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ゲーム『空の軌跡FC』 感想とレビュー 縛られたヒロイン像

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はじめに
 戦後のヒロイン像を追っているものとしては、ゲームに反映されるヒロイン像というのはすぐれた研究材料になる。ただ、私の研究対象は漠然と戦後ヒロイン像であるが、それではあまりにも研究対象が広すぎて私一人では研究しきれない。戦後のメディアはメディアミックスと呼ばれ、特にここ最近では、本、漫画、アニメ、ゲーム、様々な媒体のことなる分野で同じ作品を多面的に捉えるということが主流となりつつあるので、研究範囲はさらに広がる。現代の文学は当然、マンガやアニメなどの媒体から影響を受け、また与えている。ひとつの分野にしぼって見ているだけでは全体像を見失う可能性がある。が、だからといって、全体ばかり見ていても何も見えてこない。ここが研究をするうえでの難しいところである。
前置きはこのくらいにして、ゲームのなかでもRPGの有名な作品はなんとか押えておきたいと私は思っている。

RPGゲーム系譜の流れ
 それほどゲームをやったわけでもなく、ゲームが専門でもない人間がこのようなことを偉そうに論じる意味はあまりないようにも感じられるし、また多くの間違いや誤解もあるだろうから、読者諸氏におかれてはそのことを了解してもらいたい。
 狭見で申し訳ないのだが、数少ないRPGゲームをやった者として見えてくるのは、RPGゲームの大まかな流れだ。ドラクエやFFに始まり、最近ではテイルズシリーズに受け継がれてくるような一連の流れである。今回プレイした『空の軌跡FC』も、この一連のRPGの系譜のなかに位置づけられるのではないかと思う。
 特に、この作品では古代文明が一つの重要なキーであった。古代文明は、テイルズシリーズの十八番と言えるだろう。今は失われてしまった古代文明、その文明によって作られた古代兵器。こうしたシチュエーションは随分昔からあり、SF小説などによく取り扱われていた主題であった。現在のゲーム製作者たちに大きくこの古代文明を使いたくなるような魅力を与えたのは、おそらく宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』ではないだろうか。あれほど古代文明がなんだか魅力的に映る作品は他に見ない。
 古代文明、古代兵器が重要な役割を果たすという面では、テイルズシリーズからの流れを感じる。他にもテイルズの影響は大きいと思う。このRPGでも、近年のRPGゲームと同じく、主人公たちの名前は最初から決まっている。これは以前にも論じたが、ドラクエの主人公は自分で名づけることができる。それに対してその対極に当たるテイルズでは、主人公はなんと声優付きでしゃべる。ドラクエでは、自分が動いているような感覚でプレイヤーはプレイする。テイルズではアニメを見ているようにプレイする。
 この作品でも声優の声が当てられていて、多少は言葉を発する。そういう面で、私はアニメを見ているようにこの作品を今回プレイした。

ゲームの自由さ
 RPGゲームと自由さとは切っても切り離せない大きな問題の一つであろう。RPGゲームは物語の本筋があり、そこからあまり逸脱してもらってはゲームをクリアできなくなるという問題がある。だが、あまりにもそのレールの上を走らせていると、ロールプレイングというそのものの意味がなくなってしまう。自分がその登場人物を自由に動かせるということがミソになるからだ。
 RPGゲームのなかで最も早く自由さに挑んだのは、ドラゴンクエストⅥだと言えるだろう。ドラクエⅥでは、夢と現実と海底とはざまと、3つも4つもの世界を自由に行き来することができた。RPGゲームにはかなり慣れていると自負しているので、ドラクエⅥは楽しくプレイした。が、世の中では、自由さを高めると、次に何をしていいのかわからなくなり、クリアできなくなってしまうという人が多々続出したらしい。
 この作品では、自由さという点ではほとんどなかった。全てが一本筋のレールの上を走らされているような感覚がして、RPGに慣れている人間としてはあまり自由さは感じられなかった。なんとかその自由さの無さ、というのを解消しようとしたのかわからないが、この作品では「依頼」と称して物語を進めていくのであるが、そこに本筋とは関係のない脇道にそれる依頼をちょこちょこ入れることによって、なんとか息苦しさを回避した感がある。が、それがゲーム初心者の私にわかってしまうくらいの小手先の技に過ぎないのは残念である。続編であるSCをこれからプレイするのだが、その作品ではこの自由さがもう少しあることを期待する。

 追記しておくならば、この依頼形式で進んでいくというのは、どこかモンスターハンターのような感じを受ける。そうした意味では、話しが細切れになっている、と一見思われるのだが、実はそうではない、大きな流れが後ろにはあるのだということで、東浩紀が言ったような、大きな物語の消滅、小さな物語の乱立、という構図から何とか脱却しようとしているように感じられる。
 布石を打っておいて、最後にそれを結び付けていくという点では、それまでの謎が解けていくようで、ミステリー小説を読んでいるような楽しさを感じられた。


