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中島義道『生きることも死ぬこともイヤな人のための本』 感想とレビュー  この誰もわかってくれない感覚

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 タイトルを古本屋で見かけたときに、「これだ!」と思わず叫ばずにはいられないくらいの衝撃的なタイトルだった。まさしく私がここ最近感じていたことを表している言葉だった。
 今現在、私は心療内科に通い、気分があまり落ち込まないような薬を飲んでいるので日常生活はようやくもとにもどってきた、いわゆる普通な生活を送ることができている。ところが、心療内科にかかるまでが大分長かった。心療内科という敷居がそもそも私には高かったのである。今では私の担当の先生とも、もっと早くにくればよかったのにね、と笑いあえる状況であるが。
 さて、私が心療内科にかかる少し前まで、私は哲学的にも思想的にも、精神的にも生物的にも、かなり危機に瀕した状況にあった。というのも、この本のタイトル通り、私は生きることも死ぬこともイヤだったからである。確かに体調がよくなり、普通の生活ができるようになって約一月が経とうとしている現在、こうした感覚が少し減ったというのはある。それほど絶望というか、ものすごい疲れに襲われることがなくなったからかもしれない。ただ、つい先日まではこの感覚はつねに私を捉えていたし、とても理解できる感覚であるし、なによりも人にこの感覚が理解されなくてものすごく苦しんだ覚えがある。

 私はさまざまな要因から生きる力や生きる意志というものがなくなってしまった。今ではその要因の大きな一つであった体調不良が改善したこともあって、やや生きることにそれほど絶望を感じなくはなったが、体調がひどいときはこの感覚もひどいものであった。では生きることがイヤだからといって自殺したいのかというと、そうではなかった。体調も悪く、本当につらいときなどは、このまま自分が死ねたら、眠るように死ぬことができたらどんなに楽だろうと何度も夢想したものであった。ホームに立っていて、ふっと体が軽くなるような感覚に襲われそうになる。それはふっとホームに吸い寄せられていくような力だ。あぶないあぶないとなんとか踏みとどまるような日々を送っていた。
 この本にも書いてあるが、このような悩みを持つ人の多くは、生きたくもないが、だからといって死にたいわけではないのだ。私も死にたくはなかった。ただ楽になりたいそれだけだったのである。
 私はこの生きたくも、死にたくもないという感覚をずっと抱いていたが、これを理解してくれる人は私の周りにはほとんどいなかった。どんなに気心のしれた友人でも、こういう問題に関してはとんと埒が明かなかった。こういう悩みというのは、同じような悩みを持っている人でなければわからないのである。
 生きるのも死ぬのも嫌な人というのはそんなにいないものなのかなと思っていたところ、この本にであった。私はとりあえずタイトルで気になった本を買っておいて、あとから読むというタイプの人間である。買ってから読むまでに時間がかかってしまったことが非常に残念だ。だが、今回読み終えていろいろと思うところがあった。それをこれから書こうと思う。


 まずは何と言っても自分と同じような悩みを持っている人たちがいるのだということ、そのことが何よりも嬉しかった。
あとがきにこう書いてある。
 〈自分のろくでもない人生にわずかに誇りうることがあるとすれば、私は「生きていたくもないが、死にたくもない」という呟きを押しつぶすことなく、むしろ大切にはぐくんできたことであろう。もちろん、いまでもそう思っている。この呟きを語ることは困難をきわめる。なぜなら、「まとも」であればあるほど、人々はこの呟きを全身で拒否するからである。いや、そう語る者を迫害するからである。だからこそ、「あなた」がもしこういう呟きに囚われているなら、私は自信をもってこう言いたい。あなたの呟きは「正しい」。だから、あなたはそれをごまかさずに、どこまでも大切にして生きるほかない、と〉
 私がこの言葉にどれだけ救われたかわからない。私はずっとこの悩みは私一人のものかと思っていた。Twitterなんかを見ていると、やや心が病んでいる人たちは、「死にたい死にたい」とつぶやいている。そういうのと一緒にされることが何よりも嫌だった。私は死にたいわけではないのだ。それは確かに、楽に死ぬことができるなら、眠るように死ぬことができるならそれにこしたことはないとは思う。だけれども、例えば積極的に死ぬということを私はしたくないのである。それと同時に、私は積極的に生きるということもしたくないのだ。
 私はもうだいぶ疲れ、疲弊し、ぼろぼろになっている。どうかこのまま静かにさせておいてくれ、というのが本音なのだ。だが、世間やら社会やら、親やら学校やらというものは、ことごとくこの私の切実な願いを打ち砕く。私が休養をしたいといっているそばから、あれをしろこれをしろとやかましく言い立てる。結果私は、仕方がないので積極的に何もしないということはした。そのことによって大分楽になったのである。
 私は生きることも、死ぬこともしない。働くこともしない。もちろん就活なんて意味がわからない。なぜ私は生きることも放棄しているのに、就活などというものをしなければならないのだろうか。
 しかしなんということか。最近ではNHKのクローズアップ現代が以前のように若者を厳しく糾弾するような論調ではなく、私のような思想にコミットしたような番組を放送するようになったり、最近では岡田斗司夫が『僕たちは就職しなくていいのかもしれない』とか、そうしたたぐいの言説がまだまだ少数とはいえ、メジャーになりつつあるのである。これに私は大分救われた。
 今までのほうがおかしくて、私達の少数の、しかしそれは実は少数ではなく、大勢の人が少なからず感じているはずのこと、そちらのほうがより正しい認識なのだということが判明してきたのである。
 そうした言説のなかにこの本も初期の言説としてあったのだろうと思う。2005年だから、かなり早い段階でそういう感覚に鋭敏にかぎついていたのだろうと思う。


 本書の内容は、私のような感覚を持った教授が、私のような若者四人を相手に対話をしていく形式である。そのまま文字に起こしたとは思われないほど読みやすい文章なので、たぶん校定が入っているのだろうとは思うが・・・。それとももしかしたらこれらはすべて対話篇のように、実在しない人達との架空のおしゃべりなのかもしれない。

 まずはC君の「生きていたくないといより、この虚しさをずっと抱えて生きることがとても辛いということです」という言葉に対して、「私は多くの大人が、人生の虚しさをどうにかして解消することが、どうしてもわからない。テレビでも、新聞でも、巷でも、いまのC君のような発言が飛び出すと、「自分にしっかりとした生きる目的がないからだ」とか「誤った教育のせいだ」とか「若者が希望を持って生きることができない社会だからだ」というような屁理屈をこねまわして、必死の思いでたたきつぶそうとするじゃないか。すさまじい暴力だと思う」という部分に共感した。
 ただ私の感覚はここに登場すう著者や若者たちと根本的に異なっているところがある。それは「虚しさ」である。私はそこまで「虚しさ」を感じることはない。生きることも死ぬこともいやであるが、それはどちらかというと、もう何も自分にかかわらないでほしい、ただそっとしておいてほしいということだけからやってくるような感覚のようである。私は生きることがむなしい、だから生きる意味がないという思想の持ち主ではない。確かに生きることはむなしいだろう。最後にはすべて終わってしまうのだから。
私はしばしば独我論的な考えを使用することがあるが、しかし独我論の根本である、私が死んだならば、それは世界の終わりであるという考えには、半ば同意しつつも、半ば反対している。確かに私の世界はそれで終わってしまうだろう。私と、私が認識するものすべてが消滅してしまうのだから、それはすなわちこの世の終わりなのではないか、ということはなんとなくわかるのだが、それと同時に私は自分をはるかにこえた人間の能力では認知できないような世界が広がっていると思うのである。
 私は人間は死んだら魂の海のようなものに戻るのだと感じている。私たちはその魂の海から、水を掬い上げて人形に入ったのである。だからその肉体が滅びた時、そこにはいっていた魂とよばれるものは、海のようなものにもどっていき、そこで他の水とまざり、また全体になるのではないかと漠然と感じている。だから、死ぬことによってすべてがなくなってしまうという独我論的なこの人達の虚しさとは私は無縁なのだ。
 ただこのような哲学の根本的な問題に対して、世間の人があまりにも暴力的であることは確かだと思う。どうして生きているのかわからない、生きる意志もない、だから働くつもりもない、ということを私は友人にも、親にも、先生にも行ってきたが、誰一人としてそのことについて真剣に考え、共感してくれるような人はいなかった。

 私はもともと哲学的なセンスを持って生まれてきたタイプの人間なのだと思う。だが、哲学的な人間というのは二通りあって、多くの場合が、哲学の教授をやっていくような、カントがどうしたとか、ヘーゲルがどうしたとか、哲学の知識を正確に理解し、それを議論させるような人々のことである。ところが私はこのタイプではない。残念なことだ。だから私は哲学科に入りたくても入れないのである。こういうタイプの議論ができないから。しかし私にはもう一つの哲学的な素養がある。それは、普段人々がなんという疑問もなくそういうものだと思って信じて生きているものにたいして、なぜ?と問いを発生できることだ。
 しかし私はその自分で発見した問いに対して、いつもその答えを見つけることはできていない。それはどうして生きるのだろうか?どうして私は私でなければならなかったのだろうか?といった哲学の根本的で、しかしこの有史以来だれもがこの問いにかかってきて、結論が、答えが出せなかった問いばかりが気になるからである。
 そのため、私は自分の中で生じた問いに対して、その答えをどこかに求めなければならない。私には論理的な哲学的思考ができないので、自分の問いに対してそれを答えるだけの力量をもっていないからである。だから問いは私のなかに生まれ続けるが、それにこたえを与えるのは、こうした哲学者の本にならざるを得ないのである。もちろんカントやらなんやらの哲学と言われる本が私の問いの答えになっていないのはいうまでもない。
 それでこの本を読んだわけであるが、共感できる部分と、共感できない部分があった。ああそれそれ、よくわかる、わかってるよこの人と思うところもあれば、なんだこいつはと思う部分もあった。だが、多くの部分で私の感じている感覚がこの人にも通じること、それがわかっただけで大分安心したものである。

 ただ、ここに登場してきた四人の若者に対して、私はあまりにも腹が立って仕方がなかった。こういう人たちはずっと苦しみつづけてればいいじゃないかと、そういう点、私は結構残酷なのかもしれない。この先生がここまで人嫌いなのにもかかわらず、この若者たちを救おう救おうとしているのが目に見えるが、この先生はなんだかんだいって、そこだけはやる人間なのだなと思った。

