映画『rose』 感想とレビュー ローズの生き方に勇気をもらう・『おもひでぽろぽろ』との比較 

51JByuZdShL.jpg

 はじめに
 『かぐや姫の物語』を研究するにあたって、高畑監督の『おもひでぽろぽろ』を観たことからこちらの映画にたどり着きました。『おもひでぽろぽろ』のエンディングには、この映画『rose』のエンディングテーマである、「ローズ」が起用されています。私はこの曲を「おもひで」を観るまで知らなかったのですが、かなり有名な曲だったそう。私の親も知っていました。
 「おもひで」で起用された際には、高畑監督が和訳をし、それを都はるみが唄っています。私は「おもひで」の本編2時間は、最後のこの音楽を聴くためだけにあるといっても過言ではないと思っているほど、すばらしい音楽だと感じています。今回は、「おもひで」から入った『rose』について論じます。


 『ローズ』(原題:The Rose)は、1979年製作のアメリカ映画です。マーク・ライデル監督の作品。ヒロインのローズはジャニス・ジョプリンがモデルとなっているそうです。私はあまり音楽が詳しくないのですが、このジャニス・ジョプリンというのは伝説的な人物だそうで、ロック界を代表する歴史的な歌手だそうです。
 その知識がなかった私ですが、この映画はとても良い。今回、別に批評するということもありません。ただ、ただ良かった映画です。毒舌の私にしては珍しいかな。
 世の中には太宰的な破滅型の人間がいるものです。生きようとするのだけれど、不器用なのか上手くいかない。酒に薬に女に溺れ、命を散らしていく人間。ローズはその女性版と言えるでしょう。
 彼女は、大スターとして映画に登場します。ただ、その華々しいステージ上のパフォーマンスとは異なり、心身がかなり疲弊している。ライブ中にも酒を飲んだり、その言動はかなり見ていて痛々しいものがあります。
この映画がすごいなと思うのは、音楽表現。音楽に徹底的にこだわった高畑監督がこの映画のエンディングを何故使用したのかという点についても後ほど考えて行きたいと思いますが、この映画は、本当に栄華をみているのかと忘れさせるくらい音楽の表現がすばらしい。
 本当に彼女のライブを見に来てしまったかのような雰囲気に包ませるのです。私は残念ながらDVDで鑑賞しましたが、おそらく映画館で観ることができた人たちは、大画面で彼女のライブに行った心持で映画を鑑賞できたことでしょう。上映時間135分の中、この映画のサウンドトラックが40分強あるということは、いかにこの映画が音楽に時間を割いていたのかということの証明にもなるでしょう。
 ローズ扮するベッド・ミドラーの曲はロックということになりますが、「男が女を愛するとき(When a man loves a woman)」など、誰もが知っているナンバーも映画において起用されています。私は若い世代の人間ですから、この「男が女を愛するとき」も、1994年公開のアメリカ映画『男が女を愛する時』から知りました。それまでは、この映画でこの曲が有名になったのだろうと思っていたのですが、この曲はこの映画に起用される前から全世界的に知られた曲だったようです。もともとはパーシー・スレッジという黒人の歌。
 ベッド・ミドラーがカバーした「男が女を愛するとき」も1980年3月には全米35位に達したようで、かなりヒットしたようです。その後もこの曲は1991年にマイケル・ボルトンによってカヴァーされたことで、再び全世界的にヒットします。そののちの映画ということもあり、もはやこの曲は多くの人々が知るものになりました。こうした世界的に愛された曲というのは、様々なカヴァーがあり、そのどれもがすばらしく、いつまでも聴いていたくなるものです。

 CG技術が頻繁に使用されるようになる以前の映画が私は好きです。特にこの年代のアメリカ映画は、もちろん玉石混淆ですが、玉が多かったように思われます。そしてこの時代の映画が目指していたある部分で、映像と音楽のコラボレーションというのがあったように思われます。『トップガン』などは、アメリか映画の音楽と映像のコラボの最高峰の一つでしょう。映像と音楽がこれほどまで心地よくマッチした映画はほとんどない。『rose』は映像と音楽というコラボは目指していませんが、映画内に組み込まれた音楽が、素晴らしいのです。
 主役を演じたベッド・ミドラーは歌手であり、女優です。彼女の演技だけでも十分観るに値する映画です。本当にこの人は具合が悪いんじゃないかと心配するくらい、ローズという心身ぼろぼろの女性を見事に演じ切っています。そして、歌も上手い。歌手でもあるわけですから、安心して聴くことができます。
 こういう一部の特技を持った人間を描くのは難しいものです。例えばピアニストを主役などで出さなければならないときは、手だけを別の映像と移し替えたりする手法が多々取られますが、どうしてもそこには編集というメスがはいるわけで不自然になってしまいます。『のだめカンタービレ』の映画が素晴らしかったのは、上野樹里が本当に弾いているからです。もちろん音源はプロのものに変更されていますが、猛練習して弾いているのです。だからカメラワーク的にも不自然でない。
 日本のロボットアニメーションで、『トランスフォーマー』などに多大な影響を与えた『マクロス』は、音楽が作中の重要なファクターになりますが、このアニメでは、同じキャラクターに声優と歌手、それぞれ別人を起用しています。普通の会話の時は声優が、歌の場面は歌手が担当するわけです。私はその手法を知るまで同一人物が歌っているものだとばっかり思っていました。その不自然さのなさも神技ものだと思います。

 この映画の素晴らしい点は、なによりもベッド・ミドラーという素晴らしい女優に恵まれたことでしょう。ほとんどローズという架空の人物の最後の人生を映像化したものですから、ローズの映画と言っていい。
 彼女が薬と酒に溺れながらも最後まで生き抜いたその姿を見せつけられるわけです。内容もそんなに複雑なものではない。ただ、生きることに疲れながら、ぼろぼろになりながら、生きるその姿が観客にはとても勇気を与えるわけです。少なくとも私はこの映画にとても勇気をもらいました。あまり同じ映画を短期間で観ることはないのですが、この映画は数回見直してしまいました。音楽をメーンに聞きながら観たりすることもでき、何度も楽しめる映画です。


 『おもひでぽろぽろ』との比較検証
 さて、高畑監督がなぜ『おもひでぽろぽろ』のエンディングに『rose』のエンディングを起用したのでしょうか。文藝用語では、こうした他の作品を新しく作品の内部に取り入れることを「インターテクスチュアリティ」とか「間テクスト性」などと言います。簡単に言えば、ただ取り込んだということになりますが、その関係は何かあるのでしょうか。
 『おもひでぽろぽろ』もまた、音楽に非常に、異常にこだわりを見せた映画です。その時代の空気感というものを出すために当時の音楽をとても慎重に選んでいる。そうしたこだわりを見せる高畑監督がただ好きだからとか、制作中にたまたま聞いたからといった理由で持ってこないだろうと考えられます。その点、宮崎監督なんかは鈴木プロデューサーと感覚的に、制作する前にたまたまユーミンのライブに行ったからなんてことを言う人です。
 『rose』は、いわば太宰的な破滅的人間がぼろぼろになって、結局死という完全な終わりを迎えてしまう映画です。ものすごく悲しい映画です。この曲もかなり静かなメロディーですし、これを聞いてハッピーになったとはなかなか思えないでしょう。その曲を『おもひでぽろぽろ』のラストにも起用する。映画『rose』を踏まえているとすれば、やはり「おもひで」のラストも一つの死なのかもしれません。ただ、「おもひで」の死が何を指すのかということになると二つの解釈が成り立ちます。「おもひで」バッドエンディング説の論でいけば、27歳のタエ子の未来が終わりを告げるということになります。が、私は何故小学5年生の自分をつれてきてしまったのだろうという、タエ子の疑問を踏まえて、小学5年時のタエ子の死、過去との決別と読み取りたいです。

 作品とは関係ありませんが、あれだけのこだわりを持つ高畑監督の訳詩はあまりうまいとは言えないと個人的に感じています。


高畑勲訳詩
やさしさを 押し流す 愛 それは川
魂を 切り裂く 愛 それはナイフ
とめどない 渇きが 愛だと いうけれど
愛は花 生命の花 君は その種子
挫けるのを 恐れて 躍らない きみのこころ 醒めるのを 恐れて
チャンス逃す きみの夢 奪われるのが 嫌さに
与えない こころ 死ぬのを 恐れて 生きることが 出来ない
長い夜 ただひとり 遠い道 ただひとり
愛なんて 来やしない そう おもうときには
思い出してごらん 冬 雪に 埋もれていても
種子は春 おひさまの 愛で 花ひらく





"The Rose”

Some say love, it is a river, that drowns the tender reed
Some say love, it is a razor, that leaves your soul to bleed
Some say love, it is a hunger, an endless aching need
I say love, it is a flower, and you, its only seed
Its the heart afraid of breaking, that never learns to dance
Its the dream afraid of waking, that never takes the chance
Its the one who wont be taken, the one who can't seem to give
And the soul afraid of dying, that never learns to live
When the night has been too lonely and the road has been too long
And you think that love is only for the lucky and the strong
Just remember that in the winter, far beneath the bitter snow
Lies the seed, that with the sun's love in the spring becomes the rose.


http://www.maria-angels.jp/a-blog/index.php?ID=58よりミュゲさんの訳詩
愛、それは川、若い葦を沈めてしまう川、という人もいる
愛、それはカミソリ、あなたの心を切り血を出させてしまうカミソリ、
という人もいる
愛、それは渇望、永遠に求め続けるもの、という人もいる
私は
愛、それは花、そしてあなた、その唯一の種
私はそう思う
傷つくのを恐れていては 決して踊ることはできない
目覚めることを恐れている夢、そんな夢は決してチャンスを
つかむことはできない
愛を与えることができない人は 愛を受け取ることも決してない
死ぬことを恐れていては 決して生きるということを学べない
夜がとても寂しくて、道がとても長く感じるとき
愛は幸運で強い人だけのものに思えるとき
これだけは覚えておいて
冬 深い雪の下に眠っていたその種は
春 太陽の愛をうけて バラの花を咲かせることを


 ネットの便利なところは、英語など他の言語にある程度教養のある方が、それぞれ独自に訳詩をして、それをアップロードしている点ですね。もちろん玉石混交ですから、良いものも悪いものもありますが、比較対象があるということは便利なことがあります。
 高畑監督の訳詩は、私が言っているセリフなのか、人が言っているセリフなのかがわかりにくい。かなり丁寧に読み込まないとそれがわかりません。日本語は一語一語を発音する言語なので、英語の音程に合わせて唄うと多くなってしまいます。ですから、英語の歌詞を訳そうとすると、かなり削らなければならなくなる。原文により忠実に訳した下の歌詞は意味は通じますが、これをメロディーに合わせようとするとかなり難しくなる。収まりません。そこが難しいところです。
 ただ、都はるみのカヴァーもまた素晴らしいカヴァーの一つです。「Rose」はこの映画公開から、独り歩きして世界的にも有名な曲となりました。多くの歌手もカヴァーしています。それぞれすばらしい。都はるみの歌は、彼女のもつ優しい雰囲気に包まれており、ミドラーの曲の力強さよりも優しさが全面に押し出ているように感じられます。
 他に比較対象に挙げるとすれば、手嶌葵の「rose」。彼女は宮崎駿監督の息子である宮崎吾朗の監督した映画、『ゲド戦記』で見事「テルーの歌」を歌い一躍有名になりました。残念ながらメディアではその後あまり活躍している様子がうかがえませんが、私は個人的に彼女の歌が大好きです。というのは、彼女には最近の没個性的な、質より量のアイドルたちの歌と違って、彼女にしか唄えない、パーソナリティーやオリジナリティーを感じるからです。そんな彼女は、Wikipediaによれば、中学時代不登校に近い状況になったそうですが、その彼女を支えてくれたのは「rose」だったと述べており、彼女にとって「rose」は特別な曲だそうです。この手嶌バージョンの「rose」も、人間の愛憎こもごもの深みを感じさせる名曲だと思います。

高畑勲監督『おもひでぽろぽろ』 感想とレビュー 人口と自然、二元論を越えて

wpid-TKY201111270115.jpg


はじめに
 昨年冬に話題となった『かぐや姫の物語』。今回は『かぐや姫の物語』の監督である高畑監督の別の作品を論じます。
私も小さいころにこの作品をロードショーなどで見た記憶があったのですが、なんだか全然記憶にない。どうしてなのだろうかと思い、かぐや姫前の予習ということもかねてこの作品を見直したのですが、この作品、ジブリ作品のなかでも群を抜いて難しい作品でした。
 小学校5年生の頃の記憶がメーンに押し出されてくるので、語っている現在、タエ子(27)時(1982年)がおろそかになってしまうのです。特に過去が唐突に何の説明もなく始まったり、現在と入れ替わりで提示されるので、中学生くらいにならなければわからない程難解になっています。そのために、小学校の時分に見たものですから、自分と感性の近いタエ子小5の時の映像だけが頭に残っていたのだということに気が付きました。

作品の難解さ 二つの時間軸
 この作品が複雑になっている点は、二つの時間軸が流れているからです。一つは、語っている現在、すなわち物語が進行している「現在」です。我々が住んでいる世界の時間になおせば、1982年ということになり、主人公タエ子は27歳ということになります。
 もう一つの時間軸はタエ子が小学校5年生の時。西暦でなおせば1966年になります。評論の用語では、語られている現在となります。
 こうした二つの時間軸が流れる物語というのは他にも数えきれないほどあるのですが、しかしそうした作品には大抵の場合、もうすこし観客にわかりやすいように展開されていきます。例えば主人公の語り。あの時はあんなことがあった、といった語りから徐々に過去の映像が浮かび上がってくる。この作品にもいくつかそうした説明から入る箇所があります。その部分はまだわかる。だけれども、この作品の難解さは、過去がそうした説明によらず、唐突に始まったり、時には二つの時間軸が同時に存在したりすることから生まれます。
 例えば、タエ子が夜行列車に乗って山形へ向かう際、27歳のタエ子が窓の外を見ていると思うと、いきなり列車の中に小学校5年生のタエ子が登場します。これがなかなか難しい。そういうことが何度となく繰り返されるので、観客は今はどっちのお話だろうと、集中しなければならなくなるのです。

 他にこの作品が難解になっているのは、非常に論理的な対話が為されるということ。一種の哲学的な問いがずっと語られているということです。これを簡単に高畑監督の性格だと断じてしまうのは少し短絡的な気がしますが、傾向としては高畑監督は非常に理知的で、理詰めで物事を考える人だとは言えるかもしれません。
 タエ子は、分数の割り算の意味が納得いかず、ずっと考えてしまいます。通常ならば、考えないで、ただ単純に分母と分子をひっくり返せばいいのだと割り切ってしまうところを上手くできない。タエ子の現在がどうであるのかということがあまり語られない映画ですが、彼女の性格は、こうした細部を丁寧に読み解いていくことによって浮かび上がってくると思われます。つまり、彼女もまた物事を自分の頭で考え、それに対して答えがでるまで先に進めない人間なのです。悪く言えば要領が悪い人間でしょう。納得しなければ進めないのですから、おそらくその後の彼女の人生もなかなか一筋縄ではなかったことが予想されます。
 さて、そのようにものごとを論理的に理詰めで考える特徴を持つ彼女がなぜ田舎に行きたかったのかという問題です。この映画の難解さは、無駄な説明がかなり削られていること。いきなり田舎に行くという状況で始まる映画というのはなかなかありません。いきなり展開してくるのですから、観客は路頭に迷うわけです。そのためこの映画が難しいとされているのでしょう。
 さて、タエ子が何故田舎への希求を抱いているのかというと、映画においてはタエ子は自分には田舎というものがなかったから、大人になった今になって田舎に行きたくなったのだと説明します。心理学的に言えば反動形成ですか。このような体験は多くの人があるでしょう。親に禁止されていたことなどを、大人になってできるようになったのでやるということです。私も祖父祖母が全員都内にいたので、田園風景の広がる田舎というものがありません。大人になった今になると田舎というものをよく知りはしませんが、田舎に行きたいという願望があります。
 表向きには、田舎に行きたいというのは彼女が小さいころから田舎に行けなかったということがあるでしょうが、私はもう一つの理由があると思います。それは、田舎=自然、田舎=非論理の世界だという認識がタエ子にあったからではないかということです。つまり、タエ子は、自然:人口、非論理:論理、非合理:合理といった二元論を頭に描いていたのではないでしょうか。


