暗闇に遭遇するとも思っていなかった一行は、多少驚いたようだった。身に染みる寒さも深まる。そこをさらに突き進んでいよいよ芳春院にたどり着く。玄関に相当する庫裡へ入ると、頭上に近衛文麿の書いた「護国禅窟」という白抜きの文字が迎える。はて、一体どういう意味なのか、関は一寸わかりかねたが、まあ国を護る禅のすみかというような意味だろうと考えた。
茶室に招かれて、関達は導久の淹れたお茶を振る舞われた。流石はお寺の子、茶道と書道、道と冠される分野のものを、この歳で二つも修得しているとは、関はひどく感心した。芳春院には、一般人には知られない謎の御堂が一つあるが、それは実にプライベートな建物である。修行に来たお坊さんを泊まらせることもあれば、来客用に使われることもある、自由なお堂だ。しかし、このお堂がすでに、一般の家よりも全然広いのだから、関たちは、このお堂が普段はまったく使用されないことを聴いて、笑った。
「まずはね、育つ環境の良さが違うからね」自嘲を込めて関は皮肉を言った。
「何を言っているんですか関さん。あなただって、十分人からみたら羨ましいところの出身やないですか。」
関と導久の会話は他のメンバーにとってはただの嫌味な会話にしか聞こえない。そんなこんなで、決してお金を払えば泊めて貰えるというようなことはできない、まさしく明治の小説のような出来事を体験した。数日芳春院に滞在しながら、京都巡りをした。行く先々で、芳春院さんの息子さんですかと、女将やらなんやらが登場して、そうして今度は関たちに対してもそのご学友ですかとぺこぺこするので、こちらもぺこぺこしなければなるまい。全く不思議な京都旅行であった。そんな楽しかった学生時代から早や、十年が経とうとしていた。
生と死の境目の深淵まで落ち込んでいた関は、自然とそのころのことが思い起こされた。気が付いた時には、導久のアドレス宛に、葬儀の際の色々に対する感謝や、精神的に参っていること、しばらくの間精神休養のためにまた泊めて貰えないかというメールを送っていた。常識という名の家庭で育った関にとっては、通常の状態であればそんな他人の家に泊めてくれなどとこちらから願い出ることなど考えはしなかっただろう。しかし、そんなことを思考から排除してでも、精神の安定を希求する気持ちが強かったのである。
勿論、そうした精神の安定、人間の内面を練磨するための組織のようなものであるお寺にとっては、自己を高めたい、あるいは困窮の中にある人物が救いの手を求めて来たのを断る理由はない。ましてや、導久は自分が東京に居た間はずいぶん先輩に良くしていただいたと思っている義理堅い人間である。関は、しばらくの間、特にいつからいつまでというような予定もないまま、京都行きの新幹線に飛び乗り、大徳寺へと向かった。
夏が訪れつつあった。春はもう終わりを迎えようとしている。芳春院という名が付くだけあって、きっと春が一番素晴らしいのだろうと何となしに考えていた関は、もう少早くに来られればよかったのかなとも思った。しかし、旧暦で考えればもう夏もすでに半分かとも思った。例の御堂、一般人の家よりもはるかに広い建物を与えられ、少し広すぎるため孤独を味わいながらも、人生の休息を関は謳歌した。京の都は、北を上に考えられてつくられているので方向感覚がつかみやすい。本堂の右がわ、つまり東側に位置する関が与えられたお堂の前にも、日本庭園があった。これはこれで趣があって良い。お堂の中からみれば左側に庵のような茶室もあり、そこに居るだけでも落ち着く。だがやはり、関にとっては、花岸庭と呼ばれる本堂の枯山水の庭園がなんと言ってもお気に入りであった。大学で日本の文化を研究していた教授と仲の良かった関は、枯山水には、かれさんすいという読み方のほかに、かれざんすいやかれぜんすいなどもあるということを聴いたのを思い出した。自然との調和を目指す日本人だからこそ、大小の石によってこの世のすべてを表現しようとする。ある意味ではミニチュアでもあった。国語、国文学というものを大学では学んできた関にとっては、日本的な空間のほうが安らぎを覚えられた。先の震災で、外国人たちが日本人をどのようにリポートしたのかということを、生徒たちに授業で教えたことがあった。海外からみた日本という視点も重要だろうと思っていた関は、必死の形相になって日本の状況を伝えている海外のニュース番組はよい勉強になった。そこでは、海外のレポーターが、西洋文化では科学をつかって人間が自然をコントロールしようとするが、日本では、反対に自然と一体となることによって生きるということをしている。だから、今回の震災が起こっても、人々は悲観や絶望に包まれることなく、一種の諦念、開き直りを持って毅然と復興に向かっているというのである。ある意味では、それは正しい。自然のミニチュア化は、これと相対するようにも思われるが、自然をコンパクトに作り上げた後、そこに同一化するということでは、やはり自然とともに生きるという方向性にあやまりはなさそうである。
マクロコスモスは把握しにくいので、ミクロにして、そこに自己を同一化させるのだろうかと、関は目の前の枯山水を見ながら思った。



憎愛 九

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この学校では、体育祭を境に、高校三年生は受験勉強へと邁進していく。体育祭は、いわばひとつのターニングポイントとなっていた。受験勉強に熱心な子は、だいたい三年生になる以前、2年生の休みの期間から本格的な受験勉強に入る。しかし、いくら強靭な精神を持っていたとしても、なかなか回りの人間が勉強していないなか、孤軍奮闘するというのはできないものである。この学校では、行事でクラス一丸となった流れで、全体が受験勉強へ向かうという良い流れが出来ていた。人によっては5月から受験勉強に向かうなんて遅すぎると言うかも知れないが、関自身は別段受験勉強に対しては価値を置いていないので、これで何の問題もないと思っていた。
体育祭は例年の如く、壮大なものとなった。クラス内で比較的主要なメンバーとなることの多い人間が応援団をやってクラスのみんなを鼓舞していた。それぞれの組の団長は、やはり高校一年生から見たら殿上人のように見えるのだろう。グラウンドを裸足でかけて行く団長たちを追う後輩たちの視線は、宝石を埋め込んだようにきらきらと輝いている。関は、それを見ると若さというようなものを如実に体感してしまい、苦笑いをすることになる。確かに、生物学的に考えれば、女性が年上の男性に対して恋をしやすいことは納得できる話である。自分が妊娠、出産した際に、経済的に困窮しないように、女性は本能的に年上で経済的に豊かな人間を求めるのである。これは、歳があがればそれだけ経済的に安定してくると言う社会を前提としての条件ではあるが、まあ、人間どの社会でも比較的そうなる傾向が強いのだろう。対して男性が若い女性に恋をするというのもまた、生物学的に納得のいく説明ができる。男性は自分の子孫を残すために、より確実な妊娠を望む。とすると、若い女性のほうが、安全な出産をできるということもあり、年上の男性と、年下の女性という構図が出来るのである。ただ、関はこの説明をどこかの本で読んだ際に、また苦笑いした。彼には、かつての学生時代の思い出が思い起こされたのである。ほとんどの男性に共通することではあると思われるが、それでも、関は先輩が部活の後輩を掻っ攫っていくのを見ていて、ちっとも良い気がしなかった。男としては、年上の男性が自分たちの女性を取っていくということが許せなかったのである。システム上困難が生じているように思われるが、それでも人類は生きている。
五月というのは五月晴れという言葉があるように、比較的天気は安定している。ただ、雨こそ降らないものの、風が強い日が多々ある。体育祭の日もまた、強風が吹き荒れることとなった。広大なグラウンドは砂埃が舞、一種狂乱の態を為していた。観客席には、教育熱心な保護者達が集まり、また社会・地域に開かれた学校という理念のもとから、地元の人間も多く来ていた。強風が吹くたびに、それを一足遅れて砂塵が追いかけて行く。それが観客席へ襲い掛かると、大人たちの叫び声が挙がった。若者たちは砂埃など大したことがないと言った様子で、うわっと小さな声が聞こえることもあったが、むしろ一年に一度の体育祭とあり、アドレナリンが放出されているのか、砂の中で浮かび上がる上半身裸の男子生徒たちはスパルタの戦士のような様相を醸し出していた。
闘技場と化したグラウンドでは、棒倒しや騎馬戦が行われる。関は、昔から貧弱な身体の持ち主であったために、これらの行事が嫌で嫌でしょうがなかったが、教師となった現在でもまた、生徒たちを保護するという観点からも嫌でしょうがなかった。何より、生徒たちと一緒にフィールドへでて、落ちてくる生徒たちを受け止めなければならない。自分より体格も大きく、筋肉隆々とした肉の塊が落ちてくるのを、骨ばって痩せている関が受け止められるわけもなく、関自身は自虐的に、むしろ地面にそのまま落ちた方が痛くないのではないかと考えていたが、実際に関は生徒へのぎこちない緩衝材になるほかなかった。去年の体育祭では、同学年の先生が、生徒を庇うのに無理をして、靭帯を引き延ばすという大変痛ましいことが起こった。すぐに保健の先生が車で近くの病院まで運ぶという、なんのために怪我したのかよくわからない事故が起きて以来、余計に関はこの体育祭での役割が嫌だった。関の偏見ではあるが、弱者としてずっと生き抜いてきた彼にとっては、体育祭はある意味では、イデオロギーを盾にした暴力だと考えていた。高校一年の頃にはまだいいが、三年ともなるとほとんど体格が定まってきて、差というものが埋められなくなる。野球部やバスケ部で鍛えた人間たちと、どうして文科系の部活をしている学生とが、同じグラウンドに立たなければならないのかということが関の納得せざるところであった。文化祭では、肉体を鍛えていた人間たちは、肉体労働をするということで参加することができる。それに対して、体育祭ではさも邪魔もののように、いなければこちらの方が有利になるとでもいうかのように、弱者たちは扱われる。しかも、そうした肉体の弱い人間たちは、しばしば棒倒しや騎馬戦では盾として使われるのである。時に救急車を呼ばなければならないような怪我が起こるが、傾向として、やはり盾にされた弱い人間が多い。関は、かつての自分を見ているようで心が悼んだ。
だがしかし、本当に怖いのはどちらかというと、関は少し答えを出すのを躊躇しなければならない。女子たちの戦いもまた、普段は女子高生という着ぐるみに包まれている分、余計に悲惨なものを見せる。女性というのは、武器が少ない分、余計に武器となるものが強化される。爪をつかって引っ掻いた傷というのは残ってしまう可能性がある。それをうちの娘がと怒鳴り込んでくる親も多いし、また関も自分に娘がいればそんなことをとてもではないがさせられないと思った。女子の騎馬戦というものは怖い。男子は戦い終わればノーサイドといった戦いに慣れた人間が多い。しかし、女子というものは筋肉がない分、爪を武器とし、戦いのモチベーションは自己の内部にある怒りの力を用いる。男子が単なる戦闘態勢で戦うのに対して、女性は感情を使って戦う。表情が違うのである。様々な理由はあげられるが、恐らく女子と男子が戦えば、女性は勝つだろう。男子はその気迫に押されてしまうことだろう。また、怪我も女子の方が凄惨なものが多い。それは加減というものを知らないからである。教師たちも、男子生徒の戦いより、女性の騎馬戦のほうにより神経をとがらす。だが、今回の体育祭は、いざ終わってみれば、これといったけが人もなく、比較的無事に終わった。関はこれから一学期の間に、しばしの休養を取る。それは、大切なものを失った人間が、その傷を癒すために得たしばしの時の空白であった。
体育祭が終わっても、その名残というものはしばし教室にとどまる。きっとこれから、お好み焼き屋にでもクラス全員でいくのだろう。先生にばれないようにと、クラスメイトが裏でこそこそやっているのが聞こえてくる。建て前として、補導されないようにとだけ言って、後は写真撮影とかなんとかやっている。何人かの関のファンのような生徒たちが、先生一緒に撮って~なんて言ってきて、それを相手にしながら、私の方が写真うまいから撮ってあげるよとかなんとか言ってやり返して、職員室に戻る。しばらくは落ち着く。今の私はどのように写真に写ったのだろうか。あの写真が今後残ることがどのような意味を持ってくるのか・・・考えようとして関は思考を停止した。