ゲームのオリエンタリズム
 このゲームで面白いというか、不思議に感じたのはオリエンタル、東方の神秘といったものが垣間見られたことだ。ドラクエにしろ、FFにしろ、これまでの日本のRPGというのは、なぜか西洋の騎士物語調であった。なぜ、日本の武士調ではダメなのか全くわからないが、そこもまたオリエンタルの影響なのだろう。異文化に憧れてしまう。なぜか私たちは西洋の中世の世界にあこがれてしまうのである。
 この作品は2004年から2007年にかけて発表されたもので、見方によって古いとも新しいとも言える。21世紀にもなり、アメリカ等の欧米列強にいまだに後れを取っているという幻想がやっと解体してきたように私には感じられるのだが、だからこそもうそういう西洋に無暗に憧れる必要はないと思う訳であるが、まだまだ西洋テイストが抜け切れていない。
 「テイルズ オブ イノセンス」では、中国風の街が登場した。作品内での東方の国である。今作でも、武闘家のジンなどの人物は東方からやってきて、身体に触れずとも相手に影響を与える「気功」なる術を扱う、とても神秘的な人物たちとして描かれる。私たちは明らかに東方の人間であるにもかかわらず、その私たちが作り出したゲームに登場する東方、つまり自分たちは、なぜだかよくわからないが、アメリカ人などが勘違いして抱いている日本人や中国人のイメージそっくりなのである。
 東洋、日本、中国、神秘、武術、ニンジャ、・・・・そういう発想の延長にこの描写は位置している。これを今回プレイ中に感じた。この発見が何を意味するのか、今後もう少し深めていきたい・


縛られるヒロイン像
 本題である。この作品はそれまでのRPGが大抵男性が主人公だったのにかかわらず、女性ヒロインが主人公だ。その点この作品には私はかなり期待をした。
 日本にウーマンリブや、フェミニズムの考えが輸入され、活発になったのは80年代あたりだろうか。ドラクエでは、Ⅳにおいて女性ヒロインを選択することができ、アリーナという個性的な少女が全面に押し出されたりと、ゲームにおいてもヒロインの活躍が目立つようになってきた。しかし、ここまではまだ、男性が主であり、女性が客であるという構図はまったく変わっていない。
 RPGにおいてはいまだに男性がやるものという固定観念も強く、女性が主人公という作品はあまりなかった。そのため、この作品は珍しいなと思いながらプレイした。なるほど、健康美と称されるほど、強く、美しい少女がヒロインで、なかなかの見ものである。ヒロインの系譜としては、完全にエヴァンゲリオンのアスカに連なる系譜だ。
 だが、同時にこのゲームからは女性をヒロインにするために生じた無理があまりにもありありと垣間見られてしまい、そこが時代の限界だったかと思わずにはいられなかった。
 斉藤美奈子の『紅一点論』の理論を援用する。斉藤氏はヒロインの大まかな像は、魔法少女、紅の戦士、悪の女王、聖なる母、の四つであると論じた。それぞれがどのような役割を果たすのかというのは、私の記事〈映画『マレフィセント』感想とレビュー 反転するヒロイン像〉に書いてあるので、検索して読んでほしい。話を先に進めると、この作品の主人公エステルは完全に紅の戦士。アニメなどで言えばセーラームーンなどに相当する。
 男性に引け目を取らずに戦う戦士としての女性。だが、これは男性によって作り出されたヒロイン像に過ぎないのだ。セーラームーンも所詮は男性の手の内で戦っている戦士に過ぎない。彼女がピンチの時にはタキシード仮面が表れる。その構図とこの作品は全く同じなのだ。一応彼女は光と影で言えば、光、主人公として張っているが、彼女は一人では成立しえない。彼女にはいつもヨシュアという訳ありの義兄弟がサポートについてまわる。さらには、彼女たちが活躍できるのは全て、作中で有名な、あの伝説のカシウスの娘だからという理由である。この点について斉藤氏は、紅の戦士がなぜ、紅一点で男性社会で戦えるかというと、その父親が研究者だからとか、軍のお偉いだからといった、コネであると断じている。まさしくである。
 エステルはヨシュアという男性のサポートと、カシウスという偉大な父の名のもとにおいてでしか活躍できない、縛られたヒロインなのだ。
 その縛られ加減は最後の最後に最も端的に描写される。ヨシュアには隠された過去があったのだが、その秘密の過去は、ヨシュアとカシウスとの間では暗黙の裡に理解されていて、当のエステルだけは知り得なかったのである。シェエラザードというカシウスの弟子であり、エステルの姉的存在である人物が、最後にカシウスとヨシュアがエステルのいない場で、秘密を共有していたことを「最低だ」と断罪するが、これが女性を主人公にする上での限界だったのである。まさしく「最低」なこと、男性のサポートと、男性の名の元においてでしか、女性は活躍できない。そういう構図をもう一度生み出してしまっていたのである。
 だが、だからといってこの作品がダメなのかというとそうではない。きちんと批判的な目を持っているのが、このゲームのいいところである。しかも、最後にヨシュアは失踪してしまう。父の名のもとにおいてであったが、かなりの実績を残したエステルは、すでにカシウスの娘ではなく、一人の遊撃士としての存在となった。彼女は今までの縛られたヒロインではなく、自立したヒロインになることができたのである。SCでは、自立した人間として、彼女がどういきいきと活躍するのかが愉しみである。
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映画『マレフィセント』感想とレビュー 反転するヒロイン像

