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ミュージカル映画『シェルブールの雨傘』 感想とレビュー ラストの解釈をめぐっての一考

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はじめに
 『シェルブールの雨傘』(Les Parapluies de Cherbourg)は1964年のフランス映画。巨匠ジャック・ドゥミ監督が若いころの前衛的な作品で、その音楽を若かりしミシェル・ルグランが担当したという、伝説的な名画です。いわずと知れた名画で、おおくの解説もありますが、一応それらの解釈を読んだうえで、自分の頭で考えることが大切だなと思い、私なりの解釈を書きたいと思います。

作品概説
 一応作品の概説の設定を確認しますと、この映画が描いているのは1957年11月から1963年のクリスマスまでの6年間です。90分の映画は、第一部 旅立ち、第二部 不在、第三部 帰還の三部構成です。 舞台となったシェルブールは、フランス北部の英仏海峡に面した港町。意外と盲点となるのが、登場人物たちの年齢ですが、物語開始時点ではギーは20歳、ジェヌヴィエーヴ16歳(途中母親との問答で17歳になったと述べていることから、おそらく16歳の時、あるいは17歳になりたてがジェヌヴィエーヴの年齢です)という、極めて若い二人です。やはり映画だと、どうしても大人っぽく見えてしまうので、もう二十代なのかなと思ったら、ヒロインに限ってはティーンエイジャーも真っ盛りという年齢。
 映画の時間は63年に終わっていますから、その時点で二人の年齢は26と23(22後半か23前半)。ラストシーンの二人は人生の深みを見たのかずいぶん大人びて見えましたが、それでもまだまだ若いのです。
 途中第二部の不在では、ギイがアルジェリア戦争に出兵しています。これは1954年から7年半にわたって戦われたアルジェリアの独立戦争のことです。映画の公開年月が1964年ということから、公開された当時はオンタイムの作品だったということになります。

物語視点
 まずこの映画をどのように解釈するか、見るかということですが、一つこの設定から浮かび上がってくるのは、反戦のメッセージがあるだろうということです。もちろん、そのようなあからさまなメッセージはありません。しかし、時には沈黙することがメッセージになるように、この映画では戦争のことは描かれていませんが、その戦争に対してのメッセージは読み取れるのです。カメラはいつまでも、シェルブールという場所に留まり続けています。けっして、ギイでも、ジュヌヴィエーヴをも追って行きはしません。シェルブールという場所にとどまって、そこで二人の姿を映し出しているのです。
 恋愛映画であれば、そのどちらかに、あるいは両方にカメラが追っていくような映し方をするほうが自然、というよりやりやすいはずです。しかし、この映画の視点はつねに人ではなくて場所に留まり続けています。ですから、兵役についたギイのことは、追わないのです。ギイが戦地でどのような状況にあり、何があったのかということは一切描写されません。その間は、シェルブールに留まったジュヌヴィエーヴを映します。そして彼女がローラン・カサールと結婚してどこかへ行ってしまうのと同時に、ギイが戻って来る。ジュヌヴィエーヴがどこへ行ったのかも追わないのです。

 この映画が二人の恋人の結ばれない悲劇を描いていることは、おそらく誰もが感じることでしょう。これが喜劇だというのは、あまりにも斬新すぎる、そう解釈するならばかなりの論証が必要になります。さて、その悲劇というのはいいとして、その悲劇がどのようにして起こされたのかという点に注目しなければなりません。そうすると、その悲劇というのは、戦争によって引き起こされたということがわかります。この映画は戦争についてはまったく何も描写しませんが(かなり異様なほど、少しくらい戦地にいるギイの描写があってもいいのではないかと思われるくらい)、それによって引き起こされた悲劇を描くことで、その悲劇を起こした原因に対する無言の抗議をしているわけです。
 だから、この映画はオンタイムで、戦争によって引き裂かれた男女の仲を描くことによって、当時の戦争に対しての無言のメッセージを送っていたということになるでしょう。

 しかし、この映画の批判の目はなにも戦争だけに向いているのではありません。戦争も確かに大きなファクターになったことは確かですが、戦争がなかったからといってではこの二人が結ばれていたかと言えば、そうだと断言するには少し難しいものがあるように感じられます。というのは、ジュヌヴィエーヴの母であるエムリ夫人の存在。彼女は、自分の娘が幸せになってくれるようにという親心から、修理工のギイのことをよく思ってはいません。ありきたりといえばあまりにもありきたいな親ですが、しかし、往々にして親とはこのようなもの。どうしたって、愛だなんだと言っても、現実を見てしまうのです。愛があればなんでもできると、若い者は考えてしまいますが、社会を生きてきた人間としてはその認識がどんなに甘いものかわかってしまう。いくら愛だといっても、経済的な考えをもってしまうのです。
 そしてそこに丁度良いタイミングで現れる宝石商のローラン・カサール。社会的に独立もしていて、金銭的にもかなり余裕がある。そして、何よりも下心ない紳士です。
 この映画をみて、ジュヌヴィエーヴに対して怒りを抱くのは当然と言えば当然。母とカサールが悪人に見えるのも当然です。なぜなら、その時観客はギイの視点で映画を見ているからです。戦地に赴いたギイのかわりに、観客はシェルブールの地にのこり、そこで起きた出来事をギイに変わって見ているといった構図になります。
 しかし、ギイの立場でみればこその怒りであって、もし本当に自分がジュヌヴィエーヴだったら、あるいはその母であったらと考えれば、少しことなった見方になります。第二部不在の時のジュヌヴィエーヴは、映画ではずいぶん大人っぽく見えますが、設定では17歳か18歳。このような若さで子供を身ごもり、しかもその父となる人間は自分の想像もつかないような遠い場所にいる。そして、手紙もなんだか送ってこないし、母は「忘れたのよ」と言う。このような状況のなかで、自分の信ずべきものがなくなってしまっていたというのは想像に難くありません。まだ17、18のうら若き少女がギイという不確定要素を待ち続けるにはあまりにも過酷な出来事だったのです。そして、まだ「自分」というものもしっかりと出来てはいません。二年間ギイを待たなければならないといっても、十代にとっての2年は、我々大人の2年とは異なります。
 母だったらどうでしょう。父でもいいですが、自分の娘が修理工の男と子供をつくってしまった。そしてその男は戦地にいる。生きて帰って来るかもわからない。あるいは帰ってきたとしても、もう働けないような体だったら。さらには、もううちの娘には興味がなくなってしまっているかもしれない。そんな時、子供がいてもいいと言ってくれるハンサムで紳士な男性が現れたら。そして自分は現在金銭的にかなり困っている。そんな自分のことも救ってくれるようだとしたら、どうすればいいのか。

 または、もっと一般的な観点からみて、女性は、常にそばにいてくれる人でないとだめなのだということも言えるでしょう。遠距離恋愛が失敗するのは、こうした原因でもあります。女性と男性の認識のしかたは少しことなっていて、男性はその場にいなくても思い続けることができますが、女性にとってはそんな未来の不確定要素よりも、その場にいる現実が重要になってくるのです。これはよく、男性は何日もかけて狩をしてきたため、未来を考える力が強くなり、女性はその日その日のことを考えて生活していたので、目下のことを重要視するようになったと、進化論的に言われたりもします。
 女性はどんなに思っていたとしても、その場にいなければいないと同じことなのです。もちろん、そこに他に誰もいなければ思い続けることはできましょうが、しかし、この場合はカサールという男が居た。しかも、母親もその男性を推している。こうなれば、十代の少女が自分の母親の期待に背き、カサールという男の期待に背き自分の信念を貫くというのがいかに難しい状況であったのかがわかります。


ラスト解釈
 観客の予想に反して、結ばれなかったギイとジュヌヴィエーヴ。第三部では、悲哀に暮れるギイと、その伯母を献身的に支えて来た地味なマドレーヌとが結ばれます。
 この地味なマドレーヌに関しては、橋本治という人が詳しく解説しているようです。私は読んでいないので何を指摘したのかわかりませんが、マドレーヌの変身について考察しているようです。マドレーヌはとても地味な女性として描かれていましたが、三部で伯母が死んでから後の彼女の変容振りが注目されます。まず彼女は、自分は出ていくというのに対して、ギイはいかないでくれと頼む。しかし、マドレーヌは今のあなたは嫌いだ、そして私はあなたのことを変えられないと言います。伯母にも死なれ、恋人にも逃げられたギイに対して、もう少し優しい言葉をかけてあげてもよさそうなものだと思いますが、彼女はギイのためをおもって、敢えて突き放すのです。ギイは彼女に一緒にいてほしい、一人にしないでほしいと嘆願します。マドレーヌは、今のまま、ギイの孤独をいやすためだけの存在は嫌だと述べるわけです。そして次の場面では、ギイは身だしなみをただし、ガソリンスタンドの設立に奔走しています。そこで待ち合わせたマドレーヌはあの地味な様相から一変、オレンジのドレスにオレンジのカチューシャというなんという変わりよう。マドレーヌは、ギイを単なる孤独をささえる知人としてではなく、恋人として、対等な関係を持って支えたのです。ここでは、マドレーヌという女性の大変な努力の跡が見て取れます。観客もあらためて、マドレーヌの素晴らしさをギイの視点にたって見直すわけです。

 さらに数年経った後、マドレーヌは髪も切りより美しい女性としてスクリーンに登場します。最後まで変化を続けるマドレーヌが印象に残ります。そこに、ジュヌヴィエーヴが車で通りかかる。スタンドの中にはいってからの会話を見てみますと、
「義母のところに預けていた子どもを迎えに行ったの。シェルブールは結婚以来初めてだわ」
「黒い服だね」
「秋に母が亡くなったの」
「あなたにそっくりだわ」
「名前は?」
「フランソワーズ。会う?」 
「君はもう行った方がいいよ」
「幸せ?」
「ああ、幸せだよ」
 常に変化しつづけるマドレーヌと対比され、喪服に身を包んだジュヌヴィエーヴの姿は涙をそそります。
 多くの人によって指摘されていることですが、第一部で子供ができたら名前をどうするかと二人が話した際、「フランソワ」とつけるとジュヌヴィエーヴは言います。第三部では、はじめてギイの子供が二人登場するわけですが、マドレーヌとの間に生まれた子供は「フランソワ」、ジュヌヴィエーヴは自分の娘に「フランソワーズ」と名付けています。このことからも、マドレーヌと結ばれたギイは、決してジュヌヴィエーヴを忘れていたわけではなく、むしろ自分の息子の名を呼ぶごとに彼女を思い起こしていたということが浮かび上がります。こうすると、ジュヌヴィエーヴはスクリーン上ではかわいそうに見えますが、マドレーヌも決して本当の幸せなのかどうかとなると怪しくなるものです。
 また、これは私の勝手な解釈ですが、なぜジュヌヴィエーヴは義母のところに娘を預けていなければならなかったのでしょう。母が死んだのは秋。とすれば、その葬儀で忙しいかったからということにもなりますが、だからといって娘を預けるだけのことになるでしょうか。しかもかなりの道程がある。そのような道程を経てまでも娘を義母のところに預ける理由というのがなかなか見つかりません。
 そして、娘を引き取るのはいいとして、なぜ運転しているのがジュヌヴィエーヴ自身なのでしょうか。カサールが運転していてもよさそうなものです。この二人の会話からは、カサールの気配はまったく消えています。完全にカサールを思い起こさせるものはない。とすると、カサールとの関係はかなり険悪な関係になっているのではないかと私は感じました。「幸せ?」と聞くのもあまりにも意味深長です。それは自分が幸せではないから聞いたのではないでしょうか。「幸せだよ」というギイの返答に対しては何も答えない。幸せであれば「私も幸せよ」くらい返事をよこしてもいいようなものです。彼女は自分がかつて誤った判断をしたことを悔いていて、自分が幸せになれなかったことをギイに知ってもらいたいようにも思われます。
 それに、下手な推論をするよりも、彼女の姿はどうしたって幸せそうには見えません。わざわざ遠回りをしてシェルブールに寄ったという言説からも、彼女が母を失い、あるいはカサールとの関係が破滅的になり、かつての恋人であったギイとの思い出の町に少しでも行ってみたいと思っていたことがわかります。
ジュヌヴィエーヴが去った後、すぐにマドレーヌと息子との抱擁をするギイですが、彼の中にもつねにジュヌヴィエーヴへの想いが、息子の名に刻まれています。果たしてこの物語のなかで、幸せになれる人物はいたのでしょうか。



こういう有名な映画音楽はいつ聞いてもその時々の青春の日々を思い起こさせてくれるもの。映画をしらない世代でもこうした楽曲だけは残しておきたいものです。
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デュマ・フィス『椿姫』 感想とレビュー 物語の構造と読み解く視点

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はじめに
 デュマ・フィスは、『モンテ・クリスト伯』や『三銃士』などを書いたアレクサンドル・デュマの私生児。父のアレクサンドル・デュマと区別するために、父親を大デュマ、子を小デュマと呼び分けたりもします。ややこしいもので、デュマ・フィスも、本名はアレクサンドル・デュマなのです。フィスというのは子という意味だそうです。
 『椿姫』はデュマ・フィスの代表的な作品。フランス文学のなかでも有名な作品のうちの一つです。デュマは、『椿姫』をもとに様々な戯曲を書いたりと、戯曲で多く活躍したそうで、当時のフランスの文人たちは、小説家というくくりというよりは、戯曲や詩なども書くいろいろな分野に活動していた人が多いようです。
 ポスト構造主義や、記号論、言語学など1900年代後半を賑わせた新しい学問は、その多くがフランスの論客によってリードされてきました。フランスには、アカデミー・フランセーズといって、国立の学術団体が存在したり、国語教育にかなりの力を入れています。そうした土壌のうえでは、素晴らしい文人、知識人が生まれてくるわけで、フランス文学というのは文学を勉強するうえでは欠かせない重要な分野になっています。

物語の構造
 父大デュマが壮大な物語を長大な分量で書いたのとは反対に、小デュマは小さな物語を小説一冊程度の分量で書きます。この物語もどこにでもあるといえば、どこにでもあるような話。ある一人の少年が、高級娼婦に恋をして、その娼婦と一時期同棲生活までするも、父や周囲の圧力によって非業なわかれを遂げるというもの。有り体といえば有り体です。
 また、訳者の新庄嘉章氏も述べているように、デュマ・フェスはモラリスト的な側面がぬぐえず、ややお説教小説のようになっていなくもないという点は重要な指摘です。しかし、新庄氏は、その面を踏まえた上でも、「作者の人間味豊かな情緒」がこの作品の欠点を補っていると述べています。私もそう思います。ちなみに、この新庄嘉章氏というのは、日本のフランス文学者で、多くの実績を残された研究者です。
 物語の内容は有り体ではありますが、しかし、私はこの小説を読んでいてページを繰るのが止められないほど夢中になりました。その原因は、新庄氏が述べたように、人間味豊かな情緒のためです。これだけそこに描かれている人たちが生き生きとして働きかけてくるというのは、そうあるものではありません。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』のようにおもしろく読めました。
 物語は1847年、書き手でもあり語り手でもある「わたし」がある売り出しを見付けるところから物語ははじまります。その競売にかけられた素晴らしい家具や宝石などの持ち主は、少し前ならだれもが知っていた高級娼婦のマルグリット・ゴーティエのものだったのです。
 「わたし」は、マルグリットの競売品から誰かからの贈り物らしい『マノン・レスコー』の本を購入します。それからしばらくして、死んだような顔をした若者、アルマン・デュヴァルが本を購入したという情報をもとに、「わたし」のもとを訪れます。この本をマルグリットに送ったのはこのアルマンだったのです。そして、アルマンはもうすでに死んでしまったマルグリットの死体をもう一度見るために、奔走します。この当時は、一度墓に埋めた死体でも、墓を変える際には遺族の申し出があればできたようで、アルマンは彼女の死に立ち会えなかったがために、また彼女への愛情のために、別の墓地を見付けだしそこに埋葬するために、彼女の遺体を移動させてもいいか彼女の遺族のもとに出向きます。
 そして、彼は彼女の遺体を移動させると、その後「わたし」とともに自宅に帰り、今迄何があったのか、自分とマルグリットがどのような関係だったのかを話し始めるのです。この物語は「わたし」が見て、聞いたものを「わたし」が書いているという構図のもと、その多くはアルマンの語りで構成されています。アルマン宅で、ずっとアルマンは「わたし」に対して、自分とマルグリットとの二年ほどの関係をずっと話し続けるのです。その語りが終わると、マルグリットのアルマンへの手紙が引用され、マルグリットの晩年の世話をしていたジュリー・デュプラの引用も少しされ、「わたし」のわずかなコメントがあり物語は幕を閉じます。常に「わたし」が見て聞いたものを「わたし」が書いているという構図になっているという点に注意しておきたいですね。

様々な要素。デュマの視点、「からだ」と「こころ」
 さて、この小説は、モラリストとしてデュマから読み解くこともできます。彼は、自分が私生児で生まれたということにずっとコンプレックスを感じていたらしく、まさしく文学者らしい文学、このように社会の悪によって虐げられた人々の代弁をする文学を書き上げました。当時は娼婦というのはひどく社会から嫌われたものだったようです。もちろん、金持ちの爵位を持った人々や社交界に出入りする若者たちはそのようなことを気にせずにマルグリットのような高級娼婦と交際をしたようですが、世間一般からみると娼婦というのは酷く迫害された存在であったようです。語り手の「わたし」は最初と最後に自分がなぜこの物語を書くのかということを示しています。
 「わたしはなにも悪徳の使徒ではないが、気高い心を持つ不幸な人びとがあげる祈りの声を聞けば、いつでも、みずからそのこだまとなって、それをそのまま世に伝えたいと思うのである」
 悪徳の使徒というのは、娼婦を美化したことによって、娼婦を認めていると糾弾されるおそれがあったからでしょう。現在ではフェミニズム、ジェンダー研究が発展してきましたから男女平等はまあ、ある程度はかなえられるようにはなってきてはいますが、まだそうした意識のない150年前のフランスでは、娼婦は悪であって、それを擁護すれば、周りの人間に糾弾されること必須だったわけです。
 ひとつにはこうした側面から、デュマが社会によって虐げられた人々を救いたいという気持ちがうかがい知れます。
他には、純粋な恋愛小説としても読めます。もちろん、それだけで消費されるものではないと新庄氏も述べているように、それだけで終わるものではありませんが、本編の多くはアルマンとマルグリットの身を燃やすような激しい純愛の物語です。
 思うに、西洋の身体論に支えられたこの小説に登場する人々は、よく「体」と「こころ」を切り離して喋っているように見受けられます。
 「あたしたちのからだは、もうあたしたちのものじゃないのよ。あたしたちはもう人間じゃなくて、品物なの。」といったマルグリットのセリフから、自分達の「からだ」が商品であり、それを売っていることがわかります。当たり前と言えば当たり前ですが。しかし、だからといって、「きもち」まで売っているのかというとそうではない。「からだ」を売っても「きもち」までは売らないということで、彼女たちは彼女たちなりのプライドを保っているのです。しかし、アルマンにとっては、マルグリットは娼婦ではありません。アルマンは、アルグリットを娼婦として金で買うのではなく、金という媒体を介さない恋愛をしようとしたのでした。そして、マルグリットにとってもそれは、こんな商売をしている人間にとってはもう人生で一度きりしか起こりえない本当の愛だということで、二人は恋に落ちて行きます。「からだ」と「こころ」を切り離した考えというのは、明治に日本にも導入されます。現在では、恋愛の対象、結婚の対象、性生活の対象は、一人のパートナーとするのが良いとされていますが、これはじつはここ数十年に作り上げられたロマンチック・ラブ・イデオロギーというイデオロギーなのです。明治時代の吉原を描いた小説などを読んでおりますと、とうじの見合い結婚は恋愛がありませんから、結婚していても、恋愛と性生活を求めに吉原へ行くということになり、それぞれ独立したものであったことがわかります。
 この小説にかぎっても、マルグリットは自分のからだは金にしばられているので、こころはアルマンにやるが、からだはしばしば伯爵などに売らなければならないと最初は述べます。しかし、それで許せるようなら男も楽ですが、現実はそうはいかない。女性は、「からだ」と「こころ」を別ものにして考えますが、男性はそれを一緒に考えます。「からだ」を売るということは、すなわちその人の「こころ」も売られてしまうということで、とてつもなく男性にとってはつらいことなのです。

まだまだ楽しめる沢山の視点
 他にもこの小説を読み解いていく視点はいくつもあります。
 なんといっても男と女の駆け引きを楽しむという読み方は、現在でも通用するものがあります。マルグリットはこの小説では玄人女ということで、恋愛にはかなりのエキスパートとして描かれます。しかし、その嘘の恋愛には慣れた彼女も、アルマンのひたむきな純粋な愛情に打ち負かされて、まるで処女のように恋愛をするのです。と、アルマンは自分の語りでそう述べているということになります。半面はたしかにそうでしょう。マルグリットにとっても、これは本当の愛なんだ、いままでとは違うのだということを意識していたことは読み取れます。しかし、半分はやはり恋を商売にしていた女性ですから、そこでの経験値があります。かなり論理的に恋愛論を述べるところなどから考えても、彼女は彼女なりの恋愛観を有していて、恋の駆け引きもかなりの術を知っているようです。押したり引いたり、二人の恋愛論の掛け合いというものは、恋愛の勉強になります。

舞台としての都市
 「都会の喧騒から遠く離れていますと、人目をさけて、恥も恐れもなしに、思うさま愛することができるのでした。そこでは娼婦の面影は次第に薄れていきました。今わたしのそばにいるのは、ひとりの若い美しい女です。マルグリットと呼ぶその女をわたしは愛し、わたしも彼女から愛されていました。過去はもはや影も形もなく、未来には一片の雲もありません」
 文学研究において、「舞台としての都市」という概念があります。都市というのは、例えば原宿の奇抜なファッションをする人がいる。そういう人がいわゆる舞台の上の人であって、観客はそれを見ることによって、真似をしたりするということです。この小説も、この理論を応用できます。パリというのは、この小説では「うわさの都」と呼ばれていますが、華々しい社交の世界です。その都市にいる間はマルグリットは自分の生命をけずるような不摂生や、乱れた生活を送るのです。パリでは彼女は一番の美人、花形の高級娼婦。彼女が役者となって、パリの文化をけん引していきます。しかし、それは同時に彼女の生命をけずるものでもあるわけです。本当の恋愛をしたマルグリットとアルマンは、舞台としての都市パリを離れ田舎に離れます。残念なことにパリに戻らなくならなければならなくなりますが、しかし、田舎でくらした数か月の二人は非常に落ち着いた環境の中で健康も回復し、お互いに愛を深め合うのです。

