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最近の日常生活 「だからさ、単位に不自由のない人が、云わば、物数奇に出る出席でなくっちゃ、真面目な勉強は出来るもんじゃないんだよ」

駒沢大学


 最近あまり更新ができていませんで、また他のブログへの訪問もできておらず、相すみませんでした。
 いよいよ私も大学四年生となり、最後の一年間を楽しむべく、毎日楽しく、充実した毎日を送っております。
私は教職課程も取っていたので、2年、3年時は教職課程に必要な科目がたくさんあり、授業面では必要になる単位を取るので精いっぱいでした。ですから、自分の興味ある授業や、単位は取るのが難しそうだけれども、愉しそうな授業というものに出られなかったのです。
 ですので、今年は面白そうな授業を縦横無尽に聞きにいっています。もう卒業に必要な単位は、四年生になってからでなければ取れないものと、卒論を残すだけになりました。ですから、本当は三つの授業を取りに、週に3日行けばいいだけなのですが、週6で行っています(笑)。どれだけ大学が好きなんだよって感じですね。
 私も大分考えがかわり、最初大学に来た時にはなんてところだと絶望したのですが、まあ最近では愉しくやっております。
 自分が興味ある授業、愉しい授業しか出なくていいというのは、予想以上に楽しいですよ。ああ、この授業はつまらないな。90分間、自分で図書館に行って本でも読んでいたほうがよほど学びが多いなと思ったらやめればいいのです。
夏目漱石は『それから』で次のようなことを言っていますね。
 「働らくのも可いが、働らくなら、生活以上の働でなくっちゃ名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭を離れている」
 「つまり食う為めの職業は、誠実にゃ出来悪いと云う意味さ」
 「だからさ、衣食に不自由のない人が、云わば、物数奇にやる働らきでなくっちゃ、真面目な仕事は出来るもんじゃないんだよ」

 で、私はこれを次のように書き換えて言いふらしています。
 「出席するのも可いが、出席するなら、単位以上の出席でなくっちゃ名誉にならない。あらゆる神聖な勉強は、みんな単位を離れている」
 「つまり単位の為めの勉強は、誠実にゃ出来悪いと云う意味さ」
 「だからさ、単位に不自由のない人が、云わば、物数奇に出る出席でなくっちゃ、真面目な勉強は出来るもんじゃないんだよ」

 こういうことを言っておりますと、四年生になって単位に困っている人からにらまれるのですが、それはご愛嬌です。
 単位を分けて上げられればいいのになあと思うのですけれどもねえ。我が大学は仏教大学なのですけれども、仏教では「回向(えこう)」という概念があります。カラオケではありませんよ。回向というのは、自分の徳を自分の先祖や、他人に分け与えることによって、自分ではない他者を救済するという考えです。自分が現世で徳を積むことによって、地獄に落ちてしまった他人を救うとか、そういう概念なんですね。ですから、そうした教えの伝わっている大学であるからこそ、単位も回向して、足りていない人のために、単位を余計に持っている人が譲渡できるようにならないかなと思うわけですけれども、まあそううまくはいかないというわけですねえ。

 私は「ゆとり」全盛期の時代の学生のはずなのですけれども、中学から私立に入ってしまったので、ついぞここ十年間、週六の生活をしていますよ。自分でもおどろきです。昔は学校大嫌いだったのになあ。
 自分の好きな、おもしろい授業にだけ出ていると、こちらも、また教える教授にも、お互いにいい関係が結べます。こちらは最初から単位はいらない、ただ楽しいから、先生の話が知的刺激になるからという理由で聞きに行きます。そして、向こうにとっても授業を履修していないのだから、本当に純粋な気持ちで来てくれているということがわかりますし、自分が教えていることが一部の生徒にはきちんと伝わっているんだという肯定に繋がるわけです。私も最終学年ですし、もうそんなに長い間大学にいられるわけでもないでしょうから、はやく仲良くなった先生とはノミニケーションしたいなあと思う限りです。

 先日はこんなことがありました。我が大学に教えに来ている講師の先生。3時限目と、5,6時限目とあるのですが、少しややこしくて、ことしから我が大学では講義の名前が細分化されました。ですので、3時限目と56、時限目は授業のタイトルは違うのです。しかし、それは実はシステム上では、「哲学」の授業という一括りにされてしまう。3時限目と56時限目と行っている内容が違います。ですから、単位がかかっていた場合は、片方しか聞くことができないということになるわけです。
 ただ、私は単位から離れていますから、その先生の話がとてもおもしろい、というわけで、3時限目、5時限目両方出席していたのです。その先生もシステム上の不備に気が付いて、履修できないということを知っていたのでしょう。ある時、授業が終わって私に近づいてきて、「君は3限も取ってくれているようだけれども、単位は大丈夫?」と質問してくれました。単位は大丈夫かというのは、システム上履修できているかということだったろうと思います。私は単位はもうすべて取ってしまったので大丈夫です。単に先生の授業がおもしろいから聞かせていただいているのですと応えました。まだ三十代とおぼしき若い哲学の先生ですが、とてもおもしろい。私は素直におもしろいと言え、それだけで嬉しかったものです。ところが、その先生も私の好意が伝わったのか、ありがとうございますと返してくれました。いやあ、この時ほど嬉しかったことはありませんね。お互いの気持ちがわかりあえたような気がしました。

 というわけで、私は四年生になったにもかかわらず、毎日大学を縦横無尽しているわけです。あまりにも楽しそうな授業がたくさんあったので、最初魔法省にかけよって、逆転時計を貸して頂こうかとも思っていたのですけれども、やはり毎日四時限以上出るのは体力的に無理だということに気がつきまして、また思っていたほどおもしろくない授業がありまして、徐々に減らしている今日このごろです。

 そういえば、先日こんな質問を頂きました。ask.fmってご存知ですか。時は徳川将軍吉宗の時代、幕府が広く市民の声を聴くために設けた目安箱・・・ではないのですが、それぞれの人が質問箱のようなものを設けることができるサイトです。アスクフォアミーの略でしょうから、質問してちょうだいといったところでしょう。
 まあ、このサイトについても、現代の問題と絡めてお得意の評論をいくらでも繰り広げることはできるのですが、やめておきましょう。ただ、質問されるというのは、承認欲求を満たすためにかなりいいので、中毒的になる危険性があるとだけ指摘しておきます。
 そこにこんな質問を頂きました。
 「よく大学でお見かけしますけど四年生ですよね?」

