映画『ブラックスワン』 感想とレビュー 日本のアニメーション監督今敏からの影響

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―はじめに―
 ブラック・スワン(原題: Black Swan)は、ダーレン・アロノフスキー監督によるで、2010年に公開されました。よく映画館には足を運ぶのですが、この映画を公開中に見逃してしまい、先日DVDを借りて鑑賞しました。私はアニメ映画も一応研究対象として追っているので、今回は今敏という日本のアニメーション映画監督『パーフェクトブルー』(PERFECT BLUE)という作品との関連性から論じて行きたいと思います。

―今敏との接点―
 私はできるだけ先入観を持たないためにも、作品に触れる前にはほとんど情報を入手しないで入ります。この作品も『ブラックスワン』という謎めいたタイトルと、映画公開時に流れていた不気味なトレーラーだけを手さぐりにして、ナタリー・ポートマン演じる主人公が、何か人間の暗い部分を背負っていくような作品なのかなと漠然と考えていました。また、ここ近年ミュージカルを映像化した作品が多かったので、バレエで有名な『白鳥の湖』を映画化して、それにオリジナルのストーリーを付け加えたような作品なのかなと想像していました。
ところが、どっこい、あけてびっくり玉手箱。私にはかなり厳しい作品となりました。ホラー系は大丈夫なのですが、どうも私はスプラッターやグロテスクな表現が苦手で、途中からかなりハードなホラー作品だと気づいた時にはすでに遅かったです。
 ただ、こちらも作品を研究することが勉強なので、一度見始めた作品を途中で放棄するわけにもいかず、最後まで見通しました。そして、私も研究対象である、今敏のアニメーション映画『パーフェクトブルー』にとてもよく似ているなと感じたのです。こう感じたのは当然私だけではなく、他の多くの映画に詳しい方も気が付いたようで、ウェブ上では様々な指摘がなされています。
 ここで今敏について知らないかたにごくごく簡単に今監督のことを紹介しておきますと、私は宮崎駿の後を引き継ぐべきアニメーション映画監督だったのではないかと思っています。それだけ彼の作品は独創的で、オリジナリティーに溢れていました。よく、実写とアニメーションの本質的な違いはなんなのだろうかということを考えるのですが、今監督は彼の作品でアニメ―ションに関わる人間がいだくその問いに対して、一つの答えを導いていたように思われます。
 残念なことに今監督は実はもうこの世にはいません。46歳という若さでちょうど、ブラックスワンが公開された2010年に亡くなっています。彼の作品が素晴らしいのは、アニメーション表現の限界に挑んだことです。筒井康隆の『パプリカ』を映画化して、文学を専門としていた私は彼の作品をしることとなったのですが、私同様『パプリカ』の映像化によって文學畑の人間がアニメーション映画を見直すきっかけになったと思っています。筒井康隆は文学用語でいうところの「マジックリアリスム」、つまり現実と幻想が入り混じる作風を得意としています。今監督は筒井のマジックリアリスムを見事にアニメーションで表現したのです。
 『パーフェクトブルー』は、マジックリアリスムの得意であった今監督の最初の作品。1998年の公開です。話の大まかなあらすじは、アイドルグループに所属していた主人公マミが、女優へと転身するもなかなか成功せず、彼女は次第にその苦悩から幻想を見始めます。本当の私、本当の自分が自分につきまとって、彼女を苦しめるのです。そして次第に起こり始める彼女の近辺での不可思議な殺人。最後までみて、一応の理解ができる落ちは確かにあるのですが、どこまでが幻想で、どこまでが現実だったのかということがわからない作品です。非常に狂気的ですし、人間の恐ろしい部分、エゴを描いているようで重厚な作品です。もしこれを実写化したら大変なことになるだろうというのが容易に想像できます。また、現実と妄想というものの行き来がアニメーションに向いているということを発見したのは今監督だと云っても過言ではないかもしれません。

