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 『楽園追放 -Expelled from Paradise-』 感想とレビュー


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 《『楽園追放 -Expelled from Paradise-』(らくえんついほう -エクスペルド フロム パラダイス-)は、東映アニメーションとニトロプラス合作のアニメーション映画作品。2014年11月15日公開。
水島精二監督、虚淵玄脚本による初のオリジナル劇場作品となるフルCGアニメ》
 アニメーション映画にはつねにアンテナを張っているつもりだったものの、この作品は完全に私の脆弱なアンテナにはひっかかることがなかった作品で、自称文芸評論家としては、これだけの作品を知るのに、3か月ものタイムラグがあったことをかなり恥じている。
 今回なにでこの作品を知ったかというと、Twitterで回ってきたツイートで、この作品のDVDが7万2000枚も売れたということだった。現在DVDを買う人間がほとんどいない現状において、これだけの売り上げを記録するというのは、極めて珍しいことだと言わざるを得ない。
 例えば、ネットの記事なので、情報の出どころとしては本来参考にしてはいけないものなのかもしれないが、このサイトによれば、様々な有名アニメーションがどのくらいの販売をしたのかということがわかる。
http://2chnokakera.blog.fc2.com/blog-entry-811.html
 七万を超える作品は、2009年の『化物語』で78,671枚で、他の有名アニメーションが、多くても1万、2万という状況であることがわかると思う。
 確かに私自身、DVDを購入したのはジブリのラピュタくらいで、アニメーションのDVDを購入することはほとんどない。アニメーションを楽しく見させてもらい、評論の対象としている人間がそういうことをやっているのだからいけない。本来はもっとお金を払うべきなのだろう。
 だが、そんななかで、このアニメはこれだけの売り上げを残したのである。それはいったい何だったのだろうか。

 この作品を見て、様々に切り口があることがすぐにわかった。というのは、さまざまな作品の要素を取り入れているからで、そこに描かれているそれぞれが本来は一つの作品を為し得るだけのものなのである。だから、これだけ要素を盛り込んでおきながら、上手くまとまっているというのはすごいことだと言わざるを得ない。下手な監督が要素を盛り込もうとすると、大抵は消化不良になってします。この作品のすごいところは、そのように沢山の要素をふんだんに使用していながら、消化不良を起こさずに、きちんとまとまっているところだといえよう。
 以下その要素をいくつか取り扱ってみる。
 まず世界観であるが、これは映画『マトリックス』の世界とほぼ同じである。人々は電脳世界で過ごしていて、地球とはおさらばしている。マトリックスの世界では住人は電脳世界で生きていることを知らないが、この世界ではみなそれを承知の上で生きている。電脳世界で生きている人々は、その欲求があれば、人体を手にすることができるし、地上で生活することも可能なようだ。だが、電脳世界のほうがよほど気持ちよく、そのようなことをする人間はほとんどいない。
 身体を失った人間は、データだけの存在になっている。電脳世界では、現実に肉体を持つ我々の持つさまざまな問題が解決されている。人々は歳をとることもないし、病気もしないし、食べ物を食べなくてもいい。排泄もない。だが、作品中盤でディンゴが指摘するように、電脳世界では現実世界で解決された問題とは別に、データの要領を貰えない人々が多数存在している。そのひとたちと、データをたくさんもらえる人達との間で格差が生まれている。それにもかかわらず、理想郷をうたっているのが許せない、といいます。だから必然的に人々はデータ容量を貰えるように、無限の出世レースのなかに駆り出される。そこにはいれなかった人間、落ちてしまった人間は、どんどん落ちぶれていく。格差が開いていく。現在我々の資本主義の状況となんら変わりがありません。
 こういうSFの作品を見るときの一つの視点として、これは「寓話」なんだということを認識する必要があります。これは単純に未来やあったかもしれない過去の話、娯楽のためにつくられた話、というのを通り越して、このお話が意味しているのは、現実世界でのなんなのか?ということを考える必要があるでしょう。物語はしばしば、現実の批判なんだけれども、そのままそれを指摘したら過激すぎるから、一端別のモノ語りに仮託しようということがあります。
 この物語も、格差社会を批判しているという点では、現在の資本主義を批判しているということができるでしょう。その上で、この作品が提示しているのは、さらなる宇宙への旅ということで、べつの世界です。もちろんこれは物語だからこそできた提示であって、現実世界では資本主義、共産主義、以外にはありません。

 さて、つまらない批判ですが、これは私の得意分野でもあり、職業上のものなのでひとつ指摘しておかなければならないことがあります。それは、この少女の身体性の問題です。
 この作品では、身体を持たない人々を描いていますが、主体となっているのは、身体を「持つ」側の物語です。敢えて身体を持たない人々を登場させることによって、さらに身体を持つ人々のほうがぐっと浮き彫りになってくるのです。そういう点で、この作品は極めて身体的な映画ということができるでしょう。
 アニメの身体性というのはずっと昔、手塚治虫のころから問題になっていました。手塚の漫画に登場する人物は、きわめてデフォルメされているのだけれども、妙に生々しい。その後ドラえもんなどの作品になると、ぼこぼこにされたのび太が、次の場面ではけろっと元通りになっていたりして、漫画の身体というのは、記号化されたもので、実際にそこに身体はないのだという感覚が流行しました。その反動として、スラムダンクのような作品では、身体性をもたせようと、ものすごく過剰な汗の表現などをして、部分的に身体性を持たせることに成功したのです。
 さて、この作品ですが、ある部分では身体的であり、ある部分では身体的でない、ということができるでしょう。アニメーション映画の興行が不況のなかで、アニメーション映画制作陣は大胆なことはできない、というのが現状です。ですから、どうしても観客に媚びをうるような形になってしまう。これは改善すべき問題ですが、仕方のないことでもあります。お金を私を含めて多くの人があまり払わないからです。
 さて、この映画でどの部分、こびているのかというと、少女の身体です。彼女は最初二十代半あたりの人物として登場しますが、地球への捜索任務時に、いそいで出発したために、成長過程を経ていない、16歳の少女の肉体で任務へ向かうことになります。いかにもここが必然的に描かれているのが、うまいなと思うのですけれども、これは完全に視聴者へのサービスです。
 最近わたしが感じるのは、第二次成長期を迎えていない少女の身体をなめまわすように視る、視点の作品が沢山ふえてきているなということ。それはもちろん90年代のエヴァンゲリオンからあったことではありますが、特にそれがここのところ顕著になってきているような感覚がします。それはもちろん私個人の感覚ですから、そうではない、という意見があって当然なのですけれども。
 今回の作品にしても、「なぜケツばかりが話題なのか。大ヒットアニメ「楽園追放」の謎を追う」
http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20141216/E1418662666832.html?_p=2
 というような記事があるくらい、この少女への視線というものは、極めてエロティックなものになっています。本来であれば、成熟した冒頭の女性を活躍させてもよかったはずなのに、敢えて16歳の少女に変更させてしまう。これは、日本人の極めて異常な、ロリータコンプレックスと言わざるを得ないのではないでしょうか。
 上野千鶴子なんかは、パンティを集める男性を指摘して、実は本物の女性や、本物の女性器は怖いのだ。だから本当に欲しいのは、女性の肉体ではなく、間接的なモノ、それがパンティになるのだという、面白い指摘をしています。確かに日本人には、鏡に映った富士山のように、本体ではなく、その模倣だったり、間接的なものだったりを愛好する文化のようなものがあります。
 それに日本人は初もの好きで、初詣だったり、初夢だったり、とにかく初めてのものが好きなのです。そこには当然、姫はじめのように、うぶで純粋なものへの嗜好があります。ですから、第二次成長期を迎えていない16歳の少女が登場するわけで、その成長しきっていない、いわば大人の女性になっていない、一人前になっていない少女を、蹂躙するかのような視点がひとびとに喜ばれるわけです。
 そしてここに登場する性欲があまりなさそうなオジサンであるディンゴ。これはもちろん、この作品をみるオタクたちの代表であります。この人物はかなりクサイセリフ回しをずっと使い続けるのですが、この肥大した自我をもったような人物は、私を含め、オタクそのものであります。
 しかし、このディンゴは、少女への性的なものを求めない。それが、オタクが安心してこの作品を見ることができる理由なのです。そこにはセックスがあっては困るのです。アメリカなどになりますと、セックスがあったほうがヒットするのですが、日本になると、むしろセックスがないほうがいい。第二次成長期を迎えていない、綾波レイのような純粋な少女を、大人の女性としてではなく、人形として手元に置いておきたい。いわばフィギュアをなめまわすような感覚に近いのです。

