最後にして最初のメッセージ ~独我論を超えて~ (教育実習最後に私が生徒に贈ったメッセージ)

20090808174747bc6.jpg


 まずは三週間、短い間だったとはいえ、みんなと出会えたことに感謝している。そして、未熟な僕に対して様々な面で協力してくれてありがとう。もし、君たちが何かいじわるをしようと思っていたならば、僕はすぐにでもつぶれていたことだろう。三週間、こうして無事に教育実習を終えられたのは、なによりも君たちの協力しようという豊かな心のたまものだったと思う。
 そして悲しいことだが、「さようなら」といわなければならない。初めから決まっていた別れとはいえ、いざその時となると込み上げるものがある。
 キャリアガイダンスの時にもちらと言ったが、私の中学高校時代はさんさんたるものだった。特に中学は人間関係や、自分の問題があり、今でも思い出したくないことの一つだ。だから当初僕は高校で教育実習をお願いしていた。ところがいざふたを開けてみれば中学になっていた。十年前の情けない僕をよく知っている恩師の前で話をするのはとてもやりづらかった。
 三週間一緒に過ごして皆も僕がどんな人間かわかってきたと思うが、僕はこのようにマイナスから出発するようなネガティブな人間なのだ。ところが、この三週間。みんなのあたたかい心に包まれて、僕は本当に幸せだった。本当にこのままずっと君たちの担任になりたいと思うくらいだ。だが、どうやらお別れのときは近づいてきているようだ。そこで、僕からみんなに最後のメッセージとしていくつか伝えておきたいことがある。

 最初の授業で僕は〈僕〉は〈僕〉なんだ、ということをやったね。これは、〈僕〉あるいは〈私〉、〈自分〉といった存在が、他の人の「僕」や「私」とは完全に違っている、交換不可能なことなのだということだった。僕はこの授業で、なんとか〈自分〉というものが掛け替えの無いもので、交換不可能で、ユニーク(変わりになるものがないという意味)なものなのだということを伝えたかった。どうだろう、伝わっていただろうか・・・(本当に人生初の授業だったので、伝わっていない可能性がかなり高いのだが・・・)。
 しかしこれは本当のことなのだ。〈私〉という存在が今ここでこうして生きているというのは、何故かはまったくわからないが、とても奇跡的なことなのだということを、どうか忘れないでほしい。
 ただ、一つだけ注意してほしいことがある。というのは、〈自分〉の大切さに気が付いた時、人はしばしば独我論的(他のものはすべて自分のための存在するものだという考え)な人間になってしまうからだ。それでは単なるエゴイスト、ナルシストになってしまう。自分だけが大切で、自分さえよければいいという人になってしまう。
 しかし僕が伝えたかったのはそういうことではない。まだ君たちは本当に自分の存在の奇跡さに気が付いていないかもしれない。でもいつかはきっと気が付くときがくると思う。よく考えてみてほしい。もしこの〈自分〉や〈私〉という存在が奇跡的なものだとすれば、自分のまわりに存在している〈私〉もまた、特別な存在であるということにならないだろうか。そしてこれはきっとそうなのだ。私たちは本当に〈自分〉が大切な存在であると気が付いた時、ふと周りを見渡して、そこにはいたるところに究極的に特別な〈私〉の存在しかないことに気が付くのだ。
 だから、本当に〈自分〉の大切さに気が付いた時、君はきっと他人にも優しくなれるだろうと思う。だって、その人もまた、特別な〈私〉なのだから。

 僕の時代にはいじめやハブといった様々な問題があった。そういうことをしてしまう、自分達の存在の大切さに気が付けない心の貧しい人がたくさんいたからだ。
 あれから十年経って様々なことを見て聴いて経験して、僕の目もすこしはクリアになってきた。そういう僕が今中学時代を振り返り、こうすればよかったなということを君たちに何とか伝えたい。この三週間で僕が話してきたことはみんなそうした動機があった。

 三週間君たちと過ごして、深刻ないじめもなさそうで安心した。もしかしたら僕に見えていないだけで今苦しんでいる人がいるかもしれない。しかし、〈私〉の大切さに気が付き始めた君たちなら、きっとそういうことはもうよそうじゃないかと行動してくれることを信じている。