 この本にも書いてある通り、人を殺してはいけない理由も、自殺してはいけない理由もこの世の中には存在しない。べき論はなりたたないというわけだ。私もそこまでは同じ意見である。ところがこの先生は、教授という肩書きもあり、また周囲に自殺予備軍の生徒たちが集まってきてしまうという理由もあり、自殺はしてはいけない、生き続けろとメッセージを発している。
 このように見ると彼はやはりどこかで教師として、教員として、生徒たちの命を守らなければならないという倫理観のようなものは最後の砦として持っているのだろう。
 残念なことに私にはそうした社会的な責任のようなものもないので、確かに友人が自殺しようとしていたら止めはするが、積極的に止めようとはしない。もし自殺することがその人にとって一番いいこと、これ以上生きていることがどうしようもなく辛いくらいに仕方がないのであれば、私は自殺することや、人を殺すことをそんなに悪いこととはどうしても思えないのだ。これを人は倫理的崩壊だとかなんとか騒ぎ立てることだろうが、仕方ない。感じてしまうことは感じてしまうのだ。
 私は自分の肉体を傷つけることを極端に嫌う。だから、電車にはねられるのなんて、ものすごく嫌なのだ。刃物も絶対やだ。だが、そんななかでも、首をくくるのだけはどうしても魅力が私を離さない時期があった。いつもそれを押しとどめていたのは、自分の部屋を開けた時に、首をくくっているのを見る母の姿である。そんなものを母親に見せるわけにはいかないという、他者、そう、他者が存在するという理由によって私は自殺を踏みとどまっていたのである。


 今回この本を読んで感じたことは、自分のような感覚の人間が集まるところには集まっているのだな、存在しているのだなということがわかっただけでも安心したということである。やはり自分が悪いいみで特別なのではないか?自分だけが違うのではないか?という感覚は人を悪い方面へと押しやってしまう。
 そういう意味でこの先生がこのような内容の本を書き続けることには非常に重大な意味があると感じる。
 ただ、先にも述べたように私もすべてこの人の感覚が共感できるというわけではない。一部はとてもよくわかるが、ここはちっともわからないというような感覚もあった。特に四人の若者に対しては絶望的に理解できない人達であった。
 この本を読んで、似たような人達、生きることも死ぬこともイヤな人たちがいるのだなということがわかり、そういう人たちもこの社会で生きていけるような、そうした余白がある社会になればいいなと切に願う。そして考えたことは、私は私で、この人達とはまた別なのである。ある部分は共有でき、ある部分は共有できない。そこには何かしら私という一本の筋が通っているように思われる。この先生の筋とは角度がずれていたから重なり合う部分とそうでない部分が生じたはずなのだ。とすれば、私は私の筋をこの先生のように言葉にしなければならないと感じる。もしかしたらそれが私によく似た人を救うことになるかもしれないからである。
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『ぼくらの』 鑑賞メモ 4 18話から24話

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十八話 現実
・この作品が途中から田中一佐を中心に描いてきたことは明らかであったが、今回かつらぎ氏の「すべての発端はあなたにある」という発言から、田中一佐がすでにこの作品の主人公であることがあきらかとなった。実はこの作品はこどもを主人公としていながら、田中一佐が真の主役であったのだ。
・まさかの古茂田議員と田中一佐がなくなってしまった。ほんとかよ!!これは表向きで、実は本当は生きているのではないか?


第十九話 母
・この回の脚本担当は西田大輔。彼は過去を描くのがうまいらしい。今回はうしろの過去について、たもつが話してくれた。前回私が、田中一佐がこの物語の主人公になっていたのだ!と豪語したわけだが、あっというまに田中一佐は殺害されてしまった。私の読みは完全に間違っていたわけである。というよりもさらにひどいことに、製作者たちにまんまと乗せられていたということだろう。前回一話だけは当然田中一佐が死ぬということになり、彼女の死を華々しいものにするために、彼女を主人公にしなければならない。わたしはそれを見ただけで、これがとむらいの華だとも知らずにまんまとだまされてしまった。
・田中一佐、ならびにうしろの過去が明かされてしまったことにより、残されていた謎は一気に少なくなり、この物語も終盤へ向けて稼働し始めた。


第二十話 宿命
・今回もまた過去の話。この物語がどのような設定を持ち、どのような過去を有しているのかを描いている。今回は大知慶一郎が脚本の担当である。この人は初めて見る名前である。過去の描き方がうまいので、西田氏と同じ脚本家であるかと思ったが、違った。
・今回はこのゲームの仕掛け人でもある、洋子の口によってすべてが明かされる。このゲームがどのように引き継がれてきたのか、それが明かされる。並行世界を移動してくる物語はいくつかあるが、私が最近触れた作品では、ブレイブリーデフォルトが非常によく似ていた。このゲーム作品は2013年のゲームなので、これはこちらのゲームのほうがこの作品に対してオマージュをしたということになる。
・そしてこのぼくらののゲームであるが、いくらかこのマスコットの思うようになるところが判明した。コエムシの前のマスコットはサザエさんの花澤さんの声優が担当しており、コエムシの弱者をいじめるサドイズムに対して「あなたもずいぶんいい性格をしていますね」と感心していたのには笑いが出た。非常におそろしいシーンであったことには間違いないが。
このようにして、つねに増え続ける並行世界の可能性をそれと同じレベルで潰しているのであろう。
・どのようなつぶし方になっているのかはわからないが、このつぶしかたであると、トーナメント式で、15人だから、15回戦行われるわけである。計算ができないが、15回、二倍していけばいいわけだから、2の十五乗をすればいいのか?32768つの世界がひとつのトーナメントで消えていることになる。


第二十一話 真相
・若く動ける大人であった田中一佐が亡くなったことによって、動ける大人がいなくなってしまった。ゆいいつこの作品の風通しになるかと思われたたもつであるが、彼ももう歳であると自覚し、吉川の母とともに、子供たちに未来を譲る事にする。ここで、子供たちが真に大人になったと言えるだろう。やはりそれまではどこか子どもじみていた。子供であったということは、言葉だけだとよくわからないが、より正確に定義するとすれば、大人たちの援助が必要であるのがどうしても子供なのだ。大人になるというのは、大人の援助が必要ない、独立した存在のことを言う。
・ジアースプログラムというのは、ウイルスのような存在と考えればいいのだろうか。洋子が言っているように、いつも自然と、ジアースの謎を解こうとした地球文明はジアースのプログラムを自分のなかに移植してしまう。そのことによって「支配者」と呼ばれる高位な存在と繋がってしまい、彼等に生命力を徐々に徐々に奪われるわけである。
・こう考えると、何にもいいことがない。彼等によって勝手に並行世界は剪定させられ、勝ち残った世界も、高位な存在達が安穏に暮らしていけるために生命のエネルギーを吸い取られる。おそらく彼らが高位でありつづけられるのは、この生命エネルギーを全世界、全並行世界から吸い寄せることができるからであり、それがなければ高度な文明を持つことには持つが、他の宇宙世界と同じレベルなのではないだろうか。
・ここには、高位にあるからさらに高位になれるという、資本主義のルールのような強者の理論が働いている。

第二十二話 道程
・今回は非常に静かな作品であった。戦闘がない回が何回かあったが、これもそのなかの一回に数えられる。
・道程ということもあり、最後の主人公となったうしろに全フォーカスが集中する。それまでのうしろがどのように成長してきたのかが丁寧に描写される。


第二十三話 
・今回は町洋子がものすごくいい人間として描かれる。彼女はこれまでに私たちが知り得ないほど多くの人間を殺してきたはずである。それを贖罪したいという一心でこれまでの罪を引き受ける代わりに、パイロットとなり、かなちゃんを救う。そのためには、このゲームの審判役でもある兄コエムシをも殺すという非道っぷりを発揮してくれる。コエムシの殺害とともに、サザエさんの花澤さんの声優のマスコットキャラクターが登場する。彼は他の戦いから即座にコエムシの死を感じ、時空を超えてやってきたというのだろうか。
・それにしても、マチにしても、ウシロにしても、あまりにもいいキャラクターになりすぎてしまっている。これまでのダークさがまるでうそだったのかのように、しかもこの二人がそのダークネスを大分背負っていたにもかかわらず、なんともすがすがしいキャラクターに変貌してしまっている。

・今回は兄妹の関係を描いた回であった。コエムシと町洋子。ウシロとかなちゃん。コエムシ洋子の方は、兄殺しを実行し、ウシロかなのほうは、妹を助けるという、やはりここでも二つの重なったテーマを描いている。そういう描写のしかたは上手いなと感じる。
・それにしても、町洋子は町洋子で、その兄はコエムシというのは、ずいぶん不思議な名前のつけかたである。彼女たちがいた世界ではコエムシという名前が一般的なのかもしれないが。では、コエムシは町コエムシなのだろうか?それと洋子の祖母の存在はなんなのだろうか?彼女たちは他の並行世界からやってきたのである。祖母までつれてきたというのは考えにくい。ということは、この地球で仮の住まいとして、仮の記憶を植え付けられたりしているのだろうか・・・。

第二十四話 物語
・ウシロ父による競争から外れた箇所での生存の可能性が示され、それが唯一の救いとなっている。競争しなくてもいい世界。そんな理想な世界がわずかに示されることによってこの作品は大分救済されている。
・ここでは二つの戦いが示される。一つは死んでいく戦い。もう一つはその後生きていく戦いである。
戦いのないのが理想だと言っていながら、その後父によりその理想がそれでも嘘にまみれていたことが告白される。なかなか大人の理由なので、作品が大分重くなる。
・今回の戦いはそれまでの総集編的な意味合いもあり、それまでのパイロットたちを一人ずつウシロが思い出しながら戦っている。戦死者への弔いは、彼等彼女らを思い出すことがその方法として最も納得できるものだ。
・初の長期戦である。暗くなってからまた夕方まで戦っているように見えるので、一日以上戦っていたことになるだろうか。
・すべてを終えた後、まるで白樺派が作り上げた理想郷である「新しき村」のように、ウシロ父が作り上げた理想の教育施設での生活が、これまでの戦闘とはコントラストをなし、静かな平和として描写される。
・タイトルの「物語」は、これらの戦闘を見続けてきたかなにより物語、を指示している。確かに、この作品が一体どの目線で描かれているのか?という語りの問題について私はちっとも頓着してこなかった。もちろん作中では小説でいうところの三人称、神の視点というもので語られる。そういう意味で、単純に解釈すれば、この作中に登場する神的視点、それは支配者の視点とも考えられるが、それよりはこのゲームの審判的存在であるコエムシの視点に近いと考えたほうが納得がいくかもしれない。しかし、コエムシも23話めに死んでしまい、ではこの物語は一体誰の視点によりそっているのだろうと考えた時、この一連の戦いをすべて眺め、そして生き残った人物ということになる。それはまさしくかななのである。実はこれはかなが見てきたものがたりを、私たちが聞いているという形態なのかもしれない。

・これで物語はすべて終了してしまった。最初のこのゲームから逃れられないといった絶望感は次第に薄れて行き、ウシロの行為によって、他の地球にこの戦いを引き継がないということが超法規的に行われる。そして、静かではあるが、それぞれ闇を抱えた上になりたっている私達の世界の平和へと向かうのである。