 この作品では、AIは極めて友好的な感覚を持った存在として描写されます。しかし、現実問題として、我々の世界で本当にAIが自我を持ったとしたら、それはあまりにも危険だとして即座に排除されることでしょう。ですから、この話の方向性自体はなんの不思議もないし、むしろ私は、破壊を命じた三人の高官のほうに感覚としては近いものがあります。もちろん、これは物語ですし、AIがとても友好的な感覚をもっているということが時間をかけて描写されますから、視聴者はAIに肩入れしたくなるように設計されてはいるのですけれども。
 しかし、自我を持ったAIというのは、それだけでも一つの映画になりえるだけの要素です。それをなんということもないように、さり気なく組み込んでしまうところに、この映画の強さがある。その要素に負けないだけの、本筋がきちんと通っているということなのだと思います。
 この映画は久しぶりに楽しくみることができました。CGアニメーションにもかかわらず、かなりセル画に近く描写していて、その部分はかなり頑張ったんだろうなということが伺えます。
 特に作品として大きな欠点もなく、ほんとうによくまとまった、優秀な映画だと感じました。
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ベスト・キッド1・2・3・4 感想とレビュー

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 前からタイトルはなんとなく聞いたことがある有名な作品を、今回はじめてきちんと全作を通してみることができた。
 シリーズは四作ある。こういうシリーズものはなかなか時間が取れるときではないと見る気になれないのであるが、今回は一度見始めたらそのおもしろさにはまって、引き摺り込まれるように四作見てしまった。それぞれ一話ずつ感想を書いてもよかったが、私もそんなにたくさん書いていられないので、今回は四作まとめた感想ということにしたい。
 先ず、原題であるが、カタカナで表記してしまえば、「カラテキッド」ということになる。それをベストキッドにしたのには何か理由があったのだろうか。邦題はしばしば、よくわけのわからない変更が行われるので、注意したい。
 さて、この一連の映画であるが、作成されたのは1984年。かなり昔の話だ。三十年前か。私は生まれが1992年なので80年代くらいはなんだちょっと前のことじゃないかと思わなくもないのであるが、やはりこうして映像として80年代の様子を見せられてしまうと、ああ、やっぱり時の流れというのは結構私の予想よりもあるなと感じずにはいられない。
 私は車が好きで、90年代の車くらいからは、ほとんどの車を見たことがあるし、大体わかるのであるが、この映画に出てきた車のほとんどがわからないという状況に、愕然とした。あのまるっこいトラックはななんなんだ!どこのメーカーかさえもわからない状況だ。一話目に登場するシボレーあたりは分かったが、それでもその時代の最新の車で90年代に通じるシボレーの型が出て来たのかと思うと、時代を感じずにはいられない。
 しかしそうはいっても、ここに登場したダニエルさん等の若い人々は、現在五十代くらいであろう。そうすると、意外と最近なのでは、と思わなくもない。私もいつのまにか五十代になっていそうな気がする。恐ろしいことではあるが。そうなったときに、三十年前をふっと振り返るというのは、そんなに時の流れを感じない行為なのではないか、と思わなくもないのだ。

 時の話は置いておいて。この物語は、寅さんシリーズのように、出来上がった黄金律によって作成されている。強敵がいて、一度打ちのめされ、師匠のもとで修業をして、最後には敵を打ち破るという定型だ。そこにちょっと色がついて、ヒロインとの恋物語があったりするのである。あとはバリュエーションのシチュエーションの問題で、大枠はおなじものである。
 一話目の映画は、単純であるが、そのぶん実に楽しく鑑賞できた。ダニエルというひ弱な少年が、孤高の老人と出会い、師との修行のなかで成長し、最後には敵を打ち破る。実に簡単で、ベタな作品であるのだが、そのベタが、メタ化してしまった現代の我々が見ると新鮮に感じられるのである。
 二話目はおもしろいことに、沖縄に舞台が移る。ただ、この映画、かなり不思議な感じに仕上がっており、一筋縄ではいかない作品になっている。
 そもそもこの映画はアメリカ映画である。それが日本を描くとなると、やはりどこか日本人の作る日本映画、日本らしさとはかけ離れた、翻訳された日本のようなものを我々は目にすることになるのである。もちろん、これはこの映画の制作国であるアメリカの視聴者たちがみれば、これが日本なのかと納得できるようなものなのだろうが、私たちが見ると、なんとも不思議なものである。
 そもそもミヤギ役を演じたパット・モリタであるが、日系ではあるものの完全なアメリカ人。日本語はしゃべれないようだ。そのモリタが日本人役を演じるのだから、なかなか大変なものがあっただろう。舞台は沖縄。本当に沖縄なのか?(しかも三十年前)と思いつつ、恐らく違う場所で撮影したのではないかな、不思議な日本像を見せられた。なんだか違って見える日本は不思議な感覚だ。日本が舞台になっているはずなのに、登場人物たちが、しかも日本人のような人たちがみんな英語でしゃべっているのである。これはとても面白かった。あ、やっぱり日本語でしゃべらないんだ、と思った。そこはアメリカ映画なのである。日本語でしゃべらせて字幕使えばいいじゃん、そのほうが自然じゃんと思ったが、みんな英語でしゃべる。
だが、ところどころ日本語が混じるから余計におかしいのだ。日本語でぶつぶつつぶやいていながら、ミヤギと話すときは英語であるとか、とにかくちぐはぐなのである。そこらへんが歯がゆく、不思議な映画と表現しているのである。
だが、骨格は同じで、ミヤギが日本を出なければならなくなった恋騒動、その相手との35年越しの対決というのが作品のモチーフになっている。強敵との戦いへ向けて物語が転がっていくという点では同じであるが、それが今度はダニエルではなく、その師であるミヤギだというところが面白かった。この作品では、ミヤギの恋も描かれ、主人公はダニエルからミヤギに移ったといっても過言ではないほどである。だが、最後には、やはりというか、ダニエルとサトウの甥っ子との戦いで幕を閉じる。

