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イヴの時間 感想とレビュー

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 「2008年8月から順次インターネット上で公開されている。「ファースト・シーズン」は各話約15分で全6話。2010年3月6日にファースト・シーズン全6話を編集した完全版が映画として公開された。
 吉浦康裕演出、原作、脚本、監督。アニメーション制作は、スタジオ六花。製作は、ディレクションズ。
 回り込むようなアングルの変化や刻々と画面上で推移する文字など、3DCGを含めたCG制作のメリットを全面に押し出した作品となっている。
 東京国際アニメフェア2010・第9回東京アニメアワード優秀賞OVA部門受賞作品、第14回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門審査員推薦作品。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%81%AE%E6%99%82%E9%96%93

 以前話題になっていたように記憶している、イブの時間という作品を鑑賞した。
 これは関連作品もなく、独立した作品なので比較的論じやすい。
 最近ずっとロボットが登場するアニメばかりを見ていたが、ここまでくると流石にうならずにはいられない。そもそもロボットとは何なのか。この問いは手塚治虫がアトムを書いたころからこの半世紀ずっと語り継がれてきた問題である。ここでロボット作品の細かい系譜や、ロボットと人間との問題を描いた他作品への詳しい言及はしないし、私の知識レベルではできないが、一応2000年代の総決算として、イヴの時間は、人間とロボットとの関係を描けていると感じる。
 手塚の時代は、結局アトムは最終的に太陽に突入して消滅しなければならずに、ロボットと人間との共存はできないという結論が導き出されていた。そうせずにはいられない作者の心情が、その時代性を描き出しているといえるだろう。
 もちろん、この作品では共存しえるのか?という点では怪しい部分もある。最終的には、倫理委員会というところからの刺客がやってきているので、この店が近いうちに営業できなくなるということは、残念なことではあるが簡単に予想がつくものだろう。
 そして何よりも驚いたことであるが、この作品では、一部確立したエリアであるとはいえ、ロボットと人間を区別しないという思想がまかり通っている、それを作品として描き出し得たという点である。これは宇野常弘がいうような、ゼロ年代の想像力ということが出来よう。
 ゼロ年代の想像力は、ここまでやってきたのである。もちろん、アメリカの映画にロボットとの共存を描いた作品がいくつかあったのを記憶している。が、これらはやはりどこか我々の感覚とは異なるのである。
 その異なる原因というのが、私にはこのように思われるのだ。すなわち、アメリカやイギリスなど英語圏で作り出されたロボット映画。これは根本的にデカルト的な心身二元論が製作者、視聴者たちの根底にある。そもそも彼等は自分達は精神と肉体との二元論でできているという文化背景があるので、身体は魂の入れ物という考えが強いのである。だからこそ魂が傷つくことは恐れても、身体が傷つくことについてはあまり恐れないという傾向がつよい。これは一般論の話をしているので、個別にどうであるという話は別の話である。だからこそ、ピアスをしたりいれずみをしたりということがあまり抵抗感なく行われているのである。
 それに対して日本では、儒教的な思想に加え、心身二元論では割り切れない感覚がある。
 とくにこの作品でもちらりと言及されていたが、ロボットを使う時の感情が、欧米人とは全く違うだろう。日本人がロボットに対した時、それはモノを大切につかう、といったやおよろずてきな思想が背景にあるのである。汎神論といってもいいかもしれない。身の回りにあるものすべてに命が宿っている。精神が宿っているという考え方である。
 日本にも大分大量生産、大量消費の考えが流入してきてしまったとはいえ、まだどこかにモノは大切につかうものという価値観をもった人間も少なくない。少数派になっているとはいえ。この作品でロボットを大切にしている人物たちは、そのようなものを大切にしようという思想を持っている人間に近しいのである。
 もちろんそれが、ロボットに心があるかないかという個人的な信条と密接にむすびついている。だからこの物語は簡単に、こうしたらいいだろうという解決できるような問題ではないのであるが。

 タイトルのイブの時間。そもそもイブとは、旧約聖書にある、アダムとイブ、またはエバのイブであろう。このイブはアダムの肋骨から生み出された存在として、また初めての人間アダムのパートナーとして有名な人物である。共に初めての人間、一対のカップルというふうに取られることもある。
 とすると、このイブの時間とは何なのかというと、おそらくこれは、人間のパートナーとして、あるいは初めての存在として、それは人間でもロボットでもなく、それを越えた中間の存在として、その時を刻むということなのだろうと思う。
 ここの店では、ロボットはリングを消し、まるで人間であるかのように振る舞う。この描写はほんとうにおもしろい。通常ロボットが出てくるアニメは、徹底的にリアリズムを貫いて、いかにもロボットっぽくふるまうか、あるいは完全に人間のようにふるまうものか、どちらかである。これはどちらも、ゼロ年代の想像力というよりいかは、90年代辺りまでの想像力であろう。例えばアトムなどは、人間らしくふるまっているものの典型である。ドラえもんもロボットとは思えない、一個の人格の持ち主として描かれている。それに対して、人格がない、ほんとうにロボットらしいロボっトという描写もある。イヴの時間で言えば、リングがついた状態である。
 このロボット像がどこから来ているかというと、ドラえもん的な人格を持った存在としてのロボットは、我々人間の欲望、内面からであろう。こうであってほしい、という理想が投影されているわけである。それに対して完全なロボット的なロボットはどこからきているかというと、我々の現実からである。我々はなぜかロボットにとてつもなく興味を持つらしい。二足歩行が科学的にもちっとも効率的でないばかりか、かなりの非効率であるにもかかわらず、人間はどうしても四足歩行や多足歩行のロボットではなく、二足歩行、しかも人間に似せたものを作りたがある。で、実際にいくつかアシモなどというロボットができてきているわけである。だが、これらのロボットはまだまだ人間と対話ができるようなレベルには達していない。やはりかなりのぎこちなさを持っているわけである。
 このイメージがリングをつけているロボットの描写のイメージとなっているだろう。
 この作品がすごいところは、それまで分断されていた二種類のロボット像が、ひとつに統一されたことである。それは極めて不自然な形ではあるのだが、リングを付けた状態で、まったく感情がないかのようにふるまっている時と、このカフェに来た時にはあたかも人間であるかのように、人間かロボットかわからないように振る舞うのである。この二面性を一つの身体に統一させたということがこの映画ではすばらしかった。
 実際問題として、本当に人間のように振る舞うロボットがでてくるのはまだまだ先のことであろう。残念ながら私が生きているうちには難しいだろう。だが、例えばリナ、水商売風の恰好をした女性のような、ロボットっぽいが、どことなく人間的でもある。こういうロボットならば、もしかしたら私が生きているうちに完成するかもしれない。そう思わせるリアリズムがこの作品には通底しているのである。

 私としてはとても面白い作品だったので、この続きがぜひとも見てみたい。
 リクオは思春期の少年である。それに対してサミィは若い女性のロボットである。しかしリクオはサミィにこころがあることに気がつき、あるいはそう思いこみ、サミィも「恥」という概念を持っているかのように振る舞っている、あるいは本当に持っているので、この二人の関係が気になるのである。
 これは、新海誠の新作『言の葉の庭』でも描かれたテーマであるが、学生と社会人の女性という、男性が望む一つの典型的な恋愛の形態でもある。
 今後この二人がどのような関係に発展していくのかが、楽しみである。
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鉄人28号 白昼の残月 感想とレビュー

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 『鉄人28号 白昼の残月』(てつじんにじゅうはちごう はくちゅうのざんげつ)は、今川泰宏監督による横山光輝の漫画作品『鉄人28号』を劇場映画版アニメ化した作品。配給・宣伝はメディア・スーツ。2007年3月31日、新宿武蔵野館で公開。
Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E4%BA%BA28%E5%8F%B7_%E7%99%BD%E6%98%BC%E3%81%AE%E6%AE%8B%E6%9C%88

