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宝塚『風と共に去りぬ』 感想とレビュー 女が演じる男

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―はじめに―
 ここ一カ月、様々なイベントが立て続けに起きて忙しかったですが、とりわけ一番私にとって大きかった出来事は生まれて初めて宝塚のレビューを観に行ったということです。昔から何かのショーや、演奏会、劇を見るのが好きだったのですが、宝塚はまたそれらとは異なった色彩を放っています。前々から一度あの輝かしい世界を観に行ってみたいなと思っていたのですが、なかなか機会がなくていけませんでした。でも、いつまでもぐじぐじしていても何も始まらないので、ネットでチケットが取れるものかどうか試してみたのです。というのも、私は宝塚に行きたいと思っていても、まったくのド素人だったので、宝塚を見るためには何かの会に所属しなければならないのかな、なんていうことを考えていたからです。で、なぜかあっさりとチケットが買えてしまった。宝塚はすごい人気でチケットなんか発売日に即完売だという勝手な妄想がありましたから、ラッキーと思ってすぐにチケットを買ってしまったのです。
 ところが、そこでチケットがすんなりと買えたことを何故か?と疑わなければならなかった。何故チケットが買えたのか、やほおの路線案内で行先を調べているうちに気が付きました。私は本当に無知だったものですから、あれだけ有名な宝塚というものはてっきり東京で行われているものなんだろうと勘違いしていたのです。もっともこの考えは半分は当たっていて、現在では東京公演のほうが規模が大きいようですが。しかし、路線をしらべて愕然としたことには、路線案内に飛行機が登場したことです。で、はっと悟ったのです。これは、東京で行われるものではない。宝塚の本拠地兵庫で行われる公演だと。
 チケットの払い戻しはできないし、かといって兵庫までというのもしんどい。ここは諦めるか?と一瞬考えましたが、しかし、公演の前後はちょうど世間ではシルバーウィークなる日々。学生のうちに宝塚の本拠地に行って、宝塚大劇場を見るということはいい経験になるんじゃないかと思いなおして、すぐさま夜行バスのチケットを購入。ぱっと行ってしまったわけです。ただその後に大学の学園祭が控えていたものだから、せっかくの大阪・兵庫旅行、一泊もしませんでした。行きは夜行で、朝に現地入り。そして公演を見た後、大阪に戻ってほんの少しの観光。道頓堀に行きました。かわいいお姉さんにいっぱい声をかけられて、いやいや僕はそんなにお金を持っていないのになと思いながら逃げました。で、その夜は休まずにそのまま夜行で帰るという超ハードスケジュール。このブログをいつも読んでくださる奇特な読者の方にはもうお分かりでしょうが、こんなに文学のことばかりやっている文学青年が体力に自信があるわけもなく、前々から夜行バスは疲れるのでできるだけ乗りたくないと思っていたにもかかわらず、お金がないので仕方なく、いやはや大変な思いをしました。
 30時間ほど横になるということがなかったのですが、人間横になって眠ることの重要性を本当に感じましたね。と、こんなに長くつらつらと宝塚初体験を書いてきましたが、後半からは観劇のレビューです。

―女が演じる男―
 今年は様々な観劇をすることが多かったのですが、そのなかでも印象的だったのが、夏に見た歌舞伎。
伝統的な言語文化としての歌舞伎鑑賞
http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-474.html
 紅葉狩という演目を見たのですが、そこで感じたことは、男性の演じる女形の美しさというものです。


 私は実際に見たことはありませんが、映像などで拝見するかぎり坂東玉三郎の女形というのはやはり素晴らしいものなのではないでしょうか。見ているだけで本当にうっとりとします。この映像で、玉三郎氏も述べていますが、確かに女形は男性の理想化した女性像でしかないかもしれません。ですが、やはり理想を具現化しているから美しさの極みといったものがあるのではないでしょうか。写実主義、リアリズムの世界からみれば、ただの理想だと一瞥されるかもしれませんが、しかし、現実がすべてということでもないでしょう。理想には理想だからこそ素晴らしい部分があると思います。
 今回、宝塚をみて思ったのはこれと反対のこと。すなわち、女性が演じる男性というのもいいものだなということです。