―『ブラックスワン』と『パーフェクトブルー』の比較―
 さて、ネットで指摘している方の多くは、『ブラックスワン』を見てから、『パーフェクトブルー』の存在を知ったようです。その点私は『パーフェクトブルー』を先に知っていたのでちょっと誇らしいのですが、それはさておき。
 参考にしたサイトを二つ挙げておきましょう。一つ目はダーレン・アノロフスキー監督と今敏監督との接点を指摘したブログ記事です。映画の類似性が指摘されてから、実際にアノロフスキー監督へその問いが投げかけられたようです。彼は直接的な影響はないと主張していますが、今監督と交流のあったことからも、彼がどう主張していようが、影響はされていると私は思います。
 二つ目に挙げたブログは、二つの作品の類似点を細かく論じたものです。ブログの関係上画像を組み込みにくい私のブログよりもより詳細で素晴らしい考察がされているので、細かい点についてはそちらにゆずることとします。
 そして、最後に『パーフェクトブルー』を鑑賞したさいの私のレビュー記事も載せておきます。もし興味があればそちらも目を通して頂けるとなお理解が深まると思います。

『パーフェクトブルー』の今敏監督と『ブラックスワン』のダーレン・アノロフスキー監督の意外な接点
http://www.tsukaueigo.com/archives/30392179.html

映画感想 * FRAGILE  パーフェクトブルー/「ブラックスワン」との類似と相違
http://fragile.mdma.boo.jp/?eid=1018608

アニメ映画『パーフェクトブルー(PERFECT BLUE)』への試論 感想とレビュー 理想と現実の乖離と、自己同一化の問題
http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-459.html



 二つ目に挙げたブログでも指摘がされていたことですが、果たしてこの作品は「ぱくり」か「オマージュ」かという問題になります。かなりすれすれのラインを歩んでいるので、この映画は様々な問題を引き起こしているようです。私は、影響を受けた側が、オリジナル作品として成立していれば『オマージュ』になるだろうと考えていますが、しかしそれも五十歩百歩。どこからが「ぱくり」でどこから「オマージュ」かなんて結局のところ誰にもわからないし、誰にも決めることはできないのです。
 ただ、著作権だなんだと権利ばかりを主張して、よりよい作品が生まれるのを妨げることは人類全体にとってはよろしくないことだと思います。ですから、巨視的に見れば、できるだけそうした影響関係については寛容的になるべきだろうと私は思います。

―幻想と現実―
 本編について論じると、大抵はどこまでが幻想でどこまでが現実なのかという分析をしたくなります。『パーフェクトブルー』のときでもそうだったのですが、しかし、それはあまり意味のないことなのかなとも思っています。というのは、我々も少なからず幻想を見て生きているからです。誤解を恐れずに言いますと、幻想を抱かない人間はいません。ああなったらいいな、こうなったらいいなという大きな「夢」と呼ばれるようなものから、来週はあれをして、これをして、明日はどんなことをという近未来の予想も、自分の理想の投影を挟んでいます。ですから、幻想という言葉に縛られずに考えると、私たちは数分後は何しようという小さな幻想から、大きな幻想を抱いているということができるのではないでしょうか。
 それもまた五十歩百歩なのだと私は思います。ですから、どこまでが現実でどこからが幻想というのも、五十歩百歩で、明確にここからという線引はできないと感じます。こじつけですが、これは東洋的な文化、あいまいの文化から生まれて来たものなのではないかと最近感じています。『ブラックスワン』はアメリカ映画ですが、日本の『パーフェクトブルー』に影響を受けて制作されています。
東洋的な幻想と現実のあやふやな感じを上手くとらえることができたからこそ、この映画は素晴らしい作品だと言えるのではないでしょうか。
 また、誰がおかしいのか、誰が幻想を見ている、見させているのかということも疑問になります。『ブラックスワン』だけを見ると、全部主人公ニナの妄想だと結論づけられるような気もしますが、『パーフェクトブルー』を比較すると別のことが言えるように思われます。
 『パーフェクトブルー』では、幻想を見ていたのは、主人公であるマミだけではないのです。彼女ひとりの幻想ではなかった。むしろ数人による集団催眠術のようなものが近いのかもしれません。そうすると、『ブラックスワン』は確かに一見すると、全部ニナの妄想だったと言えるかもしれませんが、よくよく疑ってかかると、他の人間の妄想も混ざってきているのではないかと考えられると思います。
 特に精神的に追い込まれた人間たちがこの作品には多数登場します。プリマをかけて争うという非常に抑圧され、閉塞された空間においての競争心というのは、一種の集団ヒステリーを起こすのではないでしょうか(けっして、バレエの世界が悪いなどと断罪しているのではありません。あくまでこの作品においてのことを述べているだけですので、ご理解ください)。かつてプリマだった、ベテランのベス。かつてはバレエダンサーであったものの挫折し、現在では自分のかなえられなかった望みを愛情とまぜこぜにして娘に注ぐ母親のエリカ。特にこの二人の妄念というようなものは極めて強力なもののように感じられます。
 ベスの見舞いにニナが行った際に、突然べスが針で自分のことを刺しはじめるのには大変驚きました。この場面はどうでしょう。べスの見舞いに行ったこと自体が全部妄想なのでしょうか。そうは思いません。どこからが幻想でどこからが現実かは不明ですが、ベスが狂気して自分を刺しはじめるというのは、もしかしたら現実かもしれません。最後にニナがリリーを刺したと思っていたら自分を刺していたという不思議な幻想につながる場面として、自分を刺すという行為、もうひとりの自分を殺すという行為につながる重要な場面だと考えられます。

