泉鏡花『婦系図』再論 感想とレビュー 鏡花の大衆性、原作と演劇を通じて

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―はじめに―
 大学に入りたてのころに、せっかく国文科というところに入ったのだから、恥ずかしくないように近現代文学において重要な作品をとりあえず片っ端から読んでいこうと思っていた時期がありました。もちろん、今でも重要な作品を読み進めています。その当時、読んでみて、漱石の作品を初めて読んだ時のように感動した作品がありました。感動というと少し異なりますが、あっと驚かされたような感覚です。それは、泉鏡花の『婦系図』。
 恐ろしいことに、専門であるはずの国文学科の生徒たちでさえ、泉鏡花の名前を聞いて「女かな?」と思っている人間が居ます(もう、私恥ずかしくて世間に顔向けができません)。男ですよ。画像検索をしてみてください。細面のおじさんが出てくることでしょう。
 なかなか、活字離れをした上に、タブレットに毒されてしまった現代には、その名さえも知らない人間が多くなってきてしまったようです。残念なことです。

-鏡花の大衆性-
 国文科において、ある作家がどのくらい文学的かといったことを調べる際の指標があります。これは私の個人的な調べかたですが。その作家についての論文を調べて見ればいいのです。文学的な作品(すなわち、テクストに余白があって、解釈にはばがある)であればあるほど、論文の数が多くなるわけです。そのような視点で鏡花を見てみると、他の作家と比べて大分少ないと感じます。私は今の感覚で読んだら随分文学的だなと感じるのですが、研究史を見てみると、あまり重要視されていないのが現実のようです。他にも、有島武郎などもあまり論じられてはいません。論文数が圧倒的に他の作家、例えば漱石や太宰などとは異なるのです。
 文学研究者が研究を避ける作品とはどのような作品でしょうか。それは、一義的な作品です。すなわち、解釈の幅が狭い作品になります。その点では確かに、泉鏡花の作品はどれも、読んでいて面白いのですが、多義的な解釈はあまりできそうにありません。現代に話を置き換えると、東野圭吾などは確かに読んでいて面白いことには面白いですが、あれを文学的に研究しろと言われても困るわけです。彼が書いた作品はどれも面白いですが、しかし、解釈の幅はありません。いわゆる大衆作品というものは、ある程度平易で、誰が読んでも同じ読みができるから売れるわけです。え?どういう意味だったの?と思われるような作品は、研究には向いていますが、大衆には向いていません。
 このような視点で考えれば、泉鏡花は紛れもなく大衆作家だったという事が出来るでしょう。彼の作品は、ある意味古典的な作品です。当時の古典的ですから、江戸時代から培ってきた、歌舞伎的な構図が小説に取り込まれているのです。義理と人情の物語であったり、独逸文学者、早瀬主税が実は掏摸(すり)、といった図式は歌舞伎によくあるパターンです。他にも、物語の展開の仕方、つまり最後の最後に一番のやまを持ってくるといったやり方も、歌舞伎の踏襲です。『婦系図』が書かれたのは、1907年のことでしたから、当時の人々はまだ、前近代的な、江戸時代の気風を多少は引きずっていた事でしょう。鏡花の作品は、めくるめく西洋化のなかにおいて、消えかかろうとしている古き良きものを体現した作品のように、当時の人々の目には映っていたのではないでしょうか。

-原作と演劇と比較して-
 『婦系図』と言えば、泉鏡花と、私の場合は出てくるのですが、世代によっては他のものが出てくることだと思います。今の70代、80代の方に聞くと、『婦系図』というと、「泉鏡花」より早くに、「湯島の白梅」「早瀬主税とお蔦」といった単語の方がでてくるのではないでしょうか。祖父に『婦系図』の話をした際には、後者のほうが出てきました。
 泉鏡花の作品は先ほど述べたように、江戸歌舞伎的な構図を踏襲していました。ということは、反対から見れば、歌舞伎などの演劇に向いているということです。もちろん、小説と演劇では全くメディア媒体が異なりますから、かなり手を加えないとメディアの壁というものはなかなか越えられません。小説のそのままの姿で演劇にしたら、恐らく相当つまらないものができることでしょう。この作品もいくら大衆向けと言えど、そのまま演劇にするわけにはいきません。
 『婦系図』は、原作よりもどちらかというとそれを題材にして制作された演劇の方が有名になりました。ちなみに、演劇史上においても、『婦系図』は重要な作品になるようで、この作品を上演したのが「新派劇」という演劇の一派だということが重要になるようです。新潮文庫『婦系図』の解説では、四方田犬彦先生が「湯島の白梅」の場面を例にとり、原作と演劇の違いを説明しています。少し御歳を召した方であれば知っている、「月は晴れても心は暗黒(やみ)だ」や「切れろ別れろのツって、そんな事は芸者の時に云ふものよ。・・・私にや死ねと云つてください」などのセリフは、実は原作にはありません。そもそも、原作と演劇を一度でも見たことがある人間はよくわかると思いますが、なんとあの有名な「湯島の白梅」の場面も、原作にはないのです。
 ですから、現在多くの人が知っている「湯島の白梅」や、先のセリフなどは、原作には登場しません。このことからも、原作と演劇との違いがいかに大きいかがわかると思います。ところが、演劇のために付け加えられた場面が、あまりにも観客の感動を誘ったためか、その後独り歩きを始め、『婦系図』といったら、「湯島の白梅」というようになってしまいました。
 原作はこのようにして、演劇によって作り出された「湯島の白梅」図に飲み込まれる形になってしまい、演劇の陰に隠れてしまいました。ただ、原作も今では読まれなくなりましたが、演劇が独り歩きする以前は大ヒットをしたようです。そして、原作と演劇とを比べてみると、果たしてこれが同じ作品なのかと思われるほど、両者は異なった様相を見せます。

 原作はどのような作品なのかというと、主人公主税(こう書いてチカラと読みます)と、芸者お蔦の恋愛話はあまりありません。主税とお蔦のお話は前半で終わってしまい、その後お蔦は、後篇の最後の部分に、お蔦の死の場面が少し挟まれるだけです。それに対して、演劇は、主税とお蔦の悲恋物語がメインになるのです。
 原作は恋愛物語という気配は全然なく、むしろ社会派小説と呼ばれるように、ブルジョワ一家への復讐劇がメインになっています。主人公早瀬主税は、今では有名なドイツ語学者の酒井先生の自宅で育てられ、立派な学者になっていますが、元はと言えば「隼の力」と言われた身元不明の掏摸(すり)です。主税は、そのような出自からか、芸者であるお蔦を内縁の妻に迎え、真砂町で下女と三人で暮らしています。ですが、芸者というのは、当時は現在よりももっと低い地位の人間と考えられていたので、学者である主税が芸者と一緒になるというのは、とても社会的に認められることではありませんでした。そして何よりも、ここまで育てた酒井先生にとってはそれがゆるせなかったのです。この構図を演劇では大きく取り上げて、作品のメインにしています。主人公早瀬主税は、育ててもらった上に、学までつけてくれた先生に対する義理があります。しかし、その義理を貫けば、お蔦との間を切らなければなりません。こちらが人情です。この義理と人情の物語を演劇はメインにしたのです。
 酒井俊蔵には、妙子という娘が居ます。主税は小さいころから酒井家で育っているので、妙子とは一緒に育った兄弟のような関係です。この妙子に、主税の友人の文学士河野英吉がお見合いを申し込みます。主税は妙子と一緒に育ってきたようなものだから、主税に口を添えて貰おうという魂胆です。ところが、その話をしているうちに、主税は河野家の思考に腹が立ち、友人であったはずの英吉とは縁を切ってしまいます。何故怒ったのか、といった部分は、鏡花の上手いところでほとんどが、できるだけ後の方に後の方に回されて語られていきます。すぐには答えを教えないのです。ここでは結論を先取りしておきますが、主税は、およそ「家族主義」といったものに対して怒ったのです。英吉の結婚に対する態度、すなわち、全部親があれこれ言って、それに従っているだけというのも気に食わなかったのでしょう。しかし、それ以上に、河野家、河野英臣(英吉の父)の思想が気に食わなかったようです。その核心部分は、作品の最終部分、復讐劇の場面に主税の口から直接語られます。自分の娘を使って、婿を選び、家を繁栄させていくことだけに目のくらんだ思考はいかんというのです。
 原作では恐ろしいことに、主税の復讐劇は約一年に及ぶ長期のものです。あることから、主税が掏摸の手伝いをしたということがバレて、彼は東京に居られなくなり、静岡に引っこみます。この静岡というのが、実は河野家の実家がある場所で、実家にいた河野家の長女菅子夫人や、これから結婚する道子と不倫をするのです。敵を倒すには内側から入り込んでやるという、徹底した暗黒さ。主人公早瀬主税は、確かに一面では江戸っ子で恰好いい面がありますが、よくよく行っていることを考えると、実に恐ろしい人物です。これを、四方田先生は開設でエミリー・ブロンテの『嵐が丘』に登場する、ヒース・クリフ的な人物だと評しています。私もなるほど、言い当て妙だと思いました。
 菅子は、弟の英吉のために、主税を色仕掛けで落として、妙子との結婚をよしと言わせようとします。主税はそれを逆手にとって、不倫をするのです。道子は、実は英臣の子ではないのです。彼女の母が、英臣のいない間に馬丁貞造と作った子供なのです。それを利用して、この貞造が死にそうだということで、主税は道子を連れ出します。


-欠陥だらけの最後-
 この作品には、大分欠陥があるのですが、何と言ってもその最たるものは、実は道子の父親が貞造だという確証は取れなかったと、主税が遺言状に書いてある部分です。他にも、菅子の夫である、鳥山という男が毒を盛ったというのも嘘であったなどということを言い始めるのですから、それでは河野家はこんなことをしたから復讐しているのだという主税の動機そのものが壊れてしまいます。最後の24行は、作者である鏡花も、連載には書かなかったり、単行本にしたときには付け足したり、全集に入れるさいにはまた削ったりと、右往左往しています。これは、河野家のモデルとなった家族に対する作者なりの気使いだったようですが、しかし、そんなことをされては読者も振り回されます。
 他にも、解説で吉田氏が指摘しているように、この作品はすべてが最後の復讐劇、頁数で言えば14、5頁ぶんのための伏線であると言えます。すべて前置きと言えば前置きなのです。だから、とても長い。一体いつメインとなるストーリーが動き出すのかと、読者は苛立たせられます。
 また、いくら河野家の思想が気に障ったからといって、いくらなんでもここまでやるのかという感覚もあります。最後には、殆どの人間が死んでしまうという、あまりにも凄惨な状況が展開し、おもわず目を瞑らなければならないくらいです。演劇では、お蔦の臨終に何とか主税が間に合うという感動的な場面がありますが、原作では、そもそも臨終と聞いても東京へ戻る意思も示しません。最後は、主税も毒を飲んで死に、英吉宛てのめちゃくちゃな遺書を残すという、あまりにも欠陥の多い部分となっています。