論理、非論理 
 タエ子が田舎=自然であり、合理的でない世界だと認識していたことを伺える部分があります。
 田舎についてから。案内するトシオが次のようなことを述べます。
 以下トシオとタエ子のやりとり
「都会の人は森や林や水の流れなんか見ですぐ自然だ自然だってありがたがるでしょう。でも ま 山奥はともかぐ田舎の景色ってやつはみんな人間がつくったもんなんですよ」
「人間が?」
「そう 百姓が」
「あの森も?」
「そう」
「あの林も?」
「そう」
「この小川も?」
「そう 田んぼや畑だけじゃないんです。みんなちゃーんと歴史があってね。どこそこのヒイじいさんが植えたとか、ひらいたとか、大昔からタキギや落葉や、キノコをとっていたとか」
「ああ そっか」
「人間が自然と闘ったり自然からいろんなものをもらったりして暮らしているうぢにうまいこと出来上がってきた景色なんですよ これは」
「じゃ 人間がいなかったらこんな景色にならなかった?」
「うん 百姓はたえず自然からもらい続けなきゃ生きていかれないでしょう?うん だから自然にもねずーっと生きててもらえるように百姓の方もいろいろやって来たんです。まあ 自然と人間の共同作業っていうかな、そんなのが多分 田舎なんですよ」

 ここには重要な視点が隠されていると思います。田舎や自然というものは、あくまでもそれ単体としては存在しえないのです。人間や人工という私たちの主観、主体があって、初めて私たちとは別のもの、人間、人工とは別のものという意味でしか自然や田舎という概念は出てこないわけです。すると、自然という概念すらも人間が作り出した人工的なものだと言うこともできます。また反対から考えて、人間だって自然の生き物なのだから、自然の一部ではないかと言うこともできるのです。自然対人間(人工)という二項対比は今まで何の問題もないようにまかり通ってきましたが、本当によくよく考えると、果たしてそんなに簡単に考えることができるのか?ということになると思います。
 タエ子はこのやり取りをしている際に、始終新しい発見であるかのように驚きます。その驚きに嘘がないとすれば、自然はあくまで自然であり、それは彼女のいた都会、人工と対立するものだと考えていたということになるでしょう。彼女は論理的に、理詰めで生きて来た人間なので、おそらく都会での暮らしに息が詰まっていたのだと私は解釈します。
なので、田舎への希求は、ひとつには彼女の反動形成。もう一つには都会、人工、論理からの逃避であると言えるでしょう。

 高畑監督の作品は『かぐや姫の物語』を見ても感じたことですが、何か一つのことを言うにも、きちっと弁証して答えを導き出さなければ気が済まないということです。「かぐや姫」では、生はいいものなのか、いや悪いものだ、つらいものだ、と物語を展開していくなかで、最後にまだ地上に居たいという気持ちまで丁寧に描き、生の在り方というものを薄っぺらい提示ではなく、きちんと弁証して見せています。
 この作品も彼のその方法論が垣間見れると思います。すなわち、単に最初から、自然と人口というのは二項対比できるものではないのだという答えを提示するのではない。その二元論を信じていたタエ子に、トシオが時間をかけてそうではないのだということを、身をもって徐々に教えていくのです。


 この映画の謎
 この映画はジブリ映画でも飛び切り謎が多い作品です。ジブリを代表するもう一人の監督、宮崎監督の作品にも謎がいっぱいありますが、宮崎監督の作品の謎が感覚的な謎と表現できるのならば、高畑監督の謎は論理的な謎と言えるでしょう。理詰めで説明しているのですが、そのなかにどこかぽっかりと意味が通らないところがある。説明が抜けおちているところがある。それを少し考えてみましょう。
 まず一つ目にここはどういうことだろうと私が思ったのは、小学校5年生のタエ子を父親が殴った場面。後にも先にも父が手をあげたのはあれっきりだったという説明が後にされます。そのため、やはりタエ子にとっては衝撃的な、おそらく父にとっても衝撃的なことだったことでしょう。
 通常ならば、ぐずぐず文句を言い、バッグはお姉ちゃんのでなければ嫌だとか、だだをこねていたことに対する父の怒りです。私にも現在小学6年生の妹がおりますので、この父親の気持ち、あるいは姉の気持ちというのがよくわかります。子供はどうでもよいことが気に障ってしまうものです。ひとつが上手くいかないと、その感情が私は何が上手く行っていなくて、こういう感情になっているのだということがまだはっきりとわかりませんし、コントロールできませんから、他のこともすべてが嫌になってしまう。大人でもこういうことは多々ありますが。それで、だだをこねていたタエ子を殴った。これならわかるのです。
 ところが、問題が生じます。ただの怒りならそのまま理解できるのですが、タエ子を殴る直前に、父親は傍白(心の声)で「裸足で」というセリフを呟いています。これがわからない。黙っていてさえくれれば、そのまま見過ごせたのに。なぜ、この父は「裸足で」ということを心のうちで呟いたのでしょう。積もり積もっていた感情が、最後に「裸足で」出て来たという目に見えやすい形をとったので、ぷつんと糸が切れたということでしょうか。ただ、少し無理があるような気がします。「だだをこねるんじゃない」とか「わがままをいうんじゃない」と言ってくれればわかりやすいものを、「裸足で」ですから、まるで父は、タエ子が裸足で出て来たことに対して怒ったように見えてしまいます。そんなことは製作者は当然わかっているはずですから、敢えてこの部分を謎めいた言葉のままにしておいたのは、謎のままです。今の私には明確な答えは導き出せません。ぜひ一緒に考えてください。

 もうひとつの謎は、これは有名な謎なので他にも多くの論者が指摘していますが、ラストシーンの問題です。ラストシーン、一見すると、トシオとタエ子が結ばれたとあって、ハッピーエンドになります。通常であれば、そう解釈したいところ。ところが、最後の最後に、車で立ち去っていく二人の後を見つめる小学生の子供たちの表情を良く見てください。みんな笑っていないのです。真顔。特にタエ子だけが背景が消えたあとも、数秒間画面に残りますが、そのタエ子の顔が無表情なのです。
 これは少なからず観客に衝撃を与えます。ハッピーエンドだ万歳と思っていたら、真顔でこちらを見つめてくる小学生のタエ子がいるわけですから。では、バッドエンドなのだろうかという意見もあります。確かに、27歳のタエ子は、トシオ宅でおばあちゃんからトシオと結婚するように勧められてからの独白で、次のようなことを述べています。
 「農家の嫁になる、思ってもみないことだった。そういう生き方が私にもありうるのだというだけで不思議な感動があった。“あたしでよかったら…”いつか見た映画のように素直にそう言えたらどんなにいいだろう。でも言えなかった。自分の浮ついた田舎好きや物真似事の農作業がいっぺんに後ろめたいものになった。厳しい冬も農業の現実も知らずに“いいところですね”を連発した自分が恥ずかしかった。私には何の覚悟もできていない、それをみんなにみすかされていた。いたたまれなかった」
 この部分に重きを置いて考えれば、田舎で暮らすことの覚悟ができていなかったタエ子が、そのまま結婚した場合に田舎の辛い面を体験して、田舎も楽ではないということに気が付き、単に田舎賛歌で終わることができなくなってしまったということが予想されます。世の中、完全に善なるものというのはないのです。どんなものにも善悪の二面がある。タエ子は都会人として田舎の良い部分だけしか見なかった人間ですから、田舎の辛さや苦労を感じたあとどのような行動を取るかわかりません。最悪の場合、トシオとの仲が悪くなり、都会に戻るということも考えられるのです。
 バッドエンド説の論者たちは、このような想像をここからしています。

終わりに。ハッピーエンド;バッドエンドの二元論を越えて
 私も当初はバッドエンド説なのかなと思っていました。彼女の真剣な独白は、先に引用した部分の後、トシオとの車のなかで最後にトシオについて少し言及するのみ。田舎のことについては先の部分が最後です。そこだけをとって考えると、やはり田舎の辛さに耐えられなくなっていくことが示されているのかなとも思いました。
 ですが、自然:人口の二項対比、二元論を越えることがこの作品のテーマであるとした場合、ハッピーエンド、バッドエンドの二項対比、二元論も越えていくことが示唆されていたのではないかなと考えを変えました。世の中のものごとっていうのはそんなに簡単に言えるものではない。そういうメッセージがこの作品の根底には流れている気がします。とすると、やはり終幕にあたっても、バッドかハッピーかというわかりやすい対比ではなく、良くも悪くも、これからの未来が続いていくのだということを示していたのではないでしょうか。それを示唆させるために、小学生のタエ子は笑いではなく、また哀しい顔でもなく、ニュートラルな真顔をしたのでしょう。

終わりに。高畑監督の音楽
 この映画の見どころは徹底したリアリズムです。なかでもそのリアリズムを強固にしているのが、音楽のチョイス。音楽にはその当時の記憶とともに人間の記憶に残るものがありますが、高畑監督の音楽のチョイスは、まさしくずばっと、その当時に連れて行ってくれるものです。私は若い人間ですから、当時のことはわかりません。しかし、そこで流れている音楽を聴いてると、ああこういう時代なのだなとわからないままでも想像ができます。タエ子は、現在大学生を子に持つ母親くらいの年代の人です。ですから、丁度私の母もタエ子とほぼ同じ歳ですので、随分共感していたようです。
 特に最後のエンディングテーマが素晴らしい。私はもうこのエンディングを聴くためだけの二時間だと言ってもいいくらい、このエンディングが好きです。アマンダ・マクブルーム作詞・曲(ベット・ミドラー歌)の「The Rose」を高畑勲が日本語に訳し、都はるみが歌った「愛は花、君はその種子」という曲です。


『風立ちぬ』再論 宮崎駿『風立ちぬ』にみる科学技術と倫理 何故宮崎監督は引退したのか、『風立ちぬ』隠されたメッセージ

kazetachinu_k.jpg

レポートとして提出したものなので、だ・である調で書いてありますが、そんなに堅苦しく思わないで読んでいただけると幸いです。

 はじめに
 去る2013年7月20日。ジブリ映画『風立ちぬ』が公開された。「実在の人物を初めて主人公にし、戦闘機への長年の憧れと、それと矛盾する反戦の心情を色濃く映し出」(1) した作品であると、メディアには取りざたされた。同じ記事から、この作品のごくごく簡単な概要を引用すると、「主人公で飛行機の設計技師、堀越二郎のキャラクターは、後に零戦を設計する堀越二郎(1903~82年)と文学者・堀辰雄(1904~53年)という実在した2人のエッセンスを混ぜ合わせて作り上げた」作品である。こうした作品紹介はどの新聞記事やテレビ番組を見てもされていたが、作品解釈を専門とする私から言わせると、かなり誤解を招く恐れがあるのでやめた方が良いと感じる。というのは、下敷きとされた堀辰雄の『風立ちぬ』とはかけ離れた作品であるし、また実存した堀越二郎の人生からもかけ離れているので、この作品は宮崎駿監督による新たな創作と考えたほうがいいだろう。

 国文学科に所属している私の専門分野は、近現代文学である。だが、特に現代文学を扱う際には、周辺メディアへの視野が不可欠になる。映画、演劇、映像といった媒体から漫画、アニメ、ネットなどのサブカルチャー要素まで研究対象に及ぶ。ただ、あまりにも広範囲に及ぶため、いくつかの部分に的を絞るのが通例である。私の専門は近現代文学と、主にアニメーション映画が専門である。アニメーション映画を専門にしている人間にとって、当然ジブリ映画は押さえておかなければならない作品である。なので、私の専門分野であるジブリ映画を題材に、今回は特に宮崎駿の科学技術と倫理について考察したい。
 なお、今回の考察にあたり、角 一典氏の論文〈ジブリ映画のメタファー : 科学技術と倫理をめぐって 〉(2)http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/6884/1/63-2-zinbun-06.pdf
を下敷きにした。そこで導かれた考察をさらに発展して、『風立ちぬ』に応用したい。この論文は非常に優れていると私は感じたが、発表されたのが2013年の2月である。同年7月に公開された『風立ちぬ』はその時点で公開されていなかった。なので、この論文が発表されたその後、宮崎駿監督の科学技術と倫理の思考が現在どのように変遷したのかを『風立ちぬ』を題材にして考察したい。


反戦映画なのか、戦争賛美映画なのかとの論争
 現在の高度情報化社会においては、ネットの世界についてもその視野を広げ考察する必要があると私は感じている。最近では、NHKのニュースでさえ、一般市民の声を掬い上げるという使命のもと、何の監査もないただの感情的な声をそのまま垂れ流しにしている現状である。私は一般市民の声をニュースに反映させるという理念こそ正しいものの、その実態が非常に残念なものになっていると考えている。やはりニュースには、できるだけ事実を客観的に伝える姿勢が必要であるから、個人の意見をそのまま垂れ流しにするのはよくない。そのニュースに対してどのように市民が反応したのかという声を何らかの形でアクセスできるようにするのはまだ視聴者の主体的な行動によってのみその情報にたどり着けないという点で良いと思われるが、何の推敲もない感情的なメッセージをそのまま放送するのはニュースの本来の姿を極めて歪めてしまっていることだと思う。
 この点に関しては、論旨がずれるのでここまでにしておくが、最近の作品は、ネットで批評の対象となることが多い。評論家や批評家と呼ばれた知識階級の人々が積極的にネットを使用してその評論活動を広めているからということもある。ただ、第三者の目が向けられないネット上の情報は、一方できちんとした情報を発信している人も居れば、他方であられもない嘘を振りまいている人もいる。そのような玉石混淆のなかで、よい情報を取捨選択していく力もまた問われる。こうした現状を取り巻くメディア事情を踏まえた上で、本論に入りたい。

 様々なメディアでの批評の嵐は、『風立ちぬ』も例外ではなかった。この作品の批評が始まったのはテレビやラジオといったメディアよりも、ネットメディアであった。そもそもジブリ映画は、アニメーションということもあり、比較的若い世代に人気がある。ネットで言論を述べているのも若い世代であるから、以前からジブリ映画に対する様々な書き込みが見られた。公開されるやいなや、通称「ネトウヨ」と言われる、ネット上で右翼的な発言をしている人たちが、この映画について過激な批評を繰り出してきた。この映画が「戦争賛歌」だという解釈である。
 また、この作品は公開前から問題視され、韓国のメディアは「(ゼロ戦を製造した)三菱重工は朝鮮人を強制連行し、労働力を搾取した」「(映画に登場する)関東大震災で朝鮮人の大虐殺があった 」(3)とかなり厳しい批評を寄せた。ただ、同記事によると公開前に批判的なコメントの多かった韓国メディアは、公開されると特に作中に問題場面が見当たらないのか特に問題は生じなかった。
 『風立ちぬ』は当初、韓国や中国、アメリカといった戦争をめぐる関係国からは歴史認識を問う問題が発生すると思われたが、公開してみるとそうした問題はほとんど生じなかった。その代わり、国内からの批判が相次いだ。本論にも関わってくる指摘をしている佐藤優氏は精神科医の斉藤環氏の「宮崎駿の最大の問題が、彼の敬愛するサン=デグジュペリや宮沢賢治にも親和性が高い生命論的ファシズムである」という部分を引用し、この作品を「堀越二郎が開発する飛行機全体が生命体であり、この飛行機を制作するチーム自体が生命体であることは、このアニメから容易に読み解くことができる」(4) と述べている。宮崎駿が機械を生命体と考えていることについては私も賛成するが、詳しくは後で述べる。ただ、その考察をしたうえで、佐藤氏は「この作品において、重慶で爆撃される側の人々が完全に捨象され、爆撃機を制作する技師たちの美学に吸収されている。「風立ちぬ」を見て、爆撃される側の気持ちを追体験する人がどのくらいでてくるであろうか」と評価している。私はこの点には賛同しかねる。
 さて、これまでの批評は批評としてどれもある程度理解することができるものであるが、私は宮崎駿の倫理観を考察することによって、さらにこの問題が何を示しているのか考えてみたい。先の引用で、宮崎駿が機械を生命体と考えていることが指摘された。本稿では、その宮崎駿の生命観が倫理観に直結するものとして、考察する。