 いやあ、焦りましたね。この質問箱、匿名で質問できるものですから、一体だれがくれた質問なのかわかりません。私のTwitterのプロフィールのところにリンクを貼っているだけなので、私のTwitterを知っている人なのかなと思います。そうすると、私が四年生だということくらいわかりそうなものなのですが。
 この質問を単純に受け取れば、私のTwitterは知っているけれども、私が四年生であると断定できるほど私のことを知っている人ではないということですかね。友人の後輩とか、そのくらいの関係なのでしょうか。
 それとも、悪意的に解釈すると私をよく知っている人で、四年生だと知ったうえで、四年生なのになんでそんなに大学に来ているんだ?単位がまずいのか?それとも単位が足りてて学校に来ていることに対して、そんなに大学に来るなという脅しでしょうか。いやいや、疑い過ぎですかね(笑)
 まあ、しかしどの道この質問には、四年生=大学にあまりこないという常識に裏付けられた質問であるということがわかります。しかし、世の中には単位が足りなくてとか、私のように大学が好きでたくさんきている人もいるわけですから、この質問には安易に四年生なのに大学に来ている人はちょっと変なのではないかという感覚が受け取れます。やはりそうしたマイノリティーを軽んじるような視線だけはやめたほうがいいなあと思う今日このごろでした。
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『英国シューマッハー校サティシュ先生の最高の人生をつくる授業』辻信一 感想とレビュー

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はじめに
 このブログでも、何度も紹介している、現代を代表する偉大な思想家サティシュ・クマール。しかし、彼はその思想が実に慈愛に満ち、真に人間のことを考えた思想家であるにもかかわらず、彼は決しておごりたかぶったり、自分の力を誇示したりするということの全くしない人です。それは、彼がそういう思想の持ち主だからということもできます。まさしくサティシュは、支配したり、支配されたりしないという思想の持ち主だから、偉大なのです。彼は自分のことを偉大だなんてきっと夢にも思っていないことでしょうが。
 サティシュの主著は『君あり、故に我あり』という本です。この本は、それまで西洋の哲学が、デカルトの「我思う、故に我あり」という唯我独尊的だったのに対して、それではどこまでも人間は孤立し、孤独になってしまうとして、反対に君があるから、私もあるのだ、私もあるから、君もあるのだ、互いに依存しあっていいのだということを説きました。
私も大学進学に失敗して、いわゆるよりいい学校に行けなくなり、よい就職口もまあ無理だろうとなったなかで、どんどん自分のなかで何かが壊れて行きました。そして、自分の理想と現実の乖離のために、精神的に不安になってしまったのです。そんな時に、たまたまこの本に巡り合いました。先輩が紹介してくれたのですけれど。私はこの本を読みながら泣きました。そして、ああ、依存してもいいのか、それまでの生き方のほうに問題があったのかと悟りました。それ以来、私はサティシュ先生を生涯の師と思っていますし、彼が死ぬ前に是非会いに行きたいと思っています。

サティシュの紹介
 今回紹介する本は、そんなサティシュ先生とも交流のある辻信一先生が書いた本。辻先生は明治学院大学で授業をしていますけれども、彼は自分のゼミ生をつれて、2010年にサティシュが建設した英国にあるシューマッハー校を訪れます。
 そこでの7日間の出来事をできるだけ再現したのがこの本です。この本では、できるだけ自分もその場にいるという想像をすることによって、サティシュの大きな心に包まれているような安心ができます。
 この学校の名前にもなった、シューマッハーは、サティシュの友人でもあり、師でもあった人。それまでの右肩上がりの経済に意を唱え、仏教的な概念を取り入れつつ「スモールイズビューティフル」という、今迄にはない経済を唱えた人です。
 サティシュの基本となる考えは「E=4H」。EはエデュケーションのE.教育はとは、4つのHからなるということです。4つのHとは、ヘッド(頭)、ハート(心)、ハンズ(手)、ホーム(家)。なんということはありません。サティシュの考えは別段すごく斬新とか、新しいといったものではないのです。サティシュは、この「経済」という魔物が、コミュニティを崩壊、分断してきたために、今では考えられなくなってしまっていた、昔ならば当り前のことをしようといっているだけなのです。

一日目
 この本の利益の損害にならないように、できるだけこの本をみなさんにも手に取ってもらえるように、いくつか本書の内容をかいつまんでみましょう。
 この本は全体で7つの章、それぞれ一日、二日というように、サティシュと暮らした毎日が書き記してあります。
一日目にはこんなことが書いてあります。「全体食の衝撃」と題し、そこで振る舞われた食事の衝撃が描かれています。 サティシュはベジタリアンです。この学校でもお肉はでてきません。日本から行ったゼミ生たちは、私達とかなり近しい感覚の持ち主のはずです。肉が出てこない食事なんて考えられるか!?という感じだったことでしょう。ところが、どうにもおいしいらしい。写真も掲載されているのですが、とても美味しそうなクランベリー・ソースが映っています。私たちは普段肉を食べること、肉を調理することに意識を向けているので、野菜だけというと想像がつかないのでしょうけれども、きっとこの肉に費やすお金、時間、労力を同じだけ野菜に向ければ、きっと野菜というのはとても美味しくなるのだろうなと思います。