 鉄人28号といえば、横山光輝の名作と名高い。が、21世紀の現代若者の間では、もはやほとんど忘れ去られてしまったといってもいいだろう。私も、なんとなく名前は知っていたが、実際に作品を見たのは今回が初めてである。
 鉄人28号の漫画原作が掲載されていたのが1956年から 1966年である。この戦後十年というところから出発した作品は、やはり色濃く「戦後」というものをその作品に内包していたのである。現在私たちが、3・11後の文学作品等を考える際に、3・11文学といった考えかをするのと同じである。3・11しか経験していない私たちは、およそ敗戦、東京の焼け野原、というものを想像することは不可能である。おそらく3・11の数倍、いや数十倍、数百倍の規模の惨劇だったのだろうとしか想像がつかない。
 この作品は、アニメ映画として、2007年に制作されたものである。ちょうどこのころは、2005年に大ヒットした、『オールウェイズ三丁目の夕日』を含めた、昭和の魅力の再発見期とも重なっていると私は考える。日本語ブームなど、数年周期で訪れる一過性のブームがあるが、この昭和ブームというものも、周期的に訪れる一種の症状のようなものであろう。なんの症状かというと、今いきている現在に対して自信が持てなくなるときの症状である。我々は自分が現在おこなっていることが正しいのかわからなくなった際に、過去を持ち出してくる。過去を持ち出してそれを比較対象とするのである。それ自体には当然意味があり、これを無下に、よろしくないことだと一刀両断することはできない。人間そんなに強くないのであるから、時には懐古的になることもあろう。
 そのような時代的な文脈があるなかでこの作品もあったのではないかと私は考えるのである。ただ、それら一連のノスタルジー作品と比べて圧倒的にこの作品が優れていることは言うまでもない。

 特にすばらしいと感じたのは、作品全体に戦後の香りがきちんとしたというところである。絵のタッチも、2007年であるから、当然ものすごく描きこんだり、CG技術を駆使したりということはできたはずなのである。ところが、この作品ではそうした表現は見られない。もっぱら、戦後、まるでアトムを見ているかのような雰囲気の作品なのである。
 最後のエンディングも、なんと縦書きで、横に流れていくというものである。こうした細部までの徹底ぶりがこの作品を成立させている。極めて優秀な作品だと言えるだろう。

 ロボットアニメを沢山みてきたが、鉄人28号というのは、もちろんその後につらなる70,80年代のロボットアニメの元祖ともいえるものである。この時代はまだこれだけ巨大なロボットなのにもかかわらず、操縦者はロボットに乗り込まない。乗り込むことが圧倒的にスタンダードになってしまった現代においては、乗り込まないことのほうがむしろ新鮮に感じられるが、1950年代、60年代の想像力では、乗らないことのほうがむしろスタンダードなのである。
 この想像力からは、ロボットというものが、どのようなものかうかがえる。すなわち、現代ロボットにのることが当たり前となってしまった今となっては、ロボットを破壊することは、そこに乗っているパイロットをも殺すことにつながるのである。それは戦闘機を同士の戦いに似ているかもしれない。
 それに対して、外で操縦するだけであれば、ロボットを破壊したところで人はしなない。もちろん、これだけ巨大なロボットを操縦することになるので、周囲の人間を数多く間接的に殺していることにはなるのだが。だが、ここには、相手を殺すという観念はない。これは巨大なラジコン遊びのようなものなのである。
 だから、この作品には、本質的にはパイロットが殺される、死ぬという危機感、緊張感はないはずなのである。ところが、この作品では、パイロットを狙った別の事案が発生する。そしてそれがこの作品を動かしていくモチーフとなるわけである。

 今回初めて知ったことだが、この物語の主人公である金田正太郎は一応少年探偵なのである。この少年が、少年なのにもかかわらず、どうして車を運転できるのかは永遠の謎であるが・・・。というかそもそもこのロボットをいくら父親が作った兵器だからといって、人の生き死ににかかわることを少年にやらせている国家は一体どういう危機管理システムを持っているのか、と思わずにはいられないのだが・・・。まあ、そのようなことを言いだしたら作品は見られない。

 この作品はロボットアニメであるにもかかわらず、活人劇となっている。ショウタロウと言われる謎の少年がこの作品のカギを握っている。当初からなんとなく怪しい雰囲気を醸し出していたのであるが、やはりこのショウタロウが操縦かんを持っており、鉄人を裏で動かしていたのである。ということは、ショウタロウは廃墟兵器のありかを金田博士から聞いていたということであろう。
 残月というあだなを戦地で得た彼は、同じ残月を語る復員兵による犯行を追う。この復員兵は、最終的には管理人の女性であったことが判明するのだが、途中まではわからない。さすがに少年探偵を主人公にするだけはある。単純なロボットアニメでは終わらずに、コナンばりの謎を視聴者に要求してくるのである。なかなか知的にも楽しませる作品である。
しかし、この残月の名をかたる復員兵、管理人の女性の行動はやや理解しづらい。もちろん母親としての心情はよくわかる。戦後のことである。21世紀の現代から考えれば、最後にショウタロウに、日本のために立派に死んでくれるのが母としての望みだったのに、おめおめと生き戻って来て、というセリフはあまりにも残酷であるが、リアリティーを持っている。
だが、やはり彼女は同時に母なのである。それは生きて帰ってきた息子に対して頭ではあのようにつらくきびしくあたるものの、彼女と一緒にぼろぼろのアパートで暮らしていた時の二人はとても幸せそうであった。さらに、正太郎のことを殺ろうとしたのは、自分の息子に鉄人28号の主導権を渡したかったからにほかならない。ここでは、ショウタロウの母としてとともに、金田博士の女としての彼女もでてきているだろう。ショウタロウは、まぎれもなく、母残月と、金田博士との子どもである。それから金田博士は他の女性と結婚し、正太郎少年をもうけるのである。異母兄弟というのはこういう意味であろう。
 ここでは自分の愛した男と他が他の女との間につくった子供という感情が入り込む。これはなかなか複雑なものである。愛した夫が愛した人、というのは、愛していいのか、憎んだらいいのかよくわからないものである。そのなかで、彼女はショウタロウの母としての役割もあったので、正太郎を殺そう殺そうとするのであるが、やはりそれはできなかったのである。彼女は正太郎が小さい頃のショウタロウに似ていたからと述べている。すなわち、ここで母としての彼女が現れてしまったわけである。
 が、もしここでこの正太郎のことを殺してしまっていたら物語は悲劇的だ。もちろんそうなっては作品が終わってしまうのでそうはなりはしないのだが、しかしこの作品ではそれもありえるかもしれないといった、リアリズムがあった。

 最後に「白昼の残月」と書かれた書が数秒間描写される場面がある。これがなかなか恰好よかった。
 この物語は正太郎が太陽、陰陽でいったら陽の世界の人間なのに対して、その裏で活躍している人達のことを描写したかったという明確な目的を読み取ることができる。そして残月というのは、1人ではなく、二人だったというのも、この作品がよくできている作品の証拠である。
 1人の残月は、戦争でかろうじて生きながらえた、金田博士の息子。彼は戦地で金田博士とともに鉄人の開発と、その操縦技術を学ぶ。が、戦時中に鉄人は彼の手元から離れてしまう。
 もう一人の残月は傷痍軍人の恰好をし、暗殺をたくらんだショウタロウの母である。彼女もまた、金田博士に御前は残月のようだ。太陽が光っている中で、その輝きを反射し、かすかに光っていると言われた人物である。
 これは、近年のロボットアニメ批評にもなっている。ロボットアニメはいわば、陽の部分。絶対に死なない主人公しか描写していないのである。それに対してこの作品は、その陰で死んでいったヒーロー、ヒロインたちを描写しえているのである。そうした意味においても、この作品は十分なおもしろさ、設定、批評性を備えたすぐれた作品と言うことができるだろう。

真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ

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 『真ゲッターロボ対ネオゲッターロボ』(しんゲッターロボたいネオゲッターロボ)は2000年に発売されたOVA。
Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E3%82%B2%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%9C%E5%AF%BE%E3%83%8D%E3%82%AA%E3%82%B2%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%9C