様々な端役 現実家のプリュダンス 社会としての父
 この小説が「人情味豊かな情緒」と言われたいくつかの理由として、個性的なキャラクターが挙げられるでしょう。キャラクターが個性的というか、それぞれの役割を担っていると言った方がいいかもしれません。マルグリットの友というか、同僚として登場するプリュダンスという年増の娼婦は、現実家として登場します。マルグリットもそうとうな手練れのはずでしたが、まだ彼女は若かった。その若さゆえに、自分が本当の恋に落ちればどのような未来がくるかわかっているにもかかわらず、その恋に猛進しなければならなかったのです。そんな若い二人を見て、それをやめるように助言するのがプリュダンスの役割。彼女は自分もかつては娼婦として第一線に立っていたからこそ言える助言を二人にします。二人の恋は、金銭的なバックがついていてのみ成り立つのであって、二人で田舎に引っこんでしまったらそれは成り立たない。いずれは不幸に陥ると注意するのです。プリュダンスは、自分の経験と、また飽くまでも二人の事をおもって述べている点が彼女を独立したキャラクターとして際立たせています。
 この二人の恋を邪魔する存在としては、もう一人。アルマンの父です。このアルマンの父は、「社会」といったものを体現化したような存在で、自分の息子がパリの高級娼婦に肩入れしているという噂を聞いてアルマンを田舎に連れ戻しにきます。
 後にわかることですが、この父は、アルマンに内緒でマルグリットと会い、そして、自分の娘が結婚する、そのためには兄のアルマンが娼婦と関係していてはいけないのだという理由でどうか手を引いてくれるように懇願したことがわかります。この父は、「わたし」も最後に会い父性性の象徴のような人だとして、評価しています。この父は前半は「社会」のルールとしてアルマンを取り戻しに来て、後半では優しい、息子想いの父として描かれます。こうした、キャラクターが存在するからこそ、この物語が単なる恋愛小説で終わらず、社会性を持ち、人間の深い心理を描いた小説として成功しているのです。

終わりに、愛すること
 「あたしが愛したのは、ありのままのあなたじゃなくて、実は、こうあってほしいと思ったあなただったのね」
この小説のもっとも素晴らしい点は、この小説自体が一つの恋愛論になっているという点です。マルグリットやアルマンの口を通して語られる恋愛についての様々な言葉は、恋愛の深い真理をついた名言としていずれもはっとさせられるものばかり。
 特にマルグリットの口から出る恋愛論はすばらしい。彼女は自分がアルマンのことを自分の中に抱いていたイメージで愛していたと告白し、あやまります。他にも、男性たちがなぜ自分達高級娼婦を買うのかというと、それは見栄のためだというのです。けっしてマルグリットのためではない。もしかしたら、自分達は相手のためだと思い込んでいるかもしれないけれども、結局は自分のためなのです。このような美しい女の旦那になっているという、見栄があります。他にも、娼婦を養っている自分というものに酔っているものもいます。金を出して誰かを生活させるというのは、かなり人間にとって、プライドを慰めてくれるものらしいようです。人は常に幻想を抱いています。その人を愛しているといっても、その人のある一面や、自分のなかのその人のイメージを愛しているにすぎません。そのなかで、いかに本当の相手に近づけるのか、自分のためではなく、相手のために愛せるのか、そうした部分が問われるのだと思います。
 特に嘘の恋ばかりをしてきたマルグリットから本当の愛が芽生えた時、我々読者は本当に美しいものを見ることができるのです。

アニメーション映画『カラフル』 感想とレビュー 新しくいきること

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はじめに
 『カラフル』(Colorful)は、森絵都の小説『カラフル』を原作とするサンライズ制作のアニメ映画で、2010年8月21日より全国東宝系で公開されました。
 『カラフル』の原作は1998年、それを実写化した作品も2000年に公開されています。私は原作と実写をまだ見ていないのですが、それらを比べることによっても新しい発見があるように思われます。いずれ私もその比較をするかもしれませんが、今のところは他の方に譲りましょう。

自殺前の真少年の周辺
 何もわからぬまま、現世とあの世との中間地のような場所から始まる物語。そこで待ち構えていた灰色の髪をした天使のような少年、プラプラに当選したということを伝えられ、もう一度下界で生きるチャンスを貰います。
 自分が何者だったのかもわからない魂は、下界で自殺をした小林真という少年の体から魂が抜けると同時にそこに入り込み、半年間「修行」とよばれる訓練をするわけです。そこでの成績がよければ、もう一度新しい生を与えられるということになると説明を受けて物語は始まります。
 記憶もなにもないわけですから、突然小林真という少年の体に入った魂は、右も左もわからずに、日常を送っていきます。幸せそうに見えた家族は、実は様々な問題を抱えていたことが判明。どうして、小林真という少年が自分の命を絶たなければならなかったのか、という謎解きが始まります。
 この映画はアニメーション映画にしては長く、126分という大作。冒頭の魂は、観客と同じ状況で、なにもわかりません。突然物語が始まるのに合わせて観客も魂も何がなんだかわからないまま、一応世界に身を委ねてみます。そこで様々な問題があったことが判明します。
 主人公の小林真はクラスのなかで浮いていました。しかし、それが直接の自殺の理由ではない。彼が自殺しなければならなかったのは、彼が恋心を抱いていた後輩の桑原ひろかが見知らぬ男性と二子玉川のラブホテルに入っていくところをみてしまったからです。そして、呆然とする真少年は、その後そこから自分の母親がフラメンコ教室の講師と一緒にでてくるところを目撃します。自分の恋をしていた女性の援助交際と、自分の母親の不倫をみてしまい、真少年は自殺します。
 この映画のメインはなぜ真が自殺したのかということの謎解きの側面を持っています。冒頭でプラプラが自殺の原因を口頭では述べますが、このプラプラのいう事はすこし信用ならないところがあるので、実際に新しい真少年はこの身体の持ち主が何故自殺したのかということを追い求めて行くのです。
 その過程において、新しい真少年は、自分が誰だったのか、かつて何の罪を犯したのかということを探し求めることもします。メイン軸はその二つの謎を追い求めることに支えられていますが、その途中で、いくつかの要素があります。
ひとつは、真少年の恋。かつての記憶はもうないわけですから、どうやらかつて恋をしていたらしい、桑原ひろかともう一度恋をします。彼女との交流のなかで、彼は恋をもういちど体験することになります。
 もう一つは、友人の存在。真少年は自殺する前、友達は一人もいませんでした。しかし、新しい真少年は、自分の身体ではないことをいいことに、新しい生として日常生活を愉しみはじめます。そのなかで彼は、かつての自分というものを意識することなく、新しいキャラクターとして「自分」になっていくのです。それまでは冴えない身長の低い、クラスでは浮いた存在だったのが、髪を上げてみたり、恰好良いシューズを買ってみたりして、イメージチェンジをはかります。そのなかで、早乙女という人の良い友達と、佐野唱子という人が苦手そうなクラスメイトと交流していくわけです。
 しかし、一方でこうした新しい関係の構築があるものの、他方ではより深刻な関係の崩壊が描かれます。真少年は自分の母親ではないと思いつつも、不倫をしていたらしい母親のことがゆるせなく、彼女につめたくあたります。
 見ているこちらもどきっとするような、結構激しい言葉の暴力がある。真少年は、それまでの記憶がないはずなのにもかかわらず、不倫をしたらしい母親のことがどうしても許せないのです。

土地褒め、自分の居場所の探索
 この映画の盛り上がりは中盤、再びひろかが男性とホテルに入ろうとしているところを連れ出す場面にあります。そこではベースの効いたミュージックがバックで流れ、真少年の緊張を表します。しかし、ひろかを一端救出したかのように思えたものの、ひろかは自分の意志でホテルへと戻ってしまいます。これは、男性としてはかなりショック。やはり、自分の好きな人は純粋でいてほしいという願いは誰にでもあるものでしょう。これを自分の意志で戻られたからには真少年のやるせなさといったらないでしょう。
 中盤でヒロイン救出に失敗したヒーローは、その後早乙女という不思議な友人と、玉電めぐりをするなかで、再び立ち直ります。この映画の特徴は、最近のアニメに多い、リアリズムがあること。原作では、どこが舞台なのかということは明確にされていないようですが、最近のアニメは、なぜかある場所を舞台にしたがる傾向があります。『けいおん!』を代表とする京都アニメは京都近辺を舞台とし、京都の文化などに興味がない若者も、アニメの舞台となったからという理由で観光したりしているそうです。2011年の『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』は、秩父市をモデルとし、大成功を収めました。こうしたアニメーションが現実にある場所を舞台にするというリアリズムのなかで、この作品もまた二子玉川園駅周辺を舞台としています。主人公の最寄り駅は等々力です。私事ですが、筆者も二子玉川駅にある別キャンパスに通ったことがあるので、ここらへんの風景はわかります。このアニメは二子玉川周辺の土地褒めをしつつ、玉電の歴史を振り返るという、ご当地アニメでもあるわけです。
 この土地をめぐる場面というのは、人によっては本筋からは離れるため退屈に思われるかもしれませんが、必要のない情報は描かれないという地点で考えてみると、真少年にとって最後の希望だったヒロインの救出失敗ですべてを失った彼は、土地をめぐることによって、自分の居場所を模索していたのかもしれません。そしてその自分の居場所を探す手伝いをしてくれた友人、これもまた人間関係においての自分の居場所を見つけるということになります。自分は居てもいいのだということをこの友人との交流を通じて自覚するわけです。

おわりに、自己を見付けるということ
 そして、自分の居場所を見つけた真は、こんどは自分のためではなく、ひろかのために救出をします。ひろかは、とても美しいものが好きだけれども、ときどき破壊衝動に駆られると、真の絵のまえで黒い絵具を握りしめて立っています。それに対して真は、人間はカラフルで、いろんな側面がある。だから、それはまったく不思議なことではないのだと言うのです。
 この映画のテーマはここにあります。人間はこうであるべきとか、このようなキャラクターであるとか、そういうことではない。人間はカラフルであるから、たまには緑色が強めにでてくるときもあれば、赤色が強めに出てくるときもある。しかし、その人は緑であるとか、赤でなければならないとかそういうことではないのです。早乙女君の人間として素晴らしい点は、佐野唱子がずばりと言い当てますが、「人を区別しない」こと。この映画の公開は2010年で、まだクラス内のいじめなどが問題化する以前でしたけれども、ここには早くもいじめについての描写が為されています。それがこの時としては精いっぱいの表現だったのでしょう。スクールカーストなどと呼ばれるものが、広く認知される前の、そのカーストの最も下、あるいはそこから排除された人々が真少年や早乙女君や、佐野唱子だったわけです。
 最後に真少年は、半年間の訓練を終えて、この世での生も終わるかもしれないということになりますが、そこはこの映画の少し調子のいいところ。実は真少年の体に戻ってきたのは、自分の魂だったのだということがわかり、それからも生き続けることになります。
 映画としては、かなり完成度が高く、とくに欠点らしいところはありません。まあ、しかしとても嫌な目で見れば、どうしてこれをアニメーションでやらなければならなかったのかなということはあります。かなり写実的で、リアリズムを追い求めた作品です。背景も写真のように綺麗。最近のアニメはどれもそうですが。しかし、それならば、せっかくアニメなのですから、別にどこかを舞台にしなくてもいいはずではあります。もちろん、最近は観客がうるさくなってきて、リアルでなければいやだという人が多くなってきているのかもしれませんが。
 しかし、アニメでなければ表現できないという場所も特になく、せっかくアニメで作ったからには、もっとアニメにしか表現できない部分を盛り込めばよかったのではないかなと、私は思いました。
 いい映画です。良すぎると言うのが欠点かもしれませんが。それから、登場人物たちがあまりにも泣いてしまうために、こちらのぶんの涙も流されてしまっているようで、少し残念。なぜか、映画のなかの人物が泣き始めると、いいところだったのに泣けなくなってしまうというのは、私個人の問題でしょうが。

映画『ザ・マスター』 感想とレビュー 精神の回復、そして独立

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はじめに
 『ザ・マスター』(The Master)はポール・トーマス・アンダーソン監督・脚本・共同製作による2012年のアメリカ映画です。
 舞台は第二次世界大戦後のアメリカ。タイトルにもなっているマスターというのは、フィリップ・シーモア・ホフマンが演じるランカスター・ドッドというカリスマ性を持った壮年の男性です。この人物は思想家として、戦後アメリカで活躍します。このランカスターが創設した新興宗教は実在する団体であるサイエントロジーが参考にされているそうで、フロイトの夢診断などの心理学的な知見を応用した一種のサークルといったようなものです。

新興宗教批判ではない映画
 この映画は、製作陣の一人であるジョアン・セラーは「これは第二次世界大戦を描いた物語であり、大戦後の社会を漂流する人々を描いた物語なんだ」と述べているように、この新興宗教を批判した映画ではありません。もちろんそれを表現するということは、必然的に批判の視点を持つことになりますが、それが主題ではないということです。むしろ、その新興宗教の創世記の部分を描きつつも、ホアキン・フェニックス演じるフレディ・サットンという青年に主眼が置かれています。
 このフレディという青年(残念なことに私には青年には見えなかったのですが・・・)は、第二次世界大戦で多くの日本人を殺したことに精神的にショックを抱えています。直接そのことが精神的にショックを与えたのだという描写はありませんが、彼等の対話を通して、それがかなり深く傷をあたえたことがわかります。しかし、どうやらフレディにはそれ以外にもいくつか問題があるようです。彼は、この映画でいつも不思議な酒を持っています。フレディ特製の酒で、一体何が配合されているのかわかりませんが、おそらく当時市場に出回っていた麻薬性のある医療品などを組み合わせて、一種の麻薬のような酒を作り出していたのでしょう。
 アルコール中毒とも、麻薬中毒とも取れないような状況のなかで、フレディは周囲のものを破壊していきます。更生しようと本人なりには頑張っているようですが、それが周囲の目にはそう映らない。そして、あるとき些細なことでかっとなって、すべてを破壊し、その場にはいられなくなってしまうのです。
 そんな時に出会ったのが、このドットという男性。彼は、カリスマ性を有し、周囲の者を魅了します。ドットは自分のことを医者でもあり、科学者でもあり、作家でもあり、論理哲学者でもあると紹介します。
 その時点では何かよくわからないのですが、彼は自分の考えに基づいてあるメソッドを打ち立てます。そのメソッドにそって、人間の精神の奥深くにある記憶を呼び覚まし、トラウマを解消、人間を自由にできると考えているのです。
通常こうした新興宗教を扱った映画をみると、その新興宗教への批判で終始してしまいますが、この映画が優れているのは、そうしたことに終始しなかったという点です。やはりどこか奇妙な点はあります。特に日本人には、新興宗教に限らずに、宗教全般に対して何か醒めた視点があります。そして私もまたそれに影響を受けているであろう人間の1人ですから、この映画を見ていて、変な人たちだなと思いました。
 しかし、この映画はその新興宗教について、ただ単に良いとか悪いとかの判断はしていません。あくまでドットとフレディとの交流がメーンになります。

フレディの人間的回復
 この映画はフレディ回復の映画だと私は思うわけです。恐らく多くの人がそう感じると思いますが、それとはまた私のいう回復は少し違うような気がします。というのは、フレディの回復というのは、ごくごくわずかな部分というか、やっとある段階に達したというだけで、今後また破壊衝動に駆られたり、また回復しなければならないかもしれないという不安が付きまとった中での回復だということです。だから、これで人間的に回復したんだ万歳、よかったよかったということとは違うのだろうと私は思います。
 そして興味深いところが、このドットの使用したメソッドが全く役に立たなかったわけではない、むしろフレディの回復にある程度役立ったのだという点です。新興宗教を取り扱った映画などでは往々にして、それは全て幻想であるとか、ものすごい否定的なメッセージを観客は受け取ることになりますが、この映画が不思議なのは、そうしたネガティブな感情を受け取らず、なんとも言えない晴れやかな心持ちになるということです。
 例えば劇中に、まどと壁の間を行ったり来たりして、目をつぶりながら壁なり窓なりを触り、それから感じられることを述べていく訓練。あれはいかに自分のなかでイメージをコントロールするかという訓練でしょう。ペギー・ドッドによる口述の訓練では、見えているものそのものを意識でコントロールするという訓練。相手の瞳の色が緑に見えても、それを黒だと思い込むことによって黒に見ようという意識の訓練です。クラークとの罵倒し合う訓練では、いかにネガティブな考えをコントロールするか。すべて、怒りや破壊衝動を抑え、自分をコントロールする訓練です。
 そして、実際にそれはフレディにある程度の効果をもたらすのです。だからといって、完全にこのドットのメソッドを称賛するわけでもない。そこには批評として、このメソッドは宗教ではないかと指摘する人間の姿や、勝手に治療行為をするのは違反だという警察官が登場します。
 何はともあれながい訓練の末、ドット自身による目標訓練、その目標まで行って帰って来るという、荒野での訓練を受けて、フレディはそのまま姿を消します。しかし、一見姿を消したように見えるフレディも、かつて恋心を抱いていた彼女のもとにきちんと戻って約束を果たすという意味においては、目標にたどり着いていたのです。

おわりに
 最後のドットとの対話は感動的。お前は初めてマスターに使えない自由な人間になるのだと、ドットはフレディに述べます。大きな視点で見れば、フレディは精神的に子供な状態、自分をコントロールできない状態から、一端ドットを信じることを通じて、独立した精神を持つようになるという、人間の独立を描いているとも言えるでしょう。特に、途中ドットの思想にのめり込み、またそこから疑問を抱いて道を逸れるという部分の描写はとても上手い。
 私はここに、信じることの二面性を感じました。信じる者は救われるという言葉もありますが、ものごとすべてに二面性があるように、信じることにも二面性がある。ドットのような人間のいうことを信じているのは倖せでしょう。そこには確固たるものがあるので、アイデンティティは確立され、自信に満ち溢れ充実した毎日が送れるようになる。ながいことキリスと教が支配してきたこの数百年ですが、その間、狭義の対決があったのは別として、個人それぞれの不安というものは今ほど深刻ではなかったように感じられます。しかし、信じることのいけない面は、それを信じることによって、他のものは否定しなくてはならなくなってしまう点。フレディはドットを信じるあまり、ドットに反抗する者やドットの考えに従わないものに暴力を振ります。これはまだ一個人の問題ですから、まだかわいいもので、全員が全員例えばキリスト教を信じれば、他の宗教は駄目だということになる。宗教戦争が教えてくれるのは、いかに信じることが危険かということ。
 しかし、では信じることはいけないのかというとそうではない。何も信じることができなければ、人間生きていけません。だから、何を信じればいいのかということを、取捨選択していくなかで、また自分が信じているもの以外を否定しないように、独立した精神が必要になるのです。それを描いた作品だからこそ、この映画には普遍性があるように思われます。

映画 『ブレードランナー』 感想とレビュー 作品の影響関係とバージョンをめぐる解釈

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はじめに
 『ブレードランナー』(Blade Runner)1982年公開のアメリカ映画。フィリップ・K・ディックのSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(原題:Do androids dream of electric sheep?)を原作としています。
 アメリカでは70年から80年にかけて、SFブームが登場しています。そのなかで、1982年のこの映画が提示した「猥雑でアジア的な近未来世界のイメージ」は強烈なインパクトを与え、その後のSF作品や近未来を描く作品に大きく影響を及ぼしました。

スターウォーズとの比較
 私が調べた限りではまだ誰も指摘していないようですが、この影響を色濃く映しているのは、『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』(2002)でしょう。そもそもこの『ブレードランナー』の主人公リック・デッカードは、『スター・ウォーズ』旧三部作の主人公の一人であるハン・ソロを演じたハリソン・フォードが演じています。
 ハリソン・フォードを起用するということは、すでにそこに『スター・ウォーズ』旧三部作からの何かしらの影響はあると考えたほうがよいでしょう。1982年の時点では、1977年のエピソード4と、1980年のエピソード5が公開されています。当時のSFブームもありますが、そのなかでも『スター・ウォーズ』シリーズはまた独立した強力なSF観を打ち出していましたので、その影響もこの映画に見られます。
 ですからこの映画は、スターウォーズからの影響を受け、さらにその後のスターウォーズに影響を与えたと言ってもいいでしょう。エピソードⅡの冒頭では、アジア的な猥雑した空間のなかで、オビワンとアナキンが賞金稼ぎを追います。ブレードランナーでも、デッカードが初めてレプリカントを殺す際に追跡シーンがあります。スターウォーズのあの場面はこのシーンへのオマージュと考えられるでしょう。他にも、エピソードⅡでは、オビワンが毒矢をめぐって、情報通のもとに行く場面がありますが、このブレードランナーでも、まさしく同じようなシーンがあります。この部分もスターウォーズがオマージュしたのでしょう。

バージョンの違い
 私は今回、公開25周年を記念して監督自らが監修したファイナル・カット版を鑑賞しました。この映画のおもしろいところは、他の映画作品では類をみない、5つものバージョンがあるということです。本来であれば、その5つをそれぞれ比較することによって、新しい発見もあることでしょうが、そのような大変な研究は他の方に譲ります。
 一応このファイナルカット版が、それまでのバージョンをほとんど網羅しているようなので、初めて見る場合には、このバージョンで鑑賞すればいいのではないでしょうか。