『ぼくらの』 鑑賞メモ 3 十三話から十八話

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第十三話 地球
・そもそもなぜこうした巨大な敵が登場し、戦闘しなければならないのか。エヴァンゲリオンでは、ついぞその理由は明かされぬまま、作中の「補完計画」なる単語をいいことに、読者がこういう設定があるのではないか?という設定に監督たちまでが参加して、戦いのそれらしい理由をつくるはめにいたってしまった。
この作品では、なんと宇宙の淘汰、枝分かれし、膨張しすぎた異次元をも含めた世界線の剪定のためにこの戦いがあるということが語られた。「並行宇宙」という概念を出してきたあたりから、やれやれと私は思ったけれども、それを剪定してしまうという設定には流石に度胆を抜かれた。
・相手の地球では、「地球を消さないで」というプラカードを抱えた宗教人たちの存在が描かれ、「ぼくらの」に登場する主人公たちの「地球」よりも情報が開示されているということが判明している。
・しかし剪定には、できるだけ似たような分岐軸を破壊するように仕向けられているというところがまた、なんともつらい。我々は自分達から離れた存在に対しては異常ともいえるほど冷酷になれるのだ。例えば黒人に対してあれだけのことができたように、自分達とは異種異形の存在に対しては人間はどこまでも冷酷になれる。ところがここでは、かなり近しい存在であることが判明する。日本語を話している人物たちも描写されていた。自分達と同じ存在を破壊せしめるというのは、どんなに冷徹な人間であってもできることではない。それをおこなってしまっている時点で、この作品のリアレティは失われてしまってはいるが、考えさせられる作品ではある。
・何度もうまいなと思うのは、生命の破滅と誕生が一緒に描かれている点である。しかも、二重にである。今回は、ひとつの宇宙の破滅と、まるで世界がそのままよみがえったかのような自分たちの宇宙への移動、パイロットの死と、その弟の誕生、という二つの軸での生命のサイクルが連動している。
・エンディングがバーミリオンへ変更。死んでいった順番で手を繋いでいる絵が印象的である。十三話ということもあり、後半に入ったということなのだろう。ただ、ここで順番がわかってしまった。


十四話 迷い
・十四話はこれまでよりもより一層大人の世界が描写されている。「ぼくらの」が子供の世界だけを描いている作品ではないことがよりはっきりとわかってきた。
・やくざが登場してきた。田中一佐が会長といわれる人物となにがしかの関係があることが判明。会長の口からは、おもわせぶりなセリフが垣間見られる。一郎と呼ばれる人物の忘れ形見が事件に巻き込まれているとのこと。親が描かれていないこどもたちの誰かに、このやくざで恐らく人気があった一郎と呼ばれる人物の子供が含まれているのだろうか。親を調べてくれという要望に対して、これは私の問題だとゆずらない田中一佐。おそらくかなちゃんか、うしろの親が、このやくざと関わりのある人物であった可能性が高い。
・吉川かんじの母親が認知研の教授であったことが判明。さすがにちょっと結びつきが強引すぎるなと感じるが・・・。作品がこのあとどう展開していくのかが愉しみである。
・順の母親が田中美澄であることが判明。しかもこの世界が平成28年であることも判明。

第十五話 自滅
・「ぼくらの」は、設定上、夏に臨海教室のような活動に参加していた子供たちがパイロットになってしまったというものである。ではなぜ臨海教室にやってきた人物たちが、そろいもそろって親との関係に問題があったのか、というと、親と問題があるからこそ夏休みのひと時を家の外で過ごそうということになったのだろう。文芸批評的にこの作品を考えるとすれば、この作品が公開された2007年ごろには、親と子との関係が崩壊していたということなのだろう。世紀末的な1990年代のあの異様なふんいきが終わり、あたらしい世紀に人々は希望していたが、なんということはない。たとえ世紀が変わったからといって、そこで暮らし、生きている人たちは根本的にはかわらない。そのままの雰囲気が2000年も続いていたのだろう。
特にネットやケータイの普及にともない、人間は根本的に実際に会って話すといった直接的なコミュニケーションが揺さぶられることになった。そこでディスコミュニケーションが発生したわけであるが、これによって、そと当時の大人は子供たちのこころを知ることができなくなった。知らないと人間は恐怖する。だから、その恐怖を反映するかたちで、子供たちのこころの闇を徹底して描くことによって、当時の自分達に麻薬的にこの作品を注射したということだろう。
・この作品では、14話めにして、新しい登場人物が登場する。たもつと呼ばれるやくざの男である。これまでの陰鬱な雰囲気には、どうしても外向きの風を通す存在がいなかった。ここにきて高田純次ばりのテキトー男を登場させることによって、作品の風通しをはかったものと言える。やや作品が陰鬱になりすぎたための緩衝材かもしれない。
・ここにきてなんとパイロットが戦いを放棄宣言。自分の母親を自殺に追い込むような世界、地球というものは他の地球や世界を滅ぼしてまで生き残るに値するのだろうか?というあまりにも素朴といえば素朴で、共感できる理由である。これまでこの登場人物は私が名前を覚えられないくらい、どうしようもなく影の薄い存在であったが、そのニヒリスト的な考えは非常によくわかる。これまで日陰者として生きて来た人間の哲学としてはあまりにもまっとうだ。
・ところがなんということだ。相手もまたきりえ並に戦いに対してニヒリズムを有した相手だった。たもつの「はらきりやがった」という言葉通り、自決するものの美学、日本的な美学を有していた。相手を殺してまで生き延びるのであれば、潔く自ら逝く。そうした諦念、哲学的な考えが反映された作品と言えよう。


十六話 正体
・きりえのキャラクターがずいぶん鋭利になってきた。
彼は最終的にニヒリズムから脱却して、戦うことを決意する。彼のニヒリズムは、自分ひとりのものではなく、母親と密接につながっていたものである。彼の生きる希望というか、生きる糧となっているのは、彼の大好きな母親だったわけだ。マザーコンプレックスとも捉えることもできるが、母が自分の生きる糧になっていることに対して私は肯定的だ。男性は全員、基本的にはマザーコンプレックスを持っている、というのはよく聞く話であるが、確かに自分を生んでくれた存在である。この自分を生みだしてくれた存在が自分の生そのものであるといっても何らおかしくはない。
ここまでは娘も同じことになるが、娘と息子とが違うのは、やはりその性である。男性は母親が一番最初に接する異性である。ここにはどうしても、何らかの感情が抱かざるを得ない。それに付け加え、母親というのは自分の生の根本である、生の根本でもあり、性の根本でもある。男は全員マザーコンプレックスにならざるをえないのは致し方ないだろう。順にしても、彼は自分の母親が死んだことになっているが、それはやはり一番大切な存在を奪われたという意識から、かなに対してのあのような行動になってくるのであろう。
・たもつ曰く、自分を知り、相手をじっと睨む、ようなのはやくざの世界では一番怖いという。確かにこれまでの登場人物とは異なり、きりえは感情に激されない。あの禅僧のようなのと似たいような精神世界を有している人物であるが、きりえの場合はあの禅僧とは異なり、諦念がある。いさぎよい諦念である。だから、この世界は自分の母親が希望を持てる間は、守りたいし、希望を持てない間は守る価値もないと思うわけである。


十七話 情愛
・いちおう季節を感じさせるつくりにはなっているようだ。そういえば最初の自然学校は夏休みであった。みんな夏なので薄い服装であった。秋口になってきたのであろう。田中はジャンパーを着ていて、うしろに対して秋用の服装が必要ではないかと尋ねる。ここが隠された母と子との対話となっている。
・17話からまたあの与口奈津江が脚本を担当している。「情愛」というタイトルの通り、ニュースキャスターの父とモデルとの不穏な関係、ならびに、コエムシとその妹である町洋子の兄弟の情愛である。いままでコエムシは誰かと話しているそぶりを見せていたが、それが洋子であることが判明した。また、この二人の会話から、パイロットの順番は単にランダムということではなく、コエムシの意志でいくらでも変更できることが明らかとなった。
・また古茂田家への襲撃や、往住キャスターの熱愛報道など、ジアースの報道をつぶそうという陰謀の描き方は上手いと思った。
・また情愛には、吉川と徃住との関係も含まれるらしい。この二人の関係は描写が足りなかったために、恋愛まで発展できなかったが、もう少し時間を割けばきちんとした恋愛も描けていたであろうとから少しもったいない気もする。この作品にはきちんとした恋愛が描かれていないからである。
・最後に徃住が死ぬ間際に、吉川は「支配者」たちの姿を垣間見る。それは主人公たちの存在が、末端的であるのに対して、それらすべての末端の世界軸をまとめているであろう高次の存在である。いわば、神様のような存在であるのだが、ここではその支配者たちは複数人描かれる。この作品での神のイメージはどちらかというと、キリスとやユダヤのような一神教的なものではなく、日本のアマテラスや、ギリシャ、ローマの神話のような多神教的な世界に支えられている。


十八話 現実
・この作品が途中から田中一佐を中心に描いてきたことは明らかであったが、今回かつらぎ氏の「すべての発端はあなたにある」という発言から、田中一佐がすでにこの作品の主人公であることがあきらかとなった。実はこの作品はこどもを主人公としていながら、田中一佐が真の主役であったのだ。
・まさかの古茂田議員と田中一佐がなくなってしまった。ほんとかよ!!これは表向きで、実は本当は生きているのではないか?