 かなり無茶な部分がありますが、しかしそれが読者の目に余るからといって、読者を白けさせるかと言えばそうではありません。当時は大ヒットし、すぐに演劇になって上演されはじめたのですから、人々に喜んで受け入れられたということがうかがえます。また、現在読んでも面白いことに変わりはありません。
 鏡花の作品は文体が非常に美しく、このような文体は他の作品には見られません。ルビの振り方ひとつ見ても、日本文学史において最高の感性の持ち主ではないかと私は感じています。他にも彼の文体は非常に印象的で、繊細で、縮緬(ちりめん)模様を見ているかのような感覚に陥ります。
 それから蛇足ですが、夏休みに文学散歩に行ってきました。その記事はすでに載せてあります。その際にせっかくだからと、湯島天神に行ってきました。原作にはありませんが、演劇で有名になった「湯島の白梅」の場面です。湯島の白梅も見ましたが、夏ですから、当然緑でした。鏡花の筆塚と、新派と彫られた石碑が建てられていました。なるほど、これが舞台となった場所かと思うと、なかなか感慨深いものがあります。現在では周囲を背の高い建物が囲ってしまっていますが、おそらく当時は、不忍池も見られたでしょう。

藤本宗利『感性のきらめき 清少納言』を読んで

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―はじめに―
 私は昔からものごとを暗記することが苦手で、そのため歴史は聞いていること自体は好きなのだが、どうにも覚えることができないという状態が続いていた。もちろんそれは、古典作品にも当てはまることである。どの作品が誰によって書かれたのかということもあやしい。とりわけ古典の授業でも繰り返して聞かされた、中宮定子と彰子、清少納言と紫式部、道隆と道長など、何が何やらさっぱりであった。ことあるごとに、その時だけは覚えるのであるが、しばらくするとすべて水に流れてしまうのが常であった。
 ところが、この本を読んで私の頭の中には一つの物語が出来上がった。それまでバラバラだった知識のかけらがまとまって、一筋の筋道たった物語に変化したのである。この本を読んでいた時間、私は得も言われぬ知的刺激に一種、悦楽を感じた。どうしても、学校の授業中、先生が説明してくれるのを聞いているだけでは実感として頭の中に入ってこない。それもそのはずだ。実際に生きた人間を、ものの数十分で簡単に解説してしまうのだから、どこか自分とは異世界のモノ、コトだとしか感じられない。それはただの「暗記すべき知識」であって、実際に生きた人間という感覚はわかないのである。
 だがこの本は、独特の文体でゆっくりと、清少納言という実際に千年前に生きた人間を浮かび上がらせてくれた。少々遠回りと思われるくらい、清少納言がいかにして生まれたのか、その流れをつくってみせたのである。


 ―初めての平安文学―
 私の専門は近現代の文学なので、普段は古典と接する機会が少ない。けれども、せっかく国文科にいるのだから、源氏物語や枕草子くらい、基本的なことを知っておきたいと思って講義を取り始めたのである。私も三年生になってようやく様々な論文や、論文集というものが読めるようになってきた。だが、それらはいずれも近現代の文学に関したものだけだったので、平安文学について論じた本はほぼ初めての体験と言える。近現代の文学であれば、最近では記号論的な読み方から、対象となる作品だけを論じたテクスト論を展開したものになる。少し古い論文や評論などになると、作家論的な視座もまだ残っている。
 果たして古典作品を論じる際にはどのようにそれを描くのか、まさかテクスト論を流石に古典作品にまで応用するわけでもなし。歴史的な事実だけをただ述べたものなのかなと思い、多少気が進まない気持ちもあったが、この本を手に取ってみた。
 最初は予想した通り、清少納言がどこの家系の人間で、どんなことをした人かといった歴史的な事実が書かれてあった。父親である清原元輔の話が大分長くあり、やはり読み物として面白くないものを引いてしまったかと思った。ところが、である。これは清少納言を理解するうえで必要な前置きだったのだ。しばらくは全く何の知識もない部分について語られているので、読みにくい。なんとなく、元輔という人物がどういう人物で、清少納言に対して大分おおらかに教育したのだなといった感じにしかとらえていなかった。
 だがそれが重要なのだ。当時は現在とは異なって、みんなが共通して通う学校のようなものはない。すなわち、その人間の知性、知識、ものの見方、価値観と言ったものは、すべて家庭教育によって培われ、養われるものなのである。このような当然と言えば当然であるが、しかし知識として理解しているのではなくて、実感として理解できていないことを、読んでいるうちにはっと悟ることができた。元輔の話の後も、定子の親である道隆、その道隆の親である兼家の話が続く。なんだかよく判らないなと思いながら読み進めていくうちに、ふと、中宮定子のサロンの話になった際に、今迄の話が全て意味のある、脈々とつながっていた話であったのかということに気が付いた。
 もちろん、いくら親子と言えど、他人は他人である。子が親のコピーになるわけではない。だが、中宮定子のサロンの話になった時に、そのサロンには紛れもなく元輔や、道隆、定子の母である貴子などの姿が目に浮かんだのである。
 この方面の本は初めてなので、他の古典を論じた本がこのような描き方であるかは私には判断できないのだが、おそらくこの本の半分小説のような描き方は珍しいのだろう。私が何よりも驚いたのは、真面目で堅苦しい論文だろうと思っていたら、予想外にも小説風に書き上げられていた部分である。流石に教養溢れ、風雅、風靡さを追求した清少納言の研究者なだけのことはある。藤本先生の文章は、最近の作家の軽薄なそれとは違い、多少硬い部分もあるが日本の「和」や「雅」といった印象を彷彿される表情ゆたかな文章であった。要所要所、史実からは確認しきれない部分については、論理的であるが非常に鋭い人間観察力の上に成り立った推論を小説調に物語っている。そのため、古典作品を現代語訳で読んでいるような感覚で、清少納言について学ぶことができた。半分は論文、半分は小説といったとても贅沢な本だと感じた。


 ―受け継がれる思い―
 さて、定子サロンの様子を覗く段となって、そこに元輔や、道隆、貴子などの姿が浮かんできたとはどのような意味なのか、もう少し詳しく説明したい。本書は清少納言並びに定子がどのような環境で育ってきて、どのような教育を受けたのかということが一章で語られた。その際、元輔や道隆、貴子の育ちから語られている。
 元輔は歌詠みとして有名な人物であったが、任官には恵まれず、一家を支えて行かなければならないため現在でもそうであるが、当時としては超高齢にしてまで仕事を求めている。齢79にして肥後の国主に任じられたりと大変なことである。結局この肥後の地で没することとなるが、天下の歌人元輔もその人生は決して幸せと言えたものではなかったであろう。しかし、元輔の歌風はどこかおおらかなものが漂う。本書では幾つか元輔の歌が引用されている。
 「桜花そこなる影ぞ惜しまるる沈める人の春かと思へば」
 受領の任をいつも逃していた元輔にとっては、一家を養わなければならないしなかなか大変なことだったろうと思う。だが、それでも彼の歌にはどこか一種の諦観というか、涼しげな部分がある。普通仕事をもらえないとなると、今の時代でもそうであるが、人間は非常に屈折したものになってきてしまう。現代の就活でもそうだが、なかなか内定が決まらないと心が荒んできてしまうものである。だが、人生を通して任官に恵まれなかった元輔は、いわば一生就活をしているようなものであるが、どことなく雅さというものを失わない人間としての豊かさのようなものを感じる。本書では、元輔は実は道化の仮面を被っていた、食わせ物だったのだろうと評している。
 推論ではあるが、本書ではそんな元輔が清少納言にどのような教育をしたのかということも考察されていた。これは非常に面白い部分だった。元輔は歌詠みとしては感覚派の人間だったとこの本では述べられている。現代で言えば、小説の書き方が枠組みをしっかりと立ててから書く「プロット派」か、そのまま勢いに任せて書く「ライブ派」かといったところだろう。私たちは和歌を詠むというのが実際にはどのような行為だったのかということを本質的には判りえないが、しかしあれだけ洗練されていたものを作り上げるのだから、即興の場合も勿論あるにはあるだろうが、何度も何度も添削を繰り返し捏ね繰り回して作るといった作り方の方が一般的だったのではないかと思う。この「プロット派」「ライブ派」という二項対比は、同じ人間に同時に存在するものであるから、本来はこういう分け方をあまりしない方が良いかもしれない。だが、判りやすく考えると元輔は典型的な「ライブ派」だったようである。すなわち感覚的に歌う歌詠みということだ。その気風は見事に清少納言にも伝えられているとこの本には書いてある。
 さらに元輔はそのような感覚的な人間であったから、思考も比較的柔軟だったという。自分の子女をどう教育するかという点では女は自分の立身出世の道具という大きなイデオロギーからは逃れられていないものの、体系的にあれを学べ、これを学べと強制するのではなくて、清少納言に好きなように本を読ませたという。当時としては珍しい、男性特権であった漢籍も学ばせたというのだから、元輔は大分奇抜な思考の持ち主だったと本書では述べられている。
 本書でも指摘されているが、見方によっては自分の自慢話と、定子様を褒め称えるだけの本である『枕草子』がそれでもなお、読み物として耐えるどころが、とても美しい物語になっているのには、自然のおおらかさがその根底に流れているだろうということである。通常この類の物語を人間が書けば、とても人が読めたものではなくなるだろう。しかし、枕草子はいつ誰が読んでも美しい物語として読めるのには、どこかに自慢話や定子様の素晴らしさの表象を和らげる効果があるはずである。それを本書では清少納言が幼少のころ都から離れて自然のなかで暮らしていたことが原因だろうとしている。自然のなかで培った感性の豊かさが、都的なものの中で発揮されたために、文章に穏やかさがあらわれることになったのであろう。もしこれが都会育ちで自然に触れていない人間が書いたならば、ただの自慢話だけに終始してしまったことであろうし、またものの見方もより人間至上主義で、ぎすぎすしたものになったろう。
 『枕草子』人間の醜い部分をも断罪しないと、著者は指摘している。「勢いの盛んな時には追従しに集まって来る世間の人も、いったん時流から取り残されるとすぐに見限って離れていくものだ。まるで沈没しかけた船から、鼠が逃げ出すようなもの。それを情無しの、恩知らずと糾弾するつもりなど、作者にはあるわけもない。同じ立場になれば、自分だってそうしかねない。そもそも人情の軽佻浮薄は、世の習いである。声を荒げて、他人の薄情を責めることなど、いったいいくばくの人にできるというのだろう」(74)。本書はこれを、元輔から受け継いだ資質、寛濶さであると指摘している。私はそれに加えて、やはり自然に囲まれた中で育った影響もあると考える。先の震災で、海外レポーターが日本をどのように放送しているのかという記事で面白いものがあった。そのレポーターの言う、日本人は一種の諦観を持っているが、これだけの震災があって、家も家族も流されてしまったのに決してくじけないと。なぜなら、我々は自然を如何にコントロールするかという文化を育ててきたが、日本人は自然と共生する文化を育てて来たというのである。だから、自然の力の大きさを知っている、というのである。もちろんこの二分法をそのままどこにあてがってもよいというものではないが、しかしこの件に関してはこう考えることができるのではないだろうか。都会は、やはりここでいう西洋的な、自然をコントロールしようとする文化である。日本はそれでも自然と共生しようという心意気が強かったように思われるが。それに対して自然のなかで生きるということはどうしても自然と共生せざるを得ない。
 このレポートを書いている時分にたまたま、物凄い大きな台風がやってきて、日本はまた自然の驚異を感じずにはいられなかった。今ではそれでも建物がしっかりとしているから、家のなかに入ればすぐに死がやってくるという心配はない。ところが昔の家は、それほど頑強でもないだろうから、嵐だなんだで大変なことだったろう。自然は強い。人間の力など自然の前ではとんと役に立たない。そうした自然観を清少納言は幼少のころに培っていたのではないかと私は思う。『枕草子』は『源氏物語』と比較される。『源氏物語』は確かに一大物語で、日本において、いや世界においても最も優れた文学の一つと言えよう。そこには、長大な人間のドラマが描かれている。しかし、これはやはり人間の視点で終始しているように思われる。そこに描かれるのは人間と人間の交流である。もちろん人間を描いているのであるから、運命や宿命というものを描かれるが、しかしその運命や宿命というものを観る際の視点は人間からの視点である。人間の視点で運命や宿命というものを観ると、どうしても悲愴さのようなものが出てくると感じる。運命や宿命に翻弄される人間という構図になるのだ。ところが、『枕草子』は同じ、運命や宿命を描いても描き方が異なる。残念なことに定子サロンは最終的には彰子サロンに破れ、歴史から消えてしまうことになった。『枕草子』はその後に書かれたものであるから、作者はすでに消えてしまったことを知っているのである。とすると、通常ならば、彰子サロンに関係する人間を恨むことを書きたくなるのが人間というものだろう。ところが、そうではない。失われてしまったものは失われてしまったもの。決して蘇らない。それを理解したうえで、しかしそのまま誰の目にも触れずに消えてしまうのはあまりにも悲しいので、こんなことがあったのですよという気持ちで描かれているような気がする。そこには、運命や宿命に翻弄された人間の、如何にして運命や宿命に逆らったかということではない。すでに破れてしまった人間がかつてどんなだったのかということを、何かと残しておきたいという気持ちなのだ。抗いではなく、すべてを受けいれてから出発している点に大きな違いがあると私は感じる。
 また定子にしても、彼女が産まれたのはある意味必然的であったと感じられる。道隆は父兼家、弟道長、という稀代の政治家に囲まれて育った。兎に角力が第一である。他人を見たら蹴落とせと教え込まれてきたことであろう。そのくらいのことをしなければ天下は取れないという雰囲気のなかにあったろう。父の意向を弟道長は請け負ったが、そのような父と弟を見ていて、道隆は次第と力が全てなのだろうかと思ったことだろう。もちろん、道隆も結局は関白になっているし、政治的な活動を全くしなかったわけでもない。本当に嫌気がさしたならば出家することもできたはずである。だが、それをしなかったというところを見ると、政治的にはある程度かかわっていても、そのなかで雅さというものを忘れないというのが彼の生き方だったように思われる。本書では、道隆が高階成忠の娘である貴子を妻にしたのには家柄という面で少し不思議なことであるとしている。貴子を選んだ最大の理由は、彼女の漢籍の知識教養だったろうと作者は語っている。道隆は「娘であれば、そうしてしれが敏い生まれつきであれば、幼少から英才教育に心がけるのだ。文字に楽器演奏に和歌という具合に、一通りのたしなみを身に付けさせたうえで、母親仕込みの本格的漢才が加われば言うことなし。そんな娘を入内させれば、帝を魅了し、寵を専らにすることは疑いない」(114)とこう考えたろうと言うのだ。
 父や弟が力に任せて思うままにしようとする力一点張りの人間だったのに対し、道隆はそのがつがつした感じを嫌い、雅やかに、エレガントに物事を済ませたいと考えたのだろう。その目論見は見事成功する。一条帝もまた、力を求める叔父道長や母栓子に囲まれて辟易していたことであろう。そんななか、唯一風流人である叔父道隆と、その娘定子の存在は砂漠のなかのオアシスに見えたのかも知れない。


