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『キャッチャー・イン・ザ・ライ』 (ライ麦畑でつかまえて) 読後メモ 感想とレビュー

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 村上春樹は好きだけど嫌いだ。この屈折した村上への愛憎が僕を理解する手掛かりになるかもしれない。もし君が僕を理解したいとしたら、だけど。と、村上春樹っぽく書いてみる(笑)。
 村上春樹は好きだ。特に『風の歌を聴け』や『ダンス・ダンス・ダンス』なんかは、僕が一番好きな春樹の小説である。だが、春樹自身や、いわゆるハルキストと言われるやつらのことは僕は嫌いだ。村上春樹自身においては、あの嘘つきっぷりがなんとも嫌だ。まったく誠実でない。私は誠実なタイプの人間なのだろう。だから、彼のあのひょうひょうとした生き方というか、そういう主人公を書き続けることが嫌いだ。その主人公が嫌いであるということは言わずもがなであるが。
 で、何がきらかというと、春樹の翻訳ほど嫌いなものはない。一度小説では有名な『グレートギャッツビー』を村上春樹訳で読んだことがある。一体何が悪かったのかさっぱりわからなかったが、一度読んだだけで頭に入ったのはほんのわずかもなかった。おそろしいことに、まったく頭に何にも入ってこなかったのだ。私はギャッツビーを春樹訳で読んだ時に、これはもともとの小説が悪いのか、あるいは翻訳者が悪いのかわからなかった。今でもそれは謎につつまれているが、おそらくあの小説は何人かの翻訳者が翻訳をしている。他の本で読んだ方がもう少し頭に入ってくるのだろうと思う。それ以来、春樹の翻訳は本当に嫌いになった。たった一冊しか読んでいないのだけれど。
 だけど、例えば『おおきな木』という絵本界では有名な本があるけれども、それをまつわる逸話が僕は好きだ。この本は、ある小さな出版社が版権を有していたのだけれども、その会社がつぶれるということになり、版権が別の会社に移った。それまでの『おおきな木』は素朴な翻訳により、多くの子供たちに愛されていた。ところが、版権を有したその会社は、新しい翻訳者に村上春樹を起用。あたらしい『おおきな木』が誕生した。で、無名の翻訳者が翻訳した『おおきな木』と、ビッグネームが翻訳した『おおきな木』、どちらが売れたのかというと、前者なのだ。昔の『おおきな木』は、だ、である調で、文体が途切れている。そのぶん、余韻が残るような絵本になっていた。それに対して春樹の訳は、すべてです、ます体。これでは、文章が途切れてしまう。余韻が残らないのだ。
 だから、翻訳者がビッグネームだからといって、かならずしもいい作品だとは限らない。特に英語などの諸外国語が苦手な日本人にとって、翻訳本は決して小さくない意味を持つものである。きちんとした翻訳と、それを選ぶ目を有していなければならない。

 さて、今回のキャッチャー・イン・ザ・ライ。もちろんあの有名なJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』である。春樹の訳では、『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルはなく、英語をカタカナに起こした「キャッチャー・イン・ザ・ライ」という言葉が書かれている。
 以前から読もうと思っていたのだが、なかなか手が出なかった。春樹訳で手ひどい傷を負ったことがあるからかもしれない。だが、今月、私は攻殻機動隊を集中的に見ることがあった。そこでなんとこの『ライ麦畑でつかまえて』が登場したのである。作中の言葉が引用され、攻殻機動隊のストーリーを読み解くキーになっていた。そんなこともあって、ここは読んでおかなければなるまいと思って手に取った。
 春樹訳に悪いイメージのある私だったが、この本は素直に読めた。やはり前回のは事故だったのかもしれない。

 内容だが、一体なんなのかよくわからない。翻訳の文章はどうしてもいまひとつ信用が置けないのだ。僕が疑り深い性格だからかもしれない。なんだかモヤがかかっているように思われてしまうのである。日本語で書かれたものであれば、私は日本語を母語としている人間だから、その裏まで読むことができる。
 例えばこの言葉は、あの言葉の伏線になっているんだ、なんていうことも理解できる。だが、翻訳本ではそうはいかない。どうしたって翻訳者の限界を通しているのである。もしかしたら、原文ではこことあそこが言葉の響きなどによって影響関係にあったのかもしれないが、翻訳を通したことによって見えなくなってしまっているのかもしれない。そんな不安がどうしてもつきまとってしまう。
 だからかわからないが、内容がいまひとつ掴めないのだ。何を書いているのかがよくわからない。もちろん内容は前回と異なり、非常によくわかる。文章の意味が頭にはいってくる。だが、全体を見た時に、いったいこれはなんの小説だ?何を語りたかったのだ?ということは、よくわからないのである。おそらくこれは英語が母語である人が読んでもそうなのではないかなとは思うのだが・・・。
 内容も上手く要約できない。ホールディンという主人公が、この人物はこの物語の書き手でもあるわけだが、ずっと自分語りをするわけだ。書いているのは17歳の時。そこから数か月前の16歳の時のクリスマス前後に起こったことを一生懸命書いているわけだ。誰に向かって書いているのかというのはわからない。ただ「君」とだけ表記される。であるから、この小説は珍しい「二人称小説」と言えるかもしれない。
 通常「私は」という一人称小説と、いわゆる「神の視点」というものを持った三人称小説が小説の主流だ。「君よ」と呼びかける二人称小説はかなり数が少ない。もちろん、多くの場合は「僕」が主語になっていることは間違いない。だから書き方としては一人称小説であることは確かだ。だけれども、その小説が「君」に向けて書かれている点で、本質的に二人称小説なのである。

 で、何が書かれているのかというと、ただひたすら彼の嫌悪するものを陳列しただけといった感じがある。ホールディンはやや変わった人物で、いろいろなものに対して異様なほどの嫌悪感を持つ。はなもちならない人間というのが僕にも沢山いるが、このホールディンは、僕にさらに輪をかけていろいろなものが嫌いな人間なのだ。
 最初はおもしろく、そうだよな、こういうインチキなやつらって腹立たしいよなと読んでいたのだが、次第にそれがあまりにもしつこいように感じられてきて、最後のあたりまで読み進めると、なかなかこのホールディンへ感情移入することが難しくなってきてしまった。
 まったく理解できないような場面で腹を立てて、どうしようもなくなってしまうような行動に出る。そういう部分にはいささか共感しかねた、というほかない。

 何がいいたかったのかわからないのはこの点にある。ただずっと、どうしようもなくなって飛び出した学校から、さまざまな場所であったもろもろの事に対して、ホールディンが嫌悪の示度とでもいうような測りで、嫌悪度数を計測していくというような話なのだ。彼が一体どんなものを嫌うのかということは、この本を一冊読めば大体傾向がわかってくるが、それでなんなのだ?という話なのだ。
 時に彼は上機嫌になる時がある。それがなぜなのかも、彼がなぜいらついたり、嫌に思ったりするのと同じくらいに意味がわからない。例えば、シスターへ突然、彼にしてはとびきりの好感を持ったりするわけであるが、なぜなのかがわからない。妹が登場する場面では、たんなるシスコンかと思わせるほど、ホールディンにしては異常な愛情を垣間見ることができる。が、それもこれもすべて、で、なんなのだ?という問題だ。

 私はこの小説が「君」という人物に向けて書かれたものであるという小説の構造が重要だと思っている。では、なぜこのホールディンは「君」に対してこの、どれだけ前かわからないが一年以内に起こった出来事を、自分の嫌悪の尺度でもって語りなおすのか?ということだ。なぜ語らなければならなかったのか?という問いと、なぜその語る相手が「君」でなければならなかったのか?というのが、語りの謎である。そしてその「君」が誰なのか?というのも一つの大きな謎である。

 仮説を立ててもいいが、なんだかチープだ。きっとこの小説には、私のような素朴な感想を抱いた研究者たちが、たくさん解釈を打ち立てていることだろう。謎解き本もいっぱいあるようだ。いずれそれを読んでみるかもしれないが、今は特にそれを読みたいほどこの小説に魅力を感じてはいない。
 ただ私のチープな発想を述べるとすれば、ホールディンはよくわからないところで、気絶をしたり、体調不良を訴えている。小説を読む際のルール、「小説に書かれている言葉で必要のないものはない」。もしほんとうに何かを描写するとしたら、例えば教室を描写するとしたら、その壁の染みひとつひとつまで言及しなければならないはずだ。しかし実際にはそのようにはなっていない。つまり取捨選択されているのである。とすると、小説に書かれていることばは選ばれて残った言葉であるから、そこに必要のないことはかかれていないという論理だ。
 このルールに従えば、彼の体調不良が大きな意味を持つのではないかと私は考える。
 つまり、ホールディンはこれを書いている時点で、そうとうのっぴきならない状況にあるのではないか、というのが僕の仮説だ。後半でなぜか癌という単語が出てくる。ホールディンの妄想癖の一つなのだが、自分は癌なのだと信じている場面がある。これがヒントで、実はホールディンは癌かなにかにかかって、余命があまりないのではないかと思うのだ。
 そして自分が嫌いなものを羅列していくなかで、自分の嫌悪の尺度を鮮明にし、そこから好意を見いだせるものと腑分けをしていく。そのなかで、死や死後の世界、神へと通じるシスターたちへ好意的な感情を抱いたり、自分の大好きな妹に対して、愛情を再認識したりしているのではないだろうか。そんなことが頭に浮かんだ。

