『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL2.0』 感想とレビュー どこまでも身体的な映画

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 初めて攻殻機動隊を見た。以前から見ようと思っていたのだが、ネットで検索したかぎりにおいては、多数の派生作品があり、どこから見ていいのかわからなかった。この作品のネットという問題にもかかわってくるが、現物とネット上のバーチャルなものとの差というのを感じずにはいられない。
 話しがずれるが、日本でのCDの売り上げはネットでの音楽販売が始まってからさほど落ち込んでいないどころか、一部的に持ち直していると聞く。なんのデータも提示できないのでいささか説得力にかける無根拠な話だが、あながち否定もしきれない。というのは、日本人は(日本人に限らずとも)収集癖がある、というか、実際にものを集めることに重きを置いているからだ。
 データでいくらあっても気が済まないというのが人間、あるいは日本人としての心情なのだろう。やはりすぐに目に見えて、手に触れる「モノ」としてのものがいいのだ。

 私もネット上で情報として見ているだけではちっとも作品を見てみようという気持ちまで持っていけなかった。レンタルショップで現物を手に取って見るからこそ、見てみようという気持ちになる。
 意外とこういう作品ばかりを見ていると、ウェブ上、ネット上の架空のほうがいいのではないかといった錯覚を起こしてしまうものだが、ネットと現実というのは、相互補完的なもので、どちらか一方がいいという認識はどうも間違っているような気が私にはする。この作品でも、「ネットは広大だわ」といって、プログラムと同化した素子が街を見下ろしながら終わるわけだが、やはりそこは現実を目の前にしたうえで、そこにひろがるネットという、どちらか一方という認識を逸している感じがする。

 こういう作品を論じるのは難しい。
 例えばこの作品が鬼才と呼ばれた押井守監督による作品であるとか、その後世界を騒がせた「マトリックス」に極めて大きな影響を与えた作品であるとか、そういうことを指摘してみたところで、何の意味もないように私には思われるからだ。なるほど、そうしたこの作品の外部をまつわる知識的な部分は、確かにこの作品をいまだに見ていなかった私のような人間にとっては新鮮かもしれない。しかし、それが何か創造的な、これから何かに活かせるようなものに展化していくような気がしない。
 この作品には、かなり重要な指摘がいくつかある。それを一つ二つ拾い出してみることで何か有効な批評になるのではないか。

 私とは何なのか
 この作品は自己や自我といったものを作品によって捉えなおそうとしている。押井守は、自分が気持ちのいい、それで本当にいいと思われる世界ならそれがたとえバーチャルであってもいいんじゃないか、つまりそのバーチャルが本人にとって現実になったとしても、本人がいいのならばいいのではないか?といった発言を、たしか「アヴァロン」制作時に述べていた。この作品は95年だから、それよりも前になるわけだが、その思考へ至る経過地点といえばそうなるかもしれない。

映画から。

素子「あたしみたいな完全に義体化したサイボーグならだれでも考えるわ。もしかしたら自分はとっくの昔に死んじゃってて、今の自分は電脳と義体で構成された模擬人格なんじゃないか。いやそもそも初めから私なんて存在しなかったんじゃないかって」
バトー「お前のチタンの頭蓋骨の中には脳味噌もあるし、ちゃんと人間扱いだってされてるじゃないか」
素子「自分の脳を見た人間なんていやしないわ。所詮は周囲の状況で“私”らしきものがあると判断しているだけよ」
バトー「自分のゴーストが信じられないのか」
素子「もし電脳それ自体がゴーストを生みだし、魂を宿すとしたら。その時は何を根拠に自分を信じるべきだと思う?」
バトー「くだらねえ」

 確かに自分とは何なのか。これは哲学の世界では「第一の問い」や「最初の問い」などといって、誰もが確かに一度くらいは考えるもっとも根源的な問いである。多くの場合は、子供時代にこういうことを考えるようで、しかしそれを大人にいっても答えてはくれないし、次第に大人になっていくにつれ、そんなもの、こんなものさ、とこの問いを問うことをやめてしまう。私のような人間は、この問いを考え詰めることによって、一時期精神的にかなり危険なところまで行ったが、こういう問いのために死んでいく人間は少なくはない。
 確かにこの「私」が存在するその理由というのは、わからないし、わからないと命を落としかけない大事な問題であることに間違いはない。


「人形使い」と呼ばれるサイボーグの言。
サイボーグ「一生命体として政治的亡命を希望する」
部長「生命体だと?」
中村「バカな!単なる自己保存のプログラムにすぎん」
サイボーグ「それをいうならあなたたいのDNAもまた自己保存のプログラムにすぎない。生命とは情報の流れの中に生まれた結節点のようなものだ。種としての生命は遺伝子という記憶システムを持ち、人はただ記憶によって個人たりうる。たとえ記憶がまぼろしの同義語であったとしても、人は記憶によって生きるものだ。コンピュータの普及が記憶の外部化可能化したときあなたたちはその意味をもっと真剣に考えるべきだった。」
中村「詭弁だ。何を語ろうと、お前が生命体である証拠は何一つない。」
サイボーグ「それを証明することは不可能だ。現代の科学はいまだに生命を定義することができないのだから」


 この作品のおもしろいところは、サイボーグや機械と呼ばれる無機質、無機物なものを生命と捉えている点だろう。こういう生命あらざるものを生命と見る視野、視点というのは、日本では手塚治虫なんかが確立していったものだ。だが、手塚が確立したからといって手塚の発明と考えるよりは、日本にはそうした土壌があったと考えた方がより正しいのではないか。
 日本はなんにでも魂が宿るといった、八百万の神の思想を持った民族だ。
 またこの作品にもかかわってくるが、日本はいいものであるならばどんどん取り込んでしまうという体質を持つ。一方で純粋になりたいといった単一国家的な側面も無きにしも非ずであるが、これはおそらく百年前に西洋から持ち込まれた西洋的な思考様式からくるのではないかと私はにらんでいる。
 ともかく日本的ななんでもいいものなら取り込んでしまおうという思想背景があるからこそ、こうして自分の肉体をいじって、サイボーグ化したり、義手、義足を取り込むといった作品が作られ、またさほどのアレルギー反応がなく、大衆にうけいれられていったのではないかと思う。


 私がこの作品を論じたいと思ったのには、この作品が二度見る価値を有しているからである。二度見させる作品というのは、それだけ作品に力がある。大抵の作品は一度みたら、満足した、終わり、である。ところがこの作品は謎がわかりやすく提示されない。答えもままならない。となると、もう一度みるほかなくなるのである。
 最後まで見てもう一度見ると、最初っからコード2501というワードが出ていることがわかり、これはまんまとやられたなと苦笑いしてしまう。