―終わりに―
 人間が発展し、現在では他の動物に勝利して世界の支配者となれたのには、人類が想像することができたからだという意見があります。人類が他の動物とは異なっている部分、それはいくつもありますが、想像することができるというのは確かに大きいように感じられます。
 人間は想像することができたためにこれまで生きてくることができたということもできますし、発展することができたとも言えます。しかしその反面、自分の理想を想像しすぎるあまり、現在の自分を受け入れることができなくなることもあるのです。想像とは、人間を生かしもするし、殺しもする。諸刃の剣なのだと私は思います。その危険な面を、きちんと捉えることができた、その点にこの映画の核心があるのではないでしょうか。『パーフェクトブルー』にしても同じことが言えますが、ただ怖いだけのホラー映画ならいくらでもあります。お化けが出てきて、ゾンビが出てきて。しかし、それは何か本質を捉えたようには感じられない。ただ怖いといっても、自分の命が危険にさらされるような恐怖でしかない。ところが、この二つの作品は、人間の内面、人間だれもが持つ恐ろしさについて克明に示しているため、意識が揺さぶられてくるような恐ろしさが感じられます。
 ホラーが大丈夫な私でも、この作品だけはかなり揺さぶられました。秋の夜長を愉しむにはあまりにも重い作品かもしれませんが、勇気のある方はどうぞ、おすすめします。

映画『陽だまりの彼女』 感想とレビュー 原作との比較を通じて見えてくるもの・映像表現の美しさ

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―はじめに―
 越谷オサム原作、『陽だまりの彼女』(新潮社)の映画が、先日10月12日公開されました。映画公開が近づくにつれ、私のブログでも、原作を読んだ際のレビューの記事が多く検索されていたようです。
 映画は本当に素晴らしかった。今回の記事では、映画の素晴らしい点や、原作との相違、メディアを超えて見えてくるものなどについて論じたいと思います。(ネタバレ注意)


―陽=日であるということ―
 今回劇場に足を運んで、ああ、素晴らしいと感じたのは、まず光の表現です。『陽だまりの彼女』を読んだ際に、私は郷愁・ノスタルジーを感じました。原作の素晴らしかった点は、この物語が「かつての憧れの人との再会」だったからです。そして、それが現在丁度私たちの社会においても、珍しいことではなくなっているということで、時期を同じくした作品だったからです。作中でも、真緒は浩介のことをウェブ上で検索したということを述べていますが、現在、私たちがかつてのクラスメートと再びつながることが容易になってきています。それは、本名登録が基本であるFacebookなどの影響により、今迄であればどんなに好きでも、中学、高校、大学への進級、あるいは転地によって別れ、その時の思い出は美しいままになっていたはずの関係が、再び連絡手段を取ることが可能になったことによって、昔好きだった人と再び会える可能性が格段にアップしたからです。
 浩介と真緒は25歳。ちょうどそのようなツールを通して再び出会うことができた最初の世代といっていいでしょう。それ以上の年代の方になると、もう他の人と結婚してしまった、などという悲しい知らなくてもよかったことを知ってしまう人が増えてきてしまいます。このようなことから、この物語の主人公たちはちょうど今の20代、30代の世代を中心にとても共感が得られたことだろうと考えられます。また、映画では真緒がいろいろと調べたということができるだけ伏せられて語られていますから、ネットで検索をして、出会いを画策していたという「計画的な女」の像はなくなり、「運命の再会」という極めて普遍的なテーマに変質していたことが多くの観客から感動を誘ったことでしょう。

