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「ラファエル前派展」と「アンディ・ウォーホル展」の比較から読み解く、「心本主義」と「資本主義」の対立 感想とレビュー

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 現在六本木の森ビルで行われている、「ラファエル前派展」と「アンディ・ウォーホル展」に行ってきました。
 まず、「ラファエル前派展」は森アーツセンターギャラリー。「アンディ・ウォーホル展」は森美術館で開催されています。これややこしいのですが、実は同じ場所です。そもそも、六本木ヒルズと森ビルというのは、同じ建物ですし、その部位によって違うのか、どこが提供しているかということで違うのかよくわからないのですが、多くの人を迷わせます。森アーツセンターギャラリーと、森美術館は、一階だけ違う同じ建物内の美術館です。恐らくどこが提供しているのかということで、名称が異なったのでしょう。

ラファエル前派と心本主義
 今回の展示、森ギャラリーの方では「ラファエル前派」、森美術館のほうでは「アンディ・ウォーホル」が展示されていたのですが、この二つの展示はあまりにも象徴的、対比的でした。ですので、私はだれか頭の働く人がこの二つを同時期に同じ場所で対決させたのではないかと勘繰っているのですが。
 何が対比的だったのかと申しますと、「ラファエル前派展」は、「資本主義」に対抗した思想に基づいているということです。ラファエル前派というのは、1848年にジョン・エヴァレット・ミレイや、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハントなどらが中心になって結成された美術集団です。当時の美術界は、巨匠時代の1人、ラファエルに倣うことだけが良しとされた時代でした。すでにそこには、先人から学ぶという態度ではなく、単なる模倣をしつづける形骸化されたものしか残っていなかったのでしょう。少なくとも新進気鋭の若者たちが活躍できるような状況でなかったことは確かです。そこで、彼等はそのような形骸化され、古い因習に縛られている美術界と手を切って、自分達で新しい美術の地平を切り開いていこうとしたわけです。
 何もないところから生み出すというのはなかなか難しいものがあります。彼等が新しい美術を産み出すために何をよりどころとしたのかというと、それがラファエルよりも「前」の美術だったわけですね。だから、ラファエル前派と呼ばれるわけです。ラファエルは巨匠時代の人で、生きたのは1483年から1520年までです。なので、ラファエル前派という名前に惑わされて、ラファエルよりも前の時代の人なのかと思ってはいけません。ラファエル前派の人たちは美術の拠り所となるのをラファエルよりも前に求めたのであって、活動したのは1850年前後と、今からやく150年前のことです。
 私たちが彼等の活動から学べることは、すでに形骸化してしまった「今」を乗り越えるためには、それ以前の歴史を振り返り、それをよりどころとしたうえでさらに新しいものを産み出すことが可能だということです。彼等の活動は、当時の評論家たちなどによって厳しく酷評されました。それは保守的であり、先進的であったからです。新しいものというのは、保守的であり、懐古的であるというのは、言葉じりだけをとらえると矛盾しているように見えますが、矛盾していないのです。古いものに学びながら新しいものを産み出していく。歴史はつねにこれの繰り返しなのだろうと思います。もちろん、まったく何もないところから生まれたというようなものも中にはあるかもしれません。ですが、一見するとそう見えるものも、意外と昔のどこかから発想を得ていることはよくあることです。古いものを学ぶというのは、新しいものに活かせるということを彼らは身をもって私たちに教えてくれているように私には感じられます。
 また、ラファエル前派は、第二世代と呼ばれる人たちにウィリアム・モリスを迎えます。1850年前後と言えば、18世紀、1700年代の終わりから始まった、フランス革命、工業化社会、資本主義社会が爆発的な発展をしていた黄金の時代でした。そうした資本主義に対して、モリスは「アーツ・アンド・クラフツ運動」を始めます。
 アーツ・アンド・クラフツ運動というのは、「産業革命により機械化が進んだ結果、大量生産の安価で粗悪な商品が増え、労働の誇りや喜びが奪われたことを批判して、英国で怒った美術運動」で、「生活と芸術を一致させることを目指」す運動のことを言います。モリスは自身は画家でもあり、デザイナーでもありましたが、多彩な人で、詩人だったり作家だったりしたわけです。なかでも、こうした運動面では思想家や社会運動家としての顔がありました。
 形骸化した芸術に一端歯止めをかけ、さらに古い古典をよりどころとしつつ、芸術をもう一度再生した。その次の世代(年代的には数年の差しかないのですが)は、さらに芸術の復権と資本主義社会の批判を混淆させ、芸術を「芸術のための芸術」ではなく、生活とも密接した芸術にしようとしたのです。この点で、芸術を大衆化させたのではないかという批判もありますが、私はそうは思いません。芸術の大衆化というのが一体どういうことかというのは、次に論じる「ウォーホル展」を見ればよくわかるのですが、モリスが行った芸術を生活を結びつける運動というのは、生活のほうを改善することであるように私には思われます。それに対して、芸術の大衆化とは、芸術を貶めることです。

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ウォーホルと資本主義
 このようにして見ると「ラファエル前派」というのは、一見すると古典的であり、懐古的であり、保守的でありますが、しかし当時の「今」を打ち破り、新しい世界を切り開く力をもった、新しいものであったことがわかります。
この対比となっているのが同時期に、同じ個所で開催されている「ウォーホル展」です。こちらは打って変わって資本主義の権化、資本主義の神様的な存在です。
 私は先のウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に賛同していて、これを私が勝手に「心本主義」と名付けて読んでいるのですが、資本主義はまさしくこれと相反するものです。
 ウォーホルは「もしきみがアンディ・ウォーホルについてすべてを知りたいなら、ぼくの絵と映画、そしてぼくの表面を見るだけでいい。そこにぼくがいるし、その裏には何もない」と言います。これは、まさに至言で、彼の本質をついた言葉でしょう。つまり、中身はないのです。しかし、あまりにも圧倒的な情報量で表面をつくろうために、何か中身があるように見えてしまう。多くの人はその中身に寄せ付けられて彼を称賛し、近づいていったのでしょう。彼は中身はないのだということをこのように表現していますが、多くの人はそれでも中身があると思って彼の幻想を追い求めているのです。
 また、この構図はポストモダン的とも言えます。中身はないのだけれども、表面には多様な言説が散りばめられている。ポストモダン以前は文学にしろ作品にしろ、その背景となる何かしらのモノが存在していています。
 ウォーホルの作品群は、ポストモダン的に内容空疎であるけれども、表面を取り繕っているので、そこになにかがあるのではないかという予感がし、それを追い求めて多くの人が寄せ付けられるのです。しかし、私はウォーホル展を見ていて、非常に不快に感じたのと、さらにはあまりの虚無の深さに疲れてしまいました。そこには何かあるように見えていても、何もないのです。
 彼の代表作であるマリリン・モンローのポートレートも、同じ図版をなんどもなんども再生して、色だけかえて多様な作品として見せている。しかし、そこにはどれも、だれでもが作れるような質の低いポスターが並んでいるだけなのです。
 ウォーホルは1960年代前後のアメリカの大衆消費、大量消費社会を反映させた作品をつくります。ウォーホルの缶のイラストなどが大衆消費、大量消費をさらに促したということもあり、ウォーホルは単に大衆消費社会、大量消費社会を反映させたということだけでは言い切れない、彼もまたそれを助長した側の人間であると言うことができるでしょう。大衆消費社会や大量消費社会というのは、もうすでにその幻影にぼろがでつつある2000年代現在においてはもう手放しで認められることではありません。しかし、その社会に生きていた彼にとっては、それを批判することなく、むしろ増長したと言う点においては、現在の私たちは彼を無批判に賛美することはできません。
 ウォーホルは通常芸術家がアトリエとするような場所を「ファクトリー」と名付け、彼の作品の制作、同時代の作家たちとの交流の場として使用しました。この美術展では、その「ファクトリー」を再現をした部屋があります。ですが、この部屋は本当にひどかった。コンクリートのうちっぱなしで、何もない。無機質な箱です。こんな場所に居たら神経がどうにかしてしまいそうです。ところが、これが恰好良い、クールだと信じられていた時代があるのです。そして、まだ多くの人がウォーホルのことを恰好良いと思い、こうした無機質な部屋がクールだと思っているのでしょう。
 ウォーホルの作品のなかに、資本主義社会の負の側面を捉えた作品があります。自殺をする人たちをテーマにした作品や、スピード社会によって生み出された事故をテーマとした作品たちです。これだけをみると、そこから何か彼のメッセージのようなもの、資本主義やスピード社会に対する批判が見て取れるような気もしますが、しかしそれはほとんど皆無でしょう。たまたまそうした現象が目に入ったからという程度でそれらを作品として取り扱っただけのように私には感じられます。それらの社会を批判する作品群もその後まで続けられることはなかったことからもそれが裏付けされると思います。
 また、彼は芸術を大衆にひらいたということで、モダンアート、ポップアートの神的な存在と目されていますが、これはどうでしょう。私には、芸術を大衆(しかも資本主義社会における大衆)にむかって商品化したということで、むしろ芸術を貶めたと考えます。彼は「アート」も大量生産、大量消費するのだとして、一枚いくらと決めたポートレートを大量につくり、大量に売りさばいていくのです。こうしたことが「アート」であるとは、私は認めることはできません。
 どこまで彼が自分の作品を意識的に捉えていたのかわかりません。なかには、「$」マークを描いて、「記号」だと銘打った作品もあります。他にも、絵の具に尿をまきちらして酸化させただけという、「ふざけた」作品もあります。彼が芸術をどう捉えていたのかということがこれらの作品からわかるのではないでしょうか。

 おもしろいことに、ウォーホルは1968年に、彼の映画にも出演経験のあるフェミニズム活動家ヴァレリー・ソラナスに銃撃されます。資本主義、大衆消費社会の権化であるウォーホルが、マイノリティーを擁護する立場のフェミニストに打たれるというのは実に象徴的なことにように私には感じられます。おそらく、私も同時代に彼の近くにいたとしたならば、彼のことを否定せざるを得なかったでしょう。
 ですが、そのようなウォーホルも、死後に発見されたことですが、彼の寝室は神との対話ができるよう、実に宗教的な部屋になっていたのです。資本主義、大衆消費社会の権化として君臨していた彼も、その空虚さには耐えられなかったのでしょう。自室で神と対話しているときが彼を救った唯一の時間だったのではないでしょうか。だったら、最初からそうした作品を作っていれば彼はもうすこし長生きできたのではないかと私は感じますが。結局彼は58歳の若さで命を削るようにして死んでいきました。胆嚢の手術を受けたあと、心臓発作で死んでしまったのです。胆嚢や心臓といわず、彼の内臓、内面器官はそうとうぼろぼろだったのではないでしょうか。「ファクトリー」とよばれるこころ休まることのない頽廃的な場所で、頽廃的な生活を送る。空虚な作品を作り続けることが彼の内面や、身体にどれだけの負担を強いていたのかと私は感じます。

終わりに
 ウォーホルは、消費社会の権化になった人でした。その点、日本では高度経済成長期のメディアの寵児となった寺山修司にも通じるところがあると思います。寺山もスピードだ、一点豪華主義だと言っていましたが、結局若くして死にました。
 もう資本主義社会が破たんをきたしていることは目に見えているのにもかかわらず、いまだに多くの人がそれに代わるシステムがないからという理由だけで、その沈没しかかっている船に乗り合わせているのです。
 行き詰った時、どうしたらいいのか。ラファエル前派の人々が教えてくれました。資本主義よりも以前の社会を見つめて、そこから新しいものをつくっていけばいいのだということです。残念なことに、資本主義に反旗を翻したアーツ・アンド・クラフツ運動なども、歴史を見れば明らかなように、ウォーホルを見れば明らかなように、資本主義の波に飲み込まれていってしまいました。しかし、今もう一度資本主義以前の社会を見つめ、そこから学び、新しい資本主義にかわる社会をつくっていかなければならないのではないでしょうか。
 日本人はいまだに外国のモノをありがたがって無批判に受け入れる習性がありますから、ウォーホルの作品を見て、「すごい」と手放しに賞賛することでしょう。しかし、それではいけないのです。やはりウォーホルの作品からは何も生まれません。そこにあるのは虚無です。モノに溢れた社会ではなく、モノが少なくてもこころある社会に変革していったほうがいいのではないでしょうか。
 あるいは、この二つの展示会を見て、もっと資本主義を推し進めるべきだと思う人がいるかもしれません。私はそうした人達のことは知りませんが、私たちを巻き込むなと言いたい。自分達だけでやっていてくださいということです。
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香山リカ 『生きづらい〈私〉たち』 感想とレビュー 一つの自己か、いくつもある自己か

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はじめに
 香山リカ 『生きづらい〈私〉たち』(2004)講談社現代新書 評価4(五段階評価)
 長い春休みに入って、最近は香山リカ氏の書かれた本を何冊か読んでいるのですが、私が彼女の本を信頼にたるものとして読むのには理由があります。何冊か彼女の本を読んだなかで、この本は、特に彼女のスタンスが明確に書かれた本であったと思います。彼女のスタンスがどのようなものであるのかを、少し引用しながら、今回はこの本の内容と、私たちがではどうしたらいいのかという問題について述べようと思います。

〈私〉をもう一度考えよう
 この本で特にすばらしいと感じられた指摘は、「私」ということへの指摘です。著者は、2004年の執筆時においての、診察を通して、「本当の私」とか、「自分探し」といった言葉をよく聞くようになったと述べ、「私」というものが複数存在しているのではないかということに気が付いたのです。そしてそれを深めていくうえでいくつかのことに気が付きます。
 2004年の本なので、すでにこの本が書かれてから10年という長い年月が流れました。特に新書など、「現在」を扱ったものは、10年も時間が経てば使い物にならなくなるのが通常ですが、香山氏の多くの本にかぎっては、今でも役に立つと思われる知見がいくつもあります。やはりいち早く「今」を分析した彼女の指摘は、10年経過した現在でもまだ古くはなっていないのです。

 「もともと能力も高く、まわりからは期待されたり「いい子」だと思われたりしている人も少なくないのですが、十代から二十代にかけてどこかの時点で、ふと「なにかが違う」という違和感にとりつかれ、「何だろう?何が足りないんだろう?」と考え始めるのと同時に、苦しみが始まります。
 そして、それまでの自分はまわりの期待に合わせてウソの自分を演じていただけだった、と自分の過去を楽しかったこと、ほめられたことなども含めて丸ごと否定してしまうのです。もちろん、周囲の人からの「あなたに足りないものはこれじゃないの?」といったアドバイスや、「あなたに足りないものなど、ないじゃないの」といった慰めは、まったく効を奏しません」
 確かに、ここで書かれているように、何か一つを注意されただけで、自分のすべてが駄目なのだと否定してしまうような人が増えて来たと感じます。少なくとも私の近くにそうした人がいるものですから、こうした人にここは直した方がいいんじゃない?などと指摘するのはとても難しい。そして、自分自身、何か一つ指摘されると、非常に嫌な気分になります。もちろん、指摘されていい気分になる人はいませんが、昔はもうすこし穏やかだったように感じられます。今は、とにかく「自己」「自我」というものが今まで以上に不安定になってきているので、たった一部でもそこを指摘されると、過分に反応してしまうのです。

 「ひといちばいまわりの人の表情や言動を敏感に読み取る能力にすぐれた彼らは、ほとんどの場合、自分の感情を表に出すより先に「相手は今、自分に何を望んでいるのか」を察知してしまいます。そして、それに応じた期待どおりのことを言ってしまうのです」
 これは私自身にもよくあてはまることです。常に相手の顔を窺いながら行動していしまう。もちろん、多かれ少なかれ、これは全ての人間に当てはまることですが、特にここ十数年この傾向が強まっている可能性は否定できません。あまりにも相手に対して敏感になりすぎているのです。相手がつかめないため、こちらも相手を窺いながら、びくびくしながら踏み出します。すると、相手もこちらのことがよくわからないということで、始終人々が相手を窺いながら生きているという悪循環になります。

 「表面的にはまわりの期待にこたえて明るく元気なキャラクターを演じ続けているうちに、内面的にはいらだちや腹立ちがどんどんつのっていく。表面と内面でベクトルがまったく別の方向に向かうため、本人はそのあいだで身が引き裂かれるようなつらさを覚えます。そして、「じゃあね」と目の前の相手と別れたあとどっと疲れて落ち込み、ひとりになった寂しさをさらに強烈に実感することになるのです」
 この本は十年前、まだ電話やメールが普及し始めて来たころに書かれた本なので、この時の「若者」のこうした感覚はメールやネットでのことを踏まえて生まれた感覚だったのだろうと、今の私は想像します。そして、現代、Twitter、Facebook、LINE等々、様々なSNSが発達した今において、この現象はさらに強まっているのではないかと私は感じます。
 「自分がある性格、特徴、傾向などを持った「全体としてはこんな人間」と自分で把握することができる存在だ、と自覚することができないのです」
 彼女は日本で解離性障害や多重人格に現れるような現象が人々に起き始めているといいます。そして、その原因として考えられるのは、大まかに3つ。
①自己愛や変身願望、打算
②センサーが敏感になったため、わずかなこともトラウマと解釈してしまう
③インターネットの出現とともに、心そのものが解離のメカニズムを簡単に発動させるように変わった
というのです。

著者の立場
 「「ひとつの身体にひとつの自己」「私は満たされており、いつも安定している」というこれまでのあり方のほうがもはや古く、時代にはマッチしていない。「穴のあいた心」も「バラバラの自分」も、新しい時代を生き抜くための適応なのだ。そういう言い方をする人さえいます。
 精神科医は倫理学者ではありませんから、「人間に真に正常な姿はこれだ」などとはいえません。むしろ「正常か病気か」の基準は次代や文化で変わる、と考えているので、「これからは人格は多重化しているのが正常です」ということになれば「そうですか」とあっさりそれを受け入れるでしょう」
 ここに、著者のスタンスがもっとも凝縮して書かれているのではないでしょうか。すなわち、精神科医としての自分は、医学で病気だと考えられているものしか判断できない。何を病気とするかは、そのときそのときの社会なのであるから、そこまでは関知できないということなのです。
 私が香山リカ氏の本を比較的信頼を置いて読んでいるのは、彼女がこのような立場を明確にしているからということもあります。また、彼女の本は、読めばわかるように、非常に中立的で変な偏りが少ない。研究者として、できるだけ客観的に分析をしています。そして、持論の部分でも、そうではないかもしれないという可能性を残しつつ、指摘しています。このように、彼女は非常に研究者として信頼できるスタンスなのです。変に決めつけ、独断と偏見、自分に都合のいいデータだけを集めて強い論調を張ることは誰にでもできます。そして、しばしば日本ではそうした歯切れのいいほうが論調として喜んで受け入れられます。しかし、現実はそうではない。現実はやはり現実なのです。そう簡単にカテゴライズしたような批評はできません。常にそうではないかもという視点を確保しつづけなければなりません。そのため、反対から見れば、香山氏の本は歯切れが悪い、著者はどう考えているのかがよくわからないということはできるでしょう。ですが、簡単に言えるという論は、それだけの価値しかないということです。

 しかし彼女は精神科医として病院のなかでだけ仕事をしていればいいのかというと、そうではないなと考え始めるのです。
 「精神科医が病人だけ見ていればいい時代は終わった」と彼女は言っています。
 若い頃からメディアに寄稿をしていた彼女は、精神科医となってから、現に苦しんでいる人々がいるのなら、そしてその人たちが必ずしも病院にくるわけでもなく、そして悩みのうちに自殺してしまうのならばという理由から、本を発表するというスタンスになったのです。


日本の死生観から考える
 「多くの人間にとって、「生と死」のテーマはいまなお最も重要なはずです。それが「生きても死んでも、どっちでもいい。どっちでも同じことだ」などと扱われたことは、やや大げさに言えば人類の歴史始まってイラン、なかったのではないでしょうか」
 さて、私石野はよく「ポストモダン」との関係の中で様々な作品やものごとを分析していますが、だからといって私はポストモダンの旗手ではありません。私自身はポストモダンの先を行かなければいけないと思い、それはどのような姿であるのかということを日々模索しているのですが、しかし、その前にポストモダンのことをよく考えなければ、その先は見えてきません。
 香山氏は、自殺の問題を深く論じています。その部分は割愛します。是非興味を持った読者はこの本を手に取って見ることをお勧めしますが、とりあえず、死生観という問題だけにしぼって言えば、私はこれもまたポストモダンの弊害であると考えています。というのは、ポストモダンというのは、その前のモダン・近代と呼ばれていた時代に作り上げられた「価値」「価値観」を解体する一連の流れを言います。そのなかで、私が一番解体したために弊害になったと思っているのが、この「死生観」です。
 私たちは「なぜ?」と問うのが、本質的に好きなのです。そのため、人は本質的に哲学的だと私は考えていますが、そう考えない方の人が幸せかもわかりません。というのも、なぜ?と問わない人は、不安にならないからです。
 私たちはどうして生きるのか?といったことを本質的に考えずにはいられない生き物です。そうした人がなぜ?と問うと、このような問題に答えはない。すると、いつまでも答えが出ないことに不安になって、精神不安、最後には自ら命を絶つということになってしまうのです。ポストモダンは宗教を批判します。ですが、私は宗教は悪い面もあれば、善い面もあると思っています。宗教は、このように人間がどうしても持ってしまう根源的な問いにたいしての答えを、人類が頑張って考え出した集大成なのです。なぜ、人は生きるのか、死ぬのか。死んだらどうなるのかということを体系的に大勢の人、時間をかけて作り上げたものだと私は思っています。