 今回は、というか、今回も特にこれといった終わりやまとめがあるわけではない。ただの一読後のメモ程度のことである。が、もしそのメモ程度のものが他の人の読書経験に少しでも役に立てばと思い、自己満足もかなりあるが、ブログに掲載しておくものである。
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ジャッキー映画 『笑拳』 鑑賞メモ 感想とレビュー

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 ジャッキーのカンフー映画が好きなのだが、いまひとつ、どれがどのような作品なのか、自分の中で整理がついていないし、かいつまんでみてしかいないので、ここらへんできちんと鑑賞しておこうと思った、レンタルしはじめた。
 ありがたいことに、このDVDには、他のジャッキーの映画の紹介もあった。そこでは前回に観た『天中拳』の紹介もあり、あの作品とこの作品が全体のなかでどのような位置づけにあるのかわかってきた。この『笑拳』は、ジャッキー初監督作品であり、ジャッキーのカンフー映画の根幹をなすものである。ジャッキーの映画は大別して二つにわけられると感じた。
1つは、この『笑拳』や『天中拳』のように、喜劇的な作品である。これらはもっぱらジャッキーのユーモラスな部分が遺憾なく発揮されている。では、ジャッキーはただおもしろさを追求するだけの人なのかというと、そうではない。ジャッキーの中には二人のジャッキーがいて、おもしろさを追求する一方、かなり深刻な面、シリアスな面をも持っている。『笑拳』は、途中まで喜劇的な作品であったが、おじいさんが殺されてしまうあたりから作風ががらっとかわった。
 ジャッキー映画で殺されるのは、基本的には適役ばかりであり、敵に殺される人々もジャッキーとは直接は関係のない人が多いように感じられる。よく、冒頭で殺されている人たちが描写されるが、彼等はジャッキーとは遠く離れた人物たちであるし、私達観客も、まだそれらの人物に対して感情移入できていないから、さほどその死というのは哀しいものにはならない。ところが、このおじいさんは違う。ジャッキー演じる男の祖父という設定でもあるし、カンフーの達人でもある。よきおじいさんである陳が殺されてしまう場面は、流石につらいものがあった。

 この映画はジャッキーの初監督作品だそうであるが、ここにすでに、山田洋二的な、古典的な枠組みを使用しようとした試みが垣間見られる。敵が登場する。自分の身内や仲間が殺される。復讐を誓う。(ここで実際に復讐を試みてもいい。その場合は力の圧倒的な差を見せつけられることによって、大きな絶望感を味わう)。よく師が見つかる。修行をする。敵を倒す。このような簡単なパターンに分けて考えることができる。
 大同小異この敵に負ける、修行をする、敵を倒す、のパターンを彼の映画はずっと使用することになる。

 こうしたアクション映画というのは、評論しづらい。戦闘についてなんやかやと言えるような知識もないし、私は娯楽映画としてしかこの映画を観ていないし、観られないからである。カンフーに対して何らかの知識があれば、あれはこうで、といった解説も可能かもしれないが、私は文藝批評家なので、この程度のことしかいえない。
 ただ、純粋な疑問として思うのは、ジャッキーは映画での演技を差し引いたとしても、相当の武術の達人なのではないか?ということだ。本当にジャッキーが肉弾戦をしたら、現実世界でも相当強いのではないかと思わせられてしまう。もちろん今となってはもう寄る年波に勝てないとは思うが。
 現実世界では、カンフー映画のように、達人の老人が出てくるわけではない。本当に達人だったとしても、やはり肉体は衰えるもので、映画のようにはいかないだろう。

アオイホノオ 鑑賞メモ 全話解説 感想とレビュー

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第1話「長き戦いのはじまり」
・ドラマ『アオイホノオ』の鑑賞を始める。
・どうしてもこう特定の時間を相手に決められるというのが苦手で、ドラマなど放送している間はみることができない。こちらもきちんと作品と向き合えるコンディションなどもあるから、私はドラマやアニメなどは、すべて終わった後にまとめて見る。というわけで、私の周りでも有名になっていた『アオイホノオ』の鑑賞を始める。
・このドラマは言うまでもなく、ガイナックスがボンズといった、現在ではアニメーション界の大御所となった会社を創立した人々の、青春の時の物語である。現在21歳の私にとっては、これらの人達とは一つ、二つほど世代が隔たってしまっている。知識の量も少ない私がいまさらこの作品を論じるには値しない。なぜなら、わたしよりもよほど彼等のことをマニアックに詳しい人間が、五万といるからである。
・先日アラフォーになるオタクエリートたちと呑む機会があり、そこでこのドラマの話などをしたものだが、やはり彼等とは根本的に次元が異なるということを感じる。彼等が仕事に忙しくなければ、彼等にこの解説を頼みたいくらいである。私がこの作品を解説するには及ばないのであるが、ではそれでも私が鑑賞メモを残すということになると、どういうことを書けば、意味があるのだろうかと考える。知識的な面では彼等には遠く及ばす、庵野秀明は実はこうこうで、あれあれで、と書いたところでしょうがない。それよりも、私ができることを模索しつつ、書いたほうが私のためにも、もしかしたらこのメモを読んでくださる人にも、有益であろう。
・いたずらに「神」などという言葉を出すのははばかられるのだが、現在アラフォーになったオタクエリートの人々にとっては、このドラマに登場する人々は、神的な存在なのだろう。
・このドラマとは関係ないが、現在アラフォーのオタクエリートたちには、次のような傾向があったという。あの作品がいいよね、という一言をつぶやいたとして、即座にその原作は読んだのか、その文庫本、単行本、どちらで読んだのか、その原作者の他の作品も読んだのか、といったつっこみがなされたという。ある意味それは彼等にとっての教養であったわけで、知識に拘泥している、オナニズムであるといってしまえばそれまでではあるが、そうした知識が集団として一部ではあるが、共有されていた時代なのである。そこについていくのはなかなか難しいが、しかし、自分の興味のないことにはめっぽう興味のない時代となってしまった現代に生きる私としては、もう少しそういう教養を強要するような文化が残っていてほしかったものだとも思う。現在アラフォーのオタクエリートたちでさえそうであるのだから、更にその前の、このドラマに登場するようなオタクの元祖、オタキングたちの世代の人間は、さらにその上を行ったのだろう。もちろん、その時には手塚治虫や藤子不二雄やちばてつやや、富野由悠季、松本零士などのさらにその上の世代がいたことは確かであるが、それらの人たちが先駆的にその世界を作ったとすれば、その一つ下の世代である彼等は、その中核を担ったと言えるだろう。

・今回は、最初の回である。しかしこの作品は一応「後に~となった男」であると説明はするものの、多くの一般的な読者はガイナックスを作ったとか、エヴァンゲリオンを作ったと言われても、そうなのか、程度で終わってしまうのではないかとも危惧する。つまりこのドラマは、最初から庵野秀明と言えば、すぐにあの庵野の顔が出てきて、エヴァを作った人間であり、それ以前は宮崎のもとで絵コンテを書いていて、なんていう知識が出てくるような世代を対象に作られたドラマなのではないかと思う。そういうわけで、オタク初心者にはむずかしいドラマなのかもしれない。
・が、一般性というか、普遍性をも持っていることは確かである。1980年代の若者たちの雰囲気を上手くとらえていると思う。といっても私はその当時生まれてもいなかったのだから、本来は語るべきなのではないのだろうが。しかし、私が想像するところの80年代のイメージとそっくりであることは確かだ。髪は今よりも重く、服装も言葉では説明しづらいが、あの世代特有の雰囲気がある。映像もあえてくっきり、はっきりとしたものではなく、どこかすこしかすれた感じの古さを感じさせるような映像になっている。何もしらずにこのドラマをみたならば、一体いつつくったドラマなのかわからなくなるくらいによくできていると思う。かろうじてこのドラマが現代につくられていると私が認識できるのは、私が好きな女優である山本美月が出演しているからである。
・今回は作品が始まったということもあり、大阪芸術大学に入ったばかりの主人公とその周囲を描き始めている。ぱらぱら漫画を描いて提出する課題であったり、映像作品を作って提出する課題だったりと、面白い課題が課される。私も文学部に進んでしまったものの、もとはといえば美術部に所属していてそうした世界へも行きたいなと思っていた人間である。少しは芸術大学の雰囲気というものは知っているし、あの世界がどういう世界なのかもわかっている。そういう私からすると、主人公のあまりにも行き過ぎた態度というのはわからなくもない。もちろん誇張表現ではあるが、芸術に対して何かしらのものを持っている人間というのは、大抵あの主人公であったり、庵野のような感じであることが多い。ということで、私は非常に共感を持ってこの一話目を見ることができた。