憎愛 八

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「それでは授業を始めます・・・」その日も、息も絶え絶えという雰囲気は隠せないまま、授業を行っていた。ここ数日の関は、興味関心というものがなかった。精神的な活動をしなければならない人間にとって、心が石のように固まってしまったという状態は、死んでいるのとかわりなかった。授業をしていても、あまり身が入らず、数年やってきたために身に沁みついていた内容と、語りでただ脳内にある講義を再生しているだけだった。
 昼休みに、関は教室に帰ったが、ここ一か月ほどは、やはり食欲などでるはずがなく、もともと食は細いほうであったが、どこかで昼食を買ってくるということもなく、職員室の書類やらでざったななか、ブラインドから差し込んでいる外の光に眼を細めていた。外では、学生たちが元気よく職員室前の広場を走り回っていた。関はそれを見ながら、ふと若さというものを考え、そこから生きているということを連想し、そうして自分を省みて、自分は生きていながらまた、死に近づいて行っているのだなと考えたところで、声がかかった。
「関先生。あのちょっとお話が、今日の放課後に私とあと学年主任からお話がありますので、よろしくお願いします。」声を掛けて来たのは、副校長の浅井であった。人柄としては柔和であるが、少々頭の固い部分がある人間で、もとより芸術家としての名声のあった関のことを表面には出していなかったが、疎んじている部分があった。浅井は、普段から柔和な顔を張り付けているだけあって、関に対するときの少しこわばった心持とその顔つきが相まって実に不気味な顔になっていた。普段であれば、その鋭い洞察力から浅井の考えていそうなことなどいくらでも先んじて想像のついた関であるが、そのような精神的な余裕がなかったため、そうですかと、一言返すのが精いっぱいであった。
 特に昼食はとらずに、五時間目、六時間目と担当のクラスで国語を教えて、ホームルームをした後、やっと一日も終わって早く帰れるかなと思いながらも、話があることを思い出してうんざりしていた。どうせ自分の状態のよろしくないのをとがめられるのだろうということは予測していた。職員室に戻ってから、関は浅井が向こうから話しかけてくるのが嫌だったので、こちらから赴いてやろうと副校長のデスクへ向かった。
「浅井先生、お話とは何でしょうか。」
「ああ、関先生、今学年主任を呼んできますから、えっと、じゃあ応接室2で待っていてください。」デスクで事務関係の仕事をしていた浅井は、関が担当している高校三年生の学年主任の教諭を呼びにいった。
 応接室で待っていると、しばらくして浅井副校長と、学年主任の大滝という数学の教師が入ってきた。それぞれ何か書類を手にしていた。
「えっと、今日関先生にお話ししたいことはですね、単刀直入に言うと、生徒の保護者からですね、関先生の心身の状態があまりよろしくないのではないかという指摘があったということです。」
「はあ、そうですか」
「ええ、恐らく生徒が先生の状態を見ていてあまりよろしくないと思ったのでしょう。それを保護者に言ったのがまわりまわって、こちらに連絡が来たという事です」
「申し訳ありません」
「いやいや、別に先生が謝る必要はありません。先日のご不幸があり、精神的にかなり困窮していることは私たちも重々承知しております。ただですね、やはり保護者からこうした指摘があるほど、先生の状態がよろしくないとなると、教育現場でそれをほうっておいては私たちも責任を取らされますので、・・・」
「つまり、やめろということでしょうか?」煮えを切らした関は、声色を張らないまま、ごくごく単調にそう述べた。
「いえ、そんなことは申しません。ただ、先生には少し休養していただきたいなと思っているんですけれども。」
「そうですか。」
そこでバトンタッチしたように、ころころと回りくどく話していた浅井から、大滝が話始めた。「勿論先生にその意思があればということです。今年の担当はちょうど高校三年生ですから、受験勉強も本格的にやりはじめなければなりません。その中で先生では重荷であると我々は感じているわけなのですが、どうでしょうか」
しばらく黙っていた関は、他の連中の意見も通してあげなければならないだろうなと漠然(ぼんやり)と想いながら、また一方で確かにしばらく休みたいという気持ちから、「ええ、承知しました。しばらく休養させていただきます。それでその間は、生徒たちは誰が面倒を見ますか」
「その点は、他の国語の先生に授業を担当していただこうと思っています。今の段階では誰とは言えませんが、その期間だけ非常勤の先生たちで都合がつくように取り計らってみます。あと勿論ですが、この休養は先生の療養ということになりますから、その点ではご安心ください」
「そうですか、いえ、別にその点は私の場合はそちらの都合のいいようにしていただいて結構なのですが、そう対応してくださるのならありがとうございます。生徒たちについては、私が復帰出来次第また自分が面倒を見たいと思っているのですが、よろしいでしょうか」
「ええ、それはもちろん。こちらとしても関先生にはできるだけはやく戻ってきていただきたいとも思っていますし、・・・」
そこで浅井が話に付け足しをしてきた。「そうした精神的な休養というのは、とかく現代社会では問題になっていますし、経営者として、そうした講習は何度か受けて来たのですが、何か月もかかるようですね。関先生の状態次第ということはもちろんですが、どうでしょう、先ず夏休み明けをめどに復帰するという方向で考えてもよろしいでしょうか」
「はい、そうですね、では、いつ休みに入らせていただくかということですが、今、ちょうど体育祭が目前に迫っています。これだけは私が担当させていただいても問題ないでしょうか。あまりにも突然担当が変わると生徒たちも動転します。それに区切り的には、体育祭が終わってから本格的に受験勉強に入る子がおおいですから、それまでは何とか私に面倒を見させていただきたいのですが、その方が私としても一区切りついたと安心して休養に入れますし」
「関先生がそうおっしゃるなら、そういたしましょう。」
「本当にご迷惑をおかけして申し訳ありません。」
「いえ、ですから謝らないでください。何も関先生は悪くないのですから」
「では」と立ち上がりながら浅井が話をまとめる。「体育祭までは関先生が担当し、それから夏休み明けまでは他の先生方が面倒をみるということで、関先生、早く養生して復帰してください。あなたがいないと国語科がなりたちませんからな」そういって、一人の教師が学期中に突然休養を申付けられるという異例なことが手早くまとまった。
「ということで、みんなには大変申し訳ないのだけれど、先生は、休養のため、体育祭が終わってからしばらく休みに入らせてもらいます」休みが決まってからか、関は心持軽くなったのかしばらく見せていなくなった元気を出し始めた。彼が、自分が休むということを説明すると、生徒たちはえ~と口々に言った。先生大丈夫ですかと冗談半分で言う生徒も中にはいた。「みんなのことはきちんと責任をもってみるからその点は心配しないでください。君たちに決して不利益が生じないように、私が休みのあいだは他の先生が国語とクラスの面倒は見てくれます。あと、先生の連絡先をこれから黒板に書くので、一応書き取っておいてください。何かあればそこに連絡してくれれば、いつでもどんな質問でも先生は相談にのりますから、安心してください。受験勉強のこと、国語のこと、人生相談、なんでもOKです。ただ、英語とか数学とかは、まあ文系のクラスだから数学はいないか、やめてくださいね。私数学できませんから」冗談を言えるようになると、生徒たちも先生がそれほど大変な状態ではないと思えたのか、どっと笑いだした。
 それまでは羹に触れるような態度だったのが、こちらから事情を話し、自己開示すると、生徒たちは先生大丈夫ですかと親身になって話しかけてくれるようになった。中でも、女子生徒の方が関を心配してくれた。男子生徒はこのような時、関と仲の良い学生は別として、大体野暮ったいものである。心配していても、それを先生大丈夫ですかという安易な言葉として話しかけることが恥ずかしいのだ。だが、自分たちが心配していることを別の言葉や表現に置き換えるだけの頭が働かないから、むすっとして女子が心配して話しかけているのをみて、なんだいあんな簡単に話しかけやがって、大丈夫じゃないから休むんだろうがと嘯いるのである。上目づかいで心配してくる女子高生と、そんな可愛いところのある男子学生とどちらがかわいいのか。
 体育祭が差し迫っていた。
 関が働いている学校は私立の共学高校であったため、公立の学校とは多少行事関係が異なっていた。学校によってもそれぞれだが、文化祭と体育祭を一緒に秋口にやってしまうような豪胆なものもあれば、二つをばらしながらも、両方二学期、三学期にやってしまうというところもあるようである。関の学校は、先ず新しいクラスメンバーとの親睦を深めるという意味もあって、体育祭は五月中にやるという、極めて早い時期に行われる。まだクラスのメンバーを全員覚えていないという状態で準備がはじまるから、生徒たちにとっては早く名前を覚えなければと焦ったり、あまり相手のことをよく知らないからそれぞれ上手く距離が測れずにぶつかったり、ひっついたりするのに忙しいが、教師としてそれを眺めているのは結構面白いものがある。関は、高校三年という、もうすぐ大学に入り、そしたらすぐに社会人になってしまう若い子供たちをみて、自分の経験を振り返りつつ、担当しているクラスの学生たちを微笑ましげに眺めていた。
 学年行事に力を入れている学校ということもあり、体育祭が近づくと、部活動はほとんど停止状態となり、教員も学生たちの練習に付き合ってクラスの団結力を高めて行った。関も、この体育祭でクラスが一つにまとまるまでは何とか自分が面倒を見ようと思ったのはこのためでもあった。ここでグループが固定化されてしまうのが、教育者としての関にとっては悩みであった。彼自身の学生時代は、例のごとく交友関係に恵まれなかったために、高校三年の時点ではほぼ一匹狼に近い状態だった。一匹狼がほめ言葉なのかけなす言葉なのかは文脈によって判断がわかれるが、狷介固陋と言ってもよかった。そのなかで、彼は自分の回りをずっと監視していた。彼は常に見ることをしていた人物であり、見られることを極端に恐れた人物であった。関は、学生時代クラスの状態を常に見ることによって、そこに人間関係の糸や、グループの色、グループ同士のつながりの線などを見ていた。偶にそこから離れていつもいる場所とは違った場所に行ったりしている人がいるのをみると、さては何かあったのだなと一瞬で判断がついた。その点では、クラスに必ずいる友人関係や誰が誰を好きといった秘密の情報を何故かたくさん持っている情報通の人間と同じくらいの情報は持っていた。関が学生時代の時分にはすでに携帯電話はかなり普及していた時期であったから、そうした携帯電話の弊害やネットのいじめの陰湿化などが騒がれた最初の時期にあたる。そうした電子機器の発展、普及のために、それまでなんとなく不明瞭だったクラス内の人間関係がより差別化されるようになったのだと関は考えていた。
 どうしたって、人間関係の間に電子機器が侵入してくるのだから、人間関係が見える化してしまう。ある意味では人間関係の格差がより開いたと言ってもよかった。仲の良い友達との間柄はより親密に、それ以外のクラスでちょっと話す程度の子との関係はより稀薄になった。関の時代でも、携帯を買ってもらえない子というのは実にかわいそうだった。彼は自ら最後は自分の携帯に触れないような性格に変容したが、それでも見ていて携帯を持っていない子は、それだけで周りからは何の声もかからなかった。仮にその子が携帯を持っていた場合は良い友情が芽生えたとしても。だが、それでも関の時代はまだメールが主流であったので、それほどグループという意識は表面化してこなかった。常にメールは一対一が主流であったからだ。現在は、ネットを使用して、ツイッターやFacebook、LINEなどの台頭により、より明確にグループが見える化してきてしまった。関は仕事柄、自分のウェブサイトを持っており、芸術家、作家、評論家としてのアーティクルをそこで広告活動していたが、そうした背景もあり、現代の学生が電子機器によって受ける精神的な苦痛もよく把握していた。
 LINEにはグループがある。そこに加入していると、ネット上でオンタイムで話しているような空間がつくられるのであるが、そこに加入していないということがすでに、現実のグループでも差異化される原因となった。今までの交流は、学校で顔を合わせて話し合うことがコミュニケーションと捉えられていたが、どうにも現代の学生たちは、学校での限られた時間よりは、家に帰ってから翌朝までの間の電子情報のやりとりのほうが重要視されるコミュニケーションとしてとらえられているらしい。それを仲の良い生徒たちとの話から聞いていて、だいぶ人間というものがねじれて来たと関は感じていた。個人の日記帳的な存在であるブログや、ミクシーなどのちょっとしたウェブ上のメモ帳のようなものに、日々の事柄が記されており、そこでの延長で話をしたりするので、他の生徒全員に近いメンバーのブログやらミクシーやらを確認していないと、学校では話さえもできないというような状態もあるらしかった。関のクラス、学校ではそこまで酷い状態ではなかったが、それでもすでに固定化しているグループではそうしたことが行われていることは容易に想像された。
 関がまだ、若いとは言ってもその人生すべてをかけて、また愛してきたものは、本である。本というよりは、文章である、文章ということは言葉である。関は言葉を次のように認識していた。哲学的な思考もした彼は、人間という種族そのものが、他の動物たちとことなる点において言葉を有しているという認識に基づいていた。人類は言葉を用いてその高度な精神を共有することができる。人間は言葉によって、人間を理解することができるし、また人間を言葉によって生かすことも、殺すこともできると信じていた。コミュニケーションツールの最も原初的なものであり、また現在においても最強のツールである言葉というものを芸術的にまで高めて操るということは、関にとって言葉とは彼そのものであると言ってもよかった。
 関にとっての言葉とは、表記された文字ということだけではなかった。彼は彼自身が作家であり、小説を何冊が出版しているということもあったのだが、小説家であるからこそ、小説の限界、ひいては表記文字の限界を感じていた。彼にとっての言葉が、表記することによってすべてを表現できていたならば、教師という職業をわざわざやりはしなかっただろう。彼は自分が小説を書いていても、本当に伝えたい人間の心情の機微や、豊かな感情の深みが伝わらないからこそ、敢えて教壇に立つようになったのである。言葉には、音が含まれている。声色、それから、リズム、高低、あるいは人それぞれの個性である声の音、表情、そこには口の動かし方だったり、どんな目をしているかとか、仕草だったりとかが含まれ、身体全体をすべて含んだものだと彼は思っていた。関は小説を書きながら、自分が伝えたいことのほんの何分の一も伝えられないことに、失望していた。そうして、彼が考える言葉という概念から、ほとんどすべてを取り去ったなかで、ネット上でやりとりされる何の色彩も持たない無機物な言葉のやりとりをみて、ほとんど失意に暮れた。