三作目は「最後の挑戦」と銘打ってあり、二作品目の直後から始まる。沖縄での滞在を終えた二人がアメリカに帰国するところから映画が始まっている。第一作で敵の親玉であったクリースが、かつての戦友であるシルバーを頼るところから物語が始まる。このシルバーであるが、この怪演っぷりには正直驚かされた。彼が善人として振る舞っている時は本当に善人のように見えるし、悪人のように振る舞っている時は悪人のように見えたのである。彼の演技はこの作品でとても味の効いたスパイスになっていた。
さて、今回は敵方の復讐劇である。スターウォーズでもそうだが、三作目には大体的の復讐が置かれる。そうしたほうが物語的にもおもしろいのだろう。そういう黄金律がある。
まあ、もちろん敵が負けてしまうというのはわかっているのだけれども、それでも敵がなんとなく頑張っているのを見ると、主人公は敵方なのではないかと思ってしまうほどである。特にシルバーの演技を合わせてかんがえると、今回の裏の主人公はシルバーといってもいいかもしれない。
今回シルバーの考えていた作戦は、あまりよくわからなかったが、シルバーの教えにより、ダニエルがかっとしたら暴力を振るってしまうほどに人格が変容してしまった、という設定はおもしろかった。ここらへんややスターウォーズの影響を感じるのであるが、それはよしとしよう。ようは、シルバーは今回、ダニエルの心理的な側面、こころをダークサイドに引き摺り込もうとしていたのである。引きずりこんでしまえば、それがミヤギへの復讐になるし、そうならなかったとしても、武力をもってこてんぱんにやっつければよかったのである。

四作目はさらに面白い。
まず撮影年次が1994年と、最初の映画から十年もの時がたち、私が見たことのあるシボレーにミヤギが乗っている。そこからああ、すでに大分時が経ったのだなということが感じられた。映像も綺麗になっていたし。やはり十年という歳月は長いものがある。
さて、今回であるが、今までの三作は、良くも悪くも、ダニエルとミヤギとのコンビは最高だったわけである。孤高の老人と、それを慕う純情な少年という構図は、かなり黄金律に近いところがある。もちろん時には敢えて反発させたりするのであるが、父よりも遠い祖父のような存在と孫のような関係というのは、変なこうしろ、ああしろという親の愛情というか、命令のようなものがないから見事に丸に収まるのである。しかし、今回は敢えてそれを突き崩した。それはミヤギとダニエルの関係にこれ以上の発展がみられないからということも十分にあるだろう。
ミヤギは盆栽やをやっているのか?という疑問は残ったが、もうきっとやめてしまったのであろう。そうして今度はかつてのダニエルのように、少女をふたたび空手の道に進ませようという、師の役割を与えられる。それまでダニエルとぴったりと息が合っていた分、当初かなりグレていたジュリーにはかなり手を焼いてしまう。それまでのミヤギ流の教え方が通用しない、というのは、作品冒頭ではなかなか新鮮味がある作用だったと思う。
今作で面白いのが、良くも悪くも、この作品が精神的なものを描こうとしてきたということが如実にわかる場面だ。私はやや、うさん臭さも感じてしまったのであるが、アメリカ人には、ワオ東洋の神秘!とでも感じられたのであろうか。
この作品にはなんと坊さんが登場するのである。アメリカでなにやってんだよこいつらと思わなくもなかったが、いや、本当に何をやっているんだろうか・・・。とにかく停学になった期間を利用して、少女は心身ともに修行すべくこの禅寺へ行くのである。
そこで行われる様々な奇跡。例えば最後の弓矢を片手で受け止める技など、通常あり得ない。そういうものをあたかも現実かのように描いて見せてしまうところに、映画的リアリズムというか、映画的な気持ちよさが現れているのであって、しばしばそれを人は現実でもできるかのように感じることによって、妄想に耽溺することによって脳内で快感になるわけである。
坊さんたちがその後ボーリングをする場面があるが、眼を閉じてゲームをしている、しかもそれがすべてストライクであるというところに、アメリカ人のゆがんだ東洋への眼差しが見て取れる。そこには、東洋人、特に坊さんのような特殊な人種は、精神的に卓越したものをもっているから、眼を閉じてボールをなげると全部ストライクになってしまう、というような神秘的な力を持っているだろう、というようなものだ。これを見たアメリカ人たちは、きっと少なからず日本や坊さんに対してそういう視線を共有することになる。もちろんこれは娯楽映画だからそれは間違っている、変な妄想を生みだすからやめろ、と声高に叫んでも仕方がないところがあるが、しかしやはりそうやって徐々に生み出されていく東洋の神秘というものが、東洋人へ対する彼らの眼差しを曇らせないか?というのは常に心配し、注意しておかなければならにと思う。