 なかなか中学という時代は、心理学でいえばちょうど「自我」(自分は自分だという感覚)が芽生えてくる時期で、どうしても自分を中心に世界が回っているように感じられてしまうのだ。「中二病」なんていう言葉もこういう傾向から生まれたものだ。(こんなのは病気なんかではなく、人間なら誰しもなる傾向だ)。自分は自分なんだということが自分のなかで出来上がるためには、一度この段階を迎えなければならない。だから、だれしも一度は中二病にならなければならないのだ。だけれども、いつまでもそれでいいというわけではない。現在の大人には、残念ながらまだ自分中心の世界から抜け出せていない人が沢山いるけれども。
 だからこそ僕は、みんなに〈自分〉の大切さに気がついたら、周りの人間にもその大切さがあるということに気が付いてほしいのだ。そうすると、世の中で起こっている様々な問題が、突然対岸の火事ではなく、自分に関係のあるものとして考えられるようになるだろう。
 君たちは遠くで起こっている戦争をニュースやネットで見てどう感じるだろう。やはり遠い国の世界で、自分とは関係ないことに思われるだろうか。あるいは、遠い国だからいけないのかもしれない。場所をもう少し近くに絞ってみよう。東日本大震災、これは日本で起きた震災だ。ニュースでよくみる話だが、これらを自分と結びつけて考えることが果たしてできているだろうか。

 今回僕の授業では井伏鱒二の『黒い雨』を取り扱った。みんなはこの授業をどう受けていただろうか。みんなは思うだろう。こんなのやったって意味ないよ。戦争なんて関係ない、ずっと昔の話でしょ・・・。
 僕だってもちろん戦争のことなんかちっとも知らない。しかしだからといって、今、この平和な世界で戦争を考えなくてもいいのかというとそうではないと思うのだ。この平和は、まさしく戦争によって築かれたものであるということを忘れてはならない。それに、昔といっても、大きい視野で捉えれば、70年なんてごくごくわずかな時間でしかない。もしかしたら、当時小学生くらいの子が、今老人になって生きているかもしれないのだ。
 私たちは直接戦争の記憶を持つ人々と話すことができる最後の世代だろう。僕たちの子供の世代の時、戦争の記憶を有している人たちはもうほとんど生き残っていないだろう。残された時間が少ないなかで、我々はなにをすることができるのだろうか。

 すこし話が大きすぎただろうか。僕は思考の仕方を変えて見てほしいと思っている。
 現在君たちはさまざまに分断された、細切れの状態で日々の生活を送っている。国語は国語、数学は数学、理科は理科、といったように、それぞれの科目もバラバラになっているし、授業も細切れになっている。はじめからバラバラになった状態のものを見せられているために、君たちの眼は曇らされているかもしれない。少なくとも私はそうだった。
 様々な本を読んだり、より深く勉強していると、あるところで多くの学問に限らず、ありとあらゆることやものがつながっているということに気が付く。国語と数学という一見すると両極端にある科目でさえ連続してつながっているのだ。
 何か問題が発生した際に、それを明確化するためにどんどん切り分けていくというのは一つの有効な手段である。だが、そればかりではいけないと僕は思うのだ。切り分けたなら切り分けたでいいが、そのぶん今度は繋ぎ合わせなければならないのではないかと、僕は思うのだ。
 だからこれから君たちは中学三年という、義務教育の期間を終えてひとりひとりの人生を歩んでいくわけであるが、その上において、あらゆる出来事を一度自分との関係のなかで捉えてほしいと願っている。
 様々な社会問題がある。それを対岸の火事ではなくて、自分にも関係のあることだと考えてほしい。