憎愛 七

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 それだけ評論活動をして、論理的に精緻に構成された文体を獲得しておきながら、彼に作品では詩的な文章を散りばめたような文体を用いたのは面白いことであった。清雅は見事に評論家としての自己と、作家としての自己を分けたのである。そうして、作家としての自己を鍛えると同時に、そろそろいい塩梅になったかと思われた時期に、評論家としての清雅と作家としての清雅を組み合わせ始めたのである。元から評論家としては下手な評論家よりも経験の分野で力のあった清雅は、それを隠して作家をしていたと思われる。そうして、作家としての限界を感じた際に、再び評論家として花咲き、さらに今までの二人の自分を混合することによって新たな境地へ入った。評論で特筆すべきは、『太宰治「女生徒」試論‐秘められた反戦メッセージ‐』である。ここで清雅はそれまでの太宰論の中では主張されていなかった、実は反戦のメッセージが隠されているのだという主張を鮮やかに展開している。これを文学雑誌で発表したことによって、作家としての清雅は、さらに評論家としての清雅を社会に認識させることになる。その後、数多くの現代作家論、現代小説論、映画のレビュー、アニメのレビュー、など数多くの論評を展開した。そこから評論家の関清雅は、メディアという媒体への視座も獲得している。『テレビコマーシャルに見る、機械の擬人化。コミュニケーションツールの発達による人間の孤独への試論』では、昨今のコミュニケーションツールの発達がさらに人間を孤独にさせ、悪循環に陥っているという論評を発表し、メディア媒体への深いまなざしを証明している。
 さらに優也が感銘を受け、一時期は自己を投影させるほど陶酔した作品、マンの『ベニスに死す』については『トーマス・マン『ヴェネツィア(ベニス)に死す』試論 本当に同性愛小説として読み解けるのか?』という論文において、それまで同性愛小説として解釈されてきた読みの歴史に終止符を打ち、芸術家の美術の保存の衝動を見事に示したのである。ここで、清雅はアッシェンバッハがこう言っているのを心に留めている。以前にもちらと紹介したが、「言葉は感覚の美をただ讃えるだけで、再現することはできないと思った。」という部分である。清雅の論文では、アッシェンバッハは偉大な芸術家であったために、究極の美に出会ってしまったために、彼の人生は終止符を打たなければいけなくなったという逆説的な展開が説明されている。アッシェンバッハがであったのは、まさしくタージォという完璧な美であった。そうして作品内で言及されている何度もこの少年が長生きできないということを認識する部分を考えると、アッシャンバッハは美を保存する必要性がなくなったために死を迎えることが出来たのであると解釈している。つまり、もしこの少年がこれからも健康に成長し、歳を重ねることがアッシェンバッハの眼に明らかであったなら、彼は急いでその全芸術性をつぎ込んででも、美少年タージォの美術性を保存しようとしただろう。しかし、彼が長生きできないとわかったために、保存を究極の目的とする芸術家はその役目を終え、死をもって祝福されるに至ったのである。人間としての優也は、芸術性を考えた際に、やはりアッシェンバッハが口にしたあの言葉が真実だとしか思えなかった。言葉の限界は、やはり美を保存するまでである。新たな美を構築することはできない。限界は完璧な美をそのまま冷凍保存し、言葉によって固めておくことである。清雅は美の保管、あるいは保存において、言葉の限界を感じた。この一点に関していえば、視覚的には美術の方が優れていると信じていた。彼自信美術家として創作を続けていたが、人間の美については絵画よりも彫刻の方が表現しやすいと考えていた。オーギュスト・ロダンを超える彫刻家が出ていないのは、彼が最も人間の美を石膏と大理石とブロンズのなかに保存することに成功したからである。
 関清雅の名は、一度作家として名声を確保したのちに、評論家としての側面を加え、そうして再び美術の世界で名を轟かせた。嘗て関優也の名で高校時代に活躍した優也が、その後清雅になって帰ってきたのである。優也はこの時期、丁度大学を卒業して母校に教師として戻ってきた頃であった。免許は国語しか持っていなかったものの、社会的に評価されている点を鑑みて、授業外では美術も教えていた。優也が教員になって二年目に、清雅は窪田善明と共に日展に出展している。清雅の芸術家としての腕前は、ここがほぼ限界であった。それは清雅自身が感じていたことでもあった。同時期に窪田善明の元でともに制作の教えを乞うていたタマチカユは、今では一流のイラストレーターであり芸術家としてマスメディアに取り上げられるにいたっていた。タマチカユの絵を、清雅は評論家としてこう分析している。
 「あの、多少グロテスクとも思われるようなキャラクターは、ある意味では現在の社会そのものの象徴である。目が離れて視点が定まらず、どこか呆けている感じ。そうして、あのキャラクターは常に何かしらを被っている。それは着ぐるみなのかもしれないし、あるいはただ毛が生えているだけかも知れない。いずれにせよ、あれは脆く毛のない部分と対比されることによって、おぞましい自己の内面を毛によって覆い隠そうとしている現状の象徴である。そうして、あのキャラクターが牙や爪と言ったものを有しているのは、あの呆けた状況の存在が無意識のうちに非常に危険な状況で相手を傷つけてしまう可能性のある凶器を持っていることを現している。まるで愚かな人間が、火の使い方もまだよくわかっていないのにも拘わらず核爆弾を持っているような感じだ。」
 清雅は自分の居るべき場所は、タマチユカが戦っている前線ではないと感じていた。タマチユカほどの才能もなければ技術もないことは自分でよくわかっていた。それに清雅乃目指すところは、まず文学をより洗練させることと、いつの日か美術と文学を何らかの形で融合したいという思いだった。
 
 三寒四温という言葉を考えた日本人は天才ではないかという評判が立つほど、見事に厚さと寒さを繰り返した春も終わり、式も終わった。新学期が始まってから、休みボケした調子がちょうどよくなってくる時期にゴールデンウィークというものが、そのリズムを破壊するので、教師としての関は、この休み明けの教室をどのようにしてまとめていくかという問題が常に念頭にあった。ただ、ちょうど式はゴールデンウィークに合わせることが出来たため、忙しい職がらの関としては、幸いなことだったのかも知れない。せっかく、春休みのあと、締まりきっていた声帯が開きかけ、授業の調子も良くなってきた先での不幸と、長く寂しい連休のため、休み明けに登校してきた関は、教師としては失格であった。生徒が気を使わなければならないと感じるほど傷愴し、疲弊しきっていた。
 関は根が真面目な人間で、しかもかなり自律し、自らを罰する人間であったので、本来人を失った悲しみという他人と分かち合うことによって癒していくような事柄でさえも、すべて自分で抱え込んでしまっていた。関の授業は生徒には人気のあるほうであった。立て板に水を流すようにカリスマ的な授業はできなかったが、それでもその論理的な展開や、どうやったら生徒にわかってもらえるだろうかという、感覚的な部分がかなり生徒の実情とあっていたため、生徒にとっては実りある授業だったと言ってよいだろう。関の強みは、論理性と感性という通常別個で存在するものが、彼の中では両方相まっていたということだろう。通常論理的な人は、ユーモアにかけたり、融通が利かなかったりすることが多い。反対に、感性が強い人は、論理的な跳躍があったり、心があっちへいったりこっちへいったりして、一緒にいるぶんには楽しいが、授業をするのには向いていないだろう。関は、自分で培った論理性と、芸術的な感性を両方持ち合わせていた。
 ただ、五月に入ってからの彼の授業はとても聞けたものではなかった。何とか頑張ろうとしているのが伝わってきてしまった時点で、教師としては失格であった。生徒というものは大人が考える以上に、というよりは子供だからこそ感覚は新鮮で敏感な部分がある。関の発する言説化できない不穏な空気は、即座に生徒たちに看破されていた。初めの内は授業をがんばろうという気持ちからか、関は声をきちんと出して授業をしていたものの、しばらくたち、そうした意識が薄れてくると、次第に教室の後ろに座っている生徒が聞くのに困難が生じるレベルの声量に落ち込んでしまった。それを後ろの元気な生徒が先生声小さいです、などと指摘すると指摘されたことにショックを受け、その場では頑張るものの、ショックを受けたという様子が生徒に完全に伝わってしまった。
 最も関の精神がよろしくないと生徒に感じられたのは、授業中の沈黙である。あれほど多弁であり、明るい人物だったのが、授業中に沈黙をするようになった。もちろん今までだって一秒も間をあけることなく話し続けるなんていうことはしていないが、通常の沈黙がただの間として生徒たちに何の印象も与えなかったのに対し、今の関の授業中の間は、沈黙のそれであった。間という言葉は、言の葉思想を勉強していた関にとってはどのように感じられたのであろうか。おそらく彼には間という発音は魔にも通じるから、人間ならざるものが通ることによって、人間の通常の運行が阻害されるものだろうと認識していた。そう信じていたからか、あるいは本当にそうだったのかはわからないが、彼が黙った時には本当に魔が通って関の心を奪っていってしまったように、実に重苦しい空気が支配した。しばらくすると、といっても実際のレベルではものの数秒なのだが、それが何分もの沈黙だったくらい感じられるほどの重さが去ると、はっとしたように再び意識を取り戻し、授業を再開するのであった。当然このような事態に、元気があり溢れている生徒たちが何も言わないはずもなく、生徒たちはそれは彼らの純真なる心で、そこに悪気はなかったとしても、親に言ったり、他の仲のいい先生に関の状態を言ったりした。
 この時の関の顔をすこし見ておきたい。
 関は、何をするにしても精神を使用することしかできない人間であったから、肉体はかなり虚弱であった。思考をするのも、文章を書くのも、芸術作品をつくるにしても、どれも精神のみを使用していた。ここに彼の人間としての欠陥のようなものがあるのだが、彼はその論理を持ってして、肉体と精神を分け、精神活動のみをするために肉体の側面をおろそかにしたのである。文化人、教育者としては本来親身一体的な考えをした方がよかったのかも知れないが、天は二物を与えず、彼には素晴らしい精神的な力を与えたが、その思考の一点において多少無理のある論理を展開せざるを得なかったようであった。関は、教師である間こそ教壇の上に立っていたが、それ以外ではほぼ動かない生活をしていたため、同僚の教師と比べても驚くほど細かった。ただでさえ痩せている方ではあったが、不幸が続いたことによって、彼は食欲も睡眠欲も消え失せたため、一気に体重を減らしてしまった。その結果が、皮膚があまり、顔に醜いしわをつくることになった。
 彼の顔の皺というものは、しかしただ単に体重が減って皮膚が余ったからというだけではない。彼がもともと「平成の文豪」と呼ばれた所以は彼が年齢に比例しない容貌をしていたからである。元から彼は老成した顔の持ち主だった。しかし、関が老人の顔を付けるようになったのは、学生時代からであって、子供のころは子供らしかった。関が小さかったころを知っている近所の住民たちは、彼が大人になって急変していったことを目撃している。関は、前にも述べたが交友関係にはかなり恵まれなかった。不幸であった。その時点から彼の人生に影が差しこんだごとく、彼の顔にもまた皺が差し込んできた。先ず、関は人間を恨み、自分以外の人間は敵でしかないとまで思った時期があった。そこでできたのが、鋭い眼光と、しかめっ面である。その際に、人をにらみつけるあまり、眉間と、眉間から鼻の横にかけて一本の深い線が刻まれた。皺の名称というものは、どうやらこれといった決まったものがないそうだが、ちなみにこれはゴルゴ線というらしい。さいとう・たかをの漫画ゴルゴ13に登場する東郷という人物に特徴のある線だからだそうだ。そうして憎んだために、鼻の横から口の横へかけてのほうれい線とよばれる皺が刻まれることとなた。人を憎むと、歯を食いしばる。そうして鼻を持ち上げようとするので、自然とここに皺が生まれることとなるのだ。
 人を恨むのに疲れた関は、その後人間とは何かという人生哲学へふけっていった。それは彼の大学時代に相当する。この時にはすでに前の二つの線が刻まれていた。そうして、次に深い深い思索へと陥っていったため、今度は答えの出ないような問題を考え続けた結果さらに眉間に皺ができたのと、額に皺が出来た。どれも皺というものは人間を恐ろしく老けて見せる効果があるが、関の場合は痩せて余った皮膚に加え、それらが典型的な線となって顔面に刻されてしまったことが歳をとって見えるようにさせてしまっていた。
 人間の歳の取り方というものは、年齢相応なのが善い。若作りしている人間が多くの人々に気持ち悪がられることがある。本当は50代なのに、60代なのに二三十代のような気持ちや恰好をしていると、あの人若くてステキという心情よりもなんだかがっついている、若さに執着しているという認識の方が強いようだ。何故だが若大将の歳の取り方は共感ができるのだが、郷ひろみは気持ち悪いと言われることが多い。反対もまた然りである。若さを保っている若大将のように、実年齢より歳をとって見えても、それが似合っている人はいる。そうしたものを老成しているとか、早熟とかいうのかも知れない。関の場合はどうであろうか。少なくとも人生の疲れとして刻まれたこれらの皺は、彼にとっては不幸ではあったが、人間全体においてありえないことではなかったので、歳の取り方としてはいささか歳をとりすぎてはいたけれども、ある程度享受された。関がメディアに取り上げられた時には、彼の年老いて見えるのを驚いた人間が多かったが、たまには実年齢をみて、偉そうにと糾弾する人間もいた。
 肌は黄色人種の典型と言ったような、黄色がかった色で、痩せているせいで欠陥は浮き立ち、観ていていいものではなかった。それが、今回の不幸のために、ぐっと死の気配が深まったように、誰もが見えた。学校の廊下は、震災があってから節電のために、陽が出ている間は消すようにされていたのであるが、廊下の壁に窓が配置されているとはいえ、ある部分は窓がなく、そこだけ陽が当たらないようになっている場所がある。チャイムが鳴り、教室で騒いでいる生徒たちは、教職員室のある管理棟から曲がってきた教師陣たちをみて、次の先生が来たと準備を始めるものであるが、関が廊下を歩いているさまは、そうした心浮き立つ若い人間の精神を凍てつかせるほど恐ろしい様相であった。関が日の当たる部分から、陽の当たらない部分へ入ると、手前の地面に当たって跳ね返った光が関の下からあたり、その皺がぞっとするほど浮き立って見えた。影のせいか肌は黒く、眼球の閃光のようなものが煌々と光っているのが見えた。皺は浮き立ち、羅生門に登場する脱衣婆が現れればこのような恐ろしさかと思われたほどであった。休み時間の興奮の冷めやらぬわかい精神の持ち主たちも、この死に囚われた人物をみれば、さっと冷や水を浴びせられたような感覚になった。この時点で関を死から最後まで遠ざけていた存在はなんだったのであろうか。ある意味彼はすべてを失っていたはずであった。彼は精神を病んで死の縁に一度立ったことがあったが、その際には消極的な生ということだけで、死を好んではいたが、望んではなかった。今回もまた死んで楽になりたいとは思っていても、積極的に死にたいと思っていたわけではなかった。ただ、それでも彼を教師として教壇に立たせるまでに奮い立たせていたものは、やはりそこになるかあると考える方が妥当であろう。関は、自分が失った愛すべき存在や、あるいは若さというものなどを混合して、自分の生徒に、とりわけ女子生徒によりどころを求めていたのであった。
 死に取りつかれた反面教師が教壇に立っていられるほど、社会の目というものは優しいものではなくなってしまった。昔であれば、その教師が回復するように何とか周囲が手を尽くして介抱へ向かっただろうが、現在の社会においてはダメになった人間は切り捨てるという思考が先行する。これは皮肉なことにも、関自身が彼の著作のなかで批判していたことであった。彼は文学者と教育者という両方の側面を持ち合わせていたので、人間をどう育てるのかという点に関しては一本の筋を持った人間であった。彼は昔のコミュニティーは、確かに周囲の目というものがかなり強くあり、ヒステリーを起こしてしまうような人が出てくるくらい閉塞された空間であったことは確かだが、ダメになった人間に対してはもうすこし寛容であったと述べている。人間がまだ、人間として人間と接していたころ、能力的にあまり芳しくない人でも、それぞれやっていける隙間のようなものがあった。しかし、特に戦後から、非常にカリキュラム的な制度的なものが強く人間を縛るようになってから、そこから外れるような人間は不適合者としてはじかれ、社会から切り捨てられてしまうということが生じるようになった。良い意味でも悪い意味でもそこに存在した隙間を、埋めて行ってしまったのである。隙間は確かに無駄なのかも知れない。しかし、無用の用ということもあるし、隙間がないと軋轢が生まれる。現在の人間はその軋轢のなかでいているから、軋んだ音が聞こえるのである。この軋む音が生苦しさである。
関が、まだ社会人として地位も名声もあったころは、その隙間を造らなければならないと主張していたが、はじかれる側の人間となってはその主張もむなしく、切り捨てられる対象となってしまった。彼は自分が救おうとしていた部分の人間になってしまったのである。あるいは自分にとってもその隙間が必要だったのでそうした主張をしていたのかも知れない。あるいは自分がはじかれてしまうことを予見していたのかも知れなかった。
教師として、また人として廃人と化してしまった関のことを糾弾し始めたのは、生徒でも同僚の教員たちでもなく、保護者達であった。当然と言えば当然のことかも知れない。自分の大事な子供を高い授業料を払って教育を受けさせているのにも拘わらず、そこの担当の教員がいくら社会的に有名とはいえ、精神的によろしくない状態であれば、それは子供たちにとって良い影響があるとは言えない。むしろ、そうした先生の状態が子供たちにも何かしら悪い影響を与える可能性があると考えるのが親たちの意見だろう。実際問題、教師が精神的にまずい状態であれば、子供たちというものは意外と優しさを持ち合わせているものだ。中途半端にヒステリを起こしたりする教員に対しては、そんなことまでするかと思われるほど残酷な仕打ちをして見せることがある教育現場ではあるが、誰の目からみても、死に囚われているようなかわいそうな人間をみて、とどめを刺してやろうという魂胆が生じる生徒はその学校にはいなかった。子供たちは、そうした部分には意外と豊かな精神を持っているのである。あるいは、乙武洋匡氏が教員として教壇に上がった意義は、ここにあるのかも知れなかった。つまり、乙武教諭には、当然ながら生徒が喧嘩をすれば止める力もなく、また教師に対して暴力をふるう生徒が出て来た場合はただ殴られるだけになるだろう。しかし、誰もが人間としての心を持ちうるかぎり、乙武教諭に対して暴力をふるうこともなければ、誰かが察して喧嘩を止めるであろう。反面教師というわけではないが、五体不満足であったとしても、そちらのほうが生徒の人間性を高めるのには有効なのかもしれない。しかし、それは保護者が許さない。保護者というものは、自分の子供がというよりは、自分がそれを許せないのであろう。通常ではない状態の人間に教えられれば一体どうなるのか、ありもしないリスクばかりを引き出してきて、この点に関しては関清雅という作家などよりもよっぽど想像力があるが、通常の、平均の、最も安全な状態に改善しろと訴えてくるのである。保護者、特に母親達というのは、論理的に考えれば、もしかしたら空から隕石が降ってきて当たるかも知れないから子供は外を歩かせられないといったたぐいの理論とほぼ大差はなかった。