まあしかし、この映画が言っていることの一面は、非常に重要なのだ。物質的な社会になってきて、若者がちんぴらになり、たむろしている当時のアメリカ社会において、東洋的な神秘を持ち出して来てまでも、人間のこころの側面を描かなければならなかったという緊迫感は伝わってくる。そうでもしなければ、ならなかった。この映画が大ヒットしたことからも、そこには、やはりこころが重要だよなという視点がアメリカ人のどこかにあるということが見て取れるだろう。
最近ではこういう精神論のような映画はほとんど見なくなった。あったとしても、こういう過去にあった映画のオマージュ程度のようなもので、本気でそれをやろうとはしていない。やはりそこにはどこかベタではなくて、メタの視点があり、そうは言っても、精神論で飯は食っていけないし、というようなどこかそれを軽蔑するような視点が含まれてしまう。この作品のいいところは、本気で精神論を述べようとしているところなのではないだろうか。そこには精神を馬鹿にするような表現は見受けられない。今見れば、やや胡散臭いし、恥ずかしいようなことを言っているところが、今でもなお見るに堪えられる、本気、として我々の目に映るのではないだろうか。


中島義道『哲学者とは何か』 感想とレヴュー

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 やや違いなと思う部分もありながら、全体としてはこの人の意見に賛成している、中島義道の本。『哲学者とは何か』という直球ストライクの本を、タイトルの魅力から選んで読んでみた。
 この本はどういう本なのかというと、書下ろしというわけではなかった。さまざまな場所、主に雑誌に掲載された短い論文のようなものの寄せ集めだったのには、やや残念ではあったが、それぞれおもしろく読ませてもらった。確かに論文を集めるだけで本が出るならこんなに作者にとっていい儲けはないよなと思いつつも、いろいろなところで執筆された珠玉の論文をまとめて発表してくれるというのは、読者にとっても、手間が省けていいことだ、と思わなくもなかった。


 《それにしても、ほとんどの男性が「スカートをはきたい!」とつゆ思わないほど抑圧されているのは、トテモ悲しいことだよね。》

 《哲学が教えるのは人生に対するもうひとつの別の態度である。それは(たぶん)これまで読者諸賢が「よし」としてきた態度を根底から覆すものであろう。まず、客観的態度を捨てること。客観的な正しい「生き方」などどこにもありはしない。「私の生き方」を他人に相談することはありうるとしても、あくまでそれは「私の」生き方なのだ。最終的には自分で決し、自分で評価するほかはないのである。これと関連し、次に客観的な真理より自分の信念のほうがはるかに重要であると知ること。自分の内部に聞き耳をたてること。その訓練を積むこと。そして、勇気を出して、少しずつ自分の内部の声に従うこと。》

 《生きることと別に人生の「目標」などあるわけではないのだ。「自分なりの生き方」をはっきりと「かたち」い示すことこそ目標なのである。》

 哲学というのは、私たちが普段何気なく信じ込んでいることに、タンマをかけ、それはどうしてそうなのだ?という問いを突き付けていくことにほかならない。
 だから、例えば引用したように、男性がスカートをはきたいとも思わないほど抑圧されている世界は異常だというのが、哲学では「正常」なのである。我々はこの一文を読んで馬鹿な、何を言っているんだこの人は。女装すればいいのか?というように簡単にこの提言を見捨ててしまうだろう。だから、いけないのだ。私も四年わかければ何を言っているのかわからなかっただろう。しかし文学的訓練を四年間してきて、だいぶ哲学の思考法を身に付けた私にとっては、この言葉は、確かに自分はなぜそんなことに気が付けなかったのだろうと、ものすごく驚ける事実だったのである。
 確かに我々はスカートをはきたいとも思えないほどに抑圧されているではないか!と。
 私は普段からつねづね、男性の服がほんとうに種類少ないのを嘆いてきた。それは単純に私がおしゃれが好きだからという個人的な趣味からきた問題であるが、しかし思考の俎上に乗せると、やはりここには男女差別があるとしかいいようがない。私はジェンダー研究者でもあると自分のことを任じているので、やはりこうした男女差は是正していかなければならないと思う。私個人の話をすれば、私にその能力があれば、無性の服を作るブランドを作りたいなと思うほどである。実際にはなかなか難しいだろうが。しかし、これは女性、これは男性が着る服、というように服をつくるのはなによりの差別でしかない。しかも、現状は、女性のほうが服の種類が多く、男性が少ないのだ。もちろん女性に言わせれば沢山のなかから自分に選ぶものを選ばなければならないという苦労はあるだろう。しかし男性コーナーと女性コーナーを比較すればわかるように、それはある意味では贅沢な苦悩なのだ。男性はそもそも選ぶものが限られている。
 それに、なぜ女性は女性用の服を、男性は男性用の服を着なければならないのか、ということも、はっきり言えば、謎なのである。だれもそんなことを決めていない。だが、この現実社会で、男性がスカートをはいて会社に出ればどんな目に合うかわかるし、女性がスーツにネクタイをつけていたら、なんだこの人はということになってしまうのである。こうした性差、これらを我々は日常的に受け入れて生きているのであるが、そこに染まっていても苦悩しない人はいい、だが、苦悩する人がいるのであるから、そういう人達のためにも、こうした性差というのを解体していったほうがいいのではないか、ということがジェンダー・フェミニズムの世界の話なのである。哲学は、そもそもなぜ女性は女性のような服を着ているのか、男性は男性のような服をきているのか?ということにハテナを突きつけていく思考方法である。