『ぼくらの』 鑑賞メモ 2 七話から十二話

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第七話 傷
・五話からの脚本担当の与口奈津江という人はこれがやりたかったのか~!!(笑)ってくらい、全開の回数だった。ドロドロもいいところのメロドラマ。
・チズはものすごく悪女に描かれていたが、彼女がどうしてそうなったのか、という彼女の過去が描かれる。何の説明も導入もないまま話が展開されたが、ものすごくおもしろかった。というのは、与口さんという脚本家が、もともとこれをやりたかったからなのだろう。
・作画は、もしかして時間が足りなかったのか、あるいは演出なのか、セックスをする場面や、カメラをあばく場面など、やや雑なものが眼に映った。
・しかしこのアニメでセックスまで見事に描くとは、与口さんなかなかの強者である。おそらく制作時には、彼女のやりたいところと、テレビでできるところと、そうとうな駆け引きがあったのではないかと想像できる。

・ずいぶん嫌な女として描かれていたチズだったが、七話を見ることによって彼女の印象はぐっと変わる。と同時に、それまで嫌な女に見えていたのは、カコの視点から見ていたからにすぎないということに気が付かされた。カコの視点でチズを見れば、それは相当嫌な女に映るに違いない。そもそも男性には、自分の好きな女性が自分より、地位や容貌、名声、年齢などが上の人間に奪われるのを一番嫌う。もしこの記事を読んでいる読者は男性であれば、好きな女の子が先輩などと付き合うというのは、狂おしいほどに腹の立つことだと共感していただけると思う。
それがよりによって先生である。容貌はいざしらず、頭脳の面でも、地位や、金銭力、精神力、あらゆる面で自分よりはるかに高い次元にいる存在に好きな女の子をとられるというのは、そりゃレイプのひとつもしたくなるくらいには頭がおかしくなる話だと納得できる。
・ところが、いざチズの視点で物語を追ってみると、彼女がとても可愛らしく見える。ここのところは、与口さんの力量が最も発揮されているところだと思う。彼女はドロドロのメロドラマが書きたかったのだろうが、それと同時に批評性も有している。というのは、チズのことをカコからの視点でみるか、チズによりそった視点でみるかによって、まったく印象が変わってくるということである。ものごとはすべて、他の面からみれば、ぐるっとその見え方が変わる。それが実証されていてすばらしいと思った。
・チズはとても純粋でかわいい少女に見え、それはセックスをする段となっても、まだ純粋性が保たれていた。当然である。チズのなかには先生に対する純粋な愛情しかなかったからである。ところが、それが最後に反転する。もちろん、最初の三者面談の時から、この先生がチズのお姉さんを狙っているなということはばればれに描かれてはいたのだが、しかしそれは一端伏せられる。読者がお姉さんとのラインを忘れた最後になって、実はお姉さんとも密通していたということを読者はチズの目線で知ることになり、絶望に打ちひしがれる。純粋な愛情に満たされていた少女としてのチズが、最後にジアースのよどんだ空間の彼女にオーバークロスしてくる場面は、見事としかいいようがない。
・本当によくできた回だと思った。



第八話 復讐
・その名も復讐。メロドラマもこの四話で完結である。前回の最後に予告があるが、そのなかにチズがお腹に手を当てている場面がちらっとでてきた。ほんの少し先読みの得意な観客である私には、即座にそれが子供であることがわかったが、それを指摘しようとうずうずしていたら、最後の最後に全部ネタバラシされてしまった。鈍い観客への配慮だろうが、それはあれで十分にわかる表現をしていたので、皆までいわなくてもよかったかもしれない。
・思えばここにきて敵の形態が大幅に変わった。それまでは昆虫などに似た形態をしていた使徒(エヴァンゲリオンから命名してしまおう)だったが、今回は鏡のようでもあり、ファスナーのようなものがついた存在だった。いかにも弱そうな敵であったが、これはおそらくメタファーであろう。何のメタファーかというと、それは男性性、あるいは男性器ではないだろうか。ファスナーは、男性器を覆い隠しているズボンのファスナーを彷彿とさせる。この四話、特にチズは、性との問題が描かれていた。おそらくお腹には先生との子どもがいたであろう。そうすると彼女が復讐したいものはなんなのか。それはやはり自分をこのような不幸にした先生と、その性器なのではないか。とすると、この敵として現れたのは、先生の、と限定しないまでも、男性器であることに間違いないだろう。ここでチズは、自分と自分の子の命を賭して、先生と、先生の性器への復讐をしたわけである。

・ここにきて数合わせの問題が出てきた。チズの子供がここにかかわってくるわけである。それはいいとして、パイロットの数が足りないだの、一人生き残れるだの、なんだのと、けっこうややこしくなってきた。その数字の一つ、二つというのが大事であることは云わなくてもいいだろう。当然そこにかかわってくるのは、命の数なのである。数字化される命、モノ化される命、という意味で、この作品は極めて命を粗末に扱う、あるいは粗末に扱うルールを描いている。


第九話 家族
・ここにきてようやくこの作品のスタイルが定まってきたように思われる。一人一人を一回分を使用して描写するという形に収まってきたようだ。
・今回の主人公であるダイチ。私が最も好むタイプの登場人物である。初めてオープニングを見た際から、ずいぶん個性的なキャラクターだなという印象は受けた。無骨なタイプなのかと思ったが、無骨さを残しつつも、かなり洗練された、愛情に深い人格を有しており、この作品では一番の人格者なのではないかと思う。どこか禅僧めいたところがあるのが、私のお気に入りのポイントだ。仏教の大学に通っているだけのことはあり、私は禅僧が好きだ。自分の死さえも受け入れてしまうその精神力。あきらかに13歳とは思われない。

・エヴァンゲリオンにしろなんにしろ、アニメーションの主人公というのは、あきらかに設定年齢が低すぎる。この作品であれば、少なくともあと5歳は年齢をプラスしなければそもそも納得ができるレベルではない。あきらかにこの作品のテーマは、18禁レベルで、登場人物たちは18歳くらいでなければこのような行動はできないであろう。
ところが、日本のアニメーションというのは、なぜかはわからないが(日本には幼さや、初めてといったことが尊重される文化背景が関係しているとは思うのだが)、登場人物の若齢化が目立つ。そこには何か成熟することへの恐れといったものも感じないわけではない。
・登場人物が若齢化するとどうなるか。常識的に考えればそれらは当然保護者、というものに庇護された存在ということになってしまう。しかし、日本のアニメーションの不思議なところは、若齢化しつつも、保護者を排除するということにある。どうしても、幼さを保ったまま、自己を確立した人間像を求めるのである。これはなかなか高度な要求で、私など20歳を超えていても、なかなかこのような登場人物のようにはなれないなと挫折感を覚えるものである。
そんなことはいいとしても、若齢化していても親を排除するとどうなるのか。そこにアニメーションが作り上げた新しい人類像が浮かび上がるのである。すなわち、幼くも精神的には成熟している人間像である。特に今回の話は顕著であった。
・なぜそこまで親を排除しなければならないのかがよくわからないが、ダイチには親がいない。父親は失踪してしまっている。母親はどうした、といいたいが、その説明はない。
・今回のダイチは、失踪した父に二重の意味で重ねあわされる。まず一つ目は、ダイチと妹との関係が疑似的な夫婦関係になっているところである。幼い弟と妹を寝かしつけた後、ダイチが眠れずに起きて、それに気が付いた長女の妹と話している場面は、あきらかに子供二人を持った若い夫婦のそれである。登場人物を若年齢化しつつも親を排除すると、若年齢化された子供たちが、親になってしまうのである。そこにまず、第一の父がいる。ダイチが父親に重なっているのだ。
・第二の父は、失踪とかかわってくる。なぜダイチが、自分の死体を隠してほしいというかといえば、当然幼い弟や妹たちに自分の死を知らせたくないということが言えるだろう。果たして死を知らせないことが本当にためになるのか?とは思うものの、まだ死を受け止められない兄弟たちへの、それが一番の選択であるということは私にも納得できるところである。いずれ、大人になった時に死んだのだろうなということを受け止めるだろう。だが、この死体を隠してほしいという願望には、もう一つの意味が含まれる。それはすなわち、自分の父と同じような死を迎えたいという想いだ。この父がなぜ失踪したのかは、結局わからないが、ダイチは父の死を、なにかどうしようもない理由があってこうなってしまったのだ、と好意的に解釈しようとする。それは、自分の死、失踪を父の失踪に重ね合わせることにも表れている。

・禅僧めいたところは、座布団にあぐらをかく(坐禅のメタファー)ことにも表れている。

・今回は私が一番好きなタイプの登場人物だったので、愉しく鑑賞できたが、しかしおそらく一番リアリズムの観点からすれば、かけ離れた回であったろう。一端子どもになって、さらに親になっているという、二重に屈折した人物造形がなされているし、あまりにも精神力が高すぎて、はっきりいって誰も理解ができないレベルの悟り状態になってしまっている。


第十話 仲間
・今回の「仲間」とは何なのか、それは。母を中心とした人々のサークルのことである。
・母が売春婦であったという過去を持つ主人公のマコ。常軌や規範といったものに囚われない母を持ったことにより、自分が規範にとらわれるようになるというおもしろい構図である。母を愛しつつも、やはり誰とも知らぬ父を持つマコにとっては、それは許されないことだったのだろう。母を一面では愛しつつも、一面では憎んでもいる。しかし、母への愛憎は、翻って彼女を母と同じ道に歩ませてしまう。
・お客を取りたい、という衝撃的な要望を突きつけたマコ。おそらく母みこを愛しているであろう、みこの同業者のおじさんの取り計らいにより、マコは、おなじくみこを愛した男性に連れられて、母の店に到着する。そこで、確かに体を売っていたかもしれないが、社会的にそれが悪いことのようにたとえ思われていたとしても、彼女を知る人間はほんとうに彼女のその人間を愛しているという事実を知る。そのことによって、母への憎しみの部分がやわらぎ、精神分析の言葉を使えば、母へのアンビバレントな気持ちが愛情という一つの方向へと集約していく。そのことにより、マコはふっきれることができ、戦いへと赴くことができたのである。

・最初から私は15人の人間を描き切るのは大変なことだ、やめておいたほうがいいと思っていたが、ここにきて、やはりダイチ、マコの描き方に深みを感じられないようになってきた。その前のチズの人物造形からするとやはり薄さ、というか魅力を感じられない。おそらくこの調子で行くと、そう深くまで立ち入ることがなく殺されていく登場人物と、チズのように深めに描写される人物とに分離していくことであろう。それでメリハリが付けられるはずだ。
・だがしかし、そんなことをするのならば、人数を半減させて、最初から選ばれた7人くらいで物語を始めればよかったようなものを、と思わなくもない。


第十一話 命
・まんまエヴァンゲリオンじゃないか(笑)って思ってしまった。分裂する敵、コアが一つの敵というのは、エヴァのそのままであった。
・モジという人物はテレパシーを有しているという、特別な存在であった。
・今回の「命」は非常によくできた作品である。最後にドナーが見つかったという場面で、しかしそれが誰かの死であるということが語られる。それと同時に、モジはその直前に、心理戦をしかけたことによって、相手も心を持った存在であると発言する。その意味はつまりこうだ。相手もまた自分達と同じ存在であるかもしれないということ。それが「命」というタイトルによって、二重にかかってくる。こちらが生きれば、あちらは死んでいる、ということは、数々出てきたロボットたちにも、おそらくモジたち15名のように、「ゲーム」に参加させられてしまったかわいそうな人間たちが乗っているということだ。
・ここにきて、敵が大分強くなってきた。今まではほとんど傷さえつかなかったジアースであるが、この回ではあっさりと切られてしまっている。こうした無敵を感じさせるジアースのような存在を、マンガ的な身体というが、このマンガ的身体が徐々に壊されてきていると感じる。