憎愛 六

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 優也にとっての親友は、彼の表記に従えば「眞友」とした方が正しかった。優也は彼の文学作品のなかにおいて、現代作家では珍しく、積極的に表記に対して新しい漢字やことばを当てることを躊躇わなかった。それは、彼が感銘を受け、そうして偶々その人物の没日と、優也の誕生日が同じだということで、彼が秘かに生まれ変わりではないかと感じていた夏目漱石に倣ったものである。夏目漱石はかなり自分の好き勝手に言葉を選び、また漢字を変え、送り仮名を変えたりしている。それは深い漢籍の教養からきたものであったが、優也はそのような知識はなかった。
 有吉の存在が彼の人生に登場したことによって、深く悲しみに包まれていた彼の薄暗い人生には、一つの灯篭が浮かび上がってきたように見えた。有吉は紛れもなく、優也を救った人間である。優也はここにきて、初めて人間性の回復という言葉の意味を理解した。優也の美術の師であった窪田善明の美術性は、人間性の回復というテーマに求めることが出来た。これは窪田善明が、ある展覧会で賞を受賞した際の作家のことばである。
「ふと『我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか』という名作の題名が心に引っ掛かっている。嘗てゴーギャンに傾倒したことはないが、『人間性の回復』や『命の連鎖』をテーマに制作する私の世界観に重なる言葉だと感じる。人間が重ねて来た歴史の功罪、その中で引き起こされた悲喜劇を私たちは日々目撃している。私たちの魂は、傷つき悩みつつも悲しみを乗り越え、希望に向かって進んでいると信じたい。絵画は、その希望や祈りを実現できると思う。」
 優也はそれまで窪田先生の先生としての一面しか見ていなかったことを悟った。いくらプロの画家と言っても、普段から芸術性を学生の前で披露するわけではなかった。優也は高校時代には、窪田先生が芸術家としてどのように感じ、考えているのかということを、真剣に考えたことはなかった。こうして明文化されたものを見たとき、優也は初めて新しい感覚を覚えた。窪田善明の言う『人間性の回復』。窪田善明は、その人生の中でどのようにして、何を失ったのだろうか。このテーマを考えるということは、窪田善明がどこかしらで大きな人間性の喪失を得たということである。だが、優也はそれを直接聞こうとはしなかった。それは第一に自分の恩師に対してそのような詮索をするのが失礼だと感じたからであった。そうしてその次に、彼の作品と芸術性は、彼そのものではないので、それを聞いても参考にはなっても、本質的な理解にはつながらないと思っていたからである。どうして彼が「人間性の回復」をテーマとするのかということを追い求めたとしても、それは窪田善明の理解につながるとしても、彼の作品の理解には繋がらない。窪田善明は、自分の作品のテーマが「人間性の回復」であると言っただけで、自分の人生がそのテーマであるとは言っていない。そうして、作家として優也も、自分のテーマを自分の人生のどの点において体得したのか、どんな経験があるのかなどを、たとえ親しい人間にも詮索されたくないという感情があった。
 だから優也は窪田先生にあらぬ詮索をしなかったわけだが、この言葉を見て、優也は自分の作品にもそのテーマを参考として取り入れることにした。優也が有吉という唯一気が置けない眞友を持ったことと、この「人間性の回復」というテーマに触れたのはちょうど同時期であった。優也の作品制作はここで一段階つくこととなった。
 その後優也が本格的に力を入れていったのは、専ら文学作品の創作であった。優也はその文体を自称没後弟子であり、自称生まれ変わりである夏目漱石に倣っていた。また、漢字の組み合わせや言葉の合わせ方などは泉鏡花の『女系図』にも倣っている。優也の文体は、しかし、漱石が落語を筆記することによって得た散文調で多弁な文体とは異なり、非常に詩的な文章を書いた。同時代評としては、綿谷りさとも、池澤夏樹の後継者とも呼ばれたあの独特の文体である。
 漱石や鏡花によって得られた独特の言い回しや言葉と、言葉と言葉を紡いでいく詩的な方法とによって、優也は「平成の文豪」という異名と共に、筆名を清雅として華々しくデビューした。清雅を優也はきよまさではなくせいがと読ませた。そこにはこのような意味が込められていた。まさしく人間の汚い部分を見て来ただけにあって、太宰治の『女生徒』にあるように「美しく生きたい」という想いが何よりもあった。清雅はこの作品を解釈するにあたり、この美しさを清さと同質のもとの認識した。清雅はこのように、優也自身が清く生きたいという強い願いによって、まず清いという字が選ばれたのである。そうして、優也の家系のなかで排出された芸術家の一人に日本の伝統文化の一つでもある菊人形を作る女性が居た。その女性は優也の祖母であった。優也は特別この祖母にかわいがってもらったのを今でもありがたく思っている。無条件に優也のことを愛してくれたのは、両親よりもこの祖母だったのではないかと、今思い返して感じていた。この祖母は実は優也とは直接血がつながっていなかったのである。それはこの家系図の一つの謎になっていた。優也はそれを知らなかった。その女性は恐らく自分との直接の血の繋がりが無いことも含めて、余計に愛情を注いだのかも知れない。その女性はこの家系からかなり異端として存在していた。まず彼女はとても霊感が強かったのだと、優也は祖母が死んでから後に大人になって聞かされた。その祖母は回りの人間に自分の心霊体験のようなものを幾度か聞かせていたようである。その霊感の強い祖母は、優也の下の下に生まれてくる子どもが女の子だということを言い当てている。ただ、その祖母は予言めいたその言葉を残して間もなく脳梗塞で倒れ、それ以降認知症も重なり言葉を発しなくなってしまった。それはまだ優也の幼いころだったので、優也はいまでももう少し自分が早く産まれてくるか、祖母が倒れるのが遅かったらと、とうてい叶わない願いをいつまでも続けていた。その祖母が優也に対してはなった直観のような、予言のような言葉のなかにはこんなものがあった。「この子はいい子だ。人の苦しみや辛さがわかる子だ。」「あんまり身体が良くない子だ」「この手先の器用な、この手が何か書く仕事を与えるだろう」
 祖母はこれらの言葉を優也がまだ小学校に入る前にはすでに言っていた。祖母が倒れたのは、優也が小学生の中学年の頃である。優也の両親は、それらの言葉を覚えていて、倒れて口の利けなくなった祖母のお見舞いの時には必ずと言っていいほどそのことを優也に述べた。そうしてそのような話をするときは、はっきりとした意識があるのかわからない祖母も、不思議とそれ祖母が語っているような雰囲気を優也は感じた。この優也の祖母たる女性の雅号が、「紅雅」だったのである。祖母が何故この雅号が使用したのかは、結局それを知りたいと思ったころにはすでに脳梗塞で倒れて口がきけなかったので、終ぞ優也は知ることが出来なかった。祖父も何故自分の妻がそれを使っていたのか知らなかった。ただ、この雅号が、彼女の息子である、優也の父の名前の一文字であることは確かだった。関一族の父方の家系には、優也が自分の雅号に雅という文字を使用することによって、雅の一字が三代に渡って引き継がれることになった。雅という言葉は、言葉に敏感な清雅にしてみれば、とても美しい言葉であった。第一にみやびやかという意味がそこには込められていた。紅雅も、優也の父も、清雅も、他人から見たらみやびやかという言葉を確かにイメージさせる人物であった。紅雅と清雅は、まさしくその作品においてもみやびさという日本の美しさを湛えた作風であった。上品で、風雅、優雅。こうした何処か浮世離れしているような形式的な美というのも、清雅は好んだのである。清雅の文学性とは、江戸っ子の漱石から引き継がれたように「粋」の文学性でもあった。だから清雅にとっては、太宰治を筆頭とする無頼派のような人間としてぼろぼろになりながらなお生きるという生き方を粋だとは思えなかったのである。太宰は人間失格で仮面を被って生きて来たということを主人公の葉造に言わせているが、清雅はだったら作風でも仮面を被ればよかったじゃないかと厳しい批判をしている。雅について、清雅が見出した意味合いはまだある。あでやかやなまめいて美しいというのは清雅が好んだことであった。そうして、何よりも正しいという意味があるのを知って、優也は自分の雅号にこれを選ぶ最終的な判断を下したのである。優也の人生において正しさとは何かを求める青年期であった。何が正しいのか、正しいことが行われなかったために、自分は酷い目にあったと思っていた。優也は自分にこの異名を付けるにあたって、清く美しく、そして粋であるようにと決心して付けた。
 関清雅が文壇デビューしたのは、『一滴の想ひ』であった。優也の高校時代の、辛い冬の時代の後に、わずかながらも幸せだと感じることが出来る期間があった。その期間にちりばめられた幸福を、集めて結晶化させたような小説であった。この作品が優也二十歳の時のデビュー作である。優也はこの作品が処女作となった。しかも、ほぼ書下ろしに近い状態であった。優也は自分の作品を読むのを非常に嫌う人間であった。自分の作品を人よりも読まない作家というのは、なかなかいないものだが、日本ではこちらの表題で通っている『モンテ・クリフト伯』こと『巌窟王』を書いた、アレクサンドル・デュマ・ペールは自分の作品を読まない人間だったらしい。真偽のほどはわからないが、死の間際になって、自分の作品を読み返しつつ「いやあ残念だ、結末を読み終えずに死ぬとは」と言って読み終えぬうちに死んだという逸話が残っている。そうして、また『老人と海』で知られるアメリカ文学の代表格でもあるアーネスト・ヘミングウェイは失われた世代と呼ばれる彼が、その価値観を失ってからパリへ逃れるようにして移住した先で、煌めくパリの想いでを記した『移動祝祭日』の中において記している。現代文藝と現代芸術を大きく拡大するのに尽力したガートルード・スタインは、彼女自身の作文を読みたがらなかったらしい。
 優也は自分の文章を後で読み返すことになって、あまり時間が過ぎていないと主観的になり、時間が過ぎると客観的になるものの、どうしても過去の記憶があるのでそれが邪魔になって客観的に読むことが出来ないと憤り、自分の作品を読むことを放棄してしまった。そうして、その言い訳として自分の作品を読まない人間もいると言い張ったのである。しかし、彼の場合はその作風が詩的情緒に溢れているということもあって、流れるような文体のなかで、どこかを後から捏ね繰り回すというのはあまり望ましいことでもなかった。言葉の細部を変更する程度しかできなかった。国文学科の人間として当然作家の研究もしていた優也であるが、所狭しと書かれた作家の構想ノートや、いつまでも作品の構成まで変えつつ捏ね繰り回す作家を知って、とても自分にはできないことだと感じた。作家関清雅の文学性は、そのような構図や構成に重きを置くよりは、むしろ感情の迸るままに流れ出る言葉の川を、理性によって徐々に整えていくという過程にこそ注意を払うべきであろう。
 デビュー作『一滴の想ひ』が「平成の文豪」という異名を取ってデビューすると同時に、清雅は矢継ぎ早に作品を発表した。一つは優也の制作スタイルが書下ろしに近いものであったという点と、もう一つは明らかに原因のわからない焦燥感に駆られていたからである。優也は何か得体の知れないものに怯えていた。それもパトスやリビドーと言った強力なものに似ているものの、その中には明らかにタナトスの力も含まれていた。強く美しく生きようと願いながらも、死に近づいているようであった。優也の命の燈火は、この時「短くも美しく燃え」ていたのである。一時的に輝きを増すために、命を削りながら輝いていたのであった。それは日本的に考えれば、自分の身体から羽を抜いて生地を織った鶴のようでもあった。作家関清雅は、何としてでも書き続けなければいけない、今書かなければいけないという強い衝動によって、身を削りながら文筆活動を続けた。
 清雅が次に発表したのは、『一抹』であった。ここでは自分を投影させた主人公が、一人の少女との恋の記憶をかき集めて一つの形にしようとする物語であった。失われてしまったものを、必死にその破片を集めることによって形にしようとする、ある意味では芸術の普遍的な問題を扱った作品であった。だが、これはストーリー性を重視する現代の読者からはあまり受け入れられなかった。その次に発売されたのは、清雅の代表的な作品の一つになった『Kの黒点』である。私という語り手が、ジャーナリストとなった現在において、Kという男が逮捕された記事を目にするところから始まる記憶の追想の物語は、Kという男の謎を解き明かすと同時に、それは人類の暗黒面をも照らすものとなった。普遍的な悪への考察をも含んだこの小説によって、清雅は芥川賞を受賞するに至った。清雅にとっての文学性とは、何度も何度も自己の内面において過去を反復し、一体どこで自分が間違ったのか、あるいは人間性の喪失をどこでしたのかを追い求め、何度も再生と成功への道を探すものであった。その結果、清雅の文学には、記憶の追想という形式がごく自然体として取り込まれることとなった。清雅が異国への憧憬の念を募らせていた結果生まれた作品が情熱的で幻想的な詩散文となった書簡小説である『アラビアの手紙』である。嘗てまだ見ぬ異国の地スペインのグラナダに果てない想いを寄せたメキシコの作家アウグスティン・ララは『グラナダ』という幻想と創造の入り混じったメキシコ的情熱さをもって鮮やかに歌い上げている。芸術を理解しないつまらない読者が、現実と作品を混合し、リアリズムがないと大声を挙げて叫ぶ中、一種ガブリエル・ホセ・ガルシア=マルケスが大成したマジックリアリスムの手法を採用しつつ、蜃気楼のような幻想的な小説を書き上げた。書簡を通じて記憶の追憶をすることによって、現実と非現実の境界線の危うさを指摘したこの小説も大きくヒットし、現代文学から廃れていたマジックリアリスムのジャンルを再び活性化させた。この系統の作品としては、清雅は夢を扱った『夢七夜』が連作と言うことが出来よう。夢の世界を旅するという在り来たりなテーマではあったが、夢というテーマと、彼の文体のひどく抽象的なものが読者の詩的感覚を擽ったようであった。ほとんどの小説を一人称でしかも抽象的に書くことによって、清雅の文学はかなり多義的であった。それは彼が何よりも大学で学んだことの最も大きな価値観であったからである。多義性があるテクストこそ文学の研究対象たり得たので、清雅はそれを自分の小説のなかに取り込むために、敢えて漠然としてすべてを語らないという手法を取ったのである。しかし、いくつかのそうした小説を書くことによって、清雅はもう少し具体性のあるものは、人称を変えてみたいという思いを抱くようになった。そうして、試行錯誤の末まず清雅は自分の文学を破壊することから始めた。
清雅はそれまで純文学作家としての名声を確保していた。その保守的な人間である彼が、それにも拘わらず、ライトノベルへ転向したことは、大きな転換期と呼ぶことが出来よう。清雅は大学での学生生活を振り返り、それを三人称視点から、それぞれの派閥が戦うありさまを活き活きと書いて見せた。そこでは登場人物たちは大学が仏教大学であったということもあり、法力を使える存在として登場し、それぞれ戦うという現代の若者が喜びそうなテーマを選んだ。清雅はしかし、そこで戦う原因となるのは人々の慾が原因であり、そのために生まれる悲劇をも上手く隠して忍ばせておいた。それが清雅の人間をまだ許せていないことを現していた。『こまび大戦』と名付けたこの作品で、清雅はライトノベルのジャンルへも進行した。この作品では、また人間の組織というものへの深い言及もなされていた。
試行錯誤の中から一時停滞した時期が生まれた。しかし、清雅はその文学の停滞を、自分の鍛錬の時間だと考え、丁度大学を卒業し、文学研究への一通りの学問を修めたということもあって、人気作家としての地位を利用してそれぞれの文学雑誌の書評やレビューを執筆することとなった。優也自身は、大学の国文学科で首席になるという偉業を成し遂げた。当然そこには現役大学生にして芥川賞作家としてのレッテルが大学教員の眼を寸分狂わした可能性もあったが、それでも優也は誰からみても努力していることは明らかだった。清雅の評論活動は、既に大学に入った最初の夏から始まっていた。それまで芸術と文学をただ受動的に感じるだけであったが、それを評価してみたいという情動が起こったのである。それを優也は清雅の名を冠することによって、自分のブログに掲載していた。このブログは、一人の大学生が本気で評論したものをただ只管に掲載していくというだけの、一般人からしたら無味乾燥にも思えるような小難しい内容のブログであったが、名もない大学生のブログにしては、一日に数百人の来訪者が訪れるほどの大きなブログとなった。世の中には、こちらが本気でぶつかれば、本気で返してくれる人間が何処かにはいるようである。清雅はそれをほぼ毎日続けた。例えば夏目漱石は、彼の文体を創るために落語を明文化することによって筆を鍛えた。音楽評論家であった、故吉田秀和は誰でも分かる音楽の情景を描写するために、彼は自分が書いた音楽評論とほぼ同じくらいの量になるだろうと思われる文量を、相撲の試合を文章化することに費やしている。他の作家がどのようにして文章力を鍛えたのかはわからない。しかし。清雅はほぼ毎日と言っていいくらいのインターバルで、只管作品の評論を続けた。一年、二年と続けて、彼は百万文字を突破している。同じく大学の友人で、源氏物語を読み解くゼミに入っていた友人に一度優也は尋ねかことがある。
「君が研究している源氏物語ってあれ文量はどのくらいあるかわかるかい」
そこで帰ってきた答えが、「百万字を超えている」という言葉だった。その友人は態々調べて優也の質問に答えたらしい。優也はまた独自に、翻訳されているので、本質的には意味のないことではあるが、ユゴーの『レ・ミゼラブル』が何文字か知りたくて、一ページ当たりの文字を数えて、全体の文字数を計算したことがあった。翻訳は辻昶に拠った。優也の計算によれば、ざっと百三十万字であった。勿論原文はフランス語で書かれているため、言語が異なるものに翻訳されたものを数えても意味がないことはわかっていた。日本語に訳す場合は、多少ほかの言語よりは文字数が減るのが一般的である。音韻文字を使用している日本語は、言葉一時が現す意味がほかの言語より多くなるからである。さらに翻訳した際に短くなるのは中国語である。全てが漢字によって意味で翻訳されるため、あの長大な『ハリーポッター』でも、外国人から見たらどれだけ削ったのかと疑いたくなるよう短さになる。ともあれ、評論家としての清雅は大学二年の時点ではすでに百万字を超えた文量を評論として執筆していた。清雅は自分でも認識していたが、その評論活動の御蔭で、論理的思考が鍛えられたのと、作品を体系的に分析することに成功していた。