二日目
 二日目は自然の授業。
 「現代の産業社会では、自然界は「我々に何をもたらすか」という点でしか意味を持たない。もたらされる利益だけが重要というわけだ。富をもたらし、権力をもたらし、お金をもたらし、便利さをもたらし・・・・・・。」
私たちはどこで何を間違えてしまったのでしょうか。おそらく田舎に住んでいる人というのは、それほど資本主義に毒されていない、自由でいられる人なのだろうと思います。都会は便利、かっこういいところ、そうした幻想を資本主義は生み出してきました。そして、都市では、土はコンクリートによって隠され、山々はビルによって隠されるのです。そうでもしないと、自然ということを考えてしまうから。だれもが、自然を傷つけているのを見るには耐えないのです。ところが、利益を生み出すためには仕方がない。だから、都市に住んでいる人たちには、自然を見せない。そして、利益を生み出すための自然を、どこか遠くの国で搾取しているのです。
 サティシュは現在では当たり前でなくなってしまった、当たり前のことを教えてくれます。どうして、私たちは「所有」という概念をなんの疑いもせずに使用しているのでしょう。どうして私たちはただ生まれて、生きているだけで、国とやらにお金を払わなければならないのでしょう。どうして大家さんにお金を払わなければならないのでしょう。私たちは地球にむしろ住まわせてもらっているのですから、地球に対して税を払わなければならないくらいなのではないでしょうか?なぜ勝手に支配、所有している気になっているのでしょう。こんなことを言うと、じゃあお前はこれから様々な機関を使えなくなるぞ、敵がきても守らないぞ、なんて返してくる人がいるでしょうか。しかし、まあ、そういう発想しかできない人というのは、哀れですね。
 「現代人は、彼ら先住民を見下す傾向があるね。野蛮で、文明からとり残され、遅れた人たちだ、と。でも実際にはどうだろう。彼らの伝統的な考え方や生き方のほうが、社会の平和や自然との調和が実現できる。実は、今の私たちよりもはるかに優れていたのではないか」
 〈先住民といわれる人々の文化の中には、自分達の社会を持続可能なものとするための知恵が詰まっている。一方、現代の文明社会は、たった200年ほどで、自分たちの社会ばかりか、人類全体の暮らしを、持続不可能なものに変えてしまった。だから―とサティシュはいうのだ―もし人類がこれからも存続し、繁栄したいと望むなら、先住民の考え方から学ぶ必要がある、と。〉
 〈所有とは税金を払わせるための人口のシステムであるとすれば、それが自然なことであるわけがない〉〈そして所有を公に認めさせるために、証明書というものがつくられた。権力とはこの証明書のことだといってもいい。その権力を集めたものが、政府というものだよ。政府が所有を認め、そこから税金を取り立てる。そういう仕組みをつくり出してしまった。〉

四日目
「就職しない生き方」
 サティシュは「君たちには、雇用を追い求めないでほしい」と言います。「『雇用される』とはどういうことだろう。それは、丁寧に扱われる奴隷になるということじゃないかな。逆に、『雇用する』とは、企業が君たちを買うことを意味している。
 企業に雇用されている人は、その企業が求めることを強制される。強制されたら、『好きだからやっている』とはいえなくなってしまうよね。仕事に意味を見出すのも難しくなる。そして、したくない仕事もすることになってしまう」
 しかし、それでは生きていけないと人はいうことでしょう。私は他の辻先生の本も読み、貨幣をつかわないコミュニティがいくつかあることを知りましたが、それは私個人が逃げ道として持っておくぶんには構いませんが、多くの人にはそれは難しいことでしょう。サティシュはすこし抽象的ですが、働くことについて次のように述べます。すなわち、支配、被支配ではなくて、自分の才能や品格、創造力をつかって、仕事をする。仕事が自分自身になればいいのだというのです。これがどのような状態を表すのかなかなか難しいですが、起業ということでもないでしょう。それはあらたな支配を生みます。
 手芸や芸術や音楽をして、ほそぼそと生きていく生き方というのが、それに近いのかもしれません。サティシュは「仕事は遊びであり、遊びは仕事」であり、「仕事と遊びに明確な区別はない」と言います。

 幸福について、サティシュは非常に示唆的なことを言っています。
 〈西洋には「幸福の追求」という言葉がある。〉〈幸福は追い求めるものであり、常に幸福を追い求めてやまにその姿勢こそが幸せをもたらす、という考え方が広く共有されているといっていいだろう。〉それに対して、〈ヒンドゥー世界では、幸せは「SUKHA(スッカ)」という言葉で考えられるのが一般的だ。その意味は「苦しみの不在」だ。苦しい状態ではないこと。それはすなわち「幸せ」だというわけである〉〈スッカは追い求める対象などではなく、どこにでもある日常的でナチュラルな状態である。それはいつもそこにある〉
 「あれがなければこれがなければ生きていけない、あれをしないとこれをしないと生きていけない、と社会は僕たちに脅しつけている。でもサティシュがいうように、生きていくために必要なものは限られている。生きていくためには、本当にパソコンやテレビや自動車は必要だろうか?そうしたもののために必死に働かないですむのなら、人間にはまだまだ十分な時間があるはずだ」


五日目
 「強さとは、硬直した頑固さのことじゃないんだ。むしろ優しく、柔軟で、しなやかなものにこそ強さが備わっていると私は思う。岩は硬くて、重くて、柔軟ではない。一方で水は優しく、柔軟で、形を変えることができる。どちらが強いかは、いうまでもないね。そしてどちらのような人生を君たちが目指すべきかも明白だ」
 サティシュは純粋主義者ではありません。彼は自然と一体となること、自然とともに生活していくことを目指していますが、外来種をはぶいたりするということはしません。もちろん、外来種の与える影響にも考慮しますが、慎重にそれを見極めることによって、互いに生態系が壊れないようにすることはできると言います。
 強さとは、今日本が向かっているような方向ではないのです。近隣の国が攻撃してきそうだからという理由で、こちらもそれに応じようというのは、けっして強さではありません。むしろ、悪い意味での「弱さ」です。弱い犬ほどよく吼えるとはよく言いますが、これとおなじことで、日本は今、周りの国が怖いからという理由で、どんどん吠えています。

終わりに
 いくつか、私が感銘を受けた箇所を拾い読みしました。サティシュの思想からは、現代人が失ってしまった大切なものがいくつも隠されているように思えます。そして、私もこうした本を読み続けることによって、ようやく資本主義の幻想から解放されることができました。
 これからは、より地球にやさしく、そして人々が幸せを実感できるような世界になっていくことを願います。またそのために資本主義から「降りる」ことのすばらしさを広めて行こうと思います。