 ただ、重要なのが、バージョンによって解釈がわかれてしまうところがあるということです。ここを少し考える必要があります。この作品は、2019年が舞台設定となっており、そこには私たちの世界とは異なった世界になっています。「レプリカント」と呼ばれる人造人間が人類のために、宇宙の最前線で過酷な労役をしているという設定ですが、この人造人間、あまりにも人間に近づけて製造したために、数年間も使用していると人間と同じように感情を持ってしまうというのです。そうすると、人間への反逆をしかねないということで、自動的に死ぬように、4年という短い寿命が定められているのが重要な設定です。
 この物語は、そのレプリカントが宇宙戦内で人間を殺し、地球に戻ってきたというところから始まります。このレプリカントが人間に対して反抗するというのは、それまでにもあったらしく、人間に反抗したレプリカントを殺害するブレードランナーという職業が存在しています。主人公のディカードはこのブレードランナーだったわけです。しかし、現在はリタイアして生活していました。ところが、ネクサス6という、最新式のレプリカントも含まれており、普通のレプリカントの相手ではないということで、リタイアしていたものの腕の立つデッカードが再び呼び戻されます。
 この作品は制作時に様々な問題が発生したらしく、その最たるものは、レプリカントの数。6人逃亡したという設定の上、1人船内の戦闘中に死亡、4人がディカードの手によって殺されるということで、あとの1人は誰なのかという問題が発生したことです。制作陣はもう一人のレプリカントを撮影するつもりだったようですが、金銭や時間の都合でカット。6人というところを直さなかったので、鑑賞者の間で疑問になりました。ファイナルカット版では、6人中2人が船内で死亡ということで、つじつまが合うようにされています。
 しかし、このレプリカントの数の問題は、さらに新しい解釈を生み出しました。監督自身はまったく予期していなかったようですが、このディカードという謎の男が実は6人目のレプリカントなのではないかという解釈になったわけです。監督もその解釈を制作した後(撮影が一端終わったあともなんども撮り直しをしたため、制作中と言った方が正確かもしれません)に知り、さらに気に入ったとあって、ディカードを6人目のレプリカントに仕立てようとしたこともまた物議を醸しました。
 一端世に送り出した後も、撮り直しをし、ディカードが六人目のレプリカントであるかもしれないという解釈ができるような場面を付け加えたりしたわけです。ですから、ファイナルカット版では、一応逃亡したレプリカントは6人とも死んだということになりますが、ディカードがレプリカントであるかもしれないという可能性も残されるようになっています。

レイチェルとなぜ逃げるようにして終わるのか
 私が気になったのは、最後の場面。レイチェルについてです。レイチェルは最新式のレプリカントで、さらに人間に近づけるために「記憶」まで埋め込まれています。そのため、自分は本当に人間であると信じているのです。まったくおそろしい話で、私たちも記憶が埋め込まれたり、あるいは抜き取られたりしたら、なにがなんだかわからなくなります。人間にとっての記憶とは、その人を固定するものとしてとても大切なものなのだなと最近思います。
それはさており、しかし、レプリカントかどうかを判断する心理学のテストのようなものを受けて、レイチェルは自分がレプリカントかもしれないと思い始めます。最終的には彼女は自分がレプリカントであるということを知ります。
問題は、どうしてディカードがロイ・バッティと戦った後、レイチェルをつれて逃げなければならなかったのかということです。あるいは逃げるような描写になっていたのか。
 この映画では、警察署の幹部であり、ブレードランナーの統括者でもあるブライアントという人間がディカードの上司にあたります。そのブライアントのもとで働き、ディカードとの連絡をつとめるガフという警察官がいますが、こいつが曲者。まったく喋らないので、何を考えているのかわかりません。彼は折り紙を折るクセがあるのですが、これがキーポイント。ロイとの戦いを終えたディカードに対して、これですべては終わった、あの女も先が短いのが残念だと述べます。おそらくレイチェルのことを述べているのですが、もしやガフはレイチェルを殺したのか?とここで思えなくもない。ディカードは早く自宅に戻り、レイチェルが生きていることを確認する。そしてどこかへ逃げるように飛び出していくのですが、ディカードの部屋の前には、ガフが置いたと思われる折り紙がある。ここにガフが来ていたということになりますし、なぜディカードが逃げようとしているのかを考えると、今度はガフがレイチェルあるいはディカードを含めて、処分しようとしてきていると解釈できます。ここからもディカードがレプリカントであるかもしれないという解釈は成り立ちます。

終わりに
 しかし、何と言っても悲しいのは、ロイが最強のレプリカントだと言われていた割には、全然大した戦闘をしなかった、というか、ロイがまったくみずからは攻撃をしかけなかったということです。ロイは、同じレプリカントであるプリスをなんとか延命しようと地球に戻って来るのです。おそらく感情は未発達ですが、それは恋と呼ばれるようなものに類する感情でしょう。プリスも人を殺す術を心得ていると言われていたわりには、くるくる回転してちょこっと攻撃するというようなもの。とても殺人と呼べるようなものではありません。その大した攻撃もできないプリスを無残にも殺し、ロイにも攻撃を向けるディカードは、いくら処分しなければならないといっても、あまりに理不尽、不思議な行動に思われます。
 ロイに至っては、ほとんど攻撃してこない。すべてはディカードが攻撃してくるのをよけながら、徐々に追い詰めるというだけで、積極的な攻撃はしない。最後には、落ちそうになっているディカードを救い、死んでしまいますし、まったくディカードに対して殺すという明確な意志をもっていないのに、ディカードはロイを殺すのです。
 この映画を見ると、とてもレプリカントが悪で、ディカード、すなわち人間側が善とは言えません。むしろ反対です。人間の道具として作られて、しかもそこに感情がやどったら処分するというのは、なんとも人間の勝手です。
 アジア的な猥雑観を持った未来像を提示したというだけでも、映画史上においてチェックしておくべき作品です。映画の内容とは特に関係ありませんが、日本語もちらほらと聞こえてきます(もちろん英語版で)。SFの金字塔とも言われていますから、是非チェックしてみてください。

映画『アマデウス』 感想とレビュー 天才と最上の凡庸

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はじめに
 『アマデウス』(Amadeus)は、1984年に制作された映画。ブロードウェイの舞台『アマデウス』の映画化です。舞台作品の映像化というのは、今でも脈々と受け継がれる映画作成のひとつの分野ですね。去年大ヒットした『レ・ミゼラブル』も、原作の映像化ではなく、舞台の映像化でした。
 タイトルにあるように、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、すなわちモーツァルトがテーマの映画です。しかし、モーツァルトが主人公なのかというと、少し異なります。この映画は一貫して、F・マーリー・エイブラハム演じるアントニオ・サリエリの視点から描かれる作品です。

音楽映画
 歴史的な人物、特に芸術家を扱った映画というのは、往々にしてつまらないものです。ただの独断と偏見ですがね。しかし、歴史的人物を扱うというのは、それだけで十分に難しいのです。映画というのは、一般的には2時間ほど、時間にかなり制約がある媒体です。その二時間のなかで、観客の感情をひきつけ、そして感動させなければなりません。とすると、必然的に、だいたい何分くらいにこういう場面があって、つぎに盛り上がってといった、大まかなプロットがあるわけです。一番の山場を最後に持ってくるというのは、フィナーレというオペラの言葉を使用するまでもなく、どの映画にも使用されている技法ですね。
 ですから、映画は実はかなり制約が強い芸術作品だと考えていいでしょう。多くの金と人が動きます。ですから、絶対に失敗することは許されない。映画は何十人、何百人という人間によって造られますから、それが監督の作品だと言い切れるのかも微妙なところです。制約が多く、しかも失敗が許されないとなると、人間はできるだけ賭けではなく、安全な道を選びます。それはそれでいいのですが、だからこそ映画ではあまり目新しい手法というのは、ごく限られた監督しか使用しないということになるのです。
 さて、そのように大体のプロットが決まっているなか、映画として作りやすい物語とそうでない物語があります。私がなぜ、歴史的人物を扱った作品はつまらないと言ったのかといえば、これが原因です。歴史的人物というのは、いくら映画だからといって、その人物を扱うにはできるだけ忠実に、史実に合わせて制作しなければならない。そうでないと、なんだ、モーツァルトが登場するが全然別人じゃないかと、フィクションを介せない人達の批判にあう。では史実通りに描けばいいかというと、これが難しい。そもそも映画は2時間ほどですから、どこを取捨選択するかというのがむずかしい。そして、いくらその人物が劇的な人生を送っていたからといって、最後にフィナーレがくるとは限らない。
 音楽家の人生を描いた作品は、例えば『ドンジョバンニ』(2009)、これは同じくモーツァルトを描いた作品がありますが、これが実につまらなかった。もう何がなんだかわからないくらいつまらなかった覚えがありますので、またモーツァルトかと、この『アマデウス』も実は少し嫌厭していました。他にも、最近で言えば『ラフマニノフ ある愛の調べ』(2007)や、『最後のマイ・ウェイ』(2013)などがあります。いずれも映画として素晴らしいとは言えませんが、ある程度面白い作品です。

天才と最上の凡庸
 この映画は、「モーツァルト」ではなく、「アマデウス」です。私はあまり音楽に詳しくないので、「アマデウス」がモーツァルトの名前であることを知りませんでした。しかし、モーツァルトの名がタイトルにあるからといって、必ずしもこの映画の主題がモーツァルトにあるとは限りません。
 もちろん、モーツァルトの人生も同時に描きます。しかし、この作品は、モーツァルトの物語があると同時に、それを語っているサリエリという実在した音楽家の物語でもあるのです。
 この映画が公開されてから、それまで歴史から忘れ去られていたサリエリは再び脚光を浴びたそうです。
 モーツァルトは紛れもない天才です。この映画においてという意味ですが。もちろん実際にも天才だったと思いますがね。
 この映画はある老人が自分の首をカミソリで切って、精神病院に入れられる場面から始まります。その老人のもとに神父が訪ねてくる。そして、最初は頑なだった老人も、次第に神父にかつての話を物語るという構図です。そこから回想場面が始まります。この映画は、一貫してサリエリによって語られたかつてのサリエリと、サリエリから見たモーツァルトの物語なのです。宮廷音楽家として、頂点に上り詰めていたサリエリ。しかし、そんな栄光の日々はある若者の登場によって、見事に崩されてしまいます。
 モーツァルトの登場です。モーツァルトはその天才的な才能をもとに、素晴らしい楽曲を作成します。しかし、若さと才能の故か、彼は傲慢で下品。このモーツァルト像は映画に苦情が寄せられたようですが、実際はどうだったのか私は知りません。そのようなモーツァルトをみて、多くの音楽家は彼を軽蔑します。サリエリもモーツァルトを軽蔑し、彼の出世を邪魔します。しかし、ある時、サリエリはモーツァルトの音楽が神によって生み出されたもので、自分が凡庸な人間でしかないことに気が付いてしまいます。しかし、自分は凡庸でも、モーツァルトが神に才能を与えられたことだけはわかってしまうのです。これがなによりのサリエリの悲劇です。モーツァルトの良さもわからなければ、ただの凡庸な人間として終わっていけます。しかし、サリエリは凡庸のなかでも最上の凡庸だったために、モーツァルトの才能を見いだせてしまったのです。しかし、自分にはモーツァルトのように音楽をつくる才能はない。モーツァルトの音楽の素晴らしさを唯一わかるという才能だけを与えられてしまったのです。
 この映画が公開されたあとに、サリエリの再評価がされたのも納得ができます。もちろんサリエリが語っているという語りの構造もありますし、製作者側からすれば新しい今までにない隠されたサリエリ像を提示したいということがあったのかもしれません。映画ではサリエリは苦悩する人間として描かれますが、どこか恰好いい。
 紛れもない天才を目の当たりにした時、人はどうするのか。私たちも日常生活において、勉強ができる、スポーツができる、恋愛ができる、仕事ができると、自分とは圧倒的に能力に差がある人を見ることがあります。嫉妬や羨望の念に駆られます。サリエリはまさしくその代表なのです。凡庸な人間が天才に抱くありとあらゆる感情を、この映画は見せてくれる。だから、私たちはサリエリに感情移入できるわけです。
 サリエリも人間。熱心な信者であった彼は、どうか自分にもモーツァルトに劣らない楽曲を書けるようにと願います。しかし、それもモーツァルトの圧倒的な才能の前では叶わず。ついには神を裏切ります。モーツァルトの妻に対して、その地位を利用して代償を求めたり、王様にモーツァルトの悪口を吹き込んだりします。
 しかし、最後の最後には、モーツァルトの理解者は自分しかいないということに気が付き、物語はラストへと向かっていきます。ここで、単純に和解したとかそういうオチでないのがすばらしい。サリエリは最後まで、モーツァルトを殺そうという意志を持っています。亡きモーツァルトの父が仮面舞踏会で着用していたマスクを購入し、それをつけて、死者を装いモーツァルトに近寄る。
 無理をして本番中に倒れたモーツァルトを見ていたサリエリはなんとかモーツァルトと二人きりになります。そして、モーツァルトと共に、彼が仕上げなければならないレクイエムを一緒に作成するのです。彼を殺そうと思ってこのレクイエムを依頼したサリエリでしたが、最後には二人の共同作業によってレクイエムは完成します。と同時にモーツァルトは死ぬ。
 せっかく共闘することによって得られた和解や友情といったものも、その無理によってモーツァルトを殺してしまったサリエリにはなんとも言えません。そうしてサリエリは自分が行ってしまったことの恐ろしさに苛まれ、老人になるまでずっとそのことで苦悩しつづけるのです。

おわりに
 この作品は、天才と最上の凡庸な人間を描いた素晴らしい作品です。天才と凡庸では面白くありません。しかも、大抵の場合、この天才が主人公になる場合が多い。しかし、この映画は凡庸の中の凡庸、凡庸の王であると自負するサリエリが主人公。天才に対する様々な感情に苛まれながらも、一部では彼も非凡な努力をする。しかし、最終的には天才を殺してしまうという悲劇に繋がるのです。
 音楽映画最高傑作と名高い名作です。悩み苦労しつづける人間に勇気を与える作品だと思います。

本や論文を読むにあたって、ランキングするというテクニックの紹介

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 ここ数カ月は、文学だけに限らず新書本にも手を出してきました。もちろんいい本の悪い本もあります。それについていちいち記事を書いていると大変な労力になってしまうので書かなかったのですが、おすすめできる本は簡単な評価と、いいなと思った部分を引用して、考える材料として残しておけたらいいなと思い、新書についても記事をできるだけ書いていくようにしようと思います。
 新書のおすすめ度は、五段階で表示します。
1:読む必要なし、2:あまり役に立たなかった、3:ふつう、4:役に立つ、5:もう一度読みたい
 私はこの数字をつけるという簡単な評価を読んだ論文や新書に付けています。4、5くらいになるとみなさんにも問題なくおすすめできるというものです。

 私はつねづね、それぞれの人がそれぞれのランキングを自分のなかに持つのがいいなと思ってきました。ですから、私や雑誌のランキングに惑わされずに、個人個人がそれぞれのランキングを持つべきだと考えています。しかし、とはいっても最初が肝心。本でも映画でも、大分作品にあたってきた人間は自立して自分の足で作品群を選り分け進んでいくことができますが、初心者ではそうはいかない。なので、雑誌のランキングなどでもいいのですが、しかしああいう雑誌にはいろいろな力がかかっていたり、いかに大衆的かといった価値が専攻し、本当にいいランキングとは言えない。そこで私は一応独自にランキングをつけて、それを提示してみようと思いました。このランキングではいかに大衆的かということではなく、個性的なランキングかということを大切にしたいと思っています。
 小説やエッセイはランキングできません(べつにするなといっているわけではありません、してもいいですよ)。小説どうしを比較してこれがいい、あれがいいというのは、かなり難しいからです。しかし、あることを理解納得させようという趣旨から書かれた論文や新書は、「私にとって有用か」という点でランキングできます。また、数字をつけておくと、あの論文もう一度読みたい、引用したいという時にぱっと出てきて便利ですので、是非皆さんも自分の数時なりマークなりをいれてみてください。

これだけは観てほしい作品、私が自信を持っておすすめする作品。 映画編  随時更新していきます。

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 名画と呼ばれる作品のなかには、映画にかなり詳しい人でなければその良さがわかりにくいものもあります。できるだけ映画を見ない人でも楽しめる作品を選ぶようにするつもりです。映画が見たいけれども、何をみたらいいのかよくわからないという人は、参考にしていただければと思います。
特に順番に意味はありません。

《タイトル》 (原題) (公開年 制作国)監督名

洋画

・」『レ・ミゼラブル』(2012年 イギリス) トム・フーパー監督、ヒュー・ジャックマン主演
一行紹介:ミュージカル映画が流行っていますが、そのなかでもダントツで素晴らしい。二回も映画館に足を運びました。

・『マンマ・ミーア!』(2008年 アメリカ) フィリダ・ロイド監督、メリル・ストリープ主演
一行紹介:見ればからなず元気がもらえる、そんな映画です。ABBAの有名なナンバーに合わせて物語が楽しく展開します。

・『オペラ座の怪人』(2004年 アメリカ) ジョエル・シュマッカー監督
一行紹介:何作も映画が作られてきた『オペラ座の怪人』。そのなかでもミュージカルを映画化した作品。ミュージカル映画の最高峰の作品です。

・『風と共に去りぬ』(原題: Gone with the Wind)(1939年 アメリカ) ヴィクター・フレミング監督 主演、ヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル
一行紹介:マーガレット・ミッチェルの世界的ベストセラー小説の映画化。今から70年以上も前とは思えない素晴らしい作品です。222分と三時間を超える大作にもかかわらず、楽しめます。

・『ローズ』(原題:The Rose)(1979年 アメリカ) マーク・ライデル監督 ベット・ミドラー主演
一行紹介:ジャニス・ジョプリンという伝説のロックシンガーをモデルにベッド・ミドラー扮するローズという女性が歌いまくります。ぼろぼろになりながらも生きる姿に勇気をもらいました。

・『ジャンゴ 繋がれざる者』(Django Unchained)(2012年 アメリカ) クエンティン・タランティーノ監督 
一行紹介:西部劇のただの焼き増しと思ったら、こんな単純な話なのになぜかすごく面白い。ストーリーは単に勧善懲悪だけですが、すかっとする映画です。

・『スターウォーズ』シリーズ
一行紹介:ストーリー順では、123456ですが、制作された順番は345、123。初めての人は、制作順に見ることをお勧めします。この映画は私が一番好きな映画。単に個人の趣味です。

・『80日間世界一周』(Around the World in 80 Days)(1956年 アメリカ) マイケル・アンダーソン監督
一行紹介:ジュール・ヴェルヌによる1872年に発表されたフランスの小説の映像化。1956年とはとても思えないスケールの映画。途中で日本も登場します。ヴェルヌが想像し、56年の時点から回想した形で描かれた日本はとても奇妙なものです。旅をしたくなる映画。

・『ヒート』(Heat)(1995年 アメリカ) マイケル・マン監督
一行紹介:内容はそんなにないよう、なんつって、単なるアクション映画です。少し長めですが、中盤で盛り上がりを見せ、最後になんとも言えない感慨に落ちる素晴らしい映画。アル・パチーノとロバート・デ・ニーロという『ゴッド・ファーザー』の二大俳優が共演。『ゴッド・ファーザー』では二人がともに登場することはありませんでしたから、この作品が初共演です。簡単でおもしろい。

・『アラビアのロレンス』(Lawrence of Arabia)(1962年 イギリス映画) デヴィッド・リーン監督
一行紹介:名画中の名画です。壮大なスケールで描き切ったロレンス大佐のアラブ解放の歴史物語。ところどころ解釈がわかれるところもあり、何度も見られる作品です。

・『ヴェニスに死す』(イタリア語: Morte a Venezia、英語: Death in Venice)(1971年 イタリア・フランス合作) ルキノ・ヴィスコンティ監督
一行紹介:なんといっても巨匠ヴィスコンティのなかでも屈指の作品。ただ、映画好きでないとちょっと苦しいかもしれませんが、芸術が分かる人ならば、こんなに素晴らしい映画はない。私は感動しました。マーラーの交響曲の素晴らしい音色に導かれる、芸術の体感です。

・『ゴッド・ファーザー』シリーズⅠⅡⅢ(The Godfather)(1972年 アメリカ) フランシス・フォード・コッポラ監督
一行紹介:イタリア系マフィア、コルレオーネ一家の歴史を壮大なスケールで描いた作品。映画というものがここまで深く、人間を描きだすことができるのかと、感慨に浸ります。また、人間の策略が描かれることもあり、何度もみてやっと理解できるなど少し難しいところもありますが、これは是非見ておきたい作品のひとつ。

・『ローマの休日』(Roman Holiday)(1953年 アメリカ) ウィリアム・ワイラー監督
一行紹介:今からみたってちっとも遅くありません。やはりいいものはいい。半世紀も前のシロクロ映画なのにもかかわらず、どうしたって面白い。ローマの名だたる観光名所をヘップバーンと一緒にめぐっているようで、旅行した気分にもなれる素晴らしい映画です。

・『プリンス・オブ・ペルシャ/時間の砂』(Prince of Persia: The Sands of Time)(2010年 アメリカ)
一行紹介:2004年発売の同名ゲームが原作だそうですが、ストーリーはオリジナルだそうです。最近の映画のなかにも、こんなに面白い映画があるのかと、思わせられる作品でした。アラビアンナイトのような雰囲気が漂います。

・『ミッドナイト・イン・パリ』 (Midnight in Paris)( 2011年 アメリカ) ウディ・アレン監督
一行紹介:エコールドパリ、1920年代のパリには、様々な文化人が集まってきました。私もそのエコールドパリを愛する一人ですが、この主人公もまたかつてのパリを懐古する人間。そんな主人公がある日1920年代のパリにタイムスリップします。ヘミングウェイやダリなどがわが物顔で登場するのも見どころ。

・『アーティスト』(The Artist)(2011年 フランス) ミシェル・アザナヴィシウス監督
一行紹介:21世紀の現代において、敢えてモノクロ、サイレント映画を作った強者。ストーリーはいたってシンプル。没落したアーティストが若手とともに復活するという、チャップリンの『ライムライト』を思わせる映画です。『雨に唄えば』など多数の作品へのオマージュが見られます。映画好きに是非。

・『レオン』(仏題:Léon、米題:The Professional)(1994年 フランス・アメリカ合作) リュック・ベッソン監督
一行紹介:こんなに泣ける映画はない。スターウォーズでパドメを演じたナタリー・ポートマンがまだ十四歳だったころの作品。ジャン・レノのかっこよさ冴え渡す素晴らしい作品です。暴力シーンはありますが、最後にはとても清められた心持になります。

・『ドリームガールズ』(原題: Dreamgirls)(2006年 アメリカ) ビル・コンドン監督
一行紹介:ここ数年のミュージカル映画の火付け役。ビヨンセも登場します。60年代アメリカで、黒人の歌手たちが一躍トップスターへと昇っていく姿を追った作品。音楽もよく、乗れるし、泣ける映画です。

・『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズⅠⅡⅢⅳ(Pirates of the Caribbean) ゴア・ヴァービンスキー監督
一行紹介:内容はそんなに難しくありません。海賊が戦う映画。主人公ジャック・スパロウ演じるジョニー・ディップの演技がなんとも言えない。彼の表現力を愉しむだけでも十分な映画です。

・『きみに読む物語』(原題: The Notebook)(2004年 アメリカ映画)ニック・カサヴェテス監督
一行紹介:こんなに心から泣けた映画は私はこの映画くらいしかありません。単にお涙ちょうだいで作られた作品ではなく、自然と涙が流れてきてしまう作品です。認知症をわずらった女性に、1940年代のアメリカの若い二人の物語を聞かせる老人。その物語は実は・・・。


邦画

・『男はつらいよ』シリーズ
一行紹介:私のような若い世代が見てもおもしろい!毎回同じパターンなのに笑えてしまう。もう本当におもしろい。また今の世代の人間が見ると日本の成長を映像としてみることができて勉強にもなります。1から見ましょう!

