スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

中島義道『働くことがイヤな人のための本』感想とレビュー

guruguru_9784101467238.jpg


 私が去年の秋ごろ、生きるのに疲れていた時に奇跡的に出会った本があった。その本は『生きることも死ぬこともイヤな人のための本』。このタイトルはまさに私のその時の状況を言い表していたのである。
 生きることがいやだった。生きるということはとても恐ろしく、怖いものに感じられた。生きるために人は食べる。何を食べるのか。生きているものを食べるのである。その当時の私は肉をできるだけ食べたくないと思ったりもした。自分ががめつく生きるために、他の生き物を殺してまで生きているということがどうにも辛かったのである。しかし、では、死にたいのかというとそうではなかったのである。生きたくない、生きるのが辛い、というと、すぐに人はでは死ねばいいという結論をよこす。そういう答えをよこした人も何人かいたような気がする。しかし、私は生きるのも嫌であったが、なんということか、死ぬこともイヤだったのである。
 私はその時この気持ちは僕だけのものなのかと思っていた。それを言い表されてしまったことに、ちょっとくやしさは感じたものの、私はこの本と奇跡的に古本屋で出会うことによってかなり救われたのである。内容は私よりも重症で、そうじゃないなと思うところも多々あった。だが、生きることも死ぬことも、どちらもイヤであるという悩みは正常であると中島義道は私を励ましてくれたのである。それ以来私は中島ファンになった。
 さて、今回『働くのがイヤな人のための本』であるが、これもまた私にとってはベストマッチな本であった。心療内科に通うようになって、体調も回復してきた私は、次に直面、対決しなければならなかったのは、就職というものであった。だが、生きることにも死ぬことにさえも疲れていた私である。当然働くことを考える力さえも残っていない。とにかく私は2,3年は休養しなければならないと考えていた。ところが、現代日本社会においては、そのような休養を許してくれるような風潮はない。周りを見渡せば、一緒に会話をし、価値観を共有できると思っていた知人たちが、リクルートスーツに包まれて、没個性と化し、やれエントリーシートだ、面接だと意気込んでいる。私はまるで異世界の出来事を見ているかのように周りのことを見ていた。私は結局何もしなかった。エントリーシートは実物を見たこともない。
 そんな時に、中島義道の本にこのタイトルの本があるのを発見し、手に取ってみたのである。
 今回は最後の数ページだけを残してしばらく放っておいてしまったので感想を書くのに間が空いてしまった。

 まず私にとってこの本はとても相性のいい本だった。本との相性というものはあるものである。同じ日本語の本であっても、すっと頭に入ってくる本もあれば、なんだか意味がわからなくて何度も同じ場所を読み返していたり、頭に入ってこず、眼だけでおっていたり、ということがある。本との相性というものもあるものなのだ。
 さて、結論から話そう。私はこの本を読んで、さらに自分のなかにあった考えが強まった。それは、働く「必要」はない、というものである。
 私は大学四年間で、ひとびとがなんとなく信じているものに対してずっと疑問を持ち続けていた。そういう訓練をしていたのである。あるいは、そういう問いが生まれて来たのである。なぜ生きなければならないのか?普通こんなことを考える人はいまい。だが、私にはこの問いがどうしても気になって仕方なかったのである。一応今現在のところで達している答えを紹介しよう。これは私の問題であり、私の答えであるから、これを読んでいる人には何を言っているのかわからなかったり、あるいはそうではない!と憤る人もいるかもしれない。だが、これは僕オリジナルの、誰にも侵犯不可能な答えなのである。それは、生きる「必要」などないというものだ。だが、だからといって、死ぬべきなのかというとそうでもない。生きる必要もなければ、死ぬべきでもない、そういうちゅうぶらりんな状況が現在の僕だ。だから、僕はとりあえず自分が生きられるように、生きやすいように生きたらいいのではないかという結論に落ち着いている。
 で、働くことについてだ。私は、なぜ生きなければならないのか?という問いと同時並行で、なぜ働かなければならないのか?という問いについてもずっと考えて来た。この二年ぐらいはかなり真剣に考えて来たのではないかな。一人で考えていてもよくわからないので、何か僕のことを納得させてくれる本はないものだろうか、考えはないものだろうかと思って、何十冊もの働くことについて書いてある本を読んだ。
 「はたらく」とは「端楽」と書いた。端というのは、他の人という意味である。他の人を楽にするのが「はたらく」ということだ、という答えはいままであった多数の答えのなかで最もしっくりくるものである。だが、だからといって、なぜこの「僕」が「働」かなければならないのか?はわからない。
 いろんな本を読んでも、途中までは働きたくないということに同意的であるにもかかわらず、最後はなぜか理由をいわずに、でも働かなければいけないんだよ、と終わらせている本が多数だった。しかし僕はそんなものに納得できなかったのである。
 なぜ人を殺していけないの?有名な問いがある。数年前凄惨な事件が立て続けに起こった際に、ある子供が発したこの問いに、評論家たちが答えられなかったというのが大問題となった。私も個人的にこの問いに向かって行った。結論はこうだ。人を殺していけない理由はない。だが、である。だが、人を殺してもいいか?という問いをここでセットにしなければならない。これが私の答えである。人を殺してはいけない理由は決定的にはないし、場合によってはしかたないかもしれない。だが、人を殺してもいいのか?ということになると、それはまた違うぞということになり、結局は人を殺さないという状況に落ち着ているのだと思うわけである。
 この発想方を見付けたのは僕にとって大きな出来事だった。これを他でも応用ができるのである。それをあてはめてみて答えを導いてみればいい。
 なぜ生きなければならないのか?という問いに対しては生きる必要はない。死んでもいいのか?究極的には死んでもいい。だが、しかし、自分に聞いて見る。死にたいのか?答えはNOだ。
 なぜ働かなければならないのか?という問いに対しては働かなければならない理由などない。では働かなくてもいいのか?それをいけないという理由はない。ということになる。