 タイトルにあるように、「陽だまり」ということがこの作品の重要なポイントになってきます。真緒がなぜ陽だまりが好きなのかということは、真緒が猫なのかもしれないという伏線として本作では挿入されていますが、小説で読んだ際にはどうしても陽の光の表現というものは限定されていたように感じられました。陽の光には様々な言語では表現しきれない幅があり、小説では残念ながらその表現に達せていなかったと私は感じました。今回、私がなによりもこの映画が素晴らしいと感じたのは、まさしくこの光の表現です。
 もう、光の表現だけを見るための映画と言ってもいいくらい、極めて洗練された光の映像美がこれでもかというくらい上映されます。これはあたりが真っ暗ななか、迫力のあるスクリーンで見るからこそ意味があると私は感じました。
 私たちの網膜は一般的に、生まれてから歳を取ればとるほど、光を見続ければ見続けるほど衰退して、実際に子供のころのほうが、青みがかったように、色鮮やかに物事を見ていたということが言われます。ノスタルジー・郷愁が作品全体を覆っているなか、その雰囲気を光だけで見事に描きだした技術は、日本映画史に残っても良いくらいだと思います。大抵の恋愛映画や、御涙ちょうだいの映画は、オルゴールなどのありきたりな哀しみを誘うような音楽やメロディーなどを使用しますが、この作品は光の表現だけでそれをやってのけたのです。そのことから、この作品は光の表現を観に行くだけでも十分に足を運ぶ価値のある映画だと言えるでしょう。

―構図と広告―
 光の表現のほかに私が驚嘆したのは、映像の構図の絶妙さです。ここ近年、映画業界は不況のあおりから、小説を原作とした作品(小説である程度人気が出た作品を映像化することによって、観客を動員しようということ)をただ映像化するということに終始するだけでした。そして、それは大抵原作を越えることができない、駄作に過ぎない作品の連発に繋がっていました。
 私もこの作品がまた小説を原作にした作品の一つに過ぎない、すぐに埋もれてしまう作品になるのかなと心配していたのですが、この作品はある点において原作をはるかに越えた真に優秀な作品に仕上がっています。
というのは、メディアの違いを十分に捉え、メディアの良し悪しをきちんと利用していたからだと私は感じました。小説と映像というメディアの違いは、そこに圧倒的な隔たりがあることは、少し考えれば誰にでもわかることだと思います。小説は、例えば登場人物の心理描写などが得意です。映像では登場人物が何を考えているのか、独白でもないかぎりいくら頑張っても伝わりません。その反面、いくら小説で描写を重ねても、ひかりの表現などをするのには限界がある。それを映像はずばっと艶やかに見せてくれるのです。
 この作品、とくに前半に目覚ましかったのは、構図の素晴らしさです。この作品では「広告」が前半のテーマになります。広告を通じて主人公と真緒が出会うからです。小説では、そこまで難しく考えずに広告の話ができましたが、映像となると適当に済ませるわけにはいきません。やはり全国ロードショーをする映画ですから、前半の二人の関係を結びつける重要な媒体である広告が適当だと、二人の関係も適当になってしまいます。この作品からは、広告に対する異様な執着を感じられることができると思います。恐らく監督がそちらの分野にもともと詳しかったのか、あるいは相当強力なアドバイザーを何人かかかえていたのではないかと私は感じました。特に映画前半は、どこのどのシーンをカットしても、たちまち絵になる。壁紙にしたくなるような見事な構図です。これは、広告に相当詳しく、美術的な構図を熟知した人間がいなければ決してできないことだったろうと思います。
今回の映画の見どころは、一つは光の表現、もう一つは画面の構図という事ができるでしょう。
公式ホームページからは、ごく一部ですが映画の舞台となった場所の素敵な写真がダウンロードできるようになっています。ページの一番下にあります。

公式ホームページ
http://www.hidamari-movie.com/

―原作との違い。メディアを越える代償―
 ここまでべた褒めに褒めてきたのですが、それでもひとつ、今迄様々な作品を評論してきた私としては、作品を愛するがゆえに一つだけ指摘しておきたいことがあります。それは、原作にはない、真緒が部屋から出て行ってからの部分です。時間で言うとどのくらいでしたでしょうか。時計を見ながら見ていたわけではないので、正確なことは言えませんが、ラスト10分から20分は、私は敢えてなかった方がよかったのではないかと考えています。
原作では、真緒は最後まで猫であるのかどうかわかりません。最終的には猫であるとも、猫でないとも解釈できるように、空白が作られているのです。その点に関しては、私は実は猫ではないのではないかという可能性を以前指摘しました。
越谷オサム『陽だまりの彼女』試論 感想とレビュー 真緒は本当に猫なのか、擬人化とリアリズム
http://hennkutubunnkazinn.blog.fc2.com/blog-entry-437.html