 この作品はサイボーグや義手、義足といった機械的な身体を持ちつつも、やはり身体を非常に重要視した作品だと思う。スタジオI.Gで制作された作品で、おそらくこの時代においては最先端のCG技術を使用しているのだろう。
 途中からセル画のような映画になってしまうが、冒頭はフルCGである。
 主人公素子をなめまわすようなカメラアングルは、男性の視点と言えるだろう。いくら光学迷彩だからといって、途中で光学迷彩を使用した男のように、なにも裸でなくてもいいわけである。素子を裸にさせたかったのは、製作者たちの思惑というか欲望にほかならないが、しかし観客もまたそれに対して共感的であろう。このところを女性はどう見るのかわからないが、男性が男性の肉体を見る視点と、女性が女性を見る視点というのはどうも少し異なるようである。
 私は男なのでなんとも言えないが、私の女性の友人が、女性のストリッパーのショーを見に行ったことがあると言っていたが、第一の感想が「美しかった」ということだから、やはり私の想像の範囲を超えている。
 またこの作品が身体的であるのはこんな場面にもあらわれる。最初に「ノイズが多いな」というバトーのセリフに対して「せいりちゅう」と素子が答える。私は当初「整理中」、機械的な身体だから整備か何かをしている途中なのだろうと思った。これなら機械的な身体論である。ところが字幕を見て見ると「生理中」なのである。機械の身体を持って、頭だけが吹き飛んでも再生できる状態でありながら、なんとこの機械の身体は「生理」をするのである。CGの描写からは、女性器は確認できない。それは表現しなかったのか、あるいは機械の身体だから本当にないのか、わからない。が、生理しているというのであるから、極めて人間に近い身体的な感覚であることには違いない。表現しなかったのではないかと思う。

 結論もなにもないのだが、敢えて結論的なものを述べるとしたら、このような人間的な身体論に基づいた作品だから義手や義足といっても大きな問題にならずに、受け入れられたと言えるだろうか。あるいは、これは今後の我々を描いているとも言えるかもしれない。グーグルが必死にメガネだとか、チツプだとかを開発している。この作品に近い、肉体に機械を融合させるというのは、そんなに遠い話でもないかもしれない。

読書メモ 夏目漱石研究のいきぬき 石原千秋に疲れて


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 僕のこんななんのとりとめのないブログに眼を通してくれている奇特な読者さんに、またしてもこんななんのとりとめもなく、なんの意味のない文章を見せるのもなんだか悪いような気がしている。が、こんなものしか書けないのだからしたかない。そこはあきらめて、こんな僕でよければつきあってもらうほかない。
 今日は特にひどい内容だ。内容がないといったほうがいいかもしれない。今回は単なる愚痴なのだ。

 さて漱石研究者で有名といったら・・・という前提の前に、まず21世紀の現代においては、ほとんど大半の人間がまず文学を読まない。ということは、必然、漱石も読まない。1000円札の地位からも転落してしまうことが時代を語っているように私には思える。私のなかでは、漱石は一万円になぜならないのか?!と意気込んでいた時期もあったが、なるほど時代の潮流を見ていると、なんとなくもうそんな時代じゃないんだなということがわかる。
 現代の人達にとっては文学はさほど重要なものじゃないし、当然漱石も重要なものじゃない。とすれば、漱石を研究することなんて、二重にも三重にも重要じゃないもので、下手したら死ぬまでなんのかかわりもない人がほとんどのことなのかもしれない。

 まあしかし、僕みたいに現代社会で生きることがむずかしく、理屈っぽい文弱の徒にとって、文学は重要なことであるし、漱石は重要なことであるし、その研究もまずまず重要なことなのだ。
 僕は漱石によって精神的に助けられたと自分で思っているから、いつまでも漱石に頭があがらない。
 そんなこんなで僕は12月に卒業論文というものを提出しなければならないのだが、それを漱石でやろうと思って、今、必死になって書いている。(といっても、まだ書いておらず、資料に目を通している段階なのだが)。それがつかれてしまったので、今回はちょっと息抜きで愚痴をこぼそうというのだ。

 その前にひとつだけ漱石の魅力を語っておこう。もしかしたら漱石をこんな時代に読んでみようという気になるかもしれない。
 今漱石は秘かなブームになっている。というのも御存じかもしれないが、国語の教科書にそのごくごく一部が抜粋で掲載されている有名な『こころ』という作品が、東京大阪両朝日新聞社に連載されてちょうど100年の節目にあたるからだ。だから朝日新聞社では、『こころ』の連載を当時のように行っているらしい。それで秘かな漱石ブームが到来しているのだ。が、それほど大きなブームにもならないところをみると、やはりもうダメなのかもしれないと、失望してしまう。
 まあしかし、この21世紀に漱石を読むことは決して無駄なことではないと僕は考える。そんなことは多くの論者も言っていることで、ことに漱石研究では有名どころの小森陽一氏が2010年に発表した『漱石論――21世紀を生き抜くために』なんてものは、タイトルの通りに、今の読者が漱石を読むことの意味や意義について語った本である。
 僕なりに噛み砕いて言うと、例えば、宮台真司や大塚英志も言っていることだが、結局21世紀にまでなって、我々日本はいわゆる西洋の「近代」というものができていなかった。今から100年前に西洋化するんだ、近代化するんだと輸入したはずの概念が、実はぜんぜんこの100年間うまくいかずに根付いていなかったということが、こんどの3・11の時に露呈してしまったというのである。
 あの震災の時に、みんながそれボランティアだ寄付だ、それから少し時が経てば震災のことなど忘れ、しかし忘れようとしてもこころのどこかでは不安が残っているから、台頭する安倍政権へのだらしのないすがりつき。ナショナリズムの高揚。がんばれニッポン。宮台真司や大塚英志が『愚民社会』なる本を書きたくなるのもわかる。
 そうすると、我々日本は実はまだ江戸の続き、近世だったというわけだ。そこで、もういちど西洋のきちんとした近代。自分でものごとを考え、安易にはながされない人間、そういう人間像をつくりださなければならないのではないか?ということになる。そうなったときに、今から100年前、このままでは日本は欧米列強に呑み込まれてしまうと心配して、なんとか西洋の近代というものを取り込もうとしたのが漱石だったのだ。だから、彼が書いた小説の中には、多くの悩みつづける主人公たちが出てくるが、彼等の悩みというのは、今真剣にいかにしてきちんとした自我を持ち、自分の頭で考え、行動するか、ということを考えている人間の悩みと重なってくる。
 そもそも僕は100年という歳月をそんなに長いものとは感じていない。まあ時間の感覚なんて人それぞれなのだから別にそんなことはどうでもいいのだろうが。ただ、全体として100年という歳月を短いと感じる人は少ない、ということだけは感じている。だが、どうだろう。私たちは平均年齢が80歳を超えようかという時代に生きている。僕たちだって80くらいまでは平均で生きるのだ。下手をしたら90、100歳まで生きることになるかもしれない。今100歳の人というのは、下手をすると漱石が晩年胃病に苦しみながらなんとか文筆活動を続けていた、そんな時代に生きていた人なのである。とすると、100年なんてそんなに長いものではないじゃないかと、僕には感じられるのだ。
 100年程度では人間はさほどかわらない。良くも悪くも。しかも悩みの種が僕たちと同じ内容なのだから、漱石が今読んでもいきいきとしているどころが、一緒になって考えてくれているような感覚を催すのは、こうした理由があるからである。