 日本にかぎっていえば、老人と子供が一緒に一つの家で暮らしている。親は働きにでかけ、子供の面倒は老人がみる。すると、老人は死に近いですから、さまざまな時にそれとなく子供に死というものを感じさせます。そして老人は死ぬ。死とはどういうものか、子供はそこで学ぶのです。そして、数々の宗教行事。子供にとっては、七五三など。老人は、四十九日から何回忌。そして、先祖という概念を教えることによって、自分達の魂が一連の「~家」という長い輪廻のなかでの一つにしかすぎないのだということを学んでいきます。すると、その人の死生観が定まってきて、今は生きて、家庭をもって子供を産もうということになる。かなり大ざっぱですが、大体このようにそれとなく、人間は感じて来たのだろうと思います。
 ところが、ポストモダンの流れで、家は解体され、核家族化しました。その結果、親もとからもすぐに離れてしまうような状態で、老人と一緒に過ごす時間などない。死というものがどういうものかわからなくなる。人間は自分一人では自分というものがよくわからないというのは、柄谷行人が論じた「風景の発見」で述べられていますが、何かを考えるためには、それと比較するものがないといけないのです。死というものから離れてしまうと、相対的に生というものもよくわからなくなります。
 ですから、私たちは死と生というものがよくわからなくなり、その境界線があやふやになるのです。その境界線を保っていた、家、ならびに宗教行事が解体されてしまったからなのです。


〈私〉というアカウント時代
 「しかし、彼らは彼らなりに必死なのです。では、いったい何に必死なのか。それは、なんとかして自分の心をひとつにまとめたい、人生に筋道をしっかりしたストーリーを作りたい、ということです。彼らは、どんな手段を使ってでも心の穴を埋めなければ、心がバラバラになるのを止めなければ、と思い、だれかに受け止めてもらおうとしたりありもしないトラウマ話をしたりしているのです。そういう人たちの姿を見ていると、つくづく「人間とは、やはり心をひとつにまとめたい生きものなのだな」と思わざるをえません」

 「「いくつもの人格が共存する解離状態は、人間の必然的な進化なのではないか」という仮説もあり、私自身もいわゆるマルチメディア社会ではメディアごと、場面ごとに違う自分のあり方もあるはずなのだから、心の引き裂かれや解離をそれほど恐れる必要はないのではないか、むしろ社会システムのほうをそれに合わせて変えていかなければならないのではないか、という考えを持っていたこともありました」

 「しかし、このように少なくとも表面的には自由で多様性が認められる世の中になってきたにもかかわらず、「どれが本当の自分なんだろう?」という解離的な人の苦しみはいっこうに減りません。人格が後退していることも知らない真性の多重人格では、自分の人格が多重であることを知った瞬間から、彼らは「どれが本当の自分か」と苦しみ始めるでしょう。「“本当の自分”になんてこだわらなくても、その場その場で好きなように振る舞えばいいんだよ。みんなもそれを認めてくれるんだから」といくら言っても、彼らの気持ちは本質的には楽になりません」

 香山氏は、いくつもアカウントのように自己があってもいいかもしれないと考えてもいます。しかし、現状を見る限りにおいては、やはり人間は体系的なもの、一つにまとめたがっているのだなと感じると述べたうえで、その解決策を考えています。
 ところが、この本から10年という年月が経て、さらに状況は複雑化して、そう簡単にも言えないのではないかと私は思っています。
 ここからは私の考えですが、反対に一つであることが嫌だという人もなかには出て来たように思われます。
香山リカ氏もまた、ちょうどポストモダンがアカデミズムの世界に入ってきた時代に学生時代を迎えた人ですから、ちょうど近代、モダンということもわかっている世代の人なのです。そして、私に限って言えば、私は近現代の文学が専門ですから、やはり普段接している作品から当然思想も影響を受けるわけで、近代的な思想が私にはかなり根強く残っています。ところが、近現代の文学などに普段触れずに、ポストモダン化してしまった後に生まれ育った私たちの世代、二十代ぐらいの人々にとっては、モダン、近代ということを知りませんから、そのように一つの方向へという流れだけでも嫌だと感じてしまうような人がいます。そうした人達、友人たちを見ていると、自分たちがポストモダン化されているのだとは気が付いていません。当然といえば当然ですが。
 私がこの本の感想をTwitterに記したところ、アカウントを4つも5つも持っているような人たちから、私はそれで自由になったのだといった意見を頂きました。こうした人が今はいるのです。芥川賞受賞作家で、人気作家の平野 啓一郎氏も、「分人(ぶんじん)」といって、いくつもの自己があっていいじゃないか、そして自分はそれで楽になったと言っています。彼は、1975年生まれと、ポストモダン化した後に自我が形成された人間です。
このような例を見ていると、やはり今の人には、多かれ少なかれ、それぞれの場所で、それぞれの自分でいるほうが楽なのかもしれないとも思いました。
 私自身について述べれば、私はばらばらなものよりもまとまりのあった方を好む人間ですから、自分はできるだけ一つにしたいと思っています。日本には不思議なことに、ポストモダンとかなんとか言う以前から、「本音と建て前」といって、すでに自己を二重化する機能が働いていました。ですが、私はこれをもあまり快いとは思っておらず、自己は一つにと考えている人間です。私個人は、友人たちがいくつもの顔、ネットでの顔、メールでの顔、学校での顔を持っているのを目の当たりにしてきて、それが嫌だなと思ったのです。それらいずれも彼等にとっては全部本当の自分なのでしょうが、私にして見れば、なんだか嘘をつているように見えたのです。そして、私は嘘をつけない人間なので、できるだけ他人に嘘はつきたくないと思い、自己をできるだけ一つにしようとしています。ですから、私は学校での私も、友人との間での私も、家族といるときの私も、ほぼ同じように努めています。私にとっては、そのほうが楽だったのです。
ですが、何度もいうように、場面場面の自己があったほうが楽だという人もいます。
 ですから、それはもうそれぞれの人にあったようにするほかないでしょう。
 ただ、アカウントをいくつも持っている人のなかでも、この本に指摘されているように、本当の自分というものを見失って、疲れているなと思われる人がいます。そうした人は、アカウントを減らしたりすることが効果的だそうですから、この本を読むなり、精神科医にかかったりして、自分にあった自己というものを見付けていけたらいいなと思います。
この記事がそうした人達に少しでも役立てばと思い記しました。

アニメーション映画 『アフロサムライ』 『アフロサムライ レザレクション』  感想とレビュー アメリカからみた「日本らしい」アニメ

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 〈『アフロサムライ』(AFRO SAMURAI)は、岡崎能士の自費出版による漫画、またそれを原作とするGONZO製作のテレビアニメ作品である。
 漫画は1998年に出版され、アニメは2007年1月にアメリカ合衆国で先駆けて放送された。
 時代劇とヒップ・ホップやソウルが好きな著者が、アメリカ人が考えるような間違った日本観を逆手にとって創作した作品である〉
(Wikipediaより)

 この作品は、2007年にテレビアニメとして五回放送されました。五回の放送ですから、放送時間にしても約2時間。ほぼ同じ内容で映画化されております。こうした映画とアニメがほぼかわらない作品というのは、いくつかアニメーション作品にみられる傾向で、それは同じ内容でもアニメ、映画と両方で売り出さないと資金的に非常に厳しい状況にあるということです。また、最初から映画として制作するつもりで作られた作品もあります。有名な「マクロス」シリーズでは、『マクロスプラス』という作品がこのタイプに類します。テレビアニメとしては五回分。映画はそれに少し手を加えたもので、二時間ほどの映像になっています。

確立された他者の視点
 今回は映画版をテクストとして論じて行きます。
 さて、この作品が面白いのは、Wikipediaにあるように、作者が「アメリカ人が考えるような間違った日本観」を目指して作品を描いていることです。自己を客観視しているのです。自分はきっと他人にこうみられているだろうなというイメージを逆手にとって、相手のイメージに合う日本らしさといったものを創り出した。このことは、アニメーションを海外に売り出していくためにも面白い戦略の一つと言えるでしょう。(ただし、それを等のアメリカ人が見て、確かに僕たちのイメージしていた日本そのままだ、やっぱり僕たちは正しかったんだと、さらに間違った認識が深まってしまうという危惧は無きにしも非ずですが。)
 また、作品公開もアメリカで先になされるなど、制作当初からアメリカの人々に見られることを意識して制作された作品だということがわかります。ですから、この作品は日本人のためにではなくて、アメリカ人のために作られた「日本らしい」作品だと述べてもいいだろうと思います。
 そのようにして考えてみると、この作品を分析することは、すなわちアメリカの日本観をも分析することに繋がるでしょう。

 私は日本文学が専門なのですが、しかしだからといって日本だけを見ていていいわけではありません。時には日本を見るために、敢えて外国の視点を取り込まなければなりません。というのも、自己というのは、自分だけでは見ることができないのです。柄谷行人が『日本近代文学の起源』のなかで論じたのは、他者を発見することによって、自己が生まれたということです。それを彼は「風景」の発見だと言います。それまでは風景というものは存在しなかった。というのは、風景と自己とが区別されていなくて、連続していたからなのです。
 日本のアニメーションも同じです。それまでは日本だけでアニメーションを制作していればよかったのですが、日本のサブカルチャーが海外でも評価され(このことは多分にポストモダンが海外でも浸透していることだからだと私は思っていますが)、日本はサブカルを自ら売り出していくことによって、現在を生き残ろうとしています。ですから、それまでの自分達が欲しい、求めている作品だけでなく、より海外受けするものも制作していくことが求められるようになったのです。
 そうした一連の流れのなかで観ると、この作品が非常に重要な位置を占めていることがわかるでしょう。この映画は、初めてといっていいくらい、本格的に海外の視野を確立した作品なのです。

他者からみた日本らしさ
 東浩紀はその主著『動物化するポストモダン』で非常に面白いことを述べています(この本だけで記事を書こうと思っているのですが、それには少し時間がかかりそうです。この本は現在のサブカルチャー並びにこれからどのように個人の趣味が変遷していくかということを考えるためにも、是非読んでいただきたい名著です)。彼は日本はまだ敗戦というどうしようもない深手を負ったままだという主張から、ナルシシズムと結ぶ付けて論じていますが、結論だけを述べれば、日本のサブカルが日本らしいものと評価されるようになって、サブカルが「日本らしさ」をどこに求めたかというと、江戸時代だということです。
 日本はご存知のように明治時代とともにかなり急速な西洋化が始まります。それまでの鎖国状態を否定して、西洋に追い付け追い越せでなんでも取り入れたわけです。そうすると、現在の私たちから見ると、どうしても明治時代というのは、「日本らし」くない。では、私たちがこれぞピュアな日本だと考えられる「日本らしさ」をどこに求めるのかというと、その最も早い部分が江戸時代なのです。
 また、これは外国人にもそう映るようで、やはりこの百年は外国人からみても「日本らし」くないのです。彼等が日本に対して抱いているイメージは「サムライ」「ニンジャ」なのです。
 (余談ですが、文学の世界でも外国人が好む日本の文学というのは、偏りがあります。日本人が考えれば、やはり日本の近代文学、これは読んでおかなければと思うような作品は、漱石・鷗外となりますが、海外ではそうではない。というのは、この二人の文豪は海外の文学の模倣をしたにすぎないと彼らは観るためです。そこにはオリジナリティがない。なんだか自分たちの文学と似ているということで、あまりおもしろいとは感じないようです。ですから、彼らが好む、日本らしい日本文学というのは、三島、谷崎、川端になるわけです。日本では漱石・鷗外には劣るように感じられるかもしれませんが、三島はなんといっても、割腹自殺をしました。まだ戦後日本に武士がいたのかということで、外国人は武士としての日本をそこにみるのです。谷崎も日本らしい美的感覚を持っているとしてその文学は世界で読まれ続けていますし、川端も日本らしいと海外の人には映るそうです。ですから、彼がノーベル賞を受賞したのは、そうした理由があります。


さて、いよいよ作品に入っていきます。
 この作品は、エロ・グロといった過激な表現に溢れた刺激的な作品です。いきなり主人公の父親がアメリカ人っぽい拳銃を持った人物に殺されるという衝撃的な場面から始まります。
 この映画の面白いところは、アメリカ人から見た日本らしさを日本人が作っているということで、そこには同時に日本からみたアメリカらしさといったものもさり気なく批判として刷り込んでいるところです。こちらもアメリカの思う日本らしさを描くから、そのかわりにアメリカらしさも描いてやるといったように感じられます。
 主人公のアフロサムライと呼ばれる男はいつも無口。そのかわりに、アフロサムライに付きまとっているニンジャニンジャと呼ばれる男は始終しゃべりっぱなしです。
 この映画は、日本で制作された日本アニメなのにもかかわらず、全編英語になっています。しかも、声は『スターウォーズ』でメイス・ウィンドウなどを演じたことで知られるサミュエル・L・ジャクソン。
 かなりの大スターを起用しています。また、それと同時にサミュエルを割り当てるということは、製作者側にも彼にたいするイメージがあったことを指摘しておくべきでしょう。サミュエル・ジャクソンは、無類の日本好きとして知られていますが、同じく日本好きなジョージ・ルーカス監督の「スターウォーズ」シリーズに出演しています。「スターウォーズ」が日本の武士をイメージして制作されたことはよく知られたことですが、この作品では、さらに「スターウォーズ」で演じられたサミュエルの武士らしさといったものを逆輸入していると考えられるのです。1999年に『ファントムメナス』。2002年に『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』。2005年に『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』。エピソード2、3ではジェダイ最強の剣士として見事に戦いました。海外ではサミュエルといえば、メイスというイメージは広く印象付けられています。そのサミュエルを起用するということが、日本らしさを体現することにもつながるのです。

沈黙できなかった映画
 しかし面白いのは、日本らしさを目指していたこの映画は、ずいぶん「日本らし」くないのです。
 サムライとして登場するアフロは、そもそもアフロであること自体がアメリカっぽいし、飲み物は決まってレモネードです。
 アフロは日本のサムライらしさを体現するために、無口です(おそらく武士は寡黙であるというイメージがあるのでしょう)。ところが、この映画は二時間ほど無言でいるのには耐えられないのです。そのため、主人公の代弁訳としてニンジャという男が始終話すことになります。最初に見たときに、このニンジャというのは、どうもアフロだけにしか話しかけておらず、実態を持たない、アフロの妄想のような存在なのかなと思ってみていましたが、まさしくそうでした。サミュエル・ジャクソンはアフロサムライとニンジャニンジャ二人の声を担当します。
 後にこのニンジャニンジャの正体が徐々に明かされていきますが、しかし最後までよくわからない。時に実態を持っているような描写もされます。果たしてこれはアフロにとっての何なのでしょうか。
 一つの役割としては、アフロの代弁者であるということです。これはアメリカ人に見られるということを意識したからかもしれませんが、アメリカ人にとっては長い沈黙というのはどうも耐えられないといったイメージが日本人にはあります(たぶんアメリカ人も耐えられないのだろうとは思いますが)。それは、アメリカで流行るスポーツからもしばしば言われることで、サッカーのように、一時間のうちに一点入るか入らないかといったスポーツはアメリカでは流行りません。反対に、数十分のうちに何点も入るようなバスケットが好まれるというように、長いこと変化がないというのは彼等にとってはどうもあまり好む傾向にはないようなのです。
 しかし、日本らしい「サムライ」を描くとなると、黙らざるを得ない。ではどうするかということで、アメリカ人のためにニンジャニンジャというずっとおしゃべりしている人物を配したのではないでしょうか。

ニンジャニンジャの正体
 ニンジャの正体を考えたいと思います。今、映画内における意味を述べましたが、アフロにとってのニンジャの存在についてです。私は最初、彼の良心なのかとも思いました。アフロが黒で、ニンジャが白。この二項対比は悪と善のようにも見えます。アフロは人を平気で殺します。反対にニンジャは殺すなと言います。ですから、アフロにとっての良心、あるいは善的な存在なのかと思いました。
 しかし、どうもそうではないらしい。とすると何か、「迷い」ではないかというのが今のところ、一番近い私の考えです。これもところどころ整合性のつけられない箇所があるので、この解釈も不十分なのですが、アフロの行おうとしていることに反対している部分を見ていると、彼の心における迷いなのかなとも考えられます。あるいは単純に、天邪鬼でアフロと反対のことを述べているだけということも出来ますが。
 「迷い」であるという論の根拠となるのは、ニンジャは終盤の戦闘において消えます。それまでは、過去に縛られて自分の兄弟子であった仁之助、クマサムライに対して剣を抜くことができません。それは、自分に咎があり、仁之助をそのようにしてしまったのは自分のせいだと思っているからです。そして、ニンジャが居なくなると、やっと武器を持つことができるようになる。とすると、やはり「迷い」が消えたからと考えることができるのです。
 (ちなみにこのクマサムライ、呼吸音など、どう考えてもダースベイダーをイメージしているとしか思えません。)

 アフロサムライ レザレクション
はじめに
 『アフロサムライ レザレクション』(『AFRO SAMURAI RESURRECTION』!)は、『アフロサムライ』(2007)のその後を描いた作品として、2009年に公開されました。
 この記事は、前回の記事の続きとして読んでいただけると良いと思います。

 この映画は、なぜかはわかりませんが、「一番」のはちまきと「二番」のはちまきという不思議なはちまきをめぐる話になっています。このはちまきが一体どこからきたモチーフなのかはわかりませんが、おそらく帯といった「日本らしい」ものから来たのでしょう。
 「一番」のはちまきを付けるものはその名の通り、世界で一番強い存在であり、神の力を手に入れることができます。そしてその「一番」のはちまきを持つ者に挑むことができるのは「二番」のはちまきを持つ者だけ。「二番」のはちまきを持つ者に挑むことができるのは、誰でもということで、悲惨な殺害の連鎖が繰り広げられるのです。
私はこの映画を観ていて、繰り返される殺害という点で、どこか2008年のアニメ『黒塚 KUROZUKA』を彷彿とさせるように思いました。
 一番と二番しかないのかよと思っていたところ、前作の『アフロサムライ』のラストで、七番あたりまであることが判明します。いずれも一番に挑んで、神の力が支配しているような場所で死んでいます。
 アフロサムライの父親は一番のはちまきを手にしたものの、そのはちまきを使って神の力を得ることをしなかったのです。そのため、二番に負けてしまったということですが、このはちまきをめぐる争いは、いつまでも続きます。途中でその輪廻の世界にストップをかけようとして、はちまきを隠す者がいます。それはアフロの父がそうであったように、またアフロ自身もはちまきを使用しません。二番のはちまきは、アフロの師匠が隠したり、レザレクションでも男が隠していたりします。しかし、いずれもはちまきを求める人間によって殺されてしまうのです。
 どうして戦うのかということの理由づけのためにこの「はちまき」システムを製作者は考えました。そうでなければ、人間はいくら残虐な生き物だからといって、そこまで殺しをできるわけはありません。しかし、このはちまきのために、人々は戦いを求めるのです。レザレクションでは、それまでのアフロが殺してきた人たちの、兄弟や家族が描き出されます。人は複雑な関係のなかで生きていますから、自分がたとえば一人の男を殺したとなると、その人とかかわっていた多くの人の一部をも殺したことになるのです。レザレクションでは、アフロに殺された兄弟、家族がアフロを待ち伏せている場面があります。また、今作の適役であるシヲは仁之助の妹であり(この点は自分が孤児であると仁之助が言っていたことから、本当の妹というよりは義兄弟と考えた方がいいでしょう)、家族を殺されたとして、アフロに復讐心を燃やします。