 そもそもなぜ人間は働くのだろうか。
 金である。みんな金がないという。
 では金があれば働かなくていいのか。多くの本では、働くのは社会に承認されることだとか、人間と人間の間に入ることだとかなんとか書いてあったが、私は金があれば働かなくてもいいと思う。働きたい人は働けばいいと思う。だが、働きたくない人を引っ張り出してきて、働けというのは間違っている。どう考えてもそうとしか思えないのだ。
人は言う。働かなかったらどうやって食っていくのかと。
 ここに働くことに対する考えがたぶん違うのだろうと思うのだ。私は働くということを定職につくことだと考えている。恐らく多くの人もそうだろう。だが、多くの人は働くということを定職に就くということだけでなく、定職につかなければならない、というしなければならないこととして捉えていると思うのだ。だが、私は違う。働く必要はない。定職につく必要はないのである。
 金、金ならアルバイトをすればいい。それで事足りるのだ。僕は幸いあまり食べる方ではないし、そんなに贅沢をしたいとも思わない。ごくごく消費の少ない生活を送っている。そもそも私は資本主義社会が嫌いだから、資本主義社会が生み出した「消費」ということをあまりしたくないのだ。
 アルバイトで最低限のお金を得る。で、後は何もしない。それでいいではないか。実はそれでいいのである。
だが、それでは嫌だと思う人がいる。それは毎日毎日行きたくもない職場に満員電車に乗られていって、やりたくもない仕事を毎日毎日やって。嫌なことをずっと我慢している。でも、自分ではその厭な状況から抜け出すことができない。抜け出そうとしない。そういう人たちが一番厄介なのである。
 こういう人たちは人類の足を引っ張る。ニーチェが言ったルサンチマンに満ち溢れた人達だ。この人達は自分たちが苦労しているから、辛い思いをしているから、それを他人にもしなければ自分が救われないと思う。だからこの人達はものすごい形相で、ものすごい攻撃性を以て、自由に生きているアルバイターやニートやフリーターを攻撃するのである。
 私は働く人たちを馬鹿にしたりはしない。一生懸命働いている人たちにはむしろ尊敬の念を抱く。皮肉ではなしに。しかしだ。しかし、働いているけれども、働くことが嫌で嫌でしょうがない人達には軽蔑をする。嫌でしかたないのだったらやめればいいのである。実際私は南米に旅に行った時、仕事を辞めてきましたという日本人に何十人も会っている。じつは仕事なんて簡単にやめて海外に飛んでしまうことなんて簡単にできるのである。しかし、自分は仕事をしなければならない、働かなければならないという思い込みから抜け出せていないのが多くの日本人なのである。そしてその思い込みは、他人にも強く影響を及ぼす。みてみたまえ。日本の学生を。一年くらい遊んでから就職したって何の問題もないどころか、むしろそうするべきであろうはずなのに、みんな3年時からリクルートスーツを着て、現役で入ろうとしている。人生の無駄ではないのか。

 たぶん僕は死ぬまで定職には就かないだろう。
 なぜなら就きたくないからである。現代人は時間をお金に換えている。しかし私はお金を払ってでも時間が欲しいのである。だから、定職にはつかない。必要最低限なお金はアルバイトで稼ぐ。それの何が悪いというのだろうか。実は何も悪くないのである。
 これまで言って定職につかなければならない、という思い込みを捨てられない人がいたら、それはもうどうしようもない。メタ認知をしてごらんとは言っておくが、そう信じている方が幸せならそう信じていたほうがいいのかもしれない。私もこう信じているほうが幸せだからこう信じているだけである。それでいいだろう。

 おっと、熱くなりすぎた。本の感想だった。
 まあざっと大体僕が言ったようなことが、中島式に書いてあるのである。
 この本でおもしろいなと思ったのが解説。
 解説はなんと斉藤美奈子。私は斉藤美奈子の『紅一点論』を読んだ時、これはおもしろいなあとつくづく感動したものである。だが、今回の斉藤美奈子はひどかった。なんとこの本がわからないというのである。その解説たるやさんさんたるものであった。私は斉藤美奈子に対して、これがわからないのかと、幻想を破られた気分である。あの斉藤美奈子でも理解できなかったのなら、きっと多くの日本人は僕や中島義道のような考えの人間を理解できないのだろうなと思う。残念なことだ。



スポンサーサイト

僕の病気と今後の展望

10940504_420628021426813_1053347492364422190_n.jpg


 たまには僕のことを書いてみよう。
 南米の旅行に行っていたので書くのは久しぶりだ。指がなまっていて、なかなか文章がうまくうてない(笑)。
さて、今回はタイトルの通り、僕の病気のことと、今後どうしていこうかという僕の簡単な未来像だ。(未来予想図を聞きながらお読みください)
 断片的に僕の病気については様々な記事のなかで、ちらほらと語って来たかも知れない。が、今回はきちんと全貌がわかるように書いておこうというわけである。
 病気といっても、そんなに心配することはない。どうかそんなに心配しないでほしい。ただ、あんまり普通と同じなのかと思われても、それはそれで困る。病気というのはなってみてわかるものだが、デリケートな問題なのだ。
 まずは症状から書いていこう。大学に入ってから僕は体調を崩していた。最初はそれまでの人間関係の不破などからきたストレス性のものだと思っていた。食事が思うようにとれなくなった。食事をみると、それまでなんともなかったのに、急に気持ち悪くなってしまう、胃のあたりが急に冷たくなって、どうしても温かいものが気持ち悪くなってしまう、というような症状が現れたのだ。それ以降、食事の度に、またあの気持ち悪さが出てきてしまったらどうしようと思うようになり、食事をすることそのものが怖い体験に変化してしまったのである。
 胃腸の不調はずっと続いた。一番最初にこの症状が出た大学一年生の時、この時は近所の内科に行った。ちょうど睡眠もうまくとれなくなっていたので、医者にかかったら、軽度のうつだと診断された。まあ内科だし、その医者もちょっと適当なところがある人間だったので、診断というような大層なものではなかったかもしれない。なんとかそこで処方してもらった薬によって一時的には持ち直したのではあるが、また数か月経つと症状がぶり返して来たりとあまりよい状況とは思えなかった。
 この内科も適当で、きちんと僕のことを理解してくれていないしなという感覚が、それから以後、きちんと医者にかかるということを足遠くさせていたこともある。
 が、ついに去年。私も大学四年になり、少しは大人になり、行動力もついてきた。夏まではよかったものの、夏以降、秋から特に体調が悪く、胃腸の調子が悪く、精神的にも非常に悪い状況が続いていた。そして、これ以上はもう耐えられぬ、と思った時に、はじめてきちんとした心療内科、精神科にかかってみようと思ったのである。行ってからはどうということはないが、やはり最初に精神科の門をくぐるというのは勇気がいた。もし、いま精神的に不調な人があったとすれば、どうかすぐにでも精神科、心療内科の扉を叩いてみることをおすすめする。もちろん僕の場合は担当の先生との相性がよかったということもあるのだが、驚くほど、医者にかかる前よりもよくなったので、是非その苦しみを少しでも早くに終わらせたいという想いからだ。
 私は本当に医者にいってよかったと思っている。まだ世間には精神科や心療内科に対する偏見があるように思われる。実際私にもそういうところに行く人ってどういう人なのだろう、重傷なうつ病の人しかいかないのではないだろうか、そんな風に思っていた。が、いざ行ってみると実際は違うのである。僕みたいに軽度な症状の人間もいくのである。もちろん、ああこの人は今すごく辛いだろうなと見るからに思われるような人もいないではない。
 さて、僕の病気はなんだったのか。僕も正確には覚えていないのであるが、先生がいうところによると、なんだかアルファベットのある病名だった。なんでも、僕の病気というのは胃腸と思考が連動するようなものらしいのだ。胃腸の調子が悪くなると思考もどんどん悪い方向へと向かってしまう。そんな病気だった。
 だから、精神科、心療内科にかかっているにもかかわらず、僕への処方は抗うつ剤、というようなものではなく、胃腸薬なのである(笑)。
 僕が処方されているのは、スルピリド、セレキノン、ビオフェルミン、それから漢方でヨクカンサンというものだ。
スルピリドというのは、普通老人に処方される薬らしい。というのもやはり人間年齢を重ねると、胃腸の活動はどんどん低くなり、気分もあんまりすぐれなくなることが多いというのだ。そんな気分が落ち込み気味で、あまり食欲もわかない。けれども体にはあまり負担をかけられない。抗うつ剤のように副作用の強い薬は出せない、と言う時に出すのが、このスルピリド錠だというわけである。効果は、気分が落ち込むのを防ぎ、胃腸の活動をよりよくするというもの。そして素晴らしいのが、副作用がほとんどないということである。
 セレキノンは腸のお薬。それまで食欲がわかず、食事をしても下痢になってしまうというような悲惨な状況だった。セレキノンは腸の活動を正常にしてくれるお薬だ。
 そしてビオフェルミン。これは市販されているものと同じもの。医者で出して貰っているから一錠数円という値段で手に入る。これも腸の活動を助けるもの。胃と思考に効くスルピリドと、腸を助けるセレキノン、ビオフェルミンでなんとかしようというわけである。
 漢方は後から出して貰ったものだ。それまではとにかく体調が悪くて何も出来なかったのであるが、この三つを出してもらうようになってから、やっと体調が戻って来て、いろんなことができるようになった。ところがどっこい、こんどはどうしたのかというと、僕の悪い部分、怒りっぽさが出てきてしまったのである。
 医者は笑って、お腹に力が入るようになったからかね、といって、この漢方を出してくれた。ヨクカンサンというのは、感じで抑肝散と書く。肝臓を抑える薬という意味だ。なぜ肝臓なのか。もちろん西洋医学と完全にマッチするわけではないらしいのだが、東洋医学、漢方の世界では、肝臓が怒りを起こす器官ということになっており、その肝臓の活動を抑えることによって怒りを抑えるということになるらしいのである。
 これを呑んでいても、たまには爆発してしまうこともあるのではあるが、まあ、そんなこんなで日常生活を無事に送ることができるようになってきている。
 それまでは外に食事なんて考えもできない状況だった。が、今では、というか今日もこの文章を書くちょっと前に近所のおいしいレストランにランチに行ってきたのである。やはりおいしいものを食べられるというのは人生の愉しみだ。これがなくなると、本当に辛いということが、よくわかる。