宮崎駿の生命観
 宮崎駿の倫理観を考察した、角 一典氏の論文〈ジブリ映画のメタファー : 科学技術と倫理をめぐって〉は大変素晴らしい論文である。氏は論のはじめに「科学技術は文明間と密接にかかわり、また、倫理問題とも密接な関係を持っている」と述べ、その具体的な論証に入っている。氏の論は初め『風の谷のナウシカ』と『天空の城ラピュタ』を題材に考察が進められている。この二つの作品に共通するのは、「かつて圧倒的な科学技術力を有していた文明が滅びたという物語」と「人類を含めた生命にとっての土の重要性」(自然からの逸脱という意味)であるとして、「高度な科学技術によって生み出された者は、人類にとって有用なものばかりではなく、人類にとって脅威となるものでもあった」と一端結論づけている。だが、宮崎駿の科学技術に対する視野は映画からのみではうかがい知れない部分がある。角氏は、ナウシカが漫画版と映画とがかなり異なった展開をしていることに注意しつつさらに考察を続けている。漫画版のナウシカでは「生まれたばかりの巨神兵は恐れおののき、恐怖心からビームを吐き散らして地上のあらゆるものを破壊していく。背景に描かれたキノコ雲は、それが核爆発であることを想起させる。コミック版ではさらに、ナウシカの身体が変調をきたし、嘔吐感などの症状を呈するようになることから、巨神兵の力の源泉が原子力エネルギーであることを示唆する。巨大な力を持ちながらその精神レベルは赤子並みで、暴走をコントロールできない存在」として巨神兵は描かれている。機械はある意味では「エゴがない分、機械は人間以上に倫理的である」とし、「滅びの原因は、本質的には科学技術あるいは機械にあるのではなく、それを利用する人間にあると宮崎は考え」ていると考察している。
 また角氏は宮崎駿の言葉を引用し、次のように結論づけている。宮崎駿の言葉を孫引きする。
 「人間が機械を作るというのは、道具というと手の延長という感じがするけれども、機械というのは自分に対する、無制限の献身をする何かを作っているんですよね。それは生きものというとあまりにも単純だけれども、でも生きものの原型にあたるものを作っているんだという気がするんです」(宮崎駿、1996『出発点1979~1996』:547)
 これに対して角氏は「宮崎にとって機械は道具以上のものであり、生命に近い存在でもある(巨神兵が生物として描かれたのには、こうした考え方が影響していたのかもしれない)」と言い換えている。また宮崎は「機械のもっている不思議さに、一種アニミズム的な力を感じ取る人間の方が好きですね」(同)と述べており、この発言はそのまま宮崎も機械に対してアニミズム的な視点を持っていると言えるだろう。
 では、宮崎駿の思い描く人間と機械の関係とはどのようなものなのであろうか。角氏は次のように論文に示している。〈それどころかドーラは「また作り直しゃいいんだ」とすら言う。自分たちの手でいつでも作ることができる、そのような水準の技術こそが人間の幸福をもたらす。このようなメッセージが、これらの一連のモチーフに隠されている〉とし〈シューマッハーは、最先端の技術が必ずしも最適の技術ではなく、むしろ、相対的には劣った技術であったとしても、総合的な観点からはより優れた成果をもたらし得ると考え、「中間技術」という概念を提唱した〉という指摘をしている。
私もこの論に賛成である。氏の論はその後、『千と千尋の神隠し』(2001年)、『猫の恩返し』(2002年)、『ハウルの動く城』(2004年)、『ゲド戦記』(2006年)『崖の上のポニョ』(2008年)を踏まえて宮崎駿の視点が科学技術から魔力へと移行していったと述べている。魔力にしても、科学と同じく、巨大な魔力ではなく、等身大の魔力を自分のためではなく、他人のために使用することによって救済されるというパターンを見出し、それが宮崎駿の倫理観であろうと結論づけている。

『風立ちぬ』の倫理観
 角氏の見事な考察は宮崎駿が監督を務めた『崖の上のポニョ』までで終わっている。宮崎駿は巨大な科学技術と小さな科学技術への考えを深めた後、科学技術というあからさまなモチーフをやめ、魔力というアニメ向けされたモチーフへ移行していった。そこには、アニミズム的な視点が強くなったのではないかと私は考える。人工的な科学から、自然的な魔力への移行もそうであるが、宮崎駿監督の作品は徐々に西洋的な合理的な思想から離れて行っていると私は考える。というのは『崖の上のポニョ』が特に顕著だが、ポニョでは機械的な線がない。これは公開時にも話題になったが、今まで機械が登場する作品ではどうしてもリアリズムを出すために定規で引いたまっすぐな線を使用していた。その宮崎監督がポニョではまったく直線を引かなかったのである。途中「千と千尋」を通して、より日本的な東洋的なアニミズムに近づいたのであろう。
 さて、では『風立ちぬ』はどうか。私は引退を表明した宮崎監督はここに自分の思想の完成をみたために引退したのだろうと考えている。
 『風立ちぬ』では、飛行機のエンジン音などを人間の声で表現したという点が取沙汰された。この情報は公開前から話題になっていたが、実際に劇場で見るとかなり違和感があった。作品にあれだけこだわりを見せる宮崎監督が、いくら自分がやりたいからと言ってその違和感を残しておくはずがない。違和感を残したままでもゴーサインを出したのにはさらに深い理由があるだろう。すなわちそれは、機械の音に人間の声を与えるということによって、機械が単なる冷徹なマシーンではなく、生きた存在であるということを示したかったからである。
 それに、この作品ではどの飛行機も直線的な線は少ない。かなり写実的に描写している場面はあったが、それは飛行機が格納庫に格納されている時など、生命体として眠っている時のみである。飛行機が空中を飛ぶ際の描写は、どれも飛行機が生きているかのような有機的な線で描かれ、かなり伸縮性があるように描写されていた。宮崎駿はこの作品において、やっと機械にも完全な生命を灯すことができたのである。
 また表現技術の問題であるが、ジブリ映画はほとんどCGを使用しない。私はここに、宮崎駿の技術の倫理観を見ることができると考える。すなわち、CG技術というのは確かにすばらしい技術かも知れないが、問題はそうした素晴らしい技術があればいい映画ができるのかということだ。よく考えればわかることだが、あらゆる分野においてすぐれた技術があれば良いものができるのかというとそうではない。確かに善いものには、すばらしい技術が使われていることがあるが、しかしその反対はそうだとは限らない。たとえいくら技術があっても、その技術を何に使用するのか、どのように使用するのかという使用者の心がなければ意味がないのである。宮崎駿は生涯を通じて技術と機械について考えて来た。そのような人間であるからこそ、技術を乱用することなく、自分に見合った技術を使用したと考えられる。
 なので、この映画が戦争賛美だという批評は的が外れていると私は考える。宮崎駿が描き出したかったのは、技術それだけでは無である。機械は少しは命を持っていると宮崎駿は考えているが、しかし、技術にしても機械にしてもそれを操るのは人間である。その使用方法を間違えればどうなるかということを問うているのであろう。
 『風立ちぬ』は宮崎が、どのように機械に命が込められていくのかという過程を描いた作品であり、それを使用して戦争に向かって行った歴史に対しては何も述べていない。沈黙しているというのはただ無批判だということではなく、無言の抵抗だと考えたほうがいいだろう。
 またシューマッハーの「中間技術」こそ現代のわれわれが持つべき倫理観ではないだろうか。私は原発反対の人間であるが、原発推進派の人間は「それではどのように日常生活していくのか」とか「原発をやめたらエネルギー供給ができなくなる」などと言うが、原発をやめない限り私たちに未来はないだろう。明らかにオーバーテクノロジーであり、人間が扱える技量をはるかに越えている。ジブリ映画で言うならば、巨神兵やラピュタのようなものだ。人間はともするとエゴの塊になって、自分達が一番偉い生物だと考えてしまうが、人間もこの地球を前の代から譲り受け、そして後の代に引き継がなければならないという使命を負っていることを認識しなければならない。そうすれば、今の生に終始することやめ、自然と未来のことを考えて行動するようになるだろう。


もう一つの問題。たばこ問題
 近年の喫煙志向は、健康志向も相まって、相当強い働きを見せている。私自身はたばこを吸わないし吸ったこともない非喫煙者であるが、喫煙者である友人のたばこの箱などを見ているとかなり仰々しい健康被害を訴える文句が書かれているのをよく目にする。
 確かにたばこは人体に悪影響を及ぼすかも知れない。よく引き出される事象としては受動喫煙が多いだろう。フィルターのある主流煙よりもフィルターのない副流煙のほうが毒性が何倍も強いという主張である。私も禁煙が叫ばれたここ⒑年で、よくそうしたデータを耳にした。だが、いくら毒性が低いからといって、毎日何本も吸っている喫煙者と、ほんの数分間副流煙を吸ってしまった受動喫煙者とどちらの肉体に毒性が強く影響するかと言われれば、よく考えれば喫煙者のほうであろう。このデータは副流煙のほうが毒性が強いということを主張しすぎるあまり、副流煙をたまたま吸ってしまった人の方が喫煙者よりもダメージを受けるように受け取られる節がある。授業ではこのようなことを学んだと思うが、ここには、極度のたばこ嫌いの思想が受け取れるだろう。
 その極度のたばこ嫌いは、もはや個人の意思決定のみならず、他人の表現の自由まで侵害してきている。今回の『風立ちぬ』で問題となったのは2つの問題である。1つは先に述べた戦争問題。歴史認識をめぐる問題なので、非常に複雑化した。そして、もう一つは思わぬところから切り込まれたたばこ問題である。
 〈作中に喫煙シーンが多く登場することから、禁煙を推奨する学会が「国際条約に抵触している」(5)と要望書を提出したのだ〉 。同記事によれば、〈医療関係者など全国約3千人でつくる日本禁煙学会が8月、「喫煙シーンが多く、メディアによるたばこ宣伝などを禁じた国際条約『たばこ規制枠組条約』に違反する」とし、法令順守の要望書をスタジオジブリに提出した〉とのことである。誰もがまさかそのような思わぬ伏兵から刺されるとは思っていなかった。私個人としてはもはや呆れたとしか言いようのない感情でいっぱいであるが、この論争はなかなか収まらず、ヒートアップしてきている。
 同期時には、次のことが書かれている。〈主人公が結核の妻に遠慮し、外でたばこを吸おうとするが、妻の「ここで吸ってください」という一言で思い直し、手をつなぎながら紫煙をくゆらせる―という描写を問題視。同学会の宮崎恭一総務委員長は「あまりに非常識。夫婦の絆を描くにしてもほかに表現方法があるはずだ」と猛反発している〉そうであるが、私はこの宮崎氏の指摘こそ「非常識」だと考える。実際にそのようなことをしている夫婦に対して、医師としてそのような指摘をすることは問題ない。ただ、現実ではない作品の世界にまでそのたばこ嫌いの倫理を持ってきていただいては困る。このようなことになれば、何も表現できなくなってしまうからである。むしろ、作品鑑賞の視点から見れば、この場面は非常に「泣ける」場面の一つであった。結核で苦しんでいるはずの妻が、たったひと時でもそばを離れてほしくないという思いが伝わって来る感動的な場面であった。このような場面にまったくお門違いの嫌悪感を持ち込むのはナンセンスである。
 ちなみにこの問題に対して喫煙文化研究会は次のように反論している。『ルパン三世』で知られる次元や、「友情」「努力」「勝利」をテーマとして掲げる『週刊少年ジャンプ』の代表的な作品『one-piece』に登場するサンジなど、マンガではたばこをくわえたキャラクターが多い。日本禁煙学会はこれらの作品には「風立ちぬ」と同様の要望書は提出していない。それに対する宮崎委員長の回答は「架空のキャラクターであれば、たばこを吸ってもゴムの体がのびても(引用者注:『ワンピースの』主人公ルフィは体がゴム質でできている)仕方ないという面はある」(同)というかなり見苦しいものである。もはやこの回答が矛盾に満ちていることは本人も承知の上だとは思うが、そうすると、宮崎氏の主張によれば『風立ちぬ』は架空、フィクションではない、ノンフィクションの作品ということになるだろう。そうした解釈は成り立たないと私は考える。
 たばことQOLは確かに重要な問題ではあるが、現在たばこへの敵愾心があまりにも強く作用しすぎていると感じる。現代の日本人は傾向として、正しいものはよくわかっているのであるが、正しくないものを見付けるとよってたかって攻撃するという、非常に危険は倫理観、正義感を身に付けていると私は感じている。フィクションであると誰もがわかる、とても現実としてそのまま受け入れるとは思われない作品においてさえ、先のようなクレームがつく時代である。私は別の授業の課題で「はだしのゲン」の規制問題についても追っていたのであるが、ここ一二年の表現規制への流れはますます加速している状況にある。
 確かに間違っているかもしれないが、そのささいな間違いを糾弾する正義の振り回しが私は今一番倫理的に問題なのではないかと感じている。


1 日本経済新聞 2013/07/27 朝刊40ページ 宮崎駿監督の新作「風立ちぬ」、反戦の心、戦闘機に乗せて(文化)
2 角 一典氏の論文〈ジブリ映画のメタファー : 科学技術と倫理をめぐって〉
北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編 63(2), 69-82, 2013-02
3 毎日新聞 東京夕刊 2013/09/21 1頁 政治面 チェック:「風立ちぬ」公開 韓国、波立たず
4 毎日新聞 2013/11/19 エコノミスト1頁第91巻第51号通巻4316号3頁〔討論席〕佐藤優
5 産経新聞 2013/09/24 大阪夕刊 スポーツ面 【インサイド】「風立ちぬ」喫煙論争 ヒートアップ


テーマ : 書評
ジャンル : 小説・文学

〈樋口一葉『大つごもり』 〉 ―制度破壊者としての石之助―

20111229_2701714.jpg


はじめに
 『大つごもり』は、樋口一葉(本名、樋口奈津)によって書かれた小説で、明治二十七年十二月三十日発行の『文学界』第二十四号に発表された。その後明治二十九年二月五日発行の『太陽』第二巻に再掲。『大つごもり』は一葉が下谷龍泉寺町から本郷区丸山福山町へ引っ越してきてから『暗夜』(明治二十七年七月「文学界」)に続く作品であり、俗に言われる「奇跡の十四か月」始まりの作品である。
 一葉の日本における評価は二〇〇四年から発行されている五千円紙幣E号券を見てもあきらかであるように、現代において非常に高い評価を得ている。約一世紀に渡る研究史も深く、もはや研究されつくされた感はあるが、今回は『大つごもり』の持つ意義を当時の制度から照射して考えてみたい。
 『大つごもり』は表題の通り大晦日の大勘定時に起こる金銭のやりとりから生まれたドラマを描き出したものである。その点西鶴 の『世間胸算用』と通ずるところもあり、一様の作風が源氏や伊勢風であると言われている中、一種異彩を放った作品となっている。
 今回は『大つごもり』のヒロインお峰ではなく、「下」から登場する山村家の放蕩息子である石之助に着眼して、この作品の意義について考察していきたい。