 この作品は、独立した作品というよりは、ただ前作の補てんをしたような感じなので、この作品ひとつをとってあまり論じることはできません。
 ですが、最後に一作目で倒したはずのジョーカーらしき人物が復活したのではないかというところで、終了しているところはいかにもといったパターン。その後も話は続く、次作を匂わせる作品ですが、果たしてどれだけの人々が待ち望んでいるかは不明です。
 もう、話しの流れからして、そんなに面白い話はつくれなさそうな(そもそも設定が不思議すぎて、どう話を膨らましたらいいのか難しい)感じなので、どうなることでしょう。復讐の連鎖を物語としても、それはもう一作目、二作目で十分語りつくした感もありますし、この作品はもうこれ以上は同じことの繰り返しにしかならないような気もします。二作目では、二番のはちまきを隠していた男を殺しますが、その男が連れていた亡き友人(これもアフロサムライに殺されたことになっています)の子供が、その男がアフロサムライに殺されるところを目撃。そして、またアフロに対して復讐を誓うというパターンになるのです。これは、一作目の冒頭で、子供だったアフロが父の死に直面したのと構図はほぼ同じ。
 ですから、この二作目の最後で、再び一作目の最初に戻ったということにしておいて、輪廻するのだとしたほうが区切れがいい気はします。
 今後続編が作られるかはわかりませんが、アニメーション映画を追う者としては、常にアンテナを立てておくとしましょう。

アニメーション映画 『ストレンヂア 無皇刃譚』 感想とレビュー 「日本らしい」アニメを目指して

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はじめに
 〈『ストレンヂア 無皇刃譚』(ストレンヂア むこうはだん/Sword of the Stranger)は、松竹より2007年9月29日に公開された安藤真裕監督の時代劇アニメ映画。PG-12指定。〉(Wikipediaより)
 原作はボンズ (アニメ制作プロダクション)で、それを松竹の出資により映画化されたようです。アニメーション業界では、ジブリだけが有名になってしまっていますが、これからはボンズのような素晴らしいアニメーションを制作している会社も、社会的に認知されるようになるとよりアニメーションの地位獲得ができると思います。

アニメの強み
 R12指定というように、このアニメーションは非常に暴力的です。いわゆるスプラッターといわれるような、グロテスクなシーンに溢れています。
 私は個人的にグロテスクな表現がだめなのですが、この映画はなんとか耐えられました。
 「安藤自身がアニメーター出身の演出家であることから、動かすことによって楽しむことの出来る作品にしたいという思いがあったからであ」ったという旨がWikipediaにあるように、このアニメーションはまさしくアニメそのものがもっている、「動き」というアニメの強みを生かした作品になっています。
 アニメーションというのは、アニメであって、実写ではない。このことをよく考えますと、「らしさ」「ぽさ」が求められるわけです。実写はどんなに、それっぽくても、一応現実を映すわけですから、あまり空想的なことはできない。もちろん、CGを使用して全く別のものを描くのは可能ですが、やはりどうしてもまだCGという新しい技術は観客に違和感を覚えさせるようです。それに対して、アニメーションはすでに半世紀以上も我々が馴染んできたため、違和感を覚えない。アニメの強みというのは、実写やCGでは描けない「らしさ」や「ぽさ」を表現できることだと思います。
この映画のみどころは、なんといっても戦闘シーン。ほぼ戦闘シーンだったのではないかと思われるほど、戦闘シーンの多い作品です。

主人公は?
 この映画の主人公とよべるものは、少し難しい。仔太郎であるとも言えますし、「名無し」であるとも言えます。冒頭から仔太郎視点で物語が展開していきますから、そのまま見ると仔太郎が主人公のように見えてしまいます。しかし、仔太郎はこの物語のキーではありますが、彼自身はまだ子供で、自分では戦闘をしないのです。専ら戦闘をするのは、ひょんなことから雇う、雇われるという関係になった、「名無し」。
 この映画は今までの物語の王道とおなじように、強敵がいて、それと渡り合うというものです。ですが、その渡り合う人物が、通常は物語視点となるはずですがこの映画は違う。物語視点(映画がどの視点から描写されるか)という点に関しては、あくまでも仔太郎なわけです。
 この映画が公開された2007年という年代を考えると、私が勝手に作り出した言葉ですが「傍観する主人公」という枠組みが適応できなくはない。2003年から発表されている『涼宮ハルヒの憂鬱』に代表されるように、主人公は専ら傍観、物語を見続けるだけで、戦っている人物は物語視点人物とは異なるということです。今までの物語は戦う人物の視点で物語が描かれることが多かったのですが、この十年、二十年ほどは、戦う人物の視点で描かれるということが少なくなってきていると私は分析しています。
 ですから、「主人公」という言葉自体がそれ以前の物語の構造で作られた言葉ですから、物語の構造が異なってきた現在ではそのまま使用することができません。それに、主人公は誰だと決めつけたところで、そんなに物語の解釈に有用であるとも思えないのです。物語の視点は、仔太郎ですが、専ら描写されるのは、「名無し」だということができるでしょう。
 この「名無し」ですが、まさしくその名前が示しているように、素性のわからない人物です。名前がないのだから、主人公になりえない。ところが、仔太郎という人物が「名無し」を見続けることによって、「名無し」は名無しではなく、一人の人物として描写されるのです。このことは、「名無し」と仔太郎が一端わかれる部分でも象徴的に表現されています。仔太郎はお寺で育っているので、読み書きができます。そして、坊主の特権として、名前をあげることができるのです。仔太郎は名無しに「名前が欲しくなったら自分のところへこい。名前を考えてやる」と述べます。この構図は、一人の個として存在しえない中途半端な存在である名無しを、きちんとした一つの個とすることができる仔太郎の視点で作品が進んでいくことと重なっていると私は思います。

時代設定
 時代は不明ですが、おおよその時代はわかります。というのは、赤い服をきた「唐土(もろこし)」と呼ばれる集団が、明国から来たということが作品内で語られるからです。
 明王朝が存在したのは、1368年から1644年。約300年間です。さらに舞台とされる日本らしき国では、終盤、赤池国の領主が時間稼ぎのために人質となっていますが、それをその領主の重臣であったはずの虎杖将藍(いたどり しょうげん)は簡単に殺します。それをみて、武装集団の羅狼(らろう)は、この国では中国の皇帝と違い、自分達の上にいる人物はそんなに重視されないといったことを口にします。このことから考えて、下剋上をすることがそんなに躊躇われなかった時代ということが憶測されますから、1600年に近い時代、1500年代あたりが舞台となっているのではないかと考えることができるでしょう。また、架空のお寺、万覚寺がたびたび映画のなかではその鳥瞰図のような描写がされますが、この伽藍の配置から何時代だと特定することができるかもしれません。この部分は私はよくわからないので、指摘だけにしておきます。

不老不死
 この作品のモチーフとなるのは、不老不死の薬。武装集団を組織した人物でもあり、こんかいの作品で描かれることの原因となるのは、白鸞(びゃくらん)と呼ばれる老人です。この老人は、皇帝に不老不死の薬を作る命を受けて、日本と思われる国にきて、百年に一度という少年を探します。この百年に一度生まれるという少年の血を込めて作れば不老不死の薬ができると考えていたそうですが、この部分がいかにもありそうなので、この作品は成功しているのです。
 ここであまりにも突拍子のないことが物語を動かす原因になってしまうと、現実感が無い、「らしくない」「ぽくない」ということになってしまいます。ですが、日本には、八尾比丘尼のお話があり、そして中国には、歴代の皇帝が不老不死の薬を探し求めていたという話を学校などでならって知っているものですから、この作品も違和感を覚えずに鑑賞することができるのです。
 もしかしたら、本当にありそうかもという、「らしさ」や「ぽさ」を表現できたため、この作品は高い評価を得ることができたのです。日本ぽい、武士の世界。侍の世界を描きつつ、そこに中国っぽい、不老不死の薬を組み合わせた。この重ね合わせが、らしさやぽさに力を与えているのです。

 現在の科学が発達した我々から見れば、そんな馬鹿なということになり、いくらなんでも不老不死の薬は、あの少年の血くらいでは作れそうにないと思います。しかし、この作品で登場する明の武装集団は、痛みを感じない薬を作ることに成功しており、現実的には麻薬か何かだと思われますが、なかなか説得力を持っています。

終わりに、ラストシーン
 ラストシーンは意味深長です。この作品で最も強い羅狼(らろう)との決戦を終えてぼろぼろになった「名無し」。その名無しをなんとか医者のいる村まで届けようというところでこの映画は終わります。背中に名無しをおぶり、馬にのってかける仔太郎。
 しかし、最後の場面では、名無しの顔からはどんどん表情がなくなっていき、死んだともとれるような描写になっています。しかし、生きているともとれる。仔太郎は最後のやりとりで、泣きそうな非常に複雑な顔をしますが、それはもう死ぬということがわかっていたからでしょうか。このラストシーンは死んだとも、死んでいないともとれるような、絶妙なさじ加減になっています。

 この映画は、アニメの強みである、「らしさ」「ぽさ」を上手くいかし、さらにアニメ=日本という認識を強めるために、武士の世界を描いています。同じく2007年に公開された武士を描いた『アフロサムライ』と同様、日本のアニメーションを世界のアニメファンに強く示したという点で、この映画はおそらく今後も語りつがれることとなるでしょう。

山脇由貴子『大人はウザい!』 感想とレビュー  「ウザい」という言葉をもう一度よく考えてみよう

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評価:5
はじめに
 (2010、ちくまプリマー新書)より。私がほとんど手放しで賛成できるのは、「ちくまプリマー」という新書。ちくま書房から出たものですが、プリマーとあるように、中高生が読者に想定されています。だからといて、決して内容が軽薄なわけではない。新書をばんばん書いているような研究者や有名な人が、できるだけ平易な文章でわかりやすく書いているのです。大人が読んでもまったく問題ありません。むしろ、大人が読んだうえで、是非これを子供たちに進めてあげられるようになるといいなと私は思っています。

「ウザい」ってなんだ
 さて、一口に「ウザい」といっても、そこには様々なうざいがあります。「最近の若者言葉は~」といったくくりでさまざまな解説や論評があるなかで、この本は本当に真摯にこの言葉について向き合った著作だと思います。私がいままで読んだ本のなかでは、こうした簡単な表現を使用することを通じて、彼等はお互いにアイデンティティを共有しているのだとか、こうした言語の後退化が、思考を弱体化させているとか、そのような大人からの目線でかかれたものしか読んできませんでした。この本は子供の視点から「ウザい」とはどういうことかを丁寧に読み取ったものです。
子どもたちの「ウザい」を読み解くことによって、子どもたちのことをより理解しすることができます。また我々大人の 反省する材料にもなります。この本はとてもよかったので、是非私の友人の教職をとっている人や親、大人に読んでほしいものです。もちろん、子どもにも是非読んでほしい。

「ウザい」大人たち
 子どもたちはまだ獲得した言語が圧倒的に少ない状態にあります。ましてや活字離れの現在において、自分の知らない言葉と触れ合う機会がめっきりへってしまっている。そのなかで、言葉という武器にも防具にもなるものを手に入れないまま中学、高校という場に進んでいくと、自分の感情をうまく表現できないということになります。そんな時に便利なのが、この万能な言葉「ウザい」です。これは私の勝手な解釈、考えですから、賛同できない場合は無視していただければかまいません。この「ウザい」という言葉は、漠然として、抽象的であるが故に有用なのです。なんでもとりあえず「ウザい」ということにしておけばいいからです。
 確かに、中高生が「ウザい」と使用する際には、単に門限が早いとか、お小遣いが少ないとか、授業がつまらないとか、無邪気な身勝手から出て来たものもあります。が、これは特に気にしなくてもいいでしょう。しかし、「ウザい」にはもっと重要な意味で使用されていることが多々あるのです。
 この本は、児童相談所で働いている著者のもとへ来た子供たちの体験を簡単にまとめたストーリーをいくつも提示しています。それぞれの「ウザい」は、同じ言葉であっても、その内容が全然違うのです。いくつか例を挙げて見ますが、例えば、友達の選択に口出しして来る親。友達を遊びに行くと言えば、その子はどんな子なのか、親は何をしているのか、どこに住んでいるのか、と質問攻め。なぜ親が子供の友人まで決めなければならないのでしょう。貧乏だったり、親が水商売しているからといって、どうしてそれだけでその子と付き合ってはいけないということになるのでしょう。しかし、そうした差別の意識をもった親というのは、いくらでもいるのです。それが、子どものことになると、子どもを守らなければならないということにばかり意識が集中して、自分が差別をしているということははっと忘れてしまう。
 他にも、茶髪であるだけで、付き合ってはいけない。大人はどうしても自分たちのルール、常識、社会という枠組みで子供たちを考えてしまいます。ですから、茶髪という社会に相容れない、反抗的な子というレッテルをあったこともないのに、あるいは話したこともないのに押し付けてしまうのです。
 子どもに自分のいうことを聞かせなければ絶対に気が済まない親。自分のようになれ、あるいは夫や妻のようにはなるな、といって勉強をやれ勉強をやれというだけの繰り返し。勝組にならなければならないとずっと言い続けたり。
正論は確かに正しいが、正論を振りかざしてずっと説教をしてくる人。います、というか、私がこのタイプの人間なので、本当に気を付けなければならないと思います。
 自分の非を認めようとしない大人。筆者はこう言っています。「大人は嘘をついていいのか。子どもには謝らなくていいのか。自分が間違ったこと、悪かったということを認めるのは、人間の基本だろう」まさしく至言。よく日本の教育は禁止を教え込むと言われます。あれをやってはだめ、これをやってはだめ。人様に迷惑をかけるな。あそこには行くな。こうなったらどうするんだ。
確かに、リスク管理という面では日本ほど優れている国はありませんから、確かにある程度の意味はあります。しかし、あまりにも禁止が多すぎると失敗したときの恐怖が大きくなり、何もできなくなってしまうのです。日本が斬新なものに恐怖を抱いたり、あるいは初めの一歩を踏み出せないのはこのためかもしれません。しかし、大事なのは、あれをするなこれをするなという禁止ではなく、もし失敗してしまったらどうするかということです。きちんと自分が失敗してしまったことを認める。謝る。そうしたことを教えなければならないと思います。

著者の重要な指摘
 著者は大事な指摘をします。いつも口うるさかったり、怒りをまき散らしたりしている人は、確かに「うざい」かもしれませんが、そうした嫌な人のことは、いずれ無関心になるか、流してしまうようになります。子どもが親や先生に「ウザい」と思う時は、そういう側面もあるかもしれませんが、それ以上に、「子どもの落胆や怒りや悲しみといった感情が実はたくさん含まれている」のではないかということです。本当は、自分の親だからこそ、あの先生だからこそ、決めつけたり、ただ叱ったりするのではなく、大人としてきちんとしていてほしい。それなのに、という思いがそこにはあるのではないかというのです。確かに、私たちが失望したり、絶望したりするのは、本来そうではないと思っていたからです。
 また、大人、特に教師は「こうあるべき」という思い込みが特に激しい(反対から見れば正義感のある人間ということになりますが)、のでどうしてもそれを子どもに押し付けてしまうのです。
 筆者の重要な指摘は、大人には大人の社会やルールがあるように、子どもには子どものルールや社会があると述べている点です。「いじめ」問題について、いくつかの例が挙げられています。筆者の結論は、「いじめ」について教師があまり勝手につっこんでいってはいけないというもの。最近のいじめはとくに陰湿で、昨日の友は明日も友とは限らないようなかなり不安定な状況でいじめる相手を変えたりと、いまだかつてないような状況にあります。そして、子どもたちのなかには、様々な暗黙のルール、ルールとまでもいえないような、雰囲気とでもいったようなものがあります。これを、教師がづかづかと入り込んできて、大人の正義をふりかざしてめちゃくちゃにすると、事態は余計に悪化することになるのです。
 では大人はどうすればいいのかというと、子どもが決してこれはやってほしくないと言うことは決してやらないことです。クラスのホームルームで問題にしたりしてもらっては、誰かがちくったということになり、余計にいじめはエスカレートします。ですから、自分や大人たちの勝手で考えるのではなくて、子どもたちの一緒にどのようにしていくか方法を探っていけというのです。ですから、素早い解決というのは難しい。大人は忙しいですし、いじめなんてものはすぐにでもなくなってほしいと思ってしまいますが、大人が介入することによって余計に悪化するということが往々にあるということを考えて、じっくりと行動しなければなりません。

 「ほめられる機会がない子どもは、どうすればほめられるのかを学習する機会がない。だからほめられるべき行動を獲得できない。そして叱られてばかりいる子供は、叱られる時しか大人から関心を向けてもらえないので、もっと関心を向けてもらいたいと思うと、さらに叱られる行動をとるしかなくなる」
 「掃除をしていたら「なんだ今日は珍しいな」ではなくて「お前が掃除してくれると助かるよ」」
 著者はこのような関係から、子どもは大人を信頼し、きちんとした人間に成長していくと言います。大人は子どもを、子どもとしてではなく、一人の人間として真摯に向かい合っていくことが大切です。子どもの秘密を勝手にばらしてしまったりするのはアウト。「お前」と呼ばれれば誰だって腹が立ちます。大人がそんな口を聞いていいのでしょうか。大人は自分の過ちを認めません。特に学校現場においては、教師はそれが生徒たちに馬鹿にされたととってよけい依怙地になる人もいます。
 そして、子どもは子どもたちなりに忙しいのです。それを省みず、勉強しろ、ニュースを見ろ、新聞を読めとこれではいけません。別に子供のころ社会情勢に詳しくなくても、そんなに問題なにのではないかというのが筆者の意見です。
 大人はまず何か子どもが言ってきたら、決して叱ってはいけないといいます。なぜなら、どうしようもない恐怖や感情をなんとかしようとして親に打ち明けたのですから。それを悪いことだからといっていきなり叱ってはいけないのです。まずは共感をしろといいます。共感して、そうだったのかと一緒に感じた後、だから、もう行ってはいけないよ、やってはいけないよという段になるのです。

終わりに
 今の中高生の現状はかなり悲惨な状況があると私は思います。そして、それは決してその他の世代の人間が、自分達の感覚で判断して批判したりしていいものではありません。ケータイと共に育ち、Twitter、LINE、プロフなどをコミュニケーションの一部としてきた世代の感覚とは決定的に違うからです。だから、やめろといったりするのは全くの検討違い。香山リカ氏は、様々な著書のなかで、ケータイやネットは彼らの居場所の一部になっていると述べています。身体の一部になってしまっているものを、それは危険が多すぎるからという理由で切り取るというのは、かなり暴力的なことです。そうした電子機器のことについてはまた別の機会に考えるとして、子どもたちが大人たちを「ウザい」という時、これをよく考えて、大人は大人としての行動をしなければならないと感じました。

押井守監督 『アヴァロン』 感想とレビュー 押井守監督の最高傑作 私たちの認識をめぐって

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はじめに
 「『アヴァロン』(Avalon)は、2001年公開の日本映画。おもにアニメ作品の監督を務める押井守が実写に挑んだ作品であり、彼の劇場用の実写映画作品としては4作目に当た(Wikipediaより)」ります。
 押井守監督の作品をあまり見ていないなと思っていたので、とりあえず手に取ったのがこの作品。この作品は本当にすごい。ありきたりなことしか言えませんが、これは是非この記事を読んでくださった方には見ていただきたい作品です。

日本映画?
 鬼才とか、異才とか言われた押井守監督ですが、そのように言われるのもうなづけます。彼は常にそれまでの常識にとらわれずに、自分の表現したいものを表現しているように感じられます。この映画は、ちょうどテレビアニメーションの仕事があまりうまくいっていない時に、自分の得意なスタイルでやりたいことを制作した映画ということもあり、彼は自分の作品で一番この作品を気に入っているようです。私も、今まで見た押井守作品のなかではこれが一番好きです。

 「日本ヘラルド映画等、日本の会社が製作しているため日本映画に分類されるが、すべてポーランド国内で撮影されている。このため、言語はポーランド語が用いられ、出演者も総てポーランド人の役者が配役され、日本人の役者は登場していない。作中の銃火器や軍用車輌なども一部を除いてポーランド陸軍が運用する本物である(エキストラとしてポーランド陸軍兵士が多数出演している)」

 ここで引用したのは、この映画の不思議さです。いかに彼が型にはまらない人間であるかがわかるでしょう。そのため、型にはめなければならないDVD売り場やレンタル屋では、どこに分類したらいいのかわからないということまで生じます。
 一応日本の映画です。日本の映画会社の出資で、日本人である押井守が監督を務めたのですから。しかし、描かれているのは、ポーランド人で、場所もポーランド。こうなると、何が日本の映画で、何がポーランドの映画なのかよくわからなくなってきます。実際これからは、どんどんこうした制作手法が登場してくるでしょうから、著作権さえもあやふやになってくると私は思っています。そして、それは止めようのないものですから、ダメだ、やめろと声を上げたところであまり意味はない。そのような状況でも製作者たちが不利な状況に陥らない様にしていくほかないでしょう。

物語内容
 物語は、近未来において「アヴァロン」というゲームが熱狂的な指示を得ている世界を舞台としています。このゲームは、『マトリックス』のように、極めて現実と仮想空間とが密接につながったもので、ある特定の場所にいくと、現実世界に戻ってこられなくなるということが言われています。『マトリックス』の場合は、仮想空間のなかで死ねば、現実でも即死亡ということになりましたが、この作品では、ゲーム内での死が即死に繋がるということではありません。しかし、主人公のアッシュがゲームに失敗しそうになってリセットをした後、現実世界で嘔吐していたところからも、かなり心身ともにダメージを受けることがわかります。
 『マトリックス』の一歩手前の世界といったところでしょう。