 さて、では本題。といっても愚痴なのだが。
 漱石研究で有名というと、まずこの二人の名前が挙がる(少なくとも我々国文学の世界では)。それは石原千秋と小森陽一という人物である。この人達、90年代から00年代にかけて、漱石研究を一緒になってコンビを組んでやっていた研究者で、それまでの「読み」を覆し、斬新な読みを提示したりと、目覚ましい活躍をした名コンビだった。
 ところがどういうわけか、近年はとても仲が悪いらしい。我々国文学の世界では例えば『国文学 鑑賞と解釈』なんていう雑誌があって、大抵の研究者はここに論文を発表したりして活動しているのだが、最近ここに掲載される石原千秋と小森陽一の論文が、お互いの揚げ足取りばかりに終始しているのだ。しかもかなり論調も強く、下手をしたらバカだアホだという言葉が飛び出してきそうなくらいだ。それはそれで第三者の目から見ているととてもおもしろいことは違いないのだが。

 そんなことはどうでもいい。石原千秋が漱石研究において目覚ましい功績を残したことは間違いない。
 石原千秋の本を僕は大分読んできた。

・近代という教養 : 文学が背負った課題 / 石原千秋著 (筑摩書房 , 2013.1)
・教養として読む現代文学 / 石原千秋著 (朝日新聞出版 , 2013.10)
・『こころ』大人になれなかった先生 / 石原千秋著 (みすず書房 , 2005.7)
・漱石はどう読まれてきたか / 石原千秋著 (新潮社 , 2010.5)
・漱石の記号学 / 石原千秋著 (講談社 , 1999.4)
・謎とき村上春樹 / 石原千秋著 (光文社 , 2007.12)
・テクストはまちがわない : 小説と読者の仕事 / 石原千秋著 (筑摩書房 , 2004.3)
・ケータイ小説は文学か / 石原千秋著 (筑摩書房 , 2008.6)
・未来形の読書術 / 石原千秋著 (筑摩書房 , 2007.7)

 ざっと挙げてもこのくらい。あと一冊、二冊読んだ記憶があるが、タイトルがあやふやだから挙げないでおく。ここに挙げたものは一度はきちんと通読した。
 なかなか素晴らしい本もある。漱石研究に限れば、『『こころ』大人になれなかった先生』や『テクストはまちがわない』といった作品はすばらしいと思った。ただ、石原氏の仕事のなかにはやや微妙なものもふくまれる。こんなことを学部生程度の私が言うのは恐れ多いのだが。『漱石の記号学』は、頭脳明晰で論理的な文章を書く石原氏にしては、何を書いているのかよくわからなかった作品である。すっと頭のなかに文章が入ってこなかったのがおどろきだった。そして、今回この記事をかく一番の原因になった本が『漱石はどう読まれてきたか』だ。
 僕はそれまで石原先生の院生になりたい!と思うくらい彼のことを尊敬していた。『テクストはまちがわない』という本はタイトルもかっこよかったし、そこに収録されている論文もどれもレベルの高いものだった。ところが、この本を読んで興ざめしてしまった。
 氏はこの本で、優秀な科学ライターというのはいるという。科学のことがわからない人間に対しても開かれた言葉でわかりやすく説明する。そのような本や雑誌をあまり読まない人間なので僕はよくわからないのだが。だが、と氏は言う。文学にはそのようなライターがいないではないかと。文学というのは自閉しているのではないか。文學がわからない人間に対してわかるように、それを開かれた言葉で書かなければならないのではないか、というのだ。もっともである。研究の歴史をふまえつつ、それを一般の、いわゆる文学部に居るような人ではない人達にも開いていく。そういう意味で、漱石のそれぞれの作品を取り上げ、それがどのような研究によってどのように読まれてきたのか、ということを書いたのがこの本だったわけである。読みのパンフレットだった。大まかな研究の流れと、その作品がどう読まれてきたのかが分かるようになっていた。
 だが、その引用のなかに、あまりにも自分の論文が入り過ぎているのである。しかも、そのコメントもどこか自画自賛している感じがある。なかには自分の教え子の論文もあった。もちろん、自分の論文が入っているのはわからないではない。石原氏は漱石の読みを圧倒的に変えたのは事実だし、そうした流れを大事にするのであれば、最後に私はこのように読み解いた、という風に書きたくなるのもわかる。そういう書き方ならよかった。だが、この作品では、当初は自分の論文を多少卑下しながら出していたのだが、途中からまるで自分は石原ではないように自分の論文を挙げはじめた。ここにきて私はなんだか、石原先生に対して抱いていた幻想を破壊させられてしまったのである。
なんだ、結局自画自賛になっちゃったの?

 これだけずっと石原千秋氏の本を読んできて尊敬していただけあって、石原氏がそのようになってしまったのは残念である。やはりあまりにも氏が残した功績が大きすぎて、そこに自分で慢心してしまったのだろうか。

 そうして僕は、石原氏から少し精神的距離を取るとともに、彼と双璧を為す小森陽一氏のほうに肩入れしたくなってきた。(そんなことをしているとまた幻滅するだろうことは目に見えているのだが)
 小森氏を初めて画像で見た時は、なんだこのサルのような人はと思った。(誹謗中傷ではない。愛情表現である。)だが、最近では、憲法九条を守る会などでも積極的で、かなりかっこよく僕の中では映っている。
 まだ石原氏と仲が良かった時の対談記事などを読んでいても、石原氏は饒舌な感じがしてずっとしゃべっているのだが、たまに小森氏がしゃべって、それがなかなか鋭い指摘だと、おお、小森先生もやるぞ、と秘かに応援している。
 今回はこんなくだならない、何にもならない記事だった。ながながと我が愚痴につきあっていただきありがとう。