 さて、僕の病気についてざっと書いた。こんな感じである。どうかそれほど心配しないでほしい、と思うが、それでもまあ普通の常態として扱われるのもまた少し辛いことでもある。デリケートなのだ。心配はしてほしくないが、普通と一緒に使われても困る、ということである。まあ、今はほとんど普通として扱ってもらって構わないのであるが。
 では次に今後の展望を、簡略的にスケッチしておこうと思う。
 まず第一に、これだけは覚えておいてほしいのであるが、僕は就職しない!!!
 なぜなら僕は働くのが嫌で、働きたくないからである。
 もちろん私は今の日本社会において、このような発言がどのようなことを周りの人間に引き起こすのかをよく知っている。こんなことを言うのは、「ニート」「フリーター」と呼ばれるようなどうしようもないやつだ、と。
ふふふふふ。なんとでも言うがいい。
 駒澤大学文学部国文学科首席であるこの私が、このくそみたいな世の中の役に立ってたまるかと私は言ってやろう。
文学部国文学科最強の頭脳の持ち主であるこの私が、この実社会とよばれるようなくだらない場所ではいかにその頭脳が役に立たないかを証明してみせてやろうではないか!私は真剣にそう思っている。
 そもそも今このくそみたいな社会で誰が働きたいと思うのだろうか。日本は今間違いなく、右肩下がりになってきている。だが、社会全体の流れとして、それではいけない、なんとかもう一度立て直すのだ!!という風潮になっているのである。
ところが、これまでのバブル経済に象徴されるようなこの数十年の高度経済成長は、他の成長と比べて明らかにおかしいということは明明白白ではないだろうか。むしろ、無理やりに上昇してきたこれまでの異常な状態から正常な状態に戻ろうとしているのが現状なのではないか、というのが私の認識なのである。
 だが、愚かにも、そのような認識にたてないのが現在の日本だ。だからこそ、右肩下がりになっているにもかかわらず、これまでと同じように働きさえすればいいのだということで、今まで以上に働き、人々は疲弊し、人々は結婚できず、子供は生まれず、閉塞感ばかりつのり、自殺者も一向に減らないのである。
ではどうすればいいのか。
 答えは簡単で、このチキンレースに乗らなければいいのである。できるだけ早くこのレースから逃れることが必要なのである。
 そう思ったから私は一目散にこのレースから抜けた。それだけのことだ。
 みんなが就活だなんだと一斉にリクルートスーツを着て就活というものを始めた時に、ありさんが一生懸命やっているときに、僕はキリギリスになってみんなを嘲笑したのだ。そしてこの就活というものから抜け出せたときに、僕はやっとほっと溜息をつくことができた。
 もちろん就職しない、といっているだけで、働かないといっているわけではない。必要最低限のお金は僕も必要なので、アルバイトをしようと思っている。が、いわゆる一般的に考えられている定職というものには僕はおそらく数年、いや数十年はこの先つかないだろうと思う。
 そもそも定職につかなければならないという価値観自体が、この数十年で築き上げられた価値観にすぎず、それももっと長い歴史や、他の国との比較で考えれば、特殊でしかないのである。頭はこういうところに使う。
 僕の価値観のなかには、いわゆる日本の多くの若者が持っているようなものはない。
 僕は定職につかなければならないという考えはない。でも、僕にも夢がいくつかある。実にささやかなものだ。いくつか披露してみよう。まず第一に、ドライブが好きで、車が好きだ。だから最初の車にフェアレディZを中古でいいから買おうというものだ。これはここ二年くらいで考えている。本当に欲しいのは、BMWの6シリーズ一千万円。それを経て、アストンマーチン二千万円、である。だが、これらはどちらもハードルが高いので、まずは中古二百万でフェアレディZを買おうということにしたのである。だから、この二年間は車のためにお金をためる生活である。
 さて車が買えたらどうするのか。彼女を作らなければならないと思っている。結局この四年間でいい人に巡り合えなかった僕。大学という場は現代日本においてはパートナー選びの場としても機能しているはずなのであるが、それにありつけなかった僕はなんとかして彼女を見付けなければならないと思っている。やはり一人は寂しいものだ。せっかくの車を買っても、一緒にどこかに行く相手がいなければつまらない。
 他にもこんな夢がある。家が欲しい。広い家だ。働きもしないでどうするの?と人は言うかもしれないけれども、土地は今の場所でいい。おじさんおばさんの家と自分の家が建っているから、それをぶっつぶして、僕の理想の家を建てるというのが、僕の夢だ。その家にはこんなものがある。自分専用の書斎兼図書室。それから温室。
 僕は今回南米の旅をしてきたのだけれども、ある宿に泊まった時に、「あ、この感覚」という不思議な感覚に襲われた。天井から太陽の光が燦々と降り注ぎ、ヤシの木のような緑が吹き抜けを通じて見えたのである。少なくとも二階ぶんはある温室を作ろうというのが、僕の夢になったのである。

 僕には定職につくつもりはまったくない。忙しいのが嫌いだからである。だからあんまりお金はなくてもいい。その代わりに時間が欲しい。そういう人間なのだ。現代のほとんどの人間が時間をお金に換えているなかでね。

「働らくのも可いが、働らくなら、生活以上の働でなくっちゃ名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭を離れている」
 「つまり食う為めの職業は、誠実にゃ出来悪いと云う意味さ」
 「だからさ、衣食に不自由のない人が、云わば、物数奇にやる働らきでなくっちゃ、真面目な仕事は出来るもんじゃないんだよ」

 夏目漱石は『それから』でこんなことを言っている。
 僕もなんにもしないというわけではない。それではあまりにも時間があまりすぎてしまう。なので、酔狂で仕事をしてみようと思っている。例えば何をやりたいか。この二年間はまずはドライバーだ。それからは、どこか田舎の国語講師になったり、タクシードライバーになったりしてみたいなと思っている。
 そんな感じでふらふらと生きながら人生を楽しむのが僕の生き方、今後の展望だ。いいだろう?