 そして、この作品においては、このゲームは多くの人々の現実に変わる「リアル」になっているのです。仕事もする必要はありません。このゲームで稼いだポイントや経験値は現実世界で換金できます。そのため、若い世代の人々にとっては、このゲームが「ゲーム」ではなく、「リアル」なのです。
 しかし、そうするとズルをしようとする人間はどこにでも出てくるもので、当然「ゲーム」なのですから、非合法なことをすれば経験値を沢山稼げたり、ポイントを沢山稼げたりできることになるのです。

 かつて伝説と呼ばれた「ウィザード」というパーティに属していたアッシュ。彼女は、かつての仲間に偶然出会い、「ウィザード」というパーティのリーダーであったマーフィーが、ゴーストといわれる存在と出会い、そのまま未帰還者となったことを聞きます。病院でマーフィー訪問する彼女。マーフィーは植物人間になっているのです。ゲームから帰還できなくなると、意識が体に戻らないままになってしまうということなのでしょう。
 ただ、この映画では、最後に仮想空間に残っていたマーフィーと対決しますが、そこで死んだ彼は、果たして自分の身体に戻ることができるのでしょうか。病院にいた彼は、もうすでにゲームとの接続をしていないわけです。ですから、彼の「意志」か「認識」かなんだかよくわかりませんが、それがたとえゲームのなかに存在していたとしても、そこで死んでしまったら、戻るべき体がないわけですから、本当に死んでしまうことになってしまうのではないでしょうか。
こうした仮想空間でのダメージが現実でのダメージにもなるというのは、『マトリックス』で全世界的に広まった考えですが、SFの世界ではすでに書かれていたことです。

表現について
 「この作品の公開に際して、押井は「すべての映画はアニメである」という持論を語った。実写として撮影しても、編集や後処理によってコントロールすれば、それはもうアニメである。デジタルでは特にそれが顕著である、と」
Wikipediaからの引用ですが、ここから押井守監督の映像についてのスタンスが伺えます。
 私はこのDVDをビデオレンタル屋で借りたのですが、アニメのカテゴリに入っていました。ところが、この作品にアニメーションは使用されていません。
 私は何の情報もないまま作品を見るようにいつもしているのですが、この映画を見た時に、最初実写なのか、CGなのかよくわかりませんでした。そのどちらであるとも言えるし、どちらでないとも言えるのです。つまり、実写で撮ったものをCGで加工する。とこれは、実写だとも、CGだとも言えるし、言えない。
 押井監督が前衛的なのは、今迄便宜上されてきたカテゴリという枠組みを意識していないからです。
 全体の印象としては、セピア調で、ずっとゲームのなかにいるような雰囲気。これが、最後のクラスリアルにはいると、鮮やかな色彩で表現されるのには驚きです。この作品は、アッシュの視点に近い視点で物語が描かれますが、そうすると、普段彼女の生活、世界は、セピア調で色彩に欠けているのです。ところが、それがクラスリアルになると、とても鮮やかになる。ゲームのなかの「リアル」が本当の「リアル」よりも鮮やかで魅力的なのです。


認識について
 「また、押井は『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』『機動警察パトレイバー』『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』で語ってきたテーマ、「現実ではなくても、それがその人にとって気持ち良いものならば、それはその人にとっては現実ではないのか?」というテーマに沿って製作したことも明かしている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AD%E3%83%B3_(%E6%98%A0%E7%94%BB)(ウィキペディア)

 この作品の主題は認識についてでしょう。私たちは何を認識しているのかということに深く切り込んだ作品です。またその設定が『マトリックス』に似ていることから、この二つの作品は比較されるのです。
 いくつかこの作品を読み解くためのツールを紹介しましょう。
まずは、「ロストワールドもの」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%82%E3%81%AE
 「ファンタジーまたはサイエンス・フィクションのジャンルの1つで、時間的・場所的に隔絶された新たな世界を発見することをプロット上の要とする。ヴィクトリア朝後期の騎士道物語のサブジャンルとして始まり、今も人気が続いている」
 Wikipediaの定義によれば、この物語の形態は中世の騎士物語から端を発しているとあります。そして、その代表として挙げられているのが、アーサー王の物語。この『アヴァロン』でも、アーサー王の物語が作品内に登場し、「アヴァロン」というゲームのモチーフになっていることは言うまでもないことです。とすると、やはりこの作品も、現実からは離れた、時間的・場所的に隔絶された「クラスリアル」のさらなる向こう側、「アヴァロン」という世界を発見するという構図において、「ロストワールドもの」ということができるでしょう。
 面白いのは、時間的・場所的に隔絶された世界が、かつては古代文明や黄金卿を目指したのに対して、現代では仮想空間にそれを求めたということです。古代文明や黄金卿だとまだ物理的な感じがする。それに対して、現代の理想郷は物理的な場所ではなくて、認識のなか、意識のなかに求められるのです。

 さて、他にもこの作品を読み解くためのツールを紹介しましょう。
 胡蝶の夢、水槽の脳、カルテジアン劇場、無限後退です。
 胡蝶の夢が有名ですから、それから説明しましょう。胡蝶の夢というのは荘子の有名な説話です。胡蝶とは蝶々のこと。蝶々としてひらひら飛んでいて、はっと目を覚ますと自分は人間であることに気が付きます。しかし、蝶々であったときの記憶はとてもリアルで、夢とは思えない。とすると、本当は自分は蝶々で、今の人間の姿をしているのは、蝶々が見ている夢なのではないかという話です。荘子は、我々の認識、知には確たるものがないのだから、自分が蝶々か人間かはわからないと言います。そして、どちらも正しいとも正しくないとも言えるし、言えない。いずれも肯定して生きていくことが大切だと説くのです。
 さすがに荘子ですから、どのようにしたらいいのかというところまで教えてくれます。
 が、西洋の考えではそこまでは教えてくれない。
 水槽の脳は、バトナムという哲学者が1982年に提示した考えですが、まさしくマトリックスの世界。知覚を統合する場所は脳です。とすると、確かに私たちは今目の前にいろいろなものを見たり触ったししているように感じて生きていますが、実はそれは単なる脳に与えられた刺激なのではないかということです。実際は、脳が死なないように水槽のなかにあって、そこに様々な電極を流しこまれているだけ。その脳は電流の刺激によって、今何かをさわったとか、見たとか感じているだけで、本当は何も見ていないというものです。考えるだけでも恐ろしいですね。
 しかし、この作品はこの考えの影響もあるのです。バーチャルな世界での体験というのは、実体験ではない。まだスクリーンに提示されたものを見ているだけならいいが、この「アヴァロン」においては、ヘルメットをかぶっていることからも、水槽の脳に近い状態でゲームをしていることがわかります。

 カルテジアン劇場も水槽の脳と同じくらい有名な考え方。私たちがものごとを認識できるのは、自分の頭の中に、小さな小人が入っていて、その小人が脳内に映し出される様々な情報を見ているのではないかというものです。人間が乗り込むタイプのロボットをイメージしたらわかりやすいでしょうか。ガンダムなんかは、パイロットが乗り込んで操縦するわけです。私たちはガンダムのパイロットではなくて、ガンダムそのもの。自分は自分だと思っているけれども、実は自分の脳内にいる小さな小人が自分を動かしているのではないかといった考えです。
 しかしこれには、ホムンクルスの誤謬という話がついてきて、ではその小人はどうして自分を制御しているのだという問題が生じる。すると、その小人の頭のなかにも小人がいて、その小人のなかにも小人が・・・・という無限後退に陥るわけです。

 このいずれにしても、自分の認識が本当のものであるのか?という疑問を提示するものです。
 『マトリックス』はその認識を見事に表現したためすごかったのです。自分たちが過ごしていた世界は、ただの脳内の幻想にすぎなかった。現実は、機械に支配された世界だったというのです。
 『アヴァロン』は出発が逆。一応現実とされる世界から物語は始まります。ゲームのなかにどんどん入っていくという構図です。しかし、現実とされていた世界があのようにセピア色で、クラスリアルと呼ばれた場所が色彩豊かに描写されると、どうしても、クラスリアルの方が、本当の現実なのではないかと疑い始めます。今までずっとゲームのなかにいて、実はそこからやっと現実に出て来たのではないか、という解釈も成り立つのです。
 もうこうなると、ホムンクルスの誤謬のように、何が本当の認識なのかはわかりません。
 荘子のように、すべてを受け入れろということになるのでしょうか。押井監督自身は、先に引用したように、「現実ではなくても、それがその人にとって気持ち良いものならば、それはその人にとっては現実ではないのか?」ということになるでしょう。たとえその現実が本当の現実でなくても、そこにいることが幸せであれば、それはその人にとっての現実であるということになるのです。

終わりに
 この作品は認識の問題に深く切り込んでいる作品で、非常に秀逸な作品だと私は思います。
 しかし、何も夢か現実か、現実か、バーチャルかといった小さな議論に収まるものではありません。私たちにとっての現実というのは、様々あるのです。例えば西洋に行けば、キリスト教の考えが現実だ。とすると、原理主義といった聖書を本当に信じている人にとっては、人間は進化したものではなくて、神様がつくったものであるということになる。科学的にみたら、これは間違いだということになる。しかし、どちらも正しいのです。何を信じるかによって世界は変わります。
 私たちはただ、今偶然に科学を信じているのです。かつては宗教だった。それが科学になっただけです。想定するのは難しいですが、科学にかわる新しい何かが生まれて、それを多くの人が信じるようになれば、科学もまたナンセンスなものだとして批判される日が来るかもしれないのです。
 そして、私たちはしばしば、宗教を信じている人を非科学的だといって非難しますが、それはバーチャルを現実と思っている人を、それはバーチャルだからといって、せっかくの気持ちのいい、倖せになれるところから、不幸せになるところに引きずり出しているということになるのです。押井監督は、信じているものを破壊するのはどうなのだろうかという点についてまで言及しているように思います。


 映画の愉しみは、このようにどう映画を観るか(それはただ単に映像という光を見るだけでなく、そこに何を見出すか)ということになります。でも、もちろんそれだけではない。
 押井監督自身、この映画は音楽としても成功したと述べています。私も、この映画の音楽にはとても感動した。
川井憲次氏は天才ですね。
ほこ×たてで流れていた音楽が、この映画の音楽だったとは知りませんでした。



映画『夜のとばりの物語』 感想とレビュー 表現としての映像 影絵という技法

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はじめに
 2010年に入ってから、特にアニメーションやCGを使用した素晴らしい作品がいくつも発表されています。そのなかでも、2012年に発表されたミッシェル・オスロ監督の『夜のとばりの物語』は特に異彩を放っていました。映画館に行こうと思いつつ行けなかったのですが、先日DVDで鑑賞しました。
 予想通り、すごいと思うところもあれば、CMのワナで少しイメージしていた点と異なるところもあった。映像表現をメインに今回は論じていきます。

作品概説
 まず、この作品が一体何なのかというところから説明します。ひどくややこしかったのが、海外の映画作品ですから、日本の映画館で上映するにはどこの出資で行うかということになります。そして、良くも悪くも、ビッグネームのジブリからこの映画は支援されて映画館で上映することになったのです。ところが、普通の映画ならいざしらず、「ジブリ」という名前が出てきてしまったために、映画やアニメ映画に詳しくない人々にとっては、この映画もまたスタジオジブリ作品なのか?というあらぬ誤解を招きました。私も最初よくわかりませんでした。ただのスポンサーということであって、この映画の製作にスタジオジブリは一切関与していません。
 ただ、ジブリという名前がついたこともあって、劇場に足を運んだ人は多かったのではないでしょうか。ビッグネームは功罪両方を引き起こしますから注意しなければなりません。

 CMに限って言えば、これまら意味深長なCMを打ったため、ずいぶん恐ろしそうな雰囲気の作品だなと鑑賞する前は思いました。
「夜のとばりが下りる頃、愛はその深さを試される。 どれぐらい私が好き?」
 というのがキャッチコピーですが、女性の恐ろしさのようなものが垣間見られます。他にもタイトルからして、「夜のとばり」なんてあまりいいイメージを持たない言葉が出てくる。日本的なイメージだと、夜のとばりが降りて来た後は、魑魅魍魎が跋扈しそうなイメージです。人間ならざるものが出てきそうです。
 本編を見て見ますと、そんなにおそろしいものではない。もちろん、ところどころに怖い話はありますが、全体としてはもっと牧歌的な、民話的な優しい雰囲気に包まれていました。

表現として映像
 作品はいずれも短編。全体では84分の長さです。そのなかに6つの物語があるわけですから、ひとつ10分強。二時間ほどの映画が小説であるとすれば、この映画はまるで芥川龍之介の短編を読んでいるような感じでした。DVDに収録されていた監督のインタビューを見ると、より作品の理解が深まりますが、監督はそのなかで、彼が大きな長い物語ではなくて、小さくて短い物語を選ぶのには、短編には短編の良さがあるからだといいます。彼は、物語の長さから、どのように表現するかといった手法まで、ありとあらゆることを計算して作品を制作しているのです。
 6つある物語ですが、いずれも独立した短編。ですから、そのままいきなり入ってもいいわけです。しかし、そうしない。
 「夜な夜な好奇心旺盛な少年と少女が、古い映画館で映写技師と共に話を紡ぎ、6つの世界の主人公となる」
と、映画の紹介には公式サイトで書かれていますが、この映画は、メタフィクションを取り扱っているのです。どこかの映画館で少年と少女と映画技師がいる。この三人が、映写機を通して、どのような物語を演じて見ようかと相談します。ここは実に不思議で、映写をするのですから古い感じがしますが、同時に自分達の衣装や設定をするのには最新のパソコンのようなものが使われたりしていて、アンティークとテクノロジーが融合したような感じがします。
 私はここからも、すでにオスロ監督のユーモアを感じます。ユーモアというのは単に面白さとかそういうことではなくて、何と何をくっつけるのかとか、何に関連性を持たせるのかといったことです。


そして何といっても、影絵という手法。
 映画なり小説なり、作品を読み解く際には、「何が描かれているのか」と同時に「どのように描いているか」ということが重要になります。この作品は、しばしば物語内容だけに終始してしまう作品鑑賞を一端ストップさせ、どのように描いているかという表現手法を考えさせる素晴らしいテクストです。
 まずそもそも影絵という手法を選択したところがすごい。今の映画はコンピュータグラフィックス、CGが発達したために、表現はいかようにでもできるようになりました。ありもしないことが現実のように描ける。スターウォーズしかし、ロードオブザリングしかり。あんな世界はあるはずはありませんが、まるで現実のように表現できてしまいます。もちろんお金があればということになりますが。しかし、オスロ監督はその方向で表現をしようとは思わなかった。彼はインタビューでも述べていますが、影絵のシンプルさの力強さに惹かれたといいます。
 CG過多の現在の映像表現において、あえてかなり原初的な影絵を使用するということは、それ自体かなりセンセーションですし、またCG過多の表現に対する批評にもなっています。
公式サイトから少し引用しましょう。

 「オスロ監督は、自らの思い描いた作品の世界を実現するため、「アズールとアスマール」では3DCG の手法を取り入れ、本作では立体3D という新たな技術を前向きに取り入れています。影絵なのに3D と思われるかもしれませんが、オスロ監督の作品の世界観を3D 技術によって構築することは、彼がアニメーション作家として活動し始めた頃、紙と鋏を使って作っていた影絵の紙芝居の世界を、見事に劇場のスクリーン上に甦らせることを可能にしているのです」

 私は最初に、この映画にはそれぞれに導入があると述べました。映画館をまず映し、そこから物語の世界に入っていく。なので、私たち観客が見るのは、実際には私たちが見ている三人が演じている世界、メタフィクションなのです。
 そして、この映画館の場面においてはアンティークとテクノロジーが融合しているといいました。これは、映像のなかにも描かれていることですが、制作手法を見ると、まさしく監督自身がアンティークとテクノロジーの融合をしていることがわかります。影絵という、古典的な手法を使用しつつも、最新のテクノロジーを使用して、融合させている。新しいものを追い求めるだけの新しいもの好きでもなく、古いものに固執する懐古主義でもなく、オスロ監督は非常に柔和な思考の持ち主で、いいものはなんでもどんどん取り込んでしまうのです。ですから、ある意味で言えば日本人らしい。彼は日本のことがとても好きだそうで、この映画の上映会には、他の国でももちろん上映されているなか、特別に来日しています。他にも、彼は2011年に日本を襲った震災に心を痛めて、この映画が少しでもそうした人を癒せればと言っています。アニメーションにおいては、日本は最前線に立っていますから、当然オスロ監督も日本のアニメや文化を勉強しているはずです。そのため、どこか彼には日本らしさというものが感じられるようにも、私は思います。

オリエンタリズム批判
 手法は影絵という古典的な、古臭いものを使用していますが、しかし映像は鮮やかです。それは、先にもいったCGの使用もありますが、なんといっても色の使い方が絶妙なのだと思います。影絵ですから、当然人物たちは黒。目など一部分は白が使用されますが、基本的には黒です。しかし、この映画が観客を飽きさせないのは、背景がとても美しい。
主人公たちを黒というシンプルにすることによって、背景をかなり強めることができます。これが、どちらも色があることになるとごちゃごちゃしてしまう。背景はかなり強い原色が使用されます。青、赤、黄色、そして、それぞれを組み合わせてとてもエキゾイックな雰囲気を演出しているのです。
 ひとつの批評としては、6つの物語のうちの多くは東洋的であるということです。エジプトっぽい作品もいくつかありましたが、彼はこころのどこかで、西洋的な騎士物語よりも、オリエンタルな作風を好んだようです。私たちも、どちらかと言えば、日本らしい古い話よりも、西洋的な物語に興味を持つように、西洋的な環境で育った人にとっては、それ以外の情緒的な作品が好きなのです。「隣の芝生は青い」ではないですが、傾向として西洋っぽくはない物語が多いです。

 監督のインタビューで一番私が感銘を受けたのは、影絵という手法について、監督が考えていたこと。やはりこの手法を使用するということは、それだけ研究したということなのでしょうが、びっくりしました。彼が言うのはこうです。登場人物たちを影絵で黒にしてしまうと、肌の色が問題にならなくなるということ。これはびっくりしました。確かに、私はこの映画を見ている時に、この人達の肌は何色なのかなと思いもしませんでした。監督は、黒にすることによって敢えて刺激して、イメージさせることもできると言っています。
 これは鮮やかな手法です。肌の色で差別もしなければ、観客にイメージを喚起させることもできる。想像力豊かでない私は肌の色を想像するには至りませんでしたが、子供たちが見たらきっとさらに別な映画として映ることでしょう。
描かれている物語はオリエンタルチックなものが多いですが、しかし、肌の色がわからないため、絶対的な答えはありません。観客の想像によって、自分の近くで起きた物語ととってもいいのです。

おわりに
 夜のとばりの物語は2012年に公開されました。そしてその二作品目である、『夜のとばりの物語 ―醒めない夢―』は去年2013年の公開です。どちらもすでに劇場上映は終わり、DVDがレンタルできます。
 私はせっかく、スクリーンに映した映像を見ていると言う作品内の設定を活かして、この映画をスクリーンで観たかったものだとつくづく残念に思います。また続編があるようでしたら、是非劇場で観たいものです。

安野光雅/藤原正彦 『世にも美しい日本語入門』 感想とレビュー こういう対談本ってどうなんだろう

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はじめに
 ちくまプリマー新書 2006 評価:1(五段階評価)二度と読みたくない。他人にも薦められない。
 私は国文学を専攻としていますので、日本語入門みたいなタイトルが書いてある本は一応目を通しています。私が信頼するちくまプリマー文庫に、この手の本があったので、意気揚々と読み始めたのですが、まあ酷い。私は考えました。一応私は自分が学んできたことを通じて、評価活動をしつづけているけれども、あまり悪い作品には触れてこなかった。良い作品を紹介するだけでそれなりに満足はしていましたし、わざわざ声をあげてこれは悪いと批判することもないのではないかなと。しかし、こういう本をやはり出してはいけません。この批評がよりよい本を生み出していくための何かしらの力になればと思い、願いながら書きます。ですから、安野さん、藤原さん、どうか怒らないでください。

