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哲学、究極の問いに対する僕の答え

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 忘れもしない、4月30日の深夜、つまり29日をすぎてから二時間ほど経った時のこと。私は夜寝る前にトイレにいくのですが、そのトイレに入ったところで、はっと今までこの二年間ほど悩み続けてきた一連と問いに対する答えがひらめいたのです。
 まずその問いというのは、哲学の世界では「第一の問い」とか「究極の問い」とか言われるもので、どんな問いなのかというと、「なぜ私は存在しているのか」「なぜ私は生まれたのか」「なぜ私は生きているのか」といったものです。
これは根源的な問いで、いままで多くの哲学者が挑んできた問いです。いまだこれといった答えもない。またこれらの問いは、そのあまりのむずかしさや危険さから、「混乱を呼ぶ悪名高き問い」、「解答不可能な奇問」、「愚かな問い」、「問うことが危険な問い」などと言われて、敬遠されてきたというのも事実です。
 こうした問いは「形而上」であるとして、カントなんかは問うこと自体がいけないんだ、なんて断罪しているのですから、おもしろいものです。
 私も一時期この問いの魅惑というか、なんというか、この問いから離れられなくなっていた時期があって、もしかしたら自分は意味がないのではないか、生きることに意味はないのではないかとだんだん鬱的になってきていた時期もあったのです。ですが、それがなんとつい先日、ふっとわかったような気がしました。

 言葉で書くといかにもチープですが、私が達した答えはこうです。
 この問いが問えるようになった時点ですでに答えは出ている、というもの。
 補足説明しますと、「なぜ私は生きているのか」「なぜ私は存在するのか」といった問いは、その問いが生まれた時点で完結しているということなのです。
 手塚治虫が書いた有名な漫画『鉄腕アトム』にはこんな場面があります。アトムが人間のこころを持ちたいと願う場面なのですけれども、しかし、実はその人間のこころを持ちたいと思った時点で、すでにこころを持っているのです。
 私はこの一連の問いも、この問いが生まれた時点で完結しているのではないかと思うわけです。つまり、なぜ私が存在するのか、なぜ私が生きているのかという問いが生まれたということは、究極的な「私」の存在に気が付いたからなのです。
 もし、自分が他人とかわらずに、自分は歯車だ、自分が死んでも何もかわらない、他人と交換可能だという考えであったならば、おそらくこれらの問いは生まれてこないのだろうと思います。私は、この問いが自分のなかで生まれたというときにすでに、私は私であって、それ以外のなにものでもないということに気が付いているわけです。
 実にシンプルでありますが、しかし真実というものはこのくらいシンプルなものなのでしょう。私は私であって、代替不可能で、オリジナルでユニーク(かわりがないということ)な存在なのだということにやっと気が付けたのです。こんなことは、今迄ずっと言葉では聞かされて、頭ではなんとなくわかってきたことです。しかし、これが心のレベルではっとわかる。この感覚がきっとこの問いの答えなのだろうと思います。
 この数か月、私は自分は自分以外のなにものでもなくて、本当にユニークなものなんだ。こんなにすばらしいことはないと次第に気が付いてきていたのですけれども、それがやっと地についたというのか、翻って、この一連の問いと結びついたのです。

 なぜ私は存在するのか、なぜ私は生きるのか。これらの問いというのは、おそらく、その問いを問い続けていくことにはあまり意味がないのではないかと思います。もちろん、きっとこの問いを問い続けていっても、何かしらあるとは思います。もしかしたら、やはりまだ発見されていない何かがあるのかもしれない。
 しかし、私が数日前に体感したのは、これらの問いが問えるようになったその時点で、すでに自分は自分であって他人ではない、このあまりにも当たり前で、しかしそのためにみんな忘れてしまっている事実が、この問いの発生であるこの事実が、一番重要なのではないかということなのです。
 今回の体験は、言葉にすればこんな感じです。はっと頭のもやもやがゆっくりと晴れて行った感じ。こころのなかから少しずつ少しずつ湧いてくる、充足感、幸せのようなもの。
 私たちは、なぜ「なぜ」と問うのかということなのです。どうして、なぜ?と思うのか。実はこのなぜ?と問えるということ自体にかなり意味があるのではないでしょうか。
 どの授業でもそうですが、先生に質問出来る子というのは、自分の頭で考えている子です。ところが、自分の頭で考えている結果、なぜ?そうなるのかがわからない、というところがでてくる。自分の頭で考えることをせずに、ただ聞いてノートを書いているだけでは、なぜ?という疑問は湧いてきません。
 哲学の問い、とくにこの一連の問いについては、なぜ?と問える状態になった時点で、私は私であるということが本質的にわかったということなのではないでしょうか。
 もちろん、これは私にとっての私の答えなのです。ですから、これが全員に通用するなんてことは思っていません。おそらくこの文章を読んだからと言って、誰もが、ああそうかと納得するとは思えません。無理でしょう。ただ、この答えというのは、私にだけ意味を成すことであり、他の人に意味をなすとはとても思えません。ですが、まあ他人の思考の痕跡を見るということもまた、何かにはなるのではないかと思い、またこの感動を誰かと共有したく(おそらく無理ですが)、今回記事にした通りです。
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ベジタリアンとまではいかないけれど、できるだけ暴力的でないものを食べる生活