 ゲッターロボ自体もあまりよくしらない私が、突然この映画を観ることになって、やや当惑気味なのであるが、この映画(正確にはOVA)を見て感じ、考えたことをこれから述べて行きたい。
 この作品は2000年制作のOVAである。とすると、比較的私の感覚で言えば新しい作品ということができよう。2000年をまたいでいるかまたいでいないかで私にとっての新しさ、古さというものはわかれるような気がする。それは1990年代に生まれているから、記憶が明確にあるのが2000年になったくらいのころからであるということもできよう。
さて、2000年にできた作品としては、とても古いもののように私には感じられた。
 というのも、ここで描かれている内容、ひとつめは、ロボットの外観など、もうひとつは物語内容など、が、いかにも70年代80年代のマジンガーZ等々につらなる一連のロボットアニメの系譜にあたるからである。もちろん私がこれらのロボットアニメに詳しいわけではない。これから勉強していくつもりではいるのだが。ただ、雰囲気としてそのような時代の香りを感じたのである。もしかすると、この作品の制作陣は70、80年代のロボットアニメが好きで、そのような作品を作りたいと願っていたからかもしれない。

 まったく内容もなにもわからない状況でも、ちらほらとこの作品のタイトルは耳にはいってきた。両者ともゲッターロボという名が冠されている。ロボットアニメというのは基本的には敵と味方というわかりやすい構図であるので、このどちらにも本来味方であるはずのゲッターロボという名前が入っているのにはどういう意味があるのだろうか、と私はつねづね考えていた。
 作中で、恐竜の人種が攻めてくる場面がある。あそこで真ゲッターロボを奪取し、まるっで0083スターダストメモリーのようにガンダムとガンダムが戦うのか?とも思ったが、そういう想像力でもなかったようである。結局真ゲッターロボとネオゲッターロボが戦うという場面はなく、タイトルにある「対」の意味はいまいちわからなかった。

 本作は慣れるまでには結構きびしい作品であると、率直に思う。好きな人は好きなんだろうけれども、好きになれるのにやや時間がかかりそうである。
 この作品のノリのようなものは、マクロス7を見たころに少し似ている。あの作品もなかなかはまるのに時間のかかる作品であった。バサラの1人勝手な感じになんとなくついていけずに苦労したものである。が、徐々にバサラのことを周囲が理解していくように、私もバサラのことを理解できるようになり、終盤には、是で終わらないでくれ、もっと続きを見せてくれ、と思わずにはいられないほどにまで観客を魅了するような魅力があった。
 この作品も二時間分みただけでは分からない魅力というものがありそうな気がする。
 ここに登場する登場人物たちはいずれもテンションが異様に高く、そしてみなあまりにも強靭な肉体を持っている。一人で一体どれだけの敵を倒せば気が済むのかという、バランス感覚の崩壊した作風である。これがガンダムであればこうはいかない。特に私はZガンダムのような、一機打てれば上々といった、戦場のリアリズムが好きなので、このような一騎当千型のアニメには違和感を覚えないわけではない。そんなことありえないだろ、とどこかで突っ込んでいる私がいるのである。
 だが、こういう作品はこういう作品だと解釈するほかないだろう。ここにリアリズムを持ち込むのはあまり意味がないような気がするのである。

 やや笑ってしまわなくもない場面がある。例えば、終盤ボロボロになった真ゲッターロボだが、これがマクロスでいったらドボルザークのような敵のラスボスとの戦闘において、こてんぱんにやられてしまう。だが最後の最後で大どんでん返しが起こり、いままでのフォルムとは明らかにことなった、もはや機械ではありえない、メタモルフォーゼを遂げるのである。機械がこんな有機的な、いや有機的な存在でもこうはなりはしない、というツッコミは心のどこかで押さえておくとしよう。
真っ青な姿となった真ゲッターロボ。ここの強さのインフレーションにもやや笑わずにはいられない。コテンパンにやられていたかと思うと、こんどはコテンパンにやっつけてしまうのである。もう少し力をコントロールして、いい線だが徐々に負けていく、いい線だが徐々に勝っていく、といったような戦いのほうが手に汗握るのではないかと思うのだが、いかがなものだろうか・・・。敵のラスボスが登場した場面も、ああ、こいつもなんだかんだ言ってすぐにやられることになるのだろうなあ、と思ってしまうと、作品を見る目が覚めたものになってしまう。
 これは完全に見るもの、すなわち私が多くの作品を見過ぎたために、このような視点を確保してしまったという、私の問題ではあるのであるが、そうした目に耐えられる作品を作ってほしかった、というのは、一観客の願いである。

 だが、この作品は評価できないのかというとそうではない。
 70.80年代のロボットアニメの系譜をおさえつつも、この作品ならではのオリジナリティーも存在する。通常こうしたロボットアニメは一人の天才によって、科学的という名の、非科学的な想像力によって生み出される、という設定が多い。例えばコナンなどは典型例だが、ちっとも科学的でもないにもかかわらずに、なんだか科学的なような気がする秘密道具をコナンたちは一人の天才科学者という人物の名において、自由に使うことができるのである。
 だが、この作品ではまず博士が二人登場しているという設定がおもしろい。
 1人は頭が完全にいってしまっている、しかも大道剴という人物によって「少々頭はいっちまっているが」と批評される(これはすごい批評である。通常このような批評が作品に持ち込まれることは珍しい)、敷島(しきしま)博士である。
 そうしてもうひとりは、この敷島博士と対になるかのような、ゲッター線研究の第一人者、早乙女(さおとめ)博士である。こちらは、いままでのロボットアニメの博士と同じような、偉い博士である。
 この作品には、偉い博士と偉くない博士の二人の両極的な人物が登場するのが魅力的である。これがすべて一人の博士によってやられてしまうと、一体何が博士の発明物なのか、そこらへんがブラックボックス化してしまう。この作品では二人の博士が登場することによって、武器は敷島といった、責任は早乙女といった役割分担ができているのである。
他にもこの作品を見ていて気になったのが、ゲッター線というものである。
 一体ゲッター線がなんなのかはよくわからないが、最終戦闘で、敵方のボスが「なぜゲッター線は地球を選ぶ」といった発言や、博士たちもゲッター線は今回も地球を選んでくれた、地球人はいまのところ生かされている、といった発言が注目にあたいする。
 例えばエヴァンゲリオンを通常のロボットアニメといっしょくたにして考えてはいけない様に、あれはロボットではなく、人造人間である。そこにとてつもない意味があるのである。それと同様に、この作品でも、どうやらゲッターロボというのは、単なるロボットではなく、何かしらの意志を持つ存在のようであるのだ。
 ここはやはりひとつ考えて行かなければならないところだろうと思う。また興味深い設定でもある。70,80年代のロボットアニメの系譜をたどっていながら、このような特質性が出てきたことは、注目に値する。

頭文字D Third Stage -INITIAL D THE MOVIE- 感想とレビュー

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 『頭文字D』(イニシャル・ディー / 英語表記: Initial D) は、しげの秀一による日本の漫画作品、またそれを原作にしたテレビアニメと映画を指す。通称「イニD」。峠道において自動車を高速で走行させることを目的とする、走り屋の若者たちを描いた作品である。
Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E6%96%87%E5%AD%97D

 作品タイトルだけはよく耳にした作品を、今回初めてみた。とりあえず私が最初に作品に触れる場合、アニメから入ることも多いのだが、時間がないときは、一般のお客も想定してつくられたであろう、劇場版から見ることにしている。劇場版は、その作品の雰囲気やエッセンスを集約しており、作品全体を知るうえでは有効なメディア媒体だからである。
 今回私はほとんど何も知らずにこの作品を鑑賞したのだが、なかなかおもしろかった。車は好きなので、そういう点では、他の車についてそんなに詳しくない視聴者と比べるとアドバンテージがあったかもしれない。
 以下、感じ考えたことを書いていく。