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 ネタバレを含む
はじめに
 今年は『アナと雪の女王』に引き続き、ディズニー映画が注目を集めている。『アナと雪の女王』についても、出来るだけ早く論じるつもりである。また、この二つの作品を比較検証することもまた、他作品に対して影響の大きいディズニー映画ということを考えれば、有効な指標になってくると感じる。この二つの作品に共通して言えることは、これまでのディズニー作品が生み出してきた価値を解体しているということだ。詳しくは後で論じて行こう。

斉藤美奈子『紅一点論』より
 さて、私はこれから作品を通して生み出されたヒロイン像を専門にしていこうとしている。そうしたなかで、先日非常にすぐれた評論を読んだ。斉藤美奈子氏の『紅一点論』である。この本に対しても一つ記事を割いてでもみなさんに紹介したいくらいなのだが、評論に対する評論というのは、未熟な私にはまだまだ難しい。それに時間と労力もかかるので、今は難しいと断っておこう。
 要点をしぼって、この評論を紹介しよう。この指標は今回の映画を読み解く際の重要な視点となる。
 斉藤氏はこの本を通してヒロインには大別して四つのタイプがあると分析している。すなわち、
魔法少女
紅の戦士
悪の女王
聖なる母
である。氏はこれらを社会における女性の位置とも関連づけて論じている。魔法少女というのは、私たちもよく知っている、というか、日本のアニメ作品などが好んで使用するヒロイン像である。それだけで一つの系譜を有している特殊と言えば特殊な文化である。『魔法少女サリー』から始まり、『ひみつのアッコちゃん』時代がくだって、『おじゃまじょドレミ』であるとか、最終的にはそれらへのアンチテーゼとして『まどか☆マギカ』に繋がる一連の系譜である。斉藤氏は、この子たちは大人の父親からみた自分の娘の理想像だと評している。
 紅の戦士というのは、この魔法少女たちが成長し、一流の戦士として戦うようになったヒロイン像である。代表作と言えるのは、例えば『セーラームーン』や『キューティーハニー』などである。魔法少女がもっぱら魔法の国と特殊な魔法によって戦うのに対して、これらの女性たちはもう少し肉体を駆使した肉弾戦を好む、と私は考えている。斉藤氏はこの時期の紅の戦士としてのヒロインたちは、もっぱら婿捜しをしている少女たちの姿であると述べている。
 さて、そうしたヒロインたちが、結婚できずにキャリアへの道を進んだ結果どうなるかというと、悪の女王として登場するというのである。もちろん、私は結婚など個人の自由であるから、していない人に対して何ら差別的意識は持たないが、ヤジ問題に表れているように、現在でもいまだ女は結婚して子供をうむのが当たり前といったジェンダー的差別が働いている。そのような文化背景のなかで、結婚しなかったではなくて、できなかったと思われるキャリアウーマンがどのように描写されていったのかというと、『タイムボカン』シリーズのドロンジョをはじめ、『ガンダム』に登場する紅の戦士というよりは、悪の女王的な女性たち、他、ディズニー映画が多数創造してきた悪い魔法使い等に繋がるのである。今回論じるマレフィセントも、アニメーション版の映画ではまさしくこの悪の女王の役割だった。他にも今ぱっと思いつくだけで、シンデレラの継母、白雪姫の継母、百一匹のクルエラ、などなど、考えればディズニーはまことに優秀な悪の女王を多々排出してきたものだ。
 さて、では悪の女王にならずに、男性が求める進路通りに進んだ女性はどうなるかというと、聖母像へと変換されていくのである。よく魔法少女ものの作品を見ていると、魔法の国を治め、彼女たちを何かと援助する聖母的な存在が描かれているのに気が付く。当然キリスト教文化圏ではマリア像にも連なってくるだろうと思う。もっぱら自分は戦わずに、主人公たちの援護、援助をする役割を担う。とすれば、シンデレラに登場する魔女もこの聖母像の系譜に繋がると言えよう。


『マレフィセント』の魅力
 斉藤氏が明確にしてくださったこの典型的なヒロイン像を、今回の映画に結び付けてみよう。
 まずこの実写映画『マレフィセント』には、いわずもがなではあるが、下敷きとなった作品がある。1959年に公開されたディズニーのアニメーション映画である。もともと『眠れる森の美女』は、ヨーロッパにつたわる古い童話である。これを一躍世界で有名にしたのはチャイコフスキーのバレエ『眠れる森の美女』だろう。ウォルトディズニーはメイキングで、今から約70年前の音楽を元にこの映画を作ったと言っている。チャイコフスキーの音楽が1890年ごろに完成したとされているので、1959年では約70年の月日が流れているということになる。チャイコフスキーの音楽を元にして、ウォルトが新しい解釈を加えたアニメーションの『眠れる森の美女』はいまでは多くの子供が見る定番映画の一つといってもいいかもしれない。ただ、最近はディズニーのアニメーション映画もいままでのように、子供の教養のようには大きく扱われなくなって来たようでもある。
 ともあれ、この有名な作品を私たちの多くは知っている。さて、今回の『マレフィセント』は何かというと、この『眠れる森の美女』を反対から、作品に登場する悪の女王的存在、悪い魔女であるマレフィセント側から描こうというこころみである。