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 最近は私もようやく資本主義の幻想から抜け出すことができまして、自然に帰らねばならないと思うようになりました。そして、革命は下から、一番弱いと思われているところから行うものです。自分が変えられない人間が何故他人を変えることができるでしょう。
 私は最近ガンジーに代表されるインドの思想などに触れ、いいなあと心から思いそれらを受け入れています。このブログでもよく登場するサティシュ先生もその代表ですね。
 そしてやはり私たちは「生きている」のです。言葉で書いてしまうとなんということもありませんが、私はここ数か月、やっとこのことに何か本質的に気が付けたような気がします。ああ、私は紛れもなく、この世界に生を受けたのだ。こんな奇跡的なことってないじゃないかと思い始めました。
 それ以来、自分はなによりにもまして特別な存在であり、代替不可能であり、ユニーク(ほかにかわるものがない)な存在であるということに気が付かされたのです。この自分がかけがえのない大切なものだと思うのと同時に、周りにいる人達もみな大切な、かけがえのない存在だということにも気が付きます。自分だけが大切というのは、エゴであって、それは本当の大切さをわかったとは言えないでしょう。

 私はガンジーの言った「非暴力、不服従」の精神が大切だと思っています。最近では、その思想がどんどん自分のなかに根付いてきて、食に対する考え方も変わりました。
 サティシュ先生は「全体食」ということを言っています。全体食というのは、たべものをそのままの形で食べることです。全体食というのは、仏教の「一物全体(いちぶつぜんたい)」という考えに拠っています。Wikipediaから引用すると、「生物が生きているというのは、丸ごと全体で様々なバランスが取れているということであり、そのバランスのまま人体に摂取することが人体内のバランスを取るのにも望ましいという考え方から、人間が食物を摂取する際、穀物を精白したり、野菜の皮をむいたり、動物の肉や魚を部分的に食用にするのではなく、できるだけ丸ごと食べるのが健康に良いとする考え方。 栄養学の観点からも、植物の皮や葉、小魚の骨は栄養が豊富である」というわけです。
 私はまだこの「全体食」にまではたどり着けていないのですが、しかし最近ではできるだけ暴力的につくられていないものを食べるように心がけようと思うようにはなりました。

 一時期ネットでフォアグラを作る際の過程が映された動画が話題になりました。かなり暴力的で、精神的な衝撃を与える動画なので、心の準備がない方は御覧にならないでください。
http://www.hopeforanimals.org/animals/foiegras/00/id=224
 私はこうした動画を見て、やはりこれは違うと思いました。何が違うって、動画が違うんじゃありませんよ。動物をこのようにして暴力的に、食べることだけに育成して食べるというのは間違っていると思うようになりました。
 フォアグラなんてなくたって私たちは生きていけるわけです。だからフォアグラにはノーを突きつけていく。みんなが食べなくなれば、必然、売れなくなるのですから作るのをやめざるをえない。暴力は少なくなります。
 そんなことを言ったら何も食えなくなるじゃないかと、多くの方は言うかもしれません。しかし、そんなことはない。
まず、私たちは穀物だけを食べて生きていくことなんて十分にできるのです。しかし、反対に肉ばかり食べるとなると、それは地球全体で考えても無理だということになります。現在地球には70億という、あまりにも増えすぎてしまった人間が住んでいます。しかし、なんとも地球は偉大なもので、これだけの人間が食べるだけの食料を大地はつくってくれるのです。ところが、これに足して肉をつくるとなると状況がかわります。1キロの肉をつくるのには、10キロの穀物と、水20トンになると言われています。世界中の人々が肉を食べるようになれば、あっという間に地球の資源は枯渇しますから、やはりどう考えても全体的にはどんどん肉から離れて行かなければならないということになるのでしょう。
 まあ、しかしそんな理論的な、あるいは壮大な話はやめましょう。こういう話をすると、どうしてすぐに地球と考えてものごとを考えるんだと人から言われるのですが・・・。私は地球と結びつけて考えないからこんなに乱暴なことを人間はしてきてしまったんでしょうといいたいのですがねえ、まあ喧嘩になるからやめておきます。