富増章成『空想哲学読本』 感想とレビュー

516.jpg


 世の中にはわずかではあるが、哲学に魅入られてしまう人間が存在する。その多くは哲学科へ向かうわけであるが、私が所属している文学畑にも哲学に魅入られてしまう人間がごくわずかだがいるのだ。というこの私自身がその哲学に魅入られてしまった、一般社会の価値からみたらダメ人間なのである。
 文学も深いところまで行くと哲学に通底している。源氏物語や夏目漱石、なんて表面上の文学をやっているだけではいけないのである。そもそも「読む」って一体どういうことなんだろう?という、考えもしなかったことを考えてしまうところに哲学は発生する。しかしそんなもの、普通の人間は考えないほうが身のためだし、考えたからといって何か得するわけでもない。それどころか、考えることによって日常生活にまで支障が及ぶというのであるから、考えないほうがよほどましである。
 そんな私のような人間が、さらに数段グレードアップして、私のような人間のために哲学をおもしろく、わかりやすく説明してくれたのが、この『空想哲学読本』という本である。

 筆者の富増氏は予備校の講師である。だから、哲学者ではない。いわゆる東大の哲学科を出た、わかりにくい哲学をやる人ではないのだ。そうではなくて、高校生に対して倫理学を教えている人間であるから、本書の内容も非常にわかりやすく、面白く書いてある。
章立ては
1 ウルトラマンでアリストテレスがわかる
2 セーラームウーンでキリスト教哲学がわかる
3 エヴァンゲリオンでデカルトがわかる
4 ときめきメモリアルでカントがわかる
5 ポケモンでヘーゲルがわかる
6 ガンダムでニーチェがわかる
7 巨人の星で東洋哲学がわかる
と、タイトルを見ただけでもわくわくするような内容である。
 私のブログをよく見てくれている人はご存知かと思うが、私は文学、美術、映画、アニメ、マンガ、ゲーム、サブカル、哲学、などなどの分野を縦横無尽にすきなところだけかいつまんできた人間である。だから、この人のように、哲学とサブカルを結び付けて考えるような方法がとても共感できるし、またその思考方法が非常に似ているのである。
 この本は二つの側面があると感じた。一つはもちろん哲学をサブカルの例を以てわかりやすく解説するというもの。私はこのためにそれまでどんなに哲学の入門書を読んでもわからなかった、哲学的な考えがわかるようになった。そもそもなんでもそうだが、入門書と書かれているほとんどの書籍は、かなり専門的な知識がないとわからないような本が多い。私はこの入門という言葉を非常に忌み嫌うようになったが、その原因は入門書のほとんどが入門ではなく、専門書だったからである。そんな愚痴はいいとして、確かにこの本もある程度やはり専門的な知識が必要になることは確かであるが、それでも他の入門もとい専門書と比べれば、ほんとうに入門の感じがした。
 そしてもう一つのこの本の側面はというと、よいサブカルの入門書になってもいるということである。私もこの本で挙げられているすべての例を知っているわけではなかった。名前は聞いたことがあっても、セーラームーンは全話みたことが無いし、ときめきメモリアルもよくしらなかった。そういう状況の私に対して、この本はよきサブカルの入門書にもなってくれた。いたるところでセーラームーンは重要であるということを眼に、耳にするので、私もそろそろ、卒論が終わったら全話鑑賞してみようと思い決めたところである。

 本書のなかで特筆すべきはニーチェの部分だろう。
 それまでニーチェの入門書は数冊読んできたが、どれも難解すぎてよくわからなかった。が、この本で私はよくニーチェの主義主張がわかったのである。私なりに本書のニーチェ解説を要約してみると、

 今までニヒリズムはただの虚無主義としか理解していなかったけれど、ニーチェの言ったニヒリズムの定義は、「従来の最高の価値がその価値を喪失すること」だ。信じられている価値が価値を失うことがニヒリズムのニーチェ的使用である。
なるほど、そして道徳というのはルサンチマンが生み出したものだというのがニーチェの言っていることなのか。「人は外見ではない、心なんだ」ってのはカッコイイ奴が憎い、外見上の敗者たちが唱えてきた道徳なわけである。
 ニーチェはより高いものへの向かっていく人間をキリスト教の道徳が貶め、平均化・凡庸化していると批判して、(キリスト教によって)「神は死んだ」と述べた(と解釈できる)。
 で、金持ちや権力のある人間をひきずりおろすことに関しては類を見ない日本は、きわめてキリスト教的といえるかもしれない
 もし、ニーチェの超人思想が価値として定着すれば、より高いものへと向かっていく人々へのルサンチマンがなくなり、一部の天才たちが現れ、それらが世界をよりよく導いていけるはずだったのだ・・・。だが、人間そこまでできていなかった、ということか・・・
 しかしニーチェの思想は「選民思想」とは相反するものなのだ(ここがよく間違われる。かのヒトラーでさえ間違えた)。ニーチェのいわんとしているところは、相互扶助によって、おたがい励ましあい、足の引っ張り合いがなくなるだろうということだったのだ。

 という具合である。他にもおもしろい部分や、わかりやすい部分が多々あったが、今のところ私の中では、この本はニーチェ入門としては最良の書という位置づけが大きい。

 また、最後にそれまでの西洋哲学からうってかわって、東洋哲学をきちんと紹介しているところがいい。筆者はほかにも「超時空要塞マクロスとショーペンハウエル」「コジコジとヤスパース」「アンパンマンとサルトル」なども用意していたと述べている。ものすごくそれらも読みたかった。だが、そのかわりに、「西洋思想の要点を書き連ねるだけでは、日本人がその思想を模倣すればよいように思われてしまう。西洋哲学の知識を蓄えた上で、日本の精神文化をとらえなおすことが大切なのである」と、冗談ばかりいってきた著者にしてはいやにまじめな、まっとうな見解のもとに、東洋哲学の紹介というか、私たちがどのような哲学をもって生きているかを考えるための章立てをひとつ設けているのである。
 西洋の論理ではどれだけ考えてもわからないところ、行き詰ってしまうところを、東洋の論理はぽんと乗り越えてしまう。論理を超越してしまうところにこそ、東洋の論理(言葉遊びのようだが)、東洋の哲学があるのである。だから、この日本で西洋の哲学をやることはけっこうであるが、それが全てだと思い込み、東洋的な考えは非論理的であるとか、そういう考えを持つのは間違っている。むしろ西洋では乗り越えられない部分を東洋は乗り越えるのであるから、この際両方のいいところを使用して、西洋と東洋とをアウフヘーベンし、さらに高次の哲学へと移行すべきなのである。