 例えばごくごく些細なことであるが、この三週間僕は放課後に教室の見回りをしていた。その時にこんな光景をよく目にしたものだ。それは、運動部の人たちが汗を拭いたシートをそのまま誰かの机にほったらかしのままにしてあるという光景だ。こういう人たちは完全に自分のことしか頭にない。汗をかいて気持ちが悪いので、体をふく。そして拭いて気持ちがよくなったらそれに使用したシートはそのまま置きっぱなし。もし、自分が運動部でないと想定してみよう。翌日、朝学校に来て自分の机を見たら、誰が使用したかもわからない汚い汗拭きシートが机の上にのっている。果たしてどういう気持ちを抱くだろうか。
 これを見た時に、まずは自分がこのシートを置かれた机の人間だと想像することが一番理解しやすいだろう。そうして当然嫌だなと思うわけである。この席に座っている人がだれかはわからなくとも、朝登校一番で気持ちの悪い思いをしてしまう人がいるということに気が付く。であれば、そうならないように、誰にも見られていなくともそのシートを捨てておこうとなるわけだ。

 僕はみんなにそういう想像ができるような人間になってほしいと思う。
 とくに〇組は人のことを理解できる人が多いクラスだから、それをこれまで以上に大切にして、また君たちが他の人のお手本にもなっていってほしいと思う。
 ありとあらゆるものは、どこかでなにかしらつながっている。
 そういう見えない糸に気が付き、それを大切にできる人にみんなになってほしい。
 〈自分〉が〈自分〉だけで存在するのではなく、他の〈私〉たちとつながって存在していること。そしてだからといって、自分が中心に世界を考えるわけでもなく、またあまりにも周りの人間に合わせすぎるのではなく、自分の信念を持ちつつも、探しつつも、エゴイストにならずに、これから生きて行ってほしい。
 少しくらい他人を違っていることを取り上げて笑うような人にはならないでほしい。些細な差にこだわっているだけで、あなたは本当に幸せになれるのだろうか。他人に笑われようが構わらない、そして他人のほんの少しのおかしさを笑わない、そんな人間になって、自分の幸せを見付けて行ってほしいと思う。

 これでひとまず僕が君たちに伝えたいことを書き終えようと思う。まだまだいくつも伝えたいことがある。しかし、本当に大切なこと、それはこの世に生まれてきて、生きるというのは、幸せになることだということだ。それさえ忘れなければ、これから君たちはどんなに辛いことがあろうと大丈夫だろう。
 またいつか会える日が来るのを心待ちにしている。僕ももっともっと人間として精進したい。大人になった君たちと出会えることを愉しみにしている。
 三週間本当にありがとう。君たちと出会えたことに感謝している。
 これが実習生としての僕の最後の君たちへのメッセージだ。これから自分の人生を生きる君たちへの最初のメッセージになればいいと思う。

とある学校で話したキャリアデザインの原稿 「幸せとコトバを獲得してください」

050813-biei038.jpg


 具体的に役立つお話は他の実習生の先生方がしてくださるだろうと思ったので、私はちょっと抽象的な、心の持ちようのような部分の話をしていきたいと思います。
 今回キャリアガイダンスということで、先生方からお願いをされた時、何を話そうか悩みました。それは、中学時代、高校時代のことを話してくれと書いてあったからでもあります。
 私にとって、中学、高校というのは、あまりよいものではありませんでした。とても人には言えないほど。それはそれは辛い日々を送っていました。
 我慢しつづけた六年間でした。そのためか、大学に入って体調をくずし、精神的にも参っていました。

 その間ずっと私は「どうして自分はこんなに辛いのだろう?」という疑問から始まって、「どうして僕は生まれたんだろう」「何のために生きるのだろう」そういった難しい問題をずっと考えていました。
 今でいえば引きこもりのようなものです。大学には行っていましたが、できるだけ家に閉じこもって、ずっと本を読み漁っていました。小説から、新書から、哲学書まで、ありとあらゆるものです。そして、ある時、はっと気が付きました。
 それはまさしく「僕は僕だ」ということです。授業でやりましたね。
 私はあの詩を授業で取り扱ってくれと言われた時に、なんという偶然なんだろうと思いました。ちょっと前に自分が考えていたことを授業で取り扱ってくれなんて。
 そうして私は気が付いたのです。自分というのは、自分でしかない。他人ではないのだということに。頭ではもちろんそんなことはわかっていましたし、そんな話は大人から何度も聞いていた。けれども、はじめてその時に私はこころで、そのことがはっとわかりました。