 それとは別に、もっとパーソナルな部分で、半径数メートルの話をしましょう。
 もし、心の準備が整った方はフォアグラの動画を見て頂ければより理解が深まるのですが、食用のための家畜というのは、本当に乱暴で暴力的につくられたものなのですね。できるだけ少ない餌で太らせようとするわけですから、運動もさせられなければ、満足な場所も与えられない。効率的でないからですね。
 さて、食用のための家畜を生産している現場では暴力に満ち満ちています。記憶というものが脳以外にも残るということが判明して久しい今日、そんなに乱暴に、暴力的に育てられたものを食べている人間がおかしくならないとはっきりと言い切れるでしょうか。
 現在社会というのは「科学教」という宗教が蔓延している世界です。この世界では、科学的に「正しい」ことが、すべてにおいて「正しい」のであって、仏教的に「正しい」とか、心理的に「正しい」とか、日常的に「正しい」とかいったことは、すべて「非科学的だ」といって軽んじられてしまいます。しかし、私は科学教の皆さんにとっては残念なことに、科学教の信者ではないのです。ですから、科学的に「正しい」と言われたことが、「正しい」ことだとは私は盲目的に信じません。科学的に正しいからといって、それがどうして私にとって正しいことになるのでしょうか。私はそれゆえ、非科学的なことは正しくないことだと軽んじることもありません。私は自分がよく理解できない数字上のことが正しいからといって、それを盲目的に信じるのではなく、より広い視野からものを見たいと考えています。いくら科学的に「正しい」からといって、それが間違っていたということが歴史を振り返ればいくらでもでてくるわけで、経験的にも、日常的にも、心理的にも照らし合わせてみて総合的に「正しい」ものを見出していきたいと思っています。
 科学においては、暴力的に作り出された食品を取り続けることによって出る影響というものを計測することは、仮に出来たとしてもまずこの数十年では無理でしょう。おそらく計測できないと思いますが。
 私はアニミズム的な感覚を持っているし、それが悪いことだとは、ナンセンスなことだとはちっとも思っていません。やはりモノにさえもこころは宿るものだと信じていますし、植物にも当然こころがある、ましてや動物にはもっとこころがあると思います。そうしたこころあるものを乱暴に、暴力的に扱ってできた食べ物を食べて、そして私たちが幸せになるはずがないと思うのです。
 多分影響は出てくると思いますよ。こんな話をいくつかの本で読んだことがあります。ネズミか何かだったかな、ある光を出して、その後に電撃を与えるという条件付けを行ったそうです。そうすると、そのネズミは光を浴びると痛い目にあうのをわかっているから、怯えた行動を取るようになる。そのネズミを殺して、もう一匹のネズミにエサとして与えたところ、条件づけ、光を浴びた後に電撃をくらったことがないネズミでさえ、光を当てたところ怯えるようになったという実験があるそうです。
 これは大変乱暴な実験ですし、またあまりにもよく出来すぎているお話なので、そんなにうまくいくわけはないだろうと思いますが、しかし、記憶が脳以外にもあるということはもう今日では自明の理なのではないでしょうか。骨にも記憶があるそうですし、内臓器官にも何かしらの記憶があるらしいということがわかりはじめています。それだけではない、きっと筋肉からなにからなにまで、おそらく記憶とまでいかなくとも、何かしらのものが残っているでしょう。それを私たちは毎日毎日体内に摂取するのです。
 本当に私たちは口にするものと身に付けるものだけは注意しなければなりません。
 そのような暴力によって生み出された動物たちが、自分の身体にどのような記憶を残しているかわかったものではありません。それを常日頃食べ続けることによって、私はきっと何かしら人間は罰を食らうとおもうのですね。