 まずこの作品の基本的な構造であるが、この作品は基本的に、スピードを要求する作品である。
 よく漫画は動きを要望するメディアであるといわれる。これはどういうことかというと、漫画という絵を基本とする媒体において、その媒体、マンガがどのような内容を好むのかというと、動きなのである。だから、バトル漫画などは、もともと漫画そのものが欲求するものと、その内容が一致したという点で、メディアの利点を使っているということになる。
 近年ではライトノベルにもバトルものが多々あるが、やはり文章での記述は、動きにはメディアとして弱い。どんなに文章でえがかれていようと、視覚的に伝わってこないからイメージがしにくいのである。こういうメディアの基本的な性質というものがある。
 たとえば、デスノートなどは、本来小説、しかもかなり重厚なミステリーサイエンス小説になり得たものであるが、これを敢えて漫画で表現したというところに、こうした一般的には漫画は動きを要求するけれども、といった、常識を打ち破った表現方法がある。これが功を奏してこの作品は大ヒットしたというわけである。
 今回のイニシャルDであるが、これは比較的スタンダードな、漫画に即した表現になっているということができよう。漫画表現において、動きとスピードは、二つの大きな利点なのである。
 私は漫画原作を読んでいないのであるが、おそらく漫画自体もかなりすぐれた作品であろうということが、このことからも予想される。
 今回鑑賞した劇場版作品であるが、これはアニメーションというメディア媒体である。アニメも漫画に近しい媒体なので、何を希求するのかというと、漫画と同じく動きとスピードである。漫画が文章とアニメの中間としたならば、アニメは漫画よりもさらに動きとスピードに特化した媒体ということができよう。そのかわりに、文章の得意とする心理描写などから離れていってしまうという欠点はある。
 だが、今回のイニシャルDはまさしく動きとスピードを希求する内容であるので、もしかしたら漫画よりもその点はうまく表現できているのかもしれない。

 ただ、残念だったのは、本作では車がすべてCGで表現されてしまっていることである。
 もちろん時間と予算の限られた中で作品を制作しないのはわかるので、アニメ版等でそれを全部セル画で書いてほしいという要求はあまりにも厳しいことはわかっている。が、せめて劇場版くらいはCGではなく、セル画で書いてほしかったというのはセル画好きな私の希望である。
 例えば、セル画でレースのスピード感を見事に表現した作品に、2010年のレッドラインという作品がある。これは、スピードを出した高速の世界においては、我々のモノの認識がゆがむというところを見事に表現しているのである。レーシングカーというのは、もちろん鉄やらなにやらかたい物質でできているので曲がったり、ゆがんだりということはありえない。だけれども、レッドラインでは敢えてそれを曲げ、歪めて表現することによって、見事にスピードが出た世界であるということを表現してみせたのである。
 イニシャルDにもそうした表現を私はしてもらいたかった。

 だが、CGでの表現もそんなに悪かったわけではない。むしろリアリティーを醸し出すという点においては成功しているだろう。やや車本来の重さというものが感じられはしないが、スピードが出ているという感じを出すことには成功している。
車のエンジン音などもおそらく本物を使っていることだろう。私も車に乗るのが好きなので、このエンジン音を聞くとたまらず走りたくなってしまった。
 また、この作品を見ていて、うまいなと思ったのは、リアリズムを追い求めながらも、やはり根底はアニメ的な表現なんだなという点である。どういうことかというと、この作品ではタコメーター、エンジンの回転数を表すメーターは表示されても、キロメーターの表示はされないのである。
 これをどういうことかと考えてみたのだが、一番簡単なのは、単純にまねされると危険であるからという倫理的な問題であろう。もちろんこうした問題が大きいとは思うが、こういう考えでは作品を読み解くうえでちっともおもしろい読みとも言えないし、なにか生産的であるとも思えない。で、私はこのような解釈をしてみたのである。すなわち、この作品には、現実世界のキロメートルという概念をいれないことによって、極めて虚構性の高い作品世界が構築されているというものである。
確かに車のボディもCGで表現したりとリアリズムに徹している部分はあるのではあるが、これを本当にリアリスティックに表現してしまうと、これを真似してしまう人が続出してしまう。そうならないためにも、この作品はあるところでやはりフィクションなのである、虚構なのであるという、虚構性をせをわなければならないのだ。それをどこに求めたのかというと、先ほどから論じている、スピード感覚についてである。
 この作品ではものすごく速いスピードで峠を登ったり下ったりしているように感じられる。それは、ひとえに表現がすばらしいからである。が、これが実際どの程度のスピードなのかということはこの作品には組み込まれない。そのことによって、速さは客観的、キロメーターで表現できるものではなくて、主観的な速さになるのである。
だから、たとえ時速20キロであっても、速いと感じる場合は速いのである。例えば車で時速20キロであれば、遅いと多くの人間が感じるが、自転車で20キロを出したらかなり早いと多くの人が感じることであろう。速さを感じるのは、こうした客観性ではなく、主観性でいいわけである。
 だからこのイニシャルDに登場する人物たちが峠で実際は50キロであろうが、80キロであろうが、どうでもいいのである。本人たちが速いのだと感じていれば速いのである。
 この作品はそれを表現したかったのだといってもいいと私は思う。

劇場版 Fate Stay Night 感想とレビュー

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 前々から気になっていたフェイト。今回は初めてその劇場版である『Fate Stay Night』を鑑賞した。
 この作品だけからでは、どのような設定なのか、おぼろげながらわかるが、全てがわかるわけではない。アーチャーと呼ばれる使い魔的な存在が、主人公である衛宮士郎と同一人物であるらしいことはわかったのだが、どうしたら人間の衛宮が魔界の世界の存在である使い魔的な存在へと変貌するのかがわからない。また、遠坂がアーチャーを呼び出した際には、衛宮がアーチャーの姿になるだけの、そしておそらく果てしもない長い年月を無視して、つまり時空間転移を行ったのか?といった疑問も残った。
 それらの疑問等々は、これからアニメ版や漫画版を読むことによってクリアしていきたい。
 さまざまな設定をああだこうだというのは、私の批評では意味がないと思っている。そういうのが好きな人はたくさんいるので、それらはそれらが好きな人へと任せたい。私が専ら自分の仕事だと思って行うのは、これらが時代や社会その他作品との関連の上で、どのような意味を持つのかといったことである。いわゆる文芸批評なのであるが、作品をより広くみていくのが私の視点である。

 今回は何もかもが初めてだということもあって、詳しい内容検証はできないが、この作品を一度見た限りにおいて感じたことを書いていく。
 もともとこの作品はゲームから出発したらしいが、ゲーム版ではどのような物語だったのか気になる所である。私はこの作品を考える上で、是非ともエヴァンゲリオンを比較対象としたい。このゲーム版が1994年。アニメエヴァンゲリオンが95年からである。一応作品の影響関係ではこちらのほうが先になるのかもしれない。
 エヴァンゲリオンは様々な問題点、論題点を抱えた作品であるが、私がなによりもあの作品がヒットした理由は、そのヒロインにあったと考えている。あの作品には男性の欲望すべてが抽出、結晶化されたヒロインが二人登場するからである。
 1人は綾波レイ。彼女は男性の欲求の究極の結晶である。男性は主に支配欲がある。もちろん女性にもあるだろうが。特に恋愛関係においては、相手の女性を支配したいという欲求がある。これを具現化したのがレイである。彼女は純白である。すなわち、なにものにも汚されていないということである。
 男性は特に自分の好きな女性が他の男性と性的な関係を結ぶことを一番の苦痛と感じるらしい。とすると、自分の支配下におさまり、しかも自分以外の男性と性的関係をむすばらない女性は理想の女性であるのである。レイはおそらく自分の言うことを聞いてくれるような人形であるし、自分がどんなに変態なことをしても怒らないだろうという予想がつく。これが男性がもとめる人形的な理想的な存在なのである。
 それに対して、いや言いなりではこまる、といった少々M気質をもった男性はアスカへ向かう。S気質を持った人間がレイに向かうとすると、ここにはその反動が描かれている。すなわち、言いなりでは困るのである。恋愛において、女性は男性にリードしてもらいたい、といういっぱんてきな幻想がある。が、実はこれは男性にもあるのである。当然最初から最後までどこへいって何をみて、なんていうことをいちいち全部決めなければならない、リードしなければならない、というのは男性にとってかなりの苦痛なのである。最近ではそうした感情を発露する機会が増えて来たからまだいいものの、世の中の女性の大半がリードしてもらいたいと思っているくらいには、世の中の男性もリードしてもらいたいと思っているのである。
そんなときに男性の欲求を満たしてくれるのはアスカである。彼女は自分、自己、自我といったものがあり、彼女の命令さえ聞いていれば、彼女との関係を構築することができそうだという願望が見え隠れする。
 私はここに男性の二大欲求が投影されたヒロインが構築された。それが何よりもの功績だと考えたい。