 ある有名な物語を別の視点から描く、というのはよくある手法の一つだ。日本で言えば、夏目漱石の『こころ』なども先生の視点から読まれていたものの、Kの視点から読んだ論文や、アニメーション作品などが、まったく反対の立場からみた作品としておもしろいのではないかと思う。物語の筋は同じでも、登場人物の誰にカメラの視点をあわせるのかによって、物語は180度転換する。
 特に今回の映画はその転回がはなはだしかった。とても面白く(ファニーではなくインタラストという意味で、もちろん、ファニーな笑いを誘う小ネタも満載でそれも面白かったが)鑑賞させていただいた。この映画は私は高く評価できると思う。
では何が評価できるのかというと、まずは反転するヒロイン像だ。さきほど私はわざわざ斉藤美奈子氏の『紅一点論』を紹介した。いままでの『眠れる森の美女』で、マレフィセントはどのような役割だったかというと、典型的な悪の女王タイプ。できない手下どもを怒りの雷でまきちらし、己の悪事に陶酔し、「アーハッハッハ」と甲高い笑い声を響かせる。これだけ完璧な悪の女王像も珍しいくらいだ。
 だが、なんと今回の映画では、マレフィセントは完全な悪の女王とは言えない。そもそも、私たちが盲目的に信じ込まされてきた正義対悪の対決というわかりやすい構図であるが、この構図自体は一体なにによって保障されてきたのであろうか。このような二元論的なものの考え方に無理が生じ、徐々にその構造にほころびを呈している現在、この枠組みをゆさぶる作品が多々登場してきている。この作品もそういう点では非常に大きな役割を担っていると言えるだろう。
 まず、この映画が提示した重要な点は、完全な悪、完全な善というものはないのだということであろう。今まではマレフィセントが完全なる悪を全部一人で抱え込まされていたが、この映画では事情が異なってくる。マレフィセントは映画冒頭、魔法少女として登場する。強力な魔力をさずかった選ばれた少女としていきいきと描写される。やがて少女は成長し、恋を知る季節。魔力をさらに磨いた彼女は紅の戦士として、魔法の世界の資源をむさぼろうとする貪欲な人間達に可憐に戦う。
 紅の戦士の役割は、よい婿を探すこと。唯一心を許し、恋心を抱いていた人間がいたが、この人間はマレフィセントを殺せば人間の国で王位が貰えるという権力欲に憑りつかれ、マレフィセントを出し抜いてその自慢の翼をうばってしまう。恋人に裏切られたマレフィセントは心を閉ざし、悪の女王とならざるをえない。彼女はその気位の高さゆえに、あえて悪役を演じなければ自分を守れなかったのであろう。我々は『眠れる森』ではこの部分しか知らない。アニメ版では、マレフィセントはドラゴンに変身し、殺されてしまったように描写される。

ディズニー映画の真実の愛
 しかし、この映画ではそうではない。一端恋人への憎しみからオーロラ姫に呪いをかけてしまうものの、マレフィセントはどうしてもオーロラが気になってしまい、育児などできない三人の魔女にばれない様に、秘かに育児を手伝う。何度となくオーロラにかけたのろいを解こうとするも、自分のかけた呪いが協力すぎてかなわない。マレフィセントは、唯一真実の愛だけが彼女を目覚めさせると呪いをかけた。だが、彼女は真実の愛がないということを知っているのである。それが、自分が恋人から裏切られたためである。
 この真実の愛というのはクセものだ。ディズニー映画ではずっと使用されてきたモチーフ。もはやチープといえなくもないものだ。真実の愛ってなんだよ、と今の読者であれば失笑間違いなしの時代である。『アナと雪の女王』が見事だったのは、それまで男女間にしか真実の愛は存在しえないという自分たちが作り上げてきた価値を否定したことだった。『アナ雪』では、兄弟愛が真実の愛ということになった。この作品もそうだ。これまでの半世紀、男女の恋愛だけがすべてであるといった、恋愛至上主義の価値観を作り出し、多くの人間を苦しめて来たこのディズニーが、この作品ではみごとにそれを解体する方向へ進んできている。お決まりの王子とのキスがあるが、それではオーロラは目覚めない。『アナ雪』を鑑賞した後だと、どうせマレフィセントがキスをして、それで目が覚めるんだろうと思ったが、なんと、思った通りだった。