・『陽だまりの彼女』(2013年)三木孝浩監督
一行紹介:原作はライトノベル風で軽快な作品。その映画化です。原作もよかったのですが、この映画は映画としても素晴らしい。原作とは異なった作品として独立したといってもいいでしょう。私は上野樹里が好きなので、もう彼女のただひたすら見るだけでも幸せ。



アニメーション

・『かぐや姫の物語』(2013年 )高畑勲監督・スタジオジブリ制作
一行紹介:日本最古の物語『竹取物語』を新解釈。ジェンダーの視点を取り入れつつも、原作に忠実に再現しました。単純な感動とはいきませんが、考えさせられる映画です。

・『風立ちぬ』(2013年) 宮崎駿監督・スタジオジブリ制作
一行紹介:堀辰雄の『風立ちぬ』と、実在した飛行機設計士堀越二郎の二人をミックスして新たな人物として描いた作品。良い悪いの評価が激しく分かれますが、議論を呼ぶという点では素晴らしい作品です。感動しました。

・『時をかける少女』(2006年)細田守監督
一行紹介:『サマーウォーズ』や『おおかみこどもの雨と雪』などで注目の細田守監督の原点ともいえる作品。今挙げた作品も根強い人気があります。おすすめです。少し上の世代の方には、筒井康隆原作のときかけの新訳であるアニメーション版のときかけから見て見てください。

・『パプリカ』(2006年)今 敏監督
一行紹介:おなじく筒井康隆の作品を原作としたもの。アニメーションでしか表現できない表現を追求した、今敏(こんさとし)監督の代表作。まことに残念なことながら、これからのアニメーション業界をけん引するはずの今監督は2010年に亡くなってしまいました。この作品を見れば、今監督の世界がもっと知りたくなります。

・『AKIRA』(1988年) 大友克洋監督
一行紹介:同じく大友克洋の漫画のアニメ映画化。東京に原爆が落とされてしまったという、私たちの世界とは異なった近未来を舞台とした作品です。当時のアニメーション技術の髄を集めて作られた作品で、その描写のすごさといったらありません。世界に評価された作品です。

・『ヱヴァンゲリヲン』序・破・Q 庵野秀明監督
一行紹介:みなさんご存知のエヴァンゲリオン。しかし、なんだか沢山あって、実はよくわかっていないというかたも多いのではないでしょうか。そんな人は、95年に公開されたテレビシリーズをまとめた映画、序、破を見てください。そして、最新のQ。謎が謎を呼ぶ、隠喩に満ちた作品です。

・『魔法少女まどか☆マギカ』[前編] 始まりの物語(2012) [後編] 永遠の物語(2012) [新編] 叛逆の物語(2013) 新房昭之(総監督)
一行紹介:どうか食わず嫌いをしないでください。タイトルや絵面からするといかにも「オタク」という感じがしてしまうかもしれませんが、そうではありません。内容もシリアスですし、この作品はこれからの日本のサブカルチャーがどうなっていくのかを考える上ではかかせない、素晴らしい作品です。

・『虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜』(2012年) 宇田鋼之介監督
一行紹介:CGを一切使用せず、やさしく描いた作品です。懐かしい夏休みの記憶がほんのり蘇って来るような温かい作品。知らず知らず涙が流れてきます。

村上春樹『風の歌を聴け』  僕がついた嘘は何か? レーゾン・デートゥルを巡る一考

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 今年度はずっと村上春樹について研究していました。いちおうその集大成として、学年末に提出した村上春樹『風の歌を聴け』のリポートを掲載します。まあ、面白いものではありません。

はじめに
 村上春樹の『風の歌を聴け』は、「群像」(1979年6月)、単行本(講談社 1979年 201P)、文庫(講談社文庫 1982年)に初出 (注1)。第22回群像新人文学賞受賞を受賞した。また、第81回芥川賞候補作となっている。本論では、村上春樹の処女作である『風の歌を聴け』を分析し、それまでの研究を踏まえた上で、私の新しい解釈を提示したいと思う。
 本論では、「僕はひとつしか嘘をつかなかった」という部分をメーンに読み解きたい。そのために、まずいくつかの前提を考察したい。
 『風の歌を聴け』は前田愛氏の「不連続な時間がモザイク状に継ぎ合わされているテレビの番組を視聴するように読みすすめるのがもっとも自然な読み方なのかもしれない (注2)」という比較的早い批評を受け、それ以降この前田氏の批評に沿った読み方がなされてきた。それぞれの研究者、読者はその不連続のつぎはぎを自分たちの内部においてもう一度切り分け、再接続することによって、この作品に向き合っている。本論でも、今迄の研究に加え、新しい視点から断片化された40からなる章を再接続させ、新しい『風の歌を聴け』の一面を提示したいと思う。


引用

今、僕は語ろうと思う
この小説は、語っている現在の「僕」が、「ある作家」の引用を踏まえながら、文章論を展開するところから始まる。そのなかで、29歳の「僕」が何故語らなければならなくなったのか、次のように述べている。


今、僕は語ろうと思う。
もちろん問題は何一つ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。

 この部分を引用し、小菅健一氏は氏の論文 (注3)において「いささか大げさ過ぎるとも思える描写」と指摘する。その上で、「つまり(自己)療養や(自己)救済を試みていかなければならないということは、現在の時点での僕の精神状態が一体どのような不安定な厳しい状況の下に置かれている」のだろうかと指摘している。私もこの点については早々から気がついた点ではあるが、先行研究にすでに指摘されていたのでそれを引用させていただいた。氏は、その疑問をもとに、「僕」は自分の不安定な状況に至った原因を書くことができたのにもかかわらず、それをしなかったと述べている。これは多くの研究者も述べるところで、このテクストにおいて核となるストーリイが欠如しているということと同じである。高田氏はこれを「ドーナツのように、中心部分が空白になっている」(注4) と表現している。私は、テクストにある「バウムクーヘン」という語を用い、バウムクーヘンのように中心部が空白になっていると表現しておきたい。
 本論とは関係ないが、「僕」の文章論には続きがあり、この自己療養がうまくいった「何年か何十年か先に」「美しい言葉で世界を語り始める」「僕」を発見できるはずだと推論している。この「僕」を作家村上春樹に重ね合わせて見れば、主人公から発問をすることが少なかった前期春樹作品と、積極的に対話をしようとする後期の春樹作品の関係を説明できるのではないかと考える。「僕」を春樹自身と重ねるのは乱暴なことではあるが、村上春樹にとって、主人公がべらべらと喋り出すようになったのは、彼の思い描いていた救済だったのかもしれない。その点、1988年10月 講談社より書き下ろしされた鼠四部作の最後を飾る『ダンス・ダンス・ダンス』などは、救済された「僕」の姿を描いたものだと言えるだろう。その救済によって多弁になった主人公を読者が好むと好まざるとに関わらず、ということである。

三人をつなげるもの
ケネディー/1963/フランス/ビーチ・ボーイズ
 このテクストにおいて、僕、鼠、小指のない女の子が一堂に会することは一度もない。という事実は周知の上だが、その三人を結ぶものが専攻研究において様々指摘されてきた。いくつか引用したい。まずは柿崎隆宏氏の論文 (注5)から。

  

引用

『風の歌を聴け』のテクスト上に「ケネディー」は全部で五回登場し、石原千秋、平野芳信両氏が指摘するように、この小説の主要な登場人物である「僕」「鼠」「小指のない女の子」「仏文科の女の子」を関連付ける記号となっている。だが、その役割はそれだけではない。もう一度確認する。ケネディーがテクサス州ダラスで暗殺されたのは一九六三年である。数字としてはっきり表記されるのは一回のみだが、「ケネディー」という固有名詞を結びつけることで「僕」は「一九六三年」という年を読者の意識に刻みつけようとしている。


 柿崎氏はこのように述べたうえで、本文から該当箇所の引用をしている。仏文科の彼女においては、彼女の写真の日付が「1963年8月となっている。ケネディー大統領は頭を撃ち抜かれた年だ」ったという箇所を挙げている。柿崎氏は石原・平野両氏も指摘していると述べながら、〈「小指のない女の子」の父親が脳腫瘍で亡くなったのは、「五年前」つまり一九六五年であるが、「丸二年苦しん」だということは一家離散に帰結する彼女の家庭的不幸が、一九六三年に始まったということになる〉と指摘している。鼠に関しても〈ケネディー・コインを持ち歩いているし、「人間は生まれつき不公平に作られている。」という彼の認識はケネディーの言葉によるもの〉であると指摘している。また鼠三(四)部作という視野で考えれば、『羊をめぐる冒険』に「一九五五年から一九六三年ごろまで、」「考えてみれば、あれは俺の人生ではいちばんまともな時代だったな」(注6) という箇所があると引用し、「一九六三年はそれぞれのターニングポイントとなっている」と柿崎氏は主張している。私もこの指摘を援用したい。
 またこのテクストに散りばめられた記号のなかで、フランスについて言及したのも柿崎氏である。氏はこの物語が語られている1960年代後半から1970年代前半の情勢に配慮したうえで読みを進めている。この時代には、ベトナム反戦運動が日本を問わず世界全体で盛んだったが、「こうした世界的な叛乱の火種となったのが一九六八年にフランスで起こった「五月革命」である」と言う。それを踏まえた上で、フランスについてテクストに眼を転じると、〈「小指のない女の子」と「仏文科の女の子」はともにフランスと関わりがある。「仏文科の女の子」は文字通り仏文学科に在籍しているだろうし、「小指のない女の子」はYWCAでフランス語を習っている。また、「鼠」がおそらく「小指のない女の子」に「僕」の自宅の電話番号を教え、誤解を解いたと見受けられる場面で読んでいるのはフランス作家のモリエールの作品である。さらに物語の冒頭第五章で「僕」が読んでいる本もフランスの作家フローベルの『感情教育』である。ここでもテクストに散りばめられた「フランス」に関連するものが主要な登場人物を結び付け〉ていると氏は指摘している。
 氏の論文はそこまでしか指摘していないが、私はさらにいくつかの「フランス」と結びつくものを指摘しておきたい。鼠が突然の読書家となって登場する16で、鼠はロジェ・ヴィディムというフランスの映画監督の『私は貧弱な真実より華麗な虚飾を愛する。』を知っているかと「僕」に聞く。「僕」は「いや」と言っているから知らないのであろう。この事実は重要だと私は考える。この作品では様々なモチーフが媒体となって、それぞれの人物をつなげていく。フランスもその例外ではない。だが、ここで示されたフランス関連の映画を「僕」は知らない。とすると、このフランス映画を鼠がどのような事情から鑑賞したのだろうか。当時はインターネットがないため、おすすめの作品をまとめたようなサイトなどはない。このテクストにおいてフランスの知識はそれぞれの登場人物がある程度有しているが、この映画に関しては完全に「僕」と鼠のラインは切断されている。「おそろしく本を読まない」鼠が映画をどの程度鑑賞したのかは不明だが、「この間あんたと話してから」「ずいぶん本を読んだ」という文脈で話しているかぎり、映画鑑賞も「僕」と話してから始めた習慣のようにも取ることができる。もし、鼠が本や映画の素人であるとすると、行き当たりばったりで作品に当たっていくというのもあるが、通常は知人や友人などでそうした方面に詳しい人間におすすめの作品を教えてもらうことが多いだろう。誰もが知っているとはとても言えないメジャーでない作品をなぜ鼠が鑑賞しているのかというと、そこにはフランスで繋がるもう一つのラインが浮かび上がってくるだろう。すなわち、鼠と小指のない女の子である。
 ほかのフランスの繋がりについても考察しておこう。三人目のガール・フレンドが死んだと聞かされた時に「僕」が読んでいたのは、ミシュレの「魔女」である。「僕」はフローベルの「感情教育」を読んでいる部分が描写されているので、比較的フランスの文学に詳しい人間であることが伺える。だが、大学で「生物学」を専攻する「僕」がなぜフランス文学について詳しいのだろうか。それはおそらく三番目の彼女による影響だっただろう。仏文科に所属していた三番目の彼女に「僕」はペニスのことを「あなたのレーゾン・デートゥル」だと言われたが、それから彼女の死を知らされる約8ヶ月間は「奇妙な性癖にとりつかれ」ていたのであるから、彼女との交際期間もおよそ8ヶ月と考えてよいだろう。その間、「僕」が彼女によってフランス文学への手ほどきを受けたのは言うまでもない。「僕」がフランスについてある程度知識があるのは三番目の彼女からの影響であり、ここにフランスというモチーフによって示されたラインが浮き彫りになったと思う。
 最後にフランスをめぐって浮かび上がる関係は、「僕」と小指のない女の子である。彼女の家で食事をする二人の会話に、「パスツール」が登場する。

  「ねえ、パスツールは科学的直観力を持っていたのよ。」
  「科学的直観力?」「……つまりね、通常の科学者はこんな風に考えるのよ。AイコールB,BイコールC、故にAイコールC、Q・E・D、そうでしょ?」
  僕は肯いた。

 この「僕」の肯きがどれに対する肯定なのかは漠然としているが、フランスの生化学者、細菌学者をモチーフに対話が為されていることは重要である。また小指のない女の子が「生物学者と科学者の討論会」を見ていたのには、「暇さえあれば一日中でも見ている」ほどテレビ好きだということが理由のように書かれている。彼女の言によれば、「何もかも」見ている自負があるわけだが、わけても「生物学者と科学者の討論会」を彼女が見ていたのには、その直前に、20で二人がジェイズ・バーで飲んだ際に「僕」の専攻が生物学であることを聞いたからであろう。ここから、小指のない女の子が、「ひどいことを言った」謝罪の気持ちもあるだろうが、それ以上に口数の少ない「僕」とコミュニケーションを積極的に取ろうとしている姿勢を感じとることができると思う。
 僕/鼠/小指のない女の子を繋ぐ媒体は他にもある。ケネディーとともにその三人の連続性を示唆しているのは、作中にたびたび登場する「カリフォルニア・ガールズ」であると、山根由美恵氏は指摘している。(注7)
 山根氏は、40の章段を「Ⅰ29歳、Ⅱ21歳(鼠・小指のない女の子・DJ)、Ⅲ過去(1996年8月15日~1970年4月4日、1967年、1963年)」の7つに分けた詳細な票を提示して考察をしている。「『カリフォルニア・ガールズ』は12,13,15,17,39章に現れ、最初の登場は12章におけるラジオ番組と「僕」の対話の場面である。」「最後の登場が39章であり、その直前の38章に8月26日という記述がある」ことから、「『この話』の始めと終わりに『カリフォルニア・ガールズ』が配置されているという推測が成り立つ」という。氏の主張を要約すると、11章はラジオ番組。12章は同ラジオ番組から「僕」に、かつて「コンタクト・レンズを捜してあげ」た女の子からのリクエストが伝えられる。13章は『カリフォルニア・ガールズ』の歌詞。15章は14章でもらったラジオ番組のTシャツを着て『カリフォルニア・ガールズ』のレコードを買い求めに行く。その際、レコード店で働いていたのは小指のない女の子である。16章では15章で購入したレコードを鼠に届ける。これらの断片化された章は、それまで「「僕」と「鼠」、「僕」と小指のない女の子、「僕」とDJという三つの世界が平行線のまま」だったが、『カリフォルニア・ガールズ』という媒体を得ることによって、「因果関係を持って繋がり」はじめると氏は指摘している。

キリストという媒体
 さらに私は今回新しい因果関係を示唆している装置を発見したと思っている。私が調べたところではまだどの論文にも記述はなかった。なのでおそらく私が最初に言及することになると思うが、私の狭見では見落としもあるかもしれないことを先に了承していただきたい
 断片化された断章にさらに因果関係を構築するものとして、「イエス・キリスト」が挙げられるだろう。「僕」の誕生日が、クリスマスイブで、「イエス・キリストと同じ」なのは35章に描かれている。ここで「イエス・キリストと同じだ」という言葉はもちろん、誕生日が同じという意味で使用されているが、この文字を文字通りにいったん受け取ってみると、「僕」というキリストをめぐるテクストであると言うことができるのではないだろうか。他、キリスト教に関する箇所を論証する。初めてキリスト教関係の言葉が登場するのは、21章である。21章は、小指のない女の子との食事が描かれている20、22という章に挟まれていて、明らかに不自然な挿入のされ方がなされている章である。「ミシュレ」がフランスの作家であり、そこにもまたフランスが関係していることは先の通りである。ここでは「魔女」という言葉が登場するが、この「魔女」とは、おそらく「魔女狩り」のことを示しているのであろう。私は「魔女」を読んでいないのでその内容はわからないが、テクストの「魔女を焼いた」という表現から魔女狩りについて書かれた本であることはわかる。そして、「三人目のガールフレンド」と「魔女」という言葉をこの21という短い章段のなかに並立させることによって、「三人目のガールフレンド」を「魔女」と同一視しようとしている語り手の意識が浮かび上がると思われる。「キリスト」に関連させて述べれば、「キリスト」である「僕」にとって異端の存在であった彼女が、ある意味「僕」の正義によって殺された(みずからくびれてしまった)ということであろう。この「魔女」という言葉によって、僕と三人目のガールフレンドに連続性が生まれている。
 26では、「僕が寝た三番目の女の子」について語られている。「彼女は真剣に(冗談ではなく)、私が大学に入ったのは天の啓示を受けるためよ、と言った」という。また「それは天使の羽みたいにそらから降りてくる」ものだという。これに対して「僕」は、「天使の羽が大学の中庭に降りてくる光景を想像」しているが、「遠くらからみるとそれはまるでティッシュ・ペーパーのように見えた」と表現している。これは「僕」の三番目の彼女に対する批評と受け取れる。ティッシュ・ペーパーが何を意味するのかという問題はとても難しいが、ここからは大切なものや重要なものであるといった感覚を「僕」が持っていないことがわかるだろう。むしろ、「彼女」のいう「天の啓示」はティッシュ・ペーパーのように軽く、取るに足らないものと捉えているように思われる。
 少し戻って22。小指のない女の子の家で「僕」が一緒に食事をしている際の会話だ。「こんなに暑くなるとは思わなかったわ。まるで地獄ね。」「地獄はもっと暑い。」「見て来たみたいね」「人に聞いたんだ。」といった問答が続く。地獄と天国に関する知識を「僕」は誰から聞いたのかは明示されていないが、それはおそらくキリスト教(というより神学に近いか)に傾倒していた三人目のガールフレンドからであったろう。この推測を置いておくとしても、「僕」と小指のない彼女は「キリスト」を通じて繋がることになる。そして、その情報の入手ルートが三人目のガールフレンドだとした場合は、さらに「僕」と三人目のガールフレンドと小指のない彼女の三人が「キリスト」によって結ばれることになる。
 また小指のない女の子とキリストとの関係は33でYWCAに通っていることから関係を指摘できる。YWCAとは、広辞苑によれば「(young Women’s Christian Association)キリスト教主義に基づく女子の国際的青年運動団体」とあり、日本YWCAのウェブホームページでは「キリスト教を基盤に、世界中の女性が言語や文化の壁を越えて力を合わせ、女性の社会参画を進め、人権や健康や環境が守られる平和な世界を実現する国際NGO」(注8) であると表示されている。その活動の一環として、外国語教育をしている。この描写から作品の舞台となった場所はYWCAのある場所の近くということが想定され、神戸という場所がより有力となるだろう。小指のない女の子は、YWCAでフランス語を勉強していた。YWCAでの外国語教育がどのように行われるのかはわからないが、しかしキリスト教の教義を全面に押し出していることは明らかなので、授業やその他イベントで、キリスト教について何かしらの知識を得ていたことは確かであろう。
最後にキリストを媒体として「僕」と繋がるのは「鼠」である。「恐ろしく本を読まな」かったはずの鼠は、この作品内ではかなり読書熱心な登場人物として描かれている。27で「僕」が「会ってほしい」人がいるという「鼠」の依頼のために「ジェイズ・バー」に行くと、鼠は彼女と会ってもらうことを「止めた」という。その際に鼠が読んでいたのがカザンザキスの「再び十字架にかけられたキリスト」である。鼠の読書生活は「モリエール」に続き「再び十字架にかけられたキリスト」である。だが、「恐ろしく本を読まない」はずの鼠がどうしてこのような本をいきなり選んだのかという謎が生じるだろう。少なくとも「僕」が鼠に「この本を読んでみたらどうだろうといった助言をしている描写はない。とすると、鼠の読書体験の指導をしているのは誰かという問題になるが、私は後で詳しく検証するが、鼠の読書を指導していたのは小指のない女の子であると考えられる。この作品において、モリエールというフランスと、キリストの両方の知識を持ち合わせている人間は、「僕」か小指のない女の子であるからだ。
 「僕」と鼠が山の手のプールに行く31では、プールで泳いだ後デッキ・チェアで二人は戦争や古墳などの話題について話し合う。語り終えた後、「僕」は鼠に小説を書いたかどうか尋ねるが、それに対して鼠は「いや、一行も書いちゃいないよ。何も書けやしない。」と言ったあと、「僕」の「そう?」という疑問とも相槌とも取れない言葉を無視して「汝らは地の塩なり」「塩もし効力を失わば、何をもてか之に塩すべき」と言った。地の塩とは新約聖書のマタイ福音書第5章による有名な言葉で、日本国語大辞典によれば、「神を信じる者は、この世にあって塩のように、人の心の腐敗をとどめなければならないというイエスキリストの教え。転じて、「模範」とか、「手本」とかの場合に、そのたとえとしても用いられる」と記している。信者でなくとも有名な文句なので知ることの多い言葉であるが、この言葉を鼠が一体どこから入手したのかということもまた考えねばならないだろう。「再び十字架にかけらたキリスト」を私は読んでいないので、この文言をその本から鼠が得た可能性も捨てきれないが、私はYWCAに通っていた小指のない女の子から、この説教を聞いたのではないかと推測する。