 そして話はフェイトに戻るが、このフェイトに登場する使い魔的な存在である剣士セイバー、彼女はこのレイとアスカのハイブリッドと言えるだろう。すなわち、S的な男性も、M的な男性もどちらもこの子ならば、という究極の理想がセイバーその人なのである。
 セイバーは、質実剛健。主君の言うことならばどんなことにも従うが、しかしそれが義に背くことであったり、自分の納得のいかないことであれば、自分の信念に従って行動するという人物である。レイの人形らしさと共に、アスカの行動力や意志力といったものを持ち合わせたのがこのセイバーなのである。
 そしてそのセイバーは、男性の欲求を究極的に抽出し、結晶化したものなのである。だからこそ、男性はこのセイバーに対して恋愛感情に似たものを持つのである。たった二時間の映画であったとはいえ、これだけ魅力的なキャラクターはそういないと私も思わずにはいられなかったのには、このような理由があるからだろう。
 しかもこの作品が絶妙なのは、さらにセイバーとともに、アスカ的なキャラクターである、遠坂を出してきているという部分である。やはりどんなに理想化されたとしても、一元的なものではいけない。人間、はいこれがあなたの理想ですと、確かに理想形を出されたとしても、一体何と比較して理想なのかがわからないと、よくわからないものなのである。だから比較対象として、作品に活力を与えるため、遠坂という少女がこの作品には是非とも必要だったわけである。遠坂の描写は比較的簡単である。そのままアスカをトレースしてきたような存在で、ツンデレである。最終戦の前には、身体的な接触にもにた契約の儀式があり、その場面では照れるのである。こうしたアスカ的な存在にもまた多くの男性は惹かれるものである。
 これが、セイバーと遠坂どちらがいいか、ということになると極めて難しい問題になるだろう。
 アスカとレイという選択肢ならば、難しいまでも、まだ選ぶ余地があったのである。もちろん人間SもMも有しているという前提のうえで、S気質が強い人はレイ、M気質が強い人はアスカと選ぶことができたのである。だが、今回は、レイバーはレイとアスカのハイブリッドである。対して遠坂はアスカだけである。となると、相対的にアスカに票をいれる人間の半数がセイバーに移ってしまうと考えると、セイバーのほうが得票が多くなってしまうだろう。しかし、それは全体的に見た時のはなしであって、個人レベルでセイバーか遠坂か選んでみろと言われたら、かなり難しい選択になるのではないかと思う。

 と、まあ私が分析しえたフェイトの作品の魅力はこんなところである。
 もともとが18禁の作品だったこともあってか、セイバーが拷問されている場面は、レイプ以外のなにものでもなかったし、バーサーカー使いのイリアという少女が殺される場面は凌辱以外の何物でもなかった。他にもグロテスクな描写も多々あり、スプラッターの苦手な私としてはやや目をそむけたくなるレベルではあった。
 だが、他にもこの作品はエヴァンゲリオン的な、背景になにか体系的なルールや世界観があるのだろうけれども、それを小出しにしかしていないという点で、その謎を解き明かしていく、謎解き的な要素、楽しみ方もあるように感じられる。まだまだこの作品の魅力は語り得ていないということになるだろう。
次はマンガかアニメを見たいと思う。

ROAD TO NINJA -NARUTO THE MOVIE- 感想とレビュー

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 〈『ROAD TO NINJA -NARUTO THE MOVIE-』(ロード・トゥ・ニンジャ ナルト・ザ・ムービー)[2]は、2012年7月28日に公開された日本のアニメ映画。漫画『NARUTO -ナルト-』を原作としたテレビアニメの劇場版第9作。〉Wikipediaよりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/ROAD_TO_NINJA_-NARUTO_THE_MOVIE-
いよいよナルトも大詰めである。
 現在二十代の私の世代は、ナルト世代といってもいいくらいなものである。ナルトの連載が1999年から続いているとなると、ちょうど私の場合は小学生になるかならないかというくらいの年代から始まっているわけである。私がナルトにはまったのはそれよりももう少し後で、アニメが始まって一年ぐらいたっていたころだったと思う。漫画でいうと14巻あたりであっただろうか、三代目火影と大蛇丸との戦いは手に汗握って見た物である。私がナルトを見始めたのは中忍試験が始まるくらいであっただろうか。
 私はナルトの一ファンとして、すでにだいぶナルトの知識があるので、こうした作品を見る際に、正確な判断ができない。私が考える正確な判断というのは、はじめてその作品を見た際にどの程度わかり、たのしめるかということが基準になっている。が、私はナルトの世界をあまりにも知り過ぎているため、そうした漫画やアニメという本体があって、そこから派生されるようなこうした映画を冷静に見ることはできない。
 が、おそらく、ナルトのことをあまりしらない人間がこの映画を観たとして、それはとても低い評価にならざるをえないだろう。そもそも暁とはなんぞやという説明から、マダラがなんぞやという説明までしなければならないのである。こうした派生作品はそうした初めてナルトに触れるという人たちにとっては、決してやさしくない作品なのである、ということを忘れはいけないだろう。

 今作は2012年作とあり、比較的新しい作品である。
 映画版のナルトはユキが主題歌を歌っていた雪国での戦いの作品が懐かしい。おそらく一作目だったと思うが。あのころから比べると、この作品は後期ナルトの雰囲気を比較的忠実に描いていると思う。
 が、そもそも私はマンガ派の人間なので、どうしても自分の頭のなかの声と、声優との声があわずにイライラしてしまう。
先日キャラクター本である、『陣の書』を購入した。そこに書下ろしで付録としてあったのが、この作の冒頭にある、銭湯のぞき見事件である。おそらくこちらの映画が先で、それをあとから岸本先生がそれをたどりつつ、新たに修正を加えて書き下ろしたのだろう。ただ、こういう映画の作成現場がどうなっているのかわらかないが、「原作者岸本斉史が自ら描く劇場版最高傑作!!」というキャッチコピーからもわかるように、原作者がたびたび映画製作の脚本等にかかわっていることがある。とすると、このエピソードが岸本氏から出てきたものなのかもしれないので、どちらが後先という話はあまり意味がないだろう。

 設定として、この映画のほとんどは、マダラ(実は違うが)が生み出した限定月詠の世界に囚われたナルトとサクラが活躍する。だからこそ、なんでもありなわけなのである。マダラが創造した世界ということなのであるから、基本的になんでもありだ。だが、なんでもありのアナーキーな状況に陥らないために、マダラでさえ「全部は自分の思い通りにならない」とつぶやかせるほかないのである。
 なんでもない、ということは、何を表現してもよいというわけである。そうすると、俄然製作者たちの本気が知れてきてしまうわけである。
 今作の名シーン、これはなかなかすごいと思ったのは、九尾対九尾。これがすごかった。私はこのシーンを見るために、他の百分があるようなものだと言ってもいいと思う。おそらく製作者たちも、この巨大な九尾と九尾の戦い、というのが念頭にあって、どうしたらそれを実現できるかというところから発想したのではないか、と思われるくらいである。
九尾同士のたたかいは、書き込みもすごく、巨大なものどうしが戦っている臨場感や質感、質量感といったものがうかがえた。
 他方、欠点としては、どんなに九尾同士が戦ったとしても、これらがすべて幻術の世界の中であるという、ニヒリズム的な視点が我々を邪魔するのである。作品に熱中してしまうようなタイプの人にはこれはほとんどなく、楽しめると思う。だが、私のように作品を分析する目を持ってしまった人間は、常にどこか冷めた目をして、メタ的に見てしまうのである。とすると、すべて幻術のなかではないか、という構造ばかりに目がいってしまい、なかなか本編を愉しめないという欠点が残ってしまう。これが少々残念ではあった。
 暁が味方になってしまう点など、やりたいほうだいの代名詞である。これはさすがにむちゃくちゃだった。いくらものごとが反転するからといって、暁を敵から味方にしてしまうのはよろしくないだろう。