第2話「残念な毎日から脱出せよ」
・というかなぜとんこさんが主人公であるモユルの部屋に居座っているのかわからない。このような可愛い人がいつでも近くにいてくれるような青春を私も送って見たかったものである。
・「ルパン」をみて、その作画が宮崎であるかどうかというところを判別できるところが、すでに彼等の非凡振りを示している。
・シャアが出てきたところが流石におもしろい。ガンダムのネタが登場するが、これは現代の私と同世代の若者にはもしかしたら難しいかもしれない。
・サイボーグ009が生放送していた時代というので、この時代がわかる。しかしこれは初期の009ではない。モユルが詳しく解説してくれるが、二期目の作品だ。
・今回は前半で女性との関係が、後半でモユルの方向性がテーマに描かれる。なぜとんこや、ヒロミがこの主人公の近くに来るのかがわからない。ここにきていきなりハードルが高くなったように思われる。このドラマを見ている人たちは、私のように、モテないオタクたちのはずである。当然女性との縁は遠い。にもかかわらず、その現実逃避口、ノスタルジーに浸りたいために見ているこのドラマでは、その主人公がよりにもよって、美女に囲まれているのである。とんこは、どちらかというと、不思議ちゃんキャラクター。先輩の彼女という設定であるが、その先輩は一話目の冒頭で一瞬で存在を消し、あとはまるでとんこの彼女のように振る舞うのである。途中からは二大ヒロインとなるのか、津田ヒロミというかわいい元気系の彼女が登場する。この子は妹キャラ特性も付与され、この主人公の最初のファンと名乗る女性である。
・後半では、モユルがどのような方向性を持って漫画を描いていくのかということがテーマである。ここで彼の漫画の価値をゆさぶる存在として、シャアの恰好をした人物が登場する。彼は年齢的には四年生であるが、留年しつづけたためにまだ一年生だという。漫画で成功しなかったら後がないのだよ、というまったく恰好よくなり存在なのだが、ここは逆エリート発想で、そちらのほうが恰好いいということになり、モユルは彼の前で惨敗する。



第3話「アニメーターへの決定打」
・今回は三回目の課題。コマーシャルを作って来いという課題がモノ語りのモチーフとなってドラマが進展する。しかしなんということか、モユルはヒロミとの半ば同棲生活のようなものにうつつをぬかし、一週間の提出期限までの日数を無駄に浪費してしまう。とうとう行き詰ったモユルは、最終的に「一流のクリエーターは自分で納得したものしかださない。納得できるものを出すのはクリエーターとして未熟だ」という独自の理論を展開し、提出すら放棄してしまう。
・ただ、これは私も完璧主義者だったからよくわかるのであるが、提出しなければ0だ。それに対して、提出すればどんなにひどいものでも、50や60はある。とすれば、提出しないというよりは比べようもないほどに、提出するほうが良いことなのである。
・三話目はあまりおもしろくなかったのかもしれない。私もあまり感想を書きたいという欲求が生まれなかった。

第4話「いざ! 東京出撃」
・タイトル通り、ただ東京に進出する話。特にこれといって論じなければならないことは見いだせない。


第5話「嗚呼、東京」
・重要な指摘がここでなされる。作品を見るときは何かと似ているとかそういうことを気にしていては作品の本質を見失う、というものだ。確かにこれは実に的を得ている。作品を見たい際にこの作品は何々の作品の真似だとか、パクリだという批評は、批評として最悪の部類に属する。それはまったく生産的でない批評だからだ。だからなんなのだ?と言いたい。というよりも、まったく何物にも似ていない作品というものがこの世に存在するのならば、是非見せてほしいと言いたい。この世の中に存在するかぎり、多かれ少なかれ、作品と作品は影響しあっているのであるし、まったく何ものとも関係のない作品というのがもし仮にあったとしたら(この世に存在すぐ限りにおいてそれは論理的に不可能であるが)、それは見たとしてもまったく理解できない作品のはずである。地球上の何物の価値にも属さないということなのであろうから。
・だから作品を見る際には、たとえ見ている最中に何かに似ているなと思ったとして、それをもちろん批評として書いてもいいが、それ以上にだから何なのだということをも書かなければならない。何々と似ている、ここはあの作品のどこどこだという批評は、それだけでは全く意味をなさないのである。

・そしてロッキーを見ている場面でホノオが指摘するのはもう一つ。これもまた重要なことであるが、作家、ものづくりの宿命的なこころの状態であるが、自分がまったく評価されない作品を作っているということが如実になってしまったわけである。そこでホノオは持ち込みなどしなければよかったと泣くのだ。
ここで私は、彼等に対して、しかし持ち込まないよりは持ち込んだほうがよかったのである、と慰めの言葉を持つ。しかし、それが彼等にとって意味のない言葉であることもまた理解できる。私自身もモノを書いたり、それを投稿したりするが、しかしまったく音沙汰がない。だからこんなブログをやって様々な欲求を満たしているのであるが、今私がモユルたちにかけた、やらないよりかはやったほうがよかった、少なくとも0ではなかったという言葉は、自分がもしそういう状況にあったときに、まったく意味を持たないことはあまりにわかりきっている。
・0ではなかったかもしれないが、持ち込みをしてそれを否定されたときの気持ちは、数字で表すとすれば、マイナスの領域に入り込んでいるのである。
・しかし作家はそれでも、自分のなかでマイナスになってしまったものをも含めて、それを抱え込んで、生きていかなければならないのである。創作をする人間が早死にするのは分かる気がする。


第6話「学園か?SFか?」
・ここでこれまで誇張表現でばりばりに固めて来たこの作品が、ホノオに対してとんこの「たまにホノオ君は嘘をついているよ」という一言によって批評性を持ち始めた。こういう作品というのは、そのノリによって、ホノオの言動すべてがゆるされてしまいがちである。だから、ホノオの誇張表現、まったくありもしないのに、賞を獲ったというような嘘が、まかり通ってしまうわけである。そしてその嘘にたいして観客はそれはありえないだろうと思っていても、作品に登場する他の登場人物までもがその嘘を信じて、それに対してそれがバレたときでさえ何も批評しないということが作品をある意味で成立させているのである。ところが、それもずっと続くと、流石に胃もたれをしてくるようなムカムカとした気持ちになる。が、ここで冒頭、いきなりとんこが嘘をついているとホノオを批判することによって、この作品が突然リアリティを有しているように感じられてくるのである。

・特にほかに論じることもないが、この作品では、私の知り得ない、電話がまだまだ一人一台の時代ではないときの描写がされていて勉強になる。あのようなアパートでは、当然ひとり一台というわけにはいかず、廊下に一つ置いてあるだけ。知らない人が取る確率のほうが高い。不便ではあるだろうが、ああいう時代を知っていたかったなとは思う。

第7話「激動の一夜」
・しかしここまで来て、ようやく気が付いたことがあるが、私はこういうタイプのドラマは苦手だ。何が苦手かというと、「若さ」だ。
・もはやこれはドラマの批評ではなく、私自身の私語りになってしまうが・・・。というか岡田斗司夫はこんなことをいっていた。評論とは、その作品をどう読み解くかというのももちろんあるが、それと同じくらいにその評論家を好きになるための仕事であると・・・。まあいい、話しを進めよう。私は人にはよくシニカルで、覚めたところがある人間だと言われる。確かに私はなにか「熱い」ものに対して非常に覚めた視点を有している。もちろん何かに熱中することはあるのだが、「うおおおおお」といった熱中というよりかは、静かで上品な、滾々とした熱さ、情熱が好きだ。私は常に客観的な視点を有していた、そうしていたかったのかもしれない。私が好きなキャラクターと言えば、ハリーポッターではスネイプだし、エヴァンゲリオンでは冬月先生なのである。主人公になりたくてもなれなかった人間、と自分のことをいつも言っている。
・私は「熱さ」と同時に「若さ」というものにたいして批判的だ。というか嫌いだ。若さと熱さを私は今ほぼイコールで結び付けているが、ここでいう若さとは、未熟さや、無知ゆえにできうる冒険、無理故にできる激しい行動などなどである。そして、この主人公であるモユルはまさしくその名前の通り、私の二つの嫌いなものの代表である。モユルというのはその名の通り、炎が燃えているさまを表している。ドラマのタイトルであるアオイホノオというのは、その燃えている炎がまだ未熟であることを指示している。
・ただでさえ未熟で燃え上がっている人間が嫌いなのである。にもかかわらず、彼は自分よりほんのわずかでも相手を下とみると、そんな未熟は許されないと他人に対して厳しい発言をする。教習所では、自分だってまだまだなのにもかかわらず、そこで知り合った女性に対して、仮免は難しいぞと豪語するのである。こういうのを見ていると、昔から日本語に「片腹痛し」という言葉があるように、観ているこちら側が辛い思いをする。
・そもそも私はこのドラマのオープニングで使用されているウルフルズも大嫌いなのだ。