 子供たちには、人間とは差別する生き物、ある人を好きになりある人を嫌いになる動物であるということ、それは「自然」である、ということをまず徹底的に教えるべきではないか。
 「みんなと仲良くする」などという言葉は、そんなに軽々しく口に出すようなものではなく、大変な苦痛と犠牲とのうえになりたつ究極の知恵なのである。シェーラーが強調するように、本物の(純粋な)愛とはA個人の個体性を愛するときである。愛することに理由があればあるほど、ニセモノくさくなる。Aが美人だから、教養があるから、アアだからコウだから……という理由をとうとうと述べ続けることができる人は、Aを真に愛してはいない。なぜなら、これはこうした特性がAから消え去るとき、Aを愛さないことを含意するからである。だが「なぜかわからないがAだから好きだ」という人こそ真の愛を知っている。これは多くの人が同意することであろう。
 だが、この理屈を「憎しみ」や「嫌い」に適用すると、そこにはたいへん恐ろしい世界が開けてくる。私がある人を恨むとき、その理由を挙げることができるかぎり、それは軽い憎しみである。しかし、究極の憎しみとは「なぜかわからないがBだから嫌いだ」というものである。この場合、憎しみはBの諸特性にあるのではなく、Bという存在そのものに向けられている。だから、この意味で嫌われてしまうと、もう手の施しようがない。Bがたとえ性格を変えても、整形美容をほどこしても、いやそうすればそうするほど「Bである」という存在そのものが浮き立ってきて、Bはますます嫌われるのである。
 教師は、この人類に課せられた超難問に生徒とともに真剣に取り組むべきであろう。先生が教室で悲痛な顔をして「あなたがた、なぜBを嫌うの?」と問うても、真相は見えてこないであろう。「Bのここが許せない」「あそこが嫌いだ」という表向きの理由の底にはクログロと「Bの存在が嫌いなのだ」という回答が横たわっていることを、生徒たちは知っている。「自分も同じことをされたらどうなの?」という問いかけも的を外れている。「自分は嫌われない。なぜなら自分だから。アイツは嫌われる。なぜならアイツだから」という答えもまた、握りつぶすことのできない真実の叫びなのだ。「個性の尊重」とはこういうことである。
 ここには、安直な回答はない。人類の永遠の課題なのである。としても、だからおちって悠長に手をこまねいていてよいわけではない。教師はせめて「きれいごと」を語ることをやめるべきであろう。「いじめられえいるBがどんなに苦しんでいるのかわからないのか!きみたちは思いやりがないのか!」という叫び声は、生徒の心には届かない。みな、Bが苦しんでいることがわかっていじめているのである。Bが苦しんでいるから、それがおもしろいからいじめているのである。できればBを滅ぼしたいのである。Bの存在そのものが気に食わないのである。人間とは(子供でも)、それほどまでに残酷なのである。
 究極のところは、自分の個人的な善感情をそのまま生徒たちにぶつけるしかない。自分の「好き・嫌い」をはっきり示すしかない。「いかに生きるべきか」に普遍的な正解がないように、「好き嫌い」には何の普遍的な正解もないこと、しかし今ここで私はこう考える、感じると生徒たちにぶつけてゆくしかない。
 ―人を嫌うのは人を好きになるのと同じくらい自然なことだと思う。だが、なぜだかわからないが、嫌う人を(少なくとも過度に)苦しめてはいけないように思う。嫌いであるという感情を偽ることはない。だが、この感情は相手を滅ぼすまでやむことのない凶暴な恐ろしい感情なのだ。残念ながら、人間とはそのように攻撃的な恐ろしい動物なのだ。だから、互いに攻撃し合うことを最小限に止めるためにルールをつくるべきだと思う。心底嫌いな人でも、あたかも嫌いでないかのように、あたかも好きであるかのように振る舞うルールをつくるべきだと思う。
 俺にもありとあらゆる差別感情はある。この生徒は大好きだがあの生徒は大嫌いだということはある。知らないうちに差別していることを知ってハッとすることもある。だが、なぜかそうしたとき自分を恥じているんだ。人間が平等だなんて全然信じてはいない。個人のあいだの能力差は絶望的なほどだし、それはけっして「解決」などできないことも知っている。本人の責任から離れたところで、とても幸福な人生ととても不幸な人生があることも知っている。だが、なぜか知らないが、みんな人間であるかぎり平等であり、どんなに嫌なヤツでっも人間であるかぎり尊重しなければならない、と思い込みたい強烈な気持ちもあるんだ。そうでも考えなければ、人生なんてあまりにも悲惨で耐えられないんだよ。


 かなり長い引用であったが、この本のなかで私が一番真実だなと感じ、すばらしいと思った部分を引用した。
 私自身も教員免許を貰う立場となって、いつでも教壇にたてる身となってしまった。もちろん生徒たちとの交流は楽しいし、いますぐにでも教師になりたいかと言われればなりたいが、しかし、私にはまだ教師にはなれない。そこまで自分が成長していないと思うためである。
 さて、だから今回は教師としての目線で今回のこの部分を読んだわけだが、つらいものがあった。確かに私も幼い頃、でなくても、現在でも、嫌いな奴はとことん嫌いだ。何が嫌いだというわけではなく、その存在自体が嫌いなのだ。その気持ちを止めることが、留めることができないのである。
 こういう自分自身のこころを見つめていると、そんな人間が教員にはなれないではないか!と激しく悶絶するのである。
だが、中島義道は勇敢にも、こんなことを書けば世の中の保護者や教育者たちから非難されるのを覚悟して自分の感じた真実を書いている。そしてその真実は確かに私も真実だと感じるものなのである。
 人が人を理由なく好きになるのだとしら、人は人を理由なく嫌いになるのである。これを避けては通れないだろう。人間はそういう残酷なところがある。それを人は人を嫌いになってはいけない、みんなで仲良くしていきましょう、というのはいけないのだ、と彼は勇敢にも言うのである。これは哲学者でなければいえなかった言葉かもしれない。もしも、人が人を好きになるように、嫌いになるところにもその人の「尊厳」その人がその人である理由のようなものが存在するのだとしたら、ある人を嫌いになることを、いけないことだ、みんな好きになりなさい、というのは、心を縛りつける、恐ろしい教育になりかねない。
 人間は人を嫌いにならないかわりに人を好きにもならない、というようなロボットのように心を亡くした人間にはなれないのだ。人は人を好きになるかわりに、人を嫌いになる。それを織り込んで生きていくほかないのである。それを見て見ぬふりをしていては教育者どころか、人間にもなれないのである。そんなきれいごとではなくて、汚い部分も見ていかなければならない。それが生きていく上で必要なことならば、というのがこの部分なのだ。
私はこういう人間の本性のようなものを見るにつけて、なんて生きるということは大変な、そして崇高なことなんだと思わずにはいられない。
 私もではこの嫌いな人に対してどうすればいいのか、というところまで結論が出ていない。私自身修行が足りないので、嫌いな人に対しては露骨に嫌悪感を出してしまうのである。それを出さないようにするのは大人になることかもしれないが、私にはまだ難しい。そうした部分を乗り越えてなんとか人類が嫌悪感に打ち勝ち、平和に生きることができないか、ということをただただ模索し、願い続けるばかりである。