対談本ってどうだろう
 そもそも前提として、私は対談をただ文字に起こしただけの本というのは、本としてどうなのだろうかということがあります。やはり、書き言葉と話し言葉は違うのです。どちらがいいとかそういう問題ではなくて、本ではやはり書き言葉の方が合う。話し言葉をそのまま書き起こして、そのまま読めば、きっと恐ろしくつまらないものが出来るでしょう。それに、会話中の言葉をそのまま書き起こすと、意外と気が付かないものですが、かなり論理的にも矛盾があったり、素っ頓狂な飛躍があったりする。話していると全くそういうことには気が付かず、ずいぶん難しく話しているなと自分では思っていてもです。
 もちろん、対話を一度文字に起こしてから、編集が入るわけですが、しかしいくら編集がはいったところで、やはり最初から意識して書かれたものではありませんから、どうしても、という部分がある。
 それに、この出版業界が不況な状況で、更に質の悪い本を乱発するということにもなりかねない。こういう対談の本というのは、ある程度有名な人がやるんです。そうでなければ売れませんからね。しかし、偉くなったら対談しただけで本を出せるというのは、実際どうなのでしょうか。世の中には埋もれている良い文章を書く人間が沢山います。この程度の内容の本が出版できるくらいであれば、そうしたまだ埋もれているいい人を探した方がいいのではないでしょうか。この状況からも、現在の日本の出版業界が、質ではなくて、売れる、金になる方向に動いていることがわかるでしょう。しかし、そうすれば余計に質が落ちる。すると、客も遠のくということで、悪循環になっているのです。しばらくは売れなくて大変な時期が続くかもしれませんが、やはり質の方向にシフトチェンジした方がいいだろうと私は思っています。

タイトル詐欺
 しかも、私が今回遺憾に思ったのは、ちくまプリマー新書という、中高生が読む新書でこの本を出してしまったことです。まだ他の新書で出されたのなら私もぐっと堪えました。しかし、だ。いい本を読ませてあげなければならない子供たちにこの本はいけません。
 そもそも何が「世にも美しい日本語入門」なのでしょうか。まず、この本の最大の問題は、タイトルにある「日本語入門」にまったくなっていない点です。私はこの本から、日本語ってこういうものだったのかという新しい知識は何一つ得られませんでした。ただの、老人が自分たちが読んできた本の自慢大会をしているようにしか見えませんでした。そして、何が「世にも美しい」のでしょうか。対談者の1人である、藤原正彦氏は、小川洋子氏と共に、「世にも美しい数学入門」という本を出していますが、これもどうなのでしょう。この本を読んだ限りにおいては、こちらの本を手に取ろうという気にもなりません。何が美しいのか。私はこの本を読んでいて、日本語って美しいなあとも思わなかった。まだ、リンボウ先生の『日本語の磨き方』の方がよかった。問題大ありの本です。

オールオアナッシング
 ここまでかなり厳しく批判しましたが、しかし、全体が悪いからといって、部分まで悪いのかというとそうではない。しばしば、私たちは西洋から入ってきた思想に毒されて、オールオアナッシングでものごとを考えがちですが、それではいけません。アリかナシかではなくて、ここはアリ、ここはナシという風な視点がこれから必要になります。そうでないと、これからの世の中生きていくにはかなり辛いことになると私は思います。
 例えば、何かに失敗する。就活とか、あるいは職場でとか。そうすると、オールオアナッシングの人は、自分の全人格が否定されたと思ってしまうのです。しかし、そうではない。就活に失敗したのは、それはいくらかは本人に責任があるかもしれませんが、しかし、それは本人すべての責任ではない。しかも、それはごく一面的なものでしかない。具体的に言えば、面接力が足りなかったとか、勉強がたりなかったとか。その人が持っている趣味や、知識、普段はとても優しくて思いやりがあったり、親の面倒をよくみたり、といったそういう部分はまったくもって、いつまでも素晴らしく、否定されるべきものではありません。職場でもそう。職場で失敗したからといって、その人すべてが否定されたわけではない。仕事なんていうものは、生きるためのツールにしかすぎません。道具の取り扱いで失敗したからといって、それまでの人生が否定されることもない。だから、ここは確かに悪かった。それは認めよう。しかし、別にそれだからといって、他の部分が悪いとは限らない、こういう柔軟な思考を持ってもらいたいなと私は思います。

評価できる点
 この指摘は重要です。「由々しき問題は、若者が美しい日本語、すなわち文学を読まなくなったことである」これはその通りだ。しかし、往々にして、こういう年配の人たちが「若者は~」という批評をしますが、現在では、そうした他世代(多くは上から下)への批評というのは、あまり意味がないことだと逆に批判されるようになってきました。
 価値というものが激変しているなかで、何十年も前の自分達の価値の押し付けにすぎないのではないかということです。私も老人が「若者は~」と言っているのは、何か違うよなあといつも思っています。が、この本を読まないという点に関しては、私もそう思う。特に美しい日本語、文学を読まないというのは、やはりいけない。私はそう思ったので、できるだけ周りの人や、兄弟に本を読むように努力しているのですが、これがなかなかうまく行かない。所詮人間は、人のいうことなんて聞かないものです。私もそうです。これをやってごらんよと言われたって、やらない。だから、そうした態度を改める必要も感じつつ、難しいものがあります。

 藤原正彦先生は、専門は数学のはずですが、大学では読書ゼミというのを運営しているそうです。そこでは、彼が選んだ岩波文庫の本を一週間に一冊のペースで読む。そのゼミは定員20名で、参加条件は、一週間に一冊の本を読む根性があることと、その本を買う財力があることだそうです。これはおもしろいですね。とてもいいことだと思います。
 私も大分本を読むのに慣れてきましたので、年間100冊以上は軽く読むようになりました。平均すると一週間に2冊ちょっとということになります。しかし、読書週間が身に付くまではやはりつらい。ましてや、本を読まないで育った今の若者にとってはかなりつらいことでしょう。しかし、どうしたってやはり本だけは読まなければなりません。
面白い例が出ていました。翌日に特攻に行くという人が、その前日にニーチェや万葉集を読んでいたというのです。さらにこんな指摘もしてあります。明治時代、大正時代は遅れた時代であって、今の自分達が一番賢いと、若者は思っているそうです。確かにその嫌いはあるかもしれません。しかし、この読書ゼミを通して、昔の人たちがいかに進んでいたのかを知ることによって、自分達が相対化され、何も知っていないではないかということになるのだと言います。ですから、読書の一番効果的に目に現れるのは、自分が相対化されるということだと私は思います。自分だけで考えていると、自家撞着になるか、自分だけの傲慢な考えになってしまう。風通しの意味も込めて、本に残された考えと相対することによって、自分を相対化していきたいものです。
何を読んでいるのか、リストがあります。
 新渡戸稲造『武士道』、内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』、岡倉天心『茶の本』、鈴木大拙『日本的霊性』、山川菊栄『武家の女性』、『きけ わだつみのこえ』、宮本常一『忘れられた日本人』、無着成恭『山びこ学校』
わざわざ藤原ゼミに入らなくても、自分で読んで勉強することはできます。ここで、この本を読んでみようと思うか、思わないかが、人間を大きく変えていくのでしょう。

漢字学習
 また、この指摘も素晴らしい。
 漢字学習についてですが、現在の学年別の漢字学習というのは、ほぼ単に画数の多い少ないで分かれているようです。「「目、耳、口」は一年で教えるのに、「鼻」は三年です。「夕」は一年で「朝」は二年、という具合」。確かにこれはおかしい。目、耳、口というようにパーツで覚えさせるよりも、せっかくなら顔というくくりで覚えさせたほうがいい。それなら、鼻を一緒に入れたり、頭、顔も一緒に覚えさせた方がいいかもしれません。そして往々にして、子供というのは大人が思っているほど、できなくない。難しい漢字を幼稚園でどんどん読んでいるというような子がたまにテレビに出ます。興味があれば、なんでも簡単に吸収してしまうのです。画数で大人が勝手に切り分けるより、有機的な関連性を重視して、顔のパーツは一年で教えたって、おそらく問題はないでしょう。

歌について
 他にも歌について指摘があります。ほぼ、昔を懐かしんで、唱歌をただ書き連ねただけの文章にはなっていますが、しかし、昔は歌で溢れていたのに、今は歌が聞こえないと言います。なるほど、そうかなとも思います。小学生は唄って帰ったものでした。しかし、現在ではどうでしょう。小学生たちが唄って帰っているところは、なかなか見られません。田舎にいけばまだあるかもしれませんが、私の近所の学校の子たちは唄っているようには見えません。
 しかし、歌が消えたかといえば、そうではない。むしろ、歌はかなりというか極めて深刻なほど増えているのです。渋谷に行っても、新宿へ行っても、少し人の多いところに行けば、音の洪水。私はいつもあまりにも音が入ってきて困るので、イアホンをしています。それほどうるさい。昔はきっと今よりは静かだったでしょう。ですから、子供たちは歌を唄えた。しかし、今は歌というよりも雑音が多いため、子供たちが歌を奪われてしまったということになっているのかもしれません。
 また、教育の現場に限って言えば、唱歌がどんどん削られて、新しい音楽、ビートルズ(すでにこれも古典となってしまいましたが)や、最近の歌手の曲がはいるようになってきています。それももちろんいいですが、やはり昔の唱歌というのが無くなっていくのは、若い私としても忍びないものがあります。どうしたらいいのでしょうか。唱歌も残して、現代音楽も残すというわけにはいきません。音楽の授業を増やすわけにもいきませんし、難しい問題です。

終わりに
 まあ、しかし、本当にこの本は本としてひどいなと思います。このような本に高い金を出す必要がまったく感じられません。私としては買う必要はないと思いますが、しかし、それを確かめて、批評するためには読んでみる必要があるかもしれません。

藤原和博 「ビミョーな未来」をどう生きるか 感想とレビュー 仕事の選択肢をみつける

bimyounamirai (1)


はじめに
ちくまプリマー新書 2006 評価:4(5段階評価)
 ポストモダンの時代が到来して、様々な価値観が解体されてきました。ポストモダンについて考えようと、その周辺について書かれてありそうな本をいくつも読んでいたので、この本もきっとそうした価値崩壊の時代にどのように生きたらよいのかという、一つの指針になっているのではないかと思って買って読んでみた次第です。
 結論から言えば、ポストモダンについて書いてあったとも言えるし、書いてなかったとも言えます。
 この本で書かれていたのは、主に中学生に向けて、中学生がこれからどのような職業観を持ったらいいのかということ。それだったら、もう少しタイトルをその内容に近づけてほしかったと言うのが、私の感想ですが、しかし役には立ちました。これから、本書で書かれてあった内容を引用し、考えを深めてみましょう。

作品概説
 この筆者、藤原和博という人は結構有名です。何で有名なのかというと、杉並区和田中学校で初めて、民間から採用されて校長先生になったということで有名な方です。そして、もともとこの人はリクルート社に勤めていた経験があり、本書でもそこで得た知識、経験をもとに書かれています。
 この本が書かれたのは、藤原氏が和田中学の校長をしていた際のこと。本書の冒頭では、他の校長先生は、「校長先生のおはなし」の時に季節のあいさつだったり、様々な訓戒を述べたりするかもしれないが、私は違う。と述べ、氏はできるだけ生徒の役に立つような、職業に対しての知識を教えるのだと述べています。
 彼がこの本で徹底して貫いているのは、この生きづらい社会となった現代においてどのように生きるのか、ということ。そして、彼の言う生きるというのは、仕事をするということです。これといった価値が解体されてしまったポストモダンの現代、どのように仕事を選んだらいいのでしょうか。この本はそのことをついて考えるのに最適です。
この本の中には、一度もポストモダンという言葉は出てきませんが、ポストモダンが引き起こした現象については記されています。例えば、地域社会の関係が無くなったとか、そういうことです。そして、本書でも、それまでの価値を一度疑って、新しい価値を提示してみせています。
 例えば、「一時間目(各章を授業にみたてて、何時間目と記されている)」では、「人気の会社にもぐり込むのはカッコいいか」と疑問を立てたうえで、論証しています。もし、海外に行くこと、旅行が好きなことを趣味としている人が、それを仕事でもしたいと思って、旅行会社や航空会社に入るとする。しかし、それだけがその趣味をかなえるための手段なのか?と疑問を提示します。実は、よく考えたら、それ以外にも沢山の方法がある。その実例をいくつか出して、説明が続きます。ここでは割愛します。

仕事の選択
 この本で最も重要な指摘だと思ったのは、次の部分。
 「自分のいまの学力レベルや大学や専門学校のレベルなら、このへんの会社がつり合うかなってことで就職先が決まるとしたら、なんか、入試のとき「偏差値」で学校を決めるのと、おんなじことをしていることになるよね。これ、なんかヘンだなあって、思わない?」
彼は他にも、
 「「ブルーカラー」と言うのは、工場の工員さんや職人さんたちの多くが着ている青い作業着にちなんでの呼び名です。当時は「ホワイトカラー」のほうが、油や汗に汚れることのないキレイな仕事だとイメージされていたわけです。いまでは、その「ホワイトカラー」も、コンッピュータというマシンと格闘したり、お客さんを開拓するために汗を流さなければならない大変な仕事だと、みんな気が付いているんだけどね。」「でも、考えてみれば、「ホワイトカラー」って、なんとも無表情な、コンクリートの白い壁のような呼び名だよね」
 と言っています。リクルート社のような会社に勤めていた人間であるならば、きっと、昔の価値観をひきずったまま、いい会社に入ることが目標だろうといったことを言ってくるのかと思ったらそうではない。彼が初めて民間から校長に任命されたように、彼は非常にラディカルで柔和な思考の持ち主であることがわかります。
 学問の場では、すでにポストモダンは浸透し、さてつぎなる時代は何が来るのか、どうするのかということが常識となっているとされているにもかかわらず、まだまだ世間ではポストモダンどころか、モダン(近代)の価値を引きずっています。いまだに社会では、サラリーマンになるのが目標みたいなところがありますし、女は専業主婦といった価値が根強く残っている。この本はそうした価値をほぐすための本です。
 今迄なんとなく、雰囲気としてあった、サラリーマンにならなければならないといった価値を、一端疑い、新しい選択肢はないのかと考えさせるのです。
 私としては、フェミニズムの視点から、「主夫」という選択肢もあるよと付記してほしかったですが。

「クレジット」という概念
 この人のオリジナルの考えは、「クレジット」という考えです。これは一体どういうものでしょうか。
「周囲からの「信頼と共感」とか、大人としての「信任」といっているものを総称して、僕は「クレジット」と名付けているんだ。「クレジット」が高まれば、君の自由度が上がる。「クレジット」が低くなっちゃうと、君の自由度は下がる。つまり不自由になっちゃうってこと」
 この考えは彼オリジナルで面白い。学校での学び、これはしばしば大人がどうしてそれをやらなければならないのかという説明にてこずる問題ですが、これに対しても、この「クレジット」のためだと筆者は述べています。信頼されるために、宿題を出すとか、ルールを守るといったことを学校という場を通じて学ぶのだということです。
 なぜ働かなければならないのだという質問に対しても、歴史に自分を刻み付けるのだという答えと共に、この「クレジット」の説明をしています。人間は社会のなかででしか生きていけない生物ですから、その社会のなかで生きていくためには、信頼と共感が必要になる。仕事はその信頼と共感を得るためのものでもあると説明しています。
 彼はポストモダン的な考えに従って、サラリーマンでなければいけないのかという価値を解体しました。ですが、解体しっぱなしではなく、新たな構築もしています。仕事をすることを通じて、もう一度「周囲の世界との関係を結ぶ」ことが必要だと言っているのです。
 他にも、「稼ぎ」が「偉い」「生きがい」とされてきたことに疑問を持ち、現在ではそうはなっていないと説明します。ですから、ここ数十年の拝金主義への批判も込めたうえで、自分の自由な時間と生きがい、生活とのバランスをとれば、必ずしも稼ぎの多い職業を選ばなくてもいいと言っているのです。
 教育者に必要なことは選択肢を示すことだと言われます。これだけしかないと教えるのは、宗教です。しかし、教育は宗教ではない。何が正しいのかということも、このポストモダンの時代となった今は簡単には言えません。サラリーマンになることが正しいとは言えません。とすると、教育者がしなければならないことは、サラリーマン以外にもこんな職業があるよ、あんな職業もあるよと、選択肢を示してあげることなのです。
 「四時間目」では、少年の夢、サッカー選手を例にとって説明します。誰もがサッカー選手になれるわけではありません。でも、サッカーが好きという気持ちを大切にして、それを仕事にしたいと考えれば選択肢は広がります。サッカー選手の周りには、サッカー選手のことをサポートしている人が沢山います。サッカーが好きで、いつもサッカーにかかわりたいと思っているのであれば、そのようにサッカー選手の周囲に10個は職業を見付けてごらんといいます。そこには、コーチ、監督、スポーツドクター、トレーナー、スタジアムのオーナー、チケット販売会社、レフェリー、ラインズマン、ピッチ、グリーンキーパー、ユニフォームのデザイナー、スポーツ用品店、などなど、沢山の職業が関連してサッカーが成り立っていることに気が付くのです。この指摘は大変重要だと思いました。この考えは他のどの分野でも活かせます。

 藤原氏はこの後、村上龍の書いた『13歳からのハローワーク』に登場する、514の仕事を相関表にして見せてくれます。
http://www.13hw.com/map/map.html
 ここのサイトで職業マップが閲覧できます。
 このように、自分がしたいと思った職業を見付けられれば、それと自分の趣味を合わせて新しい仕事をイメージしてみるとか、いいなと思った職業の近辺の職業を見付けるとかして、いかに世の中に多くの仕事があるのか、選択肢を増やせと言うのです。
 これしかないと思っていると人間は辛いものです。しかし、あれでもいい、これもいいとなれば、楽になります。私は現在大学生で、友人たちは就職活動、シューカツをしています。中には、ちらほらと暗いうわさ、誰々が就活がうまくいかなくて自ら命を絶ってしまったといったことも聞きます。就活が上手くいかなかったからといって、そのようになってしまうこの現在、現代というのはどうなのでしょう。私はおかしいと思っています。そして、就活自体もかなりおかしい。なぜ人が働き口を探すために、これだけ暗い気持ちにならなければならないのでしょうか。本来仕事というのは、生きるためにするものであって、仕事は生きるための道具です。その道具が目的化してしまっているのが現在なのだと私は思います。ですから、仕事というのは、生きるための道具に留まっていなければならない。生きるために仕事ができるということになれば、自然と仕事はいやいや行うものから、楽しんでやるものに変わるはずです。私の理想がいったいあと何世紀後に達成されるかわかりませんし、それはあまりにも理想主義的だという批判は甘んじて受けますが、しかし、それまでは、仕事にいくつもの選択肢があるのだよということを示していかなければならないと思います。

おわりに
 藤原氏が言っている、とてもいいことは、「君と仕事の相性が良ければ君は仕事からエネルギーをもらうし、相性が悪ければエネルギーを奪われる」です。
 そして、本書のタイトルに戻り、これからの世界を生きていくためには、「正解」を求めるのではなくて、「納得解」を探していこうと言っています。すでに価値が多様化してしまった現在に、あるひとつの「正解」はもう見つけられません。でも、なんでもありのアナーキーな状態で良いのかと言えば、そうではない。やはりそこには他人との中で生きていくうえでいくつかのルールがある。価値観の違う他者とともに、これなら納得できるという、「納得解」を見付けて行くのが必要だと筆者は言います。
 私もそう思いますね。この本は筆者が中学校の校長時代に書かれたものであるということ、それから、青少年向けに読まれることを想定しているちくまプリマー新書から出版されているということもあり、中学生が対象となって書かれています。しかし、ここで書かれていることは、とても普遍的ですし、私はむしろ、今頑張っている就活生に読んでもらいたい。毎日リクルートスーツを着て、企業説明会に行ったりしていますが、もちろんそれもいいのですが、それ以外の道もあるんじゃないのということを示してあげたいと思います。

アニメーション映画 『宇宙ショーへようこそ』 感想とレビュー  現代アニメーション映画の構図と物語に隠された過去

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はじめに
 『宇宙ショーへようこそ』は2010年に公開された日本のアニメーション映画。上映時間は136分とアニメーション映画にしては長編。配給はアニプレックスからです。
 個人的には楽しんで見ることができた作品ですが、しかしそのままにしておいてはいけない問題がかなりあったので、その問題の指摘と作品の分析をしたいとおもいます。また、現在のアニメーション映画をめぐる状況も踏まえて、さらに日本のアニメーション映画が発展していくことを願って、この記事を書きます。