 タイトルといい、著者といい、いいかげんな本なのにもかかわらず、その内容はものすごくよかったことに驚かされた。特に著者紹介のところに、本人の名前は「富増章成(とますあきなり)」なのだが、洗礼名が「トマス・アキナス」というところがなんともいい。洗礼名さえジョークにしてしまう著者のセンスには脱帽してしまう。※富増章成は、ペンネームだそうです。後日知った

筒井康隆『アホの壁』 感想とレビュー

TKY201102020196.jpg


 筒井康隆と言えば
“昔、筒井康隆の作品に影響をうけて、高校生がおじいちゃんを殺したという事件がありました。本人が「筒井作品に影響をうけて」と、はっきり言っちゃったんですよ。
あの時の筒井康隆は偉かったよね。
「文学とはそういうものだ」ってはっきりと言い切ったんです。
文学というのは人の心を立派にするようなものではなくて、人の心を下品にしたり、殺人者を生んだりする毒である。毒であるからこそ素晴らしいのだ。この世の中にはない「毒」がつくれるからこその文学である。
だから俺は「俺の作品で人殺しが出た」ということを誇りにはしないが、隠そうとも思わない。”

 岡田斗司夫『遺言』
 という名言を残した日本の文学界の重鎮である。
 1934年生まれなので、今年で御年80歳。今回読んだ『アホの壁』は2010年発売であるから、75歳を超えた際の作品である。
 さすがに前回読んだ、つぎはぎだらけの駄文である『ぼくたちは就職しなくていいのかもしれない』とは大違い。往年の作家の文章であるから、文章は上手い。
 なんといってもこのタイトルからしておもしろい。この本は、当然あの脳科学のブームの火付け役でもある養老孟司の『バカの壁』を念頭においていることは言うまでもない。ところが、さすがに自虐ネタがうまい筒井先生である。第四章、「人はなぜアホな計画を立てるのか」という章では、七 「成功した事業を真似るアホ」というケースで、『国家の品格』が大ヒットしたあと、「品格」をタイトルに付けた新書が100冊以上発売され、全員アホだ、「品格もへったくれもあったものではない」と断じつつ、自分が『バカの壁』の追従となっていることへもすまんと謝っている。

 筒井康隆と言えば、『文学部唯野教授』で、あれだけの勤勉振りを見せた作家である。理論書をわかりやすく解説した本としても十分に読める本を書いた人間だ。今回もその勤勉振りは隠しつつも、やはり垣間見れてしまう。この本はただの作家が、おもしろおかしく書いたというだけの本ではない。協力者が何人かいたようではあるが、本人もフロイトのことなどについてかなり勉強しているのだろうということがわかる部分が多々あった。
 本書の内容はといえば、この本は、人はどうしてアホなことをするのかを、フロイト的な解釈などを踏まえておもしろおかしく解説したものである。
 特に私がおもしろいなと思ったのは、二章の「人はなぜアホなことをするのか」という章立てで、こちらはどちからというと、ものごとを脳がどのように解釈しているのかということが主に書かれている。

 本書には具体的な例が沢山あげられていて、それらに解説がされているのだが、アホのもっとも根本的な原因はなにか一言で内容を要約してみようとすると、こういうことが言えるのではないかと私は思った。すなわち認識のズレである。
例えばある男性に彼女が「仕事忙しいのね」というメールを送ったとする。すると男性側は、このメールが、仕事が忙しいことに対しての彼女からの気使いなのか、それとも彼女が忙しさにかこつけて構えってくれないことにたいして怒っているのか、男性には判断ができないということが起こる。こうした認識のズレが人々をアホな行動へと導く原因だと、この本を読んでいる限りでは思ったわけである。
 この本ではではどうしたらいいか、といった解決策は示されない。なにせ、アホというのが悪いことであって、アホでないことが良いことであるという考えがないからである。最後には全員がアホでなくなったら、そんな世界は嫌だといって、アホ万歳とまで、この往年の作家は言ってしまうのである。それまでさんざんアホをこけにしておいて、である。流石としか言いようがない。

 アホというのは、時に人々を殺すこともある。アホのアホな行動によって、それが戦争の火種になったことは歴史を見れば明らかであるし、これからもそのアホによってアホな戦争が引き起こされることが多々あるだろうと簡単に予想がつく。あやまって人を撃ってしまったりするなんてこともアホなことだし、人間が完全にアホというバグが起こらないような機械的な存在になりでもしないかぎり、アホによる死や災害というのはなくならないだろう。
 だからといって嘆くには値しないのである。どこかでだれかがアホなことをしでかして、損害が出たとすれば、他の人間がその埋め合わせをしようとする。人間の歴史はつねにそうやってよりよい方向へと向かってきたわけである。もちろん時には後退もするだろう。しかし、破壊と再生は常に一緒なのだ。アホにほる破壊があるからこそ、新しいものが創造される。新しいものはアホによって創造されるといってもいいくらいなものである。
 また、アホによって人間が救われていることもある。なんにもアホなことがない世界というのは、すなわち機械のような世界なので、ちっとも笑いの要素がない世界ということになるだろう。そんな世界では気づまりで、きっとそんなところで生活したら、人間は数か月のうちに発狂して死んでしまうことだろう。人間は人のアホなことを見て笑う。私も今日、たまたま風呂に入らなければと思って気がついたら、自分の部屋で服を脱いでいたものである。これは誰にも見られなかったが、アホな行為である。こうしたアホなことがあるからこそ、人間は笑うことができるし、生きていくことができるわけである。

 人間からアホが必要不可欠であり、またなくならないかぎり、人間はアホを無くすという方向へではなくて、いかにアホと上手く付き合うのかという方向で生きていくほかないだろう。
自分のアホがゆるせるように、他人のアホも許せるような人間になりたいものである。

水村美苗『日本語で書くということ』 感想とレビュー

TKY201205100216.jpg


 日本文学をやっている人なら、聞いたことがあるかもしれない、水村美苗。あの、漱石絶筆の未完小説『明暗』の続き、『続明暗』を書いた人。
 私も最近『続明暗』を買ったばかりで、まだ読んでいない。『明暗』自体も、数年前に一度読んだきりなので、もう一度読まなければならないので、なかなかの大変な作業になりそうである。
 さて、今回はそんな水村氏の本を読んでみた。読んだといっても、この本はさまざまな雑誌で掲載した評論の記事を集めた本なので、それぞれ独立した評論が乗っているだけで、全部を読むには至っていない。興味の湧いたところしか読んでいない。それでも8割がた読んだので、一応読んだということにして、感想を残しておこうと思う。
 どうにも感想を残しておかないと、すべてが流れて行ってしまうようで、とてももったいなく、自分には感じられるからだ。同時に、小森陽一の『漱石論』も読んだのであるが、こちらは半分以上飛ばし読みをしてしまったため、感想は書かないことにする。読んだとは言えないからだ。