映像表現における「重さ」  『サカサマのパテマ』『ゼロ・グラビティ』二つの作品をめぐって

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 先日二つの映画をみた。もちろん他にも沢山みているのだが、そのなかで二つのまったく描写も内容も異なる映画が、ちょうど同じテーマを描いていました。今回はその共通点をひとつの軸に論じてみます。
 私がこれは二つを比較してみたいと思った作品は、日本のアニメーション映画『サカサマのパテマ』(アスミック・エース)(公開2013年11月9日)とワーナー・ブラザーズ配給の英米合作映画『ゼロ・グラビティ』(公開2013年8月28日(ベネチアのコンペにて)、アメリカの一般公開は2013年10月4日、日本での公開は2013年12月13日)です。
 ちょうど同じ時期に公開されていますし、描いているテーマも類似性があります。

 アニメ映画を一応追いかけている身としては、『サカサマのパテマ』を劇場でチェックしきれなかったのは失態です。存在自体は知っていましたが、なかなか足を運ぶことができませんでした。というのも、アニメーション映画は客の入りが悪いのと、配給もそんなに多くありませんから、劇場がかなり固定されてきてしまうのです。しかも期間も短い。ああ見なきゃと思っているうちに終わってしまいます。
 そしてゼログラビティのほうはと言えば、なんだかずいぶん広告を売っていて、よくCMで見かけました。私もこれだけ映画をみていると、大体CMを見ただけでどんな内容の作品で、どの程度の作品なのかがわかってくるようになりました。もちろん良くも悪くも全然CMと違うじゃんという裏切りはなくなりませんが。それでもこの映画だけは、私のセンサーからしたら、爆笑してしまうくらいの駄作だ!とCMを見ただけで思ったものです。
 で、ようやくどちらも新作でDVDが入ったものですから、レンタルしてみて見ました。
 案の定ゼログラビティはひどかった。もう見ているのがつらいくらい。ですが、さかさまのパテマのほうはすごくよかった。もうこれは満点をあげたくなるくらいによかったのです。

 ではまずはゼログラビティから論じますか。
 内容はひどい。ほんとにつまらない映画でした。ただ、ネットの評価をみてみると結構星がついていたりして、うそをつけと思うのですが、僕の感覚の方がずれているのでしょうか・・・。
 内容もなにもあったものじゃありません。宇宙船が突如事故に巻き込まれて、船外作業をしていた女性の主人公がなんとか他の宇宙線を奪取したりすることによって地球に帰る、というほんとにそれだけの話。CMを見ていた時から、これどうやって話膨らませるの?無理でしょ?と思っていたら、やはりその通りになりました。
 物語はほんとにつまらなく、では何を描きたかったんだろうと思った時に、ああ重力を描きたかったんだということで、少し納得しました。思えばタイトルも「ゼロ・グラビティ」、無重力ということです。ストーリーは最初からあきらめていて、なるほど重力をなんとか映像で表現したかったんだな、ということです。
 確かに映像表現としてはなかなか新しいものもありました。例えば冒頭から30分くらいまで実はずっと同じカメラワークがつづくのです。映画でこれだけ一つのカメラからの視点で映し続けたのは初めてじゃないかと思うくらい。事故以降はずっと主人公の女性にかぎりなく近い視点で私たちは映画を見させられることになります。映画をみていてどうも窮屈だな、息苦しいなという感じがしたのですが、それはカメラワークのおかげで、自然と主人公視点になるような撮り方をしていたのです。ですから、劇場で見た人のなかには、ほんとに息苦しくなって具合が悪くなってしまった人もいるのじゃないだろうかと思います。おそらく私も劇場で見たら気分が悪くなったことでしょう。気分が悪くなることの良し悪しは別として、それだけ主人公の視点を観客に取らせやすい力があることは間違いありません。これは評価されるべきところです。
 カメラワークに付随して、音も女性が今受け取っているであろう感覚を共有できるようになっている。例えば宇宙船がたくさんの飛来した部品に破壊されている。スターウォーズなんかのSF作品だとヒューという音と共に沢山の部品が飛んできて、バーンとぶつかったときの衝撃音や爆発音がけたたましく鳴り響くわけです。ところがこの作品は飽くまで視点は女性のところにありますから、宇宙空間では音が聞こえるはずがない、ということで無音なのです。そして自分の呼吸音だけ。これはなかなかの表現です。
 最初から宇宙空間にいますから、重さの感じられない2Dの映像という媒体でどう重さを表現するのか。なかなか最初は無重力なんだという感覚がこちらにつたわってきません。そもそも無重力を体感したことのない私たちが無重力ってこんなだと想像したところで、やはり現実の無重力とはかけ離れたものでしょう。
 しかし、最後になって主人公はなんとか地球に帰還するのですが、そこで海から這い上がった時、この表現が秀逸でした。
 今まで重力がなかったところにずっといた。映画にしてみれば1時間30分くらい。この間ずっと私たち観客は主人公視点で、主人公の目になったつもりで映画を見させられてきたわけです。もう主人公との身体感覚は共有されています。それで最後に、海から這い上がる時。ものすごく這い上がるのが大変なわけです。無重力のところにいたために筋力も弱まっている。なんとか這い上がる。その時に私は映画を観ているにもかかわらず、「重さ」というものを感じました。
 この「重さ」の表現をするためだけの1時間30分ということになると、ちょっと長かったなあと思うのですが、しかしこの最後の表現だけはすばらしかったと思います。


 さて、では次に『サカサマのパテマ』
 正直この作品にはある程度の期待はしていましたが、そこまではしていなかった。にもかかわらず、この作品は本当に感動しましたね。すごくいい。これは是非多くの人々に見てもらいたい作品だと思います。手放しで褒めることなんてそうありません。これはほんとによかったなあ。
 冒頭、エヴァンゲリオンのファーストインパクトを彷彿とさせるような、おそらくオマージュなのでしょうけれども、表現があります。どんどん建物が上がって行ってしまう。なかなか悲惨な映像です。
 そして語られる謎めいた「かつて、多くの罪びとが空に落ちた」という言葉。
 どうやらこの物語はまた過去に人間がなにかしでかしてしまったんだなという、日本アニメのよくある設定によって始まるようです。
 ところが始まって見るとおもしろい。ストーリーの展開もぱっぱっと小気味良く、ある程度の謎も示されつつ、観客を魅了していきます。
 地下の世界で暮らしている主人公の少女パテマ。どことなくグレンラガンの世界観を漂わせます。閉鎖された社会で、ここには立ち入ってはいけないといった、禁止の多い社会です。パテマはしかし、昨今よくある活力あふれた戦う少女で、どんどんそのタブーを破っていきます。そして出た先がなんと、「サカサマ」の世界なのです。
 パテマが出たのは、“空”を忌み嫌う世界・アイガ。ここではパテマのいた地下の世界とは異なり、重力が反対に働いています。ということは、パテマにとって地面になるところは、我々の社会で言えば、建物の天井しかないわけです。当然かなり行動は制限されてしまいます。
 小屋から移動する場面があるのですが、パテマにとって小屋から出るということは、地面のない世界、空が地面になっている世界なのです。もしすこしでもミスが起これば、空に呑み込まれてしまう。落ちて行ってしまうのです。
これは本当に発想の自由ですね。そんな設定を普通は思いつかないでしょう。この人達だけ重力が反対に働いている、なんていう設定は思いつかない。思いついたとしても、それは観客に納得させるのは難しい。私がそんな設定を思いついたところで、たぶんできあがるのは酷い三流の小説程度です。
 なぜかわかりませんが、重力が反対に働いている、ということがやけに納得できる。それはそもそもアニメーションという虚構をとりやすい媒体だったからかもしれません。他にも、パテマの視点と、パテマと行動を共にする、アイガの少年エイジの視点と、両方の視点が交互に挿入されるからかもしれません。
 話しは単純で、アイガを統治するイザムラという小物の悪役が地下の世界の住人たちは、かつて罪を犯した者たちだから粛清しようと、侵略に乗り出すという話。アイガという人工的につくられた管理社会では、空を見ることさえ禁忌とされるようなタブー社会です。そんな社会で生まれ育ったからか、このイアザムラという人物は、空が大嫌い。かつて空に行こうと考えたために重力が反転してしまった種族たちを殺したくてしょうがない。小物だけに考えることも短絡的。