 もちろん真緒は猫であるとイコールで結ぶ読み方が一般的であることは重々承知していますが、可能性の話をすれば、猫でない可能性もあり得るように越谷オサムは書いているのです。
 小説を読む読者となると、一般的に小説を読まない人間に比べれば、小説慣れしていますし、想像力や論理力も普通に考えれば高いでしょう。となると、小説はある程度テクストに余白を残しても、読者が補ってくれるということを頼りにすることができるのです。すなわち、敢えて余白を残すことによって、読者に自由に解釈してもらおうと、比較的自由に作者は作品を終わらせることができます。
 しかし、普段から小説を読まない人間も見る映画でこれをやるとどうなるでしょうか。おそらくは村上春樹の処女作『風の歌を聴け』が、物語がない、何を言いたいのかわからない、といったように批判されたことと同じことになることでしょう。原作では猫ではないかもしれないという可能性があるまま、あるいは真緒は本当に猫なのだろうかと疑える余地のあるまま終わっていました。しかし、それを映画でやってしまうと、尻切れトンボのようになって、観終わった際に観客が、え、どうなったの、真緒は猫だったの、猫じゃないの?と路頭に迷ってしまうことになります。
 原作から入った私には、やはり映画のラストも真緒が家から飛び出して帰ってこないというある意味謎めいた終わり方をしたほうが区切れがいいと思っていたのですが、映画では監督の解釈が入った、原作にはない場面がしばらく展開されます。そこでは、飛び出した真緒と再会して、お互いが正体をわかったうえで、最後の時を過ごすという場面が続きます。そうすると、やはり真緒は猫であったのだという解釈しかできないようになってしまうので、観客としてはそうか、真緒は猫だったのかと納得するわけです。
 しかも原作では、その後真緒と再び会えるのかどうかも謎のままであったのに対して、映画では、再び主人公のまえに真緒が現れるという極めてご都合主義なエンディングになっています。音楽という観点からみても、ビーチボーイズの『素敵じゃないか』で終わらせればいいものを、最後の別れの時間にその曲を使用してしまったがために、仕方なしに山下達郎の『光の君へのレクイエム』を入れたという感じがする(もちろん達郎の曲は最高でしたが)。ラストがどうしても間延びしてしまったと私には感じられました。

 もう一つ最後にダメ出しをするとしたら、配役について。私が個人的に上野樹里が好きだということが多分に客観的な評価を狂わせている可能性が十分にあるのですが、しかし、真緒を演じた上野樹里は本当に最高でした。私がこれだけ手放しで評価することはまずないのですが、これは本当によかった。上野樹里にも得意不得意がありますから、大河ドラマの『江』などは惨々たるものでしたが、この作品においては彼女の良い部分が遺憾なく発揮されています。先ほどこの映画は光と構図を見るための映画だと言いましたが、上野樹里の魅力を観に行くだけでもいい。むしろ上野樹里のためだけにあと数回は劇場に行ける作品です。
 ただ、この作品が原作では、「男子に読んでほしい作品」というキャッチコピーで売られていたのにはあるわけがあります。それは、主人公がオタクで、格好悪くて全然持てない男性だという点です。そうです、この作品は『美女と野獣』あるいは、『電車男』のようにモテない男性が、何故かわからないが、逆シンデレラ的に何の苦労もせず、特別な才能も持ち合わせないのに素敵な女性と一緒になるお話だったのです。だから、モテない男性の一人である私としては、恰好良いジャニーズの俳優に奥田を演じてもらいたくなかったというのはあります。しかし、映画は男女ともにみるもの。いくら美女と野獣だからといって、本当に上野樹里の相手をどうしようもないような俳優にやらせたら商業的に成り立ちません。それに、男性が見る分にはいいかもしれませんが、女性が2時間という長時間、格好良くもない俳優を見続けるには厳しいものがあります。そうした事情から、モテないはずの奥田が松潤という、どう考えてもモテる配役だったのには、甘んじて溜飲を下げましょう。