第8話「歴史の幕あけ?」
・岡田斗司夫が出てきておもしろくなった。それまでなかなか退屈であったが、僕が好きな岡田斗司夫が登場したことによって、ややおもしろみが出てきた。あと三話で終わってしまう。そろそろこの何の脈らくもないストーリーをどこかへ執着させなければならいだろう。

第9話「最後の聖戦」
・二年生に進級し、春と秋に行われる3分の映画を発表する会が今回の物語のモチーフ。はじめてモエルが力を入れて作品を作る。
・エンディングでは、この大会で上映された作品の本物と再現とが流される。もはや本物をそのまま流してもよかったのではないかとも思うが・・・。再現VTRは、小嶋陽菜が主演をつとめている。

第10話「見えてきた光」
・このドラマのいいところは、主人公のだめっぷりであったはずだ。ところが、当然といえば当然のことなのだが、このドラマの主人公たちは今現在、かなり成功した人達である。この成功した人達をモデルにしているということは、このドラマに登場する人物たちもそろそろ成功への足掛かりを見付けざるを得ない。
・ところがこのドラマを見ている観客たちはどうしようもない男たちを見ることに安心し、それを求めていたはずである。ところが。このドラマの主人公たちは突然最終話の直前になって、成功への足掛かりを見付けてしまう。とどうなるかというと、観客たちがこのドラマから精神的に離れていかざるを得ないのである。
・しかも、このドラマの二大ヒロインであったとんことヒロミはなりをひそめ、なんということか、小嶋陽菜演じるワンダーマスミがヒロインとして登場してしまう。この主人公のプレイボーイっぷりには観客はついていけない。

第11話「青春とは何だ!?」【最終話】
・岡田斗司夫がなんと手塚治虫の役で登場していた。流石にわらってしまったが、とてもよく似合っていたと思う。私は岡田斗司夫が好きなので、単にそれだけで舞い上がってしまった。

・最終話ということで、いよいよホノオモユルがデビューするわけである。ここでホノオは素直には喜ばない。これが唯一の救いとなっていると私は思う。つまりここでモユルがものすごくバンザーイとなってしまったら、その瞬間に観客は離れてしまう。結局そこで喜んでしまうのかよという温度差が出来てしまうからだ。ところが、この主人公は喜ばない。なぜ喜ばないのかというと、本人はわからないが、代わりに庵野がその答えを教えてくれる。それはデビューした瞬間から、プロとしての責任と不安が襲ってくるからだという。確かにそうなのかもしれない。私も文芸評論や文学でデビューしたいとつねに思っているが、そんなものなのかもしれない。

渋谷昌三『自分がわかる心理学』 読書メモ 感想とレビュー

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 渋谷昌三の『自分がわかる心理学』を読んだ。渋谷昌三と言えば、心理学系の本を沢山出している著名な人である。私は心理学系のことにも興味があるので、Bookoffなどに行った際には、とりあえずタイトルがよさそうなものを買ってきている。渋谷昌三の名はそうした場面でよく目にする。彼の本を私はたぶん読んでいたとして一冊くらい。どんなことを書いているのだろうかと思って読み始めた。
 内容はというと、タイトルの通り、自分がどういうものなのか、を知るための一歩となる内容だった。
 これだけ著名な人であるからもう少し高度な内容を期待していたのだが、比較的入門的な要素が強く、私としてはやや浅かったように感じられる。この本の出版は1993年。なんと私が一歳の時だ。手に入れた本が1999年増刷だったが、ずいぶんきれいな状態だったので、もっと新しい本かと思っていた。自分が生まれた時代がどんな時代だったのかは、完全に知る由がないけれども、1990年前半である、きっと「自分探し」など、世紀末的な雰囲気のなかでさまざまなものが流行していたのだろう。この本は自分ってなんなんだろうという素朴な疑問を持ってしまった一般的な読者に対して記された、いわばきちんとした、怪しくない良書だったのだと思う。

 そのように一般的な読者を対象に書かれているためか、内容は浅い。つい先日『面白いほどよくわかる社会心理学』という心理学の一部分を取り扱った本を読んだが、これと同じ感じだ。今回の本は、自分を知るために有効な心理学の一部、といってもかなり膨大なのだが、それを網羅的に、広く浅く触れた感じの本である。
 紙面も限られているので、ひとつひとつの問題にはほとんど深くは立ち入らない。なぜそうなの?という疑問には答えてはくれないが、こんな分野にこんな研究があるよというのはわかる。全体像を見るためには良い本だろう。
面白い指摘もある。いくつか引用しよう。

 〈眠っている間に深層の願望が目覚め、それが夢になって具体化されます。しかし、このときでも、意識のコントロールがまったくなくなったというわけではありません。だから本当の願望は、自分が思い出しても支障がないように姿を変えた夢になる場合が多くなります。つまり、私たちが思い出す夢は、本当の願望を巧みにカモフラージュしたものということになります。言い換えれば「どうしても思い出せない夢」とは、本当は、「思い出したくない夢」だとも考えられるわけです。逆に、よく覚えている夢は、本当の願望が姿を変えた夢か、あるいは、自分に都合がよい夢である可能性が高いわけです〉
 この指摘などは、なるほどと思ってしまった。ただ、論理的な飛躍というか、そう言い切れるのか?解釈によっては別のことも言えるな、という感じはする。が、それは置いておいたとして、なるほど楽しめる内容ではある。私もフロイトが言ったように夢というのは自分の願望の反映であると、大方思っている。なので、夢は覚えていられる範囲でメモをしている。時には人には言えないが、ああこれが自分の願望なんだなと思うような内容のものもある。が、そうでないものももちろんある。自分が恐れていたことが夢になったりすることもあるので、ここに書かれてあることが全てに当てはまるというわけではない。そんなことを言ったら何も言えなくなるので、私の批判はあまり意味のないことではあるが。

 ストレスの部分では、そういわれれば当たり前だが、このような指摘がなされている。
 〈こうした心理的なストレスは、人間関係を改善しようと考えたり、自分自身の生活態度を変えようとしたり、仕事のやり方を工夫しようとしたりする際のきっかけになるはずです〉
 〈ストレスは、私たちに、「自分の心身が危ない。しかるべき防御をせよ」とのサインを送っています。〉
 言われてみればなんということはない、当たり前のことである。けれども言われるまでなかなかこういう発想に至れない。ストレスは無い方がいいなと思ってしまうものである。人間はよくもわるくもストレスとつきあっていくほかないわけである。ストレスが全くない、ということは、無刺激ということになってしまう。刺激を極端になくした実験があるが、それによると人は徐々に情緒不安定になっていってしまうらしい。ストレスってそもそもなに?ということもあるが、例えば日光に当たることは、こうして今私がキーボードを売っている指先の感覚もストレス(刺激)なのだとしたら、無くすという考えよりも、上手く生きることに着眼した方がこれからの社会、生きて行きやすくなりそうだ。

 こんな面白い研究も紹介されていた。ABCそれぞれの人が30問の問題を解いた。Aは最初15中10問正解してから、あと15問中5問正解。Bは最初15問中5問正解、あと15問中5問正解。Cは30問中あったり間違ったりしながら15問正解。いずれも30問中15問、同じ正解率なのだが、人はこのABCを見た時に異なった評価をするという。ここには〈「ある人についての最初の評価を途中で変えると、他人を評価する自分自身の能力を否定することになる」〉という心理が働いているようだ。すなわち、同じ正解率にもかかわらず、A、C、Bの順で知能の優劣があると人々に思わせてしまうのである。なんだ、こんなことなら最初に全力を出して、おお、こいつはなかなかやるぞと思わせておいた方が、最初手を抜いてあとから頑張るよりいろいろと得かもしれない。
 こうした認識のゆがみというのは、日々私たちが気が付かないなかで起こっていることであり、この程度のことならば話のタネにできるが、しかしこれが会社での成績や、何か選抜する際の指標に影響していたりすることを考えるとぞっとする。それを評価する側がこういう本を読んで、自分の認識のゆがみに気が付けていればいいが、これを読んで知識として知っている私でさえも、こうしたゆがみからは自由になりがたいのである。正確な評価を他人に期待するのは難しいかもしれない。