・9、10、11話は西田大輔が脚本を担当している。
9話では、家族のため。10話では自分の母やその仲間のため。11話では、友人2人のために、それぞれ命を落とす主人公が描かれる。西田のこの三話のテーマは、「全体への奉仕」にあるといっていい。私は左翼的な人間であるから、こういう全体への奉仕というのも大嫌いなのだが、その全体が、自分の守りたいものに限定されている限りにおいては、美談として見ていられる。これが、まったく自分とは直接関係のない人々、例えば国のため、などということになったら目も当てられない状況になるだろう。

・さらに欲を言えば、ここで心臓移植を受けた友達が、しかし結局拒絶反応を起こし、助からなかったという展開になるとさらにおもしろい。万分の一の確率で完全に一致する、拒絶反応が出ない、というのはあまりにも出来すぎである。


第十二話 血のつながり
・今回からまた脚本があの与口氏になった(笑)。またメロドラマでも展開してくれるかもしれない(笑)。
・ところが、今度はあまりメロドラマというようではないようだ。ただ、泣ける話ではあった。
・やはり死を描くということは、生を描くことになるのだなと思わずにはいられない。前回の「命」もうそうであったが、パイロットの死というのは、それ以外の人々の生に直結している。そのことを抜きには考えられないだろう。

・たびたび親や子、ということを考えてきて、説明してきたが、見落していた点があった。親を排除することによって、子供が大人になって行動していると私は分析していたが、田中という軍隊の女性がこのこどもたちの親的存在になってきていることに気が付けなかった。この回をみて、ようやく寄り添っていたことに気が付いたわけである。とすると、精神的にささえてくれる指導者的な存在がやはりどうしても必要になるのだということになる。ただそれは、親よりは遠くなければならない。しかし、単に職場の上司、先生、といった立場では遠すぎる。ある程度自分があり、自由に行動できる大人だからこそ、このこどもたちのよき導き手になってあげられるのである。

・今回泣ける話であったのは、やはり新しい命の誕生だったからだろうか。これは私自身の問題であるが、つねづね生きるのに疲れてしまっている。だから、自分はもう生きるのが辛いな、大変だなと日々思っているわけだが、それでもどこかにこの世に希望を抱いている私もまたいるのである。で、私は、そうした希望を新しい命に盲目的に、希望観測的に勝手に抱いている。彼等、彼女等がもしかしたら私達の意志をついで、よりよい地球にしてくれるのではないかという希望がある。そうした希望を抱いているから、今回はややニュートラルな立場で観ることができなかったかもしれない。

・そして、与口氏。やってくれたのは、この敵地に飛ばされるということが、実は他の地球であるということだ。
最初私は、空間転移などができる作品であるから、並行世界の地球か?とも思ったがどうやら予告編を見た限りにおいては、どこか遠い宇宙の星らしい。であるから、並行世界というよりも、ものすごく遠いこの宇宙には、ほぼ現在我々が住んでいる地球と同じような文明、文化レベルを有した種族や星が存在するという、世界認識の作品だということがわかる。

『ぼくらの』 鑑賞メモ 1 一話から六話

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第一話 ゲーム
・以前から気になっていた「ぼくらの」を見始める。
・2007年制作で、話題になり、アニメとしてある程度の評価を受けてから、7年ものあいだ見ることができなかったことに多少のいらだちを自分に対して抱く。
・15人の少年少女が出てきて、まずすぐに思いついたのは、十五少年漂流記。いがいと古い、古典ものの系譜で捉えることもできそうである。

・また登場人物の名前が覚えられないが、中学一年生の、残虐性とでもいうようなものが描かれる。蟹を焼き殺す場面など。しかし、だからといって、彼女たちらが彼を「サイテー」と評するものの、決定的な関係の崩壊にいたらないのはおもしろい。批難しつつも、その批難は彼の心にはちっともとどいておらず、むしろ自分のおもちゃになって死んだ方がましだろうという強者の論理に集約されてしまう。その後議論はつづかず、決定的な関係の崩壊に至る前に次の場面に移行してしまう。
・15人それぞれの登場人物を描くのは難儀。あの「ワンピース」の小田でさえ、メンバー全員を描き切るのは難しいとして、いつもチームを二つか三つにわけている。どんなに力量のある作家でも、4,5,6人あたりが限界である。15人を一同に会するというのは、かなりの無理があるように思われる。まず、観客が覚えられない。
・15人を描くとなると、かなり時間的制約がかかる。ゲームへの参加をするために鉄板のようなものに触れるが、その場面でのキャラクターの描き方がややしらける。どうしてもキャラクターを特徴づけるためには、誇張的にならざるをえない。そうすると、リアリティが失われ、ラノベ的な典型的なキャラクター像に集約されてしまう。特に短髪の元気っ子や、おしとやか系のお嬢様、といった典型的なキャラクターは見ていてこちらが辛い。

・テレビのブラウン管を消したかのような映像表現。ぶつ切りであるという点がやや観客につめたい印象を及ぼす。もちろん登場人物と同じ目線ということになるが、あの切れ方には何か意図があるように思われる。意識のとぎれをどう表現するかというのは自由で、画面が真っ白になったり、真っ黒になったりすることもできたはずだが、敢えてテレビのように表現するのには、それがやはりどこかゲームと連動するように、画面を介したものであることを物語っているように思われる。

・エヴァンゲリオンを彷彿とさせる。特に襲ってくる使徒のような機械に弱点があり、それがコアのようなものであるのは、完全にエヴァンゲリオンそのままであった。
・しかし動かすロボットの機体は、どちらかというとガンダム系統である。この作品の後になるが、マクロスフロンティアに登場する戦艦とかなり類似する。この場合は、マクロスのほうが影響を受けたと言えるだろう。

第二話 ジアース
・二話目から突然重苦しい展開になってきた。
・2014年の読者である私たちには、すでにまどかマギカという作品がある。この作品により、この作品を見た後では、すべて異世界からの使者、マスコット的キャラクターは、純粋な眼では見られなくなった。すなわち、異世界のルールを有する彼等は、我々とは本質的に異なる存在であり、私達のルールがまったく通用しない相手として、むしろおそろしい存在に感じられるようになるのである。
・この作品では、コエムシと呼ばれる、パンダとクマの間の子のような存在がマスコット的キャラクターである。だが、幸いにもこのキャラクターは最初から外見が悪役である。とすると、単純なもので、案外そんなに悪くない奴、として描かれる可能性がある。きゅうべえは、外見が常識的にみればまったく良い奴のそれをしていたので、我々はその反転に驚かされたのである。最初から悪役面をしてくれていれば、時に悪いことをしてくれても、最後には実は良い奴だったといったオチが予見され、安心して見ることができる。

・この作品は完全に親を排除している。一応語られはするが、なぜかこの作品に登場する15人の少年少女は、「おじさん」と呼ばれる人物の元で、共同生活を送っている。「せかい系」と呼ばれる作品の意味がよくわかる作品である。
・今回は和久隆が主人公の回であった。やはり15人を描くのはむずかしい。一話、20分前後を使用して、やっと一人を描くくらいでないと、キャラクターに深みが出てこない。今回は隆の番であった。隆には父があるらしいが、この父との関係不和が隆の人物形成に大きな影響を及ぼしているのは間違いない。父に認められなかった少年として隆は描かれる。だから彼は別にネットやメディアで取り上げられなくてもいいのである。なぜなら彼の承認欲求は父という社会にあるからである。
・だが、なんということか、隆は最後に死んでしまう。これは妹をいじめる少年によるものに一見思われるが、いくらこの作品を見るのは初めてだとはいえ、このゲームと何らかの関係があることは確かである、と読者に思わせてしまう。最初にゲームの案内役となったココペリという男性がおそらく死んでしまっているであろうことは、彼の眼鏡が落ちているのを拾ったシーンでなんとはなしに感じさせる。
・まだ二話しか見ていないが、この調子でいくと、パイロットとして戦った人物は死んでいくのではないか?といやな予想を喚起させられる。


第三話 秘密
・このタイトルの秘密というのは、おそらく隆の死の秘密ということであろう。こういう作品にありがちな、特務機関のようなものも動き始めたし、いよいよという感じになってきた。
・三話目は、社会を描くことに終始している。二話めで完全なる「せかい系」の作品となってきたこの作品。一話休息をいれる必要が出てきた。ここできちんとそれまで描かれなかった「社会」が描かれているのには、きちんとした製作者たちの作品への意識が垣間見られる。エヴァンゲリオンを模倣しておきながらも、エヴァが描き得なかった「社会」というものをきちんとクローズアップしている点において、批評性を有した作品と言えるだろう。
・この三話目では、それまで現実ではありえない、こんなのフィクションではないか、と一蹴されてしまうような作品にリアリティを与えることに成功している。一話まるまるお葬式を描いた作品というのは、そうない。あったとしても、葬式の場面がほんのおあつらえ程度に5分ほどあるくらいである。この作品では、一話まるまるを使用して葬式を描き切るということをしていて、なるほどすばらしいと思った。
・誰だったか忘れたが、「ワク君、死んじゃったんだね」というセリフに、リアリティを感じられる。やはりどこかでこれは現実ではない、という意識が登場人物たちにもある。それがお葬式の最後になって、ようやく自分たちの友人が死んでしまったんだという現実が、やっとわかるようになるのである。

・ただ、一方で、親と子との関係がやはり希薄であると感じる。今回は全員保護者が登場するのだが、どうしてもその保護者とのディスコミュニケーションがいなめない。というか、親が登場しているはずなのにもかかわらず、親の存在は無い。まあ、あっては作品が成り立たないのだが。子供が主役になれないという意味において。にしても、この作品の保護者は便利すぎる。妹をいじめてしまう兄弟を引き受けた子の家が、なぜあそこまで大豪邸なのか。あまりにも非現実的な家庭環境を持った登場人物しかいないというのが多少気になる所ではある。

・また死者2000人というのも現実感がない。もし死者2000人であれば、もっと大変なニュースになっているはずである。3・11震災を経て、死者3万人を経験した私達からすると、この作品のニュース番組にはややリアリティを欠いたものがあった。また、その死者2000人の死を一度も描かなかったことに、やはり遠景(世界全体がかかった問題)、中景(社会の問題)、近景(自分達の問題)のなかの、中景が抜け落ちている感じがしてしまう。
だが、反対に考えれば、敢えて死をまったく描かずに、隆の死だけを描くということによって、死が、この作品においてどのようなポジションを占めているのかということが如実になってきてもいる。知らない誰か、の死をまったく描かなかったというのは、この少年少女たちの視点に立った時に見えてくる視点なのではないか、と私は思う。お葬式が終わるまで隆の死さえ認識できなかったレベルの認知度である。とすると、中景の知らない誰かの死が、彼等にとってまったく認知できないものとしてもわからなくはない。そうすると、いわゆる「せかい系」の作品というのは、かなり認知度の幼い登場人物の視点の物語であるということができるかもしれない。それは例えば夏目漱石の『三四郎』に準ずる認知度である。ただ、これが三四郎と大きく異なるのは、自分達の認識が即、=で世界の事象と結びつく点にある。