 こういう評論を集めた形式の本はいままで何冊か読んできた。だが、何時も感じることだが、こうしたものを読んでいても、なかなかエキサイトしてくる感覚はない。それぞれが独立していて、読みたいところだけ読めばいいのであるが、それでもその読書体験というのは、なかなか楽しいものにはならない。
 そもそも評論にも二つのタイプがあって、読んでいて楽しい評論と、読んでいておもしろくない評論である。
 なぜこの二つの差がうまれるかというと、思うに、書かれていることが自分の知っていることかどうかということが一番の大きな要因であろう。しかし、それだけではない。例えば自分が読んだことがある小説についての評論であれば、読んでみようということになり、実際に読んでみる。そこでも、面白いなと感じる評論と、あまりおもしろくなく、途中でやめてしまう評論とある。この場合、書かれてある内容が、すでに知っている作品であるかどうか、というそれ以上に、その評論がおもしろいかおもしろくないか、という評論自体の問題がありそうである。
 で、水村氏の評論やエッセイはどうかというと、エッセイのほうは比較的面白く読んだ。
 幾つか勉強になったこともある。例えばインドについて書いてあるエッセイでは、ナイポールという作家が紹介され、どうやらナイポールの書いたものが面白そうだと言うことがわかった。なので、これを機に、卒論が終わったらナイポールの作品をいくつか手元に置いて読んでみたい。

 そもそも今回私がこの本を読んだのは、読まなければならなかったから、という外的要因による。それがなければ、私はおそらくこの本を一生読まなかったかもしれない。読まなければならなかった理由というのは、卒論だ。私は漱石の『虞美人草』で卒論を書くため、その論文を読まなければならないのだ。
 ちょうど水村氏は『虞美人草』について秀逸な論文を書いており、その評論がこの本のなかに掲載されているのでこの本を借りてきたところである。それで他の部分も、せっかくだからと思って読んでみたわけである。

 最後に掲載されている、ポール・ド・マンについての論文は、マン自体を読んだことがないということもあり、ちんぷんかんぷんだったので読み飛ばしてしまった。読んでも自分に何も残らないと思ったからだ。
 だが、虞美人草の論文は秀逸と他の研究者からも言われるように、面白く読めた。これを土台として、私はこの論文には到底及ばない論文を書かなければならないのであるから憂鬱である。

 本文やあとがきにも書かれているが、水村氏は中学から二十年ほどアメリカに在住し、ほとんどを英語で話し、書く生活を送っている。その間に、唯一の愉しみだったというのが、家にあった日本文学を読むことだったというわけだ。日本語をほとんど書かない生活をしていながら、日本に帰って来てすぐに日本語の作家として活躍できたのには、水村氏は、ひとえに「読むこと」が大事だからといっている。
 竹内敏晴の時にも感じたことであるが、日本語や言葉に苦労した人の文章というのは、どこか雰囲気が私の様にべらべら話立てるタイプとは異なってくるなということを感じる。私自身も上手く言葉にできない、言説化できないな、と思うことは多々あるのだが、その私の苦労とはくらべものにならない苦労を彼等、彼女等はしてきているのであろう。その人たちが書く文章というのは、やはりどこか特異なところがあり、読者をひきつける力があるように思われる。

富増章成 『深夜の赤信号は渡ってもいいか?―いま使える哲学スキル』 感想とレビュー

51AFKdJxKZ.jpg


 ややタイトルはキャッチャーなところがあったのは否めない。内容がタイトルの想起させる感じと必ずしも一致しているとはいいがたいが、良書ではある。

 本書は名予備校講師の富増氏の書籍である。『空想哲学読本』という本に出合って、一人意気投合した私は、即座に彼の本を読み終わると、他の書籍を買い求めた。はじめてヤフーオークションというのを使用して、1円の本を買った。便利な世の中である。書店に行って、どうせ置いていなくて、しばらくやってくるのに時間がかかって、さらに取りに行く、という煩雑な行為がほとんど中抜けしている。そのおかげで本屋はつぶれるので、バンザイとは言えないが、しかし楽である。
本書はどういう内容かというと、哲学史のわかりやすい解説といったところだろう。
 各章のタイトルは、キャッチャーな表題のように、第二章 タバコを吸うべきか、やめるべきか? 第三章 運命は決まっているのか、自由はないのか? といった感じで進む。
 だが、第一章の深夜の赤信号は渡ってもいいか?という問いには、この本では答えていない。そこがタイトルがキャッチャーだと私が批判する理由なのである。もちろん、本書の内容に照らしてみれば、カントの定言命法に従えば、わたってはいけない、ということになるのだろうし、ベンサム等の功利主義的な考え方によれば、状況を判断してわたっていい、ということになるだろう。
 だから、結局結論などでないような問題が問題になっているわけで、この本のなかでは特に解決されるものではない。

 この本は『空想哲学読本』とは異なり、たとえをつかっての説明というのは少ない。2012年に発売されているから、かなり新しい書籍である。たまに取り扱われる例として登場する作品は、どれも現代人が分かる作品になっている。が、この本は、『哲学読本』がなかばオタクたちの本であったのに対して、この本は一般読者を想定した本と言えるだろう。
ただし、どんなにわかりやすいといってもやはり難解な哲学である。そう簡単にはわからない。ソクラテス、プラトン、アリストテレスなど、大学の授業でも聞いたところはわかるが、その人物、哲学について勉強したことのない箇所は、やはり本を読んでいてもよくわからない、というところは残る。
 ただ、私の読み方が悪かったのか、頭が判然としていなかったのかわからないが、後半部分は非常に明解に、はっきりと理解することができた。この人はニーチェの専門家と言ってもいいと私は思っているのだが、とにかくニーチェの解説が絶品なのである。
 私は今までどの哲学解説書を読んでもニーチェについて理解することができなかったが、この人のニーチェ解説によって理解することができた。おそらく原点にあたっていないから、その理解はごくごく表面上のものでしかないだろうとは思うけれども・・・。ニーチェの解説部分から後半のほうが私にはすらすらと頭にはいってきた。

河童のクゥと夏休み 感想とレビュー ジャパニメーションの夏休みと自由

41oUHd9SOpL.jpg


 ジャパニメーションの夏休みと自由
 アニメーション映画をよく鑑賞していると、いかに日本のアニメーション映画が夏休みと結びついているのかがよくわかる。
 簡単に挙げてみただけでも、『サマー・ウォーズ』『虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜』『ももへの手紙』『宇宙ショーへようこそ』『時をかける少女』など、数多くの作品が夏休みを題材に選んで作品をつくっていることがうかがえる。単純に考えてみると、アニメというのはそもそも誰がみるものかということから、理由をひとつ導き出せると思う。すなわち、アニメというのは子供がみる。必然アニメーション映画の主人公は青少年になる。十代の子供たちが物語りのなかで自由に活動するためには、大人たちから解放されなければならない。子供が自分達で活躍でき、かつ親の束縛から解放される、この珍しい時期がちょうど現実世界では夏休みとなるわけである。
 もちろん、親と一緒に田舎の実家に行っているのだから、完全に親の庇護下から解放されているわけではない、という当たり前のことはおいておいて、しかしそれでも比較的自由に子供たちが解放されるのがこの夏休みというわけなのである。
 あいにく私の場合は両親の実家がどちらも東京で、休みはたんぼや川がある田舎に帰る、ということができなかった。そのため、この田舎に帰るという、一種のノスタルジーとは無縁であった。だから実際のレベルで、ほんとうに田舎に帰った青少年たちが自由たりえたのかということはわからない。が、少なくとも日本人の青少年の想像において、幻想においては、田舎=自由という公式が出来上がっているということはできよう。もちろんニワトリと卵の論で、自由だったから映画ができたのか、映画ができたから自由だというイメージが広まったのかは定かではないが・・・。