 この本にはこうした認識のゆがみの問題もいくつか書かれている。
 こういう本を沢山読んでいると、もしかして正しい認識やゆがみのない認識よりも、むしろ歪んだ認識のなかで生きているほうがよりいいことなのではないかと、一週逆転して思えてしまう。少し言葉が足らなくて意味がわからないかもしれないので説明する。
 私は普段から人間はありとあらゆるバイアス(先入観)のなかで生きていると思っている。同じことが人によって見え方が異なってくるのはこのためである。で、私はできるかぎりそうしたバイアスに囚われない、真っ直ぐで純粋な眼でこの世界をありのままに見つめたいと思っている。
 しかしそうしたいと思っている私の思想には、根底としてバイアスに囚われなければ、ありのままの姿が見える、そもそもバイアスに囚われない姿、ありのままの姿があるという仮定のもとになりたっている思想である。しかしもしかしたら、この世の中にはバイアス(仏教では「色))がついた状態でしかモノは存在していないのではないか?バイアスをきれいに完全に取り除いたらその時は何も認識できないのではないか?という素朴な疑問も生じるのである。
 とすると、こうした認識のゆがみは、一般的にはないほうがいい、あるいは注意しなければならないものとして考えられるけれども、むしろそうしたゆがみのなかに生きていた方がより自然なのではないか、よりよいことなのではないか、と思えてきてしまうわけである。
 認識をめぐる冒険には果てしがない。さて、どう考える・・・。




竹宮恵子『地球へ・・・』 感想とレビュー

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 竹宮恵子の『地球へ・・・』を読んだ。この作品を知らない人のために一応念のために書いておくが、「地球へ」は「テラへ」と読む。もちろん漫画である。
 この漫画は1977年に連載が始まり、一躍話題となった。当時はSFは少年漫画の代名詞とも言える存在だったのを、少女漫画でSFを描いて見せたということが、一番読者の目を引いたのだろう。内容もおもしろいと当時の読者には受けたようである。
 私が今回読んだのは、2007年にスクエアエニクスから三巻同時に発売された漫画本である。やはり一応有名どころは押さえておかなければならないという義務心からこの漫画を読んだ。私は以前、数年前に1980年の劇場版を鑑賞している。その時はなるほど確かにすごい作品だという感想を抱いたことは覚えている。が、どんな内容だったのかはぼんやりとしてしまっている。今回は新しい作品を読むような感覚で読ませていただいた。

 まずはこの竹宮恵子神話を解体するところから始めたい。1977年当時にすごかったのはわかる。これが一世を風靡したということもわかる。確かに今読んでもそん色ないし、おもしろいといえばおもしろい部類に入るだろう。だが、この漫画本に収録されている、2005年にアニメ化する際に作成したであろうアニメ監督のヤマサキオサムと、ジョミー役の斎賀みつきという人のインタビュー記事はどうだろうか。あまりにもこの作品がすごいすごいということだけに終始していて、まったく内容のつたわってこない内容空疎な賛美するだけの文章ではないか。
 すごいものは確かにすごいのである。だが、それをまったく批判的な目を持たないで、かつてすごいとおもったからすごい、すごいと言われているからすごい、というようになってしまっては思考停止である。すごいのはわかったが、何がすごいのかをその場合は示す必要がある。そして結論から言えば、確かにすごいとは思うが、同じようなテーマをもって描いていると私が勝手に思っている宮崎駿の『ナウシカ』などと比べれば、確かに時代の先見性はあったかもしれないが、そこまで神のように奉るほどのものではないと思うわけである。

 書籍ならばまよわず線を引いていくのであるが、さすがに自分も絵を描いていたりした時期もあり、マンガに線をどんどん入れられはしない。たとえ入れたとしても黒ではわからないから赤とか青のペンになりそうであるが、余計に心理的に抵抗感がある。ということで気になったところには付箋を貼るようにしているのであるが、この本のテーマや重要な部分は一巻目、二巻目で出尽くしているように付箋の数からみて思われる。三巻目はそれまでに提示されたテーマや謎解きといったところだろう。最終決戦へ向けて話がまとめられていくので、それ以前の部分がこの本の本質をよく表していると言える。

 『愚民社会』という恐ろしいタイトルで一部ネットを騒がせた評論家の大塚英志と、社会学者の宮台真司の共著がある。この本の紹介を兼ねたニコ動で彼らはこんなことを対話している。大塚は世間の人々の底上げをできると思って今まで頑張ってきた。対して宮台は一部の優秀な人間によってよりよい社会をつくろうと頑張ってきた。結局3・11後の人々の動きがあまりにも旧時代的すぎてこの二人は日本人に絶望してしまったようであるが、それはさておき、竹宮恵子は宮台の思想に近いように思われる。俗に言われる選民思想というやつだ。ヒットラーに通じる危険な思想ではあるが、理想主義的な人にこの思想は多いように思われる。かくいう私もこの思想の1人ではあるが。
 彼女は一巻目の巻末インタビューで、「集団としての人間はなかなかいい方向へいかないんじゃないか」とこぼしていて、一部の選民によって地球は導かれるべきであるという感情をわずかではあるが、ここに示している。確かにこの作品には、集団や全体といったものが有能に描かれることは少ない。ビップやエリートといった選民、選ばれた種族だけが注目されている。それのよしあしは別として、竹宮にはそのような思想的なクセがあるということはきちんとまずは指摘し、押えておくべきことであるだろう。それを盲目的にすばらしいすばらしいと言うのはどうなのかと私は思う。

 この作品が書かれた1977年。1970年のほうの学生運動から数えると、竹宮は1950年生まれであるから、学生運動に20歳で出会い、27歳の時にこの作品を描いているということになるから、いろいろと説明しやすくなる。彼女は選民思想に加えて、ややというかかなり左寄りな思想の持ち主であることがわかる。別にそれが悪いといっているわけではない。むしろ私も左寄りの人なので、かなり共感して読んだわけであるが。
 この作品のなかで描かれる重要なテーマとして体制批判というものがある。地球軍のエリートであるキースは、三巻目の冒頭で「人間が介在しない自然ほどバランスのとれたものはない」とこぼしている。あのキースにさえこのように体制批判の言葉を語らせるのである。キースとは相反する存在であり、彼を作品内で相対化してくれたシロエという登場人物はいわずもがな。彼のお蔭でキースは体制に対して批判の目を持つことが出来た。ミュウ側のシンは言うまでもない。彼は最初から地球のマザーとマザーシステム、教育システムが悪いんだと本質をついています。これはもう隠喩とか暗喩とかそういうレベルではなくて、そのままダイレクトにその当時の、それから現代にいたるまでの教育批判や政府批判になっているということができるだろう。そして、当時学生運動を経験した人々や、まだ日本がやや不穏な空気につつまれているなかで幼少期を送った人々にとって、この批判の目というのは、ものすごく実感を持って共感しえたことなのだろうと想像できる。
 これが、1990年代以降に生まれ、バブルもはじけおわったあとに生まれてきた、右下がりの時代しか見ていない私達の世代になるとどうなるか。おそらく私の友人がこの漫画を読んでも、ふ~ん、で終わってしまうと思う。この作品には確かに人類は今のままの古い価値を捨て去り、新しい存在になり得るのだろうか?といったより壮大で普遍的なテーマを扱ってはいる。だが、その前景にあるのは、体制批判や選民思想などである。私はたまたま左寄りの学生だったのでこの漫画に共感をもって読むことが出来たが、左や右ってなに?という世代がこれを読んでも、おそらくピンとこないことだろう。それよりかは、ダイレクトにメッセ―ジを描いている宮崎の『ナウシカ』のほうがわかりやすいだろうと思う。

 この漫画に掲載されているインタビューで、三者とも若者には難しいかもしれないとこぼしているのは、つまり今私が指摘したことなのだと思う。だから、一面ではこの作品は普遍性を獲得しえてはいるけれども、やはり時代に束縛されているというか、いい意味でも悪い意味でも時代から離れられていない部分があることはきちんと押さえておくべきだろう。だからこの作品が手放しにすばらしいと言ったところで、若い読者にはなんで?となるわけである。