アニメーション映画のシビアな現状
 さて、この映画、おそらくご存知の方はかなり少ないでしょう。知っていた方は相当のアニメーション情報通です。私も文学と同時にアニメーション映画にまとを絞って研究をすすめていますが、この映画はつい先日まで知りませんでした。2010年公開ということで、知っていなければいけないくらいの年月が経過していますが、知りませんでした。アニメの世界にはアンテナをはっているつもりでしたが、盲点だったようです。
 私を基準にして考えてはいけませんが(しかし、自分の主観以外に人間は本質的には外の世界を認知できませんがね)、一応まったくの素人よりはアニメーションに詳しいと自負のある私でも知らなかったということは、アニメーションを普段から見ない人にとっては知りようもなかったのではないかと推測します。
 というのも、この映画、作品の質など云々よりも前に、興行収入が大変な赤字だったのです。
至好回路雑記帳http://sikoukairo2011.blogspot.jp/2012/06/blog-post.html
 二年前の記事ですが、このサイトにとても素晴らしい考察が掲載されています。
 私もつねづね思っていたことですが、日本はサブカルだなんだと言って、世界に誇ると主張しています。その主張はいいのですが、しかし現実はどうかというと、アニメーション映画の業界に至ってはかなりシビアな状況になっているということを皆さんに認識していただきたいと思います。日本のアニメーション映画業界はきっとすごいのだろうとみなさんお思いになるかもしれませんが、そんなことはない。日本のアニメーション映画がすごいと思わせているのは、ほぼ宮崎率いるジブリだけのおかげです。しばしばこうした(アニメ界において)財閥的な大きさを持つビッグネームがあるというのは、大きな功罪を産みます。功の部分はもちろん、アニメーション映画というものが単なる幼少期に見るだけのものではなくて、芸術としてまで認められるようになったということ。アニメの地位向上に貢献しました。しかし、その反面、あまりにもジブリが大きくなりすぎたので、他のアニメーションが陰に隠れてしまったのです。
そしてさらに悪いのは、日本人が傾向として知名度のあるものしか享受しない、自ら進んで知名度の低いものを積極的に 取り入れて行かないという点です。これがジブリのような大きな存在にどんどん財や権力が集中し、他の陰になっているものには見向きもしないという格差を作っています。
 その結果、日本では今、「ジブリ」「京アニ」などといったブランドが付かない作品は、ことごとく闇に葬り去られている状況にあるのです。たとえ、その作品が質的に高くてもということです。いくらクオリティが高くて優秀な作品でも、まず観客が足を運ばない。これではどうしようもないわけです。この作品も、興行的に大失敗をしました。しかし、だからといってこの作品が悪いのかというとそうではありません。この現状をよく踏まえた上で、これからのアニメ業界を考えて行かなければなりません。アニメ製作者側はもっと多くのCMをうったり、どんどん作品を告示していくことに尽力すること。それから、観客側は自分が知らない作品でも、知名度に左右されず、自分で観に行ってみて、自分で評価するということが必要になります。

作品分析
作品の内容にはいっていきましょう。

構図
 この映画はありきたりと言えばあまりにありきたりなストーリーです。大きな枠組みだけを考えてみれば、小学生数人組が、夏休みに自分達の知らない異世界に行って、そこで成長をして帰って来るという、ドイツの小説理論でいうところのビルドゥングスロマーン、教養小説とまったく同じパターンです。
 「不思議の国のアリス」などの少年少女作品の格子と大枠は変わりません。それが、アニメーションの技術を活かして、舞台が宇宙になったということです。

舞台
 他にも設定もありきたりと言えばありきたりな設定ばかり。特にめずらしいものはありません。
舞台は、どこかの田舎。今回は「わさび」がキーアイテムになることから、わさびの産地で有名な静岡県や長野県あたりが舞台となっていると考えられるでしょう。
 また、舞台となっているのがそうした自然に囲まれた田舎で、しかも夏休みであるということ。これは、丁度この作品の公開される直前の2009年に公開された、細田守監督の『サマー・ウォーズ』の影響が感じられます。もちろん、制作期間のことを考えれば、このアニメを見たからそうしてやろうと思ったわけではないことは明らかですが、ほぼ同時期に同じような舞台設定となるアニメーション映画が公開されたというのはちょっと出来すぎた偶然です。
 ですが、しかし、2007年の『河童のクゥと夏休み』から、『サマー・ウォーズ』とこの作品をはさみ、2012年の『虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜』『ももへの手紙』というオリジナルアニメーション映画の系譜をたどっていくと、ここ数年間のアニメーション映画の設定舞台がいかに、夏休み・田舎という構図が多いのかということに気が付かされます。やはりここには、製作者たちの一つのクセのようなものがあるように感じられます。すなわち、アニメーションは子供のものだ、という意識がどこかにある。そうすると、制作時に子供の頃の記憶を思い出すとどうしても夏休みが強く思い起こされるのでしょう。あるいは、子供を主人公にしようとする(本来アニメーションは大人が主人公でも老人でもいいわけですが)。すると、子供たちが冒険、活躍できるのはいつだろうということになると、出来るだけ「親」という邪魔なファクターの影響が少ない長期休み。夏休みということになるのではないでしょうか。

冒頭
 冒頭いきなり宇宙人らしい人物たちの戦闘から始まるという始め方は、観客の心を掴むための上手い戦術です。あまりにも突拍子すぎてまったく意味がわからないと、逆効果になってしまいますが、アニメーション好きは、その多くが戦闘シーンを好みますから、なんだかよくわからないけど、恰好いい戦闘シーンをいきなり提示されるというのは、観客側の心を掴むのに適した戦術です。ここでは、どちらが悪いのか、善いのかということはまだわかりません。後になって、赤いエネルギーを纏った側が主人公側だということがわかりますが、この場面だけだとどちらが悪役かということはわかりません。これも私は効果的だと思いました。どちらが良いのか悪いのかわからないとなると、観客は注意深く見るようになるからです。


メンバー構成から見る、「セカイ系」とジェンダー規範
メンバー構成を見て見ましょう。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%81%B8%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%9D
引用はWikipediaから
小山夏紀
町から最近から引っ越してきた小学五年の女の子。元気いっぱいで、ヒーローに憧れる。8月21日生まれ、獅子座、O型。
鈴木周
5人の中では最年少の女の子。夏紀の従妹。小学二年ながらしっかり者で世話好き。まっすぐで心優しい性格。11月2日生まれ、蠍座、O型。
佐藤清
5人の中では最年長の小六で、年下を見守る優しいお兄ちゃん的な立場。責任感が強く真面目で信頼も厚い。5月26日生まれ、双子座、A型。
西村倫子
小四。実は小心者だが、普段はすました態度を取るアイドル志望の女の子。4月2日生まれ、牡羊座、AB型。
原田康二
小三。メガネをかけており、好奇心旺盛な読書家。宇宙人やUFOなどのオカルト的なものが好き。5月2日生まれ、牡牛座、B型。

 この映画を見ていて感じたことは二つあります。それは、一つはいわゆる「セカイ系」の作品であるということと、もう一つはジェンダーの逆転が起きているなということです。
 それぞれ説明していきましょう。まずは「セカイ系」から。
「セカイ系」の定義については、東浩紀氏の定義から引用します。

「世界の危機」とは全世界あるいは宇宙規模の最終戦争や、異星人による地球侵攻などを指し、「具体的な中間項を挟むことなく」とは国家や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されることなく、主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれることを指す。



 今回の作品では、まだしも宇宙の世界を案内するポチ・リックマンという保護者のような存在がいるため、完全な「セカイ系」作品とは言えません。しかし、傾向としてはかなり「セカイ系」作品にちかいものを感じます。
 宇宙の世界を案内する役割として、ポチは活躍します。このポチという犬の宇宙人は、実は大学教授という設定ですが、そのような設定こそあるものの、映画においてはそこまで保護者のようには振舞いません。彼は、過去に囚われており、いつまでも過去と向き合うことから逃げているのです。ですから、一応保護者の役割は果たしてはいますが、本質的には保護者ではないということです。
 この映画は、子供たちの戦いと、ポチの戦いとが重なり合いながら展開していきますが、ポチはライバルでもあり友でもあったネッポとの戦いに終始しており、やはり子供たちは子供たちの世界で完結しているということがわかります。
さらに言えば、この世界での中景に値するポチやネッポですが、その容姿はどことなくマスコットキャラクターのような可愛さから抜け出せておらず、やはり大人というよりは子供に見える。この二人でさえも、子供のように見えるとなると、第一線で戦っている人物のなかに大人はいません。やはり、この作品は大人という存在が欠如した、子供たちだけの世界で構成されているのです。大人として役割を与えられている人物たちは、子供たちのサポートをする程度。大人は戦場にはいません。
 子どもたちの世界の危機がすなわち、全世界の危機に結びついているのです。本来であれば、このような大規模な戦いがあれば、すぐに大人たちが駆けつけるでしょう。中景の世界が入って来るはずなのですが、やはりそれが描かれないというのは、これも物語世界のここ数十年のクセなのかもしれません。

 それからジェンダー規範。この自分たちの世界、即全世界という結びつきは、94年から95年に放送された『新世紀エヴァンゲリオン』から指摘されるようになりました。しかし、エヴァンゲリオンではまだ、いやいやながらもシンジ君は戦っていたのです。もちろん庇護の対象となるはずの綾波を戦場に出しつつも(今までのアニメ、あるいは物語では銃後に下がらせるのがヒーローに求められてきました)、男性であるシンジは戦っています。ところが、こうした「セカイ系」の作品は、その後男性が戦わなくなるという方向にどんどん展開していきます。2003年からライトノベルで発表された『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズは、主人公キョンという男性は涼宮ハルヒという少女のどたばたを見ているに過ぎないのです。この時点ですでに男性は戦うことを放棄して、女性を戦わせ、自分達はそれを見ている、あるいはそれをサポートする側に徹しています。もちろん、男性が戦うという方がいまだスタンダードな部分はありますから、こうした作品のほうが例外ということになるかもしれません。『まどか☆マギカ』では、登場する男性は二人。バイオリニストとまどかの父親ですが、この二人も女性に戦わせ、自分達は銃後に下がっているという構図にマッチします。
 今回の作品もこの構図が適応されています。専ら肉弾戦をするのは、小山夏紀というこの作品のヒロイン。鈴木周がネッポに誘拐され、それを救済する一連のシーンでは、最終的に小山夏紀が救済することになります。作中で言及されるのは、鈴木周は「弱きもの」であり、それではいけないからということで、強い生命体にしてあげようということです。「弱きもの」についての説明は下に詳しく書きます。
 本来庇護の対象となるか弱いヒロイン。この役割を与えられたのが鈴木周です。本来であれば、このヒロインを救済するのは男性のヒーロー。この作品で言えば、最年長者の佐藤清か、恋心ににたものを抱いているであろうポチが適任です。しかし、そうではない。ポチは自分の過去と向き合うため、宿敵ネッポと二人の対決に入ります。佐藤清はといえば、メガネの原田康二とともに宇宙船の上で水鉄砲を打っているだけ。戦っていることに違いはありませんが、肉体をはって、戦っている小山夏紀、西村倫子との差はかなり大きいと感じます。
この作品では、もはや少女がかつて憧れていたような白馬の王子様といった存在はなく、血気盛んな小山夏紀がヒーローになるのです。この二人の関係が今回の作品のメインとなります。うさぎを逃がしてしまったことによって不仲となってしまった二人。そのほかにも、頼られたい、頼りたい、といった疑似的な姉、妹という関係も描かれます。しかし、最終的には救われるヒロイン、救うヒーローという疑似的なヒーロー、ヒロイン関係が構築され、その点でレズビアン的な関係に発展する可能性もこのからは取れると私は思います。

ペットスターのなぞ
 今回の作品の面白いところは、ペットスターという星が「弱きもの」を強化する星であるということです。この部分の説明があまりなされなかったため、映画や小説などの物語にあまり慣れていない人にとってはわかりにくいように映ったようです。ネット上のレビューを見てみると、そのあたりが不明だという感想が多く見られます。この「弱きもの」を強化するというのは、この宇宙では禁止されたことで、過去の過ちだったということが共通の認識になっているようです。というのは、冒頭、地球から来た5人を宇宙管理局が審査しますが、その際の質問に、頭を良くして戦争を無くしてくれると持ちかける宇宙人が来たらどうするかという質問があります。その質問に対する正解は、それを拒むこと。自分達のことは自分達でなんとかしなければならない、他人から与えられた成長は結局自分のものではないということが伝えたいメッセージのようです。とすると、50億年前に宇宙の狭間に落ち込んでいたペットスターは、それ以前の、弱いものを強いものへと進化させる強制的な装置だったことがわかります。ネッポが口にする「完全生命」というのは、この強化にそして、その人工的な強い命を作り出すためには、地球の「ワサビ」に酷似した、「ズガーン」が必要になるのです。
 この「ズガーン」も設定では50億年前に絶滅したとされている部分が、ポイント。かつてはこの「ズガーン」をもとに、救済船であったペットスターは、おそらく完全生命を量産していたのでしょう。作品からは直接言及はありませんが、おそらくそのためにペットスターはかなり強力な帝国のようなものを築き、宇宙を支配しようとしていたのではないでしょうか。だから、ペットスターは宇宙を変えるだけの力があるという伝説が残っていたのでしょう。ちなみにこのペットスターという一つの星とその発見の場面は、『天空の城ラピュタ』とかなり似通っており、オマージュとは言いづらいものを感じました。

終わりに 一番問題なのは、佐藤清
 この映画は、こうした主要な人物たちの人物造形が今までのメジャーなアニメーションとは大きく異なり、カウンターカルチャー的な人物たちとして造形されているため、多くの観客が違和感を覚えたようです。かなりむちゃくちゃな5人組であり、これからこの5人がそのままの関係で居続けられるのかというと、疑問符が付きます。
 この作品で一番問題だと感じたのは、佐藤清。彼は年長者として、大人たちからみたらしっかりした、頼れるお兄さんというように見られていることが、冒頭、ラストで大人たちの口を通して語られます。しかし、よくよく見てみると、彼が最も問題があるように私には思えました。
 西村倫子も同じく問題がありますが、しかしバイトを探す下りなどで、自己を見つめる機会を持っていますし、最後も小山夏紀とともに戦場に乗り込んでいることから、これからの彼女は成長するだろうということが伺えます。しかし、佐藤清はどうでしょう。年長者として意識しすぎるあまり、自己というものがありません。願い事をかなえてあげようと、ポチに序盤で言われた際も、みんなの意見を聞くばかりで自分の意見がない。年下の子供たちに清兄ちゃんはと聞かれても、漠然とした答えしか出せない。
 月についてから夢について語る場面でも、人助けをできたらいいといったとても漠然としたものしか言えません。様々な問題に巻き込まれるなかで、僕が年長者として皆をこんなところまで連れてきてはいけなかったんだ、自分が悪いと自分のことを責めます。全責任を自分の責任だと思い込んでしまうタイプの人間なのです。
 最後のネッポ一味との戦闘においても、彼は船の上で水鉄砲を撃つだけ。周救出には向かいません。そもそも周が誘拐されたあと、彼はあろうことか地球に帰ろう、周は諦めようということを口にするのです。信じられない。
 結局物語最後では、清に恋心を抱いていた西村倫子も呆れてしまったのか、清に近づこうという努力をしないようになっています。清は結果良ければすべてよしといった感じで、母親に向かって僕は医者になりたいということを言いますが、果たしてどうでしょう。周を簡単に見捨ててしまうような人間で、何かおこるとすべて自分の責任だと感じてしまうような人物に医者になって人を救うことができるのでしょうか。
 一見すると、少年時代の夏休みの郷愁を感じさせるような冒険の物語。子供たちは冒険を通じて大きく成長しましたといった、予定調和な物語のようにも見えますが、私にはどうしても、その調和に隠れた陰の部分が見え隠れするように思われます。
 ただ、誤解してほしくないのは、だからつまらないと言っているのではないのです。むしろその反対で、この作品はこれだけ議論すべき余地があるということですから、面白い、奥が深い作品であるということです。オリジナルアニメーション映画の業界がより安定し、これからますます良い作品が生まれてくるようにするためには、劇場に足を運んで、きちんとお金を払うということが一番です。

吉野源三郎 『君たちはどう生きるか』 感想とレビュー 貧しさと後悔についての一考

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はじめに
 今回取り上げるのは、名作中の名作、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』です。しかし、高度経済成長とともに、解体されてしまったそれまでの価値観のなかで、私たち20代前後の「さとり世代」とよばれる盛大や、バブル世代と呼ばれる世代は、いわゆる教養というものを持っていません。この本は、もう少し上の世代の人であれば、知っていますが、今の世代の人々は知らないのです。しかし、そうした教養、コンセンサスが崩壊したからといって、いつまでも嘆いていてははじまらない。過去の遺産のなかで、今もなお光り続けている珠玉のものがいくらもあります。そうしたものを、今だからこそ拾い上げ、活かさなければならないと思い、この本の紹介をしたいと思います。
 せっかくですから、この際に吉野源三郎という人の名前も憶えておきたい。1899年(明治32年)-から1981年(昭和56年)に生きた人で、編集者・児童文学者・評論家・翻訳家・反戦運動家・ジャーナリストなど、様々な顔を持ち、精力的に活躍した人です。その中でもとりわけ心に留めて起きたいのは、「岩波少年文庫の創設にも尽力した」ということです。この本は、吉野源三郎氏の代表作でもありますが、この本はまさしくその岩波少年文庫に入れる目的で執筆されたものなのです。ですから、ずいぶんいかめしいタイトルがついてはいますが、青少年向けにかかれた作品です。だから、中高生が読んでも全く難しくない。そして、そうした中高生向けの本というのは、しばしば大人が読んでも役に立つということです。
 この本だけは何としてでも読んでほしい。私のいうことが信じられなければ、岩波戦後ベスト&ロングセラー百選に選ばれているということからも、この本がどれだけすばらしいかわかるでしょう。特に今、就活等でなやんでいる大学生、親を持つ子ども、それからもちろん子ども自身、具体的には中高生、などに読んでほしいものです。

作品紹介
 この本は解説に詳しく書いてありますが、戦前に書かれたもの。なので、かなり古いものですが、どうしてどうして現在読んでもちっとも古いとは感じません。というのは、著者が二度にわたって改稿したからです。戦前の学校制度で書かれていたものは、戦後の学校制度に変えるという、親切丁寧ぶり。子供が読んで、自分達のことではない、わからないとなってしまえば、元も子もありませんから、子どもでも読み通せるように、著者が非常な気遣いをして読みやすいように残してくれたものです。特に私の友人たちである教職を目指している人には読んでほしい。こういう本を生徒に紹介できるかということが重要なのだと私は思います。
 さて、難しいタイトルが付けられていますが、内容は至って平易。中学2年生のコペル君と呼ばれる少年が、日々の日常のなかで感じたこと、考えたことを中心に物語が展開されていきます。コペル君の良き導き手として、コペル君の「おじさん」が登場します。彼は「大学を出てから間もない法学士」。年齢でいえば二十代半ばでしょう。この「おじさん」は、年齢にしては随分わかいようですが、とても哲学的にものを考え、父親が亡くなってしまったコペル君の父親的存在として、コペル君を導きます。
それぞれの章があり、その章のなかでは、前半がコペル君の日常、後半がそれについてのおじさんのノートという形式で物語られていきます。私たち読者は特権的におじさんのノートを覗くことができるのです。
 おじさんのノートには、それぞれ哲学的な考察が描かれており、これがとてもわかりやすい。もともとコペル君に向けて書かれているので、中学生でもわかるように描かれているのです。そのいくつかを引用してみましょう。引用したものだけでも十分に考えさせるものがありますが、これは本来文脈のなかにあったものなので、本を読めばより理解が深まります。
 「しかし、自分たちの地球が宇宙の中心だという考えにかじりついていた間。人類は宇宙の本当のことがわからなかったと同様に、自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、世の中の本当のことも、ついに知ることが出来ないでしまう。大きな心理は、そういう人の眼には、決してうつらないのだ」

 コペル君が通う学校は、かなり良家の子息があつまる学校らしく、その結果階級を問題にした批判がないわけではありません。クラスのなかには、唯一豆腐屋をやっている浦川君という子がいますが、彼の家は周りに比べて裕福ではないために今でいう「いじめ」にあっています。コペル君はしかし、浦川君をいじめる子たちとは仲間にならず、反対に浦川君をかばいます。そうしたことをおじさんと話すことによって、その精神がとても大切なことだということが展開されていきます。

いくつか珠玉の名言を引用しましょう。
 「だから僕たちは、出来るだけ学問を修めて、今までの人類の経験から教わらなければならないんだ。そうでないと、どんなに骨を折っても、そのかいがないことになる。骨を折る以上は、人類が今日まで進歩して来て、まだ解くことが出来ないでいる問題のために、骨を折らなくてはうそだ。その上で何か発見してこそ、その発見は人類の発見という意味をもつことが出来る。」