宮台真司『14歳からの社会学』 感想とレビュー

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 去年の秋ごろから冬にかけて、私のなかでひとつのブームがあった。それはYouTubeにアップされている評論家たちの動画をみることだった。見るというよりは聞くというほうがより正確かもしれない。私は岡田斗司夫が好きだったので、よく彼の動画を聞いていた。彼は定期的に「岡田斗司夫ゼミ」と称して、その時々の話題の作品や起こった事件などについて彼なりの意見を述べるだけの映像を発信している。それがYouTubeにまわりまわってアップされているわけである。
 その延長線、関連動画として、例えば苫米地英人や宮台真司などの動画も上がっているのだ。私自身彼等のような鋭く 知的でかっこいい評論家になりたいと思っている。そんな自分の理想もあって、彼等の動画をよく見ていたものである。
が、苫米地英人や岡田斗司夫の本は何冊か読んだことがあったものの、宮台真司の本は読んだことがないということに気が付いた。それではいけないと思って、本屋でたまたま出会ったのが今回の『14歳からの社会学』であった。14歳からの~というのは、池田晶子の『14歳からの哲学』という本が大ヒットしたために一躍ブームとなった現象である。それまで難しいとされてきた哲学や社会学、経済学など、それぞれの分野の研究者が、中学生にもわかるように平易な文章で書いたというのがこれらの書物だ。わかりやすいブームというのはときどきくるものなのである。去年、一昨年あたりは、池上彰がわかりやすくニュースを解説する番組がブームになった。我々は普段何気なく言葉を使い、なんとなくわかったつもりで生きているが、実はよくわかっていないというのが現状なのである。だから時にはその分野に詳しい人が、中学生でもわかるように、という名目のもと、大人でもわかるように、誰もがその分野に詳しく、理解できるとは限らないので、わかりやすく平易に解説することが求められるのだ。

 さて、今回の『14歳からの社会学』であるが、おどろいたのは、まず横書きであるということだ。文学部の人間であるので、論文から普段読む本まで、ほとんど縦書きの世界にいた私には、それだけでも社会学が何を目指しているのかがわかる。縦書きという文化は日本固有のものであり、世界的なまなざしからみたら異端である。にもかかわらず、自分達のやりかたを通しているところに何を読み取るか、美徳を読み取るか、あるいは時代錯誤を読み取るか、はそれぞれの自由であるが、やはり世界基準で考えた時にはソリが合わないことの方が多い。それをこの本では横書きで書いている。ワールドワイドで考えているようにも読めるこの表現の仕方は、宮台真司の視野の広さを読み取っていいものだろうか。

 私のこのブログを読んでいる方はわかってくれるかもしれないが、私は文学部で一応専門は文学である。だが、もはや卒業しか残さないというところまで来て、私は文学に対しての思いがやや変化してきている。というのは、文学は文学だけのなかに留まっていてはいけないと思うのだ。私が目指しているのは、文学やサブカルチャー作品などを通して、広く文化や社会を論じなければならないのではないか、というものなのである。だから、大学の文学だけに終始する読み方にはあまりうまがあわなかった。
 社会学にも当然興味のある私は、この本のなかで、興味深い知識を沢山得ることができた。たとえばこんな部分を引用してみよう。

 〈試しに環境問題の議論の最先端を紹介しておこう。ドイツから出て来た「環境ラディカリズム」がある。これは、人間視点(「人間が生きるために環境をどう守るべきか」〉じゃなくて、(「環境が生きるために人間はどうするべきか」)に立つ考え方だ。)
 〈現在の地球人口は約70億。ある試算だと、6億に減らさないと地球環境を保全できない。アメリカの人間が一人しねば、アフリカの人間50人分の資源が節約できる。だから、戦争やテロが起こって先進国から順番に人間がしんでいくのが、地球環境に優しい―。〉

 〈能力によって自由を愉しめる度合いが違ってくる。これは本当のことだ。でも能力がとぼしいからといって過剰にみじめにならず、自分がそこにいてもいいんだ、自分は生きていていいんだ、自分は他者に受け入れられる存在だ、と思える。それが「尊厳」ということだ〉
 〈自由であるためには「尊厳」が必要なんだ。「尊厳」は、君以外の人(他者)から「承認」される経験を必要としている。逆にたどれば、他者から「承認」された経験があるからこそ、「尊厳」(「失敗しても大丈夫」感)が得られ、それをベースに君は自由にふるまえるんだ〉
 〈すると、現実には3つのタイプの人間が出てくる。1つ目が、他者に「承認」して欲しいあまり、周りの機体に反応しすぎるタイプ。他者に気に入られたくて「いい子」を演じたり、周りに遠慮して意見をいえなかったりする「ACアダルトチルドレン」と呼ばれるタイプだ。
2つ目は、他者に「承認」して欲しいあまり、周りの期待と自分の能力の落差に直面して失敗するんごあこわくなり、「試行錯誤」にふみだせなくなるタイプ。「尊厳」に問題があるので「自由」から見放されてしまうこのタイプは、一部「ひきこもり」に当てはまる。
3つ目が、他者から「承認」されない環境に適応してしまい、「承認?何それ?」とばかりに、他者との交流とケツ道した「尊厳」を投げ出すタイプ。「AC」や「ひきこもり」はまだ他者を必要とするけれど、このタイプはそうじゃない。これが結構こわいんだ。〉

 〈「みんな」に共通の前提がなくなった社会では、子どもは安心して「試行錯誤」できない。こわくふみだせなかったり、人付き合いを投げ出してしまう人だって出てくる。「ひきこおもり」「脱社会的存在」といった、昔は存在しなかったタイプの人間が生まれる背景だ。〉
 〈いまの社会では「みんな仲良し」どころか、想像もつかないような考え方やふるまい方をする他者たちがあふれている。それが当たり前になった現実の前で、「みんな仲良し」はあり得ない。仲良くできない他者たちとどう付き合うかについて、考えていかなくちゃいけない。〉
 〈アイデンティティというのは、会社をクビになろうとどうなろうと、あれこれ失敗しようが、「自分は自分だ」と言い続けられる根拠、つまり「尊厳」のことだ。君がこれから大人になるときに確実に直面するのが「尊厳」の問題だ。君は自分に「価値がある」と思えるだろうか〉


 いくらでも引用ができる。私は本を読むときには大事だなと思ったところに線を引いて読むのであるが、この本は特に多く線を引いた一冊だった。
 この本のなかには、今の社会を生きていく上で、重要な示唆が引用した箇所のように沢山書かれている。
 私のようなすねた人間は(すねさせた原因は社会にあると思っているが)、この社会はもう時代遅れで、現状に対応していないためにこんな無理が生じているのだと思っているから、社会なんて一度もっと簡単になってしまえ、単純になるまで、複雑な部分を破壊してしまえと思ってしまう。そういうことをいうと、周りの人間は嫌な奴、うるさいやつとしか思わないのだが。
 しかし引用した箇所のように、今の社会では、我々は自分の「尊厳」を守れないのが現状である。たまたま私は大学4年だから周りの人間が就活というものをしていたのでこういう話をするが、みんな何十社にエントリーシートを送って、そしてそれだけで全部落とされて、愉しかった学生生活はどこへやら、精神的にみんなおかしくなり、Facebookではまじめにがんばっていますアピール。朝井リョウの『何者』のような作品が直木賞をとってしまうような有様である。これはいかんともせん。
 社会が間違っているに決まっているのだ。だから私はその社会には汲みしませんよ、と周りの人間が就活をしているときに、私はしなかった。だからエントリーシートの実物を見たこともない。
 みんながみんなこのおかしな社会に汲みしなければ、社会の方が崩壊し、またそこで生きている人達に合わせたものに変化するだろうと私は思うのだが、一般大衆はそんな風には思わないし、考えないし、考えたとしても、そう行動できない。当初就活なんて、と言っていたのは私だけではなかった。だが、次第に周りのみんながやっているなかで自分だけやらないということに耐えられなくなったのか、みんなリクルートスーツを着てどこかへ行ってしまった。