 今日私がみなさんにお伝えしたいことは二つ。
 一つは幸せになってもいいんだということ。
 二つ目は自分のことばを獲得してほしいということです。

 自分の中学・高校時代を思い返すと、息苦しく、閉塞感につつまれていたように思います。あまりにもいろいろなものが多すぎて、忙しすぎて、本当に大切なことを見失っていた。今、振り返ってみるとそう思います。

 私の友人の話をしましょう。
 一人は付属校から進学した人です。この人は大学に進学したものの、自分のやりたいことがどうしようもなく自分の中で盛り上がってきてしまった人です。この人は自分でお店を開きたいのだといって、そのためには専門学校に行かなければならないと、その専門学校まで実際に足を運んでみたりしていたのです。ですが、親が反対していた。私はその友人には親がなんといおうとそれは君の人生だ。君が本当にやりたいなら、やればいいと応援しました。
 もう一人は高校卒業後、一端社会に出て、会社勤めをしていた人です。この人は、しかし、自分のやりたいことを見付け、そのために会社を辞めて、大学に来たのです。

 もし、今とても窮屈に感じ、これからの未来、自分の将来に夢が見いだせない人がいたら、言っておきます。沢山いろいろなことにぶつかってみて、自分が一体どういうことになら打ち込めるのか、どういうことになら情熱を持てるのかを、まずは探してみてはどうだろう、と。
 努力を強要するのは嫌なんです。僕はぜんぜん努力できない人間だし、何よりもそうやって周りの大人に言われてきたのがとても嫌だったから。それに自分に嫌な分野では努力などそんなにできない。だから、私は努力しろとはいいません。そのかわり、自分がこれならば、どんなに辛くても頑張れる、努力できる、そういうものを見付けようと。

 幸せな時というのは、ただぐうたらしている時ではないんです。辛くても、これならばがんばれる、そういう対象に向かっている時なのだと思います。

 私の父は国立の大学を出て、今ではずいぶん偉い地位を持っている人です。自慢をしたいわけではない。ただ、そういう人だとわかってほしいのです。つまり、エリート志向だということです。右肩上がりの時代を生きて来た人ですから、当然自分の息子にもそれを強要します。学生のころ、いつも勉強しろ、勉強しろ、もっといい成績を取れ、そう云われ続けました。私は頭が良いわけではないけど、悪いわけでもないので、何もしなければそのまま大学に行けました。ですが、受験させられました。
 当然嫌々やった受験ですから結果は目に見えています。父は失望しました。私もなんだかんだ言って、まだ父親に影響されていた子供でしたから、どうしたらいいのかわからなくなりました。そして体調を壊しました。


 しかし、それから一旦自分の殻に閉じこもることによって、私は自分の世界、自分の言葉を獲得しました。
 確かに父の時代は、右肩上がりで、いい学校に入って、いい大学に行って、いい会社に行って、いいお給料をもらうことが、いいことだったかもしれない。今でもそういう生き方をしたい人はすればいい。しかし、それを押し付けるのにはちょっと待てよ、ということです。

 私が今日、みなさんにお伝えしたいこと、君たちがこれから生きていくなかで一番大切なことは、貴方は貴方であって、親のものでもほかの人のものでもない、あたな自身なのだということです。あなたの倖せを決めるのは、親でも教師でも、私でもない、貴方自身なのです。
 貴方は幸せになる権利があります、義務があります。
 そしてあなたの倖せは他人から見たら、親から見たら、大学を辞めるように一見ショッキングなことのように見えるかもしれない。反対されるかもしれない。ただやめるということではなく、自分の意思を持って辞めるという場合、貴方は周囲の人の反対を押し切らなければならない。その時に、貴方は自分のことばで、自分の世界を他人に示さなくてはいけないのです。

 私は幸運にもことばを扱う術を自分で工夫しながら身に付けることができました。
 みなさんもこれだけは譲れない、そういう自分の世界を持ち、そしてそれを語るためのことばを身に付けてほしいと思います。文學に親しんできた私が言えること。それは多くの本と触れ合うこと。これが一番手っ取り早いのではないかと思います。ですが、ことばというのはなにも、我々が使用しているこの言語ということだけではない。スポーツも、美術も、音楽も、数学も、科学でも、なんでも自分の世界を語る言葉なのです。