貧困という装置
 今回私が論じたいメーンテーマは石之助にあるが、その前に論証しておかなければならないことがある。すなわち筆者一葉が何を捉え、どのように社会を見ていたのか、一葉の視座を見据えることである。一葉は二五歳という若さで急逝しており、とてもではないが長い人生、作家生活であったとは言えない。人間が一般的に短期間のうちに思想や考え方が変わらないことを考えると、その短い期間のなかでの変化というものはそれほど大きなものではないと考える方が妥当ではあるが、研究者諸氏が指摘してきたように『大つごもり』は特に一葉作品においても異彩を放っている。多くの研究者が指摘していることであるが、『大つごもり』は一葉作品にしては珍しく色恋を描かない。ストーリーは専ら貧困のなかで苦しむお峰が奉公先である山村家の硯の引き出しから二円を盗んでしまうという行為にウエイトが置かれたものである。
一葉が最期まで金銭的に苦労したことはもはや周知のこととなっている。多くの研究者は一葉の実体験が生かされていると指摘している が、これはその通りであろうと私も考える。貧困のなかで一葉は何を見て、そして捉えようとしたのか、以後論証してみたい。
 浦川知子氏は 「一葉は貧困ゆえの社会悪そのものを見つめるようになり、吉原の存在そのものにも疑問を感じ始めていった」と『大つごもり』執筆時前後の一葉の心理変化について述べている。先にも述べたように、『大つごもり』は「奇跡の十四か月」幕開けの作品であり、時期を開けずに一葉の最も代表的な作品である『たけくらべ』を執筆している。問題は『大つごもり』から『たけくらべ』への執筆段階においてどのような心情の変化があったのかということである。
高田知波氏は氏の論文において、このテクストの結びが実は救いではなく、救いのない未来の暗示であると独自の見解を示したうえで、「金銭の問題で絶体絶命の窮地に追い込まれたお峰がなおかつ安兵衛に対する孝心を立証していくために残された方法は、みずからの肉体を商品化する〝苦界〟への道」であると論をすすめ、「一葉ははじめて娼婦の住む世界を作品化しなければならない必然性に到達したのではないか」 と推測している。
 このことを少し抽象化して述べれば、堅気の女と水商売の女との境界線が破壊ないし、あやふやであることに気が付いたということであろう。「正直」が説かれる『大つごもり』の物語であるが、お峰は最後の盗みの場面において、『大つごもり』を支配している「正直」の論理を踏み外してしまう。そのため、堅気であったお峰は「正直」者でなくなった、盗みを働いた瞬間から堅気の女ではなくなってしまうのである。高田氏はこのテクストは救いではなく、救われない未来を暗示したテクストであると主張しており、それはより具体的に述べればお峰はこれから娼婦などの商売に身をやつしていかなければならないことであるとしている。この視点は、『大つごもり』の次に発表された『たけくらべ』はいうまでもなく、『にごりえ』などにもうかがえることから、貧困の問題を突き詰めて行った一葉は、貧困は堅気と堅気でない女との境界線をあやふやにする装置であることに気が付いたに違いない。

一葉が見た貧困
 では一葉は貧困が堅気か堅気でないかの境界線を越えさせてしまう装置だと気が付く段階において、貧困する側と富める側との人間像をどのように捉えていたのであろうか。一見するとこのテクストに登場する貧困層、お峰や安兵衛と富裕層、山村家の旦那、御新造のキャラクターは対照的であるように読める。すなわち貧困層の人間は物質的には豊かではないが、心は清らかで、「正直」の論理に生きているというものである。それに対して富裕層の人間は御新造が代表的であるが、桶を壊してしまったお峰に対して「身代これが為につぶれるかの様に」叱責したり、気分屋で女中を人としてあつかっていなかったりという描写がなされている。だが果たして本当にそのようなわかりやすい構図なのであろうか。
 浦上氏は「一葉がこの小説の中でテーマとしたことは、金持ちでありながら他人に対しては冷ややかな目を持った山村家と、貧しいながらも人情があふれんばかりの人間たちの集まった安兵衛一家の比較でもなければ、各々の登場人物すべてが持ち合わせた性格の披露でもない。与えられた運命によって身動きできない、自らの人生を変えることのできない人間たちの悲劇なのである」 と述べている。
 御新造の気分の起伏が激しいのは、頼りにならない当主や義理の放蕩息子をなだめつつ、「家」を存続するための実務に携わっている緊張からであるという指摘をしつつ、浦上氏は論証を進めている。
 果たしてこのテクストに登場する貧困層、富裕層のキャラクターは固定化されているのであろうか、それともされていないありのままの多様性を持つ人間として描かれているのであろうか。身もふたもないことを言ってしまえば私はこの中間に位置していると考えている。キャラクターを固定化しつつ、多少イレギュラーな言動を含ませている、あるいはできるだけキャラクターを固定化させないようにしつつも固定化してしまっている状態なのではないだろうか。このあいまいであやふやな状態がこのテクストに一貫して流れている芯にあたるのではないかと私は考える。そのなかで、最もイレギュラーな存在として異彩を放っている石之助に注目し、石之助に与えられた役割や、石之助というキャラクターの意義について考えて行きたい。

石之助キャラクター
 高田氏の論文からの孫引きであるが、石之助は今までの研究史において、「山村家―富める世界への反逆者」 とか「山村家の贖罪」の「代行」 者といった形で位置づけられている。
 高田氏は石之助の行為によってお峰が救済されたかどうかという問題に対して、先行研究の二つの解釈ルートを紹介している。孫引きになるが引用させていただくと、〈「すぐれた社会小説になるべき筈の素材が、人情小説に終った」 とする和田芳恵氏らの系譜と、石之助にあえてお峰を救済さえずにはいられなかったところにこの作品のモチーフを認め、「『大つごもり』執筆中の一葉の胸中に、お峰を救わせる結末に運ばせているのではないか」とする松坂氏の流れ〉 があるという。高田氏は、しかしこれらの研究は全て石之助の行動がお峰を救済したという前提に立っているとして、実は救済にはなっていないのではないかという独自の解釈を展開しているが、今回は石之助のキャラクターに焦点を当てて考察するため、ひとまずその考察については置いておく。
 『大つごもり』が人情や任侠的であると言われる理由は、ひとえに石之助の存在が大きいだろう。石之助は「男振にがみありて利発らしき眼ざし、色は黒けれど好き様子」といった外見で、「貧乏人を喜ば」すのが道楽な男である。私は石之助がお峰の盗みを何らかの方法で知っており、彼女を救済するために「引出しの分も拝借致し候」という「受取」を入れたのだとする松坂氏 の説を踏まえたうえで、石之助のキャラクターを考えたい。
 富裕層(特に悪い金持ち)の財を(盗み)貧困層に分配するというのは、江戸時代に実在したとされる鼠小僧をもとにした歌舞伎の演目『鼠小紋東君新形』などでも庶民に親しまれ、全世界的に見ても義賊を物語の主としたものはよく見受けられる。それだけ、金持ちから貧困者へ財を分配することは一種の痛快さを生み出す典型的な物語なのだと考えられる。
 この『大つごもり』も義賊系譜の物語として解釈されてきた節があると私は感じる。特に先に引用した和田和恵氏の論では「人情小説」であるとして批判しているのであるが、それはこの物語を和田氏が人情物語として読み取ったという解釈にすぎない。果たしてこの物語は本当に人情物語というくくりのなかに収めてしまってよいものなのだろうか。
 ここで考えたいのは、石之助は一見すると確かに任侠的な存在であり、悪そうな金持ちである山村家から金を奪うようにして、貧しいものに施すのを道楽としている人間であり、その点では義賊的であると言える。だが、義賊と異なるのは、石之助が何ら犯罪を犯していないという点である。義賊になる条件というものがあるとすれば、それは金持ちから金品を盗むということであろう。古来より悪い金持ちというのは金にものをいわせて自分に都合のよいルールを作り弱者からしぼりとろうとする典型的なイメージがあるが、その不条理を破壊するために盗みという犯罪が行われなければならなかったはずである。合法的に金持ちから金を奪い、それを貧しいものに分配できるのであれば、それは物語にはならず、単に社会の制度を利用している常人ということになってしまう。
 では石之助はどうか。石之助は義賊ではない。石之助が分配する金は、彼が不当に手に入れたものではないからである。義賊は飽くまで貧困層の側に立つ、あるいは所属する者でなければならない。この点、石之助は富裕層に所属する人間であり、彼は義賊とは言えないのである。義賊と言えないどころか、その行為は義賊的に見えるかもしれないが、ただ親から金をもらって他人より少し目立つように浪費しているというだけに過ぎない。さて、では義賊と言えない石之助の行ったお峰救済の行動は、単なる義賊としての救済という意味ではなく、どのように考えられるべきなのであろうか。

制度に集約される石之助
 浦上氏は石之助の行動のことを「自分は総領息子でありながら家の人は自分をはじき者にするのがどうにも我慢がならず、山村家の人々に対して反抗し続けたのである」 と動機づけている。そしてお峰救済の行動については、「石之助はお峰が御新造に断られているのを居間で聞いていたのだろう。そして、お峰の行動の一部始終を見てしまった彼は、彼女を哀れに思」ったのだろうと考察したうえで、「石之助の行為は、お峰への同情というよりもむしろ御新造への反抗であったのかもしれない」と独自の見解を示している。義賊として、任侠的な行動であるという短絡的な解釈から抜け出し、お峰救済の行動はお峰への救済が目的というよりも、御新造への反抗の方がウエイトが重いという考えである。
 高田氏は石之助の行為が救済であるという前提に疑問符をつけたうで、石之助の行為が功の部分で捉えられてきた解釈ルートに対して、「功罪を論じるならむしろ〝罪〟の要素の方が多かったとさえ言える」 と主張している点で鮮やかな見解を示している。そのうえで、石之助とお峰のその後の関係を想像し、論を進めていくが、石之助とお峰との「シンデレラ型のハッピーエンドを想定することは困難」であると述べている。これには、①石之助が「総領」という特権的地位の上にある山本家に所属しているからできる浪費であること、②石之助が「お帰りでは無いお出かけだぞ」という言葉を使用している点から石之助は「いったんこの地位を離れてしまえば自分がまったくの無為無能の男に堕してしまわざるを得ない」ことを理解していること、③「富の入力回路」は親からのみであり、石之助の行為は専ら出力の方に限定されており、「畢竟彼が富者の世界の住人でしかないことを示して」いるという点から考えられると言う。石之助の行動は「お峰に対する気まぐれな「贈与」はあり得ても、お峰の世界への移住を彼が覚悟する可能性は無に近いと考え」られるとしている。
 さてこのように考察をすると、石之助の行動は単なる義賊的な行動ではなくて、別の意味を示唆してくるのではないだろうか。
 一見すると、悪い富裕層と正しき貧困層という制度の破壊者であり、お峰の視点(読者の視点に近い)から見て義賊的、任侠的救済者であるかのように見えた石之助もまた、実は制度のなかに集約されていく運命を背負った人物なのである。彼が行っていた行動は、富裕層の立場からは逃れられないという運命のなかの小さな反抗であり、それは彼にとっての最大の反抗だったのである。その点で、この作品はお峰がメーンとなって進んでいく物語ではあるが、本来お峰に割り当てられたであろう任侠的なキャラクターや筆者の制度への対抗心は石之助に仮託されていると言うことができるだろう。

まとめ
 一葉は、彼女の短い期間ではあるが初期の作品ということもあり、ヒロインであるお峰には制度を打ち壊して行こうとする力を付与することを躊躇したのかもしれない。制度を破壊あるいは、逸脱するには相当の労力が必要だからである。そのようなお峰や作者一葉の心持が石之助というキャラクターに仮託されたのではないかというのが私の読みである。そのため、石之助は任侠的な義賊的なヒーローとしての像を付与されることになったわけであるが、しかし、その石之助も本当の制度破壊者、逸脱者たることはできなかったのである。石之助をして人情小説であると論じた和田氏の論はいささか速決すぎたのではないだろうか。石之助もまたお峰、並びに筆者の願望によって現れたヒーローであったが、そのヒーローでさえ富裕層という制度から逃れることのできない運命を根本的には変えることのできない人間として描かれている。運命に勝つことができれば、それは完全な勝者であろう。運命に負ければ完全な敗者であろう。一葉はそのどちらも書くことはしなかった。運命という荒波に飲み込まれつつ、最後の最後で必死の抵抗をし続けるというキャラクターを描写したのである。それが定まったキャラクターでもなく、完全な個性を得た存在でもない中途半端な存在として描かれた理由であると考えられる。


『大つごもり』と西鶴の類似性については<論文>樋口一葉「経つくへ」・「大つごもり」典拠考、中込 重明、日本文學誌要 65, 49-59, 2002-03-24を参照。
『大つごもり』について、浦川 知子、駒沢短大国文 13, 89-100, 1983-03
注弐ⅱに同じ。
『大つごもり』への一視点 : 樋口一葉ノート(一)(人文・社会科学篇)、高田 知波、白梅学園短期大学紀要 20, A1-A14, 1984
注ⅱに同じ。
「『大つごもり』論」―『樋口一葉研究』(教育出版センター・昭和四十五年刊)
『文学』昭和四十九年五月号、『樋口一葉の世界』(平凡社・昭和五十三年刊)
『近代文学館小講座3 樋口一葉』(角川書店・昭和三十三年刊)
注ⅵに同じ。
『樋口一葉研究』松坂俊夫著 教育出版センター
注ⅳに同じ。
注ⅳに同じ。

〈付記〉『大つごもり』の引用テキストは、新潮文庫『にごりえ・たけくらべ』によった。

テーマ : 書評
ジャンル : 小説・文学

閑崎ひで佳 地唄舞 感想 女性が演じる女性の美



 昨年は例年に比べて日本の伝統的な文芸に多く触れることができました。昨年11月のことになりましたが、地唄舞というのを初体験してきました。
 夏には歌舞伎を見て、男性が演じる女性の美しさというものを見て、秋には宝塚に行って女性が演じる男性をみたところでした。歌舞伎、宝塚を観て感じたのは、やはり宝塚のやる男役、歌舞伎役者(特に好きなのは坂東玉三郎)のやる女型、のすごさです。女がやる男、男がやる女にこそ、それぞれの理想が反映されているので、素晴らしいんですね。これが片方だけだと卑怯です。ファム・ファタール、宿命の女と訳される神秘的な女性について文学的な視点から考察するというのが私の文学の専門ジャンルなのですが、神秘的な女性の像が男性によってつくり続けられてきたことは、女性にとってはかなり重い負担だったというのがジェンダー的な研究によって明らかにされてきました。個人で勝手に女性に神秘的な、神格的なものを求めるのはいいのですが、それがいきすぎると、神秘的でない女性は駄目だとかそういう差別につながってしまう。現代でもまだ人間は異性に理想を追い求め続けていますが、女性側も男性の理想を提示できるようになったので、少しは差別が解消されたかなという感じもします。
 宝塚に私は行ってきましたが、やはりなんだか恥ずかしい。と同時に、格好いいなと男でも思いました。特に私が昨年見た宝塚は「風と共に去りぬ」でしたから、ただでさえ恰好良いレット・バトラーは、さらに女性による視点で神レベルの恰好よさに昇華されていました。
 昨年はこのように男性から見た女性、女性から見た男性というのを考えていたのですが、冬に見た地唄舞で少し考えが変わりました。地唄舞は女性が女性のまま、演じるものです。それを見て女がやる女は、別のベクトルですごいと感じました。

 地唄舞というのは、芸者さんの舞に少し手を加えたものなのだそうです。だから本来大きな舞台でやるものではありません。御座敷芸です。日本の伝統文藝、歌舞伎、能、狂言を見て来た一年でしたが、それとはまた異なった不思議な世界でした。