↑これが今回私がみた宙組公演の『風と共に去りぬ』のPV
時間がなかったので、事前学習としては1939年に公開された名作中の名作『風と共に去りぬ』の映画のみを見るまでにとどまりました。原作も一応揃えて、一冊目の途中まで読んだのですが時間切れです。原作をすべて読んでいないので何とも言えないのですが、宝塚のレビューは1939年の映画版を舞台化したようです。最近では話題になった「レ・ミゼラブル」が原作の映画化ではなく、舞台の映画化といったように、二重に翻訳されるということが少なくありません。ほとんどが映画に似ていましたので、原作の舞台化というよりは映画の舞台化といったほうがいいと思います。ただ、昔の映画というのは人々の時間もあったから悠長なもので、なんと1939年の映画は4時間の大作なのです。私も借りて見ていましたが、はじめてDVDの両面に焼かれてあるというのを見ましたね。流石に四時間はできないとあって、途中休憩を30分入れて3時間くらいの演目でした。だからかなりカットしてある。映画では子供が登場して、それが重要な部分を占めるのですが、宝塚は他の劇団とは異なります。子役をとらないわけですからその部分は全てカット。おそらく、何も知らないで宝塚のレビューをいきなり見る人にとっては少し難しいのかなと思いました。

 ですから、宝塚版の『風と共に去りぬ』はストーリーを重視しているわけではないのです。そのかわりにどこを重視するかというと、そこは宝塚という世界にも類を見ない不思議な文化がはぐくんできた男役です。歌舞伎では女形が注目されるように、宝塚では男役が注目されます。今回のポスターには、「レット・バトラーという生き方がある」と記されており、その特色をよくあらわしていると思います。世界的に有名な『風と共に去りぬ』ですが、その魅力は主人公である自由奔放に生きたスカーレット・オハラだと考えるのが通常です。しかし、それも宝塚にかかるとレット・バトラーが主役として登場する。ある意味では、宝塚版の『風と共に去りぬ』は、スカーレット・オハラが主人公の『風と共に去りぬ』を裏から描いた作品ともいえるかもしれません。
 1939年の映画ではクラーグ・ケーブルがレット・バトラーを演じました。レットは風来坊の気質があり、大胆不敵で豪快で、それでいてどこかゆとりのある大人という感じがします。今でいえばちょいわる親父の系譜に連なるかもしれません。余裕のある中年のおじさまというのは恐らくどの時代でも魅力的な存在なのだろうと思います。クラーグ・ケーブルの演じたレットはとても恰好よかった。ただ、これを女性しかいない宝塚が演じるとなると少し難しくなります。年齢的にも円熟してきた人間を演じるわけですから、宝塚にいる若い女性にとっては想像で補うしかありません。体格の良さや筋肉によって醸し出される余裕というものもあります。女性にとってはこれもなかなか難しい。
 しかし、それにもかかわらず舞台で見たレット・バトラーは恰好良かったです。宝塚というのは一般的に、どうも女性がはまるらしいようです。一人でとても淋しい思いをしながら大劇場に居たのですが、周りはおばさまかそれより若い女性ばかり。男性の客というのは、大抵奥さんにつれてこられたような人ばかり。男一人客というのはあまりいない様に思われました。私は男ですが、それでも恰好いいなと思いました。
 そこにはやはり理想化された男像が描かれていたのだと思います。女性が望む理想の男性像。私も見ていてとてもこんな風にはなれないなと思いながら、恰好いいなと感じました。レットは男性が演じると結構荒々しい感じになりますが、宝塚が演じるとどこか洗練された男性像になります。