 このイザムラという悪役の前で、パテマとエイジは奮闘するわけです。敵の手をかいくぐりながらなんとか逃げ出す。追いかけるイザムラとその部下。
 以降はネタバレになりますので注意してください。

 ところがいざこの進撃を開始してみると最後にあっということが起こる。なぜか途中でアイガ国で空に呑み込まれた二人は、空をずっとのぼった先に工場地帯のようなものが天上にあるという不思議な光景とぶつかります。これはなんなのだろうなと私も思っていたのですが、その謎が最後になって明かされる。
 地下へ進撃したイザムラたち。パテマとエイジと遭遇し、最後の混戦を迎えます。そこでパテマからしたら天上、エイジからしたら地面が抜けます。なんとそこには、もうひとつの世界がひろがっていたのです。
 それは、冒頭で流れた宙に浮かんで行ってしまった建物たちの残骸。そしてパテマの属する長老は言うのです。かつて罪を犯した人たちがいた。その人たちを私たちは見守っていくという役目をおおせつかったのだということを。そうです。私も完全にイザムラの言葉に騙されて、地下で過ごしているパテマたちのほうがその重力を反転させた人々だと思っていました。ところが、実はアイガ国、いままで地上に住んでいると思っていた人々のほうが実はかつて罪を犯した人達で、そのことを忘れて生きていたのです。
 なるほどそうすると、アイガ国の上空になぜ工場地帯のような天井があったのかがわかります。アイガ国というのは、空がひろがっているように見えて、おそらく極めて広大な地下プラントのようなものなのでしょう。
 ここでタイトルの「サカサマ」の意味が深まってきます。単純に重力が反転しているというだけの「サカサマ」ではなくて、どちらが罪びとたちなのか、という価値の反転もするのです。
 これは大きな批評になっていると思います。我々はよくあれが悪い、これが正しいと言いますが、実はそんなものはある一か所の視点から見たときだけのことで、当然反対の視点からみれば、善悪さえも反転してしまうわけです。
 単純な善悪二元論ではなくて、そんなものは視点によって変わってしまうものなのだから、それを超えて行かなければだめだよ、という批判になっていると思います。

 非常に見事な作品で、『サカサマのパテマ』は多くの人に見てもらいたい作品です。『ゼロ・グラビティ』も表現としてはおもしろい部分もありましたが、ストーリーの展開があまりにもひどい。少しは『サカサマのパテマ』を見習って、重力表現もしつつ、ストーリーも展開できるようになってほしいと思うばかりです。

ジブリ映画『思い出のマーニー』 感想とレビュー なぜこの映画はダメなのか

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 先日、ジブリ映画最新作『思い出のマーニー』を見てきました。私は作品を見るときに偏見を持ち込まないために、ほとんど事前情報を入手しないで作品にあたります。見るのは映画の広告くらい。ただ映画を年間百本以上みつづけてくると、だいたいコマーシャルでどんな内容の映画なのかという全体像がつかめてくるような気がします。
 例えば一時期よくコマーシャルが打たれていた『ゼログラビティ』。あの作品なんかは、これはつまらない!ってもう笑ってしまうくらいにつまらないだろうと予想ができたのですが、実際にDVDを借りてきて観たら、案の定つまらなかった。
これと同じ感覚を『思い出のマーニー』には感じました。映画の宣伝をみていて、ちっとも見ようという気持ちにならない。
けれども一応アニメーション映画の批評家と自認する以上見ておかなければと思い、これはきちんと劇場に足を運んで、お金を払ってみてきました。その上で酷評します。

 正直に言えば、映画の半分あたりまで、もうつらくてつらくてたまりませんでした。話がだらだらだらだら進まなくてもどかしい。そして何よりも登場人物たちへの感情移入ができずにつらい。
 米林監督の作品は『借りぐらしのアリエッティ』に続いて二作品鑑賞しました。二作品を鑑賞することによって、監督の傾向が見えてきたような気がします。ので、それをいくつか書こうと思います。

 まず米林監督の両作品、共にオリジナルのシナリオではなくて、どちらも小説や童話からもってきたということです。おそらくこの様子だと、米林監督にはオリジナルのシナリオを描くだけの力量がないか、あるいはそういう気がないのだろうと思われます。
 何もオリジナルの作品が作れない、ということが悪いと言っているわけではありません。もちろんオリジナルの作品が作れたらいいことに違いはありませんが、大コケしてしまうリスクもあるわけですし、昔流行った作品の映像化、ということであればある程度の保険はかけられます。例えば宮崎駿監督だって、『魔女の宅急便』などでは小説の映像化をしただけですし、そういう意味ではこれからオリジナルを書いていくこともできるわけです。
 ただ、何を映像化するのか。その選択のセンスがかなり問題なのかもしれません。どちらも自閉した世界で、なんだか窮屈なのです。宮崎がずっと大きな世界、それこそ社会や町、国、地球をかけた大きな冒険や戦いが繰り広げられるのにたいして、米林監督の作品はいずれも自分と他者との関係だけで終わってしまう。作品がミニマムなのですね。それ自体が悪いわけでもないけれど、やはりジブリアニメは大きな冒険、といった印象があるジブリアニメファンとしては、窮屈な思いをぬぐいきれません。
 もちろん宮崎のマクロに対して、ミクロで勝負するのだというのならそれでいいのです。ただ、その場合はミクロの世界をより丁寧に、人物の心情などをもっとダイナミックに表情豊かに描かなければなりません。ところが米林監督の作品はそれがないのです。今回の映画で一番つらかったのは、登場人物の気持ちがまったく理解できないこと。感情移入がまったくできなかったことです。
 主人公の佐々木杏奈。これで中学一年生というから、どれだけ歳をとっているんだよと思います。ちょうど私にも中一の妹がいるものですから、これは無理があるなという造形。年齢設定はめをつむるとして、なぜ彼女がそんなにも自閉するのかがちっともわからない。両親がおらず、自分のことを引き取ってくれた人がいるというのは徐々に明かされますが、それを差し引いても、なにがいいたいか、何がしたいのか、理想がなんなのかがわからない。ただただ文句をたれて自閉しているだけで、こんなのがよかったという理想像もかたってくれないので、勝手にいじけてろと突き放したくなるタイプでした。
 まあ、見ていていらいらするということは、それだけ観客に与える影響があるということと言えばそうですが・・・。