貧しさについて
 その後貧しい浦川君とコペル君は仲良くなります。
 「コペル君、君も大人になってゆくにつれて、だんだんと知って来ることだが、貧しい暮らしをしている人というものは、たいてい、自分の貧乏なことに、引け目を感じながら生きているものなんだよ。自分の着物のみすぼらしいこと、自分の住んでいる家のむさ苦しいこと、毎日の食事の粗末なことに、ついはずかしさを感じやすいものなのだ。もちろん、貧しいながらちゃんと自分の誇りをもって生きている立派な人もいるけれど、世間には、金のある人の前に出ると、すっかり頭があがらなくなって、まるで自分が人並みでない人間であるかのように、やたらペコペコする者も、決して少なくない。こういう人間は、無論、軽蔑に値する人間だ。金がないからではない。こんな卑屈な根性をもっているという点で、軽蔑されても仕方ない人間なのだ。(中略)人間として、自尊心を傷つけられるほど厭な思いのすることはない。貧しい暮らしをしている人々は、その厭な思いを嘗めさせられるようなことが多いのだから、傷つきやすい自尊心を心なく傷つけるようなことは、決してしてはいけない」
 「貧乏だからといって、何も引け目を感じなくてもいいはずだ。人間の本当の値打ちは、いうまでもなく、その人の着物や住居や食物にあるわけじゃあない。どんなに立派な着物を着、豪奢な邸に住んで見たところで、馬鹿な奴は馬鹿な奴、下等な人間は下等な人間で、人間としての値打ちがそのためにあがりはしないし、高潔な心をもち、立派な見識を持っている人なら、たとえ貧乏していたってやっぱり尊敬すべき偉い人だ。だから、自分の人間としての値打ちに本当の自信を持っている人だったら、境遇がちっとやそっとどうなっても、ちゃんと落ち着いて生きていられるはずなんだ。僕たちも、人間であるからには、たとえ貧しくともそのために自分をつまらない人間と考えたりしないように、―また、たとえ豊かな暮らしをしたからといって、それで自分が何か偉いもののように考えたりしないように、いつでも自分の人間としての値打ちにしっかり目をつけて生きてゆかなければいけない。貧しいことに引け目を感じるようなうちは、まだまだ人間としてダメなんだ。」
 「自分が消費するものよりも、もっと多くのものを生産して世の中に送り出している人と、何も生産しないで、ただ消費ばかりしている人間と、どっちが立派な人間か、どっちが大切な人間か、-こう尋ねて見たら、それは問題にならないじゃあないか。生み出してくれる人がいなかったら、それを味わったり、楽しんだりして消費することは出来やしない。生み出す働きこそ、人間を人間らしくしてくれるものだ。これは、何も、食物とか衣服とかいう品物ばかりのことではない。学問の世界だって、芸術の世界だって、生み出していく人は、それを受け取る人々より、はるかに肝心な人なんだ」

 かなり長く引用をしました。著作権上これはいけないことになりますが、しかし、版権を犯すものではなく、この本の宣伝になるとして、どうかお許し願いたい。
 ここで示されているのは、貧しさについてです。貧しいということについてどう考えればいいのか、私はこの本以外に御目にかかったことはありません。そして、この本は本当に素晴らしいことを教えてくれる。人間はその貧しさについて引け目を感じてはいけないということです。ここでは浦川君をモデルに金銭的な貧しさだけについて語られていますが、これは他の事でも同じことです。心のまずしさというものについても、決して卑下してはいけない。能力についても同じです。貧しい人がなぜ貧しいのかと言えば、貧しいということに引け目を感じ、豊かな人を偉いと思うからです。そんなことはない。人間の価値はそんなものできまることはないのです。最近ではつねづね拝金的になって、お金持ちの人にぺこぺこしている人をよく見かけます。見苦しいと思います。私は学生ですので、お金を稼いだことさえない。しかし、だからといって自分が卑しいとは思わない。私は私にできることを精いっぱいやっていますし、誇りをもって生きています。時にはネガティブになることはありますがね。

後悔について
 「僕たちは人間として生きて行く途中で、子供は子供なりに、また大人は大人なりに、いろいろ悲しいことや、つらいこと、苦しいことに出会う。もちろん、それは誰にとっても、決して望ましいことではない。しかし、こうして悲しいことや、つらいことや、苦しいことに出会うおかげで、僕たちは、本来人間がどういうものであるか、ということを知るんだ」
 「心に感じる苦しみやつらさは人間が人間として正常な状態にいないことから生じて、そのことを僕たちに知らせてくれるものだ。そして僕たちは、その苦痛のおかげで、人間が本来どういうものであるべきかということを、しっかりと心に捕えることが出来る」
 「およそ人間が自分をみじめだと思い、それらをつらく感じるということは、人間が本来そんなみじめなものであってはならないからなんだ」
 「僕たちが、悔恨の思いに打たれるというのは、自分はそうでなく行動することも出来たのに―、と考えるからだ」
様々なことについて、素晴らしい言及がなされていますが、私が特に感銘を受けたのは、先の引用の貧しさについてと、自分の後悔についてです。後半、コペル君や友達たちと結んでいた堅い約束をやぶってしまいます。そのことに引け目を感じたコペル君は悩みます。それに対してのおじさんのコメントです。つらいとか、悲しいと思うことは、たしかに本来あってはいけないことだけれども、それがあるから人間は正しいことがわかるというのは、私自身読んでいてとても救われました。私も、人間関係に恵まれなかったのか、ずっと悲しいことばかりでした。精神的に辛くなることがありました。こんなに悲しみが多いなら、人生をやめてやるか、あるいは悲しみのない世界にしてやるかと思ったこともあります。しかし、その悲しみがあるからこそ、人間は本来あるべき姿というのがわかるというのは、なんて素晴らしい指摘なのでしょう。そういえば、どうして人間はつらいと思ったり、悲しいと思ったりするのでしょうか。これこれこういう場合には、悲しいと思うのよ、とか、辛いと思うのよと教わったわけではありません。人間はどこでこの悲しみや辛いという気持ちを学ぶのでしょう。これこそ、人間に本来的に備わって正しさを知るための装置なのではないでしょうか。

姜尚中 『悩む力』 感想とレビュー なぜ僕の周りのひとたちは悩んでいないように見えるのだろう

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はじめに
 姜尚中氏の『悩む力』を読みました。この本は2008年に刊行されたものですが、5年たった今でもその慧眼は鋭く、私たちに必要な本であると感じました。なので、ここに紹介を込めて記事にしたいと思います。
 私事ですが、最近読んだ本はどれも自分が今必要としている本ばかりです。どうしてそうなるのかなと思うのですが、これはとても不思議なことだと思います。自分が考えていることが、本をひらいたらそこに書いてある。筆者が一緒に私と考えてくれる。自分と同じ悩みをこの人も考えていたのかということは、それだけで私の支えになるものです。
姜尚中氏のことが前から恰好いいなと思っていて、尊敬していました。姜尚中氏の本はまだあまり読んだことがなかったのですが、この本との奇跡的な出会いをして、さらに好きになりました。

なぜ悩まない
 私は周りの友達をみていて、どうしてみんな、あんなに悩みなく、就活に邁進したり、日々生活を送ったりできるのだろうといつも不思議に思っています。どうして、みんなは自分とは何であるかとか、働くこととはどういうことか、生きるとはどういうことかといったことに悩まないのだろうと、いつも不思議に思っています。そういう悩みを抱いていないように思われるのが不思議です。
 そしてそういう話をすると大抵の友人、知人は嫌な顔をします。そんな考えたってどうしようもないものをいつまでもこだわっているなんて、という目です。私も友達に嫌な顔をされるのは嫌ですから、次第にそういう事は云わなくなります。余計に相談できなくなる。悪循環です。
 しかし、姜尚中氏もこの本で、しばしば自分の過去を振り返りつつ話を展開していますが、彼もまたかなり悩む青年だったようで、私はそこに共感を覚えました。
 私はポストモダンになってから、あらゆる価値が破壊されて、現在のような年間3万人もの自殺者を産む、大変な世の中になってしまったんだろうなと思っていたのですが、姜尚中氏は、漱石の時代、近代になった時からそれが始まったのだと言います。
 西洋の近代化が「合理化」を武器に、地域社会や、宗教を破壊し、個人がむき出しになってしまったと言うのです。だから、「文明」というと、なんだか良さそうなもののようにも聞こえますが、その文明がどうしようもなく、個人を孤立させているのだと言うのです。このことについて、ちょうど同時代を生きた、夏目漱石と、経済学者であるマックス・ウェーバーの言葉を引用しながら、現在を考えて行っています。姜尚中氏は、経済学が専門だったようで、ウェーバーについて専門的に勉強していたようです。

 この本は序章と終章を除いて、8つの章でなりたっています。それぞれがとても重要な問い。結論がでない問いではありますが、漱石とウェーバーの言葉を紹介しつつ、姜尚中氏なりの考えを展開しています。「私」とは何者か、世の中すべて「金」なのか、「知っているともり」じゃないか、「青春」は美しいか、「信じる者」は救われるか、何のために「働く」のか、「変わらぬ愛」はあるか、なぜ死んではいけないのか。いずれも、私が普段考えていることばかりです。

要約と感想
 姜尚中氏も若い頃はかなり悩んだ人らしく、「自我」の問題については深く納得させられるものがありました。私も氏の若い頃同様、自分というものを考えるあまりに自我が肥大して、たいへんな自己中になってしまっています。しかし、本当の「自我」を考えるということは、「自己中」とは別物なのだと言うのです。私たちはどうしても、この価値観が全て崩壊して、個人として社会に対応していかなければならないときに、自分を守るため「自我の城」を築こうとします。しかし、それではだめなのだと言うのです。〈「自分の城」を築こうとするものは必ず破滅する〉とヤスパースの言葉を引用して説明しています。氏は人間は「他者」とのかかわりで存在するのだ。自我の問題も「他者」との関係で生まれるのだ、とした上で、相互承認の道が大切だと述べます。
 認めるというのは、とてもとても難しいことです。他人を認めることもそうですが、まず、自分自身のことを認めなければいけない。誰だって人間ですから、自分の醜い部分や汚い部分、コンプレックスは考えたくない。しかし、それを認めてあげることが必要なのだなと、私は思いました。
 お金の問題については、私も考えるのが嫌です。私の周りには金だ金だとばかり考えている人がいるので、そうじゃないだろうといつも思い、それゆえに金に対して蔑視するようになっていました。漱石もウェーバーの金に対してはあまりよく思っていなかったようです。しかし、「たかが金されど金」ということで、結局お金は普遍的なものであるわけです。だから、それを個人の力で変えることはできないけれども、だからといってそれに完全に身を任せるのではなく、ぎりぎりのところで、それをうまく利用しながらも、批判的な目を持ち続けるということが大切だと言います。
 知ることについては、知識と知性は別物だとしたうえで、深い考察をしています。確かに知識はできるだけあったほうがいいですし、そんなことも知らないのかというような友人たちをみていると、もう少し常識というか、教養というかを身に付けようねと思うものです。ですが、やはりいくら知識があってもだめ。もちろんなければもっとダメですが。氏は知性を身に付けよと言います。知識や科学技術というのは、それ自体には価値はないのです。それをどのように扱うかという部分が大切になる。話は科学技術に展開し、身の丈に合ったサイズがいいのではなと述べています。この本が2009年の刊行で、その2年後の原発の問題を考えると、氏がいかに慧眼の持ち主であるかということが伺えます。
 青春についての章では、青春にはいろいろな青春があるとして、悩み続けるのもまたひとつの青春だといいます。青春という語自体が死後になり、恥ずかしいものになったように思われる現在においても、氏は青春は大切なものだといいます。何も肉体を駆使して汗水たらすことだけが青春ではない。若さゆえに苦悩し続けることもまた青春なのです。私はこの部分に救われました。大の運動音痴ですし、容姿もよくないし、根暗ですので、みんな(私も含めて)がイメージするような「青春」というものは、ついぞ私にはなかったなと思っていました。しかし、氏の本によれば、こんな私の悩みの日常も又青春ということになるのです。本がもっとも素晴らしいのは、こうした世代の異なった人と、対話とまではいかないまでも、悩みを分かち合えることです。本を読まなければ、自分だけの世界のなかで、自分だけで考えを深めます。それは時には必要ですが、外からみたら、あるいはそれを経験した大人はどうなったのかという意見を聴くことも大切です。
 ポストモダンのなかでは、何も信じるべきものがなくなります。私も何を寄る辺にして生きたらいいのかと、この数年間ずっと悩んできました。姜尚中氏は悩み続けることが大切だと優しくさとしてくれます。そして、フロムの『自由からの逃走』なども引用しつつ、人間は自由からは逃れたいものだと言います。私も信じるということはどういうことなのか、それはまた近代に戻ることでいいことなのかとずっと考えてきました。氏は一人一宗教を持つことになり、みんながみんな自分という宗教の教祖になるのだと考えています。私もそうなるのかなと思っていたので、一応同じ結論に達したようです。
 働くことについてでは、働くことは社会に承認されることなのだと言っています。氏は一貫して、他者との関係でもそうですし、認めるということに重きを置いているようです。私は働きたくない、というかなにもしたくないので、親にパラサイトして、籠城を決していますが、もう少し考えを深め、納得出来たら承認ということのためにも社会に出て行きたいなと思います。
 愛についても、相互の関係の変化によって、常に流動しつづけるのだとして、ここでもその関係のなかでの愛の変化を論じています。他者との関わりが重要なのです。だから、愛も代替可能となってしまった、ドライな関係ではいけないのです。

終わりに
 姜尚中氏も悩み続けた人ですし、漱石もウェーバーも悩み続けた人でした。私もまた悩み続けている人間の1人です。周りの人達を見ていると、みんな確かにそれなりに就活について悩んでいたりはするものの、その悩みのレベルが表面的でそんなに深く悩んでいないなと思います。就活について悩んでいるといっても、どうして働かなければならないのかとか、私は何をしたいのかといって、そういう根源的なところではなくて、どうエントリーシートを書いたらいいかとか、受からないことについて悩んでいるように、私には見えます。
 私は周りから見たら愚かな人間でしょう。少なくとも賢くない。いちいち疑問を抱いて、まったく前にすすめない。しかし、賢く、悩まないようにして上手く生きて来た人には、それだけの根がないといいます。だから、大人になったときふと、自分に根がないことに気が付き、何もすることができなくなってしまう、何をしても意味がなくなってしまうというのです。
 私はこの本によってかなり姜尚中氏に救われました。悩むことが大切なのだ、たとえ不器用だ馬鹿だと言われても、そんなことは言わせておけばいいのだと思いました。もし、私のように悩み続けている人がいるならば、この本をお勧めします。


 この記事を書いたあとで知ったことですが、『悩む力』を2008年に刊行したあと、姜尚中氏は直後の2009年に25歳の息子を亡くしていたのです。悩む力が生きる力に変わるのだというこの本は、ちょうど悩み続けていた息子さんのためへのメッセージでもあったということだったのですね。
 この本を書けた人が、自分の息子を救えなかったというのは、これはもうどういうことなのでしょうか。とても簡単に私などが言えることではない、想像をはるかに越えたことです。

アニメーション映画『REDLINE』(レッドライン) 感想とレビュー 様々な作品へのオマージュとアニメ表現の可能性

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はじめに
 『REDLINE』(レッドライン)は、2010年公開の日本のアニメーション映画です。2007年にアメリカで公開された同じくカーレースを主題とした映画もありますが、こちらとは別の作品です。アメリカの映画を見ていないのでなんとも言えませんが、恐らく関係はないと思われます。
 「制作期間は7年を要し手書きアニメに拘り作画枚数は約10万枚にも及んだ」など、数々の伝説がある映画です。その表現手法やオマージュ、作品の内容について論じます。

 作品分析や評論をする際に基本となる二つの最も大きな視点は、何が描かれているのか、ということと、どのように描かれているのかということです。
 何が描かれているのかという点に関しては、今回の映画は比較的簡単。複雑な心理戦などがあるわけでもなく、今回はただレーサーがレースをするということだけです。しかし、内容が平易だからといって、それがすぐに作品の質が悪いということになるかというと、そうではありません。複雑すぎてよくわからない作品というのは往々にしてあるもので、今回の作品はわかりやすさが、作品を成功させている要因になっています。
 内容は至って簡単、「すごくやさしい男」という異名をもつJP(主人公)が、なんでもありのレース『REDLINE』と呼ばれる史上最悪のレースを走るというもの。手に汗握るようなレース。暴力あり、破壊ありの、まさしく男の世界といった内容です。そして、それにつきものなのは、やはり花。速さを競うレースという暴力的なものに加えて、恋愛のストーリイも加えられます。
 さらにこの作品が含んでいるのは、それまでの日本のアニメーションの歴史に対するオマージュ。これからそれを指摘していきます。

オマージュ
 まず本編のメインとなっているレースについて。これはあきらかに『スター・ウォーズ・エピソードⅠ・ファントムメナス』の影響が伺えます。影響というよりも、オマージュといったほうがいいかもしれません。もちろん、この『ファントムメナス』自体も、ルーカスは様々な映画に対するオマージュを盛り込んでいます。
 今回のレースに限って述べれば、『レッドライン』は『ファントムメナス』の砂漠の惑星タトゥウィーンで開催される「ポッドレース」をオマージュしているように思われます。しかし、その『ファントムメナス』の「ポッドレース」も古代イスラエルの話『ベン・ハー』のオマージュなのです。この『ベン・ハー』では、闘技場のなかで馬車を競わせるというレースが行われます。おそらくかなり勉強家の荒木飛呂彦氏もこれを見ていることでしょう。『ジョジョの奇妙な冒険・戦闘潮流』のなかでジョセフ・ジョースターとワムウが戦車戦をする際の描写はまさしくこの場面へのオマージュだったと思います。
 このように名画の名場面というのは、オマージュにオマージュを産み、やがて原作は忘れられるか無意識下に入り込み、製作者の血となり肉となるのだと思います。それだけ多くの人々が真似したい、こういう場面を描いてみたいとおもうのには、やはりどこか普遍的なものがあるからでしょう。レースというのは、いつでも血気高まるものなのです。
 冒頭の「イエローライン」これは「レッドライン」のひとつ前のレースということで、「レッドライン」出場をかけて争われるレースです。この作品はオリジナルアニメーション作品ですから、原作があるわけではない。だから、観客はまったくこの作品の情報を知ることなく、いきなりレースが始まるのです。何がなんだかわからないなか、観客は、まさしくスクリーンに映されているレースを見ている観客たちと一緒にレースをみることになります。『ファントムメナス』に似ているなと思ったのは、この観客を映した場面。様々な宇宙人がいます。レースと宇宙人といったら、もう「スター・ウォーズ」しかない。しかし、「スター・ウォーズ」の「ポッドレース」と異なるのは、これらのレースカーが車輪でもって地上を走っているということです。少なくとも描写だけでは宙に浮いているようにも見えるのですが(ホバーという設定の車もありますし)、一応設定としては、写真をもって走っているということです。
 他にも武器ありというのは斬新。ある意味原点回帰していますが、使用する武器がミサイルなどといったハイテクな武器。
 そして何よりも「スター・ウォーズ」へのオマージュと感じたのは、走っている場所です。荒野のようにも描かれていますが、その雰囲気は砂漠の星タトゥウィーンに酷似しています。『レッドライン』が公開されたのは、2010年で作画に7年経っていますから、2003年ごろから書き始めたということになる。そうすると、ちょうど1999年に公開された「ファントムメナス」を製作者たちは見ていた可能性が非常に高い。きっとこの映画を見て、それに興奮した製作者たちが是非これを日本のアニメーションでもやりたいと思ったのでしょう。

 「イエローライン」を終え、「レッドライン」へと物語は進みます。この映画は102分という比較的短い時間のなかで、けっして観客を飽きさせることなく、無駄がなく描かれています。レースは二回。そのあいだに少しのロマンスがありますが、脇道にそれることはありません。
 オマージュとして指摘したいのは、日本のアニメーションに対するオマージュがあるだろうということです。私は恐らく「マクロス」へのオマージュがあるのではないかと思います。「レッドライン」が開催される場所は、軍事機密満載のアンタッチャブルな「ロボワールド」と呼ばれる星です。ここの星系の大統領は決して「レッドライン」のメンバーをいれるものかと宣戦布告しているのですが、なぜか「レッドライン」開催側はその脅しにはのらずに黙々とレースを勝手にすすめます。怒り狂うロボワールド大統領、よくよく冷静に考えてみれば、かわいそうなのはロボワールド大統領のほうです。なぜ、そこまでして「レッドライン」はここで行わなければならなかったのでしょうか、少し謎ですが・・・。武力をもってやめさせるという、軍事国家のロボワールド。結局「レッドライン」のレースは、ただのレーサーどうしての戦いだけでなく、第三勢力のロボワールドの軍人もが入り混じって戦うと言う混戦状態になります。
 私が指摘したいのは、ロボワールドの人々がマクロスのなかでも、特に初代の『超時空要塞マクロス』に登場したゼントラーディ軍を彷彿とさせることです。ロボワールドの暗い部屋のなかで軍のトップたちが集まっている場面はゼントラーディ軍を思い起こさせます。また、彼等の戦い方も、なにかをプラグインして、かなり強制的に戦わせている。これは「マクロスⅡ」などに見られたものですし、ロボワールド軍の使用する兵器もどことなく、似ている。このメカに関しては、マクロスということに限らずに、広く80年代の宇宙戦闘ものへの敬意があったようにも思われます。