―終わりに―
 今回は何もかもが初めての経験で、驚きの連続でした。宝塚大劇場というのは、様々な施設が連結した複合施設だというのも初めて知りました。ガーデンもあれば、ホテルもある。カフェテリアやレストランも入っている。
なかでも驚いたのは途中の休憩で、大劇場のなかでお昼ご飯を食べ始めるお客たちです。通常こうした大劇場のなかでは飲食は禁止されています。ところが、宝塚は歴史ある劇場。そこを支配しているのは最近入ってきた西洋のルールではないのです。どちらかというと、相撲や寄席に行っている感覚に近いのでしょう。大劇場のなかで普通に食事をとるのです。
 宝塚というと、華やかなレビュー、ベルサイユのバラといったように西洋的なものがイメージされますが、しかしもとはと言えば西洋のレビューを真似したとはいえ、やはり日本的な文化のなかで養われたものなのです。全てを西洋流にやるのではなくて、西洋流のやり方を取り入れながらこの百年間独自に発達してきたからこそ、ひとつの文化と呼べるほどのものになったのだと私は思います。宝塚はどこか歌舞伎的でもありますし、それだけでもただの西洋のモノマネとは言えないでしょう。本当に不思議な世界で、ドハマリしてしまう人が出てくるのも理解できます。私もあの世界のとりこになりそうです。来年は宝塚結成百年の記念すべき年となります。そのためにチケットはただでさえ取りにくいのに、さらに取れなくなると思うと憂鬱ですが、盛り上げていきましょう。
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最近感じたこと、考えたこと 大学という場、叱る、教師

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 先日ある先生の授業を聞いていてなるほどと思ったこと。国語学の先生のお話なのですが、自分の結婚式をしてみて気が付いたことがあったというのです。御出席・御欠席の部分、通常は「御」を消して、上に「よろこんで」下に「させて頂きます」と書くのが社会一般の礼儀になっております。とりあえず社会一般の礼儀とはなんぞやという本質的な質問はさておいて。そうして、その先生の結婚式のお手紙に、社会に出た人間はみんなそうして返してきたそうです。小学校の友人、中学、高校の友人と、その後社会に出た友人はそうしたマナーをきちんと知っていたということです。ところが、自分の同僚である大学教員だけただ単に〇をして返してきたそうです。つまり、大学の職員、教員というのは社会に出たことがないので、そのようなことを知らないのです。また、それを指導してくれる人も居ません。
 「大学教員だけまるっきり社会のことを知らないし、しかも上にそういう人を指導してくれるような人間がいないからそうなるんだ」というような意味の内容をその先生は授業で述べていました。大学の教授は確かにある学問においては極めて専門的な知識を有しているかもしれません。ですが、そうした社会的なマナー等に関しては、社会人に劣る部分も多々あるということです。

 この話を聞いていて思ったことがいくつかあります。一つ目は大学という場について。大学という場は、我が国の最高学府になっているわけで、そこで教えている先生はやはりとても偉いものに思われますし、そこで働いている職員も偉いものに思われます。しかし、果たして本当に偉いのでしょうか。そもそも偉いとはどういう意味なのかということも最近私はよくわからなくなってきているのですが、とりあえず偉い、偉くないというものがこの世に存在すると仮定しておいて、話を進めますと、大学の職員(教員や事務員)は本当に偉いのでしょうか。少なくともそうした社会的なマナーや常識に欠けているかもしれません。
 私はもう3年間大学に居ますが、多々理不尽な経験をしています。システマティックだなと感じることが多々ありましたし、また私は幸運にも社会的常識を欠いた先生には殆ど遭遇しませんでしたが、残念なことに中にはこの人はとても社会では通用しないような人間だなと思われる教員や職員が少しはいます。誤解していただいては困りますが、それをもって別に大学を批判しようというわけではありません。光栄にも私は勉強を熱心しているということで、奨学金を頂いた身であります。これから、学生を代表して率先して他の学生の鏡になるように、世間からの目もきちんと意識して行動しなくてはならないと、奨学金を出してくださる会の会長さんからご指導いただきました。精いっぱい頑張るつもりです。
 ただ、大学という最高の場において、その場にいる人間を叱る人はいないのです。大学に居る人間は叱るのは得意です。自分が立場上最高の場所にいるのですから、叱るのは得意です。だからこそ中には増長してしまう人もいるのではないかと私は思うのです。