 さて今回論じるのは、河童のクゥと夏休み、という作品である。
 この作品はリアリズムという観点から読み解くことができる。
 最初に河童が水でもどっていく場面。私はここをある一種の衝撃をもちながら鑑賞した。というのは、とてもこの場面がリアルに思われたからである。もちろん冒頭の父親が殺害されてしまう場面もまた同じくリアルであった。私はグロテスクな描写が苦手なので、この父の殺害や、乾燥した状態から徐々にもどってくるクゥの姿に、グロテスクさを感じておどろいていたわけである。
 そもそもアニメというのはいまだに子供が見るもの、という一種の共通認識があるし、私はもちろん反対しつつも、そういう風潮でアニメが作られていることも認識しながら見ているから、この作品を最初にみたときは違和感を覚えたものであった。もし子供向けで作られているとしたならば、冒頭からいきなり残虐な殺害シーンや、からっからにかわいた、ほんとうに妖怪らしい河童の姿は映さないだろうなという気がしたからだ。
 ほかにも、アニメーションというメディア媒体を考えるときに、アニメというのは線画なのであるから、そこには通常の映像とはことなった、省略や抽象化ということが可能になる。だいたいどのアニメにおいても、乳首は描かない。だが、この映画はそれと同じレベルにおいて、通常性器を描かないのに対して、きちんと描いて見せているのである。
 もちろん、クゥがまだ河童とはいえ子どもだったから描き得たということもあろう。成人した河童であったならば、腰に布をまくなりしたと思うが、この作品では、リアリズムをめざしているということもあって、クゥの下半身、男性器がきちんと描かれているのである。

 そうしたところからも、この映画がリアリズムを目指しているということがわかる。
 もうひとつのリアリズムは、眼に見える形での、そうした描きこみということもさることながら、人間の内面の描写のリアリズムである。
 この作品を見てこれはすごいなと感じたのは、人間のグロテスクさである。
 現代において我々は科学的リアリズムをもって現実を生きている。例えばこの作品のラストでは、河童はエイリアンのようなものだから、どんな病原菌を持っているかわからないとか、なぜひからびた河童の腕が父親のものであるとわかるのか、DNA鑑定をしたのか?といった科学的リアリズム的な発言が描写される。我々は実際こういう発言をしてしまう人間の側なのである。
 ところがこの作品にはそうした科学的ではない、リアリズムが通底しているのである。もしも、妖怪その他が本当に存在するとして、それがもし今現代に存在していたらどうなるのか?というリアリズムである。
 河童がいるらしいという噂がどんどん広がっていき、ネットで話題になり、それから週刊誌が強引な取材をして、一気にテレビがやってくる。ここらへん、報道陣がこれでもかと熱気を帯びてやってくるさまは、あまりにもリアルに描かれていて、人間の狂気を感じたものである。
 また、この主人公である康一でさえも、人間は変わり得るものであるという人間哲学から、テレビにでられるかもしれない、ということからこのクゥを見世物にすることをなんとも思わない場面も出てくるのである。もちろんこの康一が主人公になりえるのは、途中で軸がぶれたとしても、最後にはクゥを見世物にするような状況に疑問をいだき、もう一人菊地という心のきれいな少女と共にクゥを大切にする人間へと戻れたことに由来する。
 何よりもリアルに思われたのは、冒頭でものすごく仲良さそうにしていた友人三人が、途中河童がいるらしいという噂を聞きつけ、それを見せてくれとせまるも、見せてくれなかったというだけで、康一を仲間はずれにしてしまうという場面である。
 この両者の間はこの作中では結局修繕されない。最後まで、菊地という少女と歩いているところをおそってきて、河童菌だのなんだのと、見ているこちらも本当に腹が立ってくるような挑発をし、けんか別れになってしまう。だが、この人間の心変わりというのは、まさしく私たち現代の若者世代が学校という現場で行い、行われてきたことであったと痛感せずにはいられない。

 この物語は、人間のエゴイズムをリアリスティックに描いたために、必然その犠牲が生じてしまう。それがこの作中では人身御供ではないけれども、オッサンという犬の死によって代行される。もちろんその直後のカラスの死というのも代行である。
 もしこの物語に犬とカラスという代行する者がいなければ、ここで死んでいたのはおそらく康一一家の誰かだろうし、カラスのかわりに死んだのは、これだけ大勢やってくる好奇心旺盛な人間のいくらかであろう。人間の好奇心というのは、狂気心ににている。好奇心がなければ、人間は生きる意味もなくなってしまうだろうが、しかし自分とは異質なものに対するこの好奇な目というのは、いかにもグロテスクなものであるということを我々は忘れてはいけないだろう。この作品はそれを風刺するために作り出されたといっても過言ではない。
 特にこの犬が死んでいるにもかかわらず、河童がめずらしいからといってカメラやケータイを向ける人間の描写は気持ちが悪いほどにリアルでそして胸糞がわるい。そこに群がろうとするカラスは、その好奇の目を持つものたちのかわりに死ぬが、それは作者からの罰則であろう。

 この物語の唯一の救いとなっているのは、菊地という少女である。彼女は幸が薄いと言われて、誰からも嫌われている。黒板消しを投げつけられたり、ここまで露骨にならなかったとしても、私も学生生活のなかでこのような存在を男女ともに見て来たものである。
 菊地がクゥと対話することができたのは、本質的にこの両者が同じ性質を持つからである。それはすなわち、共同体からは排除されるもの。異質な者というわけである。
 教職講座をとっていると、このような状況設定があります、あなたが先生だったらどうしますか、というシミュレーションをよくやらされる。そのなかでこんなものがある。知的障害を持った子がクラスにいて、その子のせいで勉強ができないといってくる他のクラスメートがいる、というものだ。残念なことに現実レベルの答えとして、このクラスからは近々この知的障害を持った子はいなくなるであろう、というものである。しかしその際に、自分達がこの子と一緒にいられなくさせたんだということをいかに子供たちに感じさせるか、そこに教師の腕がかかっている、と考えられるのである。
これは問題としては同じことだろう。
 当初好奇の目をもって、まるで襲い掛かるようにしてこの河童を見ようとする。自分たちはただ自分の欲望にしたがっているだけだから、なんの悪いこともしていないと思いこんでいる。いや、そう思いこまずにはいられないほどこの好奇の目というのは大きな存在なのである。そうしておいて、いざそれはやめてくれ、と向こうから例えば康一の家族から言われると、報道の自由だとか、知る権利だとかいって、知られない権利や報道されない権利があることをまったく無視し、自分達の当然の権利がうばわれたかのごとく過剰に攻撃するのである。そうして反撃されたら、この作品ではカメラのレンズを超能力で割る、カラスを殺す程度のこと、をしたら、自分たちは何もしていないのに攻撃された!とさらに過剰に被害者意識を持つのである。
 人間のこうしたグロテスクな側面をこの作品はありありと描いて見せる。
 そうして菊地とクゥとに共通する点は、ここでの排除される側の存在なのである。
 唯一の救いとなっているのが、この二人が最後は救われるような感じで描かれていることだ。そのためには、やや不自然ながら、沖縄のキジムナーをいきなり登場させずにはいられなかったほどである。現実レベルで見れば、この少女菊地は必然的にこの学校にいられなくなり、転校させられ、河童のクゥはこれ以上康一との生活ができなくなり、人がいないところへ行ったのである。それをオブラートにつつみこんで、なんとか救いのように描いたのである。が、現実レベルではこれは救いとはいえないだろう。私たちはこうしてまた新たな排除をしてしまったわけなのだから。