鼠と小指のない彼女は破局寸前
 さて、ここまで断片化された章段のデータに関連性を持たせる作業をしてきた。ここからは、ではその関係を構築することによって何が見えてくるのかという部分を論じたい。
 私は平野芳信氏が引用した三浦雅士氏の要約はすばらしいと思い、またその要約に示される読みに賛成しているのでその部分を引用したい(注9) 。

  

引用

恋人に自殺された大学生が夏休みに帰省し、妊娠しているにもかかわらず男に捨てられたらしい若い女とふとしたことで知り合う。若い女はレコード店の店員である。男と女は互いの暗い体験を語り合うこともせず、何度か会う。女が中絶手術を受けた後のある夜、二人は何もせずに抱き合って眠る。二人にとってそれは最後の夜になる。


 同箇所を引用しさらに論を発展させた石原千秋氏の論(注10) もまた援用させていただき、その論に対する私の考えを論じたい。「僕」と鼠と小指のない女の子の関係が並々ならぬものであることは先の様々なモチーフの検証で示せたであろう。小指のない女の子は読み進めるうちに妊娠していることが判明する。小指のない女の子が身ごもった子供の父親は誰かという謎に対して、石原氏は鼠以外にありえないと断言している。私はおおむねこの主張には賛成だが、しかし断言までは出来ないと感じている。少なくともその可能性が高いというレベルでとどめておきたい。石原氏は「僕」が鼠にレコード渡す場面を次のように解釈している。「これは、レコード店で働いている彼女のところへ行けというサインだ。レコードの「包み」が、「小指のない女の子」の働いている店のものであることは、鼠にはすぐにわかるはずだからである。「君たちの関係はこじれている。だからハガキなどで済ますな。逃げていないで、レコード店に行け」という「僕」のアドバイスだ」。私もこの論に賛成である。石原氏はさらにホモソーシャルの問題を取り上げ、鼠を象徴的に殺し、「僕」が一方では鼠を励ましつつ、他方で鼠を出し抜き、小指のない女の子を奪おうとしていると論じている。この点に関して私はもう少し慎重になりたい。「僕」が鼠と小指のない彼女を取り持とうとしているのは私も賛成するところである。だが、「僕」が精神的に鼠を殺そうとしていたのかには疑問符が付くと思う。
 その後石原氏は論を進めていくなかで、「僕」が鼠と小指のない女の子に対して向ける視線を次のように説明している。「三人目に寝た女の子を妊娠させたまま自殺させてしまったばかりの「僕」は、それをものすごく後悔していた。そして、同じように身ごもって鼠と別れ話になっている「小指のない女の子」とジェイズ・バーで出会ってしまった。「僕」はこう思ったにちがいない。もしこのまま自分が帰れば、この「小指のない女の子」は自分の三番目の女の子のように自殺するかもしれない、と。だから、僕はあの晩彼女のアパートを帰らなかった。彼女を見守ったのだ」。私は石原氏の三番目の彼女妊娠説(後述するが、田中氏の妊娠説を取りたい)には懐疑的なのだが、「僕」が鼠と小指のない女の子の関係を取り持とうとしている点では石原氏の論に賛成である。
 9で「僕」が小指のない女の子に昨夜の出来事を話す場面がある。鼠のことを初対面の女の子に対して「奴」と表現しているのは石原氏の指摘通り不自然であり、鼠と女の子が知人であることを示唆していると私も思う。が、私はさらに、この「電話に出たのは女だった」っという部分にウエイトを置いて考えたい。それは鼠がこの女の子となぜ破局したのかという理由に繋がって来る。石原氏は妊娠と、金銭的な感覚の違いの両面から二人の仲は決定的になったと論じているが、私はここで「僕」がうっかり筆を滑らせて「手記」に記した「電話に出た」女に注目したい。⒑では、「ジェイズ・バー」に鼠がいないことが強調されたうえで、「グレープフルーツのような乳房をつけ派手なワンピースを着た30歳ばかりの女」がまるで鼠と入れ替わったように都合よく登場する。この女性は結局ここでしか登場しないのだが、電話と女という関係が9で語られた後すぐに登場する⒑での「長電話」の女が、9の電話の女と無関係と言うには不自然であろう。「僕」はジェイに「逃げ出すのかい?」と言われるように、バーを退出する。その際に「僕」は鼠について「とにかく鼠が来たらよろしくって伝えといて。」と言い残して行く。夏の短い期間に連日のように通っている「ジェイズ・バー」で鼠にわざわざ「よろしく」伝えておく必要があるのだろうか。それよりも、「僕」がジェイズ・バーを退散したのは、「長電話」をしている女の声が、鼠に電話した際に出た女の声と同じことに気が付いたからではないだろうか。そこで「僕」は電話をしたのが自分だと気が付かれないうちに早々に退散したのである。鼠に対してわざわざ言付けしたのも、「僕」がここで初めて鼠と小指のない女の子の関係が、この長電話の女によって危機的な状況にあることを知ったからで、「僕」は鼠が小指のない女の子と長電話の女で揺れ動いているのを知っているぞという念押しのため、ジェイに言付けしたのだろう。
 24で鼠が「一滴もビールを飲まなかった。これは決して良い徴候ではない」状態にあったのは、石原氏の指摘している通り、この時期がちょうど小指のない彼女が「旅」と称する堕胎の手術に出ている、あるいは出ようとしている時期だったからである。それは恐らく、鼠と彼女の関係が完全に終わったことを意味しているだろう。そうすると、24の最後で交わされる「人に会ってほしいんだ。」「……女?」という対話はどう解釈できるだろうか。石原氏はこの「女」というのを小指のない女の子として解釈しているがどうだろうか。私はすでにこの時には鼠と女の子の関係は終わっていると考えている。恐らく鼠と小指のない女の子は、「僕」のあずかり知らぬところで相当話し合ったはずであり、その結果として堕胎という道を決心したのであろう。とすれば、その時点ですでに決着はついているはずである。もし鼠の会ってほしい相手が小指のない女の子であれば、もはや手遅れである。小指のない女の子が「明日から旅行するの」と言った日と鼠が「会ってほしい人がいる」と言った「その夜」と、どちらが早いのかはわからない。だが、鼠が女性に会うための条件として提示した「スーツとネクタイ」で来いということも含めて考えると、やはり小指のない女の子と会うとは考えにくい。そもそも「スーツとネクタイ」が必要になる状況がどのようなものかわからないが、少なくとも二十歳未満である小指のない女の子と三人で会うとしても、「スーツにネクタイ」という格好はあまりにも形式的すぎるように思われる。と考えれば、「スーツとネクタイ」という服装で会わなければならないのは、社会人である「長電話」の女の方であろう。またその翌日に結局「女」と会うことを「止め」てしまった鼠だが、その短い言葉に含まれる「僕」へのメッセージは、何かと心配をかけて、仲を取りもとうとしてくれたが、「僕」の奮闘むなしく、鼠をめぐる女性の関係はすべて終わってしまったということだろう。恐らく「長電話」の女とも、小指のない彼女とも、どちらも修復不可能な関係になったのであろう。「長電話」の女の離婚にも、鼠が関わっているかもしれない。


〈小指のない彼女〉と〈三番目の彼女〉
 平野氏は田中実氏の論を引きあいに出しつつ、次のように述べる。

 田中実氏により、「三番目に寝た女の子」が「僕」の子を宿し、その命をこの世から葬り去った後、自らの生にもピリオドを打ったという解釈が出された。それはテクストの細部との整合性を持った、迷宮の脱出の第一歩を記す画期的な読みの出現といっていいだろう。しかし私が田中論を真に評価したいのは、八月八日に「僕」が出会った「小指の欠損した女の子」を、四月四日に死んだ恋人の再臨と捉えている点である。

私も孫引きであるがこの田中論の女の子再臨論を援用したい。
 8で朝目覚めた「僕」は「隣に寝ている女を眺め」るが、「僕」にはその女が「まるで腐敗しかけているように見えた」という。つづく9においても、「苛立たせる何か」を別にすれば、「彼女は僕を少しばかり懐かしい気分にさせた」と述べている。
 19の最後で「僕」は三人目の女の子のことを次のように説明している。「彼女は翌年の春休みにテニス・コートの脇にあるみすぼらしい雑木林の中で首を吊って死んだ。彼女の死体は新学期が始まるまで誰にも気づかれずに、まるまる二週間風に吹かれてぶら下がっていた」。彼女が自殺したのが四月四日であるから、この時期に二週間吹きさらしになっているという状況はかなりシビアなものがある。法医学的な知識を私はまったくもたないので何とも言えないが、特殊清掃者が経営するウェブの情報 (注11)によれば、夏場であれば首を吊って亡くなった死体は二週間を持たずに地上に落ちてしまうらしい。春とはいえ、二週間室外で吹きさらしになっていた仏文科の女の子の死体は、恐らくそのまま空中にあったろうが、相当腐敗が進んでいたと予想される。仏文科の女の子の葬儀には当然「僕」も出席していたはずである。遺体を直接みることはなかっただろう。だが、生物学を専攻し、猫などの動物を普段から殺していた「僕」は、人体が二週間吹きさらしになっていたらどのような状態になるのかという予想はかなりできたはずである。その想像がまた「僕」を苦しめていたことは言うまでもないだろう。8で小指のない女の子を初めて見た際に思い出した懐かしさは、「腐敗」と共にやってきている。そこには「僕」が小指のない女の子を三人目の女の子と同一視している視点が見られる。
 小指のない女の子が自分の家族の話をした際に、「双子の妹」のことを 「三万光年くらい遠く」に住んでいると表現している。これは前田愛氏が指摘(注12) しているように、「死のアナロジー」であろう。ここからも、死んだ三人目の彼女と小指のない女の子の重ね合わせがみてとれる。
 田中氏も指摘しているように、小指がないということは欠損をあらわす。恐らく子供という欠損であろう。私は田中氏のいうように「「三番目に寝た女の子」が「僕」の子を宿し、その命をこの世から葬り去った後、自らの生ニモピリオドを打った」という説を取りたい。石原氏も同じく三人目の彼女妊娠説を唱えているが、石原氏の見解は身ごもったまま首を吊ったのだという点で田中氏とは異なっている。石原氏の論には「僕」が妊娠を気づいたのは今回のテーマの箇所である、「嘘つき」の部分であるとしている。がそれだと、「僕」が最後にセックスをしたのは4月3日だという石原氏自身の見解と矛盾してしまう。「僕」が他の女性と寝ていないのはその語りからも明らかであるから、石原氏のこの論は自己矛盾している。妊娠はしていないという解釈も当然なりたつが、妊娠をしていると考えた場合は、田中氏の指摘のように、どの時期かは不明だが堕胎してからしばらくの後の自殺ということになるだろう。
 語られている現在の時間軸となっている1970年の8月は「1969年の8月15日から翌年の4月3日までの間に、(中略)そんなわけで、彼女の死を知らされた時、僕は6922本めの煙草を吸っていた」という部分から、彼女の死からたった四ヶ月程度しか経っていないことがわかる。「僕」の子を妊娠し、堕胎し、そして自殺をした彼女の記憶は「僕」にとっては、完璧ではないと否定しなければならないほど、強烈な絶望だっただろう。そのため、「僕」は鼠と小指のない女の子をかつての自分に見立てて、その二人を救済することによって、自分の救済にしようとしたのである。


完璧な絶望
 しかし、「僕」の救済行為は成功したとは言えなかった。臨床心理の分野では、治療行為の一つに物語論(ナラトロジー)を応用した治療がある。そこでは、患者が自らの衝撃的な体験、(例えば3,11など)を語るという行為を通じて客観視できるようにする。自分の体験を一人称で語ることから、三人称で語れるようになることが治療が進んだということになるそうだ。「僕」はどうだろうか。「僕」は彼女の自殺という絶望を上手く書けない。
 冒頭では「僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。どんな長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。小説でも文学でもなければ、芸術でもない」と自分のここのうちを言語化できないことを語っている。「僕」が三番目の彼女の死を客観視し、語れるようになるのには8年間の歳月が必要だった。
 勝原晴希氏は論文「あらゆるものは通り過ぎる―村上春樹『風の歌を聴け』の終わらない〈終わり〉」(国文学 : 解釈と鑑賞 75(9), 167-174, 2010-09)で、〈「あらゆるものは通り過ぎる」と語る『風の歌を聴け』には〈終わり〉がなく、〈始まり〉もない〉と述べている。確かに氏の指摘するように、この作品はデレク・ハートフィールドという架空の作家の引用に始まり引用に終わることからも、この作品の始まりと終わりが「一応」というかぎ括弧つきのものでしかないことは確かであろう。ただ、私はこの一応のはじまりと終わりしか持たない作品が、それでも原動力になった何かがあるだろうと考えた方が自然だと感じる。この作品は「ハートフィールド、再び……」(あとがきにかえて)という章段で、「村上春樹」という作家がハートフィールドという架空の作家の墓を訪れた際のことが書かれているが、そこでは次のような文章がある。

  

引用

たっぷり一時間かけて僕はハートフィールドの墓を捜し出した。まわりの草原で摘んだ埃っぽい野バラを捧げてから墓にむかって手を合わせ、腰を下ろして煙草を吸った。五月の柔らかな日ざしの下では、生も死も同じくらい安らかなように感じられた。僕は仰向けになって目を閉じ、何時間も雲雀の歌を聴き続けた。
この小説はそういった場所から始まった。そして何処にたどり着いたのかは僕にもわからない。
 

 「そういった場所」というのが前の文章の具体的にはどこを指示しているのかは明確にはわからないが、この「あとがきにかえて」にウエイトを置いて読みに反映させる限り、この作品の始まりは墓の前ということになる。「高校生の頃」「ハートフィールドのペーパー・バックスを何冊かまとめて買ったことがある」「僕」はその「何年か後」にアメリカに「ハートフィールドの墓を尋ねるだけの短い旅」をしたことになる。「何年か後」という言葉は、2年から3年、4年から5年、と人によって範囲が変化する。高校生の頃という表現も、高校一年、二年、三年とで変化してくるのだが、この出会いから「何年か後」というのは、ちょうど21歳の「僕」が語られている現在の時間とほぼ一致する。では、「僕」がハートフィールドの墓に行ったのは、語られている現在よりも前だろうか。。私はそうは思わない。なぜなら、「この小説はそういった場所」(傍点引用者)から始まっているからであって、「そこから」始まったわけではないからである。では具体的には「そういった場所」とはどこなのか。「あとがきにかえて」で墓参りをしている「僕」のイメージが読者に喚起するのは、墓参りをしている状況から物語を書き始めようとしている「僕」の姿である。「仏文科の彼女」「三番目の彼女」の死がこの作品に隠された大きな出来事だと指摘した研究者は多い。が私はさらに、この「あとがきにかえて」の読みを作品全体に反映させることによって、「三番目の彼女」が亡くなり、その墓の前で自分の物語を書き始めようと決心する「僕」の姿を提示することができると思う。この点からも、「三番目の彼女」が「僕」にとってどれだけ大きな存在であったかが判明するだろう。またそのことを踏まえた上で、有名な冒頭の「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な文章が存在しないようにね。」というハートフィールドの引用は、この文章を引用しないわけにはいかなかった「僕」の姿を喚起させる。自分が傾倒する作家、あるいは妄想に「完璧な絶望は存在しない」と定義づけられないと「完璧な絶望」に打ちひしがれてしまう心の危機でもいう状況にあったことが浮かび上がるのではないだろうか。


レーゾン・デートゥル
 今論じた絶望についても関係してくるところであるが、このテクストは、レーゾン・デートゥルをめぐる物語として読み解くことができる。23において、〈僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを「あなたのレーゾン・デートゥル」と呼んだ〉と書いてある。このレーゾン・デートゥルがこのテクストにおいてどのような意味を有するのか。また、それを考察することによって、導かれる「嘘つき」の解釈を提示したい。
 日本国語大辞典によれば、〈レーゾン‐デートル({フランス}raison d’être )《レゾンデートル》あるものの存在を正当化する根拠。存在にとっての理性的根拠。存在理由。〉と書いてある。仏文科に所属していた彼女だからこそ出て来た表現であろう。
 三人目の彼女にペニスのことをレーゾン・デートゥルと呼ばれた「僕」は、そのために「奇妙な性癖にとりつかれることになった」と23で説明している。「全ての物事を数値に置き換えずにはいられない癖」がついてしまったと言う。
 だが、そのようにすべてを数値に変換していった結果「僕はレーゾン・デートゥルを見失い、ひとりぼっちになっ」てしまったのである。「そんなわけで、彼女の死を知らされた時、僕は6922本めの煙草を吸っていた」と続く。ここではいかにも、その数値化が「僕」のレーゾン・デートゥルを見失わせた原因のように語られているが、今迄の考察を踏まえた上で考えれば、これは「僕」の隠ぺいになるだろう。もちろんこの説明も一面では正しい。石原氏はヴィトゲンシュタインに始まった言語論的転回を踏まえて、「僕」が14歳のときに医者とのやり取りを通じて言語論的転回に傾倒したことを指摘している。「ものさし」を使用して世界を認識することは「落とし穴」だったと後に「僕」は気が付く。1で言及されている「落とし穴」は、語られている21歳の時の「僕」のレーゾン・デートゥルの喪失を指示しているのだろう。しかし、認識の問題だけで8年間も筆をとれない状況になるものだろうか。もちろん中にはそういう例もあるだろうが、私は「僕」が8年間の「ジレンマを抱き続けた」根本の原因は三番目の女の子の自殺にウエイトを置いて考えたい。
 対話という形式を持って三番目の彼女が登場するのは34が最初で最後である。他の部分にも彼女の言葉はかぎ括弧付きで再現はされるが、対話にはなっていない。34は、彼女との対話が始まる前に、「嘘と沈黙は現在の人間社会にはびこる二つの巨大な罪だ」とめずらしく「僕」が社会について語る部分がある。だが、ここで重要なのはもちろん社会について語ったということではなく、社会について語っている体裁を採りながら、「僕」が嘘と沈黙はいけないと主張していることである。ここから自分が嘘をついてしまい、またしばしば沈黙をしてしまい、その結果が引き起こしたことを省みて反省をしている「僕」の姿を考えることができる。その失敗の例が☆印の後の対話である。

「ねえ、私を愛してる?」
「もちろん。」
「結婚したい?」
「今、すぐに?」
「いつか……もっと先によ。」
「もちろん結婚したい。」
「でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わなかったわ。」
「言い忘れてたんだ。」
「……子供は何人欲しい?」
「3人」
「男? 女?」
「女が2人に男が1人。」
   彼女はコーヒーで口の中のパンを嚥み下してからじっと僕の顔を見た。
  