憎愛 五

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 芸術家の本質とは何であろうか。芸術家とは何をする人間であろうか。最も世界で読まれた『マネジメント』の本を執筆し、経営学という学問を起こしたマネジメントの父ピーター・ドラッカーは、まず定義づけから始めなければいけないと述べている。そうして、当たり前と思われている答えほど実はだれもよくわかっていないことであり、それを考えることが重要なのだと述べている。芸術家とは何をする人間であるか。誰が「顧客」になるのだろうか。
 グスタフ・フォン・アッシェン・バッハは20世紀最大の芸術家のひとりとして描かれているが、その彼がこのように悟っている部分がある。「言葉は感覚の美をただ讃えるだけで、再現することはできないと思った。」作家であるトーマス・マンは彼の言葉を通じて何を述べたかったのだろうか。優也は一人の作家として、また芸術家として、『ヴェニスに死す』のバイアスの解放をしようと決心していた。
 優也が芸術方面で当確を現したのは、高校時代からであった。優也はそのころ丁度人間というものを恐ろしく信じられないほどに心を打ちのめされていた時期であった。教室では失語症になったのかと思われるほど、何も発しなかったこともあると以前述べた。しかし、その彼がなぜ学校へなお通い続けたのだろうか。教室は苦痛でしかない。他人は自分を利用する対象でしかない。そのような中へなおも彼がかなり消極的ではあるが、勇敢にも入っていくことをやめなかったのだろうか。優也はきちんと出席していた。遅刻や保健室登校などをすることはなく、ずる休みもせず、体調が悪くなる時も時にはあったが、激しい怒りで自分の身体と精神を叱咤して、学校へ通い続けた。一つには、こんな愚かしい人間のために自分が妥協するのは許せないという思いがあったのは確かだ。しかし、そのような感情だけで当然学校へ行く意志が続くはずがない。優也の最も学校へ行こうという情動を助けたのは、美術であった。美術への愛と、美術室と、美術の教員であった。優也が目の当たりにしたのは、人間の醜い部分であった。必然その反動として優也は美しいものを見なければいけないという強迫観念に襲われた。芸術の血が、ある意味では人間の酷い仕打ちによって目覚めさせられたのである。本当に美しさというものを知っている人間は、その対極である醜さにも熟知しているものである。反対から言えば、本当の美というものに到達するには醜も見なければいけないということである。正義を知っているものは、当然悪を知っているのである。でなければ正義とは何かを定義づけすることが出来ない。愛を知っている人間は、憎しみを知っているのである。憎しみを知っているからこそ、人を愛すことが出来るのだ。
 優也が人間の醜さを知るということは、神様が仕組んだある意味必然だったのかも知れない。優也は当然非常に苦痛を味わったが、その結果美を見極める審美眼が開花された。その審美眼の素質を見抜いたのが、現代の美術家として日展に出展するほどの実力を持ちながら教師という職業をも掛け持っていた美術の先生であった。名を窪田善明(よしあき)と言った。この窪田先生は、丁度人生五十年を迎えたぐらいの年齢で、彼の芸術家としての人生で脂がのってくる時期であった。愈々高齢の巨匠と呼ばれる芸術家たちにこれから加わろうかという頃合いであった。窪田先生が何故それだけの実力がありながら、教師という職業を掛け持ちしていたのか、優也は今になってこう解釈している。勿論高校時代、直接先生に尋ねたこともあったが、教師と生徒という関係上本心かどうかはわからない。多少脚色がはいることもある。優也は自分も窪田先生に見習って、芸術家として花開いていながら、教師としての職業を掛け持ちするというスタイルをとって、実感として当時の先生の心情を解釈したのである。一つ目の現実的なレベルの問題としては、やはり芸術という自分の才能一つだけで勝負するなかで、その芸術性が失われた際のリスクを考えなければいけなかった。窪田先生は確かに身体が悪かった。時に腰痛を非常に訴え、ギプスをしている姿を何度か目にしたことがあった。この身体への不安、いつ自分の身体が動かなくなって、筆を持てなくなるかも知れないという恐怖が、安定性のある職業を手放したくないという方向に感情が向かったのだろう。そうして、またそれとは相反する部分が少しあるが、自分の才能を生かすという面では、教師もまた才能の一つであった。決して安心したい、安定したいという利己心だけから来ていたものではない。事実教師として教えることにも楽しみを覚えていたのである。そうして、教えるという能力もまた、自分の芸術と並ぶ才能であると認識していたのである。そうして最後に、人間としての向上するために教師をしていたのである。やはりどうしても苦労というものは必要になってくる。苦労はしないに越したことはないという思想と、反対に苦労はお金を払ってでも買えという思想がある。芸術家は一般的に苦労をした人間である。苦労をしたために、自分の芸術性が開花されたと多くの人間が意識、無意識関係なしに感じている。だから敢えて教師という人間を教えるという極めて厳しい環境に自分を置くことによって、自己を向上させようという心持があったのだと優也は解釈した。
 優也は当然教師の目からみても、明らかに人間に対して何か諦念のような眼差しを持っているように映った。同世代の生徒からも、諦念という言葉が浮かばなかったとしても、死んだような目をしていると、多少人間観察に優れた生徒なら思ったはずである。まして、窪田善明は、日本の芸術分野である程度顔の知れるほどの実力の持ち主であった。美と醜を当然見極め続けてきた人生の中で、優也の状態がどのようなものかを見極めるのは造作もなかったことであった。窪田先生もやはり両親との関係においてあまり幸福な身の上とは言えなかった。父との不和、母の早すぎる死。そうしてその母の死が父との不和とから来るものだと長年思い続けていたこと。こうした事情を優也は窪田先生と長く付き合っているうちに聞く機会に恵まれた。窪田先生は、自分の授業の短い時間を通じて、優也の人間に対する根本的に憎しみを持っているという目を見抜いた。そうして、人間に対して善く接しようとすることを諦めているのを見抜いた。また、優也の審美眼が開花されつつあることも感じ取り、そうして彼が作ったものをみて芸術への深い造詣と、技術的センスに溢れていることを悟った。教師の愉しみの一つは、窪田先生が優也に出会った時のように、金の卵を発見し、それを自分の手で育てることが出来るというものがある。これはどの職業にも与えられない、教師の特権的な関係性であった。
 優也は見事に窪田先生の付きっきりの指導のもと、実力を伸ばして行った。優也は自分の母親からも自然と芸術的なセンスを吸収して育っていた。なので新しい芸術のセンスを窪田先生から吸収することによって、相対化され飛躍的にセンスを爆発させたのである。優也の芸術性は静と動であった。これはまさしく彼の引き継いだ父と母の家系の血そのものであった。感情を爆発させようという強い力と、それを制御し、人間として理性的に生きようとする怜悧さとが合わさったものであった。高校時代は粗削りながらも、窪田先生の指導と、善い働きかけで幾つもの学生コンクールで見事な成績を収めた。元から、この学校には芸術家として有名な窪田先生に教わりたいということで、敢えて美術学校には行かずにこの学校に入ってくるという生徒もいるくらいであったので、窪田先生のもとで美術製作をする情熱のある人間は多かった。窪田先生自身は非常に静かで、滾々と湧き出てくる情熱を絵にしていくという恐ろしく静謐な人間であった。だが、生徒には優しかった。それでも、生徒はやる気のある人間しかいなかった。自然と情熱と才能のある人間が集まることによって、やる気のない人間は排除され、常に向上しつづけ互いに影響しつづけるという良い環境が生まれていたのである。窪田先生のもと、美術部は多くのコンクールで団体としての成績も修めた。特に優也の代が優れていたのは、その後優也が教員として再びその学校へ帰ってくるころには、当時一緒に美術室で制作をしていた人間の名前がメディアからちらちらと聞こえてくるほどであったからである。優也はその後、高校時代にかなりその業界で有名になったということもあり、美術系の大学へ行くことを勧められたが、優也は文学を学びたいと思っていた。そうして、周囲の勧めを断り、文学部へ入学したのである。回りの大人たちは落胆した。このまま美術の路へ行けばある程度名前が売れるだろうと思ったからである。ただ、窪田先生はこのことに関しては沈黙を守っていた。
 優也はしかし、自分ではこちらの方がいいと思っていた。それはまず、彼が母と窪田先生というセンスの異なった芸術性を吸収することによって自己の内部で相対化されたからであった。優也はもし、このまま自分が美術の路をすすんだとしても、自分の予想できる範囲内でしか能力を伸ばすことはできないと感じていた。つまり、自分の限界を予測することが出来たのである。それは美術一筋で生きていく最低のラインに近かったが、それでも美術だけで生きている人間の数を考えると、美術をやる人間としては願ったりかなったりの状況であった。しかし、優也は一旦美術から離れることを自己に課したのである。結果としてその選択は正しかった。
 優也が高校のころ、人間を恐れ人と交わらなかった空白の期間、何をしていたのかというと、今述べた美術のほかに文学であった。自分が信じていた人間にこっぴどくしっぺ返しを食らったので、優也は人間を知らなければいけないと悟った。そうして人間を知るには最も適した、そうして手っ取り早い書物にあたったのである。書物は人類の宝である。書物は本である。本は言葉によって書かれている。人間が思考する際、一体なにで思考しているのかというと、それはイメージということもあり得るが、大抵は言葉である。何カ国語も話せる人間に簡単な質問をしてみると良い。今日のご飯は何がいいとかそんなことである。その人間が一体なんの言語でイメージをしたか、それに使用した言語がその人間にとっての母国語である。人間はこのようにして、思考を言葉で行っているのである。そうして、思考を論理的に人間の目に見える形にしたのが、文字である。その文字を羅列し、きちんと一つの体系としてまとめたものは、すなわち人間の思考の体系でもある。ただ、多くの書物がこの世にはある。そのなかから良いものを選ぶのは大変だろうか。実際はそうでもない。なぜなら時が選別してくれるからである。良いものは残る。悪いものは消える。優也はまず人間の本質的な部分を早急に知る必要があったので、古典と呼ばれる古典を片っ端から読んだ。それが人間理解への大きな手助けになった。優也は自分は文学によって救われたのだと思った。そこにはなんでも優也が求めることが書かれてあったからである。人間の醜い面、美しい面、人を愛すること、人を憎むこと。さらに、嘗ての文豪と呼ばれる人間の語りを静かに聞くことによって、それが一種のセラピーにもなった。人下の本質を見極めようとしてきた多くの偉大な人間の言葉をきちんと自分が聞けることがうれしかった。そうして、優也は夏目漱石の言葉を聞き、マンの言葉を読んだ。
 優也は大学で文学を研究することによって、そこできちんと文学を学ぶことが出来た。文学や美術という分野ほど教えるのが難しいことはない。教えるという概念がそもそもこの学問に当てはまるかということも怪しいし、そもそも学問なのかも自信を持って断言することが出来ない。ミヒャエル・エンデは文学を教えることは不可能だと言っている。文学は質の問題である。文学を教えることはできないが、質を教えることはできると言っている。優也が恵まれていた点は、何よりも彼が行く先々において、恩師足りうる人物が存在していたことである。優也は同年代の友人には恵まれなかった。それは、彼が人より苦労をして、苦悩し、精神的にかなり複雑で高度な領域に立ち入ろうとしている際、年齢分しか成長していない精神の持ち主の人間と話が合うはずがなかったからである。仮に何かの話があったとしよう。それは話題などのレベルの問題だが、しかし、考え方が圧倒的に異なった。異なるというより、むしろ同年代の人間の大半が物事を考えていなかった。唯一苦労して、一度社会人になって再び大学に勉強しにきたという男とは、優也は心置きなく話せた。つまり、優也は苦労によって精神的には二度目に大学に入りなおすくらいの年齢になっていたということである。その男は名を有吉と言った。優也は、それでも当初有吉もまた、無知な男だと思っていた。一度人間に裏切られた男は、そう簡単に人間を信じるには至らないのである。しかし、次第に有吉と話し、学生によるある議論をしつづけることによってお互いを深く理解するに至った。有吉は言った。
「僕は、もう一度大学に入ったのは、前の大学の時の勉強が最後のほうもう全然頭に入ってこなかったからだよ」
 文学部のゼミで合宿に行った際に、有吉は語り始めた。
「それで、今までとは全く反対の文系にきたけど、大学で勉強してよかったと思っているよ。親には二度も大学へ行くお金を出して貰ってありがたいと思っている。でも、大学に来て、こういう就職難にはとても勝っていけないような学部で、実学でもないものを勉強して逆に僕はよかったなって思ってるよ。まえテレビで見たやつで、ある学者が、大学は社会に出ていい職業に就くためじゃないくて、大学を出たことに意味があるんだっていう考えがあって納得したんだ。文学なんて、どうしてやるかっていうのはわからないけれど、やって何の意味があるのかもわからないけれど、だからこそ、やらなければいけないと思う。僕は、年齢こそ君より上だけれども、君は僕より先に文学の路に入った男だからさ、尊敬しているよ。僕をもっと高みへと導いてくれると思ってるしね。」
 優也は初めて尊敬という概念を考えた。テレビなどで登場する若手アーティストが軽々しく口にするだれだれをリスペクトしていますというような軽薄なものではない。有吉が使った尊敬ということばは、ある意味では友情であった。一人の男が、一人の男に対して、何の利害関係など考えることなく、ただ自分を高みに導いてくれる存在として、敬意を抱きつつも、違うと思ったことは心置きなくぶつけてくれる、そうしたものを尊敬というのだろうか。優也は自分よりいくつも年齢の高い有吉が、自分をそのように思っていたことを告白され、照れが混じりながらも、有吉を尊敬していることを述べた。
「いや、僕の方こそ君にお世話になってるし、なにより尊敬しているよ。まず君の方が僕よりも生きてきた年数が多いし、本当はこんな風にため口をきいているけれども、敬語で話さなければいけないしね。それを同学年だからって仲良くさせてもらっているけれども、やっぱり他の年上の人間は、敬語つかえみたいなオーラを出してくるのもいるからさ。僕は君と話していてこんなに気持ちよくなんでも言い合える人間はいないと思っているよ。それに君は僕みたいに神経衰弱でないし、僕がまいっているときは何かと支えてくれるし。
 優也にとって、有吉は唯一無二の親友と呼べる人間であった。