 この本のなかでとても重要だなと思ったのは、社会学は人の幸せを追求する学問だ、と述べている部分である。私も、社会がなんだかんだというが、本質のところでは、人の幸せを一番に願っている。私の場合は、たまたま社会が人の幸せを阻害、妨害している、就活が悪いのだ、と思っているから、こいつらをやり玉にあげて攻撃しているだけなのである。
 事実就活をしなかった私の精神はいたってよいものであるし、過ごしやすい日々を送っている。近くに資本主義にどっぷりとそまってしまっている人間がいるので、いつも愉快にすごせているわけではないが、少なくとも就活を無批判でしてしまうような人間と比べれば、幸せに生きているはずである。あるいは、就活することになんの疑問ももたない人はある意味では幸せなのかもしれない。洗脳されているわけだから。
 しかし私は、やはり人間として生きているからにはこの頭を駆使して、自分がそう思い込んでいるのは、なぜなのかということを見据え、それを相対化したうえで、自分の本当にやりたいことを選んでいくのがいいと思っている。
 14歳からの社会学とは、まさしくそういうメタ認識、どうして自分はそう感じるのか、例えばマイホームを持つことが夢だとしたら、なぜそう思うようになっているのか、というところに目を向けるための訓練になる本なのだ。私はもとからそういう思考方法をするように文学で鍛えられてきたから、ものすごく新しい発見があった、ということはなかった。だが、それでも新しい発見、あ、そう考えるのか、という発見はあった。14歳には正直言えば難しいだろう。だが、大学生くらいにはわかる本だと思うので、この本を読んで少しでも自分の幸せのことを考え直してみたらいいのではないかと私は思う。

有川浩『レインツリーの国』 感想とレビュー

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 僕は去年の夏、ある学校で教育実習をした。いくら教育実習といっても、そこで僕の授業を受けた生徒たちにとって、僕はまぎれもなく彼等、彼女らの先生である。そこに「実習」だから先生ではない、というような心構えは許されない。
 さて、僕は国語を教え、本を読むことを教えたのだが、そのなかのとある生徒が先生『レインツリーの国』を読んだことがあるか?ということを聞いてきた。有川浩の本は図書館戦争シリーズしか読んだことはない。あといくつかの本は自分の本棚にあるがまだ読んでいなかった。レインツリーも読んでいなかった。そこでその子は先生の感想を聞きたいと述べた。だから、僕は今回こうして、やや時間が経ってしまったのだけれども、本を読んで感想を書いているわけである。

 その子はものすごくこの本が好きなようである。人が好きなものに対して感想を述べるのは、正直大変むずかしいものがある。その子の「好き」という感覚は、その子だけのものであり、それは特権的なものなのであるが、やはりどうしても僕とその子の間には、教師と生徒という力関係が生じてしまう。そうした力関係のある場においては、僕の感想がその子の感想に影響しかねないのだ。何を恐れているかと言うと、僕の感想が彼女の感想を破壊したり、傷つけたりしないかということを恐れているのである。
 だから今回僕はいつものような好き勝手なことを言って、例えば「おまえが馬鹿だということがわかる」というようなコメントをいただいてしまうような書き方をしてはいけないということなのだ。やれやれ。

 前置きはこのくらいにして内容に入ろう。
 正直言って、図書館シリーズを読んだ際、当初はよく調べられているし、有川浩ってすごいなと感心したものである。が、図書館シリーズの外伝の二冊を読んだ際に、彼女のいわゆる「青春菌」みたいなものにあてられて、しばらく有川浩は読みたくないなと胸やけを起こした。だから、今回のレインツリーでも、冒頭のメールのやりとりで、「青春菌」をぶちまけたようなメールの応酬には、はっきりいってつらいものがあった。一度などは、読んでいた手を落として、「ああ」と空を仰いでしまったくらいである。
 そのベタベタな感じはいつまでも私は苦手であるが、それ以外のところでは割と真面目に読むことができたと思う。
 まず冒頭のメールのやりとりであるが、これを僕はある種のリアリティをもって読むことができた。というのは、僕もこのレインツリーの国のように、偏屈文化人のブログという一つの国を持って、好き勝手なことを書いているブロガーの1人だからである。そうして、そこにやってくる人達と、このような、とはいかないが、何かの本や映画の感想をめぐってメールのやり取りをしたこともある。だから、この感覚というのはよくわかるのだ。見たことも会ったこともない赤の他人と、その作品ひとつで交流する。その際の、もし解釈が違っていたら、感じ方が違っていたら、それでその縁が終わってしまうのではないか、というはらはらするような感覚の交流というのは、良く知っているのである。だから、その辺はとてもリアリティがあるなと思って読むことができた。
 ベタベタな展開を経て、この作品は中盤から後半にかけてかなりシリアスな展開になっていく。
 有川浩がうまいなあ、僕も小説を書いているけれども彼女のようになれないなあと思うのは、そこに登場する人物たちの生き生きとした様である。この小説は登場人物が二人。他にも端役はいるが、主に二人の人物しか登場してこない。その人物たちが本当にいるかのように、存在しているかのように感じられるのである。これは大した技量だなとうならずにはいられない。
 何がすごいって、彼、彼女の言葉の応酬がすごいのである。これは一人の人間から生み出せるとはなかなか考えられないものだ。本当に思考も感じ方も違う二人の人間がいるとしか思えない。だからきっと有川浩には二人の人格がいるのではないか、と思わせるほどである。
 まあ一つ文芸評論家的なことを言わせてもらえば、そうは言っても、やはり有川浩は登場人物の口調を一人は関西弁にしなければならなかったということに着目すると面白い。というのは、人間はそれぞれ文法を持っており、たとえば内気で日本ではとても異性に告白なんかできないような人間が、英語圏で英語で話していると英語で簡単に告白ができてしまったりするという例がある。これは言葉が変われば、それによって思考の変化も生じるということの事例である。だから、有川浩はこの二人の人物を描き出すために、1人は東京弁、1人は大阪弁にすることによって、自分のなかで思考を変化させていたのだろう。