 私はこんなことを経験したことがあります。ある先生は、生徒に6000円もする教科書を購入させ、その分厚い教科書をただ生徒に読ませるだけ。そして、試験ではやってもいないような難しい問題ばかり。殆どの生徒の評価はC。私はその先生にこれはおかしくないですかと言ったのですが、点で耳をかさず、今もそのような授業が展開されていると耳に挟んでおります。こんなのはまだいい方でしょう。
 他には大学の職員の問題。現在は履修や申請はすべて機械を通して行われます。それは人的ミスを出来る限り少なくしようというものだと思います。効率化したい気持ちはわかります。一万人以上の学生がいる学校です。それぞれの生徒に対応していたら、いくら職員と時間があっても足りません。しかし、そのシステムも人間のつくったもの。しかも我が大学のシステムは他の大学と比べてもかなりずさんなもののように感じられます。これは主観の域を出ませんが。それで、そのシステムの狭間では多くの生徒が授業を履修できなかったり、ガイダンスに出席できなかったために次年度まで待たなくてはならなくなったりということが生じているのです。これはおかしくないですかと、何度か学生部の窓口に言いに行きました。もう少し改善することはできるでしょうと。しかし、彼等のいうことはシステムだからということばかり。自分たちできちんとチェックして、やってくださいということだけなのです。彼等には自分を省みる力、反省する能力が欠けていると私は思います。これはもちろん自分にも言えることです。こんな偉そうなことを果たして本当にお前は書けるのか、もちろん書けません。しかし、反省ばかりしていたらいつまでも言えません。ここは私のようなものが言うのもおこがましいですが、どうかそれを忍んで、指摘させてください。
 
 人間という生き物は放っておけばすぐに増長します。それは仕方のないことだと思います。人間は弱いようで強く、強いようで弱いということが多々あります。どんなにしっかりした人でも叱る人が居なければ増長してしまいます。ですから、何事でも上に師を仰いで、叱られることが大切だなと思うわけです。私には尊敬できる先生がいるのですが、その先生、還暦を過ぎていますが謡いの稽古をしているようです。60の手習いってやつでしょうか。そしてその先生、学校じゃ教授にもかかわらず、お謡いの稽古ではその道の先生に結構こっぴどく叱られているとのこと。60にもなって人に叱られることってなかなかないことだと思いませんか。人間歳を取ればとるほど叱られなくなります。特に教員は叱られることがないので、増長しがちな職種です。
 又聞きした話ですから信憑性はありませんが、介護施設などに入って来る老人のなかで、一番嫌な職業をしていた人なにかというと、教師だというお話があります。何故かというと、叱られるのに慣れていなくて、叱るのに慣れているので、老人施設に入ってもそういうことになる。若い職員に文句を述べたりするのです。ですから、教師という職業、人の上にたち、人を叱る職業の人間こそ、私の尊敬する先生のように、他の分野でも構わないから叱られることが必要だなと思います。
 実際その先生はとても優しいですが、ダメなところはきちんと駄目という先生です。
 叱られるのは誰しも嫌なことです。ですが、だからこそ、普段叱る側の人間は叱られることをしておかなければならないと思います。度を越して叱る人が世の中にはいます。そういう人は自分が叱られ慣れていないからなのではないでしょうか。叱られるのが嫌だということが分かっている人は、叱るときは叱っても、叱り方に気を付けるはずです。
 これは何も叱る叱らないの問題だけではありません。もっと普遍的に考えることができると思います。最近私が懸念しているのは、ネットという匿名性の世界のなかでとにかく、誹謗中傷、攻撃が多いということ。何かを批判することは時には仕方のないことです。しかし、批判のしかたといってもやり方があるわけです。ただ、現在の状況を見ていると本当に酷いものばかり。スレッドだのなんたら掲示板だの、まとめサイトだのを見ると、本当にこれが大人の人間の言葉なのかと目を疑うような罵詈雑言の羅列。人間は攻撃性の極めて強い生き物です。でなければ、我々人類は現在のような生活はできないはずです。我々は文明という名を冠して暴力を正当化し、この地球上のありとあらゆる生き物を押しのけて来たのです。それを忘れてはいけないと思います。もちろん、こんなに話を大きくしても仕方のないことです。ならお前は文明を捨てるのかといわれれば、できないと答えずにはいられません。ですが、自分達が極めて攻撃的な生き物であると認識し、自分の行動を省みることはできると思うのです。
 自分を省みること、反省することは非常に難しいことです。私もできるだけ反省しようとは試みていますが、このように自分のブログというものを持って、多くの人間に自分の主張を聞いてもらいたいと思っているような、元がエゴの強い人間だけにそれを困難をきたします。ただ、それを抑えるのは、他の分野でもいいので、きちんと叱られることかなと最近感じました。