 ―定子サロンと彰子サロンの比較を越えて―
 この本ではあまり彰子サロンのことに関しては語られないが、「埋まっている」と評されたという。源氏物語の作者である紫式部でさえ、帝の側近にいた伊周などからは悪評を買ったというのだから、よほどサロンに差がある。一方は漢籍の知識も交えて、自分たちが仕掛けたちょっとした知的な遊戯を何倍にも面白くしてくれる。それに対してもう片方は全然奥から出てこないし、なんだかつまらない。どちらのサロンが素晴らしいと感じられるかは一目瞭然だろう。
 二章、三章では、定子サロンの逸話の数々が語られる。香炉峰の雪を代表に、様々な風雅なやりとりのエピソードが散りばめられている。それらを抽象化して説明すると「今めかしさ」になると筆者は言う。
 「これが中関白家一流の、新しさの演出方法、『今めかしさ』の秘訣であった。しかしもしもそれが、いたずらに新奇さを追求するあまりに、典礼を踏みはずすようなことであれば、それは単なる伝統の破壊に他なるまい。故実に鑑みて、礼を欠くものではなく、なおかつ人目を惹きつけるような洒落た演出をするためには、典礼に関する深い造詣と、新取の気性に富んだ果敢な行動とが必要であった。定子中宮のサロンにおいては、その点で大きく参与したのが母の貴子、すなわち高内侍であったことは、間違いない。彼女は掌侍として培った宮廷儀礼の知見を活用し、禁忌に触れない程度の斬新さで、大胆かつ知的な自己演出を、娘に示唆したのであったろう」(129-130)
近現代文学の領域では、左派的な小説、右派的な小説が在り得るのかということが一つ議論のタネになっている。ちなみに私は一応この作品は左派的な傾向である、右派的な傾向であるとまでは言えると思う。私はこの本を読んでいて、定子―彰子、清少納言―紫式部、『枕草子』―『源氏物語』、道隆―道長がそれぞれ、左派的―右派的の対比で読み解けるのではないかと感じた。もちろん、文学作品であるから一概にこんな簡単な図式に当てはめていいものではないかもしれないが、理解の仕方として多少便利なので、この構図にとりあえずあてはめて考えてみたい。
 先に引用した、本の文章からは、規律の中における逸脱の姿勢を見ることができるだろう。一応規律からあまりにも逸脱しないように自制しているものの、それまでの慣習や伝統というものにしばられ過ぎない自由な気風があったことは確かである。これは、紛れもなく道隆や貴子、元輔たちの性質が合わさった時にできたものである。その点で私は定子サロンの様子を見ている際に、彼らがそこにいるような感覚を覚えたのである。元輔や道隆の自由さへの憧れというものが、その子の代になって漸く開花したのだ。道隆一人では、とても親や弟に囲まれてできなかったこと。元輔も一家を支えなければならないという責任から一人自由に過ごすこともできなかった。それらの親の思いというものが脈々と受け継がれて、開花したのである。その点で私は定子サロンはなるべくしてなった、いわば一つの歴史の必然であると思う。たまたま定子サロンのような文化的、教養的なサロンがぽつりと現れたのではなくて、その前の代、更に前の代から、着々と準備が整えられていた。そのように感じられる。いわば、定子サロンは平安時代に咲いた文化の花(華)であろう。しかし、その花は、悲しいかな蓮のように咲いたらすぐに終わってしまう花であった。せっかく咲いた花は、咲いた時期が悪かった。ちょうど暴風雨のような権力一行がその花を無碍にも枯らしてしまったのである。
 定子サロンが今までの慣習に順応するだけではなくて、そこからの逸脱をも許すラディカルな性質を有していたのは先にも述べた。これは元輔や道隆が自分の娘には、当時男のものとされていた漢籍を学ばせたという部分に大きく象徴されているだろう。対して、彰子サロンはというと、女は奥ゆかしいのが良いという古い価値観のままであった。すなわち慣習や、体制、秩序を重んじるといった多少右派的な考えに根付いているのである。現在でこそ左派的、右派的というのはバランスを保っているかのように思われるが、しかし当時は左派的な人間は少なかったように思われる。やはりこれだけ宮廷文化の極みに達しているということは、それまでずっと培っていたものがあったからであって、その点私は単に右派的なものが悪いと評しているのではない。反対に左派的なものがいいとも悪いとも思っていない。ただ、文化的な膠着期に、定子サロンのような自由な自己表現を尊ぶサロンが現れたことに価値があったのである。
 当時の人々は、そのような時期であるからほとんどが右派的な考えだったのだろう。それは『枕草子』がどのように評価されてきたかということを見ればわかる。それ以前に、結局は定子サロンが滅ぼされてしまったということを見れば一目瞭然だろう。確かに当時、定子サロンのようなものは珍しく殿上人などに愛されはしたが、しかし道長という巨大な存在の邪魔になり、道長に恐れた殿上人たちはみんな定子サロンを捨て去ってしまったのである。これを考えれば、右派的なものの勝利という構図が出来上がって来るようにも思われる。
 第五章では、その後の『枕草子』にまつわる話が展開されている。今現在でも多少は『枕草子』のほうが『源氏物語』の陰に隠れてしまっている感じがあるかもしれない。だが、私たち若者の感覚ではライバルとして、ほぼ同じ価値のあるものだと感じていた。ところが、それ以前はどうやらそうではなかったらしい。『無名草子』や『伊勢物語』『大鏡』では、『枕草子』ととりわけその作者である清少納言は随分酷く描かれている。史実としては、清少納言は晩年を穏やかに過ごしたであろうと作者は推測しているが、しかしそれらの物語によれば、鬼のような存在として登場したり、自らの局部を抉り出して死ぬという壮絶な最期を遂げたりと、ものすごい伝説が語られている。どうしてそのように語られるかというと、説話の論理では、読者の感覚に寄り添っていればいいのだと言う。清少納言ってこんな感じの晩年を送ったろうねという読者の予想通りであれば説話として成功するわけである。すなわち説話に描かれていることは、当時の読者が想像していたことに近いということにもなろう。すると、それらの物語が指し示す通り、清少納言は相当嫌われていたようである。現在の感覚からすれば、多少出過ぎた部分が確かにあるかもしれないが、しかしその知識教養、それらを駆使して当意即妙で応えられた素晴らしさの方が目につくだろう。ところが、当時の感覚では、女がそんなに出しゃばるものではないという価値観が全体を覆っていたため、多くの人から非難を受けたらしい。
 〈『大鏡』は、中関白家の凋落の歴史をふまえつつ、「女のあまりに才かしこきは、もの悪しき」と、人の申すなるに、この内侍、後にはいといみじう堕落えられにしも、その故とこそはおぼえはべりしか〉(115)と書いてある。当時の人々の認識がどのようなものであったのかがわかる。すなわち、貴子にしろ、定子にしろ、清少納言にしろその知識、教養、才能にものを言わせて、やりたい放題やったからつけがまわったのだということなのだ。確かに、奥ゆかしさのみを守っていた彰子サロンはその後歴史に残ることになった。
 これは左派的、右派的という二項対比的に考えれば、右派的なものの勝利と捉えることができよう。このように考えると、右派的と左派的な戦いは、今から約千年も前から続いていたという壮大な政治を巡る争いの歴史と捉えることもできる。また、これはジェンダーの規範から見てもなかなか面白いだろうと思う。この当時のジェンダー観は、ジェンダーフリーと言われる今現在においてもまだ根強く残っているからである。