 もう一つのこの作品の見どころは、最近忘れられてきていた、ナルトの身辺問題である。
 私達も物語が進んでくると、ついついそのストーリーばかりに目がいってしまう。が、人間そんなに変わるものではない。ナルトを理解するためには、きちんとナルトの状況をおさえ、それが自分であったらどうであろうという認識を忘れてはいけないだろう。
 そこで近年は暁との戦いから、マダラとの戦いへと、ずっと戦い続きで、忘れられがちであった、ナルトその人に迫っているのである。ナルトは確かにどんなに強くなったとしても、どんなに仲間が増えようとも、家族は蘇られないし、いないのである。まあ、穢土転生でよみがえってしまっているのであるが・・・(さすがにこれは無理があると常々思っているが)。
 実際問題として、17,8の青年が、両親なく、一人暮らしをずっと続けているのである。冒頭、家族に常任推薦をしてもらっている仲間たちがいるなかで、独りぽつんとしているナルトは、どこまでいっても現実のナルトの姿なのである。現在どんなに英雄と言われていても、ナルトが結婚等をしないかぎり、ずっと独りなのである。そのことを忘れてはいけないだろう。
 映画の中盤まではきちんとそれを映画いていた。限定月詠は、かけられた者の願望が反映される。ナルトの父と母は蘇り、サクラは反対に父が英雄として死んでいるという設定である。この反転はなかなかいい考えだと思う。我々は自分たちの置かれた状況でしか物事を考えることはできない。どんなにメタ認識が優れた人でも、限界があるだろう。しかしいざ実際にそうではない状況に身を置いてみると、考え方というのはおもしろいほど変わるものなのである。
 だからこのいつもこうであったらな、という環境に一度身を置いてみる、それをフィクションとしてでもやってみるということは、我々を思考停止から救い、更に次の段階へとアウフヘーベンさせるような機能を持っているといっていいだろう。
 中盤から終盤にかえては、戦闘場面になる。そうして、最後はふたたび家族の問題に帰結するのである。家に帰ったらイルカ先生がいる(どうやってはいったんだ!!)というオチによって、すべてが完結するわけである。サンドイッチ構造になっていて構造もはっきりしていて、わかりやすい作品だと思う。サンドイッチの中身にやや、私は苦手意識を持ったが、それも決定的な弱点ということはできないだろう。
 ナルト映画のなかでもまとまっていてよかったのではないかと思う。次作で最後になってしまうのかと思うと、だいぶさびしい思いである。

名探偵コナン 異次元の狙撃手 感想とレビュー

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 コナンの映画18作目となる『異次元の狙撃手』鑑賞。
 もはや謎解きというよりかは、スナイパー同士の戦いといっていい。戦争映画になってしまっているような気もするが、ひとつのテーマでこれだけやってきたコナンにそんなケチをつけてはいけないだろう。
 東京スカイツリーとそっくりな建物が本作では、東京ベルツリータワーということになって、またまたアニメではよくありがちな、超大金持ちキャラ、その子の、鈴木財閥の建物ということになっている。
 コナンを久しぶりに見て思ったことであるが、アニメーションは必然読者、視聴者が低年齢層になりがちなため、主人公たちも低年齢層にならざるをえない。別に大人を描いてもいいはずなのだが、そこはアニめ製作者たちもアニメ=子どもという呪縛から抜け出せていないのかもしれない。で、何が言いたいのかというと、子供たちが主人公になると、その子供たちを活躍させるためには、できるかぎり子供たちを束縛する存在を排除しなければならないということになる。そのため、多くのアニメには親という存在が欠如しているのである。
 しかも、内田樹等が指摘しているように、現代資本主義においては、子供は貨幣というシステムを通して大人と対等にわたりあえるようになっている。とすると、その体質というのは、貨幣というシステムがなくても、通用しつつあるように思われる。すなわち、このアニメでは、一応コナンや灰原等は大人、というくくりに入るが、子供化して子供と同一となっている彼等は、この物語のなかでは子供に徹していなければならないのにもかかわらず、FBIのジョディ先生等と対等に渡り合っているのである。
 もちろん、FBIのジョディ先生たちはコナンの正体をすでに知っている、という認識なのだろうが、子供目には、子供の仲間であるはずのコナンが、なぜかはわからないが大人たちと対等に渡り合っていて、しかもそれが恰好良いという、万能感を与えかねない。実際一回の高校生である工藤新一にしても、FBIの特務警官たちと対等に渡り合えるはずもなく、よくある戦闘アニメで、どんどん敵が強くなっていって、しまいには国家や、世界規模の戦いになってしまうごとくに、コナンもまた、身辺の探偵ごっこではすまずに、個か規模の謎に高校生が介入するという、きわめて変質的な作品になってきてしまっている。

 もちろん、このような作品にそうした現実世界のリアリズムを持ち込むのはご法度だろう。これは、こういう世界観なのだということを承認したうえで楽しまなければならない作品と言えよう。
 今回は、警察やFBIが然程無能には描かれない。一昔前のコナンは、このFBIの有能な警官たちが出てくる前ということだが、そのころはコナンが全て解決していた。しかしそれではあまりにも無理があろう。この作品では、最終的なことはFBIの警官が行っているということもあって、リアリズムでは計り知れない作品ではあるけれども、作品崩壊のようなコナンだけが活躍するという作品ではなくなっている。
 そのぶん、コナンの謎解きがほとんどなかったというのは、この作品の欠点かもしれない。が、コナンが解決しなくとも、徐々に謎が明かされていくという作品構造を持つので、観客は作品に身を任されていればいいのである。
 私は推理力もないし、こうしたミステリーものに特有のルールらしきものもよくわからない。なので、自慢ではないが、コナンの謎解きは一度たりとも当たった試しはない。反面、私はコナンの謎解きは、ミステリー好きでも解けないような、難解、というよりかは、めちゃめちゃ、なものだと思っているのだが、どうだろうか。

 今回はタイトルにある通り、スタイパー同士が戦う、というそれだけに限る映画になっている。その点で、手に汗握るような緊張感も少しはあり、成功していると言えよう。
 かつて私は京都が舞台だったコナンの映画が一番面白かったように記憶しているが、今回も舞台をきちんと設定しており、その点ではご当地映画とも言えるだろう。今回の舞台は東京浅草である。東京bルツリーなるタワーが登場したあたりからあの下町が舞台だということは分かっていたが、エンディングで流れるその舞台となった場所の実際の映像を見せることによって、作品に極めてたかいレベルのリアリズムを付与させることに成功している。これはちょっと卑怯な技と言えるかもしれない。
 コナンはリアリズムではありえない設定なのにもかかわらず、なぜかリアリズムであるかのように描き、そして多くの観客を騙し得ているという点で成功している、きわめて不思議な映画である。特に作品のリアリズムを支えているのは、こうした舞台となった建物の描写を写実主義のように描写することや、登場する車を現実のものと一緒にすると言った工夫である。私は車が好きなので、車の型をよく覚えている。このアニメに登場する車はことごとく現実にあるもので、そのために、車の外見を見れば大抵の年代を私は特定できるのであるが、その車を忠実に模写していてくれるかぎり、コナンの映画がいったいいつごろのものかということは、即座にわかってしまうのである。
 ただ、欠点もある。そのように年代とともに大きく変容する車をリアリズムのためとはいえ作中にもちこんだために、永劫回帰的な時間軸のない作品に現実の時間軸が挿入されてしまったということだ。コナンはきくところによると、連載十何年をつづけていて、作中の時間はまだ一年も経過していないようである。にもかかわらず、このように車を描写することによって、やはり十年前の映画と、今年の映画とでは、かなり作中の時間、年代の描かれ方が異なってしまうのである。
 ドラえもんやクレヨンしんちゃん、サザエさんなどがこれだけロングランで作品をつくりつづけておきながら、なんとか崩壊の憂き目を逃れて来たのは時代に迎合しなかったからということが大きい。クレヨンしんちゃんの場合は時事ネタをいれてきたりするので、2、3年経った後に見てわかるかどうかという問題が残らないではないが、少なくともスマホ等々を作中に出しはしない。ところがこの作品ではスマホが平気ででてくるのである。あと十年経ったとき、やはりスマホは過去の遺物になっているであろうから、こうした時代性に耐えられるかどうかという点ではやや怪しい側面が残る。