  「嘘つき!」
 
  と彼女は言った。しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった。

 ここで注目したいのはまず、他の質問がイエスオアノーで答えられる質問なのに対して、唯一子供に関する質問だけ、イエスオアノーで答えられる問題ではないということである。「……子供は何人欲しい?」という問いの仕方は、子供は欲しくないというノーの答えを受けつける余地がない。「僕」は、無理やりに子供が欲しいという前提の上で、何人ほしいのかと、彼女質問されているのである。また、この対話を通じて「……」六点リーダーが二回使用されていることにも注目すべきである。その二回の使用はどちらも彼女のものである。ここで三番目の女の子が、「僕」との対話にかなり神経を集中させて質問をしていることがわかる。「……子供は何人欲しい?」という問いのリーダーは、「子供は欲しい?」というイエスオアノーの問題を変化させるための時間であろう。
 彼女はこの時、すでに〈僕〉の子を身ごもっていた可能性がある。この問答を通じて、〈僕〉は子供を欲しがっていないことを知った彼女は、子供を堕胎する方向へと決心したのである。可能性としては、この時にはまだ身ごもっておらず、春休み中に〈僕〉の子どもを宿したことを知った彼女が、〈僕〉の子どもと共に自殺したということもある。ただ、石原氏の言うように、この時点で妊娠していた彼女が、「僕」の子を身ごもったまま自殺したとは考えられない。この対話は10月の出来事であることが書かれているが、この時点ですでに妊娠していたとして、4月に自殺した際にまだ胎内にいたとすれば、妊娠6か月以上である。その期間まったく彼女と会っていなかったということは考えにくい。それに石原氏の論では、4月3日に最後のセックスをしているとしているので、やはり石原氏の論には矛盾がある。石原氏の論を通そうとすれば、可能性として「僕」がこの半年近く彼女とまったく会わずに、妊娠六か月以上で彼女が胎児とともに自殺したパターンが考えられる。あるいはさらに石原氏の論を越えて、「僕」と彼女は妊娠をお互い共有した情報としており、産むことを決意していたのに突然彼女が自殺してしまったというパターンである。もしそうだとすれば、本当に「何故彼女が死んだのかは誰にもわからない」ことになる。
 話しをもとに戻し、ゴチックの「嘘つき!」についての論証をしていこう。多くの研究者が指摘しているように、「嘘つき!」が彼女の自殺につながっていることは確かである。ではなぜ彼女は自殺してしまったのだろうか。私はそれを彼女のレーゾン・デートゥルという視点から考えてみたい。彼女は、「僕」のペニスをレーゾン・デートィルと名付けた。ここにはあるモノに命や存在を吹き込む神話的な感覚が見て取れるだろう。例えばのはなしであるが、自分を愛せない人間は他人を愛せないといったことがよく言われる。だが、果たしてそうだろうか。たとえ自分を愛せないとしても、他人を愛することはできるかもしれないし、他人を愛することによって、他人を愛している自分を愛せるようになるかもしれない。自分を救うというのは案外むずかしいもので、自分を救えなかったとしても、他人を救えるということはある。彼女にとってのレーゾン・デートゥルもそのようなものだったのではないだろうか。
 彼女は「僕」のペニスにレーゾン・デートゥルを授けた。それは彼女にレーゾン・デートゥルが無かったからである。彼女が授けたその「僕」のレーゾン・デートィルによって授かる命こそ、彼女のレーゾン・デートゥルになり得た可能性がある。すなわち、一端「僕」にレーゾン・デートゥルを与え、そこから自分にもレーゾン・デートゥルを生み出そうとしたのである。見方を変えれば、「僕」と三番目の彼女は、彼女から「僕」へ、「僕」から彼女へという相互関係を結ぶことによって相互依存的にレーゾン・デートゥルを築き上げようとしていたのではないか。
 しかし、彼女が「僕」のレーゾン・デートゥルによって授かった胎児は、「僕」に承認されることはなかった。「僕」は彼女のレーゾン・デートゥルを作ることを拒否してしまったのである。そのため、彼女は自分のレーゾン・デートゥルを無くして、自殺しなければならなくなったと解釈できるのではないか。
 「嘘つき!」に話を戻そう。彼女は「僕」に「嘘つき!」と言い放ったわけだが、「僕」はそれに対して奇妙なことを書いている。「しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった」。だが、通常「嘘つき!」は一つしか嘘をつかなかった場合でも、使用できる言葉である。もちろん一般的には、いつも嘘をついている人間に対して使うことが多いが。そうすると、「僕」は自分では一つしか嘘をついていないという認識を持っているので、「嘘つき」という言葉はいつも嘘をついている人間に対して使用する言葉だと認識していることになる。それを踏まえて考えれば、「僕」は、彼女の「嘘つき」という発言は、「僕」の発言がすべて「嘘」だと言ったのだなと思っていることになる。彼女が本当に「僕」の問答のすべてを嘘だと思っていたのか、それとも一部が嘘だと思ったのかはテクストからはわからない。ただ、「僕」の「ひとつしか嘘はつ」いていないという主張を信じれば、その箇所は具体的には「3人」という部分になるだろうと私は解釈する。
 それは、この質問にだけ彼女の策略が特に大きく働いたということも関係している。「ねえ、私を愛している?」に対する「もちろん」は、あまりにも簡単すぎる返答ではないかと考えられるかもしれない。が、春樹文学には「もちろん」が多用されているため、単に作家が好きな言葉ということもあるし、特別な思いが込められている可能性もある。続く「結婚したい?」という質問にも「もちろん結婚したい」と「もちろん」を使用している。この「もちろん」と「もちろん結婚したい」は、「僕」の現実の心情に近いのではないだろうか。
 次の「言い忘れていたんだ」という部分が、そのように大事なことを言い忘れることがあるだろうかと考える余地はある。だが、この対話のあった4か月後に小指のない女の子との対話で、「何故いつも訊ねられるまで何も言わないの?」「さあね、癖なんだよ。いつも肝心なことだけ言い忘れる」と述べていることからも、本心でなかったから言わなかったのだということではなく、本当に言い忘れていたと考えるほうがより自然だろう。
 とすると、「3人」の部分が嘘になる可能性が一番高まるわけだが、質問を変えられなかった場合を想定したい。すなわち「子供は欲しい?」と彼女がもし聞いた場合に「僕」がどう答えたかだ。この質問に対してならば、「子供は欲しくない」「欲しい」の二択が考えられる。そして、どちらか真の答えを述べれば嘘をつかなくて良いことになる。だが、質問を変容させて、子供は欲しいとした上で聞いた。「欲しくない」という選択肢はふさがれたのである。ここで、彼女は「僕」の対応を見たのだろう。そして、それを嘘だと確信した。彼女は「僕」に嘘を言わせるためにこの質問をしたのではなく、嘘を見極めるためにこの質問をしたのである。もし、「もちろん」「もちろん結婚したいよ」「言い忘れていたんだ」のいずれかで、嘘だと判断がついたならば、その時点で彼女は「嘘つき!」と言うはずである。
 この「嘘つき!」が問題を困難にしているのは、彼女の認識と「僕」の認識で嘘の数が異なることである。彼女にとっては、嘘をついているかいないかを見極める質問であった。「僕」の「もちろん」「もちろん結婚したい」「言い忘れていたんだ」までの返答では、彼女は「僕」が嘘をついているかどうかわからなかった。だが、質問を変容させて答えさせた子供については、彼女は何か思うところがあったのだろう。単純に「3人」と書かれているが、そのニュアンスは彼女にとって特別な物であったに違いない。そこから彼女は「僕」が子供を欲しがっていないことを悟ったのだろう。妊娠している女性が彼氏が子供を欲しがっていないことを知ったらどうだろうか。恐らく彼女にとって「僕」が子供を欲しくないそぶりを見せたことは、彼女にとっては全てを否定されたことだったに違いない。彼女にとっては、子供が欲しくないというのは、子供だけ欲しくないという意味に留まらなかったはずであり、結婚したいということも、愛しているということも嘘だということになったのだろう。それは彼女の質問が、枝分かれ式で展開していることからもわかる。「愛している」という項目をクリアした上で「結婚」という項目があり、その上で「子供」という項目がある。しばしば男性に見られるのは、愛していても結婚したくないとか、結婚しても愛していないとか、子供は欲しくないが愛しているとか、それぞれが別の事柄だと考える思考である。この思考のずれが二人に悲劇を招いたのだろう。
 「僕」も「愛」「結婚」「子供」は段階的なものではなく、それぞれ別のものとして考えていたとすると、「嘘」はどれでも良いことになってしまうのだが、彼女が「3人」で嘘だと判断したことや、さらに小指のない女の子が堕胎したことに関して感情的にならないことなどからも、やはり「僕」は子供が欲しくなかったのではないかと考えられる。また、「僕」にとっての子供がどのような存在かはわからないが、「僕」は生物学を専攻にしていて、猫などの小動物、小さな生命を平気で殺めることができる。もちろん動物と人間、しかも自分の子供となれば話は別になるが、意識の底に、子供や小さな生命に対する認識が通常と異なっている可能性がある。
 あるいは、「僕」は質問を立て続けにされると腹が立つ傾向がみられる。9で昨夜何があったのか小指のない彼女に問い続けられた際には「苛立」っているし、12でディスク・ジョッキーに質問攻めにされた時にも、「腹が立ち始めた」とある。クールに生きることを目指してきた「僕」にとって、それはあらゆるものからの「逃げ」の姿勢だったのではないだろうか。質問に答えることを強要されるのは、そこに答えなければならないという義務と、その返答に対する責任を問われることになる。村上春樹の初期の文学はコミットメントではなく、デタッチメント であると言われた。あらゆるものから逃げてきた責任を負わずにきた生き方であった。子供を持つという責任は彼女をつくる責任や結婚する責任とは重さが異なる。これから未来何十年と子供を養っていかなければならない責任は、通常の人間でもそう取れるものではない。ましてや責任から逃れ続けてきた「僕」にとっては、子供ができたと言われるのは一番の重苦になったのではないだろうか。
 これを安易に現実の村上春樹氏に重ね合わせて考えることはテクスト論的な視点から考えてよろしいこととは言えないだろうが、作家論的な視野を含めると、乱暴なものいいには違いないが、村上春樹がなぜ子供を作らないのかということに繋がるかも知れない。

ゆるせなかった「僕」
 彼女の死という衝撃的な出来事の後、「僕」は一夏を故郷でおくる。そしてその自己療養には、8年の歳月がかかった。そして、現在の「僕」は、かつての21歳の「僕」が彼女の死の原因を自分の嘘にあるとは思っていなかった過去に目を向け始めたのではないだろうか。だが、8年のブランクをかかえ、「貧弱な真実よりも華麗虚偽を愛する」精神の抜けていない「僕」は、「バウムクーヘン」のように真実を抜きにしてしか語れないのである。だが、それでいいと思っている現在の「僕」もいることだろう。「彼女は真剣に(冗談ではなく)、私が大学に入ったのは天の啓示を受けるためよ」と言った部分や「何故彼女が死んだのかは誰にもわからない。彼女自身にわかっていたのかどうかさえ怪しいものだ、と僕は思う」という部分を21歳の「僕」に語らせており、かつて「僕」は彼女の死を人知を超えた神なるものの仕業であると考えて誤魔化そうとしていたことを描いているのである。あるいは、そう考えないと完璧な絶望に陥ってしまったための防御策だったのだとも描いているように私には思われる。。
 鼠が本を読む「僕」に対して「何故本ばかり読む?」という問いに「僕」は「フローベルがもう死んじまった人間だからさ。」と答える。「生きてる作家の本は読まない?」「生きてる作家になんてなんの価値もないよ。」「何故?」「死んだ人間に対しては大抵のことが許せそうな気がするんだな。」と語っており、ここから「僕」の死についての考えが伺える。

「ねえ、生身の人間はどう?大抵のことは許せない?」
「どうかな?そんな風に真剣に考えたことはないね。でもそういった切羽詰まった状況に追い込まれたら、そうなるかもしれない。許せなくなるかもしれない。」
(中略)
「許せなかったらどうする?」
「枕でも抱いて寝ちまうよ。」

 この会話で「僕」がこの時すでに亡くなっている「彼女」のことを念頭に置いて話しているのは明らかだと考えられる。とすると、「僕」は数少ない他者との接点であった「彼女」のことは生前許せなかったことが伺える。具体的に何について許せなかったのかはテクストからは読み取れないが、死んでしまった今となって、「僕」は生前の彼女のことを赦せるようになったのであろう。また、許せなかった時期をどのように過ごしていたのかというと、「枕でも抱いて寝」るという消極的な行為しかできなかったこともここから判明する。すなわち、「僕」が彼女の死を知らされた際、「僕」は魔女を読んでいたと21で描かれているが、おそらくその前後の「僕」のライフスタイルは寝るか、ほぼ寝たような状況で本を読む程度のひどく消極的な生活を送っていたであろうことが伺える。
 ほぼ寝たきりという点においては、ベッドの上で寝たきりの状況にある少女ともイメージが重なる。この少女が本当に存在するのかという点で、高田氏は論文において疑問を呈しているが、その論を応用すれば、この少女は書き手である「僕」の創造、「僕」の過去の状況を示した存在であるということもできるのではないだろうか。
 「今、僕は語ろうと思う」と言って語り始めるのは、そうした過去の「僕」を書き起こすことによって、そこから過去の「僕」と向き合い、これから「美しい言葉で世界を語」るようになれるための、最初の一歩だったのである。




1 羊泉社MOOK 村上春樹全小説ガイドブック(2010 羊泉社) 
2 前田愛「僕と鼠の記号論」(『国文学』S60・3)
3 小菅健一「風の歌を聴け」論への作業仮説 : <文章>・"空向"・<リスト>「日本文芸論集」 28, 40-58, 1995-12-20
4 高田 知波「新人投手がジャイアンツを相手にノーヒット・ノーランをやるよりは簡単だけど、完封するよりは少し難しい程度--村上春樹研究のための微視的ノート」『駒澤國文』 (42), 357-371, 2005-02
5 柿崎 隆宏「村上春樹『風の歌を聴け』論--過去へと向かう語りをめぐって」九大日文 (15), 55-71, 2010-03-31
6 村上春樹『羊をめぐる冒険』著講談社 1982
7 山根 由美恵〈村上春樹「風の歌を聴け」論--物語の構成と〈影〉の存在〉『国文学攷』 (163), 19-31, 1999-09
8 日本YWCA http://www.ywca.or.jp/aboutus/mission.html アクセス日2004/01/22
9 平野芳信「凪の風景、あるいはもう一つの物語―『風の歌を聴け』論―」日本文芸論集 23・24, 162-181, 1991-12-10
10 石原千秋「謎とき 村上春樹」光文社 2007
11 特殊清掃管理人 ~今日の現場~ http://tokusou24.jp/scene/ アクセス日2004/01/22
12 注ⅱに同じ





ゲームを文学的に読み込む 『テイルズ・オブ・イノセンス』 感想とレビュー

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はじめに
 何度も書いていることですが、私の専門は近現代の文学です。それだけではつまらないので、独自にアニメーション映画などにも学んだ理論を応用して論じたりしていますが、これから数回にわたって今度はゲームについて論じてみようと思います。
 ゲームのレビューを書いているサイトはウェブ上に掃いて捨てるほどあります。その捨てられるほどのもののなかに私の雑文も参加しようというわけですが、しかし、ゲームをゲームばかりしかやっていない人がするレビューと、文学的な見地からするレビューではきっといささか違いがあるだろうと思い、それが少しでも何かの役に立てばいいなと思い書き記します。

テイルズシリーズとは
 といっても、私が論じられるのはある程度ストーリーのあるものでないと出来ないのですが。大乱闘スマッシュブラザーズについて論じろと言われても、私にはできませんね。
 今回は手始めに「テイルズシリーズ」から「テイルズオブイノセンス」を手掛かりに論じてみたいと思います。
「テイルズシリーズ」はバンダイナムコゲームスから出されているアクションRPGゲームです。スクエアエニックスから発売されている、ドラゴンクエストとファイナルファンタジーシリーズに肩を並べようという、かなり本格的なRPGゲームです。
 以前はドラクエ派か、FF派かという二大巨頭の時代だったわけですが、近年では技術面だけでなく、新しい世界観を盛り込んだテイルズシリーズが台頭し、テイルズ派という三党連立の時代になっています。
ドラゴンクエストは、そのタイトルからもうかがえるように、中世の騎士物語的な雰囲気が漂う作品になっています。それに対してファイナルファンタジーはファンタジーと名がつくように、多少おとぎ話めいた雰囲気があります。魔術がドラクエよりもより強調されている感じがします。
 ドラクエでは主人公はしゃべりません。これは今の世代の人間がやると違和感を覚えるようですが、私はあまり感じませんでした。始終無口な主人公というのは、ある意味では不気味ですが、主人公が喋らないということが、当時のプレイヤーにとっては感情移入できる要素だったのです。
 ドラクエが爆発的なヒットをするとほぼ同時に、同スクエアエニックス(旧エニックス)からファイナルファンタジーが発売されます。ドラクエの主人公が無口で、キャラクターとして没個性的なのに対して、FFはもう少しキャラクターが提示されます。ドラクエのキャラクターには名前はありません。すべてプレイヤーがつけなければなりませんが、FFの場合は変更することは可能ですが、一応最初から名前があります。ここで、ドラクエではまさしくプレイヤーの分身がゲームのなかに入っていくというのに対して、FFでは、もともとその世界でいきていたある人物をコントロールするといった感覚が生まれるのではないでしょうか。
 さて、そうしたなかでテイルズシリーズはというと、このタイトルからもわかるように、ドラクエ・FFがⅠ、Ⅱ、Ⅲ・・・とナンバリングしていったのに対して、それぞれに独自の名前を付けています。これは、それまでの二大巨頭に対する批判にもなっていますが、直線状に物語が展開するのではなく、それぞれ異なった世界を描くのだという試みにもなっています。
 テイルズシリーズが初めて発売されたのは、1995年と、比較的新しく、それまでの没個性的なキャラクターとは異なり、テイルズシリーズはライトノベルやアニメの影響を受け、キャラクターを前面に押し出しているというのが大きな違いになっているでしょう。
 また、技術力があがったために、今迄以上にデータを詰め込むことができるようになりました。そのため、キャラクター同士の対話には、声優の声が吹き込まれ、よりその世界観が共有できるようになっています。
 テイルズシリーズのRPGの特徴はなんといっても、アニメチックなキャラクターです。そのキャラクターは最初から名前が決まっていますし、声優も割り当てられていて作品内で対話します。そして、ストーリー上の重要な場面では、アニメーションが挟み込まれたりと、日本のアニメやシミュレーションゲームの要素がふんだんに盛り込まれている点です。
プレイヤーの視点から言えば、プレイヤーがその世界に分身を送って操作するというドラクエから、FFを経て、作品の世界観がプレイヤーに強く影響を与えてくるようになったと言えるでしょう。~派とわかれるのは、ドラクエの主人公に感情移入できるか、テイルズの主人公に感情移入できるかという問題にかかわっているように思われます。

テイルズオブイノセンス
 テイルズシリーズに顕著なのは、古代文明の遺産がしばしばキーになること。イノセンスにおいては、古代文明は登場しませんが、そのかわりに前世の記憶というものが引き継がれるものになります。
 前世の記憶というと、いかにも「中二病」チックな感じがします。実際この作品はかなり「セカイ系」の作品であると私は思いました。
 前世の記憶があるというのは、オカルトブームや世紀末ブームが流行った1980年代後半に登場した、『ぼくの地球を守って』という作品から見られる系譜だと言われています。この作品は、日渡早紀作の漫画作品で、1987年から1994年にかけて「花とゆめ」で連載されました。主人公の坂口亜梨子と小椋迅八、錦織一成らは、同じ夢を共有しているとして、作品が展開していきます。この作品が大ヒットしたために、この作品を当時読んでいた青少年たちは、自分にも何かしら前世の記憶があるんだという思い込みをしはじめたのです。
 テイルズオブイノセンスの製作者も、おそらくこの作品を青年時代に読んだ世代です。なので、この前世の記憶という作品の一連の系譜のなかにこの作品も置いて考えることができるでしょう。

 イノセンスは、それぞれ夢で前世の記憶が繰り返し現れます。もちろん最初は前世の記憶とは思っていませんが、次第にその夢を共有する人物たちと会う事によって、前世の記憶を取り戻していきます。
 ただ、この作品は好きだというプレイヤーがいるなかで、嫌いだという意見が分かれると言われています。私個人はこの作品はあまり評価できないと思っています。その理由をこれから述べて行きます。
 この作品が前世の記憶をテーマにめぐっていくことはわかりましたが、しかし、では現在の生活は?となるとこの作品はそこを完全に描き切れていないのです。ですから、なぜこの作品の主人公たちは戦っているのか?というのがはっきり表れてこない。
 一応敵らしい敵はちょくちょく出てくるのですが、それがどうにも小物にしか見えなくて、何か凶悪な敵と戦っているといる雰囲気がないのです。
 前世の記憶を取り戻していくなかで、何か重大な事件が前世でおこったことが次第にわかってきます。しかし、前世は前世。もう一度は終わったこと。それをどうして今更もう一度繰り返すのかという点はつねに違和感を生みます。何よりも、主人公たちが前世にこだわりすぎるあまり、現在の生をおろそかにしすぎている点が不思議なのです。いくら前世の記憶があるからといって、そのためにすべてを投げ出して度に出るのかというと、うーむと唸ってしまう。家族が敵に殺されたとか、孤児であるといった設定にしてくれれば、まだ帰る家がないから旅をするということも納得できますが、このイノセンスの主人公には帰るべき家があるのです。しかも、何も問題のない裕福な家庭。これはちょっとRPGの主人公にしてはあまりにも順風満帆な家庭です。そこから飛び出していく根拠が見えない。しかも、この主人公のキャラクター、ルカは実に引っ込み思案なのです。その引っ込み思案の子どもがどうして旅に出るのかが納得できない。
 この作品がいわゆる「セカイ系」に感じられるのは、この部分にいくつか理由があります。
 セカイ系については、東浩紀による定義を参考にします。
 「世界の危機」とは全世界あるいは宇宙規模の最終戦争や、異星人による地球侵攻などを指し、「具体的な中間項を挟むことなく」とは国家や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されることなく、主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれることを指す
 まずこの作品が前世の記憶というものだけに固執していて、現在の生や、周囲の環境を完全に描写することを放棄している点。それから、この主人公の戦闘に対する態度がエヴァンゲリオンの碇シンジに酷似している点です。そもそも何故戦わなければならないのかということが、プレイヤーにもわからないくらい曖昧な状態のまま旅にでたわけですから、当然主人公のルカにもよくわかっていません。次第にごたごたに巻き込まれていくということになりますが、そのなかでルカは自分がなぜ戦わなければならないのかということをきちんと自問自答しないのです。シンジのように「逃げちゃだめだ」と自分を鼓舞することもありません。ルカには、前世の記憶と同時に前世の能力もまた備わっているからです。だから彼は自分で努力することなく、力を手に入れた主人公です。その努力することなく手に入れた力を用いて敵を倒していくのですから、ルカ自身の成長はまったくないのです。
 引っ込み思案で弱気なルカに対して、ヒロインとなるイリアは非常に活発的。赤い髪をしていて、全体に赤のイメージを持つキャラクターですから、どうしてもエヴァンゲリオンのアスカを彷彿させます。年齢的にも、エヴァンゲリオンが14歳の少年少女の物語だったのに対して、イノセンスは15歳の少年少女の物語です。これらをひとつひとつ検証してみるといかにエヴァンゲリオン的であるかがわかるでしょう。