 ラストなども、劇場版ではなんとかわずかに希望が残るような終わりになっているが、この漫画では最後は相打ちのような感じで、地球そのものが崩壊してしまうような悲劇で終わっている。
 新しいミュウでさえもまだだめで、さらにその後に何百年、何千年と経ったあとの人類に希望を託しているようなものなのである。そこに辛うじて竹宮は救いを見出したわけである。私は人間はどこまでいってももうどうしようもないくらいに愚かしい生き物だとなかば諦めているが。しかし竹宮の気持ちはわからなくはない。何千年かの後にもしかしたら私達のような愚かしさを乗り越えた人間が登場してくれるのではないかという希望は私にもある。まことにそれを望む限りではあるが、その論理だと私たちは早々に滅びなければならない。

月別鑑賞目録 10月

映像
・『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX  The Laughing Man』
・『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX Individual Eleven』
・『攻殻機動隊 S.A.C. SOLID STATE SOCIETY 』
・ジャッキー映画 『天中拳』
・『笑拳』
・『アップルシード』3DCG
・『ホーホケキョ となりの山田くん』
・『鬼神伝』(2010)
・『アラビアンナイト』(1942)
・『プロジェクトA』(1983)
・『アオイホノオ全話』
・『小さな恋のメロディ』(1971)

書籍
・『生きることのレッスン: 内発するからだ、目覚めるいのち』 竹内敏晴 著 トランスビュー 2007
・『キャッチャー・イン・ザ・ライ』 J.D.サリンジャー [著],村上春樹 訳 白水社 2006
・『生きることも死ぬこともイヤな人のための本』中島義道 著 日本経済新聞社 2005
・『自分がわかる心理学 : 本当の心に気づけばもっと楽しく生きられる』
渋谷昌三/著 PHPエディタ−ズ・グル−プ/編集協力 PHP研究所 1993
・『面白いほどよくわかる社会心理学 : 集団や社会の中で自然に築かれる人間関係の謎を読み解く』
晨永光彦 監修 日本文芸社 2003 (学校で教えない教科書)
・『<私>探しゲーム : 欲望私民社会論』 上野千鶴子 著 筑摩書房 1987
・『アメリカの夜』 阿部和重 著 講談社 1994
・『空想哲学読本 : アニメで読み解く、痛快「哲学入門」』 富増章成 著 宝島社 2003 (宝島社文庫)
・『日本語で書くということ』 水村美苗 著 筑摩書房 2009

マンガ
竹宮恵子『地球へ・・・』(1977)

アニメ
『ぼくらの』(2005)

ゲーム
『ファイナルファンタジー1』(1987)
『テイルズオブザテンペスト』(2006)
『シムシティDS2』(2007)

作ったモノ
・ガンプラ、ジオング
・ガンプラ・ゲルググ
・絵画、F10号「夕景」、P20号「銀河」

行った場所
・千葉工業地帯
・三浦半島城ケ島公園
・ヤビツ峠
・海福雑貨店
・横浜骨董市


総評:10月は体調もやや改善し、多くの作品と触れ合うことができた。
特に卒論を控えているので、セルフハンディキャップが発動し、普段よりも大きな逃避力が発動している。そのために、卒論をやらねばやらねばと思うほど、大きな力でますます読書欲が深まったりするわけである。
ここしばらく創作ができないでいたが、およそ一年半ぶりに、絵画を描くことができた。この作品は11月の文化祭で最も得票が多く、短時間で書いた割にはよい出来となった。

教職インタビューの事前アンケートに答えて

せっかく文章を書いたのでアップしておこうと思いまして。
成績優秀者だからかわからないけれども、来年度の新入生に向けて配布される雑誌の教職コーナーの部分、僕をインタビューさせてくれということで、その事前のアンケートに次のようなことを書きました。

どうせどんなに僕が間違っていることは間違っていると言ったって、記事になるころには当たり障りのないことになっているのでしょうから、僕の本音をこちらにきちんとアップしてもみ消されないようにしておこおうと思います(笑)


内定先(決まっている人のみ)
働かない(そもそも私は大学を出たら就職するもの、という考えそのものが誤っていると考えている)

資格講座名
教職課程(中学・高校国語免許/高校書道/学校図書館司書)

1 なぜこの資格講座をとろうと思ったのですか。
この社会を変えるために一番手っ取り早い方法だと思ったため。
何よりも私は人間の幸せを望んでいる。それに反して現代社会において日本が、そこに住む人々がなんと不幸にあえいでいることか。
私は何よりもまず教育現場から変えていくことが、この社会を変える一番の方法だと思った。例えば二年ほど前、体罰問題が話題になった。あれだけメディアで取り上げられるまで、あのような体罰はまかり通っていたわけである。こんな教育現場で育った人間がどうなるのか。当然「強さ」を強要する人間になるだろう。現代社会では、「強さ」を強要することがまかり通っている。
妊娠をした社員に、ではやめてくれと平気で言い出せるのは、そうした「強さ」を相手に求める社会だからに他ならない。
今年度の四月に問題となった教員が自分の子供のために入学式を欠席する事件。私はむしろあれを事件として取り扱う社会のほうが事件であると考える。公私の問題で、私が大事だということはあまりにも自明のことなのにもかかわらず、公に「滅私奉公」することをよしとしてきたこの社会、価値、それがおかしい。私はむしろ教員は自分の家族のためにもっと積極的に休む必要があるといいたい。それを見た子供たちだからこそ、自分の家族を犠牲にして会社に勤めるような人間でなく、家族を大事にするような人間になると思うからだ。
そうした社会づくりことが人間を不幸から救うのではないか。私の出発点はすべてこの人間の幸福から成り立っている。そのためにも、おかしな価値観を打ち崩す力を新しい、まだ真っ白な目をしている子供たちに示すために教員になりたかった。
なので、この願いが達せられれば、別に教員でなくてもいいわけである。




2 どんなことを学びましたか。
知識面、体験面、認識面の三つ
知識面では、教育心理など、さまざまな教育に関する専門的な知識を学べたことは大きい。教職の勉強は二年、三年時に集中して行うことになるが、この二年間、ほとんどを教育系の知識の勉強に費やせたことは、大きな学びとなったであろう。
体験面では、三つの体験がとにかく重要で、私自身にとって大きな実りがあった。それは、介護等体験(社会福祉施設・特別支援学校)、教育実習の三つである。
介護等体験では、人間の「弱さ」について触れることになる。知的な障害のある子供たちと触れ合う経験は、例えば私たちは「普通」に生活、行動しているが、それが「普通」ではないことを学ぶことになる。中学生にはこれくらい「普通」にできるだろう、という誤った認識は、「強さ」を押し付けるこれまでの教育にほかならない。
また、老人ホームやデイ・ホームでの体験も、人間の「弱さ」を学ぶことに繋がると感じる。このように、「普通」の生活が出来なくなった人々と触れ合うことによって、我々の「普通」あるいは「常識」が突き崩される。
認識面、は体験面と重なるが、このような知識、体験を経て、自分達の「普通」すなわち他人にとっての「強さ」を強要することが、いかに暴力的な行為であるか、という認識が大きな「学び」となるだろう。


3 印象に残った授業はありますか。
 これは恐らく一番大変な授業なので、全てがこんなに大変な授業とは勘違いしないでもらいたいが、毎週本を数冊読んできて、それをまとめ、リポートし、発表する、という授業が印象的だった。
 もちろん、こういう授業が一つだからよかったので、こんな授業が二つも三つもあったら学生は潰れてしまう。が、この授業のために、教育関連の本は半年で二十冊ほどは読んだし、ものすごい勉強になった。

他にもユニークな授業がある。特に本学の豊田教授の授業は、教職と名打っている授業なのにもかかわらず、ずっと職人の手仕事やガンジーの思想などを追うだけの授業であった。学ぼうという意志のない学生にとってはわけのわからない授業だったろうが、実はそれらは全て教育という思想の根底の部分で通じているのである。この授業によって、私の考え方は大分変った。


4 たいへんだったこと、うれしかったことなど教えてください。
たいへんだったこと。とにかくたいへんである。時間をかなり持っていかれるので、大学三年生まで、大学生は遊ぶものという意識がまったくわからなかった。生半可な気持ち、つまり就職に有利だろうから、とか、とりあえずとっておこうという気持ちでは、取らない方がいい。というのは本人のため。遊ぶ時間や自分が好きなことをする時間が奪われてしまうから。
うれしかったことは、やはり教職という職業に本質的にかかわってくるだろうが、生徒たちとの触れ合いである。それはどの体験を通じても言えることだ。知的障害の子供たちと学んだ時には、初めて会ったのにもかかわらず、手を繋いでくれたしたことがとても嬉しかった。デイ・ホームでの体験の時も、利用者の皆さんが私達学生を受けいれてくださったことがとても嬉しかった。
教育実習では言うまでもない。私の担当した生徒たちはみなとても心が善く、私を受け入れてくれた。最後にはサプライズとしてお別れ会も行ってくれたし、そうした心の交流は、たいへんさを乗り越えただけはあったと思わせるものがある。