 マレフィセントとオーロラの関係は複雑だ。マレフィセントから見れば、自分のかつての恋人の娘である。しかもその恋人というのは、最終的に自分のことを裏切り、大切な翼を奪った張本人である。挙句の果てに、マレフィセントを恐れ、自分を殺すものを差し向ける。恋人に裏切られた悲しみや憎しみから、その赤子に対して呪いをかけてしまったが、数年経ち、後悔するマレフィセント。さすがに悪の女王である。赤子には何の罪もないことに気が付くのだ。だが、自分の呪いが強すぎて解き放つことができない。育児を買い出ていたはずの三人の魔女たちも頭が足りない人達で、なんどもオーロラは死の危機に瀕する。そんなときにマレフィセントはひっそりと彼女を守るのだ。こうなると、マレフィセントはあの『ハリー・ポッター』に登場するスネイプ教授にしか見えなくなる。
 自分の恋人の子供を守るという点では共通している。スネイプ先生の場合は、片親が今でも好きで、片親がにくいということであったが、マレフィセントの場合は、恋人に対して憎しみと、ほんのわずかだが、まだ心残りもあるだろう。
 不器用な人間たちだ。守りたいと思う反面、なんとかしてやりたいという気持ちもある。もちろん、オーロラにしてみたらたまったものではない。そんな親の世代のいざこざを自分に当てこすりするなといいいたいところだろう。
 かくして、疑似的な親子関係とでもいえるような愛によって、オーロラはマレフィセントによって救われるのである。

反転するヒロイン像
 さて、最終的にオーロラを救い、かつての恋人、オーロラの父との因縁にも決着をつけたマレフィセントは、オーロラの母的な役割になっていく。新しい魔法少女、紅の戦士となるべくオーロラを保護する役割、すなわち聖母像である。天使と堕天使がしばしば鏡写しのような存在として描かれるのには、故あることだろう。何か通常のレベルを逸しているという点では、天使も堕天使も、同じような物なのだ。とすれば、悪の女王も、聖母も、その力が反対方向に向いているというだけで、似たような存在なのである。
 あれだけ悪の女王に徹していたマレフィセントも、実はスネイプ先生のように、心優しい妖精だった。彼女は魔法の国と人間の国を統合させるために、魔法の国の治者という役割を人間の国の王女であるオーロラに譲り、みごとにオーロラを人間の国と魔法の国の両方の治者たらしめたのである。
 黒装束を脱ぎ捨てたマレフィセントは、映画の最後において、取り戻した翼ではるか天空を駆け太陽光を浴び、聖母像に反転する。
 かくして斉藤美奈子が指摘した、四つのプロトタイプな女性像をたった2時間の映画ですべて演じきったのである。観客はそのような反転するマレフィセントの像を愉しんだのではないだろうか。絶対的な悪もなければ、絶対的な善もない。むしろ人はその場その場の状況など、相対的に悪であるか、善であるかを演じているだけに過ぎないのだ。
 真実の愛というのも男女間に限らないというのは、ややチープな感がないではないが、それまでの男女の恋愛こそすべてという価値を生みだし続けてきた過去の反省を踏まえていると言えば、かわいらしいものである。

黒い雨の感想を読んだ感想

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 今回私はとある学校で教育実習を行わせていただいた。全10回の授業を持ち、導入として、山之口貘の『存在』を取扱い、〈僕〉とは何なのかということを考えた上で、井伏鱒二の『黒い雨』を9回にわけて読んでいった。今回のテーマは、いかに今我々が住んでいる現在が平和であるのかといったことだけではなく、いかに自分達の世界とはかけ離れた世界を読んで、それを自分達と結びつけることができるかということにあると私は思っている。
 生徒たちには宿題として『黒い雨』の感想を書いてもらった。個人情報には十分に配慮している。生徒たちの感想は、大人である我々が読んでも、はっとさせられるほど鋭い指摘や考えがつまっており、これを私の手中に収めておくにはもったいなく、多くの人の考える材料になると判断したため、ウェブ上にこのような形で掲載させていただくことにする。
 生徒に対しては個別にフィードバックをしているが、全体としてのフィードバックは分量の都合上できなかった。これを以てそれとしたい。



 感想を書き終えたら終わり、ということにしないでほしい。感想は飽くまでも途中の段階での報告に過ぎない。一通り10回分の授業が終わり、それを受けて感じたこと、考えたことを書いてもらった。そのなかで見つけた視点や、問題点をこれから君たちが持ち続け、9月の研修旅行でより深めて行ってもらわなければ意味がない。
 そのためにも、個別にはそれぞれ考えを深めてほしい点などを書いて返却したが、全体評を述べておきたい。

 今回の感想文では、私は次のようなポイントを高く評価した。
・戦争や原爆といった私達からかけ離れたものをなんとか自分とつながりのあることがらとして捉えようとしている。過去の ものではなく、現代にも通じるものとして、捉えようとしている。
・また、それに対して自分は何ができるのか、何をしなければならないのかを考え、具体的に提示できている。
・描かれていた登場人物に感情移入することができている。少年に感情移入していることも重要だが、父の立場に立ってみたり、おばあさんの立場に立ってみたりすることができている。