 出典を忘れてしまったのですが、外人の作家か何かの人がこんなことを言っていたと記憶しています。「円熟した女性の美しさを見れるのは人生における素晴らしいことである」と言った内容です。
 大変失礼なことを言ってしまえば、閑崎さんはそれは私のような成人なり立てというわけにはいきません。立派な大人です。ですから肉体的な若さというものの美しさはない。よくしょうもないおじさんたちが若い女性にたかっているのを見るとなんだかなと思います。女性の美しさは肉体的な若さだけにあるのではないのです。この地唄舞を見てはっきりとそう思いました。
 閑崎先生は私の二倍くらいの年齢の方だろうが、おしろいを塗った姿は本当に美しいものでした。女性が女性らしさを洗練させたらどうなるのかということをまざまざと見せつけられた感じです。
 文芸や伝統など、時間や労力がかかるものが何故あるのかという一つの問いとしては、こういうことが言えるのではないかと感じました。すなわち、文芸や伝統がなければ、ただの腕っ節の強い男、肉体的に若い女性だけが素晴らしいものだという実に動物的な観点からしかものがみれなくなってしまう。だから、なにごとをか洗練することによって新しい、別の美しさや価値観というものを見出していくことが必要になるのだと思います。

 今回の地唄舞、おそらく私が一番若い観客でした。周りを見渡せばじじばばばっかりです。しかも嬉しいことに、30歳未満無料というすごい特典がついている!これを逃す手はないと思って私は言ったのですが、最近の若い人、私の友人でも、タダだからと言ってもなかなか地唄舞を観に行こうと思う人間はなかなかいませんね。とても残念なことです。まあ、そのためか、一人だけ若い私は目立ったのでしょう。心なしか閑崎ひで佳さん、舞をしながら私の方をよく見てくれている気がしました。かなりどきどきしました。本来は御座敷芸ですが、小ホールで演じられたため、私と閑崎先生の距離は何メートルも離れていました。ですが、こちらに多く視線を送ってくださったのではないかと思います。
 人間を生物学的な視点からみたら、人間は生殖機能がなくなったらあまり存在している意味がないとか。しかし、やはりそれはおかしい考え方でしょう。人間はたとえ若さによる美を失ったとしても、時をかけて丁寧に訓練した技があれば、すごく美しいものを持てるのです。今回はその人間ならではの美、伝統のなかにある美というものに触れました。唄に合わせて舞うという単純なことですが、その単純さのなかに物凄く複雑な様々な感情の機微が隠れていて素晴らしい。全く知識もありませんでしたが、とても面白く鑑賞させていただきました。本来であれば京都の高い、一見さんお断りのようなところで、いいおじさんにならないと観られないものをただで見てしまえたのですから、ずいぶん得をしたものです。
 これからの閑崎さんの演目も、おそらく30歳未満は無料で行われると思いますから、是非足を運びたいと思います。

「講談・赤穂義士物語」 平成25年第57回、国文学大会 の感想



はじめに
 昨年12月7日(土)に、我が大学の毎年の行事である国文学大会が開催されました。国文学大会とは、我が大学の歴史ある国文学科が毎年開催している発表大会で、毎年様々な研究発表が行われています。一年生は一応参加の義務がありますが、二年生からは任意参加です。
 毎年どのようなことをやるかというと、一昨年の発表内容は「日本語における具格標示形式の形成に関する一問題」「戦争にあらがう女性表現 ―宮本百合子の場合―」といった具合で、少しお堅い感じ。ところが、昨年は打って変わって、上方講談協会会員、旭堂南海師をお招きして、「講談・赤穂義士物語」のお話を伺いました。

 上方講談がタダで聞ける、しかも初心者向けである、こんなに素晴らしいことがありましょうか。私はものすごい興奮してこの日を愉しみにしていました。できるだけ友人も誘ったのですが、本当に残念なことに多くの三年生は就職活動が解禁になっためか忙しさにかまけてきませんでした。本当に残念。四年生は卒業論文の提出が迫っていて一人くらいしか来ていませんでした。これも残念。
 私、つねづね思う事なのですが、こうした行事には本当に参加したほうがいい。何事も他人に強制させるのは私もいけないとは思いますが、少なくともこういう机上の勉強だけではない、生きた勉強というのは積極的にする方が人生が豊かになると思います。友人たちに対する警鐘も込めて、今回は講談師の魅力について語りたいと思います。

講談の知識
 同学年の人間がほとんどいないということもあり、目立ってしまったようで、私はすぐに自分の担当教授につかまりました。やはり会場を占めているには一年、二年が圧倒的でしたから、まだどこか覚束ないところがあり、大きな講堂の後ろの方に座っています。で、教授がやはりこういうライブというのは前が空くと寂しいからというので、私は最前列に連れていかれました。
 ほとんどの生徒は講談が初めてだったそうです。私は以前、高校生向けの寄席へ行った際に講談師の方が出てきて少しやってくださったので、ほんの入門だけは知っていました。今回の講演も入門のような形でしたが、時間に余裕もありましたので、かなり本番に近い入門だったと思います。
 私は愉しみにしていたということもあり、事前に少しは下調べをしたのですが、大学という極めて資源的に融通が利かない機械的な教場でどのように講談をやるのだろうということがまず念頭にありました。講談は高座におかれた釈台と呼ばれる小さな机の前に座り、それを張り扇でぱんぱんと叩きながら話すのが基本的な形式です。講堂で行うことになっていましたから、畳でもどこからか借りてきて敷くのかなと思っていたのですが、教場に入ってみて、いつも通りなのに驚きました。私は先生に、どうやってお話されるのでしょうと心配になって尋ねてみたのですが、あまりそういうことについては教授陣は気にしていなかったようです。
 ちなみに私の先生曰く、落語というのは日常のささいなことを面白おかしく話すことで、講談は非日常の出来事を大袈裟に話すことだそう。
 で、いざ講談師の旭堂南海先生がやって参ります。司会の先生も講談師の方を連れてきて、椅子はどうしますとか、机はどうしますとか聞いているので、事前の確認はほとんどなかったようで、こんなんでいいのかしらと思ったほどでした。旭堂先生は、小さな声で「立ったままお話させていただきます」と関西方言で仰られました。これは後ろにいたら絶対に聞けないことだったので、前に座っていてよかったと感じました。
 ほとんど初めてだという生徒の反応に合わせて、入門の知識から丁寧に教えてくださいました。それで、本来なら釈台と呼ばれる机を張り扇で叩きながらしゃべるのだがと説明したうえで、先生方が使用される机をたたいていいものだろうかと疑問しながらも、普通の机をたたきながら話を始められました。

教員志望にこそ見てもらいたい講談
 旭堂さんのお話によれば、現在講談師として活躍しているのは約80人。そのうち、上方、すなわち大阪、京都、奈良あたりで活躍している上方講談師と呼ばれるのが20名ほど。あとの60名は江戸、東京の講談師です。そして、関東の講談師のうち、40名ほどが女性講談師で、講談の世界では女性が半数以上を占めるという女性が現在優勢になっているようです。
 講談師というのは何か特別な資格があるわけではないそうです。御師匠さんのところに二三年修行して、それから舞台に出られるようになるというくらいで、本当に自分の口だけで生きている人間です。ですから話術に相当優れている。その分、学ぶべきところがかなりあると私は思いました。
 丁度折しもその日は、教職の模擬試験がありました。私も教職を目指して勉強しているのですが、私の友人が全員模擬試験を優先させたのに対して、私はこちらを優先させたのです。そしてそれは正しかったと自分では思っています。というのは、話術について生きた勉強ができたからです。
 確かに模擬試験は大切です。それは私もよくわかっていますし、そちらを優先した友人たちを非難することなんてできません。が、こちらも学ぶべきことが多かったのだということを示したいと思います。
 旭堂先生がおっしゃっていましたが、講談師というのはもともと何もない、普通の道で話をすることから始まったのだそうです。別に売り物があるわけでもない。ただいきなり話を始める。それで大勢の人間が歩いていれば、一人くらいはひっかかるものです。そうすると、その引っ掛かった人間を絶対に離すまいとする。そうしているうちに芋づる式に人が増えていくということだそうです。なので、江戸時代から脈々と受け継がれている人を魅了し、決して離さない技術の結晶がそこにはあるわけです。
 よく教職関係の勉強をしていますと、いかに生徒との距離を近づけるかということが問題になります。もちろん、物理的に距離を近づけることが先ず念頭に浮かぶでしょう。それは机間巡視と我々の間では呼ばれますが、先生が教室を歩き回ることですね。これも確かに効果があります。後ろで内職なんかをしている学生は気が引き締まりますからね。ただ、講談師が動き回るわけにはいかない。ではどうするかというと、「にらむんです」と不敵に笑っておっしゃいました。教職でも言われます。教室を八の字に見渡して、生徒の眼を見る。するとその生徒との心理的な距離がぐっと近まる。教室の隅にいてもきちんと授業に参加してくれるというわけです。
 講談師もお客を逃がしてはいけないから、ぐっとにらむ。まんべんなく会場全体をにらみわたす。いくら教職の勉強でそういったことを聞いていたって、実際どのようにやったらよいのかということはわからない。だけれども、こうした生きた授業を受けることによって、教職の理論は実際にはどのようにやったらいいのかということが、ずばっと、明確に示される。私は会場をにらみつけている旭堂先生の姿を見て、ああ、これだと思いました。教員を目指される方は、本当に落語や講談といった話芸には精通してほしいものです。

講談における赤穂浪士
 今回の演目は時期も時期ということで、赤穂浪士からです。私はまだ国文科にいるということもあり赤穂浪士のお話は一応は知っていますが、どうやら世間ではそうでもないようです。私と同じ世代の友人たちと話をしておりますと、まず父親とほとんど会話しないというのが圧倒的に多い。これは鶏と卵の論と同じだと私は思っているのですが、共通の話題がないからなのだと思います。共通の話題がないから、ただでさえあまりしゃべることをしたがらない父と子というのは喋らない。喋らないと余計に共通の話題がみつからなくなる。お互い不干渉になるということです。
 昔は娯楽が少ないですから、一家でテレビを見るということがよく行われた。すると、両親と同じテレビ番組をみているわけですから、この時期には赤穂浪士の物語だということが自然と身に付く。ところが、最近の若い世代の人々は親と一緒にテレビをみるということもありませんから、赤穂浪士なんてつまらなそうなものは見ない。赤穂浪士という言葉もよくわかっていない人が沢山いるのです。もう、どうしたらいいのかと、本当に私はいつも勝手に悩んでおります。共通の意識、考え、知識というのは完全に破壊されてしまったのだと私は感じていて、憂国の念が尽きません。あゝ。
 そんな愚痴はいいとして、赤穂浪士の物語は、この長い歴史のなかで様々な尾ひれがついてきました。大体の大筋は一緒でも、47人いた浪士のうち、どこに着目するかということで話がかなり変わる。まったく別のお話が展開されるわけです。テレビドラマでも討ち入りの場面はほぼ同じだとしても、それまでの過程が全然違う。そのように沢山のお話があるなかで、講談が取り扱うのはどの部分かと申しますと、吉良の浅野いじめ、刃傷松の廊下(脇坂淡路守の怒り)の有名な話をしたあと、片岡高房とその忠臣もとすけとのお話であります。
 討ち入り前の、片岡が借りた長屋での、忠臣もとすけとのお話です。もとすけは片岡に付いてきた下僕です。最後の最後まで口が堅かった片岡は自分の下僕であるもとすけに討ち入りをすることを話せません。もしもここから計画がばれてしまったらという思いからなかなかもとすけに本当のところを話せない片岡。もとすけも愚直な人間ですから、どうして自分が暇を出されるのかわからずに、根掘り葉掘り聞く。そのやりとりと面白おかしくお話にしたものです。

 ただし、旭堂先生も仰っておりましたが、講談のお話は半分が嘘。残りの半分はこうだったらいいなという気持ちで喋っておりますといっており、本当にあったとは言えないようです。
上方講談と江戸の講談とでは何が違うのかという教授の質問に対しては、上方講談は兎に角隙があったら笑わそうとすることかなと答えておられました。そのため、本当に包括絶唱。もう笑いに笑いました。もっと軍記物語的な、歴史物語的な荘厳なものをイメージしていたものですから、とても面白かったです。

終わりに
 学ぶというのは何も机の上だけのことではないのです。私は日常のありとあらゆるものが勉強だと感じています。そんなに難しく感じなくとも、あ、これいいな、すてきだなと思ったことは真似をしてみたらいい。講談や落語にただ愉しみで行くのもいいでしょう。ですが、せっかく話の技術だけを高めて生きて来た人たちの「芸」を見るのですから、隙あらば盗んでしまえばいいのです。
 特に私の友人、教員を目指している人や、あるいは人の上にたって何か話をしなければらならない人などは、講談から学ぶことは沢山あるのではないでしょうか。
 そんなに難しく考えなくとも、まずは動画を見て楽しむこともできます。講談の魅力というのは尽きないものです。

ジブリ映画『かぐや姫の物語』 感想とレビュー 「ここではないどこか」へ

 poster2.jpg


 はじめに
 年が明けてしまいましたが、昨年2013年はアニメーション映画がとても熱かった。特にジブリ映画が一年のうちに二作出すとあり、日本中がジブリアニメに注目したことでしょう。長年ジブリ映画を見て来た人はわかっていることですが、私を含め若い世代というのは、ジブリと言ったら宮崎駿というイメージがあまりにも大きく頭に沁みついています。そのため、ジブリの作品は全て宮崎駿がつくったんだろうと思ってしまいます。私も小さいころまではそうでした。今回、同じ年にジブリから映画が二本でるということもあり、様々なメディアで取沙汰されましたから、スタジオジブリには何人かの監督がいて、それぞれ別に仕事をしているのかということがはっきりと若い世代の人々にもわかったと思います。
 今回論じる『かぐや姫の物語』は沢山の、他のアニメーションにはなかった技法や技術が使用されていて、それだけで沢山論評が書けてしまうのですが、そうしたほかでも指摘されていることはできるだけ少なくして、主に物語面の方をメーンに論じて行こうとおもいます。


 さて、2013年夏を華々しく飾ったのが宮崎駿監督により『風立ぬ』。ジブリ映画としては初めて実在した人物を描いたと話題でしたが、ふたを開けてみればほとんど空想の人物で、実際にいた堀越二郎を下敷きに新しいキャラクターをつくったと言った方がいいでしょう。私個人としてはとても感動した名作でした。ジブリ映画は、初期のナウシカ、ラピュタが最高だと考えを堅くしていた私ですが、ベストジブリ映画は『風立ぬ』かなと心が揺れています。詳しくは以前私が書いた記事を見てください。
映画『風立ちぬ』 感想とレビュー 賛否両論を越えて
http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-477.html
映画『風立ちぬ』 感想とレビュー  テーマ探求の言説を巡って
http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-478.html

 『風立ぬ』公開時に『かぐや姫の物語』のコマーシャルが映画館で放映されてしました。かぐや姫と思われる女性がものすごい形相をしながら、屋敷から飛び出して、林のなかにぼろぼろになりながらかけて行くというものです。映画公開前にはかなり地上波でも放送されたので見た方が多いのではないでしょうか。
 私はあのコマーシャルを見て、すごく怖いなと感じました。まるでホラー映画のようで、まさかずっとこういう怖い映像が続く映画なのかなと思ってびっくりしたものです。
 私個人の話になりますが、ちょうど『竹取物語』を授業で扱うことになり、原文を読み返したところでした。そして、本やで出会った『かぐや姫の物語』の脚本を小説化したものも手に入れ、読んでからの映画になりました。脚本と映画とで少し異なった部分がありましたので、それについても言及したいと思います。