 この小説には、珠玉の言葉がぎっしりとつまっている。
 伸:いろんな物事にフラットになるには、ハンデやコンプレックスがあるときついねん。聾の人も一緒やないかな。耳悪いのは一緒やのに君らは喋れる。ちょっとでも聞こえたり喋れるほうがずっとマシやのに、私も同じ苦労してます、仲間ですって顔されたら、虫の居所悪かったらむっとするんちゃうかな。だってしゃあないよ、人間て八つ当たりする生き物やもん。

 伸:理想の人なんかおれへんよ。単に条件が違う人間がいっぱいおるだけや。その中には人間できてる人もできてない人もおんなじようにいっぱいおるよ。ていうか、できてる部分とできてへん部分とそれぞれ持ってるんちゃうかな。みんな聾も中途失聴も軟調も、同じハンデ抱えてる分だけ「あの人は私よりマシ」とか「羨ましい」とか「妬ましい」とか余計にあるんちゃうかな

「見過ごしたくて見過ごしてるんじゃないんです。言ったじゃないですか、意味ないからって。無駄なんですよ」
ひとみの声は今まで聞いたこともないほど投げやりだった。
「ああいう人が私の障害知らされたからって、後からでも『知らないひどいことしちゃったね』なんて思うと思いますか? あいつらキレイごと押しつけてウザイ、むかつく、恥かかされたくらにしか思いませんよ。そんで『障害者はウザイ』しか記憶に残らないんですよ、どうせ」
「そんなこと分からへんやんか・・・・・・」
言いつつ伸行の声も歯切れが悪くなるのが正直なところだった。
「後で寝覚めの悪い思いくらいはするかもしれへんやろ」
「それでも『世の中には耳が悪い日ともいるから、後ろの気配に気づけない人がいてもイライラしたら駄目だね』なんてあの二人が思うと思いますか? みんながそこまで思ってくれるならその度に言う意味あるけど、そうじゃないならその度に私の障害をひけらかされたくないんです。だって『この人耳が悪いのね』って周りの知らない人に哀れるのは伸さんじゃなくて私なんだから」
その投げやりな声が、ひとみが今まで裏切られてきた回数だ。―世間から。
「だから私、ああいう人はもう同じ人間だとは思わないんです。同じ形しれるだけの別の生き物。だから理解したり気遣いあったりもできないの。あれは、私にとっては人間じゃないの、もう」
それは君からああいう奴らへの差別じゃないか、などというキレイごとはさすがに口に出す気になれない。差別されることに敏感で、常に差別されることに苦しんでいる君らが、ああいう連中を逆に見下すことで差別するのか、なんて理屈を言うのは簡単だ。しかし、ひとみがそう思うようになるまでどれだけのお逆風を受けたかを思えば。
だが、見下す『健聴者』の側に自分も入れられていることに気づいてしまったのがいけなかった。伸行はこの場合、ひとみという難聴者の苦悩を理解できない無神経な健聴者というカテゴリーに入れられているのだ。
特権みたいに傷ついた顔をされるのも癇に障った。
「・・・・・・そうやって世界で自分しか傷ついたことがないみたいな顔すんなや」
抑えようと思う前にもう吐き出していた。ひとみがどれだけ自分をタフで大人だと買ってくれているかは知らない、しかし伸行もまだ二十代半ばの若造で、その限界は厳然とあるのだ。
「いっつも自分の耳悪い苦労ばっかり言うよな。気遣いに行き届かへん俺を責めるよな。でも、君かてちょっとでも気遣ったことあるか? 俺にも君みたいに傷ついた昔があったかもしれんとか思ったことあるか? 伸さんはすごい、伸さんはえらいって都合がええときに都合のええところだけつまみ食いで誉めてもらっても、こっちかてたまらんときはあるんやで」
言っても仕方がない、だから言わなかった。そうした自分の弱さを人に投げつけるのは伸行のプライドに添わないが、もうそんなものに構っていられない程ひとみからの小さなトゲは限界だった。


 痛みにも悩みにも貴賤はない。周りにどれだけ陳腐に見えようと、苦しむ本人にはそれが世界で一番重大な悩みだ。救急車で病院に担ぎこまれるような重病人が近くにいても、自分が指を切ったことが一番痛くて辛い、それが人間だ。

 「レインツリーの国」には、このような心に刺さるような名言がちりばめられている。これだけ理屈っぽい登場人物たちを描けるのだから、おそらく有川浩自身もかなり理屈っぽいのだろう。そこは例えば江國香織とか川上弘美などに代表されるような感覚的な作品とは異なってくる。特に最後に引用した、自分のささいな痛みと他人の重大な痛み、どちらが優先されるのかといえば、当然自分のささいな痛みであるということは、僕もつねづねそう思っていたので、僕は共感できた。
 おそらくこうした理屈に共感できない読者もいることだろう。それは理屈にも種類があるように、理屈のなかでも別の理屈を持つ人や、あるいは感覚的な人もいるかもしれない。だから、全員がこの小説を納得、共感できるわけではないだろうと僕は思う。たまたま僕はこの小説と、というかこの作家と、理屈面においてはそりが合ったということなのだ。

 最後に。この小説はほんとうに「ことば」を大事にしているな、と思える作品であった。主人公の女の子が中途難聴者であり、言語に不自由なこと。主人公の男の子は大阪弁という方言を駆使していること。メールのやりとりに始まり、書き言葉や話し言葉の応酬が絶妙であること、などなど。この作品がありとあらゆる「ことば」をテーマに、それを大切に扱っていることは、作品のいたるところからひしひしと伝わってきた。僕も文学部の人間であるのだから、本来はこのくらい「ことば」に対して敬意を払って接しなければならないのかもしれない。普段は手抜きをして、適当な言葉を使ってしまっているのだけれども。
 もちろん娯楽小説としても読むことはできる。この小説の主軸は男女の恋愛だ。だが、私は通常の娯楽小説では得られない読書体験をこの本からは受け取ることができると思う。それは作者の言葉にたいする慎重な姿勢だったり、障害や差別と言うことに対する鋭い視線だったりするのだ。私はこの作品で改めて障害とは何かということを考えさせられた。そしてまた自分はどこまでいっても自分でしかなく、他人のことまで考えられないのが人間だということも。障害を持つ相手をいくらおもんぱかっていても、それは結局その人の障害ではないのだから、本質的には分かり合えないのだと。しかしだからといって諦めるのではなく、その先を行こうとするこの主人公二人の姿に、僕は人間にはそういう可能性もあるのだなという明るい未来を見ることができた。
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