 ストーリーの展開も遅い。一体いつまでこのわけのわからんのが続くのかと思いました。が、それはよしとしましょう。泉鏡花の『婦系図』を読んでいるみたいで、いろいろな下準備をした上で、最後に一挙にストーリーが展開する。そういう手法は古い物語にはよくある王道です。
 ストーリーが展開しはじめてからは結構たのしめました。一体マーニーとは何なのか?誰なのか。杏奈が作り出した妄想なのかな?というところまでは見ながらわかりましたが、それ以上が想像力のない私にはよくわからない。なかなかおもしろみのある展開ではありました。
 しかし最後の最後にきて、全部ネタバラシをしてしまうというのが決定的にいけない。私はこれを観客に対する冒涜だと思います。冒涜とまではいかなくとも、馬鹿にしすぎです。
 全部自分でネバタラシをしたらそれはミステリーになってしまいます。少なくとも今までのジブリ映画がすぐれていたのはテクストの空白、観客が自由に解釈できる部分があったからです。例えば陳腐な解釈例ですが、トトロの裏解釈とか、ああいうものが出てくるのもそういう空白があったからで、あの解釈はチープと言えばチープですが、しかしなるほどなかなかおもしろいと、観客が主体的に裏の物語を読み取ったり、創り上げたりすることができるだけの余裕がある。
ところがこの作品では、最後に実はこうでした、と全部ネタバラシ。それでは犯人はこの人でしたというミステリー小説となんら変わりがありません。そこで全部答えがでてしまったら、それで終わりです。ミステリー小説はなかなか文学の世界においても研究の対象になりません。というのは、研究する余地がないからです。
 確かにアニメを見る人は減ったかもしれない。ジブリの映画といっても足を運んでくれる人は少ないかもしれない。だからといって、客にこびへつらい、ネタバラシをしてまで、これが答えだよ、すごいでしょ、という方式の見せ方はいけないと思うわけです。そこは毅然として、最後までマーニーとはなんだったのかを不明にするか、あるいはヒントを出すくらいでとどめておく。観終わった後、観客がマーニーってもしかしておばあさんなんじゃないの?とかいやそうじゃないだろう、とか議論できるレベルの作品にはしてほしかったというのが正直なところです。


 これからの米林監督の活躍に期待しますが、いくつか気になることがあります。
 その一つを書いておきますと、なぜ彼はそこまでして「無力な母」を描こうとするのでしょうか。米林監督の二つの作品からは、どうも偏りのある人物が登場します。そのなかでも私が一番見ていて嫌な思いになる「無力な母」。
 アリエッティの母親も、ひどくヒステリー気味で、無力な存在として描かれました。このマーニーでも同じで、自分の娘のこころをおもんぱかるようでありながら、実際は娘に嫌われたくない、びくびくした人間として描かれます。
 強い母を描くことがいいことでもありませんが、この母の描き方には何か意図があるのでしょうか。それは監督自身の体験によるものなのでしょうか。私はどうもこの母の描き方が気になります。見ていていい気持にはならない、とだけ書いておきましょう。

読書雑記 柳田邦夫『読むことは生きること』を読むことで生きたい

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 僕がこのブログをはじめてから四年の月日が経とうとしている。正確には三年と少しなのだが、大学一年生の夏に書き始めて、もう四年生だということだから、四年間と自分では思い込んで居たい。
 この四年間実にいろいろなことがあった。ただ僕はいわゆる縦軸の直線的な記憶のつくりかたが下手なようで、円環する記憶、毎年毎年繰り返されるものがいくえにも積み重なっていくような、春にはあんなことがあった、だがそれは実は一年のときと二年の時が一緒になっている、といった記憶のしかたをしてしまうようなので、なかなか物語ることがむずかしい。

 そんなことはどうでもいいのだが、最近、ブログの更新が少なくなってきている。これにはいくつか理由がある。まず一つ目の理由。それは大学低学年のころ、何もわからずにただ自分の思ったことを好きなようにがむしゃらに書いていた。そういう時は怖いものなしでなんでも自由に発言できるものだ。
 そのころはまだ何もよくわかっていなかったから、なんでもが新しい発見のような気がして気楽に書けたのである。
ただ、それが書き続けることによって文章力もあがってくれば、読書経験や作品経験が積み重なってきて、なかなかそう簡単にこれはこうだ!と断言できなくなってきた。それに、ひとつのことを丁寧に説明しようとする癖があり、それをしていると、一つの記事を書くのに約4000字程度の分量になってしまい、それがどうしても自分にとって負担になってきてしまったのだ。
 一本の映画をみる。二時間かかる。その記事を書くのに二時間かかる。これではなかなかよし書こうという気にならない。
 またもう一つの理由はブログが大きくなってきたことによって、より多くの、不特定多数の人たちが見る様になったからだ。そうなっては適当なことは書けない。けっこう激しいクレームをつけてくる人もたまにはいるのだ。そういうのは常に無視しているが、それでも私の心に残るものはある。そういうのに疲れてしまったということもある。
 三つめの理由は僕個人の問題だ。僕は中高と人間関係に恵まれなかったと自分で思っている。その蓄積されたストレスのために大学に入ってから体調を崩した。途中よくなるときもあったが、最近ではまた体調を崩し、精神的にもかなり辛い日々を送っている。
 明らかに軽度のうつなのだが、まだ医者には行っていない。心療内科に行こうという気はあるのだが、そこへ行くだけの元気がなかなか出ないのである。
 いままでの傷がまだ完全に癒えきっていないことに付随して、僕の哲学的な思考形態があきらかに今の社会、世界とかみ合わずに思想的に苦しいこと、それから周囲から無言と有言の「働け」というプレッシャーに耐えかねてのことだ。僕はこのままでは壊れてしまう。と自分で思ったので、もうこの2年間はなにもしない、と実は決めてしまった。これはもう誰にも覆すことはできないだろう。
 僕は疲れた。ので、2年はなにもせずに、ニートをすることにする。
 なにもしない、ということができない社会というのはおかしい、と僕は思う。