映画『いまを生きる』 感想とレビュー 原題、邦題、タイトルによって解釈がかわる映画

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はじめに
 『いまを生きる』(原題: Dead Poets Society)は、1989年のアメリカ映画。まずはこのタイトルから論じて行きたいと思いますが、このタイトル、原題の「Dead Poets Society」は、日本語に訳せば、作中に登場する「死せる詩人の会」という言葉になります。日本人は「死」などといった不穏当な言葉は出来るだけ直接しようすることを避ける文化を持っていましたから、その名残でこのようなタイトルはつけられない、ということで、作中で同じく重要なキーワードになる「カーペ・ディエム」=「いまを生きる」というタイトルにしたのです。
 ところが、ここに問題があります。やはりタイトルというのも、作品解釈の一つに含まれますから、ここをいじくられると、どう解釈していいのかわからなくなります。特にこの作品は、最後がどういう意味を持つのか、判断しづらいものがありましたから、タイトルによって、印象ががらりと変わってしまいます。

作品概説
 物語の舞台は、作中特に明示されませんので、時間、場所ともに超越していますが、おそらく制作された国がアメリカであることと、車の型から憶測するに、アメリカのどこか、1900年中盤、戦争の前後のように思われます。私はアメリカの歴史を全く知りませんから、これは他の人の情報を待ちたいと思います。
 舞台は非常に厳しい全寮制の学校。この物語で主に描かれる青年たちは高校生ということになっていますが、学校には高校生とは思えないような小さな子もいることから、中学校も併設されているのではないかと思えます。
 この学校は、いわゆるアメリカやイギリスにあるようなエリート学校。名門大学にできるだけ学生を排出するためだけに存在しているような学校です。こういう学校に来る子息というのは、親が金持ちで、医者だったり、弁護士だったり、議員だったりという、いわゆる上流階級の人達です。アメリカやイギリスで「良家」とされるような子供たちが集まります。
 そのような子供たちを預かっているということもあり、学校は非常に厳しく運営されています。そんな中、新任の教師ジョン・キーティングがこのウェルトン校にやってきます。このキーティングというのは、自分のことを「先生」ではなく、「船長(キャプテン)」と呼べと言ったり、いきなり詩の教科書の概説を読んだかと思えば、こんなくだらない評論家とはおさらばだ、破ってしまえと言ったり、かなり破天荒な先生です。最初は規律に従うことに慣れていて、そこから逸脱した行為ができない生徒たち。しかし、キーティングの絶え間ない、順応からの解放の授業を受けて、次第に自分のやりたいことや、自由であることに自信をもって生きていくようになります。

タイトルとラスト
 思えば、こうしたいわゆるエリート学校というのは、できるだけいい学校に入って、できるだけいい大学へ行って、できるだけいい会社に入って、できるだけいい役職について、できるだけお金を稼いで、という、資本主義が作り上げた「幻想」の典型的な、最高のルートであるわけです。そうして、資本主義はこの「幻想」が幻想になってしまわないように、これが「いい」ことであると信じさせるために、このルートから外れることは「悪いこと」、外れたらもう終わりだ、といった幻想を作り上げます。ですから、このルートのなかで生きている彼等青年は、このルートをたどること、順応することしか許されておらず、そこからの逸脱というのは、彼等にとっては「死」を意味します。
 キーティングに興味をもった青年たちは、彼の過去を調べます。キーティングの卒業写真には、「死せる詩人の会」の会長であったということが書かれてあります。キーティングに影響を受けた青年たちはかつてのキーティングのように、学校の外、森の中の洞窟で「死せる詩人の会」を再結成させます。
 この「死せる詩人の会」という名称ですが、これはどういう意味なのでしょう。
 キーティングは一番最初の授業で青年たちに、紀元前1世紀の古代ローマの詩人ホラティウスの詩から、「カーペ・ディエム」という言葉を引用して呪文のように唱えます。それまでに学校を卒業してきたかつての若者たちの写真をみせながら、「いまを生きろ」と唱えるのです。最初にこの映画を観た時には、一体なんの映画が始まってしまったのかと思いましたが。
 この言葉の意味はなんだと青年たちに聞くキーティング。ある生徒は「彼は生き急いでいたんだ」と答えます。しかし、そうではありません。死を早めるというわけではなく、この言葉は「今この瞬間を楽しめ」「今という時を大切に使え」という意味で捉えられます。
 資本主義の幻想、できるかぎりいい方式では、目は「いま」ではなく、次の段階を追っていることになります。ですから、この幻想に生きている人達には、「いま」を生きている感覚はなく、そしてこの幻想がついえた退職後には、次なる目標がなく、何も出来なくなり、存在意義を失ってしまうのです。ところが、「いま」を生き続けた人生をしている人は、いつでもいまを生き、死ぬまでいまを生きることができます。当然、エリートルートをたどった人よりは一生で稼げるお金は少ないでしょう。しかし、彼等がお金に費やした時間を、今を生きる人たちは、まさしく今を生きるために費やしているのです。

 ですが、この映画がおもしろいところは、一筋縄で、いまを生きることがいいことだとは描き切らないところ。当然今を生きる方が私自身もこの映画をみる以前から「いい」と思っていたので、とてもこの映画を観ていると気持ちがよかったのですが、しかし、この資本主義に囲まれた世界で、資本主義の幻想を打ち破ろうとすることは「悪」になりますから、キーティングはこの学校を追われることになっていまいます。

終わりに
 構図としては、最終的に資本主義の順応に敵対したキーティングは消されてしまうということになります。ですから、これは一見すると悲劇的ですし、バッドエンディングということになるでしょう。これが邦題の「死せる詩人の会」であれば、やはりタイトルもすでに「死んでいる」ということにウェイトが置かれることになりますから、順応に反対した「詩人」はもう死んでしまったんだよ、というメッセージとして受け取ることもできたわけです。
 ところが、この映画を輸入する際にちょっとタイトルが過激だからということで「いまを生きる」なんていうタイトルにしてしまったために、キーティングは確かに学校を追われることになってしまったけれども、それでもいいのだ、今を生きるのだという、希望的な終わりとしても受け取ることができるわけです。
 ここで、やはりタイトルというのは、作品を解釈するうえで重要な要因になり得るのだということがわかります。
アメリカ式だと、もう詩人は死んでしまったのだという、敗北のようにみられるのかもしれません。それに対して、日本には破れても敗れても、美しいといった、敗北美のようなものがある。だから、日本式で見れば、彼は負けてしまったけれども、それでいいのだ、というように読み方が変わってきてしまうわけです。
 タイトルが作品に及ぼす影響の大きさと、タイトルによって解釈が変わる場合、一体どうしたらいいのか、みなさんも考えてみてください。