 ―終わりに―
 さて、私は何故『枕草子』を清少納言が書いたのかということがとても気になる。それは当然〈この政争の敗北者が、自らの存在意義を保つべく、いかに見事に自らの風雅を全うしたかという事実は、『枕草子』が書かなければ、歴史の闇に呑み込まれて人々の記憶から消えてしまったに違いない〉(258)という部分に集約されるだろう。全てが終わってしまってから、一人田舎に引き込んだ清少納言が、都での波乱の十余年の記憶を思い返して、これを書き遺さねばと思ったのは理解に苦しくない。歴史的にはすでに敗北が決定している。そのなかで最後に反抗するのではなくて、零落してすべては確かに終わってしまったけれども、こんな風雅な生き方ができた人間が他にいようか、という問いになっていると私は思う。そこには、清少納言の培ってきた、まさしくきらめきの感性が作品の根底にある。道長や彰子のことを露骨に批判するのではない。運命や宿命というものを受け入れたうえで、一種の諦念を持ちながら、それでも美しく生きることができる人間の素晴らしさを表しているのではないかと思う。
そうした意味で、『枕草子』は一見すると単なる自慢話に見えるかもしれないが、より深い人間性がその根底に流れていると感じる。

(文字数、9,907字)

参考文献
藤本宗利『感性のきらめき 清少納言』(2000、新典社)

文学散歩 お茶の水・湯島コース

参考にしたサイト
http://www.geocities.jp/mts_cafe/bunsan_yusima1.html


 御茶ノ水駅から、「山の上ホテル」へ
 明治大学という、日本でも有数の(超金持ち)大学の前を通り、とても居心地の悪いなか、山の上のホテルへと向かった。それはそれは、大変立派なキャンパスで、我が大学のあの校舎とはくらべものにならないような・・・(以下略)。明治大学のキャンパスは本当に素晴らしい。モダンでいて品のある洗練されたデザインだと思い。私もここに入りたかった。
 その明治大学を越えて、坂を上っていくと「山の上ホテル」。山の上ホテルが建設されたのは1936年。ホテルとして開業し始めたのは53年から。それ以前は日本生活協会が使用したり、戦時中は海軍徴用に使用され、戦後にはGHQの陸軍婦人部隊の宿舎として使用されたりしたそうだ。米陸軍婦人部隊の女性たちが「ヒルトップ(丘の上)」と呼んでいたため、「Hilltop Hotel」というロゴがホテルの上部に掲げられている。
 さて、このホテルが文学と関係があるのはその立地による影響が大きいようだ。出版社が密集している神田から近いということは、締切が迫った作家を閉じ込める場所にしては最適な場所、というわけで多くの文化人、作家がこのホテルで執筆をしたようだ。そのため「文人の宿」などという異名もついているようだが、大半は編集の人間に軟禁された作家が多いわけだから、「文人の牢獄」とでもしておいたらいいだろうと私は思う。
 川端康成、三島由紀夫、池波正太郎、伊集院静らがよくここに滞在して執筆活動に打ち込んだと言われている。檀一雄は舞台女優・入江杏子と愛人関係になり山の上ホテルで同棲し、その入江との生活そして破局を描いたのが代表作『火宅の人』だと言われている。

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 なんだかすみませんが、FC2の規格?で画像が上手く向きを変えられません。

ニコライ堂
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 参考サイトに従ってニコライ堂へ来たは良いものの、一体どこが文学とつながりがあるのかよくわからなかった。ただ、ニコライ堂は御茶ノ水周辺の歴史ある建築物で1962年には重要文化財に指定されていることからも、せっかく来たのだから見ておけということなのだろうと思う。
 私はミッション系の学校に通っていたので、中学時代にもこのニコライ堂に来たことがあった。その時は、課外学習だったので、集団で入った。今回再び入って、当時感じられなかった崇高な雰囲気に打ちひしがれた。当時はあんなに大勢でがやがやと入ったことが恥ずかしく感じられた。ニコライ堂の正式名称は東京復活大聖堂。日本ハリストス正教会(日本正教会)の総本山といったところ。私はてっきりニコライ堂はロシア正教なのかとばかり思っていたら、ご丁寧にその質問だけに答えた資料が配布されていた。その資料曰く、様々な正教会は家族のようなもので、ニコライ堂は正教会の教会であって、その下位概念であるロシア正教の教会ではないということである。信者ではないものにとっては、どうでもよいことなのだが、そんなことを言うと信者の方に怒られる。
 拝観料を300円も取られた。おそらくここでも日曜日は礼拝をしているのだろう。だったらただで入れてもよさそうなものである。中には、好々爺のような方が居て、来た人に説明をしてくれる。壮大なステンドグラスを指して、「この方は、聖ニコラウスと言う方で、今から1700年くらい前の人です。聞いたことありません?」と言うので、知らないと答えると、「この方は昔貧しい人々に施しをしていたのです。聖ニコラウスを早口で言うと、サンタクロース。ね、サンタクロースの最初の人です」と言う。そうだったのかと思い、驚いた。聖ニコラウスの対面に位置するステンドグラスには、別の若い男性が居る。なんと言っていたのか失念してしまったのだが、何でも異教徒の人々を救った人で、聖人に加えられているそうだ。この人物にインスピレーションを得て、芥川が異教徒の人を救いたいという気持ちを『蜘蛛の糸』で示したと、その人は言っていたが、本当だろうか。この部分は、ちと怪しいと思う。
 ニコライ堂は、非常に堅牢で、内側からみるドーム状の天井は圧巻。教科書の知識を引用すれば、ビザンティン様式の教会建築で、かの有名なお雇い外国人ジョサイヤ・コンドルの設計だったという。ただし、戦時中に一度焼けてしまって、今残っているのは戦後に建て替えられたものだという。

湯島聖堂
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 橋を渡るとすぐに湯島聖堂に着く。なんと言っても昌平坂学問所の跡だ。なぜ昌平坂と言うのかということが案内に書いてある。もともと湯島聖堂は、五代将軍徳川綱吉によって1690年に創建されたものだという。綱吉は儒教の教えに傾倒していたようだ。自らも『論語』の講釈を行うなど、思い入れようがうかがえる。そして、その孔子であるが、孔子の生まれは昌平郷という場所だったらしい。この名を取って昌平坂学問所としたのだ。日本の学校教育発祥の地であるからありがたい。
 再三の火事や、何やらでそのほとんどは再建されたものらしい。特に関東大震災ではほぼすべてが焼けつくされてしまって、当時のもののまま残っているのは「入徳門」と水屋だけだという。大変残念なことだったが、来場したのが平日だったため聖堂内には入れなかった。二年ほどまえに一度行ったことがある。その当時の記憶だと、確か百円かそこらを支払って入った。中には沢山の儒教の先人たちの石造が立ち並んでいた。他にも、儒教の教えを端的に示した、天秤につるされたような水瓶があったのを覚えている。

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せっかくなので孔子の御尊顔を拝見しておこう。なんでも世界一高い孔子像らしい。


神田明神(神田神社)
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 さらに北を目指して歩くと、神田明神に付く。普通の町中に突然石でできた鳥居が出てきたらもうすぐだ。鳥居の下からまっすぐに本殿へと突き抜けて行く道は気持ちがいい。神田明神は、天平2年(730)武蔵国柴崎村(現在の将門塚付近)に創建。国土鎮守の大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る。大己貴命とは、大国主の若い頃の名前であり、大国主を祀っていると言っても良いのだと思う。だいこく様と言った方がわかりやすいかもしれない。案内には三柱の神をまつっていると書いてある。一の宮がだいこく様で、二の宮が少彦名命(スクナヒコナノミコト、えびす様)、三ノ宮に平将門命(まさかど様)である。商売繁盛のえびす様が居るので、よく社員が大挙してやってくるという。
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 文学との関連は、何といっても野村胡堂の代表作「銭形平次捕物控」。私は読んだことがないのだが、主人公・銭形平次が神田明神下の長屋に住居を構えていたということだけは何故か知っている。勿論、小説の話であるから、架空の人物ではあるが、御大層なことに銭形平次の碑が、本殿東側にある。その横には、作者野村の旧宅にあった灯篭まで持ってきて置いている。
 また、国学発祥の地という黒い石碑がある。荷田東丸(かだ の あずままろ)という国学者が居て、この神田で国学を弟子に教えたと書いてある。他にも文学とは関係がないが、「力石」などがある。
 何故かわからないが、角田竹冷の句碑もある。正岡子規と交流のあった俳人。

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妻恋神社
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 湯島天神へ向かう途中に、右へ入る道がある。するとすぐそこに妻恋神社がある。一体この神社はどういう関係があるのかわからなかったが、参考サイトに乗っていたので、一応足を運んでみた。随分こじんまりしていて、しかも神社の前にはホテルがあったりと、大変可哀想な境遇にある神社だった。
 この神社、何を祀っているのかというと日本武尊の妃、弟橘姫命だ。古事記にある、日本武尊が三浦半島から房総半島に渡る際に、大暴風雨に逢った。その時弟橘姫命が自分の命を海に投げ出して、海の神を鎮めたというのだから、大変なお話である。命を粗末にしてはいけないけれども、自分の命を誰かのためにと投げ打つことができる精神性のようなものには驚嘆する。


湯島神社

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 さて、いよいよ今回の最大の目的地である湯島神社に到着だ。湯島天神と言えば、かの学問の神様菅原道真公が祀られていることでも有名であるし、他にも泉鏡花原作の『婦系図』で有名になった湯島の白梅がある。
 菅原道真と言えば、左遷さえた際に故郷を思って歌った「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」が有名である。道真公を祀った神社は他にもいくつかあるが、とりわけ湯島神社には梅があるぶん、強い結びつきを感じる。
 だが、中古のことや歴史のことをあまり詳しく知らない私にとっては、それよりも「湯島の白梅」の方がなじみがある。原作には登場しないのであるが、当時大ヒットした、泉鏡花の『婦系図』をもとにして行われた演劇の『婦系図』に「湯島の白梅」の場面が加えられた。この演劇も大ヒットして、いつの間にか『婦系図』と言えば「湯島の白梅」ということになってしまったらしい。

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 境内には、泉鏡花の筆塚なるものがあった。単に泉鏡花の書いた文字を石に彫ったものを置いてあるだけなのか、何か鏡花に由来するものが埋められているのかはわからない。他にも、「新派」と書かれた奇妙な石碑があった。『婦系図』の演劇を行ったのが新派劇と呼ばれる演劇一派だったことからこの石碑がある。
 合格祈願のために絵馬が溢れるようにかけられてあったのには驚いた。せっかく来たので、我が友人たちの試験合格の祈願もきちんとしてきた。


 せっかくここまで北上してきたので、最後は不忍池を通りながら上野まで。不忍池と言えば、漱石の作品ならしょっちゅう出てくる場所である。一面に蓮の葉があった。もう少し早くに来ていれば蓮が見られただろう。上野まで来て、さて帰ろうかと思ったら、金曜日だったので美術館が8時まで開いていた。ミケランジェロが来日していたのである。今年の夏は、東京にダヴィンチ、ラファエロがやってきており、三代巨匠が揃うという素晴らしい企画だった。今年は芸術の分野が熱い年だったようだ。以前から見たいと思っていたので、入った。ところが、どれもこれも、ミケランジェロ宛の手紙とか、習作とかばかりで、絵画も彫刻もなく、あまり面白い展示会ではなかった。
 今度行く際は、より作家に寄り添った散歩にしてみようと思う。