憎愛 四

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 優也はとKとの抗争は続いた。優也は彼女がKと裏で秘密裏に何がしかを工作しているのに気が付いたのである。しかし、それはすでに救いようがないと医者が匙を投げるような末期がんが発見されたのと同じことであった。かくして、Kとそれを取り巻く手下のような人間たちと、彼女と、優也をめぐる人間の最も醜い争い、欲に塗れた戦いが始まったのである。優也は友人と彼女とを守ろうとした。そうして何度も何度も友人と彼女に対して説得を行った。しかし、優也が言葉の力、といってもその当時の優也の言葉にはまだ力がなかったが、とKの力では戦いにならなかった。Kは言葉の力がまず、常軌を逸するほどあった。悪の権化とのちに誰もが認識するほどの、喫水の詐欺師と思われるほど弁の立つ人間であった。何よりもまず、張ったりを利かすのがうまかった。そうして、さらに言うことを聞かない人間を力で押さえつけるという、暴力の使用にも何ら抵抗を感じないこころがものを言った。彼が恐れることは、彼の近くにいた部下のような生徒たちには想像もつかなかった。それほど悪い意味で度胸が据わっていたのである。
 この人間の慾と慾の戦いを、優也は克明に覚えていた。彼は自分の言葉の力がKのそれと対比してとんでもなく貧弱なのに絶望した。しかし、その絶望は、現在の彼の心の中にまだ残っており、それよりか優也はそれを大切に保管し、時にはそれをもう一度自分のなかで思い返して臥薪嘗胆し、それをばねにして芸術への力へと変換させたのである。結論から言うと、この抗争のなれの果ては、優也の言うことを聞かなかった連中が、すべてKの言うことを聞いて、あろうことかKのほうを信じ、優也と縁を切ったということである。表面的に見れば、それで済んだことだが、優也にとっては、友人と思っていた人間が全員Kとつながって、自分に対して牙を向いてきているように見えた。何よりも、彼が恋をした女性が、Kと非常に親密な関係を持ち、優也のことを内通していたことを知って、優也は人間の愚かさと醜さをすべて知ったと思った。
 優也の思考は、まずこんな状況になったのは文明も文化も腐っているせいだと思った。もし、もっと原始的な生活をしていれば、このようなことには成りえなかったと思った。半ば中途半端な文明の皮を精神の貧弱な学生が被るために、このような悲劇を生んだのだと思った。何よりも、学校という小さな箱に人間を押し込めたことが問題だと思った。そうして、箱のなかで閉じ込めるだけなら裏表がなくてよいものの、半分を自由にさせたのがいけないと思った。箱に閉じ込めるのであれば、徹底しなければいけないし、それがだめならば、最初から箱に詰め込まなければいいと思った。そうして、半分箱に閉じ込め、半分自由にさせるから悲劇が生まれると信じた。自由な半分を、精神の未熟な学生が考えることとやることといったら、たかが知れているじゃないかと思った。文明を恨んだ原因は、その自由な時間に、彼らが誰にも見られない電子の情報を見事に扱っていたからである。優也はそれまでそのようなものを買い与えられたことはなかった。むしろ、彼の父方も母方も、人間に対して誠実で、社会的地位もあり、人間と人間の交流を直接おこなっていた世代のために、携帯というツールが必要だとは思わなかったのである。優也は自分が知らない場所で、皆が携帯をいじって連絡を取り合い、そうして自分を裏切ったと思った。事実そうであった。だから、優也は携帯というもの自体に嫌悪感を抱くようになった。優也は今でも、自分と他人が話している最中に、携帯をいじる人間を嫌った。
 優也はここからコミュニケーションとその媒体の問題、それから言葉の力を考え始めた。そうした成果がすべて、文章に活かされているのが、皮肉なものであるが、優也の才能であった。作家という職業を考えてみると、よく言われるのが、不幸ということである。大体の文豪と呼ばれる人間は、その人生の何かしらの点において汚点とも呼ぶべきものを抱えている。夏目漱石は、生まれてすぐに捨てられたという伝説は有名である。両親が年を取ってから生まれた子ということもあって、当時は年をとってからの子は恥ずかしいという常識があっために、愛情を受けられなかったのである。漱石は、心理学の発達段階で考えれば、最も根源的な基本的信頼感を与えられなかった人間である。太宰治も、母の愛情を受けられなかった人間のひとりである。太宰もまた乳児期、児童期、遊技期といずれも課題を残したまま大人になった。それが自殺を招いた原因であろう。対して、優也は生まれは実に豊かな愛情に恵まれた。しかし、学生時代になって、それまでクリアした課題を、根本から揺さぶられ、そうして破壊されたのである。恋人に裏切られたということが、一番の優也の黒点であった。優也は人間を信じていた。そうして、自分が恋した相手を信じていた。優也は自分のこころを彼女のさらけ出したのである。しかし、それはすべてKにさらしていることと同義であった。優也は学校において精神的に服を脱がされて、公衆の前で裸になったも同然であった。Kは優也を辱めるために、そうした工作をしたのだった。漱石が書いた「こころ」の「先生」は、自分を裏切った父の実の弟、つまり叔父のために、すべての人間を信頼できなくなった。「先生」は自分の父があれだけ信じていた弟に裏切られたことが、人を信じられなくなった原因だと語っている。
「私は叔父が私を欺むいたと覚ると共に、他のものも必ず自分を欺くに違いないと思い詰めました。父があれだけ賞め抜いた叔父ですらこうだから、他のものはというのが私の論理(ロジック)でした。」」私は私の敵視する叔父だの叔母だの、その他の親戚だのを、あたかも人類の代表者の如く考え出しました。」「私は他に欺かれたのです。しかも血のつづいた親戚のものから欺かれたのです。私は決してそれを忘れないのです。」「彼らが代表している人間というものを、一般に憎む事を覚えたのだ。」
 高校で習う「こころ」の授業では、これを「先生」の不思議な論理だと教えることだろう。普通裏切られたら、その裏切った人間は、人類のなかの悪い部類に入る人間だったのだと考えるだろうと。しかし、極端なまでにあまりにも唐突に、ましてそれまで裏切られたことのない人間が、最も自分の信頼していた人間に裏切られた場合はどうなるか、国語の教師たちはわかっていないのだ。夏目漱石はそれをわかっていたのである。だから「先生」からこのような言葉が飛び出してきたのである。優也はこれを高校の際に授業で聞いていて、国語教師を馬鹿だと思った。そうして、優也は「先生」のことを理解してあげることが自分にはできると思った。
 優也は自分が心を開いた相手に悉く裏切りという行為を受けたことによって、そうした人間を人類の悪い人間だったと思うことなく、人類の代表と考え、人間全体を恨むようになった。元来根の明るかった優也は、高校ではそうした裏切りの人間たちとまだ同じ箱に押し込められ、毎日そうした人間の顔をどこかで視界に入れなければいけなかったために、発狂しそうになった。通常の人間であったらどうしたであろうか。Kの恐怖政治は、残念なことに一貫校だということもあり、高校では全盛期を迎えていた。優也は人間というものが信じられなかったため、ほとんど口を聞かなかった。一日中だんまりを決め込んだこともあったし、休み時間には本を読み、イヤホンをして音楽を聴いていた。決して裏切りの人種が発する言葉を耳に入れたくなかったし、視界にも入れたくなかった。自分に近づいてくる人間は、全員Kに脅されて、自分から情報を引き出し、何がしかの悪意を持って攻撃するだろうと疑ってかかった。新しい学年、新しいクラスになっても、誰とも花さなかったし、仲良くもならなかった。唯一教師とだけは、話すことができた。それは優也にとって教師が、何らかの慾で動くことがなく、自分のことを害する必要性がないと判断したからである。時には、話しかけられても無視をしたこともあった。優也は非常にイラついていた。人間というものを許すことができないまま、その人間たちと無理やり小さな箱にいれられて、集団生活を送らされることに対して、腸が煮えくり返るほどの怒りを感じた。そうした怒りは常に優也の身体から発せられていた。少しでも人間観察に優れた人物が優也の近くを通ったら、とても不快な感じを受けるか、その男に恐怖を持つか、あるいは痛いと叫ぶかも知れなかった。それほど優也の人間に対する悪意は強かったのである。
 優也は一年間完全に沈黙を守った。それは誇張でもなく、本当に一年ほどの期間をまったく喋らなかった。そうして、大学受験が近づいてくると、と閉じられた箱の中での慾のぶつかり合いが次第と減り、そのエナジーが外へ向かうようになったので、やっと優也は多少人と話すことができるようになった。優也は基本的信頼感を完璧に破壊されたが、一年間自分の殻を作り、そこに籠ることによって、なんとか他者とのかかわりを持つことまでには回復したのである。大学に入ると、優也はそれまでのブランクを取り戻そうと、もって生まれた外向性をまた発揮し始めた。そうして、ある女性と出会った。しかし、その女性もまた、彼のもとを去って行った。この話はいずれすることになるだろう。
 優也の芸術性が開花したのは、大学の頃からである。思えば、それまで人間に苦心し、通常では考えられないほどの不幸に見舞われたために、自分の殻を構築した。そこに籠ることによって、暗闇のなかから人間を観察した。それが優也にとっての人間観察力を鋭くさせ、また自分を閉じ込めることによってそこから出てくる際の爆発力というものをコントロールするに至った。優也はその爆発力を維持させることができる類稀な人物であった。そうしてその爆発性の維持に何を用いたかというと感情であると前に述べた。その感情とは、今説明した優也の根本的な人間への不信である。Kとその取り巻きと、自分が恋した人間への絶望であった。優也は決して自分が黙ることは許されないと自分に言い聞かせた。自分が人間の負の面を描き出さなければ誰が描き出すのかと自分の存在意義を定義づけたのである。そうして、Kに言葉の力で負けたことが何よりも優也を叱咤させた。激励などない。優也は自分が負けたということを一生の黒点として考えていた。人間の暗黒面と、人生における不運と、そうしてそこへどのように立ち向かうのか、それが優也の文学性であった。それまでに、優也が書くような文学はなかった。そうした暗い側面を書いたものは、決して大衆には受け入れられなかったからであった。しかし、時代もそうした暗闇に目をつむるということに限界に達していたころでもあった。