 ですから、最近ではできるだけ私はそうして暴力によって生み出された食べ物は食べないようにしています。もちろん、できるだけですから、出てきたら食べます。出されてしまったのに食べないということは、さらにその動物に対して失礼だと思うからです。でも、できることならあまり食べたくない。
 しかしベジタリアンというわけではありません。自然の世界を泳いでいてたまたまつかまってしまったお魚は食べさせていただくことにしています。これも養殖のものはあまり食べる気になりませんね。
 ベジタリアンといっても、何もそんなにおどろくものじゃありません。私たちはベジタリアンと聞くと、野菜しか食べてはいけないのかと思いますが、そんなことはなく、要は肉を食べないということだけなのです。ですから、ラーメンだって食べられるし、そば、うどん、パスタ、パン、御飯、いくらだっておいしいものはあります。今まで食べていた肉を減らすだけ。ぜんぜん難しいことじゃありません。別にこれを強要しているわけではありませんよ。ただ、私は最近そういう考えになってきているというのを書いているだけであって、みなさんにそうしなさいなんておこがましいことを言うつもりはありません。
 あとは、あまり科学的なものも口にしたくありませんね。科学的というのは、ひとつは農薬などです。もう一つは遺伝子組み換えという、あまりにも生命に対して乱暴なこと。これだけは私は許せませんね。そうしてもう一つは、自然的でない食べ物です。コンビニにいけばいくらでも売っている、一体なにからつくったのかわからないような食品。
 やはり食べることというのは、生きることの根本になると思うのですね。だから、生きているものを食べるということが、自分の生に直結する。ああ、自分はこうして、動物なり、植物なり、生きているものを食べて生かされているのだなと感じる。だから「いただきます」なのですよね。でも、それが何によって生み出されたかわからない、化学調味料をふんだんにつかったゼリーとかなんとかだと、ちっとも命を頂いている気にならない。ある意味気楽なのです。命を頂いているという罪を背負わなくていいので。しかし、それは一見すると気楽でいいですが、自分が生命を頂いて生かされているという、一番大事なことを忘れてしまうことになるのではないでしょうか。だから、なんで生きているのかわからなくなる。どんどん生命から見放されていくのです。
 きちんと食事をする際には、自分が食べなければ生き続けられたかもしれない生命をいただいているという感覚を持って、それをありがたいことだと感謝しながら、食べなければ失礼だと思います。最近はそういう基本的なことからどんどん遠ざかっているために、自分の生きている意味がわからなくなったりしてきているのではないかと考えたりしていました。

私が自信を持っておすすめする作品。書籍編  更新三度目

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 作品は、できるだけ平易で誰でも読めるものを選んだつもりです。大体高校生くらいになれば読める作品を基準に選びましたが、高校生ぐらいでも難しいと思われる作品も中にはあります。
 文学史的に著名であるということではなく、著名であっても難しかったり、あまり面白くない作品は省いています。私が今まで読んできたなかで、これならば他人に手放しでお勧めできるという作品を紹介します。皆様の読書生活に役立ててください。

タイトル / 著者名 [著] ; (訳者名). 出版社、出版年次
順不同。読んでほしい順に並んでいるわけではありません。

・「ゆっくり」でいいんだよ/辻信一 [著],ちくまプリマー新書 2006
一行紹介:ちくまプリマー新書は中高生対象に書かれた新書。平易で読みやすいのでどれもおすすめ。この本は現代の忙しい生き方を見直す指標になります。

・君あり、故に我あり : 依存の宣言/サティシュ・クマール [著],尾関修, 尾関沢人 訳 講談社 2005 (講談社学術文庫)
一行紹介:『「ゆっくり」でいいんだよ』にも引用されています。東洋の哲学から学ぶべきことは多いと思います。

・あなたはどれだけ待てますか : せっかち文化とのんびり文化の徹底比較/ロバート・レヴィーン 著,忠平美幸 訳 草思社 2002
一行紹介:それぞれの時間について、学術書ですが、平易に書かれているので十分読めます。上二冊と合わせて読むと尚良いでしょう。


・源氏物語 巻一~十/紫式部,瀬戸内, 寂聴 講談社 2007
一行紹介:やはりなんといっても日本の古典作品は読んでおきたい。源氏物語の名訳は、与謝野晶子、谷崎純一郎、瀬戸内寂聴とあります。筆者はまだ瀬戸内源氏の途中ですが、とにかくすごい!


・嵐が丘 上下/エミリー・ブロンテ 作,河島弘美 訳 岩波書店 2004 (岩波文庫)
一行紹介:海外文学は翻訳者が命。多々ある翻訳のなかで、河島さんの翻訳が一番きれいです。

・ソフィーの世界 : 哲学者からの不思議な手紙/ゴルデル,ヨースタイン/著,池田香代子/訳,須田朗/監修 NHK出版 1995
一行紹介:いまから約20年前に世界的ヒットを記録した作品。いい本は今から読んでも遅いなんてことはありません。難しかった哲学のことを中高生でもわかるように書かれてありますが、もちろん大人が読んでもOK