成長しないルカ
 ここ数年のセカイ系の作品やライトノベルにみられるのは、戦う女性、戦わない男性という構図です。セカイ系の走りとなったエヴァンゲリオンでは、まだシンジは強制的に戦わされることになります。この時点ではまだ男性も戦わなければならなかったと、社会的に考えることができるでしょう。ルカとイリアはこの作品をバックグラウンドに持っているため、ルカも戦う理由を見付けられないまま戦うことになります。
 ですが、2003年から刊行されている『涼宮ハルヒ』シリーズの作品では、主人公キョンという男性は決して主体的に活動しようとはせず、あくまでもキョンから見て不思議な活動をしつづけるハルヒという少女を観察するにとどまっています。このあたりから男性は自ら戦うことをやめて、女性を戦わせるか、女性が戦っているのをサポートするようになりました。『魔法少女まどか☆マギカ』では、特に顕著です。この作品では男性が約2名登場します。一人はバイオリンの男の子、もう一人はまどかの父親です。この二人の男性はいずれも女性に戦わせているのです。バイオリンの少年は、もちろん直接頼んだわけではありませんが、さやかに夢をかなえてもらうという消極的な態度しか示しません。まどかの父親にしても、妻が働いているなか、自分は主夫として家に居るばかりです。
 イノセンスが面白いのは、ちょうど戦うか戦わないかという瀬戸際でゆれている男性を描いたということでしょう。最終的には6人のパーティとなってこの物語は進みます。その6人のパーティ配分は男女3名づつ。
 男性は戦いたくないルカ、好戦的なスパーダ、冷徹な傭兵であるリカルドの三名。今までの物語で言えば、スパーダが主人公となるべきところだったでしょう。しかし、この作品では最後まで精神的に成長したとは言えないルカが主人公なのです。リカルドの立場は、唯一の年長者としてこのパーティを指導する側ですが、リカルドは無口でありあまり指導的な立場を有難がりません。ここからも、役割の放棄という構図が見て取れるでしょう。
 一方女性。女性は好戦的なイリアを筆頭に、多少おっとり要素を含んだアンジュ、性別不明のエルマーナの三名です。イリアはアスカ的な要素を多分に含んでいます。おっとり系の担当であるアンジュ。王道の物語であれば彼女が本来ヒロインになるはずですが、今回はそうではありません。純白な服装をしているアンジュ。おっとり系を担当こそしているものの、その言動からはどこか計算高い女という裏の顔が浮かんできます。アンジュは計算しておっとり系を演じているのではないかと思わせるような言動が多々見られるのです。
 そしてエルマーナ。彼女は孤児ということで最もRPGにおいては旅をしやすい設定を有しているキャラクターですが、この作品ではわき役におしやられています。しかも、短髪で、武器はおのれの拳とかなり男性的。年齢はパーティのなかでもっとも若く、13歳。まだ思春期を迎えていないということもあり、男性的でも女性的でもあり、性別不詳の存在となっています。
 この作品はこうしてみると、良い意味でも悪い意味でも現代的と言えるでしょう。本来主人公となるべきスパーダは脇役におしやられ、かわりにシンジに酷似したルカが主人公になります。しかし、攻撃的なイリアが全面に出てきて、ルカはそのサポートといった雰囲気を受ける。おっとり系を担当しているはずのアンジュは計算高い女として描かれ、今迄の男性が理想としていた女性像はこの作品のなかには登場しません。エルマーナはまだ性別未分化の存在。リカルドは年長者としての責務から逃れている大人です。
 何よりも問題なのは、プレイ時間凡そ50、60時間で一通りゲームのストーリーをクリアすることになるのですが、そのなかを通じてルカが精神的にまったく成長しないことです。
彼が戦う理由は単に前世の記憶があるからということだけにとどまり、結局それ以上の進展はありません。ルカはいやいやながら戦いますが、途中から戦うイリアの背中をみて、彼女を守らなければと一人合点し、その淡い恋心のために剣を抜きます。が、結局成長はとくに見られず、イリアのことが好きならば告白すればいいものを、嫌われるのが嫌だという態度からそれ以上の関係には発展しません。イリアはイリアでルカの想いには気が付いているのですが、彼女も我が強く、自ら折れてルカに想いを寄せるということはしません。
 結局なんの成長もないままラスボスを倒し、最後はルカのナレーションによって、無事に終わったといった感じで締めくくられるわけです。あたかも自分はちょっとは成長したといったことを述べますが、とてもそうは思えません。ルカ以外の人間が成長したのかというと、それも違う。まったくそのままなのです。

終わりに
 もはやどうしてルカが主人公でなければならなかったのか、という疑問に帰結しますが、この物語はおそらくイリアかスパーダを主人公にしたほうが成功したでしょう。それでもルカを主人公にしてしまったという点におそらく現代の何がしかが見え隠れしているように私には思えます。
 あるいは、これは現代の男性を主人公にしたという点において、現代の男性に対する一種の批判なのかもしれません。強い女性の尻に敷かれて一行に戦おうとしない主人公の姿を如実に描き出すことによって、現状への理解と、引っ込み思案な男性への啓蒙になっているのかもしれません。
男性の私からすると、ルカがまったく成長しないのが腹立たしいということになりますが、知人の女性からは、イリアの方に感情移入ができて面白かったということだそうです。
 ゲームはいかに主人公に感情移入ができるかにかかっています。それをおそらく一番よく知っているのは、ゲームの製作者たちです。ですから、このゲームは、単に製作者たちの失敗だと断言するのではなく、そこには何かしらの策略が働いているのではと考えたほうが妥当でしょう。ゲームを読み解くことは、その時のゲームをする世代のこころを読み解くことにもつながります。ゲームは学問になり得るということを私はこれからも示していきたいと思います。

「はだしのゲン」をめぐる表現規制についての一考察

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 「はだしのゲン」をめぐって様々な問題がありました。ある授業でその問題についてリポート課題が課されましたので、その際に作成したものを多少わかりやすくして、掲載します。

1発端・経過
 発端は2012年ある市民から松江市教育委員会に寄せられた陳情だった。「市教委化暗部らは、旧日本軍の洗浄での行為にかかわる描写について問題視。同12月と今年1月、小中学校の各校長に閉架措置を求めた。」 8月、閉架措置が朝日新聞・朝刊で大きく報道された。その後、表現の自由を擁護する立場や、思想の抑圧、検閲になってはいないかという論が新聞やインターネット上で盛んに叫ばれた。それに呼応するかのように市教委はわずか十日で制限の要請に「手続きの不備があ」ったとして閲覧制限を撤回した。これで一件落着したと思われたこの問題であるが、問題が騒がれていたころから図書館司書の問題についての言及があり、また下火となった現在においては産経新聞が内容不適切として閉架措置を再び強く主張している。その結果、歴史認識をめぐる問題や左か右かというイデオロギー間の対立問題にも発展しつつある。(429字)

2私の意見
 結論から述べると、私は「はだしのゲン」に閲覧制限を設けてはならないと考えている。読売、朝日新聞等は問題を慎重に扱いつつ、内容の激しさ、また不適切さを認めつつも全体としてはそうした歴史観の排除をすべきではないとして、検閲に反対している。日本経済新聞社は前二社より、検閲であるとして自由に読ませるべきだと論を強めている。それに対して、産経新聞であるが、もはや開架にすべきか閉架にすべきかという論を超えて問題となった10巻の表現を指摘しつつ「三光作戦」はなかった 、「日教組の反日的なイデオロギーがふんだんに盛り込まれ、日教組の教師によって学校に持ち込まれた」 テキストだとして、10月11月にかけて極めて強い語調で「はだしのゲン」そのものが教育現場にあってはならないとしている。
 経過の部分に記したが、この問題は開架にすべきか閉架にすべきかという問題から大きく逸れて、今やそれぞれの社の右か左かというイデオロギーの対決になってしまっている。特に産経新聞は最も右翼的で、自分達の考えにそぐわない考えを排除しようという気概のようなものまで漂わせている。
 ポストモダン、多様性の重要視される現代においてはそのような考えはどうだろうか。もちろんそのような考えもあってしかるべきであるが、排除しようという暴力的な言動は良くない。この問題は本質的に左か右かという論にすり替えられる危険性があるため慎重に取り扱わなければならない。
 私は「表現の自由」とともにそれを知る権利を侵してはならないという基本的な人権に則って、開架にすべきであると考える。だが確かに描写は刺激的であり、小学生に適切だとは言い切れない。そのため、これを教材として生徒に強制的に読ませるのではなく、読む準備のできた生徒が自分の力で読むようにすべきだと考える。(748字)

 最近は、めっきりテレビも新聞も目を通さなくなってしまいました。いけないことだなと思いながらも、文学や映画などの作品にあたりっぱなしで、現実の問題に対して目を向けていなかったなという反省はあります。今回は、情報のリテラシーを教える授業を受けていたということもあり、様々な新聞の比較なども初めて本格的にやってみました。
 そこで驚いたのが、今迄新聞はもう少しまともで、中立的な報道をしているだろうと思っていたのですが、そんなことはない。これが情報を伝える人間の仕事かと目を疑うような酷い記事が多々みられ、私は本当にびっくりしてしまいました。読売新聞や朝日新聞はまだ比較的良い方です。しかし、これらの社の記事のなかには、ごくわずかですが、右や左といった思想が感じられなくはない。
 特に「はだしのゲン」の問題は、単にグロテスクや性的な表現という表現問題を通り越して、戦争をどうとらえるのかという歴史観の問題までを内包した、複雑で大きな問題です。これが単に性描写やグロテスクさの問題だけであれば、話しも簡単だったのですが、戦争が絡むと、どうしてもややこしくなる。
 とくに酷かったのが、産経新聞。もう、これはとても記事とは言えません。まるで小学生が書いたような内容です。問題の核心はこの図書をどうあつかうかという点に関して、閉架にするか開架にするか、その参考になるのが表現の規制、知る権利の侵害になっていないかということだと私は思います。他の多くの社の新聞や記事でもそのように捉えられているのが多いです。が、産経新聞は、書かれている内容がすでに誤りだとして、論点をずらしたうえで、単なる誹謗中傷をしているのです。歴史の問題については難しいですが、産経新聞は「三光作戦」などなかったと論断しています。
 私は歴史についてはまったく門外漢なのですが、本当にそんなに簡単に「三光作戦」はなかったと言い切れるのでしょうか。
 私には、大の大人が顔を真っ赤にして、怒り狂って主張しているだけに見えますが、本当のところを見極めていくためには、常に冷静で、もしかしたら自分が間違っているかもしれないという反省の心を大事にして見つめて行くことが大切だと思います。 




引用資料
「閉架」で萎縮する恐れ 学校図書館「はだしのゲン」問題の本質 .2013-09-04,朝刊,文化1面,聞蔵Ⅱビジュアル,http://database.asahi.com/library2/main/start.php.(参照2013-11-26)
【解答乱麻】元高校校長・一止羊大 問題の核心に蓋をするな,2013-11-16日,東京朝刊 オピニオン面,産経新聞ニュース,http://webs.sankei.co.jp/search/page.do?mode=2&paperNo=1&publishDate=20131116&newsId=201311161000049d4d&keyword=%82%CD%82%BE%82%B5%82%CC%83%51%83%93, (参照2013-11-26)
検証「はだしのゲン」閲覧制限問題 「閉架措置は当然だ」「語り継ぐべき作品」,2013-09-24,東京朝刊,社会面, 産経新聞ニュース,http://webs.sankei.co.jp/search/page.do?mode=2&paperNo=1&publishDate=20130924&newsId=20130924100001e72c&keyword=%82%CD%82%BE%82%B5%82%CC%83%51%83%93, (参照2013-11-26)

時間をめぐる一考察。 『あなたはどれだけ待てますか : せっかち文化とのんびり文化の徹底比較 』/ ロバート・レヴィーン著 ;をメインに

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 前々から徐々に興味が出始めて、今年は沢山の本を読むぞというのが私の目標の一つなのですが、なかでも、社会心理学系の本を沢山読もうというのが大きな目標になっています。
 私の専門は近現代の文学ですが、やはり文学を論じるためには、文学だけの知見では読み解けないことが多々あると感じています。ある人は心理学の分野の知見を活かしたり、哲学の知見を活かしたりしています。その中で私は社会心理学の知見を獲得しておきたいなと思って、いろいろと読んでいます。
 今回読んで感銘を受けたのは、ロバーと・レヴィーンという社会心理学者の『あなたはどれだけ待てますか』(草思社・2002)という本。
 原本は1997年に発売された本で、訳本が2002年です。この本は是非皆さんにも読んでほしい。社会心理学系の学術書は、いずれも同分野の研究者による訳本が多いのですが、学者が訳してよかったことなんて一度もありません。もう、ほんと日本語として意味がわからないものばかり。しかし、この本は、原文も平易だったのか、ものすごく読みやすい本で、別に社会心理学について何か知っていなくても、十分楽しめる内容となっております。
 冒頭では、著者がブラジルの大学に初めて勤務した際、授業が始まっても学生がほとんど来ず、授業終わりに近づいてからぼつぼつと学生が現れたというカルチャーショックのコラムから始まります。なぜだか、私は数年前の受験勉強の際にその原文を読んだことがあったらしく、あれ、前に読んだことがあるぞと妙な懐かしさを感じたものです。こういう文から受験の試験って出るんですね。

時間
 我々はとかく現在の日本の中で息苦しさを感じていないでしょうか。この本は、時間をめぐって書かれた本で、それぞれの文化にはそれぞれの時間のリズム、テンポがあると書かれています。何よりもこの本が素晴らしいのは、学生の協力も得て、世界30か国で、歩く速さや店員にものを頼んでそれができる速さなどを測った、テンポの図表。そのテンポの図表からは、様々なことがわかってきます。
 この本はアメリカの学者が書いた本ですが、日本についてかなりの項が割かれています。日本を別の文化で育った人間の視点を通じて見直すと様々なことが見えてきます。
 我々が非常に現在のテンポに窮屈を感じているとしたら、それはそのはず。世界30か国で観測したデータをもとにすれば、何に置いてもほぼ最高の速度を有しているのです。そりゃ疲れますわな。

 著者は、文化にはせっかち文化、テンポの速い文化(タイプAと命名しています)と、のんびり文化、テンポのゆったりとした文化(タイプB)に分かれていると述べています。
 近年では、日本でも過労死が問題となり、週40時間労働制が導入されるなど、自分達の時間に対する考えが深まってきたように思われます。しかし、それでもまだ忙しい。最近ではブラック企業という言葉も登場し、日本人が今迄にもまして忙しい時代を迎えているように感じられます。そんようななか、「スローライフ」や「スローフード」といった言葉とともに、ゆっくりとした人生を歩むことの重要性を説いた本も沢山発売されています。私は去年辻信一著の『「ゆっくり」でいいんだよ』(ちくまプリマー新書・2006)を読んで大変感銘を受けました。同時に読んだサティシュ・クマール『君あり故に我あり』(講談社学術文庫・2005)(この本は辻先生の本の中でも紹介されています。辻先生とサティシュ・クマールさんは交流があるそうです)も感銘をうけ、何度も記事にしようと思ったのですが、あまりにも膨大になりそうだったため、終にやめてしまいました。
 本当に素晴らしい本なので、この二つも是非皆様に読んでいただけると幸いです。
『「ゆっくり」でいいんだよ』(ちくまプリマー新書・2006)
サティシュ・クマール『君あり故に我あり』(講談社学術文庫・2005)

 なぜ今この本を引用したかというと、この本でも時間のことについて書かれているのです。クマール先生の本は時間についてはそれほど書かれていませんが、辻先生の本は、今の日本はあまりにも忙しすぎるとしてナマケモノに学ぶべきだと述べています。私もそう思っています。
 ただ、いきなりお前たちは忙しすぎるからナマケモノを見習えといっても、それはなかなか難しいものがあります。辻先生の本はちくまプリマー新書といって、中高生向けに書かれた非常にわかりやすい本ですから、それはそれでいいのですが、そのぶん真面目な大人たちは取り扱わない可能性もある。きちんとした研究で、真面目な大人たちも無視できないのが、この『あなたはどれだけ待てますか』という本です。
 この本は何も日本の読者に読まれることを想定して書かれたものではありませんが、それでも日本は著者にとっては特別な例外として映ったようで、日本のことについてかなりの項が割かれています。
 この筆者はなにもゆっくりとしたテンポが素晴らしいとタイプBの文化をただ賞賛するということではありません。タイプAもきちんと精査したうえで、どちらがいいと単純に述べることはできないとしています。それぞれの文化ですから、それを否定、肯定することはできません。しかし、文化にタイプABが存在するように、人間それぞれにもタイプAよりの人、Bよりの人がいると述べています。その人たちにとって一番しあわせなのは、自分のテンポにあった文化に行くことです。
どんなにテンポが速いAの国、場所、例えば東京やニューヨークでも、そのなかにはテンポBしか適応できない人間もいるわけです。そうすると、周りが物凄いスピードで回転していくわけですから、その人は周りに合わせることができません。その中で無理をしていると、例えば過労死とか、ストレスにつながるわけですが、そもそも完全についていくことができないとなると、その文化圏のなかでは落伍者、無能者としてのレッテルが貼られてしまうわけです。そういう人は確かによくいます。何時まで経っても課題が終わらなかったり、いつも授業に遅刻してきたりする人。しかしその人達は、テンポAのなかでこそ異端者として迫害されますが、テンポBのなかに行けば、普通の人として扱われるわけです。
 日本に住んでいるとなかなかそういう考えには達しません。特に東京などの都会に住んでいる人は。反対のことでいい例が書かれているので紹介しますが、この著者も自分の時間を持ちたいと考えて大学教員になったと述べていますが、それでもやはりアメリかの人間。テンポは速い方です。その著者がブラジルで教鞭をとった際には、いつも周りから、「落ち着け」「焦るな」と言われたそうです。
 日本やアメリカ、西洋などの比較的工業が発達した文化ではタイプAのテンポで時間が進んでいきます。その文化のなかでは遅刻は大体5分から15分までが許容範囲です。それを越えると何故待たせるのかと、待たされた方は怒り始めます。また、この文化では時間通りであることが美徳とされています。我々にとっては当たり前ですよね。会議にでも遅刻したものであれば、もう昇進はできないとあきらめたほうがいい。やれやれ。
 しかし、時間通りに行動することが、我々が時間通りに行動しない人に対する感情くらい、悪いことだとみなされる文化は往々にしてあるわけです。そうした文化の中では、時計は「邪悪な野望と結びついた非礼」と非難され、時間通りに行動する人は小物として扱われます。ブラジルなどでは、いかに待つこと、待たせることがその人の人間的な大きさに繋がるらしく、約束した30分程度の時間で待ち合わせ場所に来ようものならとんだ小物ということになります。平均して1時間ほど、酷い時には2時間程待つ、あるいは待たせるのだと言います。
 ブラジルまで顕著な例でなくとも、我々が時計に従った「時計時間」の文化の中で生きているのと同じように、タイプBの文化ではものごとを大切にするように「出来事時間」に基づいて生活しているのです。我々は、例えば何時に人と会う約束があるとすると、今行っていることを中断してでもそちらを優先させようとします。例えば、3時から会議があるとする。すると2時30に友人が訪ねてこようものなら、せっかく来た友人を拒んで会議に向かうのです。これが我々の文化です。ところが、出来事時間の文化のなかでは、訪問してきてくれた友人が最優先されることになる。一時間か二時間ほど友人と楽しく会話をした後に、会議に出席するわけです。
 こういう例を聞くと、つい私たちは自分たちの生まれ育った文化の尺度でものを言いたくなります。それは、その人たちの怠慢だ、惰性だ、時間を守らないのはいけないことだ、と。しかし、と世界中を研究し、なおかつきちんとした学問的な基礎を踏まえた著者はいいます。文化を観察し、学ぶ際の最も避けたり逃れたりするのが難しい罠は、自分の文化の意味でそれを推し量ってしまうことだということです。
 彼等にとってみれば、時間通りに行動する人間は、せっかくの友人の訪問などを無視するのですから、見方によってはかなり冷徹な人間に思われるはずです。

日本の時間
 さて、アメリカ人の著者にとって日本は相当目を引いたのか、わざわざ章を一つ割いて日本のことを分析してくれています。「日本の矛盾」という章では、日本人は世界のどの国に比べてもトップレベルのテンポを有する国ですが、そこには矛盾が生じているというのです。
 著者はAの文化もBの文化も単純に肯定否定はできないと述べていますが、タイプAの文化ではストレスが余計に感じられることは述べています。タイプAの文化のなかではストレスが多く発生しますから、そのストレスによって冠状動脈心疾患の発生率が上昇すると述べています。事実タイプAに属するアメリカや多くのヨーロッパの国々では、こうした病気にかかる人がタイプBの文化圏に比べて格段に多いそう。
 ところが、世界トップレベルの忙しさを誇るはずの日本では、こうしたタイプの病気は極めて少ないというのです。
日本がアメリカやヨーロッパと違う点は、アメリカの有能な社員にとってのごほうびが、有給休暇であるのに対して、日本ではその会社の強制的な定年退職年齢の免除だと言います。日本は仕事中毒なのです。著者は日本にはブルーマンデーはあまり存在せず、反対に日曜日になると休日病(休日になると身体が痛み出したりする)が見られるといいます。この部分はこの本が書かれた当時はそうだったでしょうが、訳者も2002年の段階で述べている通り、通用しなくなってきている部分はあります。
 ただ、それだけ忙しく、テンポの速いアメリカ、ヨーロッパに比べても勤労時間の長い日本は、アメリカ・ヨーロッパと比べてそこまで生産力が高いわけでもないということが指摘されています。もちろん日本の生産力は、アメリカ・ヨーロッパよりも高いですが、これらの国より働いている時間を考えると、その時間ほどではないということです。そこには、日本人の仕事観があると言います。アメリカでは、プライベートと仕事はきっちりとわけます。しかし、日本はそれよりも職場の人間関係や会社全体の「和」を考えるので、そこが曖昧だというのです。日本人は会社をひとつの有機体とみなしており、そこに所属することはプライベートの一部でもあるわけです。すると、職場での時間というのは、生産性だけを求めている仕事だけではなく、その中で同僚と話したり、仕事後の食事など、単なる仕事とは別の人間関係を円滑にするための時間も含まれるというのです。そして、自分の生活をそこに割り当てることができることの要因としては、日本の「終身雇用」の概念が働いているとしています。
 だから、日本人にとって会社とは、単なる生産性を求める場ではなく、もう一つの自分の居場所なのです。そしてそれはしばしば、自分の家よりも自分が居るべき場所になっているのです。だから、職場にいることが同じタイプAのアメリカ人や西洋人と異なり、ストレスにならない。その場に属することがストレスを和らげるのだとしています。
 ですが、この本が書かれたのは、1997年のこと。この著者が日本でしばらく滞在していたのはそれ以前のことです。バブルが崩壊し、リーマンショックのあったあと、日本の終身雇用制はもはや形骸化しているように思われます。定年退職を延長するのも、会社にいたいからというよりも、そうしないとまだ家族たちを養わなければならない義務があるからといったほうが近いようにも思われます。さらに、ポストモダン化し、西洋式の個人主義が強くなってきた現在となっては、私を含め、私の世代の人間は、会社は奉仕するものではなく、自分の人生を豊かにするための道具にすぎません。そのような場で、自分の日常の時間を束縛されることは苦痛以外の何物でもありません。
 大学の友人でさえ、飲み会は面倒だから行かないといった人間が多く居る中、会社では上司の食事の誘いは、職場環境を円滑にするための一貫とは認識さえず、単なる仕事外の仕事になるだけなのです。だから、会社でも若手の社員が飲み会などは断り、すぐに帰宅するというのも、何に価値を置くのかということが変化してきたからなのです。
 もはや会社に属することがアイデンティティーの時代は終わり、自分の人生、生活をいかにゆとりを持って生きるかということが日本人にも求められるようになりました。それが、スローライフを主張する本などが多く出て来た証拠にもなります。