実写版『魔女の宅急便』 感想とレビュー いまこの映画を実写化する意義とは

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はじめに
 実写版の映画『魔女の宅急便』を見てきました。平日に映画館に行き、比較的小さな劇場ではありましたが、そこそこ入っているところをみると、大ヒットこそはしなかったものの、大きく外したということでもなさそうです。
 私は角野栄子氏の原作も読んでいます。ジブリ映画の『魔女の宅急便』はほとんどこの原作通りに描いているので、今この時期にこの映画を実写化する意味はなんだろうと不思議に思っていました。ジブリの『魔女の宅急便は』多くの人々が見ています。そして、その映画は原作にかなり忠実なのです。ですから、今この時期に同じ原作を実写化する意味というのは実に不思議で、私にはわかりませんでした。新しい解釈でもしたのかな、とも思って劇場に足を運んだのですが、特に新しい要素もなく、私は本当に不快な映画を見せられたと感じました。

原作、アニメ版との違い
 作品の世界観は少しアニメ版とは異なっています。主人公のキキが住んでいる町は、山間に作られた町で、どこかイランとか中東系の雰囲気が漂う街です。アニメ版が平地に住んでいたのと違って、どこか秘境に住んでいるという感じがしました。
 ジブリ映画では大きな時計塔のある町に住むことになるキキですが、実写版でキキが住むことになるのは瀬戸内海を彷彿とさせる島の一つです。
 そこからは、アニメ版と同じように配達をしはじめたりします。けれども、アニメと異なるのは、原作にあって、アニメになかった洗濯物を乾す場面。原作には、比較的初期の依頼で洗濯物を乾すのを手伝うという物語があります。これをアニメでは省いたわけですが、実写版ではアニメが省いた部分をうまくつなげたという感じです。
その後は原作やアニメ映画とは徐々に話が変わってきます。カバの子供との話がこちらの実写版ではメインになるのですが、これがじつにチープな話で、ちっともお面白くない。
 最初にキキは島の動物園に降り立ちます。そこで、カバの子供と仲良くなるのです。ところが中盤にこのカバの尻尾がライオンにかじられるという事件が発生します。時を同じくして、キキも魔女として人に呪いを届けると噂されたり自信がなくなってきて、魔法が使えなくなってきます。カバも徐々に衰退していき、作品の最後、フィナーレへむけて突き進みます。
 作品の最後は、大雨、大嵐がやってきて、大変な天候のなか飛べなくなっていたキキが、友達であるカバの子供を他の医者のいるところへ連れて行くという手に汗握る場面へと移ります。
 なんとかカバを他の島にいる行方不明になっていた動物医に届けるということで話は終わるのですが、その場面もなんだかチープなにおいを拭えません。これは個人的な問題ですが、私はどうも浅野忠信という男が好きになれません。役者ですから、イメージを作るというのは彼らの仕事なのですが、どうにも彼のちゃらんぽらんとした雰囲気が私の性に会いません。そんなちゃらんぽらんな雰囲気を持った彼が、偉そうに哲学を語るのですから、閉口ものです。
 カバの尻尾に時計を結びつけるという意味不明の治療をしただけで治ったという展開にも私はちっとも納得できませんでしたが、ひどいのはおあつらえ向きに付け足したかのようなメッセージ性とでもいうべき、説教です。キキが一体なんの病気だったのかと聞くと、浅野演じる動物医は、「中心喪失病とでもいう病気だ」と言い始め、自分のこころとからだの中心を見失ってしまう大変な病気だと言い始めるのです。そして、なんとなく自分もそうだったのかなと反省するようなキキ。一体こんなチープな説教がこれまでの映画史においてあったのかというくらい、記念的なお説教です。

視姦される身体
 物語の内容は広く人口に膾炙していますし、今さら何を描くのかと思ってみましたが、まったく内容がなかった。ぺらっぺらな作品であったのにはひどく残念に思いました。ところが、私はその程度ではなくて、この映画が本当は何をしようとしたのかということが垣間見れたような気がしたので、ひどく腹を立てています。
 というのは、今さらこの映画を実写化したところで、売れないことくらい誰にだってわかるはずです。私程度の文藝批評家きどりにわかるレベルですから、映画を制作している人間にはもっとよくわかることでしょう。物語の内容を売るのでもない。新しい解釈をするのでもない。とすると、何を売りにするのかということになります。
 この映画の売りは、まさしく主人公キキ役の小芝風花さんを見世物にしてお金を稼ごうということなのです。アニメ版でも、オソノさんの夫であるフクオという無口な亭主が登場し、ことあるごとにキキを見つめるという場面がありました。これは、魔女へ対する好奇な目線のようにアニメ版では感じられました。ところが、この映画は、魔女に対する珍しいという目であるというよりは、彼女の肢体をなめまわすような非常にエロチックな目線なのです。
 私達観客は一体どのようにこの映画を観るのかというと、このフクオ視点を借りて、あるいはそれに誘導されて、幼い少女の身体を見るのです。事実この映画では、これでもかというくらい、小芝風花さんのなまめかしい肢体が描写されます。部屋にいるときには、アニメ版でもそうではありましたが、まだアニメ版ではエロチックな感じはしなかった。ところが、この映画では、実際にキキが白い下着だけをきている場面など、とてもエロチックに描写されるのです。それに、黒い魔女の服をきている時でも、けっこうスカートの下が見えるような描写が多々ありましたし、この映画は小芝風花さんの少女の身体を視姦するための映画なのです。
 私は普段から資本主義との関係でさまざまな事象を分析しているのですが、そのなかでも資本主義が行った一番いけないことというのは、人間の身体性までをも資本にしてしまったことだと考えています。現代では、性のサービスも実に簡単に「購入」することができます。少女たちも自分の身体を一時的に売ることによって、援助交際といったものをするわけです。この映画も、合法的なレベルで、少女の身体を「売り」に出したわけです。
 ただ、私も全部が全部悪いというわけではありません。自分の意志で身体を売って、お金に換えている人を否定する気もありませんし、してはいけないでしょう。ところが、小芝風花さんは97年生まれ。この映画の撮影時には、15か16歳のころのことでしょう。とても、15,6歳の人間が自分の判断に責任を持てるとは思いません。彼女は未成年なのです。その身体性を勝手に売りものにして、それでお金を稼ごうとしている製作者たちの傲慢さが見え透くからこの映画は非常に不快感を観客に与えるのです。