・楽園のカンヴァス = La toile du paradis/原田マハ [著] 新潮社 2012
一行紹介:こんなに面白い現代の作品を読んだことがない。ミステリでもあり、美術作品をテーマに作品が展開します。

・こころ/夏目漱石 著 新潮社 2004 (新潮文庫)
一行紹介:やはりなんといっても日本の作家を読んでおきたい。漱石を読むなら、この名作は外せません。

・坊っちゃん/夏目漱石 著 新潮社 2003 (新潮文庫)
一行紹介:漱石を読むなら、これから入ることをお勧めします。古典的名作。

・文学部唯野教授/筒井康隆 著 岩波書店 1990
一行紹介:ここ二百年ほどの文学理論を展開を唯野教授がおもしろおかしく説明してくれる勉強できる本です。

・ドグラ・マグラ 上下/夢野久作/著 角川書店 1976
一行紹介:日本三大奇書の一つ。かなり難解なため、読書通にのみお勧めします。

・百年の孤独/.ガルシア・マルケス [著],鼓直 訳 新潮社 1972
一行紹介:挫折者続出

・モモ/ミヒャエル*エンデ/著,大島 かおり/訳 岩波書店 1987
一行紹介:日本では児童書として出版されていますが、大人も読むべき大切な本。

・アルジャーノンに花束を/ダニエル・キイス 著,小尾芙佐 訳 早川書房 1999 (ダニエル・キイス文庫 ; 1)
一行紹介:最初は読みにくいかと思われますが、少し辛抱すれば、感動せずにはいられない素晴らしい物語に心満たされます。

・自由論/ミル 著,斉藤悦則 訳 光文社 2012 (光文社古典新訳文庫 ; KBミ1-2)
一行紹介:現在我々の社会は最大多数の最大幸福の原理が採用されています。その原理を開発した一人でもあるミルの自由論。光文社から読みやすい訳で出ています。これを読めば、どのように振る舞えばいいのか、人生の指標になります。

・お姫さまとジェンダー―アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門/若桑みどり ちくま新書 2003
一行紹介:タイトルにあるように非常にわかりやすいジェンダー入門です。ディズニー映画からいかにして男らしさや女らしさが描かれてきたのかがわかります。

2014.5.6追加
・EQ : こころの知能指数/ダニエル・ゴールマン [著],土屋京子 訳 講談社 1998 (講談社+α文庫)
ちょこっと紹介:素晴らしい本。学力だけがすべてではない。むしろこれからは心の時代。いかに相手に共感できるかとか、そういうこころの部分が大切になってくる。科学教で、数字教の信者の私達には、こころの大切さが失われてしまっていた。

・生きることと愛すること/ウィリアム・エヴァレット/著,菅沼 りよ/訳 講談社 1980 (講談社現代新書 ; 503)
ちょこっと紹介:生きることや愛することとタイトルがついた作品を沢山読んできたけれども、どれもタイトル負けでぜんぜん違うことが書いてあった。そんななか、この本は本当に愛することに直球勝負をした作品。生きることについては描かれていないが、愛することとはどういうことかを考えさせられる。

・テレビは見てはいけない : 脱・奴隷の生き方/苫米地英人 著 PHP研究所 2009 (PHP新書 ; 629)
ちょこっと紹介:私たちは普段接しているメディア、特にテレビから強力な影響を受けます。テレビによって知らず知らずのうちに刷り込まれた価値観は、やがてこうしなければならないという、人間の行動を束縛するバイアスに変化します。この本を読んで、生きたいように生きればいいという当たり前のことを学んでください。

・スモール・イズ・ビューティフル : 人間中心の経済学/E.F.シューマッハー 著,小島慶三, 酒井懋 訳 講談社 1986 (講談社学術文庫)
ちょこっと紹介:有限の資材しかない地球でどんどん自分の利益のために消費していく人間の傲慢さ。我々人間が本当にこれからも地球で生きて行きたいのならば、仏教の思想を取り入れた仏教経済学を学び、必要最低限の生き方に立ち直らなければならない。

2014・06・03追加
・『脳のなかの幽霊』 V.S.ラマチャンドラン, サンドラ・ブレイクスリー 著,山下篤子 訳 角川書店 1999
メモ とても面白い本だった。外国の本で、しかも脳科学系の本となると、これはもうどんな難解な文章にあたるかと恐ろしくてたまらないが、著者がすばらしいのか、訳者がすばらしいのか、日本語としてきちんと読むことができた。しかも内容もおもしろい。ラマチャンドラン博士は幻肢で有名な人だ。手を失ってしまった人が、脳のなかで作り上げた手に困らされている例など、脳って不思議な機能をするものなんだなあと改めて思わされた。特に理系の本をちっとも読まない僕としては、この本を紹介してくれたブログ仲間にも感謝したい。