 それにしてもこの作品はおどろくほど徹底した社会風刺で、しかも社会風刺作品にありがちた、いや、それはあなたたちの思い込みです、といったような論点がややズレている、といったこともなく、まことにピシャリと我々の弱点をついてきているのである。確かに現代にもし河童が現れたとしたならば、こうなるだろうなと思わずにはいられない。
 これは河童にかぎらず、何かちょっと珍しいものがあれば、みんなこうなるのであるから、人間の業欲というものは果てしがない。この作品が少しでも多くの大人に届き、自分の行いを見直す手本となってくれればいいと願うばかりである。

劇場版 NARUTO -ナルト- 疾風伝 火の意志を継ぐ者 感想とレビュー

img_1 (2)

 『劇場版 NARUTO -ナルト- 疾風伝 火の意志を継ぐ者』(げきじょうばん ナルト しっぷうでん ひのいしをつぐもの)は、2009年8月1日に公開された日本のアニメ映画。漫画『NARUTO -ナルト-』を原作としたテレビアニメの劇場版。監督はむらた雅彦。アニメ第2期の劇場版としては、これが第3作目である。キャッチコピーは「届け、オレたちの想い!」。興行収入10.2億円。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%87%E5%A0%B4%E7%89%88_NARUTO_-%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%88-_%E7%96%BE%E9%A2%A8%E4%BC%9D_%E7%81%AB%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%BF%97%E3%82%92%E7%B6%99%E3%81%90%E8%80%85

 ナルトは漫画全巻を持っているので、かなり詳しい方である。だが、そのぶん、冷静な、つまりこの作品だけを見た場合の評価というものができなくなってしまうという欠点はある。
 「時系列では暁の飛段と角頭を倒してから自来也が雨隠れに潜入するまでの間となっている」とWikipediaにもあるように、自来也が生きている。自来也亡き後を知っている私としては、自来也が生きているだけれうれしいものである。
 今回のナルトの映画は第二期の三作目である。一期目にも三作でてきるので、劇場版ナルトというくくりでくくれば、この作品は六作目ということになるだろう。
 大抵ナルトの劇場版は巨大な敵が一人現れて、それを倒すというのが基本的な構造になっている。これは早めに脱却したほうがいいと私は思っているが、一度このような型ができ、そこに安住するようになると、なかなかやっかいである。冒険をしてここから飛び出していこうという気持ちがなかなか生まれないからだ。冒険した挙句に失敗したとなれば、内外から、やっぱり基本のほうがよかったと言われかねない。だが、私は敢えて、このマンネリ化してしまっている基本構造から抜け出し、巨大な敵が一人登場し、それを倒していくという戦闘モノにありがちな構造をやめたほうがいいと思う。
 ではどうすればいいのかというと、誠に遺憾ながら私の貧相な発想力では何も生まれてこない。これは製作者たちが一生懸命に考えてもらうほかないのである。なんとも無責任な発言なのであるが、いたしかたない。
というわけで、今作はあまり評価できないというのが私の評価である。

 今回はヒルコという人物が本作の敵役である。ヒルコを感じにすると蛭子。血を吸うあのヒルである。
 だからチャクラを吸うということとかけたのかもしれない。木の葉の三忍は、それぞれ、カエル、ヘビ、ナメクジと、気持ちの悪い生物ばかりである。そこにヒルが加わったというわけである。
 さて、このヒルコであるが、三忍のような才能に恵まれなかったため、人体実験を繰返し、禁術作ろうとする。ここらへんの発想が、大蛇丸そのままであり、なんだ、大蛇丸と一緒に研究すればよかったじゃないかと思われるほどである。この敵の設定はあまりにも凡庸すぎて、というかすでに大蛇丸がいるのにもかかわらずこの設定をOKしてしまったのはやはり問題があっただろう。
 それにしても納得がいかないのは、木の葉と砂の里との国境の戦いである。いくら忍びが馬鹿だとはいえ、あそこまで馬鹿馬鹿しいと見ていて興ざめしてしまう。いくらなんでも木の葉の抜け忍であるヒルコが登場しただけで、これから戦争へ、となるかというと、おそらくならない。それはさすがに無茶があるのではないかと不自然さを感じずにはいられなかった。
またヒルコにしても、どうして誰も最初から戦わずに無理だとあきらめるのかがちっともわからない。ツナデは火影であるから無理にしても、自来也が生きているのであれば、自来也が止めにいっているはずである。それをしないで、最初から砂の国との国境で何をしているのかという問題である。他にも優秀な忍びはいくらでもいよう。それらがヒルコと戦いもせずに、こいつには勝てないという判断をするのには当たらないだろうと思うわけだ。
 今回はだから、話しの流れに違和感がありすぎて、満足のいく作品にはなっていないだろう。

 火の意志を継ぐものというのも、なんだかわかったようでわからないようなものである。
 一応カカシの教えである、おきてより友という意志をナルトは継いでいるわけである。さらに、シカマルは自分の師匠である、アスマの玉を守るという教えをナルトに見ているわけである。この意志をなんとか強調するためにどうしたらいいのか。これを妨害するものを設けなければならなくなる。そのために、いびつなかたちで、カカシだけをヒルコのもとに行かせるというストーリーにならざるをえなかったのである。

 ヒルコにしても可哀想である。最期、死ぬ間際のヒルコは、原作のオビトとも似たイメージを彷彿とさせた。このナルトの物語の一番根幹となっているのは、ジャンプでもそのスローガンとなっている「仲間」である。どんなに苦しくとも、なにがあろうとも、仲間がいれば大丈夫である。こういう基本的には明るい、希望的観測に満ちた人間観がこの作品には横たわっているのである。
 だが、ナルトは苦境からなんとか立ち直り、仲間が多く出来るに至ったわけであるが、現実を見れば、当然ヒルコのように仲間が出来なかったという人間もいるわけで、最後にヒルコが悔悛してしまうところがなんともかなしいというか、むなしいというか、やりきれないのである。そこはせめてヒルコの尊厳を守るために、最後まで自分の行ったことが正しかったと認識させてあげたかったものである。最後の最後で、やっぱり自分は間違っていたという後悔は、ヒルコのそれまでのすべてを否定することになってしまう。
 もちろんヒルコ本人がそれでいいのならばいいのではあるが、その程度で悔悛してしまう程度だったのならば、やはり最初から大したことはなかったのではないかとも思わずにはいられない。
 敵役には、もっと強靭な精神力の持ち主を望みたいものである。
プロフィール

幽玄

Author:幽玄

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
203位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
15位
アクセスランキングを見る>>
フリーエリア
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。