雑記 ここ一カ月の出来事、日記的散文

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↑先日行ってきた新宿御苑の紅葉。もうかなり落ち始めていましたから、行くならお早目に!

 かなり長いこと更新をしなくて申し訳ありません。一カ月近く何もかかなかったのは、このブログをはじめてから二年間になりましたが、初めてのことです。どうして、ここ3、4か月筆が重かったのか(実際にはタイピングですが)、原因は何かなと考えていますが、特にこれといったものはありません。いくつか考えられるのは、夏に頑張りすぎてしまったということ。夏には四作品小説を書くんだと意気込んで、二作までは執筆したのですが、それで言葉を吐きつくしてしまって、それ以降全然ものがかけなくなっていたということはあります。それでも、ちょっと頑張れば書けることには書けました。二年間ずっと、ほぼ毎日に近いくらい文章を書いてきたのですから、のり気でなくとも、ワードを開けば自然と指が動きます。そのくらいには文章力は鍛えられているつもりでした。ただ、この数か月はその気もなければ、全然書こうという気になれなかった。少し休む時期が必要だったのかもしれません。
 今年の夏はいろいろなことがありました。ええ、失恋なんてものもしましたかね。こんなことをこのブログに書くのは初めてなので、これを読まれるみなさんがどのような顔をするのか、全く想像がつきませんが。

 それに、11月前後はとても忙しかったのです。第一にゼミでの発表がありました。私は今回、村上春樹の『風の歌を聴け』を論じました。それを論じるにあたって、『ダンス・ダンス・ダンス』までの四部作を読んだり、様々な参考文献を調べたりして忙しかったというのがあります。二つ目に、模擬授業があった。私は現在教職を目指している学生ですが、模擬授業がありました。そのことについてお話してもいいのですが、それはまた今度、気が向いたらしましょう。土佐日記を扱ったのですが、それも自分なりにいろいろと調べて、なかなか面白い研究ができましたから、それは今度書きましょう。それから最後に美術部の引き継ぎ式がありました。私は大学三年生になったわけですが、この時期は就職活動なるものが始まる時期なので、三年生は事実上の引退をするのです。それを引き継ぎ式と称して、今迄お世話になった三年生が、後輩や先輩を招いて催しをするという会です。今年のテーマは何故か黒ミサということになり、私はオペラ座の怪人の恰好をして式を盛り上げました。私の専門は小説ですが、アニメーションなどのポップカルチャーにも興味があり、前々から、コスプレというものをしてみたいなと思っていたところだったので、今回かなり気合を入れてしまいました。
 タキシードを祖父から借りました。仮装をするので貸してくれといったら快く貸してくれました。古いタキシードです。祖父曰く、このタキシードを以前着たのは私の父の結婚式、すなわち私が生まれる前年になるということだそう。すごい、20年物のタキシードです。それに、ハンズで買ったマントに、マスクをつけます。新宿、渋谷のハンズでは、現在マスカレードの仮面が売っています。3000円くらい(良いものは4000円くらい)で、本場ベネチアから輸入した商品だということ。かなり本格的というか、本物なので、仮装などしなくても前から欲しいなと思っていた商品です。で、今回が良い機会だったから買ってしまいました。現在は部屋においていますが、なかなかいいインテリア。今放送されているガスのCMのようであります。
 付け髭も買ってしまった。これも結構した。つげ髭なんと1000円ですよ。驚いた。で、なぜかわからないけれど、付け髭からは言い知れぬ良い香りがするのです。何かの薬品の匂いでしょうか。付け髭をつけるための専門の接着剤も買おうか迷ったのですが、着けるのに1300円、剥がすのに1300円別の薬品が必要だったので、馬鹿らしいのでやめました。本番は両面テープで代用です。そんなことをして、愉しく引退したわけです。これで、美術部に毎回出席しなくてもよくなり、少しは時間が取れるようになりましたから、いよいよ自分の今やりたいことに力を注いでいこうと思います。
 