・<子ども>のための哲学
永井均 著 講談社 1996 (講談社現代新書. Jeunesse)
メモ これはずばり!という感じ。なぜこの僕が〈僕〉でなければならなかったのか。そこが知りたかったんだ。永井先生とともにそれを考えることができるのはとてもうれしいことだ。

5・3 「特定秘密保護法に反対する学生デモ」に参加して

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写真は毎日新聞社のウェブ記事より。私が左下に映っています。ちょうど水を飲んでいるところですね(笑)

はじめに
 去る5月3日、憲法の日に私は東京・新宿で催された「特定秘密保護法に反対する学生デモ」に参加しました。
 Facebookには、デモ参加からそれほど時間の経たない、まだ感情的にもデモの中にいる時に書いた一文があります。
 「法律のことも政治のこともよくわからないこのちっぽけな僕には何ができるだろうか。僕には何ができるのか、何を していいのかさえもわからない。わからないから、僕はこのデモに参加してみた。何をしたらいいのかわからないからという消極的な理由でしか参加できなかったことを残念に思うが、しかしこれしか僕には僕の考えを主張する方法がない。」
 これが、正直な私の声です。
 冷静にならぬうちに出た言葉ですが、一日時間を置いた今でもこの気持ちになんら変わりはありません。


 今回の記事は、別に難しい法律や憲法のお話をしようというわけではありません。そうした法律や憲法の難しいお話は、専門家が沢山していますし、研究者たちがいろいろ書いてありますからそちらを読んだら良いでしょう。もちろん、そうした勉強をすることも重要なのですが、私はそれとは別の次元で、私が主張できることをしていかなければならないと思います。

 このデモの内容については、毎日新聞社がウェブ上に記事として掲載していますから、そちらを参照してください。
憲法12条は警告する 「権利守るため努力必要」学生ら400人デモ
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014050402000112.html


まずは感想から
 Facebookに投稿した文章の通り、私は法律についても憲法についても、政治などまったく知らない平凡な一市民です。ですから、これまで国が政府がどんどん、私の、私たちのやってほしくないことをやっていくのをただ指をくわえてみていることしかできませんでした。
 せいぜいTwitterで自分の考えをちょっとつぶやいてみたり、そうした内容のツイートをリツイートしてみたりするのが関の山です。やはりTwitterには友人もいますから、そうした人に政治的意見を見られるのが、なんとはなしに歯がゆいというか、にが苦しい思いがどこかにある。日本人は政治の話を日常でできないとは、よく言われることですが、これだけ政治的な局面にきているときに、やはりそれは文化だからとか言っている場合ではなくて、何度も議論していかなければならないのだということにようやく気が付きました。
 私も未だに友人に向かってそういう議論をふきかけようなどとは思いませんし、そうした発言をするために、すこしくうるさがられてはいます。ですが、それでもいい。仕方ないと、踏み切れるようになりました。
 こんな臆病な私ですから、これまでにこうした実行を伴う行為は何も行ってきませんでした。ですから、今回のデモは私にとって人生初のデモでもあったわけです。

 一番最初に感じたことは、何よりもまず「デモって楽しい!」ということでした。
 近現代の文学が専門なので、村上春樹の本などを読んでいると、60年代70年代の学生運動の描写などがあり、一通りそうした知識は得ています。ですから、デモなんていうと、催涙ガスとか、警官隊とのぶつかりあいとか、そういう大変な、とても「楽しい」とはかけ離れた場所でおこなわれている、非日常だと思っていたのです。
 ところが、今回参加してみて、そのような勝手な思い込みから解放されました。そこには、時代的な違いというものがあると思います。ただ、それを論じる前に、ただ単に今どきのデモというのはとても楽しいものなんだ、この感覚を少しでも多くの人に知ってもらい、そして一度デモに参加してもらいたいと、心から思います。