第四話 強さ
・四話目にして、ジアースがどのような原動力であるかが判明。人間の生命力で動くとのこと。だからパイロットは戦闘後にかならず死ぬ。予想していたとはいえ、この出口のない感じは嫌いではない。
・今回は登場人物一人格が曲がっているコダマが主人公になる。
・コダマは独我論的人間である。ちなみに私個人の感想としては、こういう小物、嫌いではない。こいつに対しては反感を抱くが、この考えがわからないでもないからである。人間だれしも少なからず有している感覚、感情、考え、というものを肥大化させた人物であるので、この人物に対する嫌悪感は、おそらく自分も有している感覚を言い当てられた時の気にまずさに似ている。人間だれしもこういう考えを持つものだが、それを持っているのは、生まれてこのかたの人生でなんとはなしにいけないことであると学ぶ。だからそれを持っていないふりを人間はするわけであるが、ふとした瞬間に出てきてしまう。それを肥大化させ、前景化したのがこの人物である。

・それにしても、ここに登場する人物の家庭の非現実さはすごい。コダマもまた一流企業の子息だったのか。
・車のセンスがあまりにもひどい。もし、コダマ父が乗っていたスポーツカーらしきものが現実に存在するとして、誰があのデザインの車に乗りたがるだろうか。戦闘ロボットを描くだけの製作者たちならば、人間が乗るマシーンに対してはそれなりに美意識を有してほしいものだ。

・コダマの独我論について。
人間は誰しも自分が特別で、不死身の存在であると思っている。そんなことはないと思っても、それはほぼうそだ。無意識なだけで、人間皆この感覚を有している。というのは論理的に考えれば簡単にわかることで、人間は誰しも自分の死というものを経験したことがない。そして、もし死んだとしたら、それは死の経験とはいわない。人間は決して自分の死というものを、死んでさえも経験することができない存在なのである。死を経験したことがないのだから、自分が死なないと思うのは当然のことである。
ここでこういう反論が来る。しかし我々は実際に他人の死というものを見て、だいたい死というものを理解していると。確かにそうである。だが、所詮他人は他人。結局他人というのは自分とはかけ離れた、その感覚を共有することのできない、絶対的な他者なのである。だから他人が嬉しがっていようがそれが自分に何の関係があるの?他人が怒っていようが、苦しんでいようが、死のうが、それが自分に何の関係があるの?という極めて素朴であるが、論理的にはまったく正しい疑問によって、すべては無に帰す。
そういうわけで、誰しも多かれ少なかれ、こうした独我論は有している。
だが、多くの人間は現実の感覚というものは、他者を見ることによって、なんとなく自分の立ち位置を確定し、他者との共存をしていくため、感覚をなんとなくこんなものだろうと、自分のなかにあるものを他者のなかに見出し、それを共感として生きていく。だいたいの人間はこれがうまくいっているに過ぎないので、コダマの独我論は、ある意味ではまったく正しいし、反感を覚えるとはいえ、なんら不思議なことではない。

・ただ、その独我論が、自分より強い者であり、自分の創造主である父親に求めたのが間違いだった。まだ彼は父親との関係を、信仰者が神に対するそれから脱していなかったのである。だから、彼にとっての父は、社会というよりは、神に近い存在だった。その父を自分で殺してしまう。これはエディプスコンプレックスよりも強烈な話で、神殺しに等しい。


第五話 弱さ
・第五話では、弱さがテーマになる。「強さ」がテーマであった四話も、強さを語ることはすなわち弱さを語ることでもあるので、同じ人間の弱さを描き続けているといえばそうである。だがAがBであるから、BもまたAかといえばそうではなく、弱さを描いているからといって、強さを描くことになっているかといえば、疑問符をつけずにはいられない。敢えて強さをピックアップするのであれば、パイロットになったら死ぬということがわかっていながら、合理的に受け入れることができた数名の精神力か。どうせ死ぬのであれば有意義に自分の命を使って死んだ方がいいじゃないかと、中学一年生で考えられる人間が数名いたというのは、おそるべき精神力で、それが強さといえば、そうであるかもしれない。
・この作品は、GONZO制作で、アニメーションの絵柄としては、小中学生が見ても楽しめるような絵柄になっている。が、そのギャップを使用したものであろう。五話では、なんとこの絵柄で性が描写される。単純にこの絵柄で裸を描くということではないが(一話目で水着を映した場面があった)、この性を彷彿とは一見させないような絵柄で性を描くことの衝撃がここにはある。2010年のカラフルを見た際にもこの感覚は感じた。主人公が恋心を抱いている少女が援助交際をしていて、おじさんたちと性交渉をしているということが、カラフルのあの絵柄で描かれるのである。その衝撃は忘れがたい。
中学一年生で、確かに親子の問題はあるにはあるが、それほど人間のエゴ、といっても四話のコダマ程度かと思っていたら、女子生徒が先生と性交渉をしているという衝撃の事実が明かされる。コエムシも、チズのことを「細見でいいからだ」という表現を使用していて、観客は否応なく、彼女のことをそう見ずにはいられない視点を強制的に確保されてしまう。

・大体こうした「せかい系」の作品というのは、特務機関などが登場するも、どうしようもないくらい体たらくである。が、この作品に限っては、この国防省の人間たちはなかなかやる大人として描かれる。ラピュタに出てきたムスカたちのようだ。特務の人間がこれほど頭が柔らかく、この現実に対応しているのを見ると、ほう、こういう描き方、無能ではない大人を描くことができるのかと感心する。(大抵において、ドラえもんに登場する大人のように、現実に対して理解できずにただ驚きを持ってしか対応できない、というワンパターンな描写が多いことを前提としている。)


第六話 情欲
・第五話から、このアニメのタッチで性を描いたのはすごい!という感想を持ったが、よくよく調べて見たら、五話から与口奈津江という人が脚本を担当していた。この人の担当はあと二話連続で続いているから、同じようなテーマが続くかもしれない。
・このタッチで性を描くのはすごいということだが、今回はさらに突き詰めて、極限状態でのレイプにまで描写が及んだ。幸い、というか不幸というか、実際にレイプするには至らなかったものの、あと少しでそれは叶っていたわけで、ほぼレイプをきちんと描いたと言えるだろう。しかもそれが水族館であるというところが、批評性を有しているのかもしれない。すなわち、水族館にいる男女のカップルなんて情欲の塊でしかないだろうという批判だ。
・極限状態になると、人間は自分の子孫を残したくなるという話は有名だ。病弱な人がたまに女性に好かれるのは、身体的に弱い人間ほど、潜在意識だか脳機能だか、はたまたホルモンか何か知らないが、自分の子孫を残さなければという状態が高まっているからだという話を耳にする。ジアースを操縦すると必ず死ぬとわかった今、操縦をするということはすなわち死である。自分から死にたくもない人間が操縦できるはずがないのであり、カコの行動は人間的であると言っていい。
・この死を忌避するカコがではどうやってパイロットになるのだろうと考えていたのだが、結論はパイロットにならずに死ぬというものだった。さすがにここまでやられると、哀れな、と思わずにはいられない。この作品の製作者たちは相当意地の悪い人達であることはもはや疑いようのない事実だ。

月別鑑賞目録

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9月
映像
『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』
『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊2.0
『パンダコパンダ』『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』
『ジェイン・エア』(2011)


書籍
『サブカルチャー文学論』 大塚英志 著 朝日新聞社 2004
『読むことは生きること』 柳田邦男 著 新潮社 1999
『漱石の記号学』 石原千秋著 (講談社 , 1999.4)
『漱石はどう読まれてきたか』 石原千秋 著 新潮社 2010 (新潮選書)

ゲーム
『エースコンバットX スカイズ・オブ・デセプション』(2007)
『テイルズオブエターニア』(2000)
『ブレイブリーデフォルト』(2012)

行った場所
スカイツリー
オザキフラワーパーク
水戸蓮乗寺
下田
那須高原

総評
9月は『ブレイブリーデフォルト』に半分持っていかれたような記憶がある。映像書籍ともにあまり触れられていない。


8月
映像
『思い出のマーニー』(2014)
『清須会議』(2013)
『恋するリベラーチェ』(2013)
『のぼうの城』(2012)
『ムード・インディゴ~うたかたの日々~』(2013)
『マライアと失われた秘宝の謎』(2013)
『変態小説家』(2012)
『さかさまのパテマ』(2013)
『ゼロ・グラビティ』(2013)
『キック・アス ジャスティス・フォーエバー』(2013)
『大統領の執事の涙』(2013)
『るろうに剣心』(2012)
『LIFE!』(2013)
『銀河鉄道物語 〜忘れられた時の惑星〜』(2003)
『少女は自転車に乗って』(2012)
『アニースペシャルアニバーサリー』(1982)
『永遠の0』(2013)
『BUDDHA2 手塚治虫のブッダ―終わりなき旅』(2014)

書籍
『近代文学の女たち : 『にごりえ』から『武蔵野夫人』まで』 前田愛 著 岩波書店 1995 (同時代ライブラリー ; 234)

ゲーム
『英雄伝説 空の軌跡SC』 (2006)
『空の軌跡 the 3rd』(2008)
『テイルズオブファンタジア(フルボイスエデュション)』(1995)


デイホームに介護等体験
聖蹟桜ヶ丘 耳をすませばの舞台
金沢
能登半島
平湯
長瀞 渓流下り

総評
8月は思い返せばものすごく映画を観ていたようだ。レンタルショップに行くと、あれもみたいこれも見たいと思って借りてしまう。私はあまり計画的な人間ではなく、けっこう衝動的な人間なので、大抵自分のキャパシティーをオーバーした分量を借りてきてしまう。お金がもったいないから全部見なければと思い、大変だと思いながらも映画を鑑賞する。そして返却する。そうするとまた新しく借りてきてしまう、という負なのか、正なのかよくわからない循環をしている。
7月にあまり作品に当たれなかったのは、このころから自分に今はやってはいけないとずっと抑えていたゲームをしはじめたからだ。実習も終わったし、特にこれといって精神的に緊張しなければならない理由もないので、友人から借りてみた『空の軌跡』シリーズを始めた。FCにつづき、SC,3rdまで行った。
ゲームというのはどうしてもクリア時間が60時間とか、70時間とかになってしまう。これを私はどのようにクリアするのかというと、大変体には悪影響なのだろうけれども、一週間、ほぼ寝たきりでずっとプレイするのだ。だから、一週間はこのゲームのために消費される。それを一本、二本、三本と行うのだから、8月はずっとゲームをやっていたのだろう。たまにレベル上げなどで、ほとんど画面を見なくていい時に映画を鑑賞するという、鑑賞者の態度としては最悪なものをしている。