 それにしても、もはやアメリカの軍の事情を持ち込まれてしまっては、コナンたちの活躍する場がなくなってはこないかと心配せずにはいられない。ことがあまりにも大きすぎるような気がするのだ。もう少しミニマムな謎くらいにしておいたほうが私としても安心して見られるのだが。
 それにいくらコナンが名探偵だからといって、今作ではあまりにも命の危機に晒されすぎている。世良と呼ばれる謎の探偵少女がいなければコナンは死んでいたわけで、そこまで命の危険にさらされていながら、なにが名探偵だと突っ込まずにはいられない。本当に名探偵なら、自分の命を危機にさらすことなく探偵してみろといいたいのだが・・・。

劇場版『文学少女』 感想とレビュー

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 以前から耳にしていた「文学少女」の劇場版を鑑賞した。
 私は文学部に所属しているので、周りの友人たちがたまにこの作品に言及することがあるのである。「文学少女」の原作はライトノベルらしいが、そこでは太宰治の『人間失格』についての解釈が描かれて居たりと、なかなか本格的な、さすがにタイトルに「文学」と名を冠するだけの研究はしているらしい、というのである。私も近現代文学が専門なので、これは捨て置けないと思っていたのだが、とっかかりがなかった。今回たまたま劇場版を見ることになった。
 劇場版を見て、おそらくこれはアニメ版の総集編だろうと感じた。やや話が飛び飛びになっているところがあり、わかりづらい部分もあった。えてしてアニメの総集編はこのような形になりやすいものである。
 だが、総集編というのは、全てがわかるわけではないが、エッセンスが分かるという点においては、作品の入門として優れた形態である。
 どのような作品なのか全く知らなかった私にとってはいい入門になった。

 この物語をどのように分析するか。
 私はあまりラノベに詳しくないので、そういうのに詳しい人間からすると、なってないと怒られそうであるが・・・。例えば私の狭い知識の中で言えば、『涼宮ハルヒ』に似ているなと感じる部分がいくつかあった。
 もちろん厳密には違うのだが、例えば、主人公は男性なのだけれど、キャラクターとして立っているのは、ヒロインの側なのである。『涼宮ハルヒ』は、男性主人公はもはや語り手と同じレベルに存在していて、実質の主人公は女性ヒロイン、涼宮ハルヒなのである。もちろんこの作品では、中盤から男性主人公、井上心葉がキャラクターとして重要性を帯びてくるが、それまではどちらかといえば引っ込み思案で、主人公の地位は、専ら天野遠子という「文学少女」に任されることとなる。
この遠子先輩というのはすごい。涼宮ハルヒの登場も、ラノベ界やサブカル界を震撼させたことだろうが、この遠子先輩というのは、これまで誰も考えもしなかった、文学を食べるという特殊なモチーフを持ったキャラクターなのである。もはやそれだけで中盤までは、押し切っているといった感じがしなくもない。小説をちぎって食べる。現実的に考えたら絶対にあり得ない話である。
 私も小さいころ紙を食べてみたことがあるが、とても呑み込めるものではない。
 この物語のヒロインはそのような特殊なキャラクターなのである。中盤まではその圧倒的なまでの個性で、なんとか押し切ってしまえるだけの力がある。

 この作品が素晴らしいのは、そのような個性的なキャラクターに振り回されずに、最終的にはきちんとした落としどころに持っていくというところである。
 この作品は井上心葉のトラウマが物語りの最深部にある。すべてはそれの上で回転しているのである。そのトラウマは最初語られない。徐々に謎が出て、それを解き明かしているうちに、また謎が出てきて、そうしてどんどん中心に迫っていくような物語の展開の仕方になっている。

 ややヒーローとしては情けない主人公である。これも私がよく考えているところの、ヒーロー像の変容というところで、実に21世紀的といえるだろう。
 私がよく言っているのは、例えば70,80年代のロボットアニメでは男性主人公はオラオラ系で正義に燃えていた。それが、ガンダムによって悩む主人公になり、涼宮ハルヒによって、戦わない男性主人公になったのである。自分から積極的行動を起こさなくなったここ00年代、10年代の流れのなかに、この作品も入るといえば入るのである。
 それでも、この心葉が涼宮ハルヒや、氷菓の男性主人公と異なる点は、いわゆるヤンデレの朝倉美羽を懸命に介護するところである。他の作品の男性主人公であれば、病院にいくので煩悶するところである。もちろんこの主人公も病院にいくのかいかないのかというところで大分悩んでいるようではあるが、それを忘れさせるくらい、献身的な介護をするのだ。これはかなり特殊な例かもしれない。あるいはこれからのヒーローは女性に戦いを委ね、自分達は戦わなくなったかわりに、このように献身的な者が出てくるのかもしれない。これは一種のヒーロー像の変容として十分注目に値する。

 何よりもすごいなと思ったのが、朝倉美羽である。なかなかアニメやラノベでここまで精神的に病んでいる人物を描写しきれた作品はないのではないだろうか。もちろん、エヴァンゲリオンのアスカに始まって、精神的にもろい少女というのは、系譜として存在している。
 アスカの描き方もかなりのものだった。あれは天才庵野がやったことだからである。
 が、この朝倉美羽もアスカに優るとも劣らない素晴らしい描写がなされている。

 ただ、このような精神的に病んでいる少女が回復するのはそう簡単なことではない。
 この作品では2時間という時間的に制約された作品でもあるので、天野遠子の「ことば」の力によって、美羽は簡単に回復してしまう。時間にしたら30分くらいの間で回復しなければならないことになる。これはやはりやや難があった。こういうものは、二年や三年ではなおりようのないものなのである。それは難しい問題ではある。二時間で納めることができない問題を扱ってしまったのが悪いといえばそうだが、それではなんの批評にもならない。では回復させなければよかったのかというと、そうするとあまりにも作品が重くなってしまう。この作品が、これだけ精神的に病んだ少女を描いていながら視聴者の鑑賞に堪えるのは、最後に救いがあるからである。美羽が回復していく、そのことによって、心葉が解放されていく。この救いがなければこの作品はとても重くて見られたものではないであろう。
 何にせよ、ここはやや難しいところではあったと言っておこう。

 作品全体としては非常に高く評価できる作品ではないかと思う。
 話しの展開もなるほどと思わせるようなものであったし、最初楽観的な作品なのかと思ったら、近年にはないくらいの本格的にシリアスな作品であり、内容がしっかりとつまっていたという感じがした。
 男性主人公もただ何もしない無気力な近年のヒーロー像からの展望も見え、魅力ある作品であった。
 だが、やはり文学をやるものとして、文学の本領は文字の世界である。きっとライトノベルの原作ではさらに味わい深い、映像では表現できないような表現がなされているのではないかと期待し、そちらも読んでみたいと思う。