5 今後の夢を教えてください。
 いろいろとあるが、大きく言えば、よりよい社会にすること。
 具体的な部分で言えば、自分のなかにあるものを表現するために、文藝評論をやりたいと思っている。もちろん教職にも携わっていたい。それは直接的に生徒たちをいい方向へと向かわせることだからである。講師などをしながら、自分の研究をし、それを表現するような生活をすること。そのことによって社会をよりよくしたいと夢見ている。


6 いちばん忙しかった学年・学期
二年、三年はとにかく忙しかった。四年になってから思えば、もう少し四年に取ってもよかったと思わないではない。が、教職課程や学科のガイダンス等では、三年までにすべてを取るのが理想、という型をかなりの「脅し」とともに押し付けられ、結果、多くの学生が二年、三年時に、学科の勉強と教職課程の勉強とで忙殺される。
二年、三年時には、70単位くらい取っていたことになる。全ての課程が終わった今だからこそ言えることだが、もう少し四年で取って分散させてもよかった。お蔭で精神的にも身体的にも非常に疲れることとなった。あのようなガイダンスでの脅しは人間を不幸にするだけだから、早くやめた方がいい。


※一応インタビューする、されるという関係なので、言葉にはけじめをつけておいてください

新しくサイトを作りました!

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 みなさん御久し振りです。
 作品を論じるのがメインとはいえ、そればかりでちっともこういういわゆる普通な記事が最近まったくなかったので、久しぶりに新しいサイトを作ったよ!というお知らせと一緒に、近況報告などをさせていただきます。
 すっかり寒くなってきました。私は村上春樹の『風の歌を聴け』に登場する鼠ではないですが、夏の終わりを感じると、どうしたって寂しくてたまりません。これからあの冬の季節がくるのかと思うと、うら寂しい思いでいっぱいです。どうせ、今年も独りなんだろうなと思うと涙が・・・・・・(笑)
 文化祭の終わりました。なかなか創作意欲がわかなくて困っていました。さまざまな理由があり、その一つに体調が悪いということがありました。最近体調が悪いのをきちんと医者にみせたところ、英語の名前で覚えられなかったのですが、とにかくかくかくしかじかという病気であることが判明し、胃腸と思考とが連動した病気であることがわかりました。病気であることが判明すれば、対処法も判明するということにもなり、今では薬を処方してもらって大分よくなりました。
 また、12月には卒業論文の提出を控えています。みなさんも経験がありませんか?テスト前になると、やたらと普段はしないこと、例えば掃除をしたりしたくなったり、マンガを読み始めてしまったり、読まない本に熱中したり。これ、心理学の世界ではセルフハンディキャップと言うらしいです。何かと言いますと、一種の自己防衛機能らしく、試験で失敗した時のために、自分(セルフ)で、ハンディキャップを設けてしまうというもの。よくプライドの高い人にこれが多く出てきてしまうようです。自分が失敗した時のために、いやいや、私は掃除をしていて勉強する時間がなかったから試験には失敗したのだ、という自分への言い訳を作るためにです。私は昔からセルフハンディキャップの大きな人間で、ということはすなわちものすごくプライドが高いわけなのですけれども(笑)、このハンディキャプにはいつも困らされています。
 体調がよくなってきて、動けるようになったのと、来月に卒論を控えているという状況から、大きなハンディキャップが働きまして、創作意欲が湧いてきました(笑)
 こんなことなら、ずっと卒論があってもらいたいものです(笑)。こうやって何か大きなゴールから逃れている時というのは、それが無い時よりもよほど自分の力が出せるわけなんですよね、困ったことに(笑)。最近はそんなこんなで絵をぱっと二枚ほど描いてしまったり、どんどん読書が進んでしまって困っています(笑)。ただ、本業の卒論はちっとも進んでいない!!!!

 卒論が終わった後、私がどうなるのかというと、ニートになります!
 この四年間さまざまな本を読んだり、体験をしてきたりして私のなかでは、今自分が持っている価値や感覚というのが、どうやら時代によって作り出されているということに気が付きました。前回記事にした岡田斗司夫氏の『ぼくたちは就職しなくてもいいのかもしれない』にも、そうだよなと、私の考えを補強するようなことが書いてありましたが、私は完全に、就職する必要などない!というところまでいってしまいました。そんな私を、馬鹿だなこいつはと思ってみている人がいましたら、どうぞその人はその人なりの価値観で生きていってください、としかいいようがありません。それで幸せならいいと思います。
 ところが私の幸せはそのような価値のなかにはない。むしろ、このみんなが働かなければならないと思っている価値は、人を不幸せにするのではないか?という立場から、その価値をどんどん解体していこうではないか、というのが私の立場なのです。そのためにも、私が率先して、新しい価値を体現していく必要があると思います。
 で、何をするのかというと、本当に働かない(笑)。何年続く変わりません。僕も途中でタクシードライバーをやってみたくなったり、講師をしてみたくなったりすると思いますので、完全に働かないという状況はあまり続かないかもしれませんが、定職につくということはまず、この数年間ではないでしょう。その期間になにをするのかというと、実は私もやりたいことがあり、そこへ向けて多くの作品と触れ合っておきたいというのがあります。
 マンガ、アニメ、小説、評論、映画、主にこの部分にしぼって、これから数年間とにかく作品と当たり続けていく。そんな日々を送りたいと思っています。

 そこで、これからどんどんブログでも評論活動を続けていくつもりなのですけれども、あまりにも様々な分野に手を延ばしてしまっていて、この偏屈文化人のブログがごちゃごちゃになってきたなという感覚を覚えました。
 まずはそこで1つの実験としてなのですが、新書に関する記事だけを集めたブログを新たに開設したいと思います。
 何もいじくっていない、FC2そのままのブログというのは、実はすごく見やすいのですね。そこでアフェリエイト等もやっていきたいなと思っているのですが、私まったくそういう方面がわからずに、このブログもひーひー言いながらやっているものですから、どなたか詳しい方がいらっしゃいましたら、教えていただきたいと思います。具体的にはそのページからそこで扱っている商品を買えるようにしたいのですけれどもね。
 
 これからの数年間で、新書を沢山読んでいこうと思います。もちろん記事はこちらにも掲載するつもりではいますが、ごちゃごちゃしてしまうため、ひとまず新しいブログ「新書 百冊切り!」というブログに新書の記事だけを集めてみようと思います。
http://sinsyohyouron.blog.fc2.com/

非常に見やすくてわかりやすいサイトとなっていますので、こちらのほうもこれから是非よろしくお願いします。



岡田斗司夫FREEex 『僕たちは就職しなくてもいいのかもしれない』感想とレビュー

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 ―岡田斗司夫とは―
 岡田斗司夫といえば、オタキング。知っている人は知っているし、知らない人は知らない人だ。僕はオタキングを知っているのは当たり前の世界に住んでいるので、もしかしたらオタキングのことを知らない人のためにごくごく簡単な、知っている人からしたらどうしようもない紹介を少しだけしておこう。
 オタキングこと岡田斗司夫は、ガイナックスを立ち上げた人。ガイナックスって何?って人には、エヴァンゲリオンを作ったアニメーションの会社だよ!と教えておいてあげよう。そのくらいすごい人なのである。オタクの世界では知らない人はいないくらいの有名な人。ただ、僕の周りにはこの人の名前を挙げても知らないという人ばっかりだったので、世間の常識とやらを懐疑しつつも、自分自身の知識のほうが通用しないのだなということを痛感させられる。
 現在はガイナックスを退社し、フリーで活動している。様々な講演をしたり、執筆活動をしたりと、幅広い、「なになに」という決まった職業名では指し示せない活動をしている。
 ここがミソなのだ。この何をしているのかよくわからない、この働き方こそが、この本の内容にもかかわってくるので重要なところである。