 大震災のあった後に、人間は人間の愚かさというものを否応なしに目に入れなければならなかった。報道こそされていないものの、震災地、特に立ち入り禁止区域の住居では、ほとんどの家が荒らされている。震災があってから、すべての価値観は崩壊した。それは原子力が安全だと信じ込まされていたことから目覚めたからである。優也と関係のある人間には震災に対してそれぞれの意見を持つ人間が多かった。それはいずれも優也の教師であった。一人は震災後に被災地にボランティアを継続的にする活動家でもあった。優也の卒業した学校が私立であったということもあり、教師は比較的自由に行動することができたし、またミッション系であったためそうしたボランティア精神は学校全体にあった。優也と親しかったその教員が被災地にボランティアをしに学校の生徒を連れていくのを知って、大学生となった優也もそこに参加させてもらうことがあった。流石に高校生を連れていくということもあり、教員としての限界があったため原発の近くにはいけなかったが、被災地に直接足を運ぶことによって、優也は言葉にならないものを見た。優也の文学作品のなかで唯一優也が沈黙を続けているのは、この震災についてであった。彼の作品には、震災という言葉が出てくるものの、直接そこへ足を運んだのにも関わらず、そうした描写をしたことは一つもなかった。
 優也がその次に被災地と向き合ったのは、大学の講師と赴いた際である。非常勤講師として週に一度授業を持っていた教授が、原発のすぐ近くに住んでいた人間だったのである。もちろん東京にでてきての社会人の生活のほうが長いが、原発の村はその教授の故郷であった。そうして、その教授は映画に関係している人間だったので、まるで力士のような体格と、体力を持っていた。優也はその名があらわすように、体育会系とは全く縁のない男であった。しかし、その直向きな故郷への思い、正当な原発と国への怒りを目の当たりにして、是非自分もその原発の近くへ連れて行ってくれと申し出た。その教授は自分は責任を持てないといったが、優也はもちろん責任は自分で取るといった。教授は自分はもう還暦を迎えているから、これから放射能に浴びてその影響が出るのが二十年後であっても怖くないが、君はまだ学生だし、二十年経った際には四十代で新しい日本を支えていく人間になるのだから連れていけないと言った。しかし、優也はだからこそ、その時に何も知らなければ何も出来ない。だから今のうちに現状を見ておく必要があるのだと述べ、立ち入り禁止区域に特別に入ることに成功した。
 立ち入り禁止区域には、そこに住居のある人間しか入ることが出来ない。しかも、防護服を着たうえで、時間指定までされている。それに再び外へ出るときは入念に特別車で除染をしなければならない。その教授が最も怒り、また優也もおかしいと感じたことは、「除染」という言葉である。放射能は、除染することなどできなかった。ちょうどその頃から文筆活動を始めていた優也は、言葉に対して深く考えるようになっていた時期でもあった。同じ言葉を何度もこねくり回して考えることをしていたのである。優也の作品が、詩的でありながら、通常とは少し異なった言葉の持ち運びをするのは、そうした熟考のためである。優也は、その教授の友人で、原発のすぐ近くに家のある、当然すぐに退居させられた現在でも避難民である男性とともに被災地に入った。その教授は常にカメラを回していた。
 立ち入り禁止区域で生活している人間がいることを知っているだろうか。優也はそれまでそんな人間がいることなど知らなかった。しかし、あの家畜たちがまだ野生化して群れで生きているということはどういうことなのだろうか。それを多少なりとも考えれば、常識的に矛盾が生じることがわかるだろう。いくら野生化して、人間が消えたことによって植物が自由に育つからといって、家畜として飼われていた動物が生き延びることが出来るだろうか。中には死んだ家畜の映像を見た人間もいるだろう。しかし、群れで生きている家畜がいるということは、まだその家畜に餌をやり続けている人間がいるということなのである。優也はほとんど聞き取れなかった。ひどい訛りだったからである。優也たち三人が防護服を着て大仰な装備をしているのに対して、その男はほとんど庭先にそのまま出てきたかのような恰好をしていた。優也は大変驚いた。死という言葉をそれまで認識したことは、現実レベルではなかった。こんな恰好をしていたら死んでしまうと優也は思った。
 優也たちが車で死んでしまった町を運転しているときである。勢いよくのびのびと走る家畜の群れに遭遇した。山羊であった。スモッグがかかったような曇りの日であったので、手入れされていない毛が茶色くなった生き物が群れで走っているのは、一種の恐怖でもあった。人間が築き上げた文明が、社会が、生活が、そのまま3・11から全く、一分、一秒とも立っていない状況の中で、そうした生き物と突然遭遇することは息を呑むほどの驚きであった。しばらく群れを車の中から静かに見守っていた後で、人間を発見したのである。優也はその人間が、ダメージのせいで痛んで水色に成りかけている青いジャンパーしか着ていないのを見て驚いた。優也はボランティアで被災地の人間とかかわって、そうして津波で流された場所を何度か訪れてはいたが、原発の周囲の状況はそれらとは全く異なっていた。だからすべてに驚き、まったく言葉にできなかったのである。
「え、ここで生活なされているんですか・・・」その後は、取材のためにカメラを回し続ける教授と、その友人である男性と、そこに住んでいた男の話になった。酷い訛りのために、優也には何を言っているのか半分も聞き取れなかった。が、ここで生活しているのは家畜がかわいそうだということ、そうして確かに自分は粋がっているかもしれないが、全く怖くはないということ、それから自分は餌をやっているが、その餌をひそかに運んでくれる人間がいることなどを聞いた。
 教授の友人であり、震災後に突然家、ないし故郷から追い出されたその男性は、公務員であった。現在は東京の方で仕事を与えられたが、震災が起こる前はその地区の図書館の館長であった。そうした文化に造形が深く、映画畑で鍛えられた教授とは正反対の、むしろ優也を年を取らせたらなりそうな、物静かで眼鏡をかけた初老の紳士は、自宅に帰る度に泥棒によって荒らされていることを嘆いた。その男性は、足の部分に合計三枚ものビニールの防護服を重ねていた。自宅につくと、一枚目を剥がした。もう一枚は禁止区域から出る際にはがしたのだが、何度も自宅に帰っているから身に付いた一つの小さな動作であった。果たして家はこんがらがっていた。勿論地震によって落ちたものが片づけられていないということもあったが、それはごくわずかだったという。この荒らされ方は、物取りだと呟いた。優也は涙も出なかった。教授は酷いことをする奴がいたもんだよねと声を荒げながら、乱暴に言った。
 優也はここで、人間性を考えた。一方には、人間の勝手で飼われて、そうして人間に食べられるために生きている動物をそのまま放っておいていいのかという感情から自分の身体一つ放射能で汚染された場所で生活するもの。もう一つは誰もいなくなった場所。人間が住めなくなった場所に入ってまでも、家を奪われたものの家からさらに追い打ちをかけるようにものを盗むもの。どうして命がけでものを取るのだろうか。本当にものを取らなければ生きていけないほど困窮した人間なのだろうか。優也はそうではないだろうと見当をつけた。この立ち入り禁止区域にまで態々遣って来てものを取る必要などどこにもない。これだけの距離を移動できる人間が、ここで態々盗まなくても、どこかもっと住んでいるところの近くで盗めばいいし、ましてここまで来て盗むだけの労力をほかのことに使えばいいし、さらに家を奪われた、故郷を奪われた人間からどうしてものを盗むのか、そうしたことを少しでも考えればしないようなものをと思った。
 報道というものが、いかに一面的か、あるいは偏りのある情報しか提示していないということを、優也は強く感じた。それは映像の専門家である映画監督でもある教授とともに現地を視察したからわかったものでもあった。その教授は、常にカメラを回し続けていた。なぜだろうか。震災があって、テレビなどのメディアでは津波が町を、人を襲う映像がひっきりなしに流れた時期があった。そうして、それだけを取り上げていた。だから、被災地がみんな津波に飲み込まれて瓦礫の山だと思い込む人間が続出した。優也もその一人であった。原発の近くも瓦礫の山だろうと思っていた。しかし違った。震災のそうした映像は、津波と原発を一緒くたにしたものであった。それはある意味では戦略かもしれなかった。原発の場所も津波で流されて人間が築いたものが何も無くなった殺伐とした瓦礫の山だと思い込ませる手法かもしれなかった。というのは、原発の近くの町は、あの映像で流れたような悲惨な状態では全くなかったからである。優也は自分は瓦礫の山の中に行くものだとばかり当初思っていた。しかし、原発の付近一帯は、地震でこそ多少の崩壊があったとしても、津波に流されたということはないので、そのまま時が止まってしまったという感覚を覚えさせた。瓦は多少落ちていよう。ブロック塀は崩れていた。しかし、家はきちんとそのまま建っている。信号も立っている。倒壊している建物などない。
 地震と、津波は、取りざたされて放送されたあの映像の通りであった。しかし、原発の付近の状況をきちんと放映した番組があっただろうか。そこには実は何も外傷はないのだ。だから、放送されないのである。映画監督でもあったその教授は言った。
「原発の被害っていうものは、目に見えないから放映されないんだ。町を見て御覧。まったくそのままだよ。俺が昔住んでいたそのままだよ。地震では多少崩れたさ。しかし、津波は来ていないんだ。今にも生活ができそうだろう。だけどできないんだ。何故か、放射能があるからさ。それも目に見えないだろう。だから、放送できないんだ。原発の事故っていうのは、あの原発の爆発なんていうのは目に見えるだけで、本当にその被害っていうのはこの状況があらわしているのさ。俺も、こいつも実家を失った。故郷を失った。それが原発の事故なんだ。だから、俺はそれを撮らなければいけない。撮れないけれどもね。この状況は、何を撮ればいいのか。もう暦が廻ってしまったほど長生きしたけれども、まったく俺にはこれを映像化することはできないね。何も目に見えないからさ。だけれども撮る。俺はずっと映画を撮り続けたきた人間だからさ、撮れない、映像化できないと思いつつも、撮らなければいけないんだ。俺はもう死ぬさ。こいつももう死ぬさ。今の平均寿命が80だなんだっていったって、二十年後には生きていないさ。かろうじて生きているかも知れないけれども、何もできないさ。その時は、君が行動するんだよ。関君、君が俺たちと共に見た光景を次の世代に伝えなければいけないんだよ」