毎日書道展の感想 ―シロとクロ―

 シロとクロ

 はじめに
 私が毎日書道展へ行ったのは夏休みが始まる前、24日のことだった。私は美術部に所属しているので、よく美術館に足を運ぶ。書道展へ行くのはほぼ初めてであったが、六本木の新国立博物館へは足しげく通っている場所だった。高校生の頃から新国立美術館は私の美術の先生の絵が飾られたりしていたのでよく行っていたのだ。日本を代表する建築家、黒川紀章氏のことが思い出される。国立新美術館のあのうねるようなガラス張りの建物は彼が設計したものだ。都知事選が思い起こされる。彼は最後に何を思ったのか、都知事選に出馬したのだ。しかし、都知事選が終わるや否や、まるでそれに合わせていたかのように彼もまた没した。岡本太郎とまではいかないまでも、彼の人生も最後は華々しかったので、芸術家とはかくのごときものかと思ったものである。
 もう少し私の話をさせて頂くと、私は高校の頃から美術部に所属している。子供のころから絵を描いたり何かを創ったりするのが好きだった。それで高校からはきちんとした先生のもとで教えを受けたのである。一応新聞に名前が載るくらいの賞は得たことがある。絵画と写真においてだ。私は絵画も描けば、写真も撮るし、彫刻や立体造形も行う。それらをミックスして、表現の仕方というメディアに縛られるのが嫌なのだ。大学に入ってからは、文字にも興味を持ち始めた。特に古文書などを読んでいると、全然私は文字の読解が出来ないのであるが、単純に美しいと思った。そして大学では書道的な要素を取り入れた作品も制作している。絵画のなかに墨を入れたりしている。私はアクリル絵の具を普段使用するのだが、アクリルの黒絵具では出せない美しい黒を墨は出してくれる。
 ただ、書道という、仮にも「道」が冠する分野であるから、私のような訓練もしてこなかった人間には文字の良し悪しというものはよく判らない。ある程度他の学生たちよりかは普段からそうしたものに触れてはいるだろうが、この年齢の差であるから、五十歩百歩である。どういう文字が素晴らしいのかということは私にはちっともわからない。なので、今回は私が普段から触れている美術的な分野の視点で書道展の感想を述べようと思う。先ずは書道におけるシロとクロの表現から。

 書道の世界は面白い。私が普段から触れているのは西洋絵画の分野であるが、これも確かに面白いには面白いのだが、書道は絵画とは全く異なった面白さがある。何が面白いかというとその表現手法の狭さである。こんなことを言うと怒られるかもしれないので、言い方を変えよう。表現の仕方がシンプルである。絵画はある意味複雑で面倒な手段を踏む。キャンバスを張って、下地を塗って、時にはサンドペーパーで削ったりして、それから絵具を混ぜて、ジェッソやらメディウムやらの薬品を混ぜて書く。絵具も自分の色を出すために様々な調合を試みる。そして何層も何層も塗っていく。大体私の場合は、三層以上塗ってから形を整えていく。
 絵画の手順はかなり入りこんで居て最初はそれを覚えるので大変である。だが、それだけ手法が確立されていて、手段が決まっていると、一端覚えればある程度のものが仕上がる。少なくとも仕上がりやすい。人間様々な指示を出されれば出される程、大体のかたちにはなるものである。絵画の分野はそうした側面があるだろう。芸術の中で最もシンプルなのは写真だと私は思う。基本的にはただ撮るだけ。撮る対象を創るまではしない。そこまでする人も居るが、基本的にはシャッターを切るだけだ。だが、写真が奥深いのは、その表現手段がシンプルなために、表現できる幅が人によって大きくことなることである。つまり何も決められていないに等しいので、表現できるのびしろが広いのだ。殆ど何も決められていない状態というのは、想像力のない人間はそのままだし、想像力のある人間はいくらでも伸びることができるという側面があると思う。
 書道はまさしく写真に近いのではないかと私は感じる。表現手法としては極めてシンプルなほうであろう。墨をすったりする手順はさておき、基本的なスタイルは書くだけである。凝ればいくらでも細かい部分が出てくるだろうが、基本的には下地を塗ったり、絵具を混ぜたり、薬品を混ぜたりといった部分はない。そのかわり、一度書いたらそれで終わりという、極めて難しい表現手段である。一回きりなのだ。絵画はミスをしても何度も塗りなおすことができる。ところが書道はそれが出来ないのだ。たった一回きり。本番一本の勝負。その点で書道がスポーツになっているというのは理解できる。一回きりの勝負なのだ。おそらく自分との戦いなのだろう。数年前書道ガールズといったものが流行ったのを記憶している。様々な音楽や踊りに合わせて、一回きりのパフォーマンスをするのだ。書道は、単純。一回きりの勝負である。だからこそ、一つの作品を捏ね繰り回せる絵画とは異なった面白さがある。
 書道は絵画と異なり、色は一色だ。黒だけ。もちろん、他の色を溶いているものもある。実際に今回の書道展ではカラフルな作品が沢山あった。だが、基本は黒だけである。その黒をどのように表現するのか。たった一色であるぶん、その表現の幅が広くなる。どう表現するのかが作者に問われることになる。これは大変難しいことだ。絵画ならば、ある程度絵具を混ぜれば色ができるし、描く対象だってこれだけの色を使っていいのだから、ある意味簡単だ。風景を描こうと思ったら、目に見えた色と似た色を使用すればいいのであるから。それに対して書道はたったの一色。全てを一色で表現するというのだから大変だ。しかも、もともと書道は文字を書くところから発展している。最初から抽象的なものを扱う分野の出発であるだけ、現代書になると絵画的なものも多くみられるが、やはりそれは写実というよりは抽象的なのである。


 クロとシロだけの表現
 黒のみしか使用しないということになると、必然その裏返しの発想が生まれ、余白の白を使おうということになるだろう。それは黒をどのように使うかということと同じことだろうが。そして私はその時、黒はクロに変わると思う。単なる文字を伝達するための墨の色、黒から、余白のシロと一緒にその場を彩るクロに変化するのだ。墨の色から、色の色(表現が難しいが)のクロになるのである。

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 中尾遥香さんの作品である。非常に抽象的で、もはや何を書いたのかはわからない。おそらく何も書いていないのだろう。ただ墨の形の美しさ、余白のシロのあそび、そうした部分がこの作品には上手く表れているのではないかと思う。これ以上クロとシロは、決してどちらも多くなったり少なくなったりしてはいけない。その絶妙なバランスを捉えている。シロのために、クロが引き締まって見えるし、クロの合間にシロが顔を出していることによって、クロにも風が通っている。クロの合間のシロを塗りつぶしでもしたら、大変窮屈でつまらない作品になったことだろう。

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 クロとシロという色は、中国の陰陽のように実は相反するものとしても、同時にその二つで一つになるという考えを体現した作品がある。この二つの作品は、よくクロとシロという一種対極にあるようでありながら、同時に相互を補完し合っているのだということが現された作品だと思う。
 左の豊田法子さんの作品は、その良し悪しは別として、逆説的にクロとシロの関係を示している。我々が一般的に考えるのは、書道においてはシロの中にクロがあるという構図である。当然紙がシロなのだから、そこにクロを入れると、クロの方が割合的には少なくなると考える。その考えを揺さぶろうとして、クロでほとんどを埋めてしまい、シロをほんのわずかしか残さないという構図もまま見られた。だが、これはさらに発想を展開している。クロのなかに、シロを塗っているのだ。クロの上にシロを塗るというのは、絵画でも結構難しい問題である。どうしても下のクロが出てきてしまうからだ。ジェッソに似たようなものを使用していると思うのだが、真っ黒ななかにシロの墨が浮かび上がってきているのは、シロとクロの関係を反対から捉えたものである。ただ、発想は素晴らしいが、作品はもう少し面白味があってもよかったと思う。
 それに対して右の眞鍋智浩さんの作品は対極図のようである。この作品の面白いところは、シロのなかにクロがあるのと同様に、クロのなかにシロがあることである。このような絵をパソコンなどで作成するのは簡単なことだ。色を反転させればいいだけのことである。ところが、実際に書で行おうとなるとなかなか難しいだろう。一瞬クロとシロが反転しているのだなと通り過ぎようとしたが、その不思議さに思わず気を取られた。クロの中にあるシロは恐らくジェッソか何か、かなり厚みのある絵具である。クロがすけないところを見ると、濃厚な液体を垂らしたようだ。このシロのなかにあるクロと、クロのなかにあるシロは一見するとどこかつながりがあるように思われる。この軌道を追って行けばどこかにシロの世界とクロの世界とがつながっているかと思う。だが、実際に辿ってみると違うのだ。シロのなかのクロはそれだけで独立していて、クロのなかのシロもそれだけで独立している。シロとクロの世界の交流はないのだ。私はこの絵がたまらなく不思議でならない。構図や図柄をもう少し変えた方が良いとは思ったが、この発想の豊かさは、シロとクロの世界の関係をよく表している。

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 これまではクロとシロとまさしく白黒つけてきたわけだが、クロとシロは本当に対極する二つの異なるものなのかという謎はある。クロとシロは色においては無彩色と呼ばれるが、私は本当に色が無いのかと疑問に思う。それから、クロとシロは普段は反対の色のように思われるが、しかしそれも書の世界に浸っているとだんだんと怪しく思えてくる。というのは、シロとクロは段階によっていくらでもその表情を変えるからだ。本の少しシロが入ったクロもあれば、ほんの少しクロが入ったシロもある。人間はそれを知覚できる範囲において灰色などという名前をつけているが、そうだとすると、本当のクロや本当のシロというものは果たして存在しえるのかという疑問が浮かぶ。完全にシロが入っていないクロもなければ、完全にクロが入っていないシロもない気がするからだ。全部実は灰色なのではないかとさえ、だんだん思われてくる。そのような哲学的な難しいことはいいとして、これらの作品は、シロ、クロという二分法を乗り越えて、様々な段階の墨の美しさを見せてくれる。
 大抵の場合、書を鮮やかにしたいと思ったら色を入れればいいのである。印鑑一つにしてもその朱が入っただけで、うんと書の表情が引き締まる。特に書には、緑や青、金箔などが相性がいいようだ。だが、そのような色を入れなくとも、墨の可能性がまだまだいくらでもあることにこれらの書は気が付かせてくれる。
 左の堀井海如さんの作品は、最初海の白波のように思われた。岩肌などにぶつかって細かい泡をたてる海のように見える。本人の名前も海の如きとあるのだから、おそらく海や水に関係したものが好きなのか、それを表そうとしているのだろう。なんだか細かい葉っぱのようにも見える。海綿かなにかを使用してトントンと叩いて制作したのであろうが、この表現方法は他の作品には見られない独創的な手法であった。これも、構図や図柄がもう少し工夫されると良い作品となると思う。
 右の清水桜幻の作品も面白い。随分高くに掲げられていたものだから、じっくりとみられなかった。何を表しているのかはよくわからないが、何かうねっているウミヘビのようにも見えるし、妖怪や化け女の類にも見える。荒波や嵐を表現しているようにも思われる。この作品の素晴らしいところは、色相段階の異なった灰色を使用して、立体的な効果を得ているところである。どうしても平面的になりやすい書の作品において、この作品はとりわけ立体的に見えた。余白の使い方も素晴らしいし、とてもみずみずしい作品であると感じる。