おわりに
 私はだからといって小芝さんを否定するのではありません。彼女はとてもチャーミングでかわいいですし、元気をもらいました。彼女は役者として十分に自分の仕事を全うしたと思います。しかし、それを売りものにしようとした製作者たちの思惑がぷんぷん匂って来るのです。ですから、この映画に私は反対しなければなりません。
 作品自体をとっても面白くない。そして、その売り方があまりにも汚すぎる。だから、この映画を評価するわけにはいかないというのが私の結論です。

アニメーション映画 『タイガー&バニー The Rising』 感想とレビュー 今作の主人公はネイサン・シーモア

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はじめに
 2014年2月8日公開の「タイガー&バニー」の新作映画『The Rising』を見てきました。劇場版は、2012年9月22日公開の「The Beginning」に続く二作目。一作目の「The Beginning」がアニメ版の2話と3話の間の話を描いたのに対して、今作の『The Rising』はアニメ版のその後を描いた完全オリジナル作品となっています。

資本主義のヒーロー
 私はこの作品が公開当時から、注目し、高く評価してきたのですが、この映画も現在の映画不況のなかにおいては輝いていた素晴らしい作品だったと思いました。
 初めての劇場版となった「The Beginning」も、アニメ版の一部の物語でしたが、それ自体を切り離しても十分通用する作品でした。今回の映画も、アニメ版、前作を見ていなくてもそれだけで楽しめる映画でした。その点は、今迄のように他の作品をすべて網羅していないとわからないというむずかしさがなくなり、観客にかなり優しくなってきているなと感じました。おそらくこのように観客に優しくしておかないと、なかなか売れないということが一つの要因かもしれません。現在の人たちは忙しいですし、わからないことはちっとも興味を持ちませんから。
 この映画も、実に丁寧に、この映画がはじまるまでにどのような物語があったのかということを、詳しく説明してくれます。この映画の強みは、そうした漫画のはじめにあるあらすじのような部分を説明しても、ちっともうるさく感じないような作品のつくりになっていることでしょう。
 この作品が画期的だったのは、それまで盲目的に信じられてきたヒーロー、ヒロインたちが、実際には完全無欠なヒーロー、ヒロインではなくて、スポンサーなどがついている実に人間的なヒーロー、ヒロインであったということです。彼等は何で動いているのかというと、「金」です。資本がなければ、いくらヒーロー、ヒロインといえども、自分の好き勝手はできない。この世界では、ヒーローやヒロインでさえも、資本主義の資本になってしまうのです。これは、実に深い、そして面白い現代への批判にもなっていることでしょう。
 この作品では、ヒーローやヒロインが戦うのも、ひとつのショーとしてお金稼ぎの道具になります。それはテレビと言うメディアを通じて、ショー形式で観客に提示されるわけです。ですから、この作品、アニメにしろ、映画にしろを見ている観客というのは、作品内でヒーローたちの戦いを享受しているシュテルン市の人たちと同一の視点になるわけです。私たちは、構図的にシュテルン市の人たちと一緒の視点を持つことになります。一市民としてヒーローたちの興行的な戦いを見ているのです。実際に、それにお金をはらって劇場に足を運んでいるのですから、なおさらこのメタフィクション的な構図に現実味が増してきます。

今作の主人公はネイサン・シーモア
 前作の「The Beginning」はその名の通り、始まりですから、アニメ版をしらない人でも入れる作品でした。それ自体で一つの完結した作品とも見ることができましたし、物語がこれからも続いていくから、これが決定的な終わりではないという尻切れ感はあっても、実によくできた作品だったと思います。今回の作品も、前作の映画だけを見ていてもわかる作品で、おそらくこの作品だけを見ていてもわかる作品だとは思います。
 もちろん、この作品も続きものですから、最後に一通りの決着がついたとしても、まだ終わらないといった尻切れ感はありますが、しかし全体としても良くできた作品だったのではないでしょうか。
 今回この映画が素晴らしかったのは、ネイサン・シーモアが主人公級に抜擢されているということです。今まで、様々なアニメ作品、漫画作品、ラノベなどにもオカマキャラというのはたびたび登場しました。そして、オカマという不思議な属性の人たちはなぜかわからないけれども、強烈な個性を持ち、そして味のある役回りをして、一定の役割を果たしてきたのです。
 ジェンダー研究をしている身としては、こうしたオカマなどが作品世界でも描かれるようになってきたのはいいことだなと思いながら見ているのですが、しかし、それまでの作品では、そうしたオカマというのはいくら活躍するといっても、脇役どまりでした。ところが、今回の映画では主役級なのです。
 今作ではシュテルン市に古くから伝わる女神の伝説がモチーフになっています。それを模倣した適役が今回シュテルン市を襲うことになります。そのなかで、ジョニー・ウォンという敵が登場します。老人なのですが、強い武術使いで、ヒーローたちが本気で戦っても互角以上の戦いをするかなりの強者です。彼の能力は対象となるひとのこころの奥深くに働きかけて、トラウマを見せ続けるというものです。
 実はこれらの敵として登場する能力者たちも、マーク・シュナイダーという資本主義の権化によって自分たちの居場所を奪われた哀しい人達であるということが提示されるのですが、それはおいておいて。
ジョニー・ウォンに襲われたネイサンは、彼の技によってトラウマを見せ続けられます。ネイサンは、かつて男として生きていた中で、クラスメートの男の子にキスをしようとしてそれがバレ、ひどく傷つけられる過去を背負っています。他にも、初めて女装をして町を歩いた時のこと。親との関係。おそらく、彼女ほど深く、自己について考え、傷ついた人はいないでしょう。
 そのトラウマと戦っている間、ネイサンは身体から炎をまちきらします。能力が暴走しているわけです。それをブルー・ローズが氷で冷やしながら時間は過ぎて行きます。
 このネイサンのトラウマとの戦いが単に挿入的に扱われて居たら、この映画は大変つまらないものになったことでしょうが、この映画はこの映画一本を通じて、かなりきちんとネイサンのトラウマとの戦いを描いています。ですから、小手先でこんな悩みも描いておこうというものではないのです。真剣にネイサンの悩みと私たちは対峙しなければならないのです。そうしたなかで、私は泣いてしまいました。別に私がオカマであるということではないのですが、マイノリティーとして生きて来たなかで、ネイサンの受けた気持ちというのが少しはわかったのです。そして、この映画がそうしたマイノリティーに常に味方であるというのも、カウンターカルチャー的な作風を帯びていることからも、一貫して貫かれたテーマであったことに気が付きました。
 結論を言うと、ネイサンはこのトラウマに勝ちます。彼女は自分は自分なんだ、何をいままで恐れていたのだといって、トラウマから抜け出すのです。そして、ただでさえオカマというのは、女性性、男性性両方を有しているから強いのに、メンタル面においても、トラウマを克服したとなっては、彼女に勝てるものはいません。
 ブルー・ローズとドラゴン・キッドがウォンに惨敗している際に、ネイサンは「男は度胸、女は愛嬌、って言うじゃない。じゃあオカマは何かって言うと、最強よおおお」といって登場、見事ウォンを破るのです。
 ウォンは悪役としてすばらしい個性を発揮していましたが、彼もまた被害者であったということや、相手にトラウマを見せるというのは、結局のところ相手を強めるためになるということから、随分鑑賞後はいい人に見えもします。