銀河鉄道999 エターナル・ファンタジー 感想とレビュー

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 〈1996年より再開された漫画の「エターナル編」を映像化。1998年の春休み映画で東映アニメフェア扱いではない。東映動画創業40周年記念のファン投票で1位を得た『長靴をはいた猫』(1969年)[36]のニュープリント版との同時上映の形で公開された54分の中編作品。
  「999の年」ということから翌1999年に完結編となる2時間超の長編が予定されており、ストーリー的には導入部のみで完結していない[37]。ポスターや前売券では専ら本作主体のデザインの隅に旧作の「長猫」の紹介が配置された程度にもかかわらず、旧作の「長猫」約80分に対して、新作の本作が54分とOVA程度の時間尺であり、原作のエピソードが削られたり、もっと後の物語が含まれたりしていた。東映の直営館には上映終了後に多数の苦情が寄せられ[38]、東映側が目標としていた配給収入7億円に及ばない約2億円の興行結果により、1999年公開予定の完結編は製作中止となる[39]。
当作は「エターナル編」を下敷きにアニメ化しており、従ってテレビアニメ版とも映画前2作とも違った設定の部分がある。 部分的に前2作の映画版やアニメ版の設定がなされていることがあるが、基本的に「原作アンドロメダ編」の設定を引き継いでいる。鉄郎の容姿が劇場版として初めて原作と同じものになっている。テレビ版や初期映画2部作からスタッフは一新されたが、メーテル、鉄郎、車掌の3名はこれまでと同じ担当声優が17年振りに再登板している。再登場となるキャラクターではクレアが皆口裕子、ハーロックが山寺宏一に変更されており、この作品が初登場となるメタノイドの女戦士ヘルマザリア(地獄の聖母騎士)は榊原良子、電子妖精カノンは戸田恵子が担当している。
 本作の公開に併せ、1997年10月10日から1998年にかけてニッポン放送の『岩男潤子と荘口彰久のスーパーアニメガヒットTOP10』内とABCラジオで「原作アンドロメダ編」と「エターナル編」の冒頭エピソードを基にした全18話のラジオドラマが放送された。回想シーンに出てくるプロメシュームの姿は原作のものとなっている。
 『999』シリーズでは初の、全編デジタル彩色で制作され、999号は3DCGで描かれている。翌年の完結編で「ヤマト」の登場が予定されていたため、本編エンディング直前のカットに後ろ姿で登場している。〉
ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E6%B2%B3%E9%89%84%E9%81%93999_(%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1)#.E9.8A.80.E6.B2.B3.E9.89.84.E9.81.93999_.E3.82.A8.E3.82.BF.E3.83.BC.E3.83.8A.E3.83.AB.E3.83.BB.E3.83.95.E3.82.A1.E3.83.B3.E3.82.BF.E3.82.B8.E3.83.BC


 999を網羅的に見ていないので、断片化された作品を見る際には、どうしてもWikipediaを参照しなければならない。私もWikipediaのこういう記事を書けるレベルにはなりたいけれども、私の能力ではそれはできそうにない。

 基本構造は変わらない。
 安全といわれているはずの999が、ちっとも安全でなく。敵の侵入どころか、破壊まで引き起こさせているのである。
今回の設定はよくわからないが、鉄郎が地球で一年間過ごしていたというものであるらしい。アニメ版の旅を終えて、地球で一年暮らしていた鉄郎。しかし、新しい支配者によって、鉄郎は監禁、拷問されてしまう。彼をその拷問の間に救っていたという少女は、おそらく見せしめのために冷凍されてしまったのであろう。
 メーテルはそんな状況の鉄郎を救う。そこから物語は始まるのである。
 今回の敵はメタノイド。地球を支配しているのは、この末端の手下である。
 聖母騎士、ヘルモザイア。毎回999を見ていて思うのは、敵がかっこいいということである。

 999はかなり政治的な問題を含んだ社会派の作品であろう。
 今回のみに限って言えば、やはり地球の自然と文明というところに焦点があてられようか。ホタルの輪っかの星?というところに行くが、ここではほたるがまだ沢山生息しているのである。
 そして鉄郎の口からは、ここはまだ僕が小さかったことの地球にそっくりだというのである。それに対して現在の地球は人工物によって、自然はなくなってしまっている。
 ほたるというのは本当にすぐに居なくなってしまい、それを復活させるのはむずかしいらしい。
 かなり自然な状況に近くないとほたるというのはいなくなってしまう。だからこそ、自然の象徴であり、また文明批評の意味も込めて、ほたるの星を登場させたのであろう。
 それをメタノイドが破壊してしまうところもまた、批判的である。いわばそうした自然の星を科学の力によって崩壊させてしまったということになるからだ。だが、さらに批判的であるのは、そうした科学の力をほこつていた地球も、メタノイドといわれる種族たちによって、有機体は嫌だからという理由で破壊させられてしまうのである。確かに自然を人工物によって駆逐した私達人類は、有機物を無機物で上塗りしたといえよう。だが、ここに決定的な過ちがあったのは、その無機物で塗りつぶしたはずの人間が、無機物ではなくて、有機物だったということだ。だから、最終的には、メタノイドという有機物ではない、無機物の存在によって、地球も崩壊させられてしまうのである。

銀河鉄道999・永遠の旅人エメラルダス 感想とレビュー

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 銀河鉄道はただでさえ話数が多い。アニメ版で100話。さらにそれに足して、テレビスペシャルや映画版など、ガンダムとまではいかないまでも、かなり数多くの作品がある。
 今回の「永遠の旅人エメラルダス」はテレビスペシャル作品である。

 アニメは最初見ていたのだが、四十話あたりで断念してしまった経験がある。全部を見ていない人間が言ってはいけないことかもしれないが、銀河鉄道は、それぞれ話が完結しており、ショートショートの形式で話が展開していることからも、主要な話を押えておけばいいのではないかと感じてしまう。

 さて、今回であるが、今回は、なんと安全を唄われた999が海賊に襲われてしまう。安全といっても、アニメを四十話見ている程度でも何度か泊まったり、襲われたりしていたような気もするので、そんなに大したものではないのかもしれない。わざわざ今回は、走行列車、それ自体が意志を持っている戦闘ロボット化した列車をつけたにもかかわらず、あっけなく、エメラルダスの戦艦にやられてしまう。
 そもそもなぜ汽車と戦艦が戦っているのかというのも謎と言えば謎なのだが・・・。
 
 エメラルダスというのは、宇宙海賊である。キャプテンはーロックの女版とでも形容できよう。
 この世界では珍しく、生身の身体を持った人間として登場する。
 彼女は勇気を第一となす。戦闘を生身の身体で行い、部下たちよりもまえに、最前線で戦う女騎士である。海賊というよりは騎士にちかいかもしれない。彼女はいつも自分の勇気を試しているのである。
義賊ともいえるかもしれない。

 そんな勇敢なエメラルダスであるが、実は彼女とメーテルはかつて戦ったことがあった。
 相変わらず笑ってしまうのだが、メーテルにどんどん過去を付けくわえていく松本零士の作風には、またかよ、と思わずにはいられない。メーテルどれだけすごいんだよ。どれだけ過去を持っているんだよと笑ってしまう。まあ、メーテルは謎の多い女性という、男性から見た理想の女性像の典型例だから、なんでもできていいわけである。全部男性の妄想の産物なわけなのであるが。
 で、今回はというと、メーテルは世界に名をはせる海賊エメラルダス、その最強の剣と互角にやり合えるだけの剣術を持っているというのである。やれやれ。

 今回999が襲われたのはなぜか。その理由は最後に明かされる。実は999を襲ったのはエメラルダス本人ではなく、彼女が自分の代理として使用していたロボットのせいだというのである。このロボットが、おそらく自分の意志のようなものを持ったのであろう。メーテルの身体を手に入れて、本物のエメラルダスになり替わろうとしたのである。
 エメラルダスは、生身の身体を持っているため、長く生きることはできない。この999の世界においては、人々はみな数百年、数千年のレベルで生きているから、私達の感覚とはかなり離れている。エメラルダスはそんななか、我々人間と同じ時間の感覚を持っている人物である。
 エメラルダスは病に侵されているらしい。これもまたなんともこの物語の上手い所である。
 最後には、メーテルは病死しようとしているエメラルダスと自分を比較して、エメラルダスが羨ましいというのである。彼女は自分の運命を自由に生きることができる。そして何よりも死ぬことができるというのである。それに比べて自分はこの999のレールを乗っているだけ。死ぬことも許されない。
メーテルの謎がまたひとつ深まる作品である。
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