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 榛葉壽鶴さんの作品はモダンアート的である。他にもいくつかモダンアートのような作品があったが、私はとりわけこの作品が気に入った。稲妻のように墨が外へと飛び跳ねて行っているのが面白い。なんだか近寄ったら感電しそうな作品であるが、コンクリートの打ちっぱなしの部屋などに置いたら空間が引き締まるだろう。そのような力ある作品だと私は感じた。墨の絵が水墨画を越えて世界に理解されるためには、このような分野が開拓される必要があるかもしれない。

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 この二つの作品は墨の流れというものを感じさせる。西洋絵画においては、スパッタリングと言われるが、絵具を吹き飛ばして半分自然にできた模様を作品に取り入れる手法である。左、岡本蛍光の書は、記号的で絵に近い。右でまるまっているのは、ムカデかなにかの虫のようでもあるし、左の三角の痕は鳥の足跡とも、葉っぱのあとのようにも見える。全く何を表現しようとしているのか、凡俗な私には理解できないが、中央を上から来て、ぐるりとまわって再び上へ帰っていく墨の軌道が鮮やかである。スパッタリングの技法は、水分の少ない絵具ではなかなか難しい。筆に水を多く含ませて、指ではじいて絵具を飛ばすのがこの手法のやり方であるが、それでは規模も小さいし、水増しされた絵具であるから絵のしまり具合の調節も難しい。墨の最大の利点は、水々しくてもきちんと色が出るということである。ぱたぽたと垂れたはずなのに、力を感じさせる。この墨の利点の活かし方は、西洋の絵具を使用している人間からするととても新鮮で恰好が良い。
 右の国竹雨杏さんの作品は、クロとシロと題して論じて来たこの文章で初めての色を使用した作品である。写真ではわからないが、大変鮮やかな藍色であった。だが、水分をたっぷりと含んだ文字の外側は黒の墨なのである。どうも成分の重さが異なったようだ。墨は外側まで浸透したが、藍の絵具は文字の真ん中にとどまったのである。これもまた、文字の軌跡を描いた墨の飛び方の美しさと、クロとシロの割合の美しさを感じたので取り上げた。「祭」と書いてあるようにも思われるが、ここの部分は自身がない。

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 最後は塚本真由美さんの作品。クロとシロという二項対比で論じてきたが、最後はこの素晴らしい作品で終わりにしたいと思う。この作品は上手く説明できないのだが、やはり秀作賞を取るだけのことはある、「みごと」と言わざるを得ないのだ。まるで枯山水の庭園を見ているような心地さえしてくる。非常に力強い墨だ。大地そのもののようにも感じられるし、大きな岩、あるいは山々のようにも見える。それでいて、この力強い墨は水が多かったのか、淵際になるとふっとぼけてくる。それが山にかかる霞のように思われて非常に美しいのだ。力強さと優しさが同時に並立している。枯山水くらいの大きさから、山のような大きさまで、感じ方によって変化する素晴らしい書である。






宮崎駿監督の引退について これからのアニメーション映画界の展望

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 さる9月6日に突如として引退を表明した宮崎駿監督。テレビでも連日のように宮崎監督の引退会見時の映像や、スタジオジブリが制作したアニメーションが引用され、テレビのコメンテーターたちが皆さまざまに引退を惜しんでいます。ネット上でもかなり話題になり、東京オリンピック招致のニュースで一色となった現在でも、根強く宮崎駿の存在は残っています。オリンピックの開会式には、宮崎駿監督がふさわしいのではないかといった意見まで出てきています。もし、これで宮崎監督が(まずありえないとは思いますが)本当にオリンピック開会式の演出を手掛けでもしたら、どれだけ出来レースだったのかと、いくらなんでも思わずにはいられません。

 しかし、宮崎監督の引退する発言は今に始まった話ではありません。実は、86年『ラピュタ』92年『紅の豚』 97年『もののけ姫』 04年『ハウル』でもここまではっきりと引退するとは表明しませんでしたが、引退を匂わせる「にわか引退」を連発してきたのです。ある意味それは逃げを創っていたのかもしれません。創作活動というものはいったいいつできなくなるのかわかりませんから、これだけの大きな存在となってしまったら、そのような逃げ道を作っておかなければとても人間としてやっていけません。
 日本人はとかく自分で判断することをしない人間で、他人に評価を任せるのでいけません。宮崎監督にしたって、これだけ大きな存在として祭り上げられて大変やりづらかったろうと思います。ただ、流石に今回の引退に関しては本当のことなのだろうと思います。年齢的にも限界でしょう。私は以前まで60になったら人間はもう体力的にだめになるものだとばかり勝手に思い込んでいたのですが、大学にいるようになって人間は70までは元気だと考え直しました。ですが、どんなに元気でいても流石に体力的に自信がなくなってくる。宮崎監督はちょうど引退するにふさわしい作品を創れたので、ここぞとばかりに引退を表明したのだろうと思います。

 ただ、私は宮崎監督の引退に対して左程驚きを抱きませんでした。それは、ああこれはもう引退するなということが半ば判っていたからです。私の『風立ちぬ』論でも書きましたが、今回、宮崎監督は登場人物である堀越二郎に自分を重ね合わせていました。これは私の勝手な意見ですが。(ちなみに、今回の映画の堀越二郎を勘違いして現実の堀越二郎と考えてはいけません。堀越二郎という名前にした映画がいけないのですが、これは明らかに想像上の人物として考えた方がいいでしょう。)
 中でも映画の最終場面でのあまりにも唐突で意味不明な会話は、引退を思わせるに十分なものでした。カプローニが「創造的人生は十年だ」というような意味不明な言葉を発します。映画を見た当初、え、そんなふざけたセリフを云わせてしまっていいの宮崎監督と思ったものです。ただ引退を表明した後になってこれを考えてみれば、宮崎監督は自分の創造的人生が『ナウシカ』『ラピュタ』で終わっており、堀越二郎にしゃべらせたように「最後はさんざんだった」と自分で語っているようにも意味が取れます。
 宮崎駿自身が監督をした『もののけ』『千尋』も大分怪しいものがありました。海外からは、日本独自の、日本にしか出来ないアニメーションだとしてとても高い評価を受けましたが、国内に限ってはあまりぱっとしません。実際に『もののけ姫』なんて説教臭いメッセージ性だけが露見してしまって、映画として嫌味のある、臭みのあるものに仕上がっています。『千と千尋の神隠し』は素晴らしかったと思います。
 ですが、『ハウル』『ポニョ』は映画としてかなりむちゃくちゃです。第一もうストーリーが追えない。これは今回の『風立ちぬ』にも言えますが、スタジオジブリ作品の映画は、『ナウシカ』や『ラピュタ』以降、ストーリーをまともに追うことができない物凄い不思議な展開をしている作品の連発になっています。(個人的にポニョは好きですが、しかし作品として成功しているとは言いがたいものがあります。)
 宮崎監督の創造的人生は、彼が自分でカプローニに言わせたように、やはり最初の十年くらいで終わっていたと考える方が自然だと思います。でなければ、カプローニのこのセリフを解釈できません。言わせない選択だってできたのにもかかわらず、敢えてこれを言わせたのですから、そこに注目すべきだと私は思います。

 さて、スタジオジブリは映画を毎年のように出していますし、スタジオジブリイコール宮崎駿監督のイメージがありますから、なんとなく全部宮崎監督が作ったものだろうという気になります。ですが、実は違います。意外と知られていないことですが、スタジオジブリは何人かの監督を抱えています。宮崎駿が有名すぎて他の人間が消えてしまっているのです。
 『アリエッティ』の米林宏昌、『ゲド』『コクリコ』の宮崎吾朗、『ほたる』『ぽんぽこ』『かぐや姫』の高畑勲。いずれも素晴らしいですが、しかし宮崎監督ほどのカリスマ性は持ち合わせていません。唯一宮崎監督が自身の後継者と思っていたらしい、『耳をすませば』の近藤喜文は、47歳という若さで亡くなってしまっています。近藤監督と宮崎監督は『耳をすませば』制作中に何度も激しくやり合ったとかで、映画完成後にまるですべての荷から解放されたかのように近藤監督はなくなっています。このことに関して、宮崎監督は自分が近藤を殺したも同じだと思っていると考えられています。
 このようにスタジオジブリは確かに素晴らしい監督を数人有しています。ですが、どれも大きくなりすぎた宮崎監督の後を引き継ぐには役不足。高畑監督はこの中では最も宮崎監督に近く、アニメーション映画業界においても大きい存在ですが、宮崎監督よりも年上ですから、引き継ぎというわけにはいきません。そこで、宮崎監督が誰に引き継ぎをするのかということが問題になります。私はこの映画に声優として起用した庵野監督なのではないかと考えました。庵野秀明は、『新世紀エヴァンゲリヲン』で有名な日本のアニメーション監督です。ただし、年齢的には53ですので、あまりそう長くはない。監督としても、これから『エヴァンゲリヲン』の四作目をフィナーレとして、その後果たして制作できるかどうかも謎です。私はこの点に関して、彼が次作、即ち人生すべてをかけて制作してきた『エヴァンゲリヲン』を完成させると同時に、もう監督としてはいい作品を創れなくなってしまうのではないかと考えています。
 おそらく一時的に庵野監督がアニメーション映画業界をけん引していくことになるでしょうが、彼も人間的にちょっと難しい部分がありますから、宮崎監督のように世界の顔になるわけにはいかないでしょう。
 他のアニメーション映画の監督を考えると、押井守は、もう終わった感があります。もともと最初から万人受けする作品を創ってこなかったので、どのみち難しい。細田守、新海誠も映像がとても美しいですし、素晴らしいには素晴らしいのですが、どこかまだ垢抜けない感がある。良い作品を創ってはいるし、私も好きなのですが、如何せんアニメーション映画をあまり見ない人にまで関心の及ぶスター性といったものがありません。新海誠監督は、『秒速5センチメートル』以降の作品が悉くダメで、今回の『言の葉の庭』もあまりにひどいものでした。細田守監督が実質的には今後アニメーション映画業界を引っ張っていくことになるだろうと思われます。ただ、彼の作品も少し説教くさい部分がありますから、そこを何とかできればいいのだろうと私は思います。

 アニメーションは日本の文化だ、みたいな知ったことを言う人間がテレビには沢山いますが、しかし、そういう人間に限って全然アニメーションにお金を払っていない。これから、私の専門分野である文学も、アニメーションも、それから美術の業界も、もう本当にダメになっていきます。なぜなら皆がお金を払わないからです。私の友人なんか本を買うのも高いからとか言って金を支払わない。これでは当然業界がやっていけなくなります。兎に角これから、アニメーション映画業界は、その最も大きな稼ぎ口であった宮崎監督が引退することによって大変大きな打撃を受けます。このまま放っておけば素晴らしいアニメーション映画は生まれないでしょう。それどころか、廃頽、衰退の一途をたどるだけです。次の宮崎監督に変わるアニメーション映画の監督が生まれるまでの間、何とかお金をきちんと支払って、このあまりにも弱い文化というものを守っていく必要があります。