終わりに
 今作はネイサンが主人公となった映画でした。タイバニには、個性的なヒーローたちがあと六人います。彼等の内面をもっと深化させていけば、それぞれにあと一作ずつは作れることになるでしょう。
 私はタイバニがとても作品としての制度も高く、また現代への鋭い批判にもなっていて、そして面白いということで、とても高く評価しています。次回作があるのかわかりませんが、是非これからのアニメ業界と、アニメ映画業界をけん引していく作品になればいいなと応援しています。

メモ 春休み中に読んだ本、見た映画、等々

 普段から読んだ本の感想や見た映画の感想などを好き勝手に書いてきた私ですが、ごらんのように私が書く記事は他のそれと比べてもまあある程度の質は保っているつもりで、だれでも書けるようなものを書いているつもりはありません。文量も他のブロガーのものにくらべれば多いほうでしょう。だいたい一つあたり一時間くらい書くのにかかっているんですが・・・。さて、そうするとすべてを書いておくというわけにはいきません。ですので、せっかく、ああこれすごくよかったと思っても、なかなか書けないでそのままというものがけっこう溜まってしまうものなのです。
 そこで、自分のために、日記とまではいかなくても、その日何を読んだか、何を見たか、何をしたか、簡単に書き込むというのを一月から始めました。ちょうど長い春休みということもあり、一日一日を無駄にしないために、夜寝る前に一日を振り返りつつメモをする。すると、何も読めなかったり、できなかった日というのが段々減って来るのです。やはり一日あって真っ白というのは寂しいものがありますからね。
 本来こんなもの他人様に見せる必要はないのですが(自己顕示欲の現れですね)、一応ウェブ上に記しておいて、そうすれば友人などが何を読んだのかわかるわけですから、そこで自分も見た、読んだものがあれば、話しのネタになるという意味で公開しておきましょう。

 春休みについて、少し自分の話をすれば、大学一年入った時の春休みというのが、ちょうど震災と重なったのです。私の弟が今年大学受験で、無事に受かりまして、今青春真っ只中であります。毎日のようによくそんなお金があるなと思いつつも、友達とどこかに遊びに行っているもので、いいものだなあと眺めているのですが。私の時は震災があってこれからどうなるかもわからないまま、外に出るのもなんだか不謹慎だし、そういう雰囲気ではありませんでしたからね、ずっと家の中にこもっていたものです。
 一年の春休み、すなわち二年になる前の春休みは、作品制作に打ち込んでいました。百人一首の巻物を書いていたのです。http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-182.html
 いやあ、懐かしい。他にもこの春には、京都に行った際の旅行記を書いたり、あとは映画、特に名画とよばれるものをたくさん鑑賞していたようです。友人から借りた「禁書目録」シリーズを一気に読みました。
 その次の年、2013年度はとにかく乱読に続く乱読。それらを徹底的に感想などを書きながら、自分のなかで体系化していった年です。エヴァンゲリオンQの解釈や、ドラクエⅦの感想、女性文学の感想、俺の屍を越えていけの感想、かなり力のこもった記事が並んでいますね(自画自賛なんですけど)。
 そして、今年の春休み。大学に入ってから三回目の春休みです。より勉強が深まってきたというのか、そう簡単に体系化できたり、論じたりできたいするものではないなあというのが現状になってきました。ひとつの記事として書くにはあまりにも、何といえばいいのかな、自分のなかにあるものが大きくなりすぎているというか。たった一つのことを言うのでも、こうした思想背景から述べた方がいいのかなとか、でもそう簡単にいいきれないようなと、より深化してきたのですね。だから、時にああ、すごい、この作品は感動したというような作品に出合うと、もうそれを表現するためには、通常の3,4千文字の記事では済まなくなる。一万字とか、二万字とか簡単に行ってしまうのです。でも、それを全部書いていたのでは日が暮れてしまう。ということで、こころのなかにしまっておくといったことが増えて来たのは確かです。ずいぶん偉そうに言っているようで、すごく嫌なんですが・・・。

一月・後半から
書籍
・『若者はなぜ怒らなくなったのか : 団塊と団塊ジュニアの溝』荷宮和子 著 中央公論新社 2003 (中公新書ラクレ)
・『ネット王子とケータイ姫 : 悲劇を防ぐための知恵』香山リカ, 森健 著 中央公論新社 2004 (中公新書ラクレ)
・『「わかる」とはどういうことか : 認識の脳科学』山鳥重 著 筑摩書房 2002 (ちくま新書)
・『〈いい子〉じゃなきゃいけないの?』香山リカ 著 筑摩書房 2005 (ちくまプリマー新書 ; 20)