 ひとつの作品に対してあまりにもいろいろなことを書きすぎる。そのことが負担に感じられてブログから遠ざかってしまっていた。だからこれからは、できるだけ簡単なものでいいから、ちょっと読書メモのようなものを残したらいいのじゃないか、と思った。
 だから今回から「読書雑記」なる題名をつけて、雑文メモを書いておこうと思うのである。もし僕のブログを愉しみにしてくれている人がいるならば、そういう人たちに何の更新もないのは申し訳ない。こんな忙しい「何かをしなければいけない」社会において、僕のブログを開けて、何を書いているのかな、くらいでもっ見てくれる人がいるなんてことは、とても嬉しいしありがたいことだ。
 だから、僕は今こんな作品を読んで、こんな風に思っているよ、ということをもうすこしこまめに書いておきたい。それは僕自身のためにもなると思う。

 さて、今回は手始めに柳田邦夫の『読むことは生きること』から。
 この本は柳田氏が1980年代90年代に雑誌や新聞やらに掲載したエッセイをまとめたエッセイ集だ。
 本当は卒業論文があってこんなことをしている場合ではないのだが、どうしても今読みたい、という気持ちが抑えられずに読んでしまった。テスト前に掃除をしたくなるのと一緒である。
 この本との出会いから書こう。僕は本を読むのが好きだし、集めるのが好きだ。とりあえずため込んでおいてあとから読もうというスタイルなのだが、そういう関係で、BOOKOFFで安い本があれば、どこかで安いほんがあれば、とりあえずもってかえる、なんていう意地の汚いことをしている。この本は、ある図書館で廃棄されることになっていた本だ。もう誰も読まないし、古くなったから捨てようということで、欲しい人がいればどうぞということだった。だからこれはありがたい、柳田邦夫、確かに名前は良く知っているし、いくつか彼の本を読んでみたいと集めている最中である(まだ一冊も読んでいない)、よし持って帰ろうということになった。

 僕はつい最近まで「やなぎだくにお」という名前の人が二人もいるとは知らなかった。自分のなかでごっちゃになっていた。柳田國男、は有名な民俗学の創始者。昔の人である。それに対し、柳田国男は評論家、ノンフィクション作家である。
どちらの柳田も2年の休養の間に読んでおきたいと思っているが、特に今「生きる」ことについて考えをふかめていて、生きることがつらい僕にとっては、「死」や「生」という言葉がタイトルにある本を読んで、なんとか自分の気持ちを癒したいという思いがある。そんな中めぐりあった本で、ずっといつ読むことになるだろうなと思いながら部屋にあるこの本を眺めていたのであるが、今日突然どうしても今読みたくなって、一気に一日で読んでしまった。
 読むことと生きることがどう繋がるのか、気になったのかもしれない。が、それは本書では特に断言的には書かれていない。そもそも本書がどんな内容の本なのかもわからないまま読み始めた。本書はたまたまエッセイ集だったが、柳田邦夫入門をしてはとてもよい入り方をしたのではないかと思う。
このエッセイ集のなかには自分の作品への言及もあり、どの作品から読もうかわからなかったのだが、ある程度の順番や筋道がついた。

 僕の部屋は今二千冊ほどの本に囲まれている(まだ数えられる程度だからかわいい)。そんな本たちと一緒に生活をしていると、たまに僕を読んでと強烈に主張してくるやつがいる。それがこいつだったのだ。よい出会いかたをしたと思う。
本書にはノンフィクション賞の選評が後半に掲載されている。これはノンフィクションを読みたいと思いながらもまったく読んでいなかった僕にとってとても役に立つものだった。それまでのノンフィクションの賞、大宅壮一ノンフィクション賞、講談社ノンフィクション賞、新潮学芸賞、などなどノンフィクションの賞でどんな作品が選ばれてきたのか、ノンフィクション文学の歴史がぱっとわかったからだ。僕はいろんなものをいつも何もわけのわからないジャングルに例えて考えているのだけれど、ノンフィクションのジャングルのなかにいくつかの道筋ができたようでうれしかった。
 僕はよくわからないながらも、作家の名前は聞いたことがある、このタイトルよく見かけるな、という本をとりあえず買ってきては部屋においているのだが、この本のなかで紹介された本のいくつかは、僕が買ってきたもののなかに含まれていた。もちろんそれはまだ読んでいないのだが、ああ、そういう内容のこういう本だったのか、ということが知れたので、これからゆっくりと時間をかけて読んでいこうと思う。

ブレイブリーデフォルト 感想とレビュー 私的解釈

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サブカルチャーとRPGの流れ
 数あるゲームのなかでも、RPGは特にサブカル的要素が強く、他作品への影響も強いだろうと思ってできるだけ触れるようにしてきました。今回はまわりの友人たちにおすすめのRPGはないか?と聞いたところ数名から名前が挙がったブレイブリーデフォルトをプレイしてみました。(プレイしたのは『ブレイブリーデフォルト フライングフェアリー』、通称FFバージョンです。)

 なお、この記事は多分にネタバレを含んでおります。このゲームはゲームの特性上ネタバレをしてしまうと面白味が減ってしまう可能性があるのでご注意ください。
 このようなRPGゲームを一本制作するのにどのくらいの時間がかかるのかわかりませんが、比較文学など、作品と作品を比較対象として取り扱う分野では、似たような要素が含まれていた場合、先行した作品から影響があった、影響関係というものが考えられます。
 何を言いたいのかと言いますと、この作品は2012年10月の発売です。
 私がこの作品と比較したいのは、言わずもがなで『魔法少女まどか☆マギカ』
 どちらの作品も知っている方には何が言いたいのかわかるだろうと思いますが、一応説明させていただきます。

 2011年、ちょうど3,11があった前後に、かつて社会現象ともなった『新世紀エヴァンゲリオン』のように、秘かし、しかし再放送を繰り返すたびに話題が急上昇していったアニメ作品がありました。それが『魔法少女まどか☆マギカ』です。この作品は、それまでなぜ魔法少女は魔法を使えるのか?といった作品の前提となっているものに疑問を投げかけた作品として、カウンターカルチャーとして十分に批評性を持った作品として登場しました。今まで魔女っ娘サリーから、おジャ魔女ドレミまで、ありとあらゆる魔法少女はなぜ魔法が使えたのか?そこには誰も触れてきませんでした。「魔法少女もの」という一つの系譜がいつの間にかできあがってしまっている。そういう状況に対して、それはなぜ?という疑問を呈したことがとても重要だったわけです。
 そのような批評のなかで、実はこういうことだったのだという謎解きがされます。最終的には、魔法少女と契約を結んでいたマスコットキャラクターが悪役だった、という衝撃的な結末でした。
 今まで信じていたものが、主人公を守り導くはずの妖精の役が、実は悪役だった。こういう大きな転換を成し遂げたのです。ちなみにこの妖精というのは、古くはシェークスピアの『真夏の夜の夢』に重要な役として登場しますし、そのシェークスピアもヨーロッパの古い物語からその発想を得たと考えられますから、源流はヨーロッパのおとぎ話から来ているのでしょう。