斉藤孝「読書力」を読んで ② 感想

斉藤孝『読書力』を読んで 感想
 この本を読んだとき、書かれてあることがいちいち私がずっと考えていたことだったので、しまった先を越された!あと十年くらいしたら書いてやろうと思っていたのにととても悔しい想いをした。
 最初に斉藤先生が「本を読む読まないは自由」かという問いを発しているところに先ず感銘を受けた。斉藤先生はすぐに読まないという自由はないと断定していたので大変驚いた。私は思想上、リベラルに近いものに寄りつつあると感じている。言語論的転回後の、多様性の世界だ。リベラルの人間が陥るジレンマは、多様性が良いという前提を、一義的普遍的価値観をもった人間に強制できない点である。だから、私も多様性、多義性が重要だと思っている反面、その思想上、何かを盲目的に信じる人間に対してもそれを認めなければならないため本当は多義的なほうが、多様的な方が良いのになと指導できないのである。私のような人間にこんな偉そうに指導されてもらっては、多くの人間が困るかもしれないが、しかし実際教員になったら指導せざるを得ないのだから、身をわきまえつつ指導しなければならない。とすると、多義性多様性を重視する人間は、その多義性多様性を指導することができるのかというのが最大の謎になるわけなのだが、斉藤先生はこの部分をかなり破壊的に、「百パーセント読書をしなければ駄目だと考えている」と述べている。少し主張が強すぎる気がするが、この点に関しては全く同意だ。しかしどうしても強すぎる気がするので、私は「読書をしなくても良いが、その結果生じる損は自分で負わなければならない」くらいにしておきたい。
 私は、この本で言う「文庫百冊、新書五十冊」は当にクリアした人間である。ここらへん多少自負を有している。他人より読んでいることは私の一つの自信にもなっている。ところが、やはり、様々な大人と会話する機会があるが、読書家というものはいるもので、全然私の読書の量の比ではないことが時に察せられる。すると、このままではとてもじゃないが、駄目だ。若い人間の中でかなり読んでいると自負している私でさえもが、こんなものなのだから、とても先人たちには勝てないと思う。私は私で一人で勝手に本を読んで居ればいいのであるが、しかし、ふと周りを見渡した時に、私の友人たち、あろうことか文学を専門とする国文学の生徒たちでさえも、碌に本を読んでいない状況なのだ。斉藤先生がこの本で極めて危機感を持って、かなり激しい言葉遣いをしている理由がわかる。私はもういくら友人たちに本を読めといっても、とても聞く耳を持たないので絶望していたところであった。
私は昔から同世代の友達よりも、先生などの大人と話していることの方が楽しかったり、また多かった。そのため考え方も少しは上の世代に近いのかもしれない。この本では「恥」についての言及があった。斉藤先生に限らず、多くの大人や教授の話を聞いていると、「あれには~と書いてあったね。ところで君はあれを読んだね?」「もちろん」なんて言って、急いで帰りに買うなり借りるなりして本を読むというようなエピソードに触れることがある。確かに少し衒学的で嫌なヤツという感は否めないが、しかし全体が全体でそうやってお互いに教養を高め合っていた時代があるらしい。私は若いのでわからない。
 私も本当にそういう時代に生まれたかったと思う。高校までは本を読んでもその本を話し合う相手が居なかった。父が読書家だったので、父と少し。それから国語の先生と少し話す程度だった。他の学友が何をやっていたのかというと、ケータイにゲームにパソコンである。私はずっと話が通じないという思いを抱いてきた。それで、流石に国文学をやる学科なのだから、日本中から本読みが集まっているだろうと思って大学へ入ったものの、周りの人間が全然本を読んで居なくて失望した。理想と現実の乖離から、多少精神的に病んだ時期もあったが、今は比較的安定している。中には国文科に入ってから、自分はあまり読んでいなかったから少し頑張ってみようという友人もいて、少しは救われた気分になった。しかし、国文科の多くの人間が碌に漱石も読んでいないこの状況は、私はある意味病気だと思う。
 本当に同世代として、今の若者の精神的な価値観の状況は悲惨なものだと思う。確かにハードカバー本は高い。これは私でも高いと思う。だが、文庫本の七、八百円に金を出すのを渋っているようでは、日本も終わりだと思う。他にも私は芸術やら観劇やらが好きでよく見に行くのだが、学生がやっているために破格の値段(二千円くらい)で演奏をやるというのに、高いから行かないといったことを言う友人がいる。それでいて洋服やら、ケータイやらに月何万も支払っているのだから、何とも形容しがたい。要は、文学をやる国文科の人間でさえ、本や芸術に金を出すことを惜しむのである。本も芸術もお金を支払う価値のあるものではないと思っているのだろう。これが日本の現状である。斉藤先生は年に10冊くらいしか読まないなんて大変なことだと言っていた。私もそう思うが、斉藤先生はまだまだ認識が甘い。最近の学生は年に10冊なんて言ったら、きっと目を向いて「そんなに読めるものか」と言うだろう。現状はこのくらいシビアなものだ。少なくとも私の周りはそうだった。

 私は大体年間100冊は読む。しかし、私も偉いことを言えた立場ではない。高校生までは他の学生と同じく、年間10冊も読まなかった。ところが、高校に入ってから漱石と出会い、感激してその後ずっと読書三昧の年月がつづいている。
 今回はどのような指導方法があるかということで読んだ。読書内容のテストは非常に素晴らしいアイデアだと思ったので、教員になったら是非利用したいと思う。私の描いているビジョンは、斉藤先生の言う、読書内容テストを50。受験用の論文問題を50。更に読書感想文やエッセイ、小説なり書いたものがあれば原稿用紙の枚数と内容を加味して、平常点を最大30点くらいまではつけたいと思う。なので130点満点だ。これを100点に換算するか、あるいは試験100点にプラスして平常点を別途付加するかにしたい。
 面白かったので、他の著作も読んでみようと思いちくまプリマー新書の『読み上手 書き上手』という本を読んでみた。ここでも3色ボールペンなど、斉藤先生が考案したいくつかの指導方法が書かれている。大分同じ内容が書かれているが、この本には今回読んだ『読書力』に書かれていなかった「書く」方面についても書かれていた。
私は読むと同時に書くことが非常に重要だと思っている。私は高校で読書中毒になる前は、読書感想文は悪魔と思っていた。原稿用紙三枚書くのに1日費やしても書けなかった。そのくらい書けなかったのである。ところが、読書を沢山するようになってから、何かしら自分も書きたいと思うようになった。ところが、突然かけるわけもなく、挫折感を味わった。悔しかったので、私は大学へ入ってから時間に余裕ができたので、自分のブログを創ってみた。様々な本や、観劇に行った際の感想文を書いて、文章力を鍛えようと思ったのである。大抵のことは三日坊主だった私だが、このことに関しては何故か二年間、今まで続いている。

 二年間、ほぼ毎日といっていいくらい(記事の数を数えると三日に一つくらいになるが)書き続けた。最初は読んだ本の感想や、自分の好きな音楽の紹介くらいだったものが、次第に深い考察までできるようになってきた。最初は一時間で2000字も書ければいい方だったのが、今では一時間もあれば4000字くらいは楽に書ける。文章の修行をする前と比べると、思考も早くなってきたし、タイプの速さも早くなったし、何よりも論理力が鍛えられたと自負している。勿論、多少慌てている部分があるから、駄文が続いたり、まとまっていないという点があることは重々承知である。今のところは先ず書くということを行ってきただけなので、これからまとめたり、省略したり、簡略化したりといった削りの部分を磨いていきたい。記事の総文字数はすでに百万字を越えている。正確に測れないのだが恐らく二百万字は越えているだろう(百万字までは一生懸命数えていた)。
四千字の課題が出ると、多くの生徒は「え~」となるが、私にとっては日常茶飯事のことである。特に苦痛でもない。むしろ楽しい。私はこのように、文章嫌いの人間でもここまでは何とかなるということを身を持って知ったので、是非とも生徒に文章を読むこと、書くことの両方を行わせたいと思っている。
 とにもかくにも読ませることが先ず大切だ。全てはそこからだと思う。『読書力』か『読み上手 書き上手』だか忘れてしまったのだが、こんなことが書かれてあった。それは授業のはじめ、五分でいいので今読んでいる本の紹介を先生がすること。当然である。私は絶対にこれをしようと思っている。いくら先生が読め読めと言ったって、先生が読んでいないのではどうしようもない。内田樹の『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)の教育観からすれば、先生は生徒にはとても追いつけないと思わせるくらいの力を示しても良いものらしい。なので、どうだ、生徒諸君、君たちに僕の読書力を抜けるかなというくらいの意気込みで、今日はこれを読んだ、昨日はこれを読んだと、沢山の本を紹介するつもりである。全員を全員読書家にするのは難しいだろうが、少なくともそれで食いついてくる生徒がいることを期待したい。

斉藤孝「読書力」を読んで ① 内容のまとめ

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げ、ついに広告が出るまで放っておいてしまいました。すみません。まる一カ月更新がなかったなんてブログ始めてからなかったことです。生きてますよ。京都や神津島に行ったりして青春の日々送っております。今回は斉藤孝先生の『読書力』をすばらしいので、内容のまとめと、感想に分けて記事にします。