 『かぐや姫の物語』のテーマは何なのか?
 ジブリ映画は、かなりメッセージ性のつよい映画をずっと世に送り出してきました。ですが、その多くは宮崎作品。高畑監督の作品はどうでしょう。高畑監督が手掛けた主要作品を少し挙げて見ますと、1988年 火垂るの墓 (監督・脚本)、1991年 おもひでぽろぽろ (監督・脚本)、1994年 総天然色漫画映画 平成狸合戦ぽんぽこ (原作・監督・脚本)、1999年 ホーホケキョ となりの山田くん (監督・脚本)、といった具合です。
 金曜ロードショーでは、『かぐや姫の物語』公開に合わせて、『火垂るの墓』『おもひでぽろぽろ』『平成狸合戦ぽんぽこ』が再放送されました。
 『火垂るの墓』は、テレビでもよく言及されたように、宮崎監督の『となりのトトロ』と同日上映をした作品です。隣町に住むお化けのお話という微妙な物語の『トトロ』の売上が心配だった会社側からの要求で、他の作品も同時上映するように言われたようですが、それに応えて火垂るの墓を作ったら、おばけに墓まで追加する気かと怒られたのだとか。結局どちらも全く異なった意味で名作となりました。トトロはいわずと知れていますが、火垂るの墓も素晴らしい名作です。外国人、特にアメリカ人はこの映画を見られないそうです。我々日本人からしても、アニメーションの映画なのにもかかわらず直視できないような映画です。『火垂るの墓』はとても難しい部分を取り扱った作品なので、いろいろと問題が生じています。特に近年はロードショー等での放送もあまり好まれないのか、再放送がぐんと減ってきていますし、また放送されたとしてもカットが多すぎて表現の自由を侵害しているというのが現状です。特に昨年のロードショーで酷かったのは、清太が死ぬ場面が完全にカットされていたこと。これは本当に酷いカットだなと私は思いました。映画の最後の最後、一番大切なシーンをカットしてしまうことによって、全く映画のイメージが変わってしまう。もはやこれは暴力以外のなにものでもありません。これを見てから、私は特にロードショーで放送される作品はきちんとレンタルしてきて観るようにしています。
 『おもひでぽろぽろ』については別に記事を割きます。『ぽんぽこ』もまた、変わった作品です。これはテーマがはっきりしているのでわかりやすい。高畑監督の作品もこうしてみると、かなりテーマ性が強い作品だと言うことができるでしょう。

 さて、「かぐや姫」はどうか。結論から申しますと、今回の記事のタイトルにもしたとおり、「ここではないどこか」への希求がテーマと言えるでしょう。「ここではないどこか」というのは実はとても大事なことなのです。この視点は主にフェミニズムから生まれて来た視点、考えです。60年代、70年代にさかんになってきてフェミニズムの運動は、次第に性差別という問題だけにとどまらず、時代を経るごとに社会的弱者や少数派言語の権利拡大などの運動に発展します。
 このような支配的なものからの解放を目指す中で、特に文学などで重要視される視点は、今ある状況ではない別の状況を想像すること、考えることです。様々な角度から抑圧された女性が何を思い、何を書いたのか、それが文学におけるジェンダーの研究ですが、そのような研究を私もしておりますと、現状から逃れるために抑圧された女性たちができた唯一のことは、現在ある状況ではない別の状況を想像することだったのです。人間は体や行動を支配することはできても、こころだけは支配できない。これがとても重要なことなのです。ジェンダー論が社会的にも認められるようになって、差別は少なくなりました。もちろん残っているという研究者の方が沢山おられるわけですが、私たち若い世代、男女雇用機会均等法が制定されてから生まれて来た世代は普段の生活においてはそれほど性差別を意識しないで生きていられる世界になりました。
 ですが、平安時代の物語である「かぐや姫』はどうでしょう。

 キーポイントになる二つの逃避
 今回の『かぐや姫』の物語は、もちろん「かぐや姫」の物語です。国文学が専攻であり、『竹取物語』を一応なりとも専門的な知識を少しは知っている人間としては、原作である『竹取物語』の主人公は竹取の翁であると言いたい。あくまであの物語は『竹取』の翁の物語であるのです。それは作者の視点が翁の側に寄り添っていることからもわかります。タイトルも『かぐや姫』ではなくて、『竹取物語』ですし、別名『竹取の翁の物語』とも言いますので、『竹取物語』の主人公は翁なのです。それが、次第におじいさんが主人公じゃちょっと面白くないということで、子供向けに改編されて「かぐや姫」が物語の主人公になってきたということなのです。
 今回の『かぐや姫の物語』は『竹取物語』解釈の新しいフェーズを見せてくれたと感じました。高畑監督はとても論理的に物事を考えるひとですし、かなりの勉強家であり、完璧主義者であることが知られています。なので、今回の映画を作る際にも、かなり古典の勉強をしているだろうことが予想されます。最後にずらずらと無情にもかぐや姫を連れて行ってしまう天人達も、きちんと絵巻物を研究しての表現であるとテレビで放送していました。『竹取物語』はやはり日本最古の物語ということもあり、解釈が多数存在しています。それらを比較研究するたけでも立派な論文になりますが、いくつかの解釈ルートがあるのもまた事実です。今回映画を見て思ったのは、おそらくそうした過去の解釈を高畑監督はきちんと踏まえているなと感じたことと、この作品のテーマがそうしたフェミニズム的な視点から、こころの解放なのだなということです。
 『竹取物語』を扱ったこともあり、丁度タイムリーだったので、映画館には私の国文学の友人と教授を連れて鑑賞に行きました。作品解釈を専門に勉強してきた人間十人程で行きましたので、その次の授業ではかっぱつに議論したものですが、そこで解釈がわかれた部分があります。それは、映画でのかぐや姫の逃避シーンです。

 一回目の逃避
 一回目の逃避は、かぐや姫が大人になったことを祝う儀式、裳着と言われるそうですが、酒に酔った京の人々が、翁が成金であることを低く見て、かぐや姫のことを直接見てやろうと言う暴挙に出る場面です。当時の貴族の女性は家族以外の男性には顔を見せません。顔を見せることは結婚することを意味しますので、御簾で囲って、襖をたてて、顔を隠したのです。そういうところに入ってきてしまう男性というのは『源氏物語』などにも描かれていますが、そうすると女性は手にある扇で顔を隠し、それを奪われたら自慢の長い髪で顔を隠すのです。そのくらい直接見るという行為は今よりも格段に意味が重かったのです。
 ですからかぐや姫にとっては、あのようにずかずかと入って来て見ようとする男性陣の行為は極めて屈辱的な行為だったということを前提にしておいたほうがいいでしょう。かぐや姫はこんな場所には居たくないと思い、何もかも放り投げて飛び出していきます。あのコマーシャルで流れていたホラーシーンです。京の町を駆けていくかぐや姫の十二単がばらばらと宙に舞うのはとても美しいシーンの一つでもあります。
 ただ、走り抜けた最後には、小さな妖精が現れてきてかぐや姫を元の場所に戻してしまいます。この場面をどう解釈するかということでまず揉めました。夢だったのか、夢でないのか。あるいは夢と一口にいってもどのようなレベルでの夢なのかといった感じです。私の解釈は、並行世界と言ってもいいですが、一回はあり得たことでしょう。一度確かに姫はあの場から逃げて走ったのです。しかし、かぐや姫がなぜこの世に居るのかということをよく思い起こさなければなりません。それは、彼女の犯した罪の罰を支払うために来ているのです。ですから、この世での辛いことから逃げてはいけません。天人たちにとっては罰なのですから、きちんとその罰を履行してもらわなければならないわけです。あの小さな妖精は、その点からも月からの使者、月の力の働いた妖精であることがわかります。と、思い出してみればあの場面はかぐや姫を照らす満点の月が極めて大きく表現された場面だったことにも気が付くわけで、やはり月からの監視、月から逃げることができないということが浮かび上がってこないでしょうか。
なので、私は一度はあのように逃げたのですが、しかし逃げることを赦されないかぐや姫は、月の力によって逃げる直前の時間にまで戻されたのだと考えます。私は夢というよりは、一度は起こった現実だけれども、強制的に時間を越えて連れ戻されたのだと考えます。だから夢か現実かで言えば、現実ということになります。

 二回目の逃避
 二度目の逃避をどこにもってくるかというのも難しい。帝から逃げる場面がありました。身体が消えてしまう場面です。確かにあれも逃避と言えば逃避である。かぐや姫が初めて、ここに居たくないと願ってしまった重要な場面であります。
 あの場面についてはいろいろとツッコミどころも多くて、なぜ帝があのような顔をしているのかということがもうおかしてくしょうがない。僕はいくらなんでもネタに走り過ぎたろうと、少し批判的に見ています。帝がいかにすごいかというのはあの顎でしか表現できなかったと友達は冗談半分に言っていましたが・・・。
 一応これも逃避としておきますが、私が重要視しているのは最後の逃避。捨丸兄ちゃんと出会ってから、天空を舞い上がる場面です。この場面が一番もめました。多くの友人があの場面は余計である、あの場面さえなければよかった、等々のかなり厳しい評価をしました。ところが、私は反対にあの場面で一番ぐっときてしまったのです。
 この映画で最も重要なのは、映像の表現です。高畑監督は昨今のアニメーション映画の表現に意義を申し立てていたそう。CG技術が進む中、背景は実写のように美しいのにもかかわらず、キャラクターだけセル画のようなままで浮いてしまっているという現象は、特にここ数年顕著でした。アニメーション映画を研究している者として、細田守や新海誠などの映画監督を私は応援しているのですが、『おおかみこどものあめとゆき』や『言の葉の庭』などは、背景が美しすぎる分、キャラクターだけセル画のままのようでとてもミスマッチな感じがしました。2012年後期に公開された『009 RE:CYBORG』は、新しいCG技術を駆使して、CGで作った映像をとても複雑な過程を経てできるだけ日本人が慣れて来たセル画のように見せるという手法で注目を浴びました。ただ、まだまだ研究の余地がある表現です。
 そのようなCGをいかにセル画に似せるかという時代のなか、高畑監督はほとんどCGを使わずに絵巻物がそのまま動いているかのような表現を出すために苦労したのです。制作に8年間もかかったというのは、一枚一枚原画を丁寧に書きあげていったからです。どうしても動いているものと動かないものの画面上での差異というものを取り除きたかったのでしょう。
 あの飛翔する場面は、今迄ずっと絵巻物のようにほとんど動きらしい動きもない映像の中で、一番の盛り上がりだと私は思ったのです。初めてCGっぽい映像が出てきましたし、ジブリっぽい動きだなと感じました。本来漫画やアニメというの動きを求めるものです。最近は日常ほのぼの系といったものなどがあるので、そうでもなくなってきましたが。特にジブリ映画というのは縦の動きが激しいアニメーションとしてアニメ映画では解釈されてきました。なので、縦の動きに強いジブリがあの場面にかけた思いというのは並々ならぬものだったと私は思ったわけです。それに徹底したリアリズムのなかで、姫の成長等不可思議なことはあるにはありましたが、本格的に現実離れした飛ぶという技を使用したのはあの場面が最初です。
 今迄の様々な自分を縛るものから一気に解放されて、捨て丸兄ちゃんと大空を飛ぶ。やはりここが一番の盛り上がりだと私は思うのですが・・・。あまりにも唐突すぎたというのが批評の対象になったのでしょうか。
 
 姫が犯した罪と罰
 しかし、残念なことに感動的な飛翔のシーンも、夢だったことになってしまいます。あの場面も私は現実であったのだと解釈しています。一度は確かに飛翔したのです。この飛翔という人間離れした行為ができたのは、すでに月に帰るという約束をして、月の力をある程度使用することができたからだと私は考えています。月に帰りたいと願わなければまだこれだけの力を使用できなかったことでしょう。ですが、やはり罰は罰。捨て丸とのあり得たかもしれない未来は、夢見ることはできても現実では実現できない。ふたたび月の妖精たちがやってきて、ここではなかった未来に分岐する前に戻してしまったのです。
 さて、姫が犯した罪と罰という衝撃的な文句が予告編では象徴的に流されていました。確かに原作の『竹取物語』にもかぐや姫が罪を犯してこの世に流罪となったことが記されています。なので、そこに注目して、それを明かしてくれるだろうと思って劇場に足を運んだ人は多かったでしょう。私も少しは、高畑監督の解釈ではどのような罪を犯したのかということを言及してくれるだろうと思って観に行きました。ところが、二時間ほどの映画のなかでは、かぐや姫が一体どんな罪を犯したのかということが語られません。多くの人がこの映画に、どことなく肩透かしをくらったと言うのは恐らくここに原因があるのではないでしょうか。
 さて、原作『竹取物語』の罪は何だったのかという研究は、様々な論文で言及されています。多くは婚姻関係の問題だったのではないかと指摘されています。月の世界は感情があってはならない清浄な世界ですから、穢れでもある恋や新しい生というものがあってはこまるのです。月の世界は不老不死の世界ですから、人工も増えてはならないはず。なので、恋愛や出産自体がタブーとなり、それを犯したから罰せられたのだということです。
 ただ、高畑監督の解釈はどうもそうではないのではないかと私は感じています。脚本をノベライズ化したものには、かぐや姫が興味を持ったのが罪だということが書かれています。月の世界には、かぐや姫のようにかつて地球に送られて帰ってきた人が居たのだと書いてあります。そして、その人が地上の歌、あの子供たちが唄う、「あめ、つち、けもの~」という歌を唄っているわけです。それをかぐや姫は聞いて覚えていたので、地上で唄えたということです。ですが、その歌を習った人はきっともう少し時代が前の人でしょうから、少し歌が異なっている。これは脚本では書かれているのですが、映画ではわからなかった。映画だけを見た限りにおいてはそういう解釈は生まれないようになっていた。隠していたといってもいいかもしれません。
 脚本では、月の世界で感情が無いにもかかわらず、涙を流しながら地上の歌を唄っている天人の女性に興味を持ってしまったことが罪になったと書かれてあります。が、映画ではそのような解釈にはなっていないのではないでしょうか。より抽象的に、ものごとに興味を持つこと自体が罪だったと考えているように思われます。あめ、つち、けもの・・・、この世に存在するありとあらゆるもの。それらに心をやること自体が月の世界の住人にとっては罪なのです。

 終わりに
 映像を作った後から声を録音するアフレコという手法ではなく、音を先に撮って、それに映像を合わせると言うプレスコという手法を今回高畑監督は用いました。そのため、昨年亡くなった地井武男さんの声が聴けたというわけです。地井さんの声が聴けるというだけで、かなり涙ものなのですが、地井さんは生前、高畑監督にこの映画は今の世の中を否定する映画なのではないかと心配になって相談したそうです。高畑監督はその問いには否定しています。
 天人がかぐや姫を迎えに来る場面は極めてショッキングでした。まったく空気を読まないあの音楽。他の場面がずっと抑えられていたぶん、あの場面のいきなり感は度胆をぬきます。人のこころなど全く頓着しない、こころない人達です。
映画評論家の宇多丸氏は、YouTubeで高畑監督の表現の仕方は弁証的だと述べています。単に最初から答えがあって、いくら不老不死といえども感情がなければね、というテーマを最初から示されては興ざめです。そのようなテーマは示さない。ただただ弁証法的に、あめつちけものと生きていくかぐや姫の姿を描き、最後にそれとは異なった感情のない世界の住人を連れてくる。そして証明するのです。
 苦しくも愛おしい生というものが提示される。やはりこの映画は生を肯定しているのだと思います。
 しかし、この映画を見て、ああよかった、すっきりした、生きる希望が湧いたとはならない。これが高畑監督の悪く、そして良いところです。『おもひでぽろぽろ』についても、ラストは最大の謎として今でも議論が続けられています。『かぐや姫の物語』もとてもハッピーエンドとは言えない。一応生を肯定はしていても、ハッピーかバッドかと言われれば、バッドエンドでしょう。かぐや姫は結局感情やこころを失ってしまったわけですから。宇多丸氏はエンディングであの曲が流れなければ、きっと深い絶望感に襲われただろうと述べています。私もそう思います。なんとか二階堂和美の透き通った歌声で「いのちの記憶」が流れるために、なんとなくこころが洗われたように感じられているだけです。
 高畑監督の映画は、深く自分たちについて反省させられるようにできているのです。ですので、この映画を見ていると反省しなければならない部分が出てくる。地井さんが声を担当した、翁なんかもまさしく観客に反省を促す装置になっている。田舎者が金を持ったからといって無理に上品ぶってみたり、貴族たちの仲間になろうとしてみたり。そして貴族たちも、いちおう立場上偉いということが決まっているから偉いだけであって、人間としてはどの人物も酷い人ばかり。そういう人間のエゴを隠さずに描く。
 かぐや姫は、結局彼女自身と、まわりの人々によって月に帰らなければならなくなってしまったのです。かぐや姫も、まわりの人間も誰も望んで居なくても。そしてそういうだれも望んでいないことに物事がすすんでしまうということは現実にも多々あるのです。そうした部分に気づきつつ、やめられない。
 「ここではないどこか」を希求することはだれでもできます。でも、その希求を希求だけに留めずに、行動に移してかなければならない。そうでないとかぐや姫のようになってしまう。けっしてハッピーでもなんでもない終わりだけれど、何となく生きて行かなければならないのかなと観終わって思うのは、こうしたメッセージをこころで受け取ったからではないでしょうか。