 実は身近にいた人物が悪者だった、という展開は2011年にきてようやくアニメーションの世界で板についたような感じがします。もちろんそれ以前からそういう作品は多々ありました。ミステリー小説の分野などでは、もっと早くからそうした画期的な試みが行われています。


 さて、RPGの流れはどうかといいますと、当初はドラクエ、FFと、西洋の騎士物語に根拠を求めた作品が人々に愛されました。ドラクエ5などはJ・R・Rトールキンの『指輪物語』の影響が強く感じられます。いわゆるファンタジーの世界なのです。
 ところがここにテイルズシリーズが介入するようになってきて、RPGゲームの世界は徐々に魔法や騎士の世界から、サブカルチャーに寄り添っていきます。H・Gウェルズに始まる時間旅行(タイムリープ)や、古代文明といったものが作品内に現れ始めます。しかし、どれをとってみても、やはりRPGにそれらの諸概念が入ってくるのは、そんなにタイムリーではありません。少し時間をとってから入ってくるように私には感じられます。
 そんななかで、サブカルチャーのなかでは一番ありえなさそうな奴が悪役という確立してきたスタイルが、ようやくRPGゲームのなかにも入ってきたのか、という感じがしました。
 このゲーム、エアリーが悪役だった、というのはまどかマギカのキューべえを彷彿とさせました。


私的解釈
 このゲームがなるほど、良作だと思ったのは、きちんと謎、文学用語ではテクストの空白を残してくれたから。私が先日公開されたジブリ映画『思い出のマーニー』を酷評する理由は、あの作品には謎、空白がないからです。謎解きを作品内で全部してしまう。そうすると、それはミステリー小説になってしまうわけです。最後に犯人はこの人でした、というネタバラシがある。しかし、ネタバラシをしてもらっては、作品を読む側としてはこちらが入り込む余地がないので、ああそうだったんだ、で終わってしまうのです。

 この作品は、勇猛果敢にも「並行世界」という概念を取り出してきました。
 H・Gウェルズの『タイムトラベラー』以降、時間をめぐったものの派生として、並行世界という概念も生まれてきたようですが、この諸概念は、確かにおもしろく謎がある一面、ひとつ取り扱いを間違えると痛い目に合うのです。下手に並行世界やタイムマシンの概念を作品内に取り込んだために失敗してきた作品を沢山みてきました。
 ですから、並行世界なら並行世界だけをその作品のなかできちんと扱うという覚悟がなければ使用してはならない、そういうリスキーなものだというのが私のなかにあります。なのでよく作品を鑑賞している時に、並行世界とか、時間を自由に行き来するなんて場面があると、私はいつもこの作品は大コケしないかな?と心配になるものです。
 この作品は並行世界という概念が出てくるのが随分後になってからだったので、かなり心配しました。並行世界なんて概念を出してきて、一体どうやって収集をつけるきだろうと、あせりました。が、この作品はそれを上手くまとめられていたと思います。

 私のなかでいくつか謎として残っていたものの解釈をしていきます。
大穴の謎
 まずあの大穴。あれはホーリーピラーだろうと私は思います。オープニングの大穴が開いた瞬間、白い閃光が立ち上りますが、あれがホーリーピラーだったのではないかと思うわけです。あの大穴を通ることによって他の世界に戻ることができるということからも、おそらくこの解釈はあながち的外れではないだろうと思います。もうすでに言っている方がいるでしょう。影響されるのであまりそういうのは見ないのですが(これは本当は不勉強)。

ティズの最後
 真終章を終えてエンディングを見ると、最後の最後に、ティズは「借りたものを返さなければ」などといって墓地のところへ行き、おそらく死にます。
 ティズは召喚士メイフェアとの戦いから、別の魂が入っているとか、ウロボロスには神界のものが入っているとか言われます。そうすると、おそらくこの神界というのが今私たちが生きているこの世界のことだろうという予想もつきます。
一番最初にエアリーの姉とおぼしき妖精に導かれてゲームを始めます。DSのカメラを駆使したイベントに、なかなか新鮮でおもしろいなと思ったものですが、これも単なる娯楽だけではなくて、きちんと意味があるのです。現実世界からゲームの世界に入る。まさしくロールプレイングですから、自分の分身を動かす、のですが、この作品ではそこにまで作品内で言及している。そうした批評性がすばらしいと思います。この世界は今プレイをしているあなたたちの世界とどういう関係にあるのか、そういうことを作品内で言及できたのはかなりの力量です。
 おそらく私たちがプレイした世界のティズは死んでいるのでしょう。それをエアリーの姉がなにか工作をして、私たち現実世界のプレイヤーにティズの肉体を貸し与えた。あの世界のティズにとっては、私達の魂を借り受けたということになるのだから、すべてが終わったら返さなければならない。私達プレイヤーはあの物語の世界から終わって、現実世界に戻らなければならない。ある意味その仮構と現実の境界線をシビアに描いた作品とも言えるでしょう。
 仮構と現実がどんどん接近していっている現代。人々はコスプレをしてなりたい自分に即席でなれる時代。しかし、その境界線がどんどん崩壊していくなかで、人間は壊れて行かないか?そこまで読み取るのはこちらの勝手ですが、この作品が現実世界とはここで切れるんだよ、という物語に入り口と出口がある構造には感動しました。

 そうすると神界とは私達が住んでいる現実であり、ウロボロスはありとあらゆるRPGの世界を貫いて渡したちの世界に干渉しようとしていた、ということになります。そうするとぐっと仮構だ、フィクションだと安心しきっていたプレイヤーはドキっとするわけです。
 もちろんこれはフィクションだってわかっていても、例えばテレビから、「今私のことを見ている君」なんて声をかけられるのと一緒で、一瞬どきっとするのです。

終わりに
 キャラクターの造形や、ストーリーの単調さ、次にやるべき行動がすべて示されてしまっている、などの欠点とも言える点はいくらでも指摘できます。が、それを指摘した上でも、「並行世界」という概念を上手く使いこなし、現実世界と虚構の世界というそれぞれの世界を明確に批判していったその力と批判性は高く評価されるべきだろうと思います。
 単純に戦闘はどうだとか、ストーリーはどうだ、という批評ならゲーマーならだれでもできます。が、こういう批評ができるのは、文學畑の私ならではなのではないでしょうか。

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