7月
書籍
・『近代という教養 : 文学が背負った課題 』 石原千秋著 (筑摩書房 , 2013.1)
・『教養として読む現代文学』 石原千秋著 (朝日新聞出版 , 2013.10)
・『哲学の謎』 野矢茂樹 著 講談社 1996 (講談社現代新書)
・『紅一点論 : アニメ・特撮・伝記のヒロイン像』 斎藤美奈子 著 ビレッジセンター出版局 1998
・『禅「心の大そうじ」』 枡野俊明 著 三笠書房 2011 (知的生きかた文庫)

映像
『マレフィセント』(2014)
『眠れる森の美女』(1959)
『ベストキッド』(1984)
『ニューシネマパラダイス』(1988)
『メリー・ポピンズ』(1964)
『ホビット 竜に奪われた王国』(2013)
『最後のマイ・ウェイ』(2012)
『ニューヨークニューヨーク』(1977)
『トッツィー』(1982)


漫画
『サイボーグ009』

ゲーム
『英雄伝説VI 空の軌跡(空の軌跡FC)』(2004)

養護学校に介護等体験
河口湖
富士サファリパーク
石巻へボランティア
笠間芸術の森公園

総評
7月の前半は、石巻へのボランティアで忙しかった。六月の最後まで教育実習を行っていたので、7月は休養期間となった。あれを現場の教員は一年中やっているのかと思うと、とても私にはやっていられない忙しさだと思う。やはり私には時間が必要だと思った。
教育実習で肉体的に疲れていたところに、ボランティアで精神的な衝撃を受け、7月はなかばうつのような状況に陥っていた。実習中の精神状態は安定していたが、7月ごろから心身の調子を狂わせ始めたようである。
気晴らしを多く必要としたので、映像、書籍ともに作品にはあまり触れられていない。
映像に関しては古い映像をよく見ている。私はこういう作品のほうがおもしろいと感じる。

ジャッキー映画『天中拳』 感想メモ

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 ジャッキーの映画自体、それほど見ていない。金曜ロードショーでやっていたのを見ていたくらいだ。今回はジャッキーの『天中拳』というのを借りてきて観た。酔拳や、蛇拳などは繰り返しみた記憶があるので、聞いたことが無い作品を見てみようと思ってのこと。
 副題なのか、本タイトルなのかわからないが、「カンニングモンキー」というのもタイトルにある。
 どういう意味なのかわからなかったが、最後のラスボスとの戦闘においても、ジャッキーが型が書いてある紙切れをカンニングしながら戦うという、あるいみふざけた作品であった。

 全体的に軽い拳法シリーズであったのではないかと思う。
 こういうジャッキーの映画をどう捉えたらいいのかよくわからない。映画の専門的な勉強を受けていないというのもあるが、もし映画の勉強をしていたとしても、ジャッキーの映画にはまた別の文法が存在するような気がするからだ。
日本におきかえて考えてみたのだが、例えば山田洋二の「寅さん」シリーズがこれに相当するのではないかと比較対象を立てて見る。今回の作品においては、なんだか寅さんの渥美清に似た師匠が登場する。もちろんただの余談であるが。
さて、このジャッキーのカンフーシリーズ。大体大きな枠組みはいつも一緒である。半人前だったり、まったく強くない主人公が、老人役の師匠から秘伝の拳法を学び、敵を倒すという、単純と言えば単純な話なのだ。だが、なぜ単純な作品であるはずの、寅さんや、カンフー映画が今みても楽しいのかというと、そこにはこんな理論が働いているからではないかと思う。

 こんなとはこんなだ。例えば漫画の話。両不二子が作り出した「ドラえもん」。普及の名作となったことは言うに及ばない。さて、このドラえもんであるが、なぜ今でも残っているのか。両不二子は、デビュー当時から「古い」と言われ続けてきた。それは彼等の画風が、リアル志向であった60年代70年代において、丸みを帯びたあの独特な、これ以上簡素化できないような表現だったからである。しかし、その当時の最先端を行っていたリアリティーを追求した作品はどうしたのかというと、時代の波に残酷にも呑み込まれてしまったというわけなのである。
 私の教授が述べていたことであるが、例えばスーパーファミコンのドット画の作品は今プレイすることが可能で、比較的たのしく受容することができる。しかし、時代の最先端を行っていたはずの、プレイステーションの作品などは、ポリゴンがすごくてとてもできたものではないと。とすると、ポリゴンよりも、あのドットのほうが現在でも楽しめる、というのには、これ 以上簡素化できない、きわめて記号化された部分においては、普遍性を持つのではないだろうか。
 そうすると、寅さん映画や、ジャッキー映画のおもしろみが分かってくるような気がする。というのは、これらの映画はあまりにも簡素化しすぎていて、パターンが簡単でわかりやすく決まっていて、それゆえに反転しておもしろく、今現在にいたっても見るに堪える映画になっているということなのである。

 さて、今回もまたほぼお決まりのパターンである。ただ、今回の映画は、最後に何十人も登場して、敵のボスも3,4、名も登場するという、大団円を迎える。これがなかなか壮観であり、ずいぶん力をいれたのがわかる。
 それまでの展開がずいぶんテキトーというか、おふざけにすぎたというのもあるかもしれない。その反動だろう。
今回の話は、秘薬を護送する主人公サイドと、それをつけねらう盗賊たちの大戦闘というもの。実際には秘薬というのはただのハッタリで、盗賊たちを一度に集結させて、一気に討伐してしまおうという作戦だったことがわかる。

 ふと疑問に思ったことなのだが、一体このジャッキーのカンフー映画というのは、舞台設定はいつなのだろうか。日本におきかえた場合、これらの映画はどんなものになるのだろう。忍者映画にでもなるのだろうか。そもそも中国において本当にこんなにカンフーの達人たちが戦っていた時代があったのだろうか。そしてもしあった、というかカンフーが盛んな時代があったとして、それが一体いつごろだったのか。よくよく考えれば、私たちはそれらに対して何の知識もないし、説明も与えられていない。
 例えば1900年ごろが舞台であるとか、そういうことが一切わからない。中国のどこらへんの話なのかもよくわからない。あんな作務衣のような服を着て生活していた時代や地域があるのだろうか。おそらくあるのだろうけれども、どうなんだろう。これは誰か詳しい人に是非教えてもらいたいものである。

竹内敏晴『生きることのレッスン』 感想とレビュー ことばについての一考

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 竹内敏晴の『生きることのレッスン』を読んだ。正直読みやすい文章とは言えなかったが、非常に独特な、彼にしか出せない文体であったことは確かだ。
 竹内敏晴の名を聞いて、ぱっと彼のことがでてくる人間が今どのくらいいるだろうか。私の周りの友人たち、今大学生の友人たちはほとんどわからなかった。
 私がなぜ竹内敏晴の名を知ったかというと、ある教育系の授業を取った際のことだ。その授業を担当していた女性の教授が、教育を身体と結びつけて考えていた人だったので、そこで学んだのである。その授業もなかなかユニークで、ただ、ちょっと生徒にはどうして教育と身体が結びつくのか理解ができずに寝てしまっている生徒が多かったが、私にはとても刺激的な授業であった。教育の授業なのにもかかわらず、ガンジーが出てきたり、職人のビデオを延々と見せられたりしたが、よくよく考えてみると、この授業が今現代の教育問題へのアンチテーゼになっていることがわかる。
 そんな授業のなかで、竹内敏晴の名があがった。彼の書籍からの引用文と、授業内で「呼びかけのレッスン」を行った。

 竹内敏晴は2009年に亡くなっている。1925年生まれだから、かなりの長寿だ。流石は「からだ」に重きを置いていた人物ということになろうか。
 竹内敏晴は自分の感覚を非常に重視して、独自の身体論を築いた人物である。彼自身、耳に障害があり、小さいころはそのために言語を獲得するのが他人より遅れたという経験を持つ。本書によれば、途中手術などをして、右耳の聴覚を回復、中学生、高校生くらいになってから、やっと他の人と同じように言語を獲得できる状態になった、という人物だ。だから、中学、高校時には、言語を上手く獲得できていなかったのである。こうした言語に非常な困難を伴った人の文章を読むのは、私は初めてかもしれない。
 彼はそのように言語習得がかなり遅かったため、独特な言語観を持っているようだ。文章は彼が書いたのか、あるいは彼が話したものを文字に起こしたのか、ちょっとわかりづらいところがあったが、その文章は独特で、普通に話したとしても、ああは文章にならないと思えた。彼の文章は、彼が言う通りに、とても身体的なのだ。私の文章がどのような文章かは、なかなか自分で書いているから客観視しづらいのだが、おそらくは他の文章に比べて装飾が多く、読みにくい文章だろう。言葉にあふれていて、結局何をいいたいのかわからないような文章だと思う。思考が文章になっているような文章なので、よくまとまっていないんだ。例えば、文学好きの私はこのような文章を書く。それに対して竹内氏の文章は、私の文章とはまったく反対の文章だ。

 例として一番最初の文章を引用してみよう。
〈先日、「出会いのレッスン」をやりました。
二十歳だという青年が出てきました。もう一方からは小学校の教員と聞きましたが、やはり若い人が出てきた。
このレッスンは、ずっと歩いていってすれ違えばいい。その時、あこの人いいなと思えば近寄っていって手を差し出してもいいし、かかわりたくないと感じればそのまま通り過ぎてゆく。感じるままに自由に動いてみることで、その人の対人関係のこだわりとか、自己表現のしかたとかが現れてくる。それを、立ち会っている人と一緒に考えてみるのです。〉

 本書の冒頭の部分だ。冒頭だから比較的クセの少ない文章になっているかもしれない。ただ、そのクセは少なからず出ているだろう。彼の文章はスラスラとは読めない。それは彼が会話においてもそうであるように、時にはことばにつまって、20秒、30秒と立ち止まるからだ。
 私もしばしば言葉がぱっと出てこないことがある。あ、ここは漢語的に漢字二文字になる熟語で表現しようか、それとも和語的に表現しようか、自分の頭のなかで判断ができるまえに口が動いてしまう為、そこでぱっとつまってしまうことがあるのだ。ただ、竹内氏のつまりかたは、そうではないような気がする。彼はもちろん私より長く生きているから私よりも言葉の獲得数は多いだろうけれども、しかしぱっと瞬時に言葉を出すという力においては、かなりハンディーを持っているのだろう。言語習得が遅かったせいかもしれない。
 そのために、彼の文章は流暢ではない。ただ、そのかわりに、しっかりとことばを押えている、という感じがある。少なくとも私のような文章よりは、多くの人が竹内氏の文章に好感を抱くだろう。それは私の文章が口から出まかせみたいなものなのに対して、彼の文章はしっかりと地に足がついていて、無骨だけれども、信頼ができる文章だからだ。