言葉を大切に  「頭のいい人」・「悪い人」という言葉を例に

knb1_4.jpg

 最近読んだ本で、林望先生の本があります。はやしのぞむと読みますが、世間では音読みしてリンボウ先生という愛称で親しまれている方です。作家であり、大学教授であり、書誌学者であり、と様々な肩書きを持っているかたで、『イギリスはおいしい』などの代表作があります。斉藤孝先生のように、ひろく日本語についての啓蒙をしている方と言っていいでしょう。
 私は『日本語の磨きかた』(PHP新書)を先日読みました。この本もかなり刺激的で面白い、日本語についてよく考えさせられる本でした。その本を紹介してもいいのですが、今回は私なりのエッセイを書こうと思います。

 リンボウ先生の著作に触れて日本語にさらに敏感になっていたということもありましたが、先日友人の口からこんなことばが出てびっくりしました。「落語家は頭が悪い人でもできるそうだね」。私は唖然としてしまいました。ちょうど日本の伝統文藝、歌舞伎や狂言、能、講談などについて話が盛り上がっていた酒の席だったのですが、落語家の話になった際に、いきなりそのような言葉がでてきたのです。私は、ああ、またそのようなものいいをすると、少しがっかりしました。しかしもっとがっかりしたのは、この発言をした友人が私と同じ、国文学科に所属し、言葉については人一倍注意を払って使用しなければならない立場にあった人間だということです。言葉に対して人一倍注意を払っているはずの国文学科の学生でもそのようなものいいをするのかと残念になったわけです。
 それに私は言いました。君の頭の悪いっていうのはどういうレベルのものを指示しているんだいと。例えばそれは落語家を連れてきてセンター試験でもトエックでも受けさせてみたら大変な点数をとるだろう。彼等にはそういう知識はないだろうからね。明石家さんまなんて人も、きっとそういうことになるだろうけど、しかし彼の話術は日本一といってもいいくらいの天才的なものだね。反対に、世間一般には頭が良いとされている東大の教授なんかを連れてきて落語をやらせてごらんよ。きっと恐ろしくつまらない落語をやってくれるだろう。頭のいい、悪いというのは、一体何をもってして云うんだい?とこう切り返したわけです。
 それでその友人は、試験とかがオール1とかだった人でも落語家はできるって聞いたんだともう少し正確に言い直しました。これで議論が進みます。彼が言った頭の悪い人でも落語家になれるというのは、単に受験勉強的な知識を指示していただけなのです。

 頭のいい・悪いという言葉は実に簡単で、使用がってもよく、我々も小さいころから使用している言葉です。しかし、実際にその言葉が一体どのような様子や状況、概念のことを指示しているのかということになると途端に誰も答えられなくなる。
 頭がいいとはどういうことだろうかと問いを立てたとする。様々な回答が飛び交います。ある哲学の授業でこの質問が出された時には、最初に知識が多いことという答えが出ました。しかしそうでしょうか。その教授はこう返しました。僕が知っていなそうな分野で君のとても詳しい分野について今ちょっと話してみてよ。それでその生徒は自分が詳しいマイナーなバンドについての知識を見事披露してくれました。もちろん先生はそんなこと全然知りません。知識が頭の良し悪しを決めるのかというと、そうではないということです。いくら知識があっても頭の悪い人は沢山います。知識の量は確かに多少なりとも頭のよしあしに影響はするでしょう。考えるためにはある程度の知識が必要です。ですから、全く関係がないとは言えませんが、しかしそれが全てだとも言えません。
 次に答えたのは、トライアンドエラーが上手い人という答えです。どこの学科の人でしょうか、そのような単語が出てくるのはなかなかすごいなと感じました。心理学科ですかね。トライアンドエラーというのは云わば要領の良さといったものです。試行錯誤して、ものごとをクリアしていくということ。失敗から学び、同じ轍を踏まずして、成功に導いていくことです。なるほど、これは確かに頭が良さそうだと私も思いました。しかしその教授はこう切り返しました。例えば東大で教えている教授、彼らが一応頭が良いひとだということにすると、東大の教授なんていうのはトライアンドエラーはあまりしなかった人達だと。そもそもトライをあまりしない人達だというのです。ふむ、確かにそうかもしれない。特に明確な答えを出さないまま、その先生は頭の良い、悪いという話を切り上げてしまったので、後は私たちが勝手に考えるしかありません。
 東大の教授というのは、確かに自分の専門分野ではあれこれ試行錯誤して論文や本を書いているかもしれませんが、あまりエラーというものを出さないタイプの人間でしょう。ほぼ成功だけをしてきた人間と言えるかもしれません。
それでは論理的な思考ができる人かなと私は思いました。ものごとを論理的に考える力。これがあれば、例えば何か問題が生じた際に、その問題が初めての問題で答えなどない場合には役に立ちます。論理的に考える力があれば、どのような問題に対しても考えることができるわけです。これは一応の頭のよさになるかなと私個人は思っているのですが、しかしそれも全てではない。
 東大出身の人が知識量もあり、論理的思考にすぐれている場合でも、ちょっと普通ならそういう行動や言動にはならないよねということはしばしばあります。世の中にも東大の学生は使えないので取りたくないといった趣旨が書かれた本はわんさかあります。では、頭の良さとは何なのか。
 最近よく使われたKYという言葉。空気読める・読めないという言葉があります。その場の雰囲気を感じ取ることができて、この場ではこういうふうに行動しなければならないとか、ここではこれをしていいとかそういう場にあった適切な行動ができるという考えです。確かに知識が少なくて、論理的に考えることが苦手であっても、その場の雰囲気がわかっていれば、その場に応じた話題を提供したりすることができます。それを人はあの人はよくわかっているとか、頭のいいひとだとかいいこそすれ、頭の悪いひとだなとは言わないでしょう。でもそれが全てかと言うとそうでもない。

 見も蓋もないことを述べてしまえば、頭がよい・悪いというのは結局のところ定義などできないのだろうと私は思います。知識、試行錯誤、論理力、環境適応能力、様々な視点から見ることは可能です。世の中で頭がいいなと思われる人は、大概このどれも持ち合わせていて、総合的に頭がいいと言われているのでしょう。
 自分の話で恐縮なのですが、私はこのようにレポートや論文を書く、文章を論理的に書くということが人よりも得意なので、学校では一応成績優秀者として、頭がいいレッテルを貼られています。しかし、これが困ったもので、私自身は本当に自分は馬鹿な人間だなと思っているのです。確かにレポートを書くのは得意ですが、人間として本当にいかんなと思う。いわゆるトライアンドエラーであれば、臆病な性格ですからトライをしない。本当にダメな人間だなといつも思っている。知識面で言えば、本当に恥ずかしいのですが、日本の都道府県全部書け、県庁所在地を言ってみろなんていわれたらできない。暗記が本当に苦手で、英語もぼろぼろ。人間には得手不得手があるものなのです。
頭がいいと言っても決して一重にはそのようなことは言えない。頭が悪いというのもそう。頭の悪い人でも落語家になれるではなくて、知識を暗記することが苦手な人でも落語家になれると言わなければなりません。

 今回はたまたま頭がいい、悪いという言葉がわかりやすかったので、この言葉を例に出しましたが、他にもこうしたあいまいな言葉を使用して平気で議論をしていることが多々あります。中学や高校の授業で議論をしたり、あるいは友達どうしで少し議論っぽくなってきた際に、なんだか全然議論がかみ合わずにすすまないのは、このことが原因としてあるわけだと思います。もちろん、まだ論理的に考えることや知識の量が圧倒的に足りないということも要因としてはありますが、相手の使用している言葉と、自分の使用している言葉が同じではないということが原因なのではないでしょうか。
 学園祭は皆で楽しくやったらいいと思います、なんてことが議題にあがって、そうだそうだなんてことになる。だけれども、何をもって楽しいとするのかというのは、もうそれこそ定義づけなんてできない。だから、できるだけ具体的に、よく詳しくみんなが同じイメージを共有できるように言葉の使用というのは注意しないといけないのです。それで、そういう場にいる先生もなんだか全然不干渉で、そうした言葉の使い方をちっとも注意しない。やはり我々は言葉だけでコミュニケーションをとるわけではありませんが、言葉が主要なツールになっているのは事実です。その言葉をいかに大切に使用するか、ということがこれから求められるでしょう。そして、大人になっている私たちはそのような指導を受けませんから、自分で改善していかなければなりません。その言葉をどのような意味で使用しているのか、ということを答えられるようにしてから使用するか、時にはこういう意味でこの言葉を使用しているんだよと説明を交えながら言葉をつかっていかなければなりません。
 ただ、なんでもはっきり言えばいいってもんでもないですよ。小説なんかは二義的にも三義的にもとれたほうがいい。恋人との駆け引きだって、どういう意味なんだろうとわからないような言葉を使うことも多々あります。ただ、そういう場合でもしっかりとこの言葉にはどのような意味があって、どちらにもとれるようにするにはどうしたらよいのかということを考えなければなりません。なので、言葉と真剣に向き合うというのは誰でも、いつでも必要になってくることなのです。
 言葉を大切にすることは、人間の感情や心の細やかな動きまで大切になることに繋がります。言葉を大切にしつつ、人間のこころを大切にして、豊かなコミュニケーションを図っていきたいものです。

敗者の歌手泉谷しげる レコード大賞と紅白のステージを観て想うこと~2~

 記事が長くなりましたので、二つに分けておおくりします。



 私は先のような視点から、30日の泉谷氏のパフォーマンスを観て、彼が誤解されてしまっていることをひどく残念に思ったほか、その次の日、大晦日の紅白歌合戦でのパフォーマンスが心配になりました。NHKというとてもお堅い番組において彼のようないわばはみ出し者が出演してどのような結果を招くのか、どこまで彼が自分らしさをそのまま出せるのかが心配になったのです。

 紅白歌番組そのものに対しても私はいろいろ想うところがあります。綾瀬はるかの司会や、あまちゃん、アイドルグループが演歌歌手のバックダンサーをも兼任している点など、良い点、悪い点沢山あります。ですが、そのようなことは置いておいて、泉谷氏のパフォーマンスに視点を戻したいと思います。
 個人的に春夏秋冬が好きで、どのように歌うのか期待していたのですが、いざ演奏がはじまるとかなり早いテンポで唄うので驚きました。前日に続き、こんなところには長くいたくない、早く帰りたいという理由からそうしているのかと思いました。ですが、中盤になって突然彼は叫びます。

「おい、手拍子してんじゃねえよ。誰が頼んだよこの野郎」
 この後立て続けに三度手拍子をやめるように注意します。私は肝がひやりとしましたが、NHKホールにいる観客は彼の言葉を完全に無視。無視どころか、彼の発言のすぐあとににこやかな笑顔を浮かべながら手拍子をしている審査員たち約四名の姿が映し出されました。この彼の手拍子を止めるようにという注意と、その後の彼の言葉に無頓着というか、彼の言葉を笑顔を以て黙殺しようとしている観客の映像には多くの人間が衝撃を受けたようです。私も冷静になって何度も映像を見返してみますと、余計に観客の恐ろしさというものが目立ってきます。
 泉谷氏が手拍子を止めるように言ったのには理由があります。彼は曲の終盤で次のようなメッセージを述べます。

 「テレビの向こう側によ、一人でこの番組みているお前ら。ラジオを聞いているお前ら。いいか。今年はいろいろあっ たろう。いろいろ辛いこともあったろう。だからよ。忘れられないことも、忘れたいことも、今日は自分の今日にしろ 。自分だけの今日にむかってそっと唄え」

 泉谷氏のメッセージは曲のごくごく短い間に述べられたもので、彼のいわんとするところを必ずしもすべて述べられたわけではありませんでした。後日、泉谷氏のオフィシャルブログにおいて次のようにコメントしています。

泉谷しげる氏のオフィシャルブログ。春夏秋冬
http://ameblo.jp/shigeru-izumiya/
  NHKホールに集まった数千の人らはいわば選ばれた恵まれた人たち?だろうよ。
  しかし、テレビの向こう~あるいはラジオ聞いてる人々には故郷に帰れない人、病気になり一人で放送を見聞きして る人、被災地で寒さに耐えてる人らが居るのだ!

  オイラはNHKホールに集う人よりテレビ・ラジオの向こうの人らに歌ってやるンだと最初からキメててNHK側も賛成し 、完全ライブをさせてくれたのだよ!