―終わりに―
 しかし、この映画が私のなかで今年度邦画トップ3に入る出来栄えであることに変わりはありません。小説と映画というメディアの差異を乗り越えて、それぞれの得意な点を存分に活用した素晴らしい作品になったと思っています。
 曇りの土曜日に映画館に足を運んだのですが(通常天気の悪い土曜日はものすごく映画が込みます)、劇場がけっこう空いていて驚きました。チケットも予約していなかったので、取れないかなとも思ったのですが、びっくりです。是非素敵な作品なので、大切な人と一緒に行くことをお勧めします。

雑記 学級新聞(仮)へのお誘い

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いよいよ夜になると涼しさが増してきて、秋が深まってきたなという感じがしますね。
 みなさんはどのようにお過ごしでしょうか。台風がいくつもまだ来るようなので、油断はしていませんが、過ごしやすい日々が続いています。ただ、夜などは時に寒く、夜中に体や喉を悪くしてしまうこともありますから、窓は締めて寝ないといけませんね。

 秋と言えば、なんでしょう。私の場合は一年中読書ですから、更に読書の秋になりますかね。最近では、夏休みの感覚が抜けないのか、まだあまり学校に行きたくなくて、天気も多分にいいものですから、公園めぐりにはまっています。砧公園や、新宿御苑など、広くて大きくて、人が誰もいないような公園に行ってみました。どちらもとても良い公園でした。私の専門は文學なのですが、文学における都市論というようなものもほんの少し考えたりしています。私は生まれも育ちも都かいですが、ないものねだりなのか、自然に囲まれた場所に行きたいなという気持ちがここ最近ずっと強まっています。独立したら、恐らく都会から離れることでしょう。私のように神経過敏な人間にとって、この東京というあまりにも大きい、人間鮨詰め社会は息苦しいのです。のびのびと穏やかに、静かに過ごしたいな、というような思いから、学校をさぼって公園めぐりなんかをしています。
 午前中に誰もいない公園で、一人なにをするでもなくぶらぶらとしている時間というものは、本当に贅沢なものです。砧公園もよかったのですが、新宿御苑もかなりよかった。もう、年間パスを買ってしまおうと決心してしまったくらいです。砧は無料なのですが、新宿御苑は、大人200円になります。ちなみに年間パスは2000円。新宿御苑の素晴らしいところは、フランス庭園、イギリス庭園、日本庭園と、みっつの庭園に似せた広大な自然が広がっていること。公園の周りを木々で囲まれているので、新宿の真ん中にありながら、交通の音は一切入ってきません。特にイギリス庭園の芝生は見事に整備されていて、先日行ったときには思わず、誰もまわりにいなかったので荷物を放り投げて、そのまま寝そべってしまいました。
 少し文学、文芸と絡めて新宿御苑の話をしますと、世界でも読まれている川端康成の『山の音』にこの御苑が登場します。私個人的にはノーベル賞受賞のきっかけになったのはこの本の影響ではないかと考えているのですが、この本では、新宿御苑で主人公尾形信吾とその息子の嫁菊子が密会に似た会合をする場面があります。それから、これはまた詳しくは別の記事にしようと思っているのですが、アニメーション映画、新海誠監督の『言の葉の庭』(2013公開)でも、この御苑が舞台となっているのです。ただ、これだけ文芸において触れられているのに、お金を取るためか人がほとんどいない。こんな贅沢はありません。


 さて、今回はもっと私の近況をお話してもいいのですが、他にみなさんに紹介したいことがあります。それは、以前にも紹介しましたが、学級新聞(仮)http://slapstick777.blog.fc2.com/というサイトについて。
 FC2ブログの仲間でやっているのですが、様々なブロガー(ブログを行っていない方でも可)から月に一つ、記事を募集してそれを月一で更新しているというものです。ウェブ上における学級新聞といったところでしょうか。まだまだ参加人数が少ないのですが、この試みは面白いものがあると私は考えています。
 今回は私の『風立ちぬ』の評論の二回目が掲載されています。また、リレー小説といって、他の執筆者さんが勝手に後を付け足していくという連載小説も行っており、今回は私の番だったので私が書いた小説も掲載されています。次回が最終回となるようで、それは編集者である津島さんが執筆なされるようですが、これもなかなか面白い企画だと思います。
 秋の夜長に楽しむことはいくつあってもいいものでしょう。今回は私から、連載小説を皆さんの夜のお供にお送りさせていただきます。



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