 思ったのですが、創造的な活動をするにはそれぞれ時期があります。私は書道の免許も取ろうと思って、授業を受けているのですが、書の世界では大御所である人が教授として教えてくださっています。その先生が授業中おっしゃっていたなかでなるほどなと思ったのは、「(大意)やる気がない時にいくら書いたってだめなんだよね。練習にはなっても、作品としては心に迫って来るものはない。やはり、込み上げてくるものがないとだめ。そのためには、何日も英気を養うんです。墨をすったり、いろいろな用意をして、じっそその時を待つ。そして、頂点に達したところで作品にぶちまける。するとまた空っぽになるから、また英気を養う」。その道の大家です。かなり高齢な方ですので言葉の重みが違います。
 私も大学に入ってから最初の二年間は、絵を描いたり、立体作品を作ったりするのが楽しくて、またやる気もありました。ですが、今年は全然そうした気が起きない。むしろ、作りたい、やりたいと思うのは小説でした。だけれども、役職上部活動に参加しなければならない。今年はそうした意味で私にとってはすこし辛い年でした。自分がやりたいことができないというのが辛いですね。今年は写真もやる気があったので、そちらの方を結局展示会では出したのですが、美術部なのに写真なのかと上の方に思われていたようで、少しやりづらかったです。ですが、お客様のアンケートに写真もあってよかったというようなコメントもあり、これからは、美術部の作品媒体として、写真も可となったのは、一つ後輩に残してあげられたいいことなのかなと思います。

 何事も強制されないで自由に、自分のやりたいことをやれる。創造できる、そんな日がくるといいなと思います。壁紙などで植物を幾何学的な模様にした作家、ウィリアム・モリスを御存じでしょうか。この名前を検索すればすぐにいろんな画像が出てくると思いますから、調べて見てください。ウィリアム・モリスは、現在では美しい文様の壁紙を考案した人間として理解されていますが、かなり多彩な人間だったようで、存命の時には詩人としての評判が高かったようです。他にも建築をやったり、工芸をやったり、美術評論家であり、そして小説家としても名高かったのです。
 彼の作品のなかに『ユートピアだより』というものがあります。これについてもひとつ記事を作ってもいいのですが、それだけの活力が現在私にはないのでここに簡単に記すだけにしておきます。ゲストと呼ばれる主人公が、夢なのかはわかりませんが、未来に行って帰って来るという話です。作品内の時間はそれが書かれた時代とほぼ同じ、1880年代から始まります。作中矛盾が生じていて、一体ゲストがどのくらい先の未来にいったのか不明なのですが、ある部分には2003年と書かれており、ある箇所には22世紀と書かれています。とにかく、そこは百年以上も未来の話なのです。そこでは、もはやお金という概念はなく、みな自分の好きな仕事を好きな時にしています。それで、事足りるのです。はて、そんなことが本当に起こり得るだろうかと思うかもしれません。私もそう疑いました。これはモリスの単なる理想主義じゃないかと。しかし、大量生産、大量消費を本当にやめて、自分に必要な分だけのものをつくって、自分に必要な分だけのものを使う生活を全世界の人がすれば、果たしてそれは限りなく現実に起こり得ることなのではないかと私は思いました。人が何事も他人に強制されることなく、自由に暮らし、そして好きな仕事をして生きられる日がくるのを願って、それに少しでも近づけるように様々なことを頑張っていきたいと思いました。
 ここ一二ヶ月の主な出来事はこんなところでしょうか。
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