映像
・『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』男はつらいよシリーズの第25作目

ゲーム
・『テイルズ・オブ・ハーツ』クリア
・『テイルズ・オブ・イノセンス』クリア


二月
書籍
・『あなたはどれだけ待てますか : せっかち文化とのんびり文化の徹底比較』ロバート・レヴィーン 著,忠平美幸 訳 草思社 2002
・『源氏物語 巻一』瀬戸内寂聴訳 講談社文庫 2006
・『ソフィーの世界 : 哲学者からの不思議な手紙』 ヨースタイン・ゴルデル/著,池田 香代子/訳 日本放送出版協会 1995
・『動物化するポストモダン : オタクから見た日本社会』 東浩紀 著 講談社 2001 (講談社現代新書)
・『死んだらどうなるの?』 玄侑宗久 著 筑摩書房 2005 (ちくまプリマー新書)
・『海辺のカフカ 上・下』 村上春樹 [著] 新潮社 2002
・『椿姫』 デュマ・フィス/[著],新庄 嘉章/訳 新潮社 1989 (新潮文庫)
・『大人はウザい!』 山脇由貴子 著 筑摩書房 2010 (ちくまプリマー新書 ; 135)
・『君たちはどう生きるか』 吉野源三郎 著,脇田和 等絵 新潮社 1969
・『勉強ができなくても恥ずかしくない 1(どうしよう…の巻)』 橋本治 著 筑摩書房 2005 (ちくまプリマー新書 ; 6)
・『悩む力』 姜尚中 著 集英社 2008 (集英社新書)
・『村上ラヂオ』 村上春樹 文,大橋歩 画 マガジンハウス 2001
・『欲望という名の電車』 T.ウィリアムズ 著,小田島雄志 訳 新潮社 1988 (新潮文庫)
・『生きづらい〈私〉たち : 心に穴があいている』 香山リカ 著 講談社 2004 (講談社現代新書)
・『世にも美しい日本語入門』 安野光雅, 藤原正彦 著 筑摩書房 2006 (ちくまプリマー新書 ; 27)
・『「ビミョーな未来」をどう生きるか』 藤原和博 著 筑摩書房 2006 (ちくまプリマー新書 ; 28)
・『穴』 小山田浩子 文芸春秋2014、3月号
・『新訳アーサー王物語』 トマス・ブルフィンチ [著],大久保博 訳 角川書店 1993 (角川文庫)
・『大学の話をしましょうか : 最高学府のデバイスとポテンシャル』 森博嗣 著 中央公論新社 2005 (中公新書ラクレ)

映像
・『アマデウス』(1984)
・『ブレードランナー』(1982)
・『ザ・マスター』(2012)
・『カラフル』(2010)
・『シェルブールの雨傘』(1964)
・『劇場版 TIGER & BUNNY The Beginning』(2014)アニメーション映画
・『夜のとばりの物語』 (2012)アニメーション映画
・『REDLINE』(2010)アニメーション映画
・『トレインスポッティング』(1996)
・『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(1987)アニメーション映画
・『宇宙ショーへようこそ』(2010)アニメーション映画
・『アヴァロン』(Avalon)(2001)
・『アフロサムライ』(AFRO SAMURAI)(2007)アニメーション映画
・『アフロサムライ:レザレクション』(2009)アニメーション映画
・『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』(2008)
・『ブレイブ・ストーリー』(2006)アニメーション映画
・『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』(2007)
・『ストレンヂア 無皇刃譚』(2007)アニメーション映画
・『フェイク』(原題:Donnie Brasco)(1997)

観劇・展覧会
・宝塚 『眠らない男・ナポレオン ―愛と栄光の涯(はて)に― 』
・井上バレエ団 『眠りの森の美女』
・『シャヴァンヌ展 水辺のアルカディア ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの神話世界』

三月
書籍
・『電波男』 本田透 著 三才ブックス 2005
・『源氏物語 巻二』
・『倫理の探索 : 聖書からのアプローチ』 関根清三 著 中央公論新社 2002 (中公新書)
・『幸せって、なんだっけ : 「豊かさ」という幻想を超えて』 辻信一 著 ソフトバンククリエイティブ 2008 (ソフトバンク新書)
・『働かないアリに意義がある』 長谷川英祐 著 メディアファクトリー 2010 (メディアファクトリー新書 ; 015)
・『自殺するなら、引きこもれ : 問題だらけの学校から身を守る法』 本田透, 堀田純司 著 光文社 2007 (光文社新書)
・『新個人主義のすすめ』 林望 著 集英社 2008 (集英社新書)
・『有島武郎 : 人とその小説世界』 上杉省和 著 明治書院 1985 (国文学研究叢書)
・『風の谷のナウシカ』1から7まで 宮崎駿 原作 徳間書店 1988 (徳間アニメ絵本)
・『或る女』 有島武郎 著 新潮社 1995 (新潮文庫)
・『『或る女』とアメリカ体験 : 有島武郎の理想と叛逆』 尾西康充 著 岩波書店 2012
・『フロイトで自己管理』 齋藤孝 [著] 角川書店 2008 (角川oneテーマ21 ; B-104)
・『近代という教養 : 文学が背負った課題』 石原千秋 著 筑摩書房 2013 (筑摩選書 ; 0060)
・『スカートの下の劇場 : ひとはどうしてパンティにこだわるのか』 上野千鶴子 著 河出書房新社 1989
・『テクストから遠く離れて』 加藤典洋 著 講談社 2004

映像
・『マイマイ新子と千年の魔法』(2009)アニメーション映画
・『ベン・ハー』(Ben-Hur)(1959)
・『桐島、部活やめるってよ』(2012)
・『モテキ』(2011)
・『ソーシャル・ネットワーク』(2010)
・『2010年』(原題: 2010: The Year We Make Contact)(1984)
・『マグノリアの花たち』(1989)
・『魔女の宅急便』(2014)
・『ホビット 思いがけない冒険』(2012)
・『キック・アス』(2010)
・『ライトスタッフ』(1983)
・『カストラート』(1994)
・『シェフ! ~三ツ星レストランの舞台裏へようこそ~』(2012)
・『アンナ・カレーニナ』(2012)
・『オズ はじまりの戦い』(2013)
・『華麗なるギャツビー』(2013)

観劇・展覧会
・国際基督教大学和太鼓部2014年春公演『あの音』
・『テート美術館の至宝 ラファエル前派展 英国ヴィクトリア朝絵画の夢』
・『アンディ・ウォーホル展:永遠の15分』
プロフィール

幽玄

Author:幽玄

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