 10回の授業を受けて、どんなことを感じたか、考えたか、またどんな意見を持ったか、感じ、考えたことに対してどう自分はアクションするのか、そういう部分を評価の基準にしている。
 単に授業の内容の要約や、物語に書かれてあったことをさらっただけの感想はあまり評価できない。それは誰でもが書けるものだからである。〈僕〉は〈僕〉何だという通り、〈自分〉の考えや意見を書いてほしかった。

 いくつか生徒たちの感想を引用しながらみんなももう一度考えてみよう。
〈私は戦争とかは自分には関係ないし、知りたくもないと思っていました。しかも、自分は戦争なんて経験なんてしていないし、本も読んだ所で分かったふりをするのが面どうだったからです〉
 これはある生徒の感想だ。衝撃的な内容ではあるが、自分の気持ちを正直に書いていてよろしい。当初このような感想を抱いていた生徒は多かったのではないか? 私だってもちろん、面白おかしく授業をやりたいという気持ちはある。何もこんなに暗くて悲しい物語を取り上げなくてもいいじゃないかとも思ったものだ。だが、そうではない。私自身授業を進めていくうちに、これは伝えなければならないというものが見えてきたりした。それは生徒たちにも伝わったようだ。他の生徒は〈しかし、だんだんと読んでいくうちに「何故こんなことに」など深い悲しみを感じ〉たという。他の生徒からも「興味深い」といった意見が出た。

 ただ一つ気になる点がある。多くの人が「伝えていなかければならないと思った」、「伝えて行きたい」といった言葉を使うのに対して、一部の生徒からは「伝えて行ってほしい」「二度とおこらないでほしい」といった消極的な態度が見られることだ。もちろんまだ中学三年生だ。社会に出たこともない。自分が何を出来るのかということもまだよくわかっていないだろう。わからないなかで、なんとかそうして欲しいという願いをしたくなるのはよくわかる。だが、いつまでも「~してほしい」という態度ではどこかに無理がくるのではないかと私は思うのだ。是非「~してほしい」から「~したい」に変わることを願う。

 もう一つ気になる点がある。それは、戦争反対に対して利益になるものが何もなく、害しか生まないから戦争をしてはいけないという感想があることだ。一見非常に論理的に思われるのだが、この論理だと、たくさんの利益を生みだして、害をほとんど生み出さない戦争というものができるようになると、戦争を反対する理由がなくなってしまう。
どうやら損得でものごとを考えていると、戦争に進んでしまう危険性は取り除けないようだ。戦争に反対するならするなりに、もう少し損得以外の尺度で考えて行かなければならないようである。

内容別にまとめて感想を見てみよう。

研修旅行に向けての心構え
・〈平和について教えてもらってきます。原爆ドームもしっかり目に焼き付けてきたいと思っています。楽しむだけでなく、この「黒い雨」の文章と(省略)授業を思い出しながら広島の人の話を聞きたいと思います。〉

生き方が変わった生徒
・〈これを読んで平和な時に生まれて本当によかったと思っています。昔の戦争の時代に生まれた人は、着てみたい服を自由に着れなかったり、食べたい物を好きなように食べられなかったり、みんなが不自由な生活をすごしていたと思いました。だから僕は平和な時そして平和な国に生まれてこられたので、これからの人生でできることは全力でやっていきたいと思います。〉
・〈ボロボロになりながらも前向きに生きようとしている所、私も見習いたい〉
・〈どこか自分の身の上には起こるはずも無いと他人事のように考えている自分に気づき、少し情けなくなりました〉

存在の大切さ
・〈人間一人一人にちゃんとした人生があることを考えてほしいです。〉
・〈私はたまたま平成という時代に生まれて、私はたまたま東京で生まれました。原爆がおちたその時に広島に居て、生きていたらたぶん私は死んでいると思います〉
・〈そう考えると自分が今、存在していることが奇跡のように思えてくる。これから人生を歩んでいくうえでこの幸せをかみしめて生きていこうと思う〉

戦争批判
・〈原爆とは日本の負の歴史なのである。日本人はそれを背負っていきているわけである。日本国民はこの負の歴史を永遠に背負わなければならないのである〉
→これはまさしくその通りなんだ。すべてのことは無駄ではない。「失敗は成功のもと」という言葉もあるように、確かにこれだけを切り取れば「負」でしかないわけだが、それを今、それから未来の平和に結び付けられた時、その「負」は「負」ではなく、「正」を作り出すためのプラスに変わっていくのだ。

・〈自分の国の負けた話など、知りたくもありません。ただ、戦争によって引き起こされた悲劇には目を反けてはいけないと思います。嫌いでも何でも体験した方の本などは、僕らが大人になってから戦争を引き起こさないために必ず、読んだ方がいいと思います。〉
→ただ、心が繊細でどうしても背けなければならない時には背けるのも仕方ないとも思う