 今回の記事では、彼の本についてというよりかは、このひとそれぞれの文章や文体、というものをテーマに、最近私の身近で起こったある事件を論じてみたい。

 事件というほどのことでもない。私には中学生になったばかりの妹がいるのだが、この子についての話だ。
 評論家の大塚英志はよく「ことば」という言葉を使用する。単語とかそういう意味で使用しているのではない。その人がどんな風に話すのか、例えば大学教授には大学教授らしい「ことば」があり、親が子に対するときは親の「ことば」がある。大学教授だからといって、家でも授業中に話すような話し方だったり、研究者たちとわたりあうときの言葉を、家の中では使用しないだろう。家に帰れば彼はまた親である。ところが、親は親らしい言葉を常に話すかというと、それも一筋縄にはいかない。大学教授をしている親であれば、やはりどことなくその職業によりそった話方になるだろう。土方の親であれば、大学教授の親とはまた扱う「ことば」が異なってくる。こういうような意味で、大塚はよく「ことば」という言葉を使用する。
私石野が使用する言葉は、まさにこのような、評論に向いたような「ことば」の使用だ。対して、竹内敏晴の言葉は評論には向かない。そのかわりに、彼の言葉は地に足がついて、どっしりとしている。

 で、私の妹の話であるが、この妹の使用する「ことば」が大変問題なのである。
 大平健という人が書いた『豊かさの精神病理 (岩波新書)』という本がある。この本のなかでは、バブル経済時においてモノに溢れた人々がどのような話し方、「ことば」を使用したのかということが、半ばおもしろく、なかばおそろしく描かれている。
 モノ語りする人々というのがそこには登場する。例えば人のことをモノによって判断するのである。私たちが人を判断するばあいは、例えば容姿、容貌、性格、だとか、普段の言動などを評価規準にする。あの人はさ~という会話が始まる時には、その人が先日行ったことや、言ったことなどを取り上げ、その人を評価していく。ところが、モノ語りの人々はどう人を判断するかというと、モノなのだ。あの人はコーチのバッグに、エルメスの時計で、どこどこのなになに、といったように、私達が性格や言動で人のことを判断するのに対して、モノで判断するのである。モノが判断基準になっているのである。
流石にそのような人たちはもうほとんどいないだろう。
 だが、どうして私がこのような話を引用したかというと、この私の妹が、少しモノ語りの人と似ている部分があったからなのだ。

 私の妹は腹立たしくなるほど猫をかぶっている。私の様に口の立つ人間と、大学生の弟に揉まれて、口と性格はずいぶん達者だ。ところが、一歩外へでると、先ほどまでの強気はどうしたのかと思われるほど、大人しくなってしまう。それをみているとただでさえ腹立たしいのだが、私怨はおいておこう。
 さてこの妹であるが、家のなかの人に対しては非常に強くとげとげしい態度や言動をする。ところが、外に対しては静かだ。で、おじさんやおばさんといった人になると、外か内かを判断しかねるのだが、祖父に対しては完全に外向きである。私はおじいちゃんっこだったので、祖父とは小さい頃からずいぶん話した。一緒に住んでいたことはないが、いまではタメ口で批評でもなんでもしてしまう。
 ところが妹は祖父との接点をほとんどもたない。とすると祖父の前では何を話していいのかわからないのか、沈黙を守ったままなのである。これでは祖父もかわいそうだと思い、先日外食をした際に隣に座らせてみた。少しは話せたらいいだろうという配慮からだったが、やはり話さない。
 ところがこの妹が家にいるようにものすごく饒舌になった瞬間があった。それがモノに関しての語りの時だったのである。
我が家は旧式の頭を持った父がいるため、私自身ケータイを持ったのは中学3年生のころであった。妹は中学一年生になったばかりである。まわりの友人たちはみんなスマフォを持って、LINEをやっているという。で、父に買ってくれとねだっては泣いているような日々を送っている。
 そんな父がスマフォを今年中には買ってあげようという約束はしたのだが、はぐらかしている。それをたまたま食事の席で、面白おかしく祖父の前で披露したわけだが、それまで沈黙を守っていた妹が、スマフォの話になった瞬間、突然怒濤のように話し始めた。あの機種のデータ容量は何々で、それとは違う機種は何々で、私にはまるで記憶もできないような何を言っているのかわからないデータの羅列だったが、我が妹はなんと哀しいことか、このようなモノしか語れない人間になってしまっていたのである。

 親も最後にずいぶん離れた娘だということもあって、かなり甘い。私が半分父のような感じになっているのだが、私もずいぶん欠陥のある人間だ。父の存在がつとまるはずがない。そんなことをしているうちに、私の妹はデータでしか話ができない人間になっていた。
 中学生におじいちゃんと話せというのは酷だという人がいるかもしれない。こんな時代である、確かにそうかもしれない。私は小学生のころから一人で泊まりに行ったりもしていたし、そうしたことができないということがどういうことなのかわからない。また、私は普段から老人と接したり、大人と接したりすることに抵抗を感じていないし、誰とでも話せるようにつねに普遍的な話題を持つようにしている。だから、友人たちなどが老人ホームへ手伝いに行った時に、老人と何を話せばいいのかわらなかった、という感想を聞くと、やれやれと思う。そんなものは、老人に何か聞けばいいじゃないかと思う。70年、80年も生きて来た人生の先輩だぞ!?何にも経験してこなかったわけがないじゃないか。そのなかには人に話したい、若い人に聞いてもらいたい話なんていくらでもあるだろう。それをひきだすだけでいいのに、なぜ話そうとするのか?

 私の妹が祖父と話せないのは、ひとえにこの相手に対して何かを聞く、あるいは「聴く」という態度がまったくないからなのかもしれない。相手に耳をそばだてて、こころを寄せ、相手から何かを引き出す、そういう基本的な心構え、思想が欠落しているのではないだろうか。
 近すぎるからいけないとはいえ、私の妹がそんな状態では、これだけ言葉やこころの重要性を訴えてきた私の面目もない。そのことがあまりにも衝撃的だったので、私は今回記事を書くに至った。
 竹内先生の教えは、呼びかけをしたり、相手とこころを向き合わせたり、そういう本当に大事なコミュニケーションの学び場であった。昨今コミュニケーション、コミュニケーションと、カタカナが平易に叫ばれるが、本当のコミュニケーションとは、表面上の話す能力ではない。その人ときちんと向き合えるかどうか、そういう姿勢のことなのではないかと思う。
さて、我が妹、どうしたものか・・・・・・。

読書メモ 大塚英志『サブカルチャー文学論』 感想とレビュー

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 最近大塚英志の評論をいくつか読んでいる。いずれも途中まで読んでそのまま本棚に置いているというのが何冊かある。『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』『物語治療論――少女はなぜ「カツ丼」を抱いて走るのか』『「おたく」の精神史――1980年代論』『教養としての「まんが・アニメ」』等々。いずれも途中までは読んだ作品で、きちんと読破したのは、吉本隆明との対談本『だいたいで、いいじゃない。』と、今回読んだ『サブカルチャー文学論』である。
 大塚氏の文章は私には論理的に感じられ、なるほどそういう意味かと納得できるものが多い。
 ただ、この『サブカルチャー文学論』、大変長い著作で、ハードカバーで600頁を超える作品となっている。最後のほうはけっこう流し読みみたいな感覚で読んでしまったので、なかなか頭にはいってこなかったのは、読者の怠慢であった。

 ウィキペディアを見て見ると、彼の作品が沢山羅列されている。大塚はもともと漫画原作者である。漫画の原作が本業としつつも、長編小説も書いているし、評論家としての活躍も華々しい。
 しかしこれだけ作品が多いと、もしやゴーストライターを起用しているのでは?と疑われかねないが、私の感覚で言うと、大塚英志はおそらく本当に自分でやっているのではないかという感覚が持てる。彼の細緻な評論を読んでいても、ものすごい情熱を感じる。一体この作品を作り続ける情熱がどこから湧いているのか、とても気になる。

 とかく大塚は時に過激な表現をするので、他の批評家や原作者たちとの論争に絶えない。評論文ではこれだけ論理的な展開をする、非常に学者肌の人間なのかと思えば、ニコニコ動画などで論壇をはっている動画を見ると、なんだ、こんなへんちくりんな人なのかと予想を覆される。
 ただ、それでも私は評論家としての大塚を尊敬するし、作者としての大塚へのあこがれもあるし、あのように活躍できる人間になりたいと思う。


 本書では、サブカルチャーという名が冠されているが、私たちが一般の文脈で使用するサブカルチャーとは言葉の意味が異なる。大塚が使用するサブカルチャーとは、大塚が常に意識して批判している江藤淳の使用したサブカルチャーの定義からはじまる。
 それによると、江藤淳の使用したサブカルチャーというのは、マンガやアニメなどのハイカルチャーに対するサブカルチャーではなく、文学がサブカルチャー化していくという意味でのサブカルチャーなのだ。私も一度しか読んでいないので、なんとなくしかわかっていないのだが、小説が虚構であるということにその作品が批判的であるかどうか、といった視点がどうやら重要らしい。

 大塚はどの著作を読んでも江藤淳を気にして書いている。なぜそこまで江藤淳にこだわりつづけるのだろうと思っていたのだが、本書の本分と、あとがきにそれにたいして少しのヒントがった。大塚は江藤の評論を読んで育ってきたこと。それから、漫画作者として活躍していた時代の大塚に対して、江藤淳や中上健次が好意を寄せていたことに彼等の死後気が付いた、ということだそうだ。
 まぎれもなく大塚は江藤研究の第一人者といっていいほどに彼を研究しつくしたように感じられる。
 今、文学研究者というと、ビッグスターは石原千秋や小森陽一、といった人ぐらいしか、私の貧相な頭脳ではでてこない。かつては、伊藤聖や小林秀雄、江藤淳、前田愛、などそうそうたる巨星の時代があったことだろう。平成生まれの私は、そのような人たちがいたということぐらいはなんとか知ってはいるが、そのひとたちがどのような人で、どのような評論をしたのか、というところまでは、なかなか煩雑な日々のなかで知るに至らない。そして彼らの仕事を知るには、彼等は仕事をしすぎたのである。小林秀雄全集なんてものを図書館で見たとしても、それをじゃあ読んでみよう、なんていう気にはとてもならない。
 そうした意味では、大塚氏が江藤淳のワークをこのようにまとめて紹介してくれるのは、非常にありがたい。

 この大著の中で大塚が論じているのは、村上春樹の『風の歌を聴け』や、田中康夫の『なんとなく・クリスタル』、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』、石原慎太郎『太陽の季節』、大江健三郎『取り替え子』、それから作家としての吉本ばななと山田詠美などである。
 吉本ばななや山田詠美などを私はまだ不勉強にも読んでいないが、あとの男性作家の作品は読んでいるし、私自身の研究分野ともかさなってくるから、大変参考になる評論だった。
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