指導方法
 多義性が重視されるなか、果たして本を読まないという選択肢があるのだろうか、作者はそこから問いを発している。筆者はその問いに対しては否。いくら多様化が求められようと読書をしない選択肢というものはあってはならないと結論づけている。続いて著者は最低読まなければならない読書量というものを提示する。それは「文庫百冊・新書五十冊」だ。
 筆者が本編で繰り返し述べているのは、本を読む必要性とともに、本を自分の身銭を切って購入することである。良い読書は、講演会や授業よりも優ることがあり、先達のすばらしい知恵を教えていただけるのにワンコイン程度で済むのは非常にパフォーマンスコストが良いと述べている。
 さて、では本をどのように読んだら良いのか。読んだあとに読書を指導する人間は、要約力を鍛えるようにするべきだと氏は述べている。重要な部分に線を引かせたり、要約を喋らせてみたりする読書力検定といったものを導入してはどうかと提案している。昨今は朝読書などが大分浸透してきた。このため何とか若者の活字離れは多少は回復したものの、いまだ深刻な状態に変わりはない。そこで、筆者は定期試験に読書問題を組み込むことを提案している。
 さて、「なぜ本を読まなければならないのか」と質問してくるものが居た場合どう答えたらよいだろうか。それは、「自分をつくる最良の方法だからだ」と筆者は言う。日本には、聖書のようなthe Book が存在しなかった。そのため、これだけを読んでおけば良いというものがなかったのである。そのため、多くの幅広い読書が必要になり、そのなかには互いに相反する内容の価値観と出会う事になる。そのなかで、各人が自分の価値観を見出していく、そのプロセスが必要なのである。ところが、the Bookを持たない日本人が、そのような常に幅広い分野の本を広く深く読むことを辞めるとどうなるか。その結果が現在の自己形成の問題に如実に表れているという。筆者がまだ子供時代のころには、基本的な本を読んでいないことは恥ずかしいという意識が学生同士の間にあった。家には百科事典のセットがあり、幅広い知識教養を身に付けていることがステータスとなっていたのだ。ところが、現在の若者の間では、特に何かを知らないという事に恥をもつことはない。欧米の大学生と比べてもはるかに読書水準が下がってしまい、このままでは日本人の読書によって鍛えられてきた様々な能力が衰えていくばかりである。
 筆者はこのインターネット隆盛の時代に、「一人になる」時間の楽しさを知るべきだと述べる。もちろん音楽や美術でもいいのだが、とりわけ読書は自分自身と向き合うことになる。自分と向き合うのは非常に辛いことである。一つには技術的に、自分で自分を見つめるということが難しいことだという点もあるし、また精神的にこのままの自分で良いのかと自問することは過去の自分を否定することにつながるので、辛いということもある。そこで読書は、他者との対話を通じて自己の内面を見ることができる良い機会となる。
 筆者は本を購入しろと強く主張するが、それと同時に本を自分のものにしていくこと、それから自分の本棚を持つべきだと述べている。「本棚と見ればその人がわかる」とここには書かれている。その人間がどのような分野の本を読んできたかを見れば、本人に聞くよりも深く知ることができる部分があるのだ。本棚を自分で購入した本で満たすことは、自信にもつながるし、その行為そのものが自分をつくることを具現化したことである。ここで、一つ自分のマップを作るのと並行して、大きなマップに眼を通すことも重要である。それは、すなわち図書館を活用することだ。できるだけ本は自分で購入した方が良い。だが、図書館では、あるジャンル、ある分野の本がよく整理されて並べられているから、そこにある本を見て、把握することが大きな読書のマップになる。大きなマップを自分のなかに取り言えることによって、数多くある本のなかで自分がどこにいるのか、何を読みたいのか迷わないようにしたい。
 読書と経験という最も対比させやすい二項対立について筆者は、この二つは両極に存在する価値ではなくて並立するものだという意見を述べている。本を読むことは一つの自己肯定につながる。そこでは、自分がなんとなく思っていたことをきちんと理論整然と書いてくれた先人と出会うかもしれないし、自分と同じ考えを先人が書いてくれることによって自分が間違っていなかったのだという肯定も生まれる。あるいは、自分が経験したことが、本のなかでも書かれていて、あの経験はこういう意味があったのかと納得することもできる。または本で読んだことが先で、後になって本に書かれていたことを体験し、これがあのことだったのかと認識することもある。であるから、経験が大事だと主張することは、読書を否定するのではなくて、むしろ読書も勧めることになる。読書嫌いの人間は、自分の体験や経験を絶対の根拠としたがる傾向があるので、そうした狭い了見に陥らないようにできるだけ幅広く読書をするべきである。その際、わからなくてもなんとか耐えるということが必要である。むしろ自分がわかる簡単なものばかり読んでいてもそこには成長はあまり見られないだろう。わからない、難しい内容の本をじっくりと耐えて読む。このことによって、忍耐力も鍛えられれば、思考においての溜めができる。「やさしく書けないのは、筆者が本当はわかっていないからだ」といった聞いたような論を悪用してはならない。多くの人間はそれを悪用して自分の読解力や知識のレベルを上げる努力を怠るからだ。この「溜め」がばねになり、その後の思考の跳躍への力となるのである。

 筆者は読書はスポーツであるとし、読書部というようなものも作ってみてはいいのではないかと冗談まじりに主張している。読書も通常のスポーツ同様、基礎トレーニングが必要であるから、日々読書をしなければならない。
幼い子供には特に、読み聞かせをするべきである。本著ではクシュラという障害を負った子供の体験をもとにして、読み聞かせがいかに人間の精神を豊かにするのかということが語られている。日本では宮沢賢治が素晴らしい作品として読み聞かせに向いている。また、何も子供に読むだけではない。自分で声に出して読むことも重要なのだ。声に出して読めば、読めない漢字は必然的に辞書を引いて覚えるようになるし、また声に出して読むと脳が活性化しやすいこともわかっている。内容もより深まって理解することができるようになるのだ。また、音読は読書力の判定にもつながる。筆者は大学生に日本語を朗読させたことがあるそうだが、ずいぶん突っかかったり読み間違えたりしたという。これはつまり読書力がなく、本をあまり読めていないということだ。速読と音読を繰り返すことによって、すらすらと読めるようになる。なぜなら文章がすっと頭の中に入ってきて、どこで区切れるのかといった内容を掴むことができるからだ。
 次に線を引きながら読むことを筆者は提案する。有名な三色ボールペンだ。音読も重要であるが、いちいち音読していてはドストエフスキーのような本は流石に読めない。だけれども、ただ目で追っていると、内容が頭に入ってこなかったり、読みの集中力が途切れたりする。そこで、線を引きながら読むといい。線を引くのには勇気がいる。自分自身の価値観や判断がそこに現れしるしとして残ってしまうからだ。的外れな部分を引いてしまったら恥ずかしい。だが、線を引かない本というのは、何の記号もない地図と同じなのだ。どこが重要なのかもわからない。旅行に地図を持って行けば、帰ってきたときにはその地図は掛け替えのない思い出となるだろう。そこには、自分が宿泊した場所や、行った場所に印が付いているからである。読書も同じだ。本のなかに自分の地図をつくる。そのことが結局、本の理解にもつながるのである。見返す際にも重要な部分をさっと拾うことができる。
三色ボールペンが有効であると筆者は述べる。赤が重要な部分。青が大事な部分。緑は自分が面白いと思った部分、気づきの部分というわけだ。もし、いきなり三色にわけるのが怖かったり、難しかったりすれば一色でもいいと筆者は述べている。この三色を使い分けていくことに慣れると、次第に要約力も身につき、どこが重要なのかという部分もわかってくる。

 読書力で始まった本著であるが、読書は普段の会話にも影響する。本を読んでいる人間とそうでない人間とでは歴然と話すことの内容、話し方に差がつくという。何の脈絡がなく、話題があっちへいったりこっちへいったりする話というのも、仲間内では愉しいことに変わりはないが、終始そのままでいるわけにはいかない。脈絡を捉えて、論理的に展開する。そうした対話力が必要になる。筆者は会話の際には簡易メモを取れと述べている。メモを取っておけば話の脈絡が見えてくるし、相手の思考と自分の思考とをぶつける部分が見えてくる。メモを取る力もまた、普段の読書力からも鍛えられるし、またメモを取り続けることによって当然メモ力自体も上がり、会話がダイナミックになる。
 最近はよく「話すように書け」という論が見られるが、筆者は反対に「書くように話せ」と主張している。また漢語表現も身に付けておくべきだと言う。始終大和言葉で、単語をぽつぽつと交わすような、友人同士の会話がピンポンだとしよう。これはこれで楽しいのでいい。だが、時にはゆるやかなピンポンだけでなく、きちんとした卓球もしなければならない。その時には、漢語表現や文語表現を使用する必要があり、それを普段から鍛えているかどうかが問われることとなる。これからの時代はプレゼンテーションが求められる時代となる。短い時間に濃い内容の話をするためには、どうしても漢語表現や文語表現を使用しなければならなくなる。また短い間にキレのよい論理的な話が求められる。それも読書力を鍛えれば身に付くのである。
 筆者は読書をするうえで、友達同士でもいいので読書会を開くべきだと提案している。かつては読書会などという名前がつかなくても、自然と行われていたことだったのだが、現在ではそうではなくなってしまった。ここではそれぞれが持ち寄った本について話すというタイプのものも考えられる。自分の知らない分野をしるきっかけになるからだ。他にも、本を定めておいてそれについてどう思ったのかを話し合うというタイプもある。この時には、全員が最後まで読んできているということを前提にしないほうがいいと筆者は述べる。本を読み通すのは意外と体力がいるものだ。読書会が閉鎖する原因の多くは、全部読んでいないことによって次第に足が遠のいて、参加人数が減って行ってしまうことである。全部を読んで居なくても、読んだ部分までで自由に話せるタイプの読書会のするほうが良い。
 また二三人の友人との間であれば、マッピング・コミュニケーションをやるのも良い。これは、二人の間にB4ほどの白紙を置き、そこにキーワードを書き込みながら対話するというやりかたである。これを応用すれば、例えばホワイトボードで、小説に登場する人物の関係図を書いたりして認識の共通を図るなどにも利用できる。そして、このマッピングも、できれば三色ボールペンで行った方がメリハリがついてより引き締まった対話になる。話すのが得意な人が沢山話してしまうような読書会では、あまり話すのが得意な人にとってはためにならない。そのような場合は読書会にこのマッピングを組み込んで、数人の人がほぼ同じくらいの話ができるようにするのも効果的である。さらに、読書会で有効なのは、簡単すぎず、難しすぎない読書クイズをつくることだ。これを読書会中にみんなで協力して解くのも良いし、自分で解いてきても良い。このクイズを創る作業もまた楽しみの一つになる。
最後に自分でできる読書トレーニングを紹介する。先ずは本を読んだらとにかく人に話すことだ。本を読んでもその内容をすぐに忘れてしまうということがよくある。だけれども、その本の重要な部分まで忘れてしまうのはせっかくの読書が無駄になってしまう。そのようなことにならないために、読んだ本の内容をできるだけ人に話すと良い。そうすると記憶も定着しやすくなる。他にも、この一文はというものをメモしておくことも有効だ。
 近くに話す友達がいない場合は、気に入った文章をノートに書き写すことが挙げられる。実はこれは読書感想文に非常に役立つものだ。書き写しの時、三色で行うとなお良い。そうして、どうして自分はこの文章を重要だと思ったのか、面白いと思ったのかと、メモをしておければそれだけで立派な文章が出来上がる。それに少し脈絡を付ければ読書感想文に早変わりするわけである。
 氏は本書の最後に「読書トレーナー」という存在が居てもいいという。スポーツにおけるコーチと同様に、読書においても今どのような本を読んだら良いのか、次はどのような本にすべきかということをサポートしてくれる存在だ。読書トレーナーは、ある人物の読書歴を見ただけで、次にどのような本を読むべきかアドバイスできるくらいの読書量は必要になる。全国には読書家の方が沢山いる。幅広い読書をしてきた人なら、この読書トレーナーが務まるであろう。ともかく本を読むきっかけを増やし、読書力を上げらなければならない。また、読書トレーナーとまでいかなくとも、本のプレゼントというものもある。これはプレゼントする側のセンスも求められるし、お互いにいい刺激になる。もちろん友達同士で行っても良いし、恋人同士でもよい。筆者の場合は恩師が、卒業間際に何十冊か教室に持ってきてそのなかから好きに選べと言われた記憶が鮮明に残っているという。ただ、本一冊を読んでもらうのは過剰な願いであるから、例えば一行にだけ付箋を貼っておいてプレゼントするといった手法もある。自分が大切だと思う一行に線を引いてプレゼントする。このようなかなり高度な精神レベルの交流ができるようになれば、読書力が大分身についてきたということができよう。
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