 今日伝えたいことは二つ。
 一つは、自分の幸せを見付けること。これなら頑張れるというものを見付けることです。そして、二つ目は、それを語ることば、表現を身に付けていくこと。これを忘れずに、他人人生ではなくて、自分の人生を歩んでほしい、そう願っています。

月別読書録、鑑賞録 2014年5月


本当はひとつひとつていねいに論じたり、紹介したりしたいのだけど、そんなことをしていると時間が足りないので、一言メモ程度で紹介。詳しく論じたいものは別個に取り扱うことにしようと趣を変えてみます。

書籍

・『黒い雨』 井伏鱒二 著 新潮社 2003 (新潮文庫)
メモ これについては詳しく一つの記事を割いて論じたい

・『脳のなかの幽霊』 V.S.ラマチャンドラン, サンドラ・ブレイクスリー 著,山下篤子 訳 角川書店 1999
メモ とても面白い本だった。外国の本で、しかも脳科学系の本となると、これはもうどんな難解な文章にあたるかと恐ろしくてたまらないが、著者がすばらしいのか、訳者がすばらしいのか、日本語としてきちんと読むことができた。しかも内容もおもしろい。ラマチャンドラン博士は幻肢で有名な人だ。手を失ってしまった人が、脳のなかで作り上げた手に困らされている例など、脳って不思議な機能をするものなんだなあと改めて思わされた。特に理系の本をちっとも読まない僕としては、この本を紹介してくれたブログ仲間にも感謝したい。

・『スモール・イズ・ビューティフル再論』 E.F.シューマッハー 著,酒井懋 訳 講談社 2000 (講談社学術文庫)
メモ 60年代70年代に僕の大好きなサティシュ先生が創刊した「リサージェンス誌」に掲載された論文を集めたもの。『スモールイズビューティフル』よりも読みやすい。訳者がいいということもあるだろう。こういうものを読んでいて思うことは、人間を人間として見られない者が経済を語るなということ。
人間をただの労力と考えるだけや、できるだけ回転するようにとかそういうことが先に来てしまうような人間がいるから人類は幸せになれない。

・『テクストはまちがわない : 小説と読者の仕事』 石原千秋 著 筑摩書房 2004
メモ これは非常におもしろい本だったのではないかな。石原千秋が1990年代あたりに書いた論文、三十本ほどを集めた評論集だ。一応似た内容で章別にはされていて、全体としての流れみたいなものもできてはいる。どこで手に入れた知識だったか忘れたが、同じころ加藤典洋氏の『テクストから遠く離れて』という『テクストはまちがわない』とは対となる作品が出版されていて、それを読み比べるといいという批評があったような気がする。この二冊を読み終えた身として、僕はこれからどう小説と向き合おうか。

・『幸せになる力』 清水義範 著 筑摩書房 2008 (ちくまプリマー新書 ; 78)
メモ 途中までいいかなと思っていたが徐々に違うだろという感じが強まってきた。勉強だけがすべてではないという意見まではよかったが、働かなければならないみたいな方向に結局は持ってっていて、世代による思考の枠から抜け出せなかった感

・『プレッシャーに強くなる方法 : あなたはなぜ、ここ一番でアガってしまうのか』 岡本正善 著 河出書房新社 1997 (Kawade夢新書)
メモ ここに書かれてある方法、実践できるかどうかけっこうハードルが高い。が、何がプレッシャーなのかといった理論面の説明は納得できることも多く、比較的満足できる内容ではあった。

・『だいたいで、いいじゃない。』 吉本隆明, 大塚英志 著 文藝春秋 2003 (文春文庫)
メモ 今から十数年前のものだから、僕が今読む理由、すこし時期を逸している感はある。ただ、吉本隆明が一体どんなことを言っていた人なのか、その入門、導入にはなった