時代的差異
 今回のデモは、60年代70年代の学生運動を間接的に知る私にとっては、かなり異色でした。反原発のデモが行われた時、ひたすらそのデモの仕方が報道されていたのを思い出しました。いまどきのデモは、正当なことを正当な手段で主張するだけ、極めて穏当で、実に正統的、まったく何一つも悪いことをしないというつつましやかさ。私はここに共感を得ます。かつての学生運動には、敵がフェアでないことをしているのだから、こちらもフェアでなくてもいいじゃないかという論理があったと思います。しかし、いまどきのデモはそうではない。相手がフェアでないことをしているのにもかかわらず、こちらはせめてフェアでやりましょうという、こういう実に大人なデモなのですね。そうして考えると、フェアでないかなり暴力的な法律を通すまでのやり方や、既成事実をつくっていこうとする政府のやり方は、実に幼稚で、子供子供しい行為のように思われてきます。
 今回のデモは、学生デモということで、一応若者が中心となるデモでした。しかし、きちんと説明もされましたが、大人も参加可能。けっして学生デモだからといって学生だけと排他的になるのではない。ただ、今回は学生が主役なので、大人の方も参加していただいてよろしいのですが、大人の方は後ろの方でお願いしますというやり方なのです。
 そしてデモ行進のやりかたも実にユニーク。まあ、今から約130年前に幕府ができるとかなんとか騒いでいた時には、自由民権運動だとかなんだとかで、お囃子や演劇を使ってデモのようなことをしていたわけですから、回帰しているといえばそうなのです。今回のデモはいまどきらしい、なんとラップに乗りながら「特定、秘密、保護法、反対」「民主主義ってなんだ、なんだ」とこういうノリだったわけですね。
 ですから、憎しみ敵意むき出しで大声でどなり散らすというようなやり方ではない。実に「ゆとり」的ですね。主催者の1人も皮肉ですが言っていました。「僕たちはゆとりと馬鹿にされているけれども、ゆとりがあるおかげでデモができました」って。おもしろいことを言うものです。私達には精神的にも「ゆとり」があります。大人たちは馬鹿にしますけれどもね。それに対してなにくそと目には目をせず、受け流しているこの「ゆとり」さ、「よゆう」さ。誇らしく思います。
 私たちのデモは怒りに任せたものではなく、音楽にあわせながら、ノリながらのデモ。主催者の人は、これはデモではなくて、イベントだと言っていたのは、言い当て妙だと思いました。

今後の課題
 私たちが何をしなければならないかということについて、私はこう思います。つまり雰囲気づくりなんだということです。
 これは敵、すなわち政府や政府の息のかかったメディアが用いた手法ですが、今度は逆にそれを利用してやりましょう。私たちはなんだか、憲法を改憲するのが当たり前、そうしなければ中国が今にも攻めてきそうだ、そのためには特定秘密保護法を通さなくてはいけない。それから経済発展のためには、原発も再稼働しなければならない、そうでなければとんでもないことが起こる。このように少しずつ少しずつ洗脳されてきています。そうしなければならないと思わせるような雰囲気をつくっているのですね。
 ですから、これからは反対に、実はそれは作り出された幻想で、そうした雰囲気を打破すると同時に、国民が主権であるということや、一政党が勝手に憲法を変えたり、多くの国民がやめてほしいと思っていることをやる権利なんてものはないんだという雰囲気をつくっていかなければならないと思います。
 そうした雰囲気づくりが成功すれば、かならず今の政府は方向をかえざるをえませんし、次の選挙のときに彼らを当選させないようにさせればいいのです。まずは、多くの、選挙に行っていない人達の興味関心を惹き、私たちからしあわせを奪う政権を取らせないという雰囲気を広めることが重要です。

 そして、私から多くのブログの仲間たちに伝えたいことは、そうした雰囲気を広めるのを手伝ってくださいということです。私はできるだけブログの仲間たちのもとを訪問するようにしています。私が訪問するのは、偉そうでなんなんですが、とてもすばらしいと思っているブログばかりです。数行の日記とか、そういうくだらないところには訪問していません。
 私が訪問するブログの皆さんは、実に聡明な方が多く私も毎日勉強の連続です。そして、そのようなよい記事をかける、そもそもものを書ける人というのは、それなりに中身があり、頭も良い人達です。ブロガーの人というのは、基本的に他の人と比べれば頭が良くて、意見も持った人が多いように感じられます。ですから、そうしたブロガーの方には、この問題を実に詳しく考えたり、論じたりしている人もいます。そうした仲間たちとともに、どんどんこうした知識の共有や、危機感だったり、感覚の共有をしていかなければならないと思います。
 私たちがそうした記事を書き続け、ひろめていくことによって、普段ブログをかかないような人達にすこしでも興味、関心を持ってもらうように、危機感を強めていってもらえるようにしていかなければならないと思います。
 私が今回デモに行って感じ、考えたことはこのようなことです。