終わりに
 著者は、のんびり文化がいいとは言いません。その代わりに、自分の属する文化とは異なった文化、特に別の時間を持つ文化に触れることが大切だと言います。我々タイプAの文化圏の人間は、ブラジル、メキシコ、インド、インドネシアなどのタイプBの文化に触れたほうがいいわけです。触れるといっても、一週間程度の旅行ではあまり意味がありません。もちろん、それだけでもかなりのカルチャーショックを受けるとは思いますが、自分たちの文化を省みるまでには至りません。その文化に慣れ、自分の文化を省みはじめるためには、3カ月は必要だと著者は述べます。3か月ごろから、その文化に慣れてくるというわけです。ですから、一年くらいはその文化に浸っていないと本来はいけないわけです。
 忙しい日本にとって一年とか、三か月でもかなり難しい問題があるとは思いますが、しかし、私は日本人はこうしたタイプBの文化にいったん触れる必要があると思います。著者は、異なった文化の時間に触れることによって、自分の時間を省みるきっかけになると言います。著述家エヴァ・ホフマンの言葉を引用しながら、中庸の時間がいいのだと結論付けています。タイプAならば、タイプBを見て、そして自分にあったAとBの間の時間を見極めていくということです。あまりに何もしなさすぎると、人間は無気力になると著者は指摘しています。ブラジルに二年いると、自分がそこで成し遂げなければいけない研究などどうでもよくなってしまったそうです。ですから、自分にあった、適度な刺激のある時間のテンポがいいわけです。
 日本は、いくらなんでも速すぎます。それでいいという時代はあったかもしれませんが、現状と照らし合わせて、よく考えてみてください。ブラック企業、過労死という言葉がこれだけ叫ばれているということは、限界が生じているのです。流石にいくら自分の時間を大切にしろといっても、その前に殺されてしまいます。日本はもう少し時間のテンポを抑えなければなりません。
 それから、自分の時間を人に押し付けないこと。私はどうしても、日本の今のテンポに合わないなと感じてきました。大学のゆったりとしたテンポでもなかなかついていくのが大変です。そして、仕事なんてとてもではありませんが、出来そうもない。大学に入りたてのころも、少し鬱ぎみになったのですが、恐らく私が仕事をしたら一週間で鬱になるでしょう。それくらい、私のリズムは日本に合わないのです。なんでだろうなと考えて思い当たったことがあります。私は、小学生のころを5年弱、アラブで過ごしたのです。そしてアラブはタイプBの文化。のんびり文化です。3時には仕事は終わります。お昼も長いですしね。そうした文化で人間が形成される時期を過ごした私が、その後いくら日本にいようとそれに合わせることができるわけがないのです(ちなみにこの本のなかでは、タイプAB両方に順応できる人とそうでない人がいると指摘されています)。
 だから、私は東京に住んでいますが、職場はよほど東京でのんびりしたところか、田舎にいかないといけないわけです。
 皆さんも、このテンポAの中で、もみくちゃにされて終には自殺というところに達する前に、きちんと自分のテンポを見極めてそれに見合った場所、職場に変えることをお勧めします。人それぞれのテンポは違いがあるということをよく考えなくてはいけないと思います。

『未来世紀ブラジル』 感想とレビュー への微視的ノート

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はじめに
 『未来世紀ブラジル』というとても不思議な映画を見たので、なんとかその際に感じたことを文章に残しておこうと思います。見たこともない人のために、Wikipediaから概要を。
 『未来世紀ブラジル』(原題: Brazil)は、1985年公開のSF映画。監督はモンティ・パイソンメンバーのテリー・ギリアムで、情報統制がなされた「20世紀のどこかの国」の暗黒社会を舞台としている。カルト映画として一部の人間の強い支持を受けている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%AB
 『未来世紀ブラジル』はあまりにもセンセーショナルな映画だったということもあり、様々な伝説が残っています。私も映画をいくつか見るようになってから、これだけは見ておいた方が良いといったランキングをチェックしては少しずつ鑑賞していますが、この映画はとりわけ映画ファンのなかでの支持が強いです。
 映画好きでなくとも、「ブラジルの水彩画(原題:Aquarela do Brasil)」という曲を聞いたことがある人は多いでしょう。Ary Barroso作曲の歌でジャズの有名なナンバーです。



 この曲はディズニーのアニメーションでも使用されました。この曲はすでに1940年代ごろには、世界的に有名な曲となっていたのです。『未来世紀ブラジル』でメインテーマとして起用されたことによって、ふたたび注目されます。この映画は内容もかなり刺激的でそれだけで印象強いですが、なかでも何度も流れてくるこの特徴的なメロディーが頭に焼き付けられます。
 この楽曲のみだと、いかにも陽気な雰囲気がしますが、映画の内容はこの曲から受けるイメージとはとてもかけ離れています。

 はっきり言って、作品解釈が専門の私もこの映画ほど意味がわからなかった映画はありません。本当に意味がわからない。なんども記事にするのはやめようと思いました。これを仮に読んでくれた人がいたとして、その人の時間を無駄にすることしかできなさそうだったからです。
 それに、この映画に関しては、私よりもすばらしい分析、考察をした記事がいくつもアップロードされています。
http://www3.ocn.ne.jp/~zip2000/brazil.htm
http://karasmoker.exblog.jp/9663673/
 なかでもこの二つのサイトの記事はすばらしいかったです。もうこれ以上特に私が差し挟めることはありませんが。

 この映画が風刺的な作品であるということは誰にでもわかります。システムや管理社会への風刺です。それに対する羽を持って空を飛ぶ夢が象徴しているのは、もちろん「自由」でしょう。夢のなかのサムは自由の象徴である美女を救う騎士。自由の守護者といったところでしょうか。その「自由」の象徴である美女を拘束し、地に貶めるのは、様々なエゴをもった人間たちということでしょう。
 他に言えることと言えば、現実と夢の世界と表現できるでしょう。前半では夢と現実は比較的きっちりと別れていましたが、終盤になると夢と現実が入り混じってきて、どちらが夢なのか、現実なのかわからなくなってきます。テリー・ギリアム監督の他作品を鑑賞したことがないのでなんとも言えませんが、この監督の作品は現実と夢が入り混じる表現を得意としているようです。
 ただ、夢と現実というとあまりにも簡単な分析になりすぎているのではないかと私は思います。全く意味がわからなかったので、DVDに収録されていた30分ほど(だったと思います)のメーキングを見たのですが、出演者たちが口にするのは、「夢と現実ではなくて、夢と嫌な夢だ」ということです。この「夢と嫌な夢」を描いているのだという言葉もわかったようでわからない。
 この映画はラストの解釈がわかれます。様々な問題を起こして管理社会に対して甚大な被害を与えたとして、サムは知人でもある脳科学者に尋問されます。そこから夢が始まります。サムがいざ脳をこじ開けられようとするところに、映画の中盤からちょくちょく登場してきた、反社会的な作業員であるタトルが仲間を引き連れて颯爽と登場します。そこから逃走劇が始まるわけです。最後に、やっと夢のなかに登場していたトラック運転手のジルと逃げ切るということになります。ただ、そこで終わってくれれば感動的なラストになったものを、そうはさせないのが、このテリー・ギリアムという巨匠なのでしょう。ぱっと画面が変わって、映し出されたのは拷問をする場所。なんと、サムは拷問の辛さのあまり現実を逃避して、自分の脳内で夢を描いていたというオチになっているのです。
 この後味の悪さといったらありません。思わず私も唸ってしまいました。結局誰も救われないのです。

 ただ、この「夢と嫌な夢」という出演者が感じた言葉をよくよく考えてみる必要があると思います。この巨匠のつくった作品は、おそらく夢と現実という簡単な解釈のしかたではできないでしょう。サムが一連の出来事によって拷問に至った映画本編の現実と考えられていることもまた、ある意味では夢なのです。映画『インセプション』が公開されて、夢と現実という簡単な分け方から、夢のなかの夢という複雑な構造を提示してくれたのはとてもいいことだったと思います。 『未来世紀ブラジル』にも本当は現実なんてないのではないかということも考えねばなりません。こんなことを言えば、フィクションですし、SFですから、元も子もないことになっていまいますが・・・。しかしいくらフィクションの中だからといって、フィクションの中にもフィクションの中なりの夢があるはずです。
 
 この映画は賛否両論に激しくわかれるようです。好きな人は大好き。絶賛の嵐です。それに対して嫌な人は嫌。私はまだ迷っています。この映画を見ていて、そうだよなと感心した自分もいて、すごい映画だなと感心した私がいました。と同時に、救われないラストや日本の能の仮面を被った恐ろしい描写など、人間の恐怖や心の闇をつついてくる描写が多々あって、不快に感じたことも確かです。好き嫌いという一番単純な分け方をしても、どちらとも言えないのが私の心境です。

 すみませんが、この映画だけはどうにもうまく論じられません。普段だと、書いている途中でだんだん、あ、あれも書こう、そういえばこんなことが言えるなと、新しい気づきがあるのですが、この映画だけは私もよくわかりません。まあ、是非見てください。そして感想をお聞かせください。

大2病という言葉と戦う 

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画像の引用はhttp://jiniusxjinius.seesaa.net/article/324336262.htmlさんから。

はじめに
 一時期Twitterで拡散された記事で、甚だ不快に感じた記事がありました。今回は、どうしてその記事が不快に感じたのか、自分の心と対話しつつ、論じてみたいと思います。
 最近特に感じるのは、ネットという匿名の空間のなかで非常に攻撃性が増していることです。だからネットはいけないと断罪しようなどとは思っていません。私は私なりのメディアリテラシーを有していますから、ネットが全て悪いなどと言う人はネットを使用していない人ぐらいだろうと思います。ネットは現に多くの人々に多大な利益も与えましたし、また、現在ネットという仮想空間のみが自分の居場所となっている心の弱い人もいるのです。そうした人たちからネットを奪うということはできません。
 今回問題にしたいのは、「大2病」という言葉。ならびにその背後に見え隠れする現代の攻撃性と、この記事の筆者の有するジェンダー規制です。ひとつひとつ丁寧に見て行きましょう。

大2病というレッテル
 大二病の女子にありがちなこと・7選
http://howcollect.jp/article/4120
 私が問題にしたいのはこの記事。この記事のリンクを掲載したツイートが最近よく見かけるようになりました。
 大2病という言葉をしらない方のために、少し説明しておきましょう。もちろんこんな言葉を知らない方が、いいと私は思っています。この言葉は新たな差別語ですから、この言葉を知ることによって、新しい差別の考えがその人の体の中に入ってきてしまうわけですから、知らないに越したことはありません。
 中二病という言葉はご存知の方も多いと思います。知らない方もいるかもしれませんが。中二病というのは、中学二年生時に多くの学生がかかる傾向といえばいいようなものを総称してこう述べたものです。中学二年生、14歳となると、新たな自我の目覚めが生じ、様々な人格が試行錯誤のうちで形成されます。この際に、自己の認識が過大になると起きることを中二病といっているのです。例えば、自分はどこかの国の王族だといった古典的でかわいいものから、自分は何かの能力を有している、いずれそれが開眼するといった妄想などが挙げられます。こうした妄想癖を持つことが中二病の代表的なものとして現在では認識されているようです。他にも、自分が特別だと思うことはこうした妄想にいかなくてもあることですし、別にそれほど特別なことではありません。数年間をかけて、自分はそんなに特別じゃなかったと段々通常の状態に戻っていきます。中学二年という最も変化の著しい時期の変化を指して、中二病と名付けたのが、ことの発端です。
 この中二病という言葉が市民権を獲得するようになると、この23年で新たに高2病、大2病といった言葉も生み出されました。中二病という言葉に便乗して作り出されたものです。それぞれ、高校2年生、大学2年生あたりで、見られる傾向を羅列的にあらわしてそれらに「高2病」「大2病」というレッテルを貼ったのです。
 高2病にもいろいろありますが、今回は大2病を主にテーマにしていきます。
 大2病と言われるもののなかには、なるほど、大学生ならしそうだなと思われるものが多々あります。

http://matome.naver.jp/odai/2134001017267391301
このサイトからいくつか引っ張ってきましょう。

講義さぼっちゃった自慢
突然カプチーノを飲み出す
美術館にやたら行きたがる。実際行ったら五分で飽きる
急にギャンブルを始める
タバコとか吸ってみちゃう
日本酒とか飲んでみちゃう


 どうでしょうか。筆者は大学生まっさかりなので、まあよく当てはまること。しかし、それぞれをひとつずつじっくりと読み説いていけば、果たしてこれが大2病と呼べるのかという疑問が生じるでしょう。
 私が一番問題にしたいのは、大2病という言葉のなかに、蔑みや嘲りの意識が垣間見れることです。私が今回この記事を書いたのは、そうした不当な蔑みや嘲りから自分達を守ることと、そうした攻撃をしている人に対して警鐘を鳴らすためです。
 確かに、こうした大2病のなかには、同世代の人間であっても、「この人イタイな」と思ってしまうようなことがあります。講義をさぼったことや、何日徹夜したとか、忙しいことなどをアピールしてくる人は見ているこちらが恥ずかしい。日本にはそうした見ているこちら側が恥ずかしくなるようなことを、「片腹痛し」という言葉で表現します。こうした古語が存在していることからも、日本人は相手の恥ずかしさというものを敏感に取ることができる文化を持っていることがわかります。
 確かに講義はさぼるでしょう。美術館にも行くし、喫茶店にも行く。お昼はちょっとおしゃれにパスタを食べる。ギャンブルをする。煙草を吸い始めるし、お酒も飲む。しかし、これらのどこが、果たして蔑視の対象になるのでしょうか。

垣間見られる攻撃性
 「中二病」「高二病」「大二病」といった言葉を盾にこれらを攻撃するのは、極めて卑怯なことだと言わなければなりません。なぜなら、それはこの言葉が示しているように、これら蔑視の対象となるものは、すべて病気なんだという前提から始まっているからです。
 しかも、現在我々日本が病気という言葉に対して抱くイメージは西洋的な医学の概念が強く、病気は悪いもの、無い方がいいもの、直すべきものという考えに繋がっていると思われます。これが東洋的な概念だと、病気はどこかバランスが崩れたしるしで、できれば直したほうがいいものであるけれど、それと共に生きていくという考えもないわけではないということになります。
 この言葉を使っている人間は、無意識かもしれませんが、これらを軽蔑しています。すべてのことに、美術館なんかにいって「馬鹿じゃないの」、お酒なんか飲んだりして「馬鹿じゃないの」といったように、嘲笑している感じが伝わってきます。
 人のことを馬鹿にすること自体も問題です。まず何かを馬鹿にした時には、なぜ自分はそのことを馬鹿にしたのだろうという自分の気持ちをよく見つめる必要があります。そういうように自分のこころを見つめられる人は次第に人の事を馬鹿にしなくなるはずです。馬鹿にする行為は確かに気持ちがいい。なぜなら、優越感に浸れるからです。こいつらを馬鹿にしているという行為のなかには、馬鹿にできるから立場が上だと感じられるものがあるのです。だから、小学生は、中二病をおそらく馬鹿にしませんし、高校生も大二病を馬鹿にしないでしょう。小学生にとっては中学生が上に思われるし、高校生にとっては大学生は上に思われるからです。
 百歩譲って人を馬鹿にするところまでは、なんとか許しましょう。本当はいけませんが。しかし、その上で考えるとさらに卑怯なことが判明します。人を馬鹿にする、あるいは攻撃する場合、それをする側の人間がきちんと自分の行為に責任を持っているのならば、まだ公平性があります。自分はこれこれこういう考えを持っている、その結果こういうことが言える、だからこれは間違いだ。こういう攻撃の仕方ならば、まだ許しようがある。きちんと自分がどういう立場から、ものを言っているのかもわかります。しかし、「中二病~」につづく言葉には、攻撃する側には絶対危険が及ばないような仕組みができているのです。
 これは現代のいじめにもつながる問題でもあると私は思っていますが、いままでのいじめというのは、まだ目に見えるものだったのです。ガキ大将や、意地悪っ子がいじわるをしたり、なぐったり。確かにこれも大きな問題ですが、しかしまだ目に見えるだけわかりやすいものだった。しかし、近年ではそれがどんどん陰湿になって、目に見えないものになった。ずるがしこくなったもので、決して担任の先生にはばれないようにやるのです。
 この「中二病~」に類する言葉もそれと同じです。ここにはあきらかにこの言葉を使用する側の嘲笑や、攻撃があるのにもかかわらず、その攻撃している側は絶対的に安全な立場から一方的に攻撃しているという構図が浮かび上がります。「~病」という言葉を使用することによって、「こんなことやっているお前たちばーか」という言葉を、「こんなことをやるのはその年代特有の悪いことだ!直さなければいけない」という正義にすり替えているのです。そこには、「病」という言葉が持つイメージを悪用していることがうかがえます。
 あるものを攻撃する場合、「これは駄目だ」と言えば、なぜ駄目なのか説明しなければいけなくなりますし、ダメだと言った側には責任が付きまといます。しかし、「これは病気だ」と言えば、なぜ病気なのかとなかなか咄嗟に考える人はいません。そうか病気なのか、じゃあ直さなければならないことなんだなと思うのがおちなのです。
 「~病」という言葉を使用して攻撃する人間は、自分が絶対に傷つかないようにしたうえで攻撃しているという、人間として極めて卑怯な行為をしているということをよくよく考えるべきでしょう。

ジェンダー規制
 この記事からいくつか例をとってみましょう。
 「今までの飲まなかったスターバックスが大好きになります。講義中も机の上に置いたり、新作を出るたびTwitterでトイカメラ風の加工を施した写真をつけてレビューを書いたりします。
 もちろん勉強もカフェで行います。実際は狭いテーブルでやるより、ファミレスでやったほうが捗りますが、勉強という何気ないこともオシャレカフェでやっちゃう自分ってステキ女子、と思っています。また、裏メニューや自己流トッピング自慢も通ぶりたい気持ちの表れ。ぱっつんボブ森ガール系に多いタイプです。」
 今まで高校生までの環境で、果たしてスターバックスのコーヒーを飲んでいた学生がいたでしょうか。日本の高校までの学校現場は非常に閉塞された空間で、かなり軍隊的な面があります。学校からは出ていけませんし、そのようななかでスターバックスを買う人間はいません。できることをして、何が悪いのでしょうか。確かに、トイカメラ風の写真をとってTwitterにアップロードする人もいます。しかし、なかにはかなり上手い写真もあり、一概に馬鹿にできるものではありません。

 「いかがでしたでしょうか?大二病は、素敵なキャンパスライフを送る上で大事な要素です。しかし、モテる女性でいるためには、サブカルに手を出してはいけません。スイーツを好きになってください。それができないから困っているんだろと言われてしまっては、仕方がないのですが。(白武ときお/ハウコレ)」

 この記事の最後にはこのような文言があります。同じネット上で表現をする人間として、よくもまあこのような記事が書けるものだと個人的には思っています。
 引用元のサイトはいずれも「モテる女子」を育成するという一貫したテーマをもって記事にしているように見られますが、しかし何よりも問題なのは、この記事の筆者、白武ときを氏が古典的な家父長制度の香りを残した思想を引きずっていることです。
 同サイトのライター紹介では、最後に
http://howcollect.jp/user/index/id/2936
「みんなが知りたいアレコレを、男性目線でご紹介していきたいと思っております。」
 という言葉が明記されています。この男性目線というのは、古典的家父長制度の視点と書き直した方がいいでしょう。この「男性にモテるという」言葉を使用して、あたかも女性の得になりそうな記事を書いていながら、その内実は男性の理想像を押し付けているだけという点が問題です。というのは、「サブカルに手を出してはいけません」といった行為を禁止することからも、強く伺えます。
 私の個人的な男性目線で言えば、私が女性を好きになることに関して、別にサブカルをしていようがしていまいが、特に問題はありません。あまりホモやBLといったものをしている人に近寄りたくないという気持ちはありますが、サブカル程度であれば、むしろ何かに夢中になっているということはとてもいいことだと思います。

 今回私がこの風潮に対して怒りの記事を書いたのは、ほかでもなく、この記事によって傷ついた女性が私の友人にいたからです。彼女はこの記事を読んで、これに当てはまっていない自分のことを考え、悩んでいました。だから、私はこのような家父長制度のおしつけを今でもする人間によって傷つけられるのはおかしい、不当であると思ったわけです。
 世の中には、まだまだこうした記事を読んで素直に受け取ってしまう人が沢山います。私の周りの、大学で高等な学問を受けている人間でさえ、こうした記事を真に受けてしまう人もいるのです。メディアに対するリテラシーがまだ発達段階にある多くの学生などにとっては、ネットの情報は予想以上に存在感を増すものです。ネットに書いてあったからという理由は彼等にとってはかなり大きなものなのです。
 私はこうしたジェンダー規制を蓑にまとい、さらにそれを「病気」という正義を盾にして言葉を発しているこの記事と、この筆者に対して非常に不快感を抱きました。この記事が「~病」というレッテルをはられ、苦しんでいる人のわずかな救いになればと思い、書き記します。
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