・『こころ』大人になれなかった先生 石原千秋 著 みすず書房 2005 (理想の教室)
メモ なかなか面白い読みを展開している。

・『文学がこんなにわかっていいかしら』 高橋源一郎 著 福武書店 1989
メモ 1988、1989年に「海燕」等に掲載された時評集。時評だから、評論よりもかなり早い時期にかかれるもの。そのため特に身につくようなすばらしい知識見識があるわけではないが、その時の時代の感じ、雰囲気が伝わってきた。時評なんてあまり意味がないと一概に馬鹿にできない。僕が産まれる前の世界がどのような雰囲気だったのかを知るに有効な手段だ。

・『悪について』 エーリッヒ・フロム 著,鈴木重吉 訳 紀伊国屋書店 1965
メモ フロムの著作のなかでは比較的後期のもの。訳も昭和40年で他の著作に比べれば読みやすい。内容は悪というよりは、人間の退行について書かれたもの。

・『スモール・イズ・ビューティフル : 人間中心の経済学』 E.F.シューマッハー 著,小島慶三, 酒井懋 訳 講談社 1986 (講談社学術文庫)
メモ エコロジーの世界では有名な本、初めて読んだ。彼はただ小さいもの賛美をしているのではなく、仏教の中道のように、中間技術を模索していた。しかし、現代のあまりにも大きすぎる経済、科学技術に対して強調するためにスモールと言った。

・『EQ~こころの知能指数』 ダニエル・ゴールマン 著,土屋京子 訳 講談社 1996
メモ こんなにすばらしい本は久しぶりだ。心の知能指数は、それまでIQ一辺倒だった学力至上主義に対して別の視点から物申したものだ。これは僕が考えていた心本主義の考えと非常に似通っている。僕は全然見ていないけれども、最近サイコパス系の登場人物が主人公になる作品が増えているのはなんとなく納得できる。というのは、圧倒的に人間自体に共感能力が衰えてきているように感じられるから。作品を作る、もっともセンサーの敏感な人たちがそれを受け取ったのだろう。観客もしかり。共感能力、ラポール、想像力いずれも似通ったもので、重なり合うところが多いと僕は勝手に思っている。これらの欠如が最近特に酷いわけね。これらは一重に感情を大事にしてこなかった結果だろうと思う。唯物的というのかな、人間は歯車なんだからといった感覚がこうしたと思う。どうにも精神面や感情といった目に見えないものに対して僕たちは間違った認識を抱きがちだけれども、これらも筋肉とおんなじで鍛えなければ向上しないよ。鍛えるとどうなるかというと、感情が豊かになったり、共感能力が高まったりする。鍛え方は、フェイストゥフェイスで対話するとか、本を読むとか。

・『就活のバカヤロー : 企業・大学・学生が演じる茶番劇』 石渡嶺司, 大沢仁 著 光文社 2008 (光文社新書)
メモ 評価2.一部なるほどと思う部分もあったが、全体としてはいまひとつ。「就活」に関わるすべての人が気持ち悪いと断罪するのには爽快だ。だが、私はさらにこれを気持ち悪いという作者二人もなかなか気持ちが悪く感じられる。

・『生きることと愛すること』 ウィリアム・エヴァレット/著,菅沼 りよ/訳 講談社 1980 (講談社現代新書 ; 503)
メモ 最高にすばらしい。そこにも愛されることについて書かれた部分で子猫の話がすこし書いてある。この本に従えば、我が庭にきている猫は、人を信頼し、愛され方を心得ているということ。エヴァレットはまず最初に大別して、愛する能力(これはフロムの考えにも似ている)と、愛される能力があると述べている。
私たちは愛されるために、まずこころを開かなければね。

短編
・『太陽の季節』 石原慎太郎
・『人間の羊』 大江健三郎
・『カンガルー日和』 村上春樹


映画
・『最強の二人』 2011年、フランス映画


展覧会
・ミラノ、ポルディ・ペッツォーリ美術館、華麗なる貴族コレクション」
・国宝《燕子花図屏風》尾形光琳筆 根津美術館 特別展
プロフィール

幽玄

Author:幽玄

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
324位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
16位
アクセスランキングを見る>>
フリーエリア