・〈戦争を始めたのは、総理大臣や政治界の大きな権力を持っていた人達ですが、その人達に何も言えなかった人達も責任があると思います。そのとき国民全員で戦争をやめさせる様に言えば戦争はとめられていたかも、しれません〉
→その通りだ。これは他のことにも言える普遍的な問題かもしれない。例えば身近なところで言えばいじめ問題だ。もちろんいじめをした人間が一番悪いことには悪いのだが、それを知りながら放っておいた側にも責任がないとは言えないのだ。このように、いかに自分は関係ないと澄まして、現状を悪化させるよりは、いかに自分にも責任があるのだと考え行動したほうが世界はよりよくなるだろう。
 またこの生徒はするどい視線の持ち主で、〈日本も中国や朝鮮などの人々をつかまえ、人間とは思えぬあつかいをしていた様です。なので戦争には誰がいけないとかはないと思います〉と述べている。
 これは大人でもなかなか持つことのできない視点だ。テレビを見てみれば、真っ赤な顔をして、どこどこが悪いと怒鳴り散らしている大人たちの姿が見える。しかし、どちらかが一方的に完全に悪いという場合はそうない。ケンカを考えてみればわかるはずだ。どちらかがケンカをふっかけたとしても、それをふっかけさせる原因をその人もつくっていたはずなのだ。原爆を落としたことは確かにアメリカが悪いのだが、だからといって戦争すべての責任がアメリカにあると、一方的に憎むことは事実を曇らせるおそれがある。自分達もひどいことをしていたという視点を忘れないことが、これからの多様な世界を可能にしていく視点だろう。

今後の自分の行動
・〈日本は世界の国で唯一、原爆の被害をうけました。このことを、きちんと伝えて行きたいと思います。〉
・〈唯一原爆を落とされた国として原爆の悲惨さを伝えていくべきだと思いました。〉
・〈これから自分は原爆の事を勉強して、二度と戦争が起こらないような世界をつくっていきたいと思いました。〉
・〈多くの人が亡くなっています。私たちは、戦争を体験した年代ではありません。だからこそ、私たちがしっかり理解し、学び、語り伝えなければなりません〉
・〈当時の人たちが何を思って生きたのかなんて、どんなに戦争について書かれた本や資料を読んだところで、きっと経験していない人には分からないだろう。それでも、それらの本を読むことは戦争の知識や同情の心は芽生えるだろう。それがたとえ戦争の半分も分かっていなくても、わたしたちにとってとても必要なことだし、もっと人々に話して継げていくべきことなんだな、と思う〉
・〈もし、『黒い雨』などの戦争のことをかいた本がなかったら、戦争の恐ろしさを知らない人達が、また戦争を起こすかもしれません〉
・〈僕はその人たちの死をむだにしないで、継続的に国内にも海外にも、平和を訴え続けなければ、戦争で死んでしまった死がむだとなってしまうと思いました〉
・〈この作品は僕たちの世代だけでなく僕たちの孫の世代、さらにその孫の世代と語り継いでいかなければならない作品だと思いました。なので僕はこの作品を色々な人に広めたいと思います〉
・〈あれだけの教訓を後世(前の世代の間違いか)から伝えてもらったのに、また戦争・原爆という惨禍をしようとしているのが不思議でならない。僕は、この平和主義という絶対的な盾をみずから手離したくはない〉
・〈平和を維持するためには原爆や戦争を怖がっているだけではダメなんだと、たとえ小さな事でも出来ることがあるならしてみようと思いました〉

「今」の問題として
やはりこれだけ自分達の住んでいる世界とはかけ離れているものを、自分達や今の問題として捉えることができているのはすばらしいことだと思う。こういう想像力をみんなには身に付けてもらいたい。

・〈原爆のかわりにもなってしまう原発も一見便利であるが、事故が起こると原爆のようになってしまいます〉
・〈今、私たちが戦争の話を直接、体験した人に教えてもらわなければならないと思いました〉
・〈今、現代の戦争を知らない人達ができることは忘れないこと。二度とくり返さないことだと思います〉
・〈昔の人は戦争を嫌がることすら許されない世界だったけれど、今の私たちには発言する権利があります。だから、この広島にあったことをみんなが忘れてはならないし、そのことをたくさんの人に伝えられたらいいなと思います〉
・〈僕たちは昔こういうことがあったと考えるんじゃなくて二度とこういうことが起きない為にはどうすればいいかを考えていくことが自分たちが今すべきことだと思います〉
・〈今も戦争を続けている国や爆弾やミサイルなどを所持している国がある。だから私たちはそれらの国に、原爆のもたらす被害、また実際に原爆をうけた先人たちの思いを語り続けなければならないと思った〉
・〈原爆や戦争反対の意識がうすれていっている今、祖母たち(この生徒の祖母は被爆者だそうだ)の体験が無駄にならないように、原爆と何らかの関わりがある私のような人が先陣をきって、うったえねばならないと思う〉
・〈東日本大震災という想像が出来ないことなども経験して、今僕たちはなにが出来るのかということを考えていきたいなと思います〉
・〈私たちは、戦争を起こしたくない。この悲劇をくり返さないことが、今の私達のできることだと思う〉
・〈東日本大震災で原発の放射能がもれた時と同じように、今もなおこの後遺症に苦しめられているんだと思う〉
・〈戦争の悲しみはもう取り戻せるものではないので、再び同じことが起こらないようにしなければならない。(中略〉今は再び戦争が起こることのないように務めたいと思います)