 ―はじめに―
 さて、私のこのブログ記事の役割は、人々と本や作品との出会いのきっかけをつくることと、これ読んでみたけど、他の人はどういうふうに感じるの?評価するの?という二つの役割をもっている(もたせるように努力している)。
 本書のタイトルを見れば、人は「え?」と思うだろう。
 この本がとてもよかったので、友人たちに見せたのであるが、この反応があまりにも印象的だったので、きっと多くの人もこれと同じような反応をするのだろうなと思って筆をすすめてみたい。私の友人がたまたま大学四年生で、就職するということに、神経過敏になっていたことも反応にはかなり影響しているだろう。しかし、きっと多くの「日本人」が、この本を見たら、即座に「そんなのは成功した人だから言えること」「ごくごく少数の特別な人しかできないこと」「就職をしないという考え自体がいやだ」といった反応をすることだろう。私も「働かないでどうするの?フッ」と鼻で笑われてしまった。
 ここで私は、「あ~やっぱりな~」と思う訳である。この本にも書いてあるが、何も「就職」しないことが、「働かない」ことではないのである。つまり、反対から言えば、世の中の多くの人は「就職」すること、すなわち「働くこと」と考えているのである。「働くこと」イコール「就職」と考えているのだ。
 特になんの違和感も感じないだろうか?私は岡田斗司夫のような考えを持っている方であるから、この感覚が不思議に思えてならないのだ。というのは、別にこの本で岡田斗司夫は「働くこと」を否定しているわけではない。むしろ、岡田斗司夫は自分でも「昭和的発想」の人と言っているくらいだから、「働くこと」を肯定しているし、また働かなきゃいけないとも本書で書いてある。岡田斗司夫が言いたいのは、「就職」しなくていいのではないか?ということなのだ。これはどういうことか。

 私たちはついつい自分たちの感覚を疑いません。それが実際にはなんの根拠もないことなのにもかかわらず。
 まず今の「常識」から疑おう。本書ではこう書いてある。

 〈いまの僕たちは、「働く」というのは「どこかの会社に雇われる=就職すること」と自動的に考えています。
 でも人間が働くというのは、必ずしも就職とはかぎらないはずです。(中略)一九五〇年代の日本では、女の人はほとんど就職していません。女の人に就職口があまりなかった時代です。当時の日本の人口は八000万人。そのうち半分が「非・就職人口」だったのです。では残りの四〇〇〇万人の男は就職していたのか?
 定年はいまよりもっと早かったし、子供は就職できない。仕事の大半は「就職」ではなく家の田んぼや畑を耕す「家業」であり、そのほかは「工事の日雇い」「店の手伝い」など、いまで言うアルバイト的な雑用です。
 人口のほとんどが「働いている」けれど「就職していない」。
 じつは日本の人口の四分の一、二〇〇〇万人弱しか当時は「就職」していませんでした。もともと日本人の四分の一しか就職していなかったのに、いまは二十歳くらいになったら全員が大学に行って、全員が「就職しなくちゃ」と考えている。ちょっと異常な国家になってしまいました。
 (中略)「国民が全員、一度は就職を考える」という、かなり特殊で異常な国家であることをまずは念頭に置いてください〉

―自分の常識を疑え―
 私の専門は近現代の文学である。この近現代の文学を読み解く際に、今の感覚を持ち込んだら絶対に読み解くことはできない。例えば、漱石の『それから』という小説に代助が友達である女性に指輪を贈るという場面があるが、当時は現代のように指輪は婚約者に贈るもの、という価値がなかったので、そのような意味で読んでしまうと意味を読み違えてしまうのである。
 こういうことをしている関係から、現在我々が信じているこの感覚や価値といったものに対して、私は大変敏感になっている。私たちが「これが常識だ」と感じた時、いったいそれはいつごろ作り出された感覚なのだろうか、価値なのだろうか?ということを疑う視点を忘れてはいけない。それを忘れて生き続けるのも、ある種の逃避であり、それで生きやすいのならばそれでもかまわないが、多くの場合は人を不幸にする。
 「こうしなければならない」というのは、一体なにによってそう思わされているのか、ということをいったん考え、それに検討を加え、自分が本当に望んでいることを見出していくことは常に必要な行為だと思う。


―本書の内容―
 で、岡田斗司夫は言うのだ。今現在、我々が「就職しなくちゃ」と思い込んでいるのは、ここ数十年、高度経済成長期に作り上げられた価値であるということに。なぜそうなのかというと、それまではそんなに就職している人はいなかった、みんな今で行ったらバイトのような生活をしていたから、というわけである。

 そして、もうすでに、高度経済成長期に作り上げられた、みんなが就職しなければならないというのは、これから右肩下がりの時代においては無理なことで、現状に一致していない。だから多くの学生が就活で苦しい思いをして、なかなか就職できないのだ、と分析するのである。
 岡田斗司夫は、ではどうやってこれから生きていいのか?という問いに対して二つの答えを示している。
 そのひとつめが「愛されニート」というものである。
 本書で挙げられている例では、ある女性がいて、この女性のもとに弟が転がり込んできたという話が紹介される。この女性は家計簿をつけていて、自分一人で暮らしていた時と弟が増えた時を比較して、弟にどのくらいのお金がかかっているのかを計算したという。そしたらおどろいたことに、二万円、だというのである。すなわち、人一人が生きて行こうとすると、十万とか、二十万とかが必要になる。住居費、光熱費、食費、などなどにである。ところが、そこに人一人増えたからといって、二十万が四十万になるということはない。二十万であったならば、そこから二、三万しか増えないというのだ。当然のことである。住居費は増えるわけではないし、食費は増えるにしても、二人分でつくるからかなり無駄がない。光熱費もお風呂を二度炊くわけでもないし、二倍にはならない。
 愛されニートというのは、この姉のところに転がり込んできた弟のことを指すのである。
 漫画家にはメシスタントというスタッフがつくことがあるという。これも愛されニートである。メシスタントとはなんのことかというと、漫画家や漫画家のスタッフたちのメシ、御飯をつくってあげる人のことである。この人は何をしているのかというと、この漫画家さんたちに食べさせてもらいながら、食事の用意をするだけ。後はマンガでも読んでいるという生活をしているというのだ。
 つまりは簡単なことだ。
 これまで一人が一つの家を持つ。一家族につき、家一つ、という価値を捨てようというわけである。
 みんながシェアをしていけば、人一人につきかかるお金はずいぶん減るのであるから、その隙間で生きていくことができるようになる。それが愛されニートであり、より生きやすい社会なのではないか?ということなのである。

 もう一つは「仕事サーファー」
 これは、先ほどのメシスタントのような、ほぼ「お手伝い」と言われるような仕事ばかりをして生きる生き方である。いわゆる現在考えられている「定職」にはつかづに、多くのアルバイトで生活を繋いでいくような人のことである。岡田斗司夫は仕事を50くらい持とうと言っている。
 やや多すぎなのではないか?と私は感じたのであるが、それはごくごく小さいことであるようなのだ。例えば隣の家の芝生狩の手伝いとか、そういう「お手伝い」を50個ほど行う。そうするとどうなるかというと、お金を貰えるのもあれば、もらえないのもある。ただ、全てがお金に換算される必要はないと岡田は言う。すなわち、「お手伝い」をしていれば、その見返りとして、お金ではなくて、別のモノが貰えることがあるからだ。農家の手伝いをすれば当然その見返りは作物である。そういうお手伝いを沢山していれば、食べ物には困らない。そうしたことで生きていくというのである。


―本書の講評―
 本書は新書一冊分であり、ほかにも細かいことがいろいろと書いてあるが、ものすごく簡単に要約すると、今述べたような感じになる。
 私はこの本を読んで、しまった、先を越された!と思った。実は私もこの本の内容にかなり近いことを考え、それを書いていたからである。本の形態で書いたのであるが、無名の私である。どの社へメールしても、そういうのは受け付けない、ということで、お蔵入りになっていたものがあるのだ。だからすなおに、ちくしょう!と思った。
 だが、この本の内容は私も考えていた通りのことなので、そうだよな、ととても共感しつつ読むことが出来た。

 ただ、本書は著者が「岡田斗司夫FREEex」となっていて、これは一体なんだと思ったら、後書きで書いてあるのだが、これは岡田斗司夫本人が全て書いたというわけではなかったのだ。
 岡田氏の本は他に『世界征服は可能か?』という本を読んだだけだが、彼の本領は「はなし」で発揮されるものであって、文才はあまりないように思われる。だからこの本もかなり文章が下手で、読みにくかったのであるが、さらにその読みにくかった原因というのは、文才が御世辞にもあるとはいえない岡田斗司夫が書いたから、ということではなく、岡田斗司夫が主催するFREEexという組織に属する岡田斗司夫のファンみたいな人たちが共著していたからなのである。この本は岡田斗司夫が大学で行った講義をもとにつくられているらしく、それを文章に起こす作業をこのFREEexのメンバーが担当しているというわけである。岡田斗司夫本人も文章を起こしたとは書いてあったが、どれほどのものか。
 だからこの本は岡田斗司夫が汗水たらして書いた、ということではなかったである。そこはやはり本を読むことが本業の私としては残念としかいいようがない。

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