 このブログの文章を読んで、やっと彼の主張したかったことの全貌が見えてきます。泉谷氏はNHKホールに集まった選ばれた人間に対して芸術としての歌を唄うのが目的ではなかったのです。ちなみに紅白歌合戦をNHKホールで鑑賞しようとする際には、厳正な手続きが必要だそうで、そう簡単に座席が確保できるものではありません。泉谷氏が歌を届けたかったのは、そのような場所に入ることができる一部の特権的な人間に対してではなくて、このような場所にはこられない、社会的に弱い立場にいる人々に対してだったのです。「春夏秋冬」自体が決して勝利者を褒め称える歌ではなく、ぼろぼろになってでもどこかに希望を求める若者の歌という雰囲気がします。泉谷氏の一貫した姿勢というものは、彼が若い時代に「春夏秋冬」を書いた時からまったくかわっていないということなのです。
 私が今回の記事にタイトルを「敗者の歌手」としたのは、このような理由からです。確かにNHKにまで出るような人間に敗者はいないかもしれません。本当に敗者であるならば、テレビ番組にはでてこないでしょう。テレビはそのような敗者を映しません。ですが、泉谷氏は常に敗者の側に立ち続けていたい、敗者のために歌いたいということなのだろうと思います。

 泉谷氏の叫びはNHKホールにいた選ばれた人々には聞き入れられませんでした。それどころか彼の言葉は黙殺されたのです。「やめろ」という再三の注意にもかかわらず、手拍子は全く静まりません。直後に映された観客の映像は、まるで張り付けたような笑顔を顔に浮かべた人々が機械のように手拍子を続けています。彼等の頭の中には、このような国民的な番組において決して泉谷氏のアブノーマルな行動を許さない、カメラに映させないということがあったのでしょう。泉谷氏の叫びに従って、手拍子をやめるということは、彼の言動を認めたことになります。すると彼が何をするかわからないので、必死な笑顔をはりつけたまま、彼の発言を無視。そのまま手拍子を続けたのです。審査員には、私たちが良く知っている芸能人もいます。少なくとも私は応援とまではいかなくとも、素敵な人だと思っていた人もいました。そうした人までが、泉谷氏の発言を黙殺し、それを決して認めないかのように笑顔で手拍子を続けているのにはかなり衝撃を受けました。
 
 私はここから、NHKという番組の本質と、今の我々が住んでいる現代の病理のようなものを垣間見たように感じます。表面的に見れば、NHKは泉谷氏のようないわばあぶれた人間のあぶれた行動には対応しない、あるいはできないということです。今回はふなっしーなどの常識からかなり逸脱したキャラクターなども登場してきましたが、彼等の存在はどこまでいっても浮いていました。泉谷をはじめとして、ふなっしーや大久保佳代子は、台本通りにしか動かないNHKの放送のスタイルに対して一種の反抗であるアドリブでもって抵抗を示したのです。アドリブと台本通りという二項対立をしてみせましたが、このふたつはそれぞれに長所と短所があり、どちらがよいと決められるものではありません。しかし、やはり偏り過ぎはよくない。台本通りに偏り過ぎて、ひとつのアドリブさえ許さないというまでに固まってしまうと、そこにはそこからあふれてしまうものに対する暴力が生まれてしまいます。人間は生き物であって機械ではありません。どんなに脚本を書いてその通りに動こう、動かそうとしても、生きている限り予想不可能な部分がでてきてしまいます。それを認めないとなると、本来芸術家という生きた存在をわざわざ大晦日にNHKという国民的な番組で放送する意義はあるのかという根本的な問題が生じることになるでしょう。

 NHKの番組の体質という表面的な部分を今見ました。次はあの場面が象徴する現代の病理です。あの一例をとって敷衍するのは間違った結果を導き出すかもしれませんが、しかし私にはあの場面は現代の人間をよく表していると思えてならないのです。泉谷氏は三度もやめろといいました。しかし、手拍子はやむどころか、少しも弱まりもしません。あれだけはっきりと「やめろ」と言っているので、聞こえなかったということはないでしょう。それどころか、私には若干ですが、笑い声のようなものがあの映像からは聞こえるのです。泉谷氏の「やめろ」という発言を冗談か何かのように受け取っているのではないでしょうか。
 ここに現れている構図は、いじめの構図と同じだと私は思います。一部の集団や常識というものからあぶれた人間の声を封じる、無視するのです。彼の表現者としてのこころからの声は、決して大衆には聞き入れられず、むしろそれを無視、封じ込めようとしているのです。少なくとも彼のパフォーマンスの時間だけは、彼の意見を尊重すべきだったのではないでしょうか。ですから、彼は芸術としての音楽をしているのではない。手拍子をやめてくれという主張に対して、観客はきちんと彼の発言に対して手拍子をやめるという行動をとるべきだったと私は思います。やめないということは、彼の発言を無視するということです。
 Twitter上でもこの場面に対して多くのコメントが寄せられていましたが、本を執筆している言論人なども、彼のしたことは時代錯誤だとか、何を言っているのかわからないといった否定的なコメントを多くしています。やはりそこには、泉谷氏のようなあぶれた人間、柄の悪い人間、偏屈そうな人間に対する排除しようとする力が見て取れると思います。結局会場全体から無視された泉谷氏は、彼のメッセージも虚しく響き、やるせなくなったのか、最後の反抗として演奏後ギターを放り投げます。私は音楽ができませんので、音楽をやる人間にとっての楽器がどのようなものなのかというのは本質的にはわかりませんが、泉谷氏にとってのギターというのはそう軽い存在ではないはずです。唄うための唯一の武器ですから、それを最後に捨て去るということは、自分の言論がまったく聞き入れられなかったことへの怒りと、失望とがその行為には含まれていたのではないでしょうか。
 どこまでも彼の本心からのことばを冗談としか取り扱わなかったNHKホールに居た人間と、それを見ていて彼に否定的なコメントをした多くの人間は、いじめを見ている傍観者と同じだと私は考えます。いじめはいけないと思っていてもそれを止めることをしない、第三者というのは、直接攻撃している人間よりも、時と場合により悪い人間になることがあるのです。ナチスドイツが行ったホロコーストから逃れたユダヤ人ハンナ・アーレントは、どうしてナチスがそのようなことを行ったのかという研究のなかで、「悪の凡庸さ」という表現をしています。実は悪というのは本当の悪人がするのではなく、ごくありふれた、ごくふつうの、一般的な人間が、何も考えなくなった時に悪が起こるのだというのです。ホロコーストを実行した最前線にいた人々たちは、上からの命令に従うのみで、自分達が行っていることの意味を考えませんでした。
 泉谷氏の発言を無視し、封じ込めようとする態度を、彼等はそれが何を意味しているのかわかっているのでしょうか。小さな意見、通常とは異なった意見を握りつぶそうとすることは、巡り巡って、自分が何かを発言しなければならなくなった際に、無視され握りつぶされても仕方がないということに繋がるのです。他人の意見を無視すると言う行為は、翻って自分の発言をも無にする行為なのです。今一度、自分達が何をしているのか立ち止まってよく考え、これからの態度を決めていくことが必要なのではないかと、私はとてもこの先の未来を暗く思いながら皆様に警鐘していきたいと思います。

敗者の歌手泉谷しげる レコード大賞と紅白のステージを観て想うこと~1~

 新年あけましておめでとうございます。この記事が今年初の記事となります。様々な方からご挨拶を頂き、真にありがとうございます。本来であれば一つ一つにきちんとご返事差し上げるのが礼儀ですが、ここでの挨拶を以て代わりとさせていただきたく思います。どうか本年もよろしくお願い申し上げます。





 さて、新年を迎えたわけですが、これからの一年を歩み進んでいくにあたり、2013年の最後を締めくくった出来事を考えて、どのようにしていくのかを熟考する必要があると私は感じました。それは、今回のタイトルでもありますように、泉谷しげる氏をめぐることです。
 先ず私の立場を明確にしておきますと、私は泉谷氏のパフォーマンスにおおむね賛成、賛同しているということです。
今回の記事で論じたいのは、一つは、泉谷しげる氏のレコード大賞のパフォーマンスに対するネット上の反応について、もう一つは紅白歌合戦のパフォーマンスに対してです。

 2013年12月30日、毎年の恒例番組である日本レコード大賞がTBS東京放送ホールディングスより放映されました。私はこの中継を生で鑑賞しつつ、Twitterでの反応を観ていました。泉谷しげる氏は、女優である大竹しのぶとともに登場。昨年制作したニューアルバム「昭和の歌よありがとう」に収録された、『黒の舟歌』を唄いました。このアルバムにはタイトル通り泉谷氏の一貫した、昭和の名曲へ対する感謝の気持ちが見て取れると思います。レコード大賞のパフォーマンス時にも、彼は一貫していました。曲はほぼすべて大竹しのぶが絶唱。素晴らしく力強い歌声を披露しましたが、それに対して泉谷氏は声も小さく、ネット上では「聞こえない」「歌う気はあるのか」といった批判が相次ぎました。曲が終わり、泉谷氏は説明を始めます。「この女(大竹しのぶ)はね、なんかバラエティ番組でけらけら笑っちゃってるだけの女になっちゃってるから、やっぱり物凄い女なんだと、やっぱ俺(泉谷しげる)こういうねタイプの男はってのはね女をいかに美しく輝かしせるのが目的だから」と述べました。この説明により、なぜ彼が歌を小声で唄っていたのかということがわかります。今回は泉谷しげる氏が制作したアルバムで「優秀アルバム賞」を受賞しての参加ということになったわけですが、しかし彼はその一貫した姿勢を崩さないために、自分ではあまり歌わずに大竹しのぶを輝かせることに終始したのです。

 ただ問題となったのは、彼の態度です。曲が終わると「カモン、早くこい」と司会者に命令。「この後打ち上げがあるんだから早く帰せ」や捨て台詞の「今日はこのくらいにしておいてやるよ」が少々目につきました。私も番組を見ながら少し言い過ぎかなとも感じたので、ネット上ではどのように反応がされているのか確認してみました。その結果「泉谷しげる」とキーワード検索したツイートが物凄い量流れてきまんした。その内容は主に二つ。一つは泉谷氏を擁護するものと、多くは彼を痛烈に批判するものです。
 私はこの状況を見ていてこういうのが現状なのかと感じました。私も含めてですが、思ったことをTwitterにすぐ呟いてしまうことの愚かさというものを感じました。ですがそれ以上に、泉谷氏を批判する言葉の汚いこと。「やる気あるのかクソじじい」「死ね」「老害」「偏屈じじい」などという言葉が行き交いました。ここで私が述べたいのは、一つはそういうことをすぐに呟いてしまうことの問題なのですが、それよりもそうしたつぶやきをしている人間の傾向です。いくつかそうした酷いツイートをしたアカウントを追ってみたのですが、やはり若い人が多い。私も先日21になったばかりですから、若い人間です。こういう若いとか若くないとか世代でくくって議論をすると、他の世代を批判することがひどく内容空疎のことになってしまいますが、同世代を批評するのならばまだ感覚も近いはずですし、ある程度有意義な批評ができるかと思い、します。

 Twitterをやっている人間自体がスマートフォンなどを持っている若い世代に多いことは確かです。なので、そうしたつぶやきをしてしまうのは若い世代になるのは必然と言えば必然なのですが、特に汚い言葉を使用しての批判をしていたのは十代、二十代と思われるアカウントの人が多かったように見受けられます。
 ここで私が述べたいのは、本当に最近の若い人間の心の狭さです。私自身他人のことを言えるはずもありませんが、しかし自己への反省も込めて批評させていただきますと、とにかく心が狭くなりました。泉谷しげる氏があのようなパフォーマンスを行ったことに対して、それがゆるせないのです。あのパフォーマンスをやっただけで「死」ななければならないのです。若者がこのような言葉を使ってしまうのには、一つには語彙の少なさがあります。ゲームやケータイに囲まれて育った私の世代は、本などの活字媒体に触れることが少なく育ちました。そのため、人間が通常の言語活動をする際に使用する基本語彙、基礎語彙といったものが圧倒的に不足しているのです。語彙や言葉が不足するとどうなるか。自分の知っている数少ない言葉を多く使用しなければなりません。少ない語彙を補うために同じ言葉を何度も使用するのですから、言葉ひとつひとつの価値が下がります。言葉のインフラのようなものです。同じ言葉を使用しすぎてしまって、その言葉の重みがなくなってしまうのです。そうすると、少し批評したいだけなのに、「本当に」と前につけたり(これは私もしてしまいます)、もっと言葉が崩れれば「マジで」「ガチで」というような装飾語が付いてきます。そのようなことは例えば友達同士の会話であれば、本当かどうかなどということはわかります。しかし、それが本当であるのだ、マジなんだということを付けなければ説得力を増せないのです。それもそのはず、「マジで超ウケルんですけど」しか使用するボキャプラリーがないのですから、本当に本当なのか使っている当人たちにももはやわかりません。
 そのように語彙が少なく、自分の気持ちを表現する言葉が足りない。そのため極端な表現に走り、自分の表現したいことを何とか主張しようとすると、すぐに「死ね」などといった命に関わることまで口にしなければならなくなるのです。人間の死というのは重いものです。そんな簡単に口にして良いものではありません。私はこのように泉谷氏のパフォーマンスに対してそのような反応しかできない人間に対して深い哀しみを感じました。

 また、使用している言葉もそうですが、態度も問題だと思います。私は批評には批評をする際のルールがあると思います。それは決闘のルールに似ているかもしれません。批評はできればしないほうがいいことでしょう。円満に平和に暮らせればそれは一番です。しかし現実問題としてそうはいかない。悪いところは悪いと言わねばならぬところが出てくる。そこで批評が登場するわけですが、例えばただ「ダメだ」と繰り返すのでは批評にはなりません。それは文句です。文句ばかり言っていても何もなりません。もし、泉谷しげる氏のパフォーマンスを観て、それに対してそうではいけないと思ったならば、どこがいけなかったのか、どのようにいけなかったのか、なぜいけないと自分は思うのか、そしてできればどうすれば良くなると思うか、こうした手順を踏まなければならないと思います。ただただ罵倒しているだけではいけないのです。
 現代のネットという匿名性のなか、自分の言葉に責任を持たなくてもよいというアナーキーな環境では、人間は何も省みることなく他人を罵倒しあっています。私には2ちゃんねるはとても見られません。あそこは人間のもっとも醜い部分を結晶化させたような場所です。私は匿名性のなかでも人がきちんと人であり、何かに対して異議申し立てをする際にも相手が人であるとして、最低限の人としての尊厳を守るべきだと思います。

 そしてレコード大賞の泉谷氏への反応をみていて思ったことの最後は、現代人の人を認める力の衰退です。これは今日に始まった問題ではありませんが、今回の出来事が再び私にそのことを思い起させたので少し論じます。私は友人知人などと普段生活していても、とにかく相手を認めることができなくなってきているなと思います。それは同世代の人間に対してもそうなのですが、他の世代に対しての認める力というのがもはや皆無なのではないかと驚くほどです。私たち現代人は、核家族化し、おじいちゃんやおばあちゃんと一緒に暮らすという時間を所有していない世代です。おじいちゃん子であった私は、祖父とは今でもよく話しますし、一人暮らしをしている祖父の家を訪ねて手伝いなどもします。なので、老人の時間というものがごくごく僅かですが、ほんの少しは分かるのです。私が子供のころの祖父と比べると、ここ数年は特に体の筋肉が衰退してきて、杖をもってとてもゆっくり歩きます。お茶を淹れたりする際にも手つきがだんだん怪しくなってきましたし、動作も緩慢です。さて、いざ視点を家から出て町へ持っていきますと、老人のリズム、時間というものに対して、現代の社会というのは物凄い目の回る速さで回っています。車がビュービュー走り、信号も速くかわる。このような環境で老人が暮らすのは無理です。例えば町をあるいている老人がいるとします。道が狭く、真ん中をよろよろと歩いているとします。現代の若者、それは私の友人でも、そうした人の後ろに立つと瞬間的にかっときてしまうのです。老人がとぼとぼ歩いているのが邪魔でしょうがない。自分の時間がそれによってほんの数秒でも削られるのが我慢ならない。
 さて、そうした精神状態が正常だと言えるのでしょうか。今、例として、老人の時間と我々若者の時間が違うという話をしました。ですが、これは他のことにも言えることです。今の問題は、我々は老人の時間を理解することができないということを示しているのです。ここではわかりやすくするために時間にのみ絞って述べましたが、我々はほぼ自分たちと異なる世代の感覚や価値観、考え方などというあらゆるものを理解することがもはやできなくなってきています。そしてわからないものに対して、人間が取る態度は、興味をもつかそれを排除しようとするかの二つに大抵分かれますが、多くは後者です。もはや異なった世代間の交流というのが不可能になっているくらい、私は知人友人を見ていましても、他者、他世代と交流をはかろう、理解しようという姿勢が無くなっているのを感じます。

 問題を戻します。確かに泉谷しげる氏の態度は大変悪いものでした。私も少しいらっとしました。ですが、それはパフォーマンスなんだ、キレ芸なんだと許容することもできるわけです。あるいはそう解釈しなくても、世の中には変なおじさんもいるんだなと認めてあげることもできるのです。もし、泉谷氏の言動が気に食わなければ、先に提示したように、どうして駄目なのかということを述べることもできます。ですが、まったく自分が理解できないから、あるいは目障りだから、気に障ったからという理由で、「死ね」という言葉に結びついてしまうほどの短絡的な回路ではだめだと思います。私はとにかく、そうした短絡的な暴力が少なくなるよう自分にも周りにも働きかけていくことが重要だなと思います。

プロフィール

幽玄

Author:幽玄

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カウンター
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

アクセスランキング
[ジャンルランキング]
小説・文学
324位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
その他
16位
アクセスランキングを見る>>
フリーエリア