憎愛 三

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 関優也の名は、世間一般では関清雅(せいが)の名で知られていた。優也こと清雅が頭角を現したのは、まず美術での分野だった。優也は最終的には日展に出展するレベルの画家になった。優也の師からその芸術性がどのように開花したのかを考える必要があるだろう。優也の父方の家系はいずれも忍耐と誠実さを備えた優秀な社会性を持っていた。父方の人間は大抵会社の役員レベルまで上り詰めるような知的水準とそれに見合う精神をしていた。いずれも、創作的な活動はそれほど高いものではなかったが、いわゆる事務的な作業、効率や能率を考える論理だった思考が脈々と受け継がれていた。そうしてまた、社会への忠誠と、自己への忠誠はこちらから引き継いだものであろう。厳格とまではいかなかったが、優也の父も、優也の祖父も、自分の子供の教育には平均から見るとよっぽど厳しかった。いずれも、年齢が高くなるにつれてそれまでの教育の仕方に丸みが帯びはじめ、父と子の関係は良好なものとなったが、まだ小さいころの父子の関係は、いずれも厳格な父と子という昔の日本的な風潮をよく残した一面があった。優也も、父にそのように厳しく育てられた。そのことを優也は今振り返って、小さい頃の厳しさは一体どこにいったのかと少し物寂しく思うこともあるが、現在の良好な関係を納得し、充実した関係だと考えている。
 さて、このような人間としては成功していても、およそ芸術家としては開花しないような家系のどこから優也の才能は目覚めたのだろうか。それは母方の家系の血に原因がある。母方の家系には、もともと芸術家が多かった。それこそ江戸の終わりごろからある地域一体の農家をしていたらしく、それが続いたために、現在では大地主となっている家系である。もともと農家の人間であるから、厳しく厳格である点では父方の家系よりも度合いは強かったし、鍛え方が違った。父方の家系のもっとも厳格な部分が表出したのは、優也の曽祖父にあたる人物が陸軍軍人として大尉まで上り詰めたということである。母方の家系は、現代においてはそのような大地主になったために、二つの人種に明確に分かれた。一つは先祖からの厳格性を受け継いで、農民の根性のような、一種暗さにもにた生真面目さを持つ者たちである。母方の家系からは多くの教師や、公務員関係の人間が排出された。それと同時に、そうした厳格性に対して反発するように、まったく正反対の性格の人間が生まれ出た。すなわち芸術性としての解放である。もとから大きな抑圧が働いていたために、そのぶん解放されるものが大きかった。最初から何も押さえつけない自由さからは、特に何も生まれないのと同じである。締め付けるものが大きければ大きいほど、そこから解放されたいと願う気持ちは大きくなる。一族にこのような厳しい性格の人間が多い一方、そこから反発するように生まれる芸術肌の人間が少なからずいた。そうした人間は、この一族のなかではマジョリティーになるので、あまり認められなかったが、そもそも地主であり、現代においては都内に土地を所有しているだけでお金になるため、そうした芸術肌の人間が苦労の果てに自分を殺して社会に殉じるということはなかった。彼らには、一般人からみたらかなり裕福な生活を送っていたし、時間とお金とに余裕があった。そのため、一族内では確かにマジョリティーということもあり、そこまで認められることはなかったが、自由に創作に打ち込むのを留める人間は誰一人としていなかったし、自由にふるまえるだけの余裕があった。優也にとっての母方の祖父の祖父、祖母の兄弟には芸術家が多出した。油絵、彫刻、書道、それぞれの巨匠とまで呼ばれる人間が排出されたのである。このことによって、母方の家系は芸術一族としての側面を強く持つようになる。そのしたの代ではあまりそうした芸術性は開花しなかったが、優也の母は、そのなかで唯一開花した。優也の母はすでに専業主婦になってしまって、芸術の観点からしたら大切な芸術家をひとり失ったということになるが、フラワーデザイナーであった。バブル期を乗り越えたこともあって、花の業界の隆盛をみてきた人間であった。そうした華やかな場所に贈られる花を作るということもあって、母その人自体が自然と社交性を身に着けていった。
 世間に明るいというのは、ちょうど厳格な父方の家系からも、開花しようとしていた才能の一つであった。もともとその有能さから会社の重要な位置につくこともあり、大衆の前に立つことが増えてきていた。優也の父は、ほぼ一人の努力と才能によって、会社の重役にまで上り詰めたエリートサラリーマンであった。そのため、父の社交性というものを優也は小さいころから見て育った。ちょうどこうした社交性が開花しようとしていた二人の子供として優也は生まれたのである。
 このような関係は、ちょうどグスタフ・フォン・アッシェンバッハの家系と酷似していた。多少の差異はあるものの、その生まれの境遇のようなものはほぼ大同小異であった。それを、優也はマンの小説を読んだ際に実感していた。もしかしたら、自分もアッシェンバッハのようになれるかもしれない、そう思った。事実、他人がこの二つの物語を読んだ際には、100年の歳月を経て、アッシェンバッハ的な偉大な芸術家が再びよみがえったと明言することだろう。
 優也は父からはそのような才能と努力の精神、また社会に奉ずる義務心や忠誠心を、母方からは生真面目すぎる根性と、そこから解放されようとする一種の爆発性を受けついだ。そうして、二人の血が合わさって見事に開花した社交性が、何よりもこの時代の恩恵を受けるに至った大きな要因であろう。
 優也は多弁であった。お調子者でもあり、道化ものでもあった。他人を喜ばせたり、笑わせたりするのが大好きだった。そのために、自分がおどけてみせたり、何かバカなことをやったりするのが楽しかった。しかし、彼の根性はもとから真面目な人間に出来上がっているので、そうした笑いは、自然と大人になるにつれてユーモアやウィットにあふれたものになった。若くから、ひとをバカにしたような笑いに対しては抵抗を感じた。それは、彼の引き継いだ両方の血が、人に対して、また社会に対して誠実だったからである。そうして、優也は理性を重んじる人間であった。これは父方からの影響が大きいであろう。優也は自分のなかにある爆発性に気が付くのにしばらく時間がかかったが、自分は理性で動ける人間だということは初めからそれとなく悟っていた。そうして、知的な魅力のあふれたユーモアを連発し、学生時代はクラスの中心に位置する人間として成長した。
 ところが、そのような順風満帆の航海はやはりどこかしらで帳尻が合せられるようである。人生には、喜びと苦しみがそれぞれ半分ずつあるようだ。これは偉大な成功を収めた人間が、実は以前は大変苦労したとか、あるいはその後大変な不幸に見舞われたなどというような事例からもわかることである。大まかに半分ずつあるというのが、おそらくこの有限の世界の理なのであろう。あるいはその人物の一生の中だけで帳尻が合せられるとも限らない。仏教的な輪廻の世界のなかにおいては、前世の徳や罪もそのまま引き継がれると考えられる。優也の場合は、その人生のなかで帳尻が合せられようとしているようであった。優也は他人から見たら恐ろしく豊かな人生であった。物質的には中流の上にあたるほどのものであったが、精神性においてはおそらくどの家庭よりも質のよいものであったろう。しかし、そのために彼の真っ白で純情な精神は、成長過程のある一点において大きく栄光の路から離れ、激しい荒波に飲み込まれることになった。
 かいつまんで説明すると、問題は人間関係にあった。交友関係の広く明るい人間だった優也は、中学高校といわゆるクラス内のヒエラルキーにおける中心的なメンバーにいた。優也自身はこのように豊かな環境のなかでしかた当時は育っていなかったので、このクラス内のヒエラルキーについては特に考えたこともなかった。しかし、知識のつめこみ教育から一転して、ゆとり世代となる直前の世代の優也たちの世代は、教育現場が非常に荒廃した時期でもあった。それは教育の歴史上では、80年代などに目に見える形となって表れた暴力性とは異なった、非常に陰鬱で陰湿なものであった。いじめられていると本人が気が付かないということもあるという。優也は当時のことを振り返ることがあった。教員となるために、多くのそうした教育に関係のある書物を読み漁った彼は、当時の辛さに向き合うということを含め、人間としてひとつ前進したかのようにも見えたが、しかし、その傷は本人が思っている以上に重かった。
 具体的には、優也はいわゆるハブられたというわけであった。さらに不運なことに、中高と一貫校であったために、6年の学生生活のうち半分以上を辛い環境のなかで過ごさなければいけなかったのである。6年間の人間模様を描くことはとてもここではできない。それを追っていけば一つの小説ができあがある。事実作家として関清雅は、自分のかつての学生時代の体験を小説にしていた。かなり脚色を混ぜて、当時のいじめをする側の人間たちに対しての批判性を見事に自制した形であった。そこには恨み辛みというものは見事に隠されていた。これが人間関優也のある意味美徳ではあった。発言力を持った人間として彼がとった選択肢というのは、人間として褒められるべきものであった。発言力のない人間に対して言葉の暴力を用いることを自ら抑えることに成功したのである。ただし、その結果そのあふれ出た感情はどこへ行ったのか、一つにはそうした小説を書くために必要なエネルギーに変換されたことは確かであった。そうして、それでも消化しきれないエネルギーは自己の内部に取り込んだ。これが、関優也を血縁から見事に開花させた社交性を打ち消すことになる原因である。
 優也は学生時代多くの人間と交流を持ったが、特に仲のよいグループというものがあった。彼に起きた不幸はこのグループによって引き起こされたものである。そこには彼の恋人もいた。彼は非常にロマンチストであった。これは母方の情熱的な感情の爆発力が影響していたことだろう。非常に惚れやすい性質ではあったが、惚れた相手に対して一途なまでの人間であった。優也の芸術性がほかの人間と異なる点は、爆発した力を持続させることができたという点にあるだろう。情熱家というのは時としてすぐに冷めやすいという性質も同時に持ち合わせている。なぜなら、そのような爆発力は非常に生命力を使用するものであるし、それを持続するだけの体力と精神力がないからである。もちろん身体があまり恵まれなかっつた優也にもそれは言えた。精神力がいくら強かったと言っても、人間としての限界がある。だが、優也はそのような情熱を爆発させ続けることに成功しているのである。
 まず恋について。男女が仲の良いグループだった。当然関にとっては初めての彼女というものができた。しかし、才能があるとはいえ、温室育ちだった優也にはまだ人を見抜く力が決定的に欠けていた。優也が恋をした女性は、確かに人間の根っこの部分が汚いわけではなかった。しかし、その彼女に一体なんの罪があったのだろうか、だれもわからないが、彼女は精神的に病んでいたのである。躁鬱の気があった。優也は学生ながらにして、彼女と付き合うことによってなんとなくかなり浮き沈みが激しいということは感じたが、それが病気であるとは思わなかった。彼女ははたから見たら二重人格のように、かなり激しい浮き沈みがあった。優也は陽の彼女を見て恋をした。学校で太陽の出ているときに出会う彼女は太陽そのものであった。それは他人からみても同じように感じられたことだ。実際に、その彼女は学年のアイドルとまではいわないまでも、クラスのアイドルとして男子に認知されていた。優也は彼女と付き合うために、ひとつふたつの男との取り合いを演じたこともあった。だが、誰も陰の彼女を知らなかった。優也は父方から受け継いだ人間に対する基本的に忠実で誠実である精神のために、酷く彼女のことを心配し、こころを砕き、なんとか彼女を救済しようとした。だが、その救済にすべての能力を注いでいる間に、不幸が起きたのである。一つはまず、彼女の陽の部分が罪を帯びた。彼女自体は悪いとは断言できない。もしかしたら彼女の振舞に、男性を勘違いさせるものがあったということ自体が罪なのかもしれない。彼女にはそうした民俗学的な男性を誘惑するような妖艶な部分が付加されていたことは確かである。優也は彼女の精神をなんとか陽のほうへ持っていこうと苦心していた。しかし、学校での彼女はそんなことをさっぱり忘れているかのように、気丈に振舞、優也の心労を重ねた。彼女の振舞は、確かに一部の男性を惹きつけた。そうして、それが悲劇を生んだ。
ある一部の暗躍する人間というのは、どのようなコミュニティーにも存在するものである。おそらくこうした社会での役割というものは、一つにはその人間が本質的に生まれ持ったものも影響するであろうが、もう一つの影響としては、自然発生的に神なるものの力によって与えられるものである。同じ性質の人間を一つの箱に入れるとすると、自然とそのなかで、別な役割を担ってくる人間が生まれてくるというのは、社会的動物と呼ばれる人間の一つの不思議である。魚なかには、性別をその時の状況に合わせて変化させていくという種族もいるようである。どのような社会においても、中心となるグループはあるし、それによって排除された人間もいれば、上の人間とつながる人間もいる、下の人間とつながる人間もいる、そうして、暗躍する人間も出てくるのである。もはや必要悪なのだろうかと思われる部類である。
多くの人間はそうした悪を働く人間を排除しようとする。それは社会生活の根幹を支えるうえで、安全、安心ということが何よりもまして大切だからである。だから、悪を取り締まる法律を作り、その法律を執行させる人間を設けた。だが、このような長い歴史のなかで、人間のなかから悪がなくならないというのは、ある意味では悪によって人間が成り立っていると考えることも可能になってくる。むしろ、社会というものは、悪があることによって成り立っているのかもしれない。悪を生み出すことによって、それは神の力によって自ら悪になったという人間がいることによって、ほかの悪ならざる者たちが団結し、それを排除しようとすることによって社会が成り立っているのである。
優也を襲った悲劇というのは、この悪、Kという人間によってすべて引き起こされたものであった。これも詳細は関清雅自身が書いている。端的に言えば、Kは優也から彼女を奪ったのである。Kが彼女と付き合ったのではない。彼女を好きな男が、Kと共闘して、彼女を奪ったのである。Kはその点、彼女との接点は最初見えないように優也には見えた。だから、優也は戦う相手を間違えたのである。優也は人生においてその時点まで大きな困難に直面してこなかった。だから、そうした敵の出現に対して、何もわからずに戦った。優也はその名が示すように、元来優しい男であった。ある意味では優男として優柔不断な部分があった。もちろん敵を恐れた。初めて明確に悪意ある敵と遭遇したのである。優也は恐れ戦いた。だが、逃げ出すことをしなかった。戦ったのである。だが、戦った相手が見当はずれだったのだ。それは恐らく殆どの人間には検討もつかないことであったから仕方がないことではあった。敵が悪かったのである。Kという、まさに悪のためにこそ生まれてきたような存在と何の因果かめぐり合わせてしまったこと自体が、優也の悲劇であった。それを優也はその後『Kの黒点』という小説で明確に記している。
優也にとっては、自分の恋人を奪った男と戦うのが正道であった。そうして、見事に彼女を奪い返すことに成功するのである。それは、まさしく人間に対する根源的な信頼と、正義は勝つという揺るぎない精神によって手繰り寄せた奇跡であった。さながら当時の状況をしる学生にとって優也は英国の騎士のようにも見えた。だが、優也が一騎打ちをしている間に、Kは魔の手を彼女に差し向けていたのである。Kにとっては、すでに彼女を奪うために共闘した男のことなどほとんどどうでも良かったのであろう。その後もその男と仲良くしていたことは確かだが、どちらかというと、その男がKに対する恩義を感じて、Kの言うことを従っていたようである。Kはすでに、優也を痛めつけることにのみ興味を感じていた。なぜKがそのような衝動を持ったのか、それは清雅が書いた『Kの黒点』にも明確には記されていない。優也自身もどうしてKが優也のことを攻撃するのかわからなかったのである。

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