表現
 それから、私が感動したのは、このアニメがアニメでなければならなかったという点です。アニメのなかには、なぜアニメでなければならなかったのかという作品がたまにあります。そうした作品は、せっかくのアニメーションという強みが活かせていないので、残念です。この作品の最も評価できると私が思っている点は、アニメーションでしか表現できないことを見事にやってのけたということ。アニメーション好きの人、あるいはアニメーションを見ない人でも、この映画は見るに値します。
 アニメ、あるいは漫画というのは「動き」を要求する媒体だと、四方田犬彦先生も漫画論で述べていたと思います。絵をメインに物語を動かすためには、常に動きが必要になるわけです。縦の動き、横の動き、様々あります。ジブリ映画がすごかったのは、アニメのなかに初めて本格的に縦軸の動きを持ち込んだことと言われています。
 さて、この映画はスピードが命。そのスピードをどのように表現するのかということが問題となります。アニメーションでスピードを表現した作品となると、いくつか思い当たるものがありますが、きっとこの映画を制作した人たちが見て、学んだだろうと思われるのは、1987年の『迷宮物語』です。三作品によるオミニバス形式の作品でしたが、当時若手だった三人の監督がそれぞれの世界を見事に表現しています。そのなかで、川尻善昭監督が制作した「走る男」という作品があります。ただ単純に走るだけ。それだけの作品ですが、きっとこの映画の製作者たちもこの映画から学んだことがあると思います。あまりにも早すぎるとどうなるかというと、一瞬時がとまったように見える。こうした表現の方法は以前からありましたが、それを効果的に表現できるのがアニメーションの強みです。この映画でも、あまりの速さに時がとまったような表現がいくつかある。
 他には、あまりの速さに人間が耐えられなくなるという描写。これも長いアニメーションの歴史のなかでいくらか描かれてきましたが、95年に公開した「マクロスプラス」のガルドが速度に耐え切れずに押しつぶされていってしまうシーンがあります。これはアニメ史に残る名場面だと私は思っているのですが、これもおそらく参考にしたのではないかと思われるシーンがありました。
 この映画で特徴的なのは、なんどかマシンに爆発的なエネルギーを与えて一時的にブースト状態になれるという設定です。一時的に速度がものすごく速くなる。そうすると、その際に世界ががらっとかわるわけです。それをアニメでどう表現するかというと、「歪み」です。実写ではこうはいきません。速くなったのだろうと思ってもそれほど臨場感がない。アニメーションというのは絵ですから、誇張表現ができるわけです。本来はあり得ないことでも、アニメならばあり得る。スピードが変わった瞬間に、ぐにゃっと絵柄が伸びるというのは、それだけ速さが変わったのだなということがわかるのです。こうした「歪み」表現は、このアニメが制作されている途中、2008年に宮崎駿が『崖の上のポニョ』で導入しました。この時の「歪み」はアニメならでは動きや、やわらかさを押し出すものだったでしょうが、きっと制作陣はこの映画をみて焦ったことでしょう。先にやられたと。

 表現でもう一つ言えることは、今迄の日本のアニメーションとは異なり、アメコミ風なタッチで描いているということ。色についてもかなり原色が多めの強い色です。何よりも異なるのは、輪郭線がかなりはっきりと描かれているところ。これは、2011年から公開された「タイガー&バニー」でも使用された技法です。この場合は「タイ&バニ」がこの映画から影響を受けたと言えるでしょう。

終わりに
 数々の作品、アニメーションへのオマージュをしながらも、独自の表現を確立したこのアニメーションは、とても評価できる作品です。2010年の公開から4年経った現在でも、この作品はアニメ界の最先端を入り続けていると言っていいでしょう。
 このアニメにどれだけ力を入れていたのかということが、俳優の割り当てからもうかがえます。主人公に木村拓哉を起用するというのは、ジブリアニメへの宣戦布告でもありますし、かなりの賭け。大技です。かっこうよさと優しさ、そして見え隠れする弱さ、こうしたものを木村拓哉の声は表現しています。他にも、ヒロインに蒼井優や、木村演じたJPの相棒に浅野忠信を起用するなど、力の入れ方がすさまじい。
 しかし、どうも私の記憶ではあまり告知をしていなかったように思われます。アニメーションへのアンテナはここ数年常にはっているように努めているのですが、この映画だけはまったく知らなかった。たまたま知ったからよかったものの、なかなか知る機会がなかったので、是非皆さんにもこういう作品と出会う機会になればと思い、ここに記します。

第百五十回芥川賞受賞作 『穴』 小山田浩子 感想とレビュー 残る「家制度」の香り 流れに組み込まれること

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はじめに
 一年に二度ある芥川賞は日本の新人純文学作家を発見することを主とした賞です。今回150回目を迎え、大きな節目になるということで、この賞を主催している文藝春秋では、大々的に広告を打っています。
 芥川賞選評などを読んでいますと、他の作品も面白そうだなと思われます。今回は小山田浩子さんの『穴』に決定しました。なかなか難しい小説ですが、一つどう解釈するか試みてみます。
 ネタバレがありますから、その点は気を付けてください。

ドライなあさひ
 まずこの小説を読んだ際に感じたのは、一見するととても平凡な、筆者と年齢がほぼかわらない女性を描いた作品だなということです。30歳という年齢が小説内には示されていますが、筆者の小山田さんも1983年生まれですから、ほぼ同じ。といっても、安易に主人公の松浦あさひと小山田浩子を同一視してはいけません。小説はフィクションですから、一端作品と作者は切り離して考えた方がいいでしょう。
 小説前半は、30歳の主婦である「あさひ」が、夫の転勤に伴い、仕事を辞めるという場面に重きが置かれます。そこでは、仕事に関する作者なりの批評があります。正規社員と非正規社員の対偶の差、それにもかかわらず、仕事の内容は同じ。
 しかしこれらの社会現状への批判は、あさひ自身の声ではなく、同じ職場で働いていた「非正規仲間」の女性からなされます。(また、芥川賞への一つの批判となりえるのは、その撰者たちも小説はある程度社会対する批評、現状を映し出しているといったドキュメント性を求めていると思われることです。別に現状をまったく反映していない小説でもいいではないか、という切り込みもできます)
 この小説の主人公となるあさひは、非常にドライな人間。この小説はあさひの視点にかなり近い視点で物語が描かれていますが、しかし、あさひの心情を探るのは極めて難しい。感情がないのではないかと思われるくらい、何を考えているのかわからない人物です。彼女は自分のことをぼうっとしていると表現していますが、それを信用するかどうかは読者の判断です。
 同僚の職員が仕事を辞めても経済的に厳しいことや、しかしだからといってこのまま働いていても非正規ではといった社会風刺をする一方、あさひは何とも思っていません。同僚の女性は専業主婦になるあさひのことを羨みます。彼女にとって専業主婦は夢なのです。そこにはまだ、女性でさえも家庭に入って何もしないでいることがすばらしいといった価値があることがわかります。

 あさひの視点はといえば、「私は別にどうしても子供が欲しいとかは思っていない。積極的にほしいとも思わない」というゼロ的な心の持ち主です。流されるままといえばそうですし、自分からこうしたいといった願望はないようです。彼女は何につけてもどうでもいいといった感じが見受けられます。それは仕事に対してもそう。また、夫の実家の隣で暮らすということになっても、べつにどうでもいいのです。別々の建物とはいえ、隣で暮らすことになれば、嫁姑の問題が生じてくるでしょうが、そのこともあまり関心をしめしていないように見えます。


ディスコミュニケーション小説
 また、この小説はディスコミュニケーションも表現していると言えます。誰でもできる読み方なので、読み方としてはつまらないですが、一応書いておきましょう。あさひの夫は、妻であるあさひを目の前にしながら、ずっと携帯をいじっています。これは、現在の人間関係を上手く描写しているのではないでしょうか。小説に携帯や最新機器が登場するかどうかということも文学を読み解く際の一つの鍵になりますが、この小説では、主人公の夫が携帯依存なのです。もちろん、本人はそう自覚していません。
 (今回の文藝春秋が面白かったのは、この小説の後に、樋口進という人が「中高生52万人を蝕む「スマホ亡国論」」と題して、ネット依存のことを書いていたことです。ちょうど小説と評論が同じ内容をテーマにしていました。編集者は何か狙ってやったのでしょうか)
 夫は常に目の前にいる彼女よりも、携帯のなかの友人と対話しています。
 「メールを打っているのか何かをインターネット上に書きこんだりしているのか、その内容を知りたいと思った時期もあったが今はもうそんなに興味はない。犯罪や、過剰に性的なことでないならば、私の知らない友人たちやコミュニティの中で夫が何を書いたり言ったりしているのかいちいち詮索する気にならない」
 このような部分からどう夫婦の仲を取るかは読者の自由ですが、私は相手に関心を示す気がなくなった、知りたいと思わなくなった時点で二人の愛はもう終わっているのだなと思います。知りたいと思わなくなったあさひもそうですが、それ以前に妻の前でずっと携帯をいじっている夫は、あさひのことを愛していないのでしょう。
 また、職場まで30分の場所に引っ越したと書いてありますが、夫の宗明はひどく遅くまで残業しています。そして、ずっと携帯を手放さない。妻に対してはほとんど見向きもしない。職場ではお菓子が食べられるという不思議な下りがありますが、誰からそういったお菓子を貰うのかという問いに対して、なんだか煮え切らない答えをしている。これらのことを総合して考えると、もしかしたら、夫の宗明には愛人かなにかがいるかもしれないという可能性が出てきます。

 本来あさひの視点で物語を語っているので、夫が何を携帯に打ち込んでいるのかはわからないことになりますが、例外的に一か所、何を書いたのかわかるようになっている部分があります。世羅の奥さんがみょうがを渡しに来たあとのことです。みょうがが何かをしらなかった夫がみょうがを食べ、まずいと言った後。「夫は別のおかずを口に入れながら、携帯電話を触った。今嫁にみょうがっていう糞まずいものを食べさせられたんだけど云々。私はため息をついた」
 もちろん、ここからは、妻が勝手に想像しただけと読むこともできます。ですが、何を書いているのか興味がないあさひが、わざわざ夫が何を打ち込んだのか想像するでしょうか。それよりは、語り手の視点が、あさひを一端離れて神の視点になったと考えた方が自然なのではないかと私は思います。

 他にも、姑は一方的に彼女の携帯電話の番号を知っていたり、周囲の人々があさひのことを知っているのに対して、何故かあさひは周りのことを知らないという、情報の一方向性が描かれています。これは周りが勝手に情報を交換しているということでしょうか。それとも非積極的なあさひが周囲を無視している(あるいは周りにそう捉えられている)結果生じたことなのでしょうか。


謎の義兄
 この小説は徐々に平凡な主婦の日常から、非日常的な小説へと様相を変化させてきます。この感じは村上春樹の作品に通じる雰囲気があります。文藝評論の用語では、マジックリアリスムと言って、日常を描いているのだけれども、どこか非日常と融合しているという作風のことを指します。
 また、村上春樹との類似点は、穴に入ることからも指摘できるでしょう。あさひは、不思議な動物、犬とも、たぬきともイノシシともつかないような黒い動物と何度か遭遇します。そして、この動物の習性が穴を掘ることなのです。あさひは最初その動物を追っているさいにその穴にはまってしまいます。胸まで入るような穴で、なかなか出られません。二度目にその動物と遭遇した際には、その動物は自分で掘った穴ではなくて、あらかじめある穴、古井戸に入ります。井戸と言えば、春樹文学の代表的なモチーフです。作風としても、現実のなかに非現実が入って来るという点で春樹に似ていますし、何かしらの影響を受けているということができるでしょう。

 さて、なかでも中盤から登場し、重要な役割を果たす夫の兄である「先生」と呼ばれる男性が問題です。近所に住んでいる世羅という家の奥さんは、雨の日にいきなりあさひの元を訪れてみょうがを渡しますが、その際にちらっとこぼしたのは、「松浦さんとこも、タカちゃんのこととかいろいろあったし大変だったと思うけど」とこぼし、タカちゃんが誰なのかということを尋ねると、別のことを話していたと言い逃れてしまいます。もしも、このタカちゃんというのが、「先生」と呼ばれる兄であったならば、兄の名前は少なくともタカが付く名前であることがわかります。
 この義兄ですが、「下半身は紺色か黒のズボンで、私はそれが中学か高校かの男子の夏制服に似ていると思った」という描写からもわかるように、中学か高校かで、実家を出てから時がとまっているということが匂わされています。彼は自分で説明しているように「二十年前に、僕ぁもうすっかり育った青年だったけれど断固通学をやめて、物置の、掘立小屋にベッドを運び込んでそこで暮らし始めた」のです。
 しかし、そのような生活をしていてお金がどこから出てくるのか。そうすると、先に登場した封筒から二万4千円ほどのお金が消えていたという事件も、義兄が抜き取ったのではないかという解釈も成り立ちます。しかし、当然最後まで読んだ読者であれば、義兄の存在がひどく非現実的な存在であることがわかります。もしかしたら彼は幽霊などに類する存在であった可能性が高く、実在していたとは読みにくいように書かれています。すると、封筒の2万4千円の件はどうなるか。少し無理な読み方ですが、本当にお金が足りなくて姑が戦略的に仕込んだ罠か、あるいは義祖父がとったかのどちらかということになるでしょう。
 しかし、そのルートは苦しい。やはりここだけは、一時的とはいえ実体に近い状態で存在していた義兄が取ったというルートがいいのではないでしょうか。

 義兄ならびに、彼のもとに集まる子供たちというのは、一体なにを象徴しているのでしょうか。あさひは最初にこの義兄と子供たちと、町にあるコンビニで出会います。子供たちは漫画を勝手に読んで、地べたにすわったりしていますが、そのようなことがあれば当然コンビニの店員は記憶しているはずです。しかし、終盤、あさひがそのコンビニでバイトをする際に、その店員は子供が来るだろうというあさひの問いに対して「そうでもないですね。この辺はもう、お子さんがいるおうち自体が少ないと思いますよ、高齢化で。学校かオフィスでも近所にあればね、また違うでしょうけど」と、子供がほとんど存在していないことを述べます。そうすると、義兄とともに町を歩いた際に突如現れてくる子供たちは一体なんなのでしょうか。
 単なる幽霊として考えていいのでしょうか。あるいは、夏の記憶といったものなのでしょうか。あさひは、自分が専業主婦になったことを、人生の夏休みと捉えている節があります。そうすると、夏休みという記憶がフラッシュバックされているという可能性も考えられます。

 タイトルにもある「穴」という象徴を考えれば、彼女は一度「穴」に入ることによって、自己の殻に閉じこもり、新しい家の中に入った「嫁」という存在になったということにもなるでしょう。すると、最初にその「穴」という殻に閉じこもった瞬間から、最後にもう一度義祖父と一緒に「穴」に入って抜け出すという行為を通すことによって、かつての自己と向き合っていたということになります。その間の空白の二ヶ月は、彼女は人生の夏休みにはいったのであり、そこでかつての夏休みの記憶をよみがえらせることによって、再び新しい自己へと変革していったのでしょう。


いまだ残る家制度
 あさひが家についた際に思い起こされる記憶に、仏壇の前にあった義祖母の写真が義母と似ていることを指摘した際のことが思い起こされます。しかし、義母は嫁いだ身ですから血縁関係はないのです。
 「しかし、見れば見る程写真の義祖母と姑は、頬の辺り、口元の皺などがそっくりだった。具体的にこのパツが、と言えないのに似ているところが何より肉親めいて思われた」というように、血縁関係がなくても、「嫁」という存在が似た風貌をもつことが小説の序盤から示唆されます。
 世羅の奥さんとの対話では、彼女は「お嫁さん」と呼ばれます。松浦さんと呼ばれていた職場での関係は終わり、家庭内では「あさちゃん」「あさひ」と名前で呼ばれますが、関係性を重視した他者からの視点を通すとあさひは松浦家の「お嫁さん」になるのです。「お嫁さん、と呼ばれる度に妙な気がした。お嫁さん、と私は今まで呼ばれたことがあっただろうか。働いている限り名前で呼ばれたし、そうでなくてもお嫁さん、と呼びかけられたことはなかった。(中略)世羅さんからすれば松浦さんと言えば姑の代の人を指すのだろうし、夫は息子さんになるのだろうし、となれば私はお嫁さんだ。私はお嫁さんになったのだ」
 ここから、他者の視点を通して自分をお嫁さんと認識するようになります。

 義兄が家からの逃亡を図った理由は、一緒に川に行った際に語られます。
 「でもただね。ねえ、家族って妙な制度だと思いませんか。一つがいの男女、雄雌ね。それがつがう、何のために、子孫を残すために。でもさ、じゃあ誰もかれもが子孫を残すべきなんだろうか?例えば僕は差し当たり親父とおふくろの子孫なわけだけれど、僕は次代に生き延びるべきほどの価値がある存在なんだろうか?そんな、価値があるんだかないんだかわからない僕を育てるために、親父は身を粉にして働いて、おふくろは血も繋がらない、しかも気の合わないバアさんと同居してまあ若死にはしたけれども看取って、死ぬのだって簡単じゃなかったんだよ。それだけのことを処理して、残った気難しいジイさんに仕えて。滅私奉公ですよ。嫁だの、母親なんて。そんなまでして、親父やおふくろがやろうとしていることは、ただ一つ、僕とい子孫をどうにかして次の世代に生きて残そうとしてるわけです。それが僕は気味が悪いんです」
 義兄が最も雄弁となった箇所です。ここでは、なぜ子孫を残さなければならないのか、子孫を残すと言うための莫大な生命力、それから逃れられなくする家制度というものを批判しています。
 「誰かがしんどい思いをするんだよね。その役目がお嫁さんに行かなきゃいいけどとは思うけど、でもお嫁さんは好きでこれを選んだわけだし・・・・・・」「これって?」「流れみたいなものに加担することにですよ。僕が逃げたそれからですよ」
 ここでいう「流れ」とは、先の引用箇所にあった、子孫を残すと言う流れのことでしょう。そしてそこから義兄は逃れたのです。彼は長男でしたから、妻を娶って後を継がなければいけない。その重圧に耐えかねて逃げ出したのです。
家制度というのは法律上でも禁止されていますが、しかし、実際にはまだその名残がかなり色濃く、無意識になったぶんさらに厄介になって残っています。
ここまでくると、すでに一人の平凡な主婦という末端的事象からはなれて、我々人間がどうして制度をつくって、その流れにのり、子孫を残しているのかという、大きな普遍的な事象まで視野に入れた指摘になります。

おわりに
 このような問い、なぜ私たちは生きるのか、子孫を残すのかという問いは、それ以前ではあまり生まれてこなかった。というのは、そうした問いを封じ込めるためというか、そうした問いを深めないために、様々なものが機能していたからです。特に土着的な宗教というのは、一族という意識を生み出し、そのなかで生死を繰り返しているという認識を与えました。ですから、自分は自分だというよりも、自分はながい年月続いている大きな家のなかの一部であって、そこから抜け出すなどといった考えには及ばなかったのです。しかし、形式では家は残りつつも、その家制度を解体してきたのが、ここ数十年のポストモダンと呼ばれる流れです。「家制度」を解体してきたものの、変に残ってしまった。そのことが、家制度に流されつつも、それに乗っている自分というものを発見し、どのようにすればよいのかわからなくなってしまったのです。
 そうした意味で、この小説は確かに、現代をいきる若者世代の感覚を、一人の主婦という視点から物語っている点で成功しています。
 芥川龍之介は「漠然とした不安」のために死んだのは有名ですが、当時芥川ほどの頭脳の持ち主が気が付いたことに、現代の私たちは多くが気が付き始めたのです。このままでいいのか?と思いつつも、しかしどうしたらよいのかわからない。そして、何かを積極的に行動しようという気概もない。そのようななかで、「生き辛さ」に繋がっているのです。
出口のない漠然とした不安を体現しているという点ではこの小説は成功しています。ですが、この小説の主人公は、穴という自己の殻に一端閉じこもり、そしてもういちどそこから出て来た時には、すでに家制度の中に収束された、没個性となってしまったのです。
 20世紀の哲学者エーリッヒ・フロムは主著『自由からの逃走』というまさしくそのタイトルと同じく、我々は自由を与えられると責任を負うことに恐怖を感じ、そこから逃げ出してしまうと述べています。結局家制度を解体してきたこの数十年でしたが、若者の世代のなかには、あえてかつての家制度のようなものに身を任せるという状況が起きているのです。
 最後の一文はこうなっています。
 「家に帰り、試しに制服を着て鏡の前に立って見ると、私の顔は既にどこか姑に似ていた」
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