日常と異常と幸せ
・〈今の日常の大切さがわかりました。(中略)勉強や遊びを普通にできていることを尊く思い、一日一日を大事に過ごしていきたいと思いました。〉
・〈自分が今平和な世界に生きられていることが幸せなことなのだと気付きました〉
・〈人類が二度と侵してはならない戦争によって私たちが今平和に生きれているということに気付かされました〉
→私はキャリアガイダンスの時にも「幸せになってほしい」と述べたが、その幸せについては何も言及していなかった。もし、幸せというものがどこか遠くにあり、ごくわずかなトップの人間しか得ることのできないものだと考えている人がいたら、少し考えを変えてみよう。幸せというのは、本当に自分から遠いものなのだろうか。もちろん、ある側面では自らが勝ち取っていくものもあるだろう。しかし、今自分があたりまえのように置かれている環境、状況を一度考えて欲しい。それらは本当に「当たり前」なのだろうか。私達は幸いにも、文学や歴史といったものを学ぶことができる。そこから私たちは私達の当たり前とは違った世界を覗くことができる。そして自分を振り返ってみた時に、自分たちの当たり前がいかに当たり前でなかったかに気が付くことだろう。そうしたものが本当に見えてきたとき、あなたは幸せの別の側面をも発見できるだろう。

・〈自分の幸せのために、他人の幸せを奪うなんて、あってはならない事だ〉
→これが幸せの基本ルールなのかもしれない

最後にこの感想をまとめるにあたって、とても美しい祈りにも似た言葉でしめくくりたい。

・〈今日こうして透明で美しい雨がふり、白い雲が浮かんでいる青い空の下で生きていることが当たり前になっている平和が、永久に続きますように〉

僕が中学生におすすめしたい本

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 友人の実習生は自分の担当のクラスで、学級文庫という活動を行っていた。私もできれば本の紹介をしたかったのだが、様々な事情で念願叶わなかったため、リストだけを公開しておこうかと思う。
 一応これでも僕は学校図書館司書の免許を(現在申請中)持っているため、こういう活動には積極的なのだ。中学生に進めたからといって、大人が読んではいけないわけでもないし、読みやすいので、読書にあまり親しまない人にも自信をもっておすすめできる本ばかりだ。

タイトル 作者
あしながおじさん J・ウェブスター
三四郎 夏目漱石
置かれた場所で咲きなさい 渡辺和子
夜のピクニック 恩田陸
新編 風の又三郎 宮沢賢治
羅生門・鼻 芥川龍之介
バカの壁 養老孟司 新書
こころ 夏目漱石
カフーを待ちわびて 原田マハ
西の魔女が死んだ 梨木香歩
アンネの日記 完全版 アンネ・フランク
アルジャーノンに花束を ダニエル・キイス
十五少年漂流記 ヴェルヌ
宝島 スティーヴンソン
太陽の塔 森実登美彦
カラフル 森絵都
ジーキル博士とハイド氏 スティーブンソン
いまを生きる N・H・クラインバウム
新編 銀河鉄道の夜 宮沢賢治
陽だまりの彼女 越谷オサム
ソフィーの世界 ヨースタイン・ゴルデル
話し上手 聞き上手 斉藤孝
シンドラーのリスト トマス・キニーリー
博士の愛した数式 小川洋子 ハード
夢をかなえるゾウ 水野敬也
夏の庭 湯本香樹実
幸福な王子 ワイルド
悩む力 姜尚中 ハード
アンダーグラウンド 村上春樹 ハード
さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 山田真哉
〈いい子〉じゃなきゃいけないの? 香山リカ
坊ちゃん 夏目漱石
EQ 心の知能指数 ダニエル・ゴールマン
君たちはどう生きるか 吉野源三郎
食堂かたつむり 小川糸
「世界征服」は可能か? 岡田斗司夫
ロミオとジュリエット シェイクスピア
人間失格 太宰治
走れメロス 太宰治
黒い雨 井伏鱒二
車輪の下 ヘルマン・ヘッセ

月別読書録、鑑賞録 2014年6月

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6月は実習があり、ぜんぜん本を読めなかった。もし自分が働いたときにこうなるかと思うと、怖くてたまらない。

書籍
・『黒い雨』 井伏鱒二 著 新潮社 1995
・『ヒロシマ・ノート』 大江健三郎 著 岩波書店 1981 (岩波新書)
・『ヴォイニッチ写本の謎』 ゲリー・ケネディ, ロブ・チャーチル 著,松田和也 訳 青土社 2006
・『はじめの哲学』 三好由紀彦 著 筑摩書房 2006 (ちくまプリマー新書)

観劇・コンサート
・宝田座コンサート 宝田明 芸能生活60周年記念コンサート
プロフィール

幽玄

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