月別読書録、鑑賞録 2014年4月

書籍
・『自由からの逃走』エーリッヒ・フロム 著,日高六郎 訳 東京創元新社 1966 (現代社会科学叢書)
・『セルフコントロール』原野広太郎 講談社現代新書、1983
・『世界から猫が消えたなら』川村元気 著 マガジンハウス 2012
・『人間の覚悟』五木寛之 新潮新書、2008
・『英国シューマッハー校サティシュ先生の最高の人生をつくる授業』辻信一 著 講談社 2013
・『テレビは見てはいけない』苫米地英人 PHP新書 2009
・『教室内(スクール)カースト』鈴木翔 光文社 2012 (光文社新書 ; 616)
・『生きるということ』エーリッヒ・フロム 著,佐野哲郎 訳 紀伊国屋書店 1977
・『弱さの思想 : たそがれを抱きしめる』 高橋源一郎, 辻信一 著 大月書店 2014
・『ザ・フェミニズム』上野千鶴子, 小倉千加子 著 筑摩書房 2002
・『幸福への道標』大川隆法 著 幸福の科学出版 1989
・『自分をつくる』臼井吉見 著 筑摩書房 1986 (ちくま文庫)
・『劇画ヒットラー』 水木しげる 著 実業之日本社 1972
・『生きるということ : 読書による道案内』 宮田光雄 著 岩波書店 1987 (岩波ジュニア新書)

映画
・『アナと雪の女王』(2014)
・『いまを生きる』(1989)
・実写版『魔女の宅急便』(2014)
・『遠い空の向こうに』(1999)
・『ベルベット・ゴールドマイン』(1998)
・『シンドラーのリスト』(1993)
・『パルプ・フィクション』(1994)
・アニメーション映画『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968、高畑勲監督)

四月は新学期が始まり、とりあえず面白そうな授業に出て見たり、ゼミの一回目の発表を引き受けたりと多忙だったので、かなり触れ合うことのできる作品が他の月よりも少なかったなあと思います。特に、映画はぜんぜん見ることができませんでした。
最近文学作品をあまり読んでいないので、そちらにも力を向けて行きたいと思います。

04/30のツイートまとめ

ishinoyugen

部屋で腐らせていたコーヒー牛乳が予想以上に胞子を飛ばしていたらしくて、変な咳が・・・。ナウシカ・・・
04-30 23:58

RT @tarte2525: これは分かりやすい!奈良時代からの一人称代名詞の移り変わり! http://t.co/n1IVVCToiU http://t.co/kLwX0Osq2y
04-30 23:47

いくら考えが違ったとしても、一緒に生活、共生することは可能だ。無駄な争いを避けることもまた、一つの試練だと思う。
04-30 22:58

それはそれとして、エコロジーの考えを広め、伝えることが僕の使命だけれども、何もそれを最優先して、日常生活で考えの違う人とぶつかることがいいというわけでもないと思いなおしたので、思想、考えのほうはこちらにとどめることにした。
04-30 22:57

人は考えを押し付けてくるとして僕を傲慢と呼ぶだろう。しかし、これまで地球を考えておらず、自分のことばかり考えて来た人間のほうが余程傲慢なのではないだろうか。
04-30 22:56

出来るだけ僕は自分をひとつにまとめようとは思っていたのだけれども、それもやりすぎると暴力的になるし、無理だということがわかったので、しばらくは二つのアカウントを使いこなしてみようと思う。やはり、資本主義の毒に完全に染まってしまった人達にとって僕の言葉はあまりにも乱暴すぎるから。
04-30 22:18

ちらちらと鼻につくこの不快な匂いはなんだと思ったら、数日前の飲みかけの飲み物が腐っていた。もうそんな季節だ。気を付けなければ。というか、部屋をきれいにするように心がけなければ・・・。僕の部屋は本とかで埋め尽くされているんです・・・
04-30 22:15

私は私でしかありえなかった。こんな当たり前な、言葉にすればチープなことに本質的に気が付けたこの感覚は、どう表現したらいいだろう。頭ではなく、心で感じたんだ。これで僕はあと数年、数十年は生きられると思う。
04-30 22:05

だから、この問いを問い続けること自体にはあまり意味がないのだと思う。もちろんあるかもしれないが。それよりも、その問いが生まれたこと、その問いを産み出すことができた時点で、自分が自分であって、他人ではないという地点にまで到達しているのだ。
04-30 22:04

この感覚をどう表現しよう。僕は、ふとその質問が生まれた時点で答えが出ていたということに気が付いた。というのは、そういう質問が生まれるということ自体が、僕がほかでもない、僕でしかあり得ない、代替不可能なオリジナルナ、ユニークな存在であるということの証明